• 【リーディングノート】脚本/演出:AIR『牧場世代Ⅰ 草原の牛たちは家畜であることを知らない』オリジナルシナリオ全文・歌詞完全掲載/あとがき

    2017-10-27 20:30
    AIR です。

    『牧場世代Ⅰ 草原の牛たちは家畜であることを知らない』は、ノートに記した創作ポエムと音楽を一つに融合した朗読劇「リーディングノート」形式の最新作となるオリジナル文芸作品です。
     チャプター1.牧場世代Ⅰ 草原の牛たちは家畜であることを知らない
     チャプター2.この声が届くのなら
    かわいらしくも儚い発声でお話を読み上げてくれたのは「VOICEROID」と同じ「AITalk」の音声合成技術で作られた「音街ウナTalk Ex(声優:田中あいみ)」さんです。主題歌を歌ってくれたのは「VOCALOID4 初音ミク V4X」さんです。本作は電子の人工声帯を使うことで、企画から制作までを個人で担えてしまえる時代ならではのコンテンツです。

     オリジナルの音源⇒ http://www.nicovideo.jp/watch/sm32160317
     シングルカット版⇒ http://www.nicovideo.jp/watch/sm32160359

    「創作とは何か?」という作家の命題に真摯に向き合えば自分がやりたい表現と技術の折り合える地点が見えてきます。お話を作った経験がある人なら「読んで聞かせる」が「正しい発表の仕方」であることに考えが至ります。それは小説の起源が文字に依らず、口頭でお話を語り継いでいく口承文学にあるからです。文芸作品の流通方法は紙という媒体に印刷して出版するかデータのままの電子書籍の二つに大別できますが、インターネットとその利用可能デバイスの普及によって第三の方法である「聴く小説」すなわち動画再生による「お話の読み聞かせ」も身近になりました。「reading Note(ノートを読む)」は私の造語でありますが、お話と音を軸にアーキテクチャを組み立てました。眠り付く前の暗く静かな部屋でお楽しみいただけましたら幸いです。少しのお時間をいただきありがとうございます。またお会いできますよう、がんばります。では。


    【 あとがき 】
    高校在学中の女子が十六歳で嫁入りできた設定はかつての日本女性が早熟だったことを国家が認めていた時代の証左です。昭和生まれの三十代の私の感覚からは割とある話として違和を感じませんが、法改正が行われて常識の基準が変われば「未亡人の女子高生」はファンタジーの存在になりますから、本作はディストピアの物語と読めます。国家間の三角関係のお話と個人間の三角関係のお話が同時進行する本作の構造は、創作物も私達の暮らしている世界と地続きにあるという認識に基づき採ったものです。二〇一八年の四月から七月までという直近の近未来を舞台に設定したのも同様の理由からです。クラスメイトの女子が義理の母親であるとも知らず関係を持ってしまいますが、主人公は亡き夫の代用品だからこそ尽くしてもらえていた真相に気付くまでには時間がかかり過ぎました。彼女の一番目になろうとしても、ヒロインの心は死者に取り込まれています。つまり恋の行方はバッドエンドです。しかしながら苦い体験と複雑な環境を経験した二人なら、理不尽に満ちた社会でも生き延びることができます。それは「青春ラブストーリー」の主役を務めた「僕」と「雫」が「若者」だからですが、当事者には言うまでもないことです。



    【 リーディング用脚本全文/歌詞完全掲載 】

    チャプター1.牧場世代Ⅰ 草原の牛たちは家畜であることを知らない

     クラスメイトたちは雫に同情的だ。天野雫が同姓のせいで、僕は「男子の方」という呼ばれ方をするようになった。雫は両親が原発の技術者だったせいで父と母と二つ下の妹を事故で失った。中学生のころは親戚中をたらい回しにされていたらしい。それなのに成績も落とさずにがんばっているから健気な良い子という見られ方をしている。失われた二〇年と言われても不況しか知らない世代では実感を持てないが、急な事情で転がり込んできたとはいえ、子供一人の扶養もできないくらいに生活の余裕がないのはどこの家庭でも同じことだ。北朝鮮が核兵器の六度目の実験と完全なる実用化の成功を収めたとするニュース以降の世界では家族をテロで失う事故も珍しくなくなった。孤児を押し付けられた親戚の生活苦は新聞の社説欄で問われる程度には社会問題になっている。自身がアルバイトを掛け持ちして生活に窮した独身者に甥や姪を養える余裕はないから、生活費の他に学費も必要な子供の受け入れを断る親戚筋を責めるのは酷な話という論説だ。しかし僕が雫を気に入らないのは一人称が「ボク」である以外にも、教員も含めて男が冷静に異性を査定できない性質にある。仕事の都合で父親が家を空けっぱなしの離婚家庭と見れば事実上の両親不在は僕も同じだ。しかし女の子なら「かわいそう」、男子なら「早く自立しなさい」と言われる。要は「かわいい子は得をする」社会の風潮が学校の教室にも蔓延している。だから僕は街で珍しく泣いて立っていた女子が雫だと気づいて声をかけた。隙あらばひどい目に遭わせて懲らしめてやろうという気持ちがあったから、大人しく家にまで着いてきた雫と一度限りの男女になる。
     核の脅威に対する政策が見守られる中でアメリカ政府は先代の大統領が民意を汲んで進めていた軍縮の一環として核の放棄を行った。国際世論には反対意見が多数あったが、国家にも軍隊にも帰属しない民間企業の一つに核兵器を渡して「核保有PMC」を作り上げることで新しい抑止力を形成する。アメリカ合衆国憲法には政府に対抗する暴力装置の保有が国民の権利であることが武器保有権として記されている。民間軍事企業と訳されるプライベートミリタリーカンパニーを「核持ち」にしてしまう発想は実業家出身の大統領ならではの奇策だった。「それは核の持ち替えにすぎない」との指摘もあり「茶番劇」という過激な見出しの記事が週刊誌の表紙を飾るが、現実主義者との見方もあった。しかし日本の与党代表が賛同を示して契約を結んでからは「日米安保条約を人質にした強攻策」との批判が出ても「核の共有化は、最終的に世界に一つだけの核に集約される」は鶴の一言と評される。要は「世界で唯一の被爆国だから、米国の核の傘から抜けて、核廃絶プロセスの参加国の一番目になりたかった」と理解できる。それを良しとしない北朝鮮は日本の政治スタンスに反発して「通商破壊運動」と呼ぶテロ行為を加速させた。水面下の工作活動からステージが上がったことで太平洋戦争以来の国家危機に日本は直面するが、学生は学生らしく高校生活を続けるだけである。
     そのような中で父の死が知らされた。戦死だった。僕が小学校を卒業するころ自衛隊を辞めて渡米した父は、後に核持ちになる「エターナルセキュリティ」の契約社員をしていた。傭兵にならなかったのは人殺しをするためでなく、自衛隊の枠を超えて自警活動を行うためであり、勤務地を日本国内から選択できる内容の求人をもらったからだ。日本政府が米国のPMCと契約する裏には「戦死者」としてカウントしなくて済むという好都合な事情があったためだ。自衛隊員が国防のために殉職すれば社会を動揺させて世論が反戦に傾くリスクを負うが、体の良いレンタル方式の軍人であれば使い捨ての便利な駒になる。自警団を設立する場合は国会で野党ともめなければならないが、現職の隊員にPMCを斡旋して帰国させる方式の国防に法改正の手続きはいらない。軍事費の節約という意味もあったのだろう。PMC社員であれば業務上の事故死扱いになるため、本社から肉親の僕宛てに届いた文書に国から遺族補償が行われないことが記されている。報告書によると民間人を装った少年兵の発砲がフェイントで同じく民間人を装ったテロリストの男女二人組による暴動を鎮圧する際に下校中の小学生をかばって背後から頭を撃たれたのが死因になる。軍人の肩書きがあっても国内では殺傷の類いの武器の携行は認められていない。父は専門的な訓練を受けた警備員として犬死にをしたが、新聞にはテロ被害の部分しか載らなかった。ノーカウントは暗黙の了解に従った報道姿勢である。しかし問題は相続にあった。同じ内容の報告書を天野雫も受け取っていたからだ。

     都心ではないが都会化を進めて学園都市として発展を続けた街のため、カルチャー教室だけでなく商業施設も集まっていて不便さを感じない。卒業後の進路もバスで通える範囲内から選ぶのが一般的だ。駅前の看板が紹介している名前を数えるだけでも大学が二つに情報系と介護と医療関係の大きな専門学校が八つある。父が渡米する際に親代わりとして同居するようになった叔父さんは、大学卒業年がいざなみ景気に当たった幸運で名が知られる会社から望まれて正社員として採用された。僕が父と会話を交わした思い出を持たないのは職業上の転勤の多さもあったが、PMCに入り帰国してからも家に寄らず彼女の元で暮らしていたからだ。叔父さんは僕の母から「彼氏の間は良い人、結婚したら赤の他人」と離婚の原因になる愚痴を聞いていた。父はヒーローである自分とその自分を必要とする彼女との共依存の関係性に拘泥するため、嫁に昇格させると興味を失って別の依存先を探し始めた。そういえば幼い日の記憶に「新人発掘の旅に出る」と出かけて母が泣いている場面がある。親の同世代の落伍者たちはオレオレ詐欺で知られる特殊詐欺の手口を開発して生き延びたが、学位を取った若者に定職を与えず世に野放しにしていれば巧みに駅員や警察官を演じ分けて高齢者を狙った詐欺を働いてみせもする。叔父さんは今でも一〇〇社以上からお祈りされた父の就職活動を度々バカにするが、超就職氷河期世代でありながら父は正義感が強くて体格が良かったから国防装置として勤める道が開かれた。他方でその職業がヒーローの性質を与え育ててしまったのも事実で、声をかけた就職難民の女の子が自立して暮らせるまで同居して支える生活を始めてしまう。その割を食うのはいつだって家族だった。叔父さんが名前を挙げられるだけでも一〇人以上の彼女がいて、人数と同じ回数の結婚を経験している。天野雫の親戚筋が父に届け出を急がせたのは邪魔者の孤児を処分する目的もあったが、テロ被害者に対する行政のケアが不十分であることに恨みに近い不満を抱いていたからだ。それは虐待の痕に見られた。
     楽に片付く相続であれば叔父さんも雫を家に住まわせたりしない。兄弟の共同名義で購入した家の所有権の半分が父にあるため、配偶者の雫に半分と実子である僕に半分の取り分で分割された。雫は十六歳で結婚してからマンション暮らしだったらしい。雫は家事を覚えて少しでも恩返しできるように努めていたが、父の興味は外の彼女にあった。結婚したら赤の他人という母の言葉に偽りはない。ゴールデンウィーク中に引越を済ませた未亡人のクラスメイトとの同居は気まずさを伴うと思われたが取り越し苦労だった。二人暮らしのころは押し付け合いだった掃除と洗濯は自動的に済まされているし、当番制の食事の支度も自動的にできている。しかし家事が自動的に終わるはずはなく、割を食っているのは雫なのに愚痴の一つも言わないから僕も叔父さんも好意に甘えて便利に使っていた。しかし快適な生活も長くは続かなかった。今日日は彼女を探すのにもインターネットのレビューや口コミのチェックが欠かせないらしい。叔父さんは出会い系サイトと見合い系サイトの返信に忙しく、小説や映画を選ぶ感覚で人間を見ているから目の前の家族の異変に気が付かない。そしてそれは僕も同じだった。同じ学校の同じ教室で同じように授業やテストを受けていれば同じ程度に疲労して下校する。雫は学校帰りに買い物を済ませて帰宅後は家事に取り掛かり決まった時間に三人が食卓に着けるようにしてくれる。僕と叔父さんがテレビを見ている間に後片付けを行って翌日の朝食の仕込みを始めた。父が彼女を見つけるのが上手だったのもあるが、高校二年生の女子が学生と主婦を兼業するのは負担が大きかった。雫は過労で学校を休みがちになってきて叔父さんはそれを僕に隠していたが「高い年会費の甲斐があった」と公開状態になった女性の写真を僕に自慢すると「俺はハイツでの同棲を決めた。所有権は三人にあるから、ここは売却して、三等分して、二人は寮に入ればいい。担任教師とは話をつけたしな」と会社の名前で勝ち得た婚活の戦績に舞い上がる。それは曲がりなりにも二人の高校生の保護者を買って出た者とは思えない台詞だった。しかし夏休みには雫とお別れをしなければならない。
     学期末テストを休んでいたことが気になっていた。昨晩の夕食が以前のように総菜屋さんのお弁当の買い置きに戻っていたからだ。雫が緊急入院したことをホームルームで知るが、叔父さんに話しかけても初めてできた恋人に浮かれて向き合ってくれない。退院に必要な手続きや支払いを済ませたのは確かに叔父さんだし、生活コストを負担しているのも叔父さんだから、言い分が身勝手だろうと子供は大人に従わなければならないのか。病み上がりでなくても雫は言い返すタイプではない。「これまで通りの生活ってどういうもの?」と言われれば、全面的に雫に負担を強いた日々を反省するしかなかった。だいたい僕は雫のメールアドレスすら知らず、この三ヶ月間を振り返っても無関心に基づく痛みしか出てこない。「俺はまだいい、金を出した。二人して肩身が狭い子に家事を押し付けて、胸を張って家族です、と言えるか?」と責められれば雫の慎ましさが際立つばかりだ。見方によれば叔父さんは現実主義者だ。クラス替えで同じ班になり雫の存在が気に障ったのは、気になってしょうがないという感情を僕が正直に受け止められなかったからだ。男子の方の天野と呼ばれて気が悪かったのは人気者への嫉妬だ。クラスメイトが境遇に同情して、健気でかわいらしい子と評判を流しているなら、付き合えるように思案を巡らせて告白する勇気を出せば良かった。都合良く同居できるようになってからも素直にお母さんと呼べなかった愚か者だ。終業式を終えて引越業者のトラックを見送り、叔父さんの銀色のセダンの後部座席に収まった僕は雫が何かをつぶやいたのを見落とせない。彼女が僕を通して亡き父の面影を見ていたのに気づいてしまったからだ。
    「覚えてる? 初めて話した春の陽が射す街のことを」
    運転には性格が表れるというが、叔父さんの意地悪で乱暴な運転に悪態を付くより先に、彼女の性の捌け口にすらなれなかった僕はあの経験の表情を思い出すことさえできない。赤信号の停車で訪れた沈黙は永遠に変わらないものに思えて車内を息苦しく感じさせる。街で泣いていたあの日と同じ表情の彼女と指を絡め合って、親子として暮らした日々を懐かしく思う。これは奢りだ。
    「僕なら、居場所になれるよ」
    「暑いな」と窓を開けながらバックミラー越しに軽蔑の視線をよこして叔父さんは嗤う。
    「その父親譲りの幼稚なヒーロー願望、血は争えないか」
    僕は彼女に出逢えない――。
    「行こう」
    カーラジオが速報を捉えた。北朝鮮が『勝利の大運動会』の宣戦布告を行った、核ミサイルを多方面に向けて同時発射した、アナウンサーの発表を受けて信号待ちをする人々の携帯電話が続けざまにJアラートを受信する。時間差を付けて鳴り止む気配を見せない不穏なサイレン音は僕たちの戦争を告げる合図だった。



    チャプター2.この声が届くのなら

    今 離れて 気づいたこと それは好きだって気持ち
    新しい彼女との暮らし 幸せだって

    別の時間 過ごしてても いつまでも切なくて
    孤独のなか感じる気持ち 埋められなくて

    街に出かけよう 晴れた日射しの
    あの日の優しさは もう戻らない

    立ち止まる勇気を 今 ボクにください、ねえ
    あなたの腕の中で 朝まで眠りたいの
    それでも 本当の 気持ちを 言えなくて
    この声が届くのなら 力強く抱きしめて



    【 特典:メイキング・制作資料 】
    制作開始前にノートに記していた覚書を寄せ集めた資料です。最終形を「小説/脚本」にしたことで本編はかえって難解になり、わかりづらくなったかも知れません。予めプロットであらすじを把握した後に本編を聴くことで、理解が容易になるかと存じます。これは作者である私自身の筆力の至らなさに全責任がある部分ですから反省しかありません。
    本来は「秘文書」カテゴリーの制作資料を公開しています。内容には不適切と思われる表現も含まれていますが、資料的価値を鑑みて「原文ママ」収録ですのでご了承ください。「創作の裏側」に興味がある方や、これから創作を始めたい方には、完成に至るまでの制作プロセスをお楽しみいただけましたら幸いです。


    < 企画・テーマ >
    ・青春ラブストーリー
    ・主役は公立に通う高校生の男子と女子
    ・直近の近未来を舞台にしたディストピア小説
    ・タイトル候補「開戦前夜(仮)」「僕たちは結婚できない Vol.1(仮)」
    ・現実と地続きの社会のなかで発生する恋愛と身近なテロ被害
    ・制作上の課題:バッドエンドの物語を描き切ること!!

    < プロット >
    ・僕、高校二年の男子。クラスメイトに気になる女子がいる
    ・噂話だと北朝鮮のテロで親兄弟を失って親戚に引き取られてる
    ・街であの女子ナンパしたらついてきた→部屋でHしちゃった
    ・オヤジが死んだ(戦死)
    ・なんで相続で、あの女子が参加してるんですか叔父さん!
    ・あの女子オヤジの嫁って=義理のお母さんってマジすか…
    ・ヒロインが同姓なのは父親の再婚相手=苗字が変わったからって納得
    ・「好き」と言えない根性無しの主人公が叔父さんと三人暮らし開始
    ・さすが女子マジ便利な家政婦だわぁ~。だが過労で学校を休みがち
    ・出会い系サイト使って婚活中の叔父さんが彼女見つける
    ・叔父さんから重大発表「家を売って、みんな別々に暮らそう!解散!」
    ・主人公とヒロインと叔父さんの三人暮らし終了。引越終了
    ・叔父さんの車で、男子寮と女子寮に向かう
    ・主人公は最後まで告白できない。しても「親子」だからバッドエンド!
    ・北朝鮮が核ミサイルを連続発射→Jアラートが鳴り止まない

    < 全体の流れ >
    ・同棲開始の理由(序)
    ・同棲終了の原因(破)
    ・同棲終了後の話(急)

    < おもしろいポイント >
    ・かわいいクラスの女子とHした。イャッッホォォォオオォオウ!
     ⇒裸にしたら、体に虐待の痕ありますやん。ドン引きだわー。
    ・相続にて。「クラスメイト=父の嫁=お母さん」だった!
     ⇒告白して彼女にしたい子なのに「親子の関係」だった。ナンテコッター。
    ・ラノベ風タイトルにすると、
     ⇒『僕が同棲したクラスメイトの女子がお母さんだった件』
    (例:僕のクラスメイトはお母さんでした。言っている意味が自分でもわから…)

    < 物語の構造 >
    国家間の三角関係と個人間の三角関係が密接に交錯して物語が進行する。
     三角関係A:日本・アメリカ・北朝鮮
     三角関係B:主人公・ヒロイン・父親
    ヒロインの体にある虐待の痕は、第二次世界大戦で被爆した日本の傷痕を象徴する。だから「日本はアメリカの核兵器を契約の形で保有するというイニシエーション」が必要になる。

    < プロットの補足 >
    今どき16歳で嫁に出されることが既におかしい話。生活環境に問題を抱えている子と感じさせる伏線。そしてヒロインの両親は原発のエンジニア。だから貯金がないはずがない。本来はテロで親兄弟を失っても路頭に迷うことはないのに、親戚をたらい回しにされるのはヒロインが保護者を必要とする「子供」だからだ。
    ヒロインをたらい回しにしていた親戚ってのが「家も資産も奪い取って虐待していた連中」。もともと夫婦で公共事業に従事していて子供が二人いるヒロイン家庭に嫉妬していた。だから家族を失ったヒロインに暴力をふるう。孤児を引き取っているのに、行政から金銭面のケアがないことへの不満も重なった。だから事件に関わった元自衛隊員で軍人のような人(主人公の父親)に邪魔な厄介者を押し付けるため16歳で結婚させた。
    しかしヒロインの夫(主人公の父親)は浮気性で、家に帰ってこない。ヒロインは自分を救ってくれた人に恩返ししたくて家事を覚えて支度して待つが、いつも食事は一人きり。賃貸マンションは夫が戦死したから解約になり、再び行く場所がなくなる。しかし相続の場で、主人公の叔父さんに三人で同居しようと提案してもらう。さらに保護者にまでなってもらう。だから主人公の叔父さんに恩返しをしようと家事をがんばるが、学生と主婦の兼業は体力的に無理があり学校を休みがちになる。
    そのような生活も婚活中だった主人公の叔父さんが彼女を見つけたことで終わりを迎える。だが今度は行く場所を失いはしなかった。主人公の叔父さんの計らいから女子寮に入れることになって、ヒロインはようやく普通の高校生らしい高校生活をスタートできる。他方で主人公は最後までヒロインに「好きだ」と告白できず、できたところで「親子」だから結婚できないという絶望の心中で空襲警報として作動したジェイアラート(全国瞬時警報システム)のサイレン音を立て続けに聞くなかで「喪失の痛み」を感じ取る。



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  • 【円盤発売記念】映画『この世界の片隅に』(2016年)  戦争を遺棄した国で、私が私になるための喪失の物語

    2017-10-02 20:00
    AIR です。

    今回のお題は『この世界の片隅に』です。アニメ映画の当たり年二〇一六年から
    片渕須直さんの作品です。この映画は何を描こうとして、何を描いた作品なのか。
    一つは、主人公である「十八歳で嫁入りした主婦(北條すず)」の視点を主軸に
    「戦時下の民間人の暮らし」を描画してみせました。次に、アニメ作家としては
    日本独自のアニメーション制作技法に逆行するかのように動画の概念を組み直し、
    人間の仕草を細かく描き滑らかな動作に知覚させる『ショートレンジの仮現運動』
    を実践してみせることで、実写に拮抗する水準の丁寧な芝居をアニメでも可能に
    する自説を証明しました。本作は「太平洋戦争の広島」が舞台ですから、当然の
    ように原爆投下が行われます。しかしながら『この世界の片隅に』という作品は
    反戦活動の一環として作られたものではありません。本編を見ればわかるように、
    『この世界の片隅に存在する主人公の北條すずが「自身の身の丈を自覚する経験
    を通して母になる」お話』です。「女性の成長を描いたお話」に読み間違えると、
    「絵が得意」である点や失われた部位が「利き腕である右手だけ」である理由や、
    「戦災孤児を我が子のように当たり前に育てる」戦後の生活を説明しきれません。
    制作の資金を一般人から調達する「クラウドファンディング」を用いた背景から、
    熱烈な支持層により問答無用で絶賛されがちな向きはありますが、宮﨑駿さんの
    『魔女の宅急便』の演出補をしていた経歴を見れば実力が確かな作家の作品です。


    【 人災の戦争を、災害と捉える人々 】
    近年の流行の物語は、主人公が何らかの力を使って並行世界に継ぎ接ぎの編集を
    施しベストな時系列を正史にすげ替えることで誰も不幸にならないようにします。
    たとえば広島市への原子爆弾投下がなかった歴史や太平洋戦争に敗北しなかった
    日本を夢想したIFの物語を「架空戦記」と言いますが、監督の片渕須直さんが
    徹底したリアリティを構築するために読み込んだ資料や開発した動画技法などは、
    のんさん(旧芸名:能年玲奈)が演じる「北條すず(旧姓:浦野)」を徹底的に
    視聴者に実在する人物として知覚してもらうために必要不可欠だった努力でした。
    結果としてひねった展開やご都合主義の要素が含まれず非常に見やすい映画です。

    冒頭は日記スタイルで物語が進みます。画面に見えているすずさんは子供ですが、
    語り口は過去形です。本編の時間に接続されるのを待ちながら映画を観ていると
    嫁入りしたところで、「この視点から過去を物語っていた」ことに気が付きます。
    独身のうちは食事時に家族と「遠くに嫁に行く/行かない」の会話をしていたり、
    「嫁のもらい手がない」といった脅しが出てきますが、この時代の日本は或る日、
    見ず知らずの人のところであっても仲人の口利きにより嫁に入るのが普通でした。
    親戚が勝手に決めてきたからといって断れる話ではなく、これが本当に一般的な
    結婚の形式だからこそ、すずさんは「困ったねぇ」と他人事のように呟くのです。
    そもそも「恋愛」によりお互いを知り納得の上で好きの感情を確認してから行う
    結婚は明治期にヨーロッパから輸入された手順と観念に過ぎません。日本社会の
    結婚は好き嫌いの感情を要しませんから話がまとまれば大人しく嫁いで行きます。

    その決断の裏付けにあるのが「そのようになったものは、抵抗せずに受け容れる」
    というすずさんの生き方です。現代人の私の価値観からは仲人が身勝手に思えて、
    「この日からあの家で嫁だ」と決められれば反発の一つもしますが、すずさんは
    状況に流されて従います。だからといって無神経ではありませんから結婚生活の
    ストレスは自身の体調に現れて円形脱毛症の「ハゲ」ができてしまったりします。
    嫁いだ頃の夫婦関係がよそよそしいのは、子供のままの感性で慣れないからです。
    細谷佳正さんが演じる夫の「北條周作」の仲人を勤めた小林夫妻にしても本人の
    意思も問わずに顔も知らない人との結婚を決めますが、何ら悪気がない点からも
    当時の結婚の手順に誤りはありません。すずさんには災難でも、幸いにして夫は
    幼い頃に広島で「ばけもん」にすずさんとさらわれた体験を記憶する旧知の人物
    でした。本編中に痴話喧嘩が見られますが信頼しあっているからこその口論です。

    小野大輔さんが演じる幼なじみの「水原哲」が尋ねてきた時に周作は「嫉妬」を
    抱きながらも家長の権限を使って納屋で寝るように言って家の鍵を掛けてしまい、
    すずさんと一晩を過ごせるようにします。これから戦場で死にゆく者への手向け
    としての心遣いでしたが、すずさんは周作のことも愛していたから裏切りません
    でした。仲が良いことは体を重ねなくても膝枕をしているシーンに確認できます。
    そこには「波のうさぎ」の絵を描いて渡す以前から心許せる人物として関わって
    きた二人の関係が読み取れます。見合い話がなければ、結婚していた相手だった
    可能性があるからこそ、そのような小細工をした周作を許せず「夫婦ってそんな
    ものなのか!」と詰め寄るわけです。このように、状況が作られていても自分の
    判断で断ることができるものは抵抗して受け容れないのもすずさんの生き方です。

    そのような人間らしさを持つ一人一人が暮らしている生活に、日本の戦争という
    状況が覆ってきます。「戦争は政治の一手段」ですが政治が国民の生命を危険に
    晒しているのであれば外交の失敗により生じた戦争の被害は「人災」と呼べます。
    国民が為政者に責任を追及できる仕組みの上に成り立っている国が民主主義国家
    ですが、日本が「大日本帝国」だった時代の統治機構における国民は「日本臣民」
    ですから今のように個人に権利がありませんでした。しかし大正デモクラシーや
    自由民権運動といった中学校の社会の授業で習った活動の歴史はありましたから、
    現代に限らず戦時中の人も「政治は誰がやっても同じ、ダメの種類が変わるだけ」
    の真実を知っていて「戦争被害の怒りを政治家に向けなかった」ように見えます。
    事故で身体を欠損させられ恨みの感情が生じたとしても、おなかが空けばご飯を
    食べなくては生きられないし、食材や調味料の調達に多額の現金を持って闇市に
    出向く必要があるのなら行くしかありません。それは「生活の持続」こそが第一
    だからであり政策の失敗に振り回されても「災害」と捉える以外にないからです。


    【 すずさんは、ぼーっとしていない! 】
    さて主人公の「すずさん」ですが、作者の片渕須直さんが実在していない人物を
    丁寧な日常描写の堆積によって創作の「それ」を「人物」として起ち上げたから
    こそ視聴者は「すず」を「すずさん」という人間として認識できるようになって、
    反復される空襲や原爆投下の被害で消滅してしまった「広島」や「呉」の景色を
    劇場のスクリーンもしくは部屋のテレビの画面に「事実」であるかのように認識
    するようになりました。だから『この世界の片隅に』の視聴者は誰に強制されて
    いなくても「すず」でなく「すずさん」と敬称を付けて呼ぶようになっています。

    たとえば画面作りにしても、夜の空襲に備えて電灯に「防空カバー」と呼ばれる
    フードをかけているため、部屋の中でも照らされている場所だけが明るく見える
    ように設計されています。アニメにありがちな人物を正面から見た絵やアップや
    煽りといった撮り方も意図的に避けたカメラワークには日常を描くという意志が
    感じられます。広島における新婚さんの初夜の作法も丹念に描かれていて、ここ
    ではすずさんの等身を高くすることで、色っぽく見えるように作画されています。
    今のように便利な家電や安定したインフラも材料すらもない時代のお話ですから、
    食べられそうな草を摘むことから作業を始める当時の家事はまさしく一日仕事で、
    「専業主婦という職業」の重みを感じる調理シーンになっています。こだわりの
    動画により包丁を入れるときの角度や速度や筋肉の力の入れ加減が伝わってくる
    場面です。そうした日常を観察して気付くのは、すずさんが概ね無口なことです。


    こうの史代さんによる同名の漫画が映画の原作です。ひょっとすると作者自身を
    映し込んだ鏡像ではないかと思えてならないのは、右手への執着が絵が描けなく
    なった時の絶望とイコールになっている点にあります。すずさんは冒頭において、
    いつもぼーっとしていると独白をしますが、これは視聴者を含めて周囲の人間に
    「そのように思われたいため」に「ぼーっとしている自分のイメージの喧伝」を
    していると読めば「表情と内面の乖離」が強い人物であることがわかってきます。
    すずさんはよくしゃべっているように感じられますが、多くはモノローグであり、
    口パクをしていないことに注目して見ると、実は腹の中では何を考えているのか
    わからない人物にも思えてきます。絵を描いている最中の集中力が彼女の本質で
    あるため絵を描く以外の作業をしている時はエネルギーを使いたくない性格です。
    それは家業の手伝いで海苔を作っていた子供時代からそうでした。絵を描くのが
    何よりも楽しいからこそ普段は省エネで暮らしています。特に創作活動を好んで
    行っていますから、そういう種類の人間にとって現実の生活は億劫でなりません。

    夫の寝顔や街の風景を描いているときが自分が生きているという実感を得られる
    瞬間です。軍艦が停泊中の軍港は軍事機密のため、海をデッサンした時は憲兵に
    怒鳴り込まれましたが、空襲を受けている時ですら避難よりも先に水彩絵の具が
    手元にあれば描けるのにと悔しがるような人物です。それなのに不条理な戦争で
    大切な右腕を失ってしまいましたから「命が助かったから」というだけの理由で
    「良かった良かった」と口々に言った人々を思い出し「どこがどう良かったのか、
    うちにはさっぱりわからん!!」と病床で怨嗟を声にします。絵を描いたり創作
    活動をすることに自分の感情の表現を依拠している人間にとって、右腕を失って
    生きていても「何がどのように良かった」のか「すずさんには本当にわからない」
    のです。だからこそ、右腕を失ってからは「鉛筆」ではなく「口」で感情を表出
    するようになります。繰り返される空襲警報とその解除も苛立ちを増幅させます。

    不発弾に見せかけた時限爆弾は明らかに民間人を攻撃する目的で作られた卑劣な
    戦法ですが、本作は反戦映画ではありませんし非難したところで失われた部位が
    戻りはしませんから具体的に敵国はアメリカであると名言しません。それよりも
    すずさんは「日本は海の向こうから来た食材に頼っているから暴力に屈するしか
    ないのか」と「主食すら輸入しなければ国民が飢え死にする状況」に気が付いて
    しまいます。つまり「大日本帝国の破綻」という現実の受け容れです。「戦争は
    政治家が始めた政策上のイベント」であるのに、本土に敵の航空部隊が来襲して、
    無関係の国民を無差別攻撃しました。北條の家に嫁いで炊事の仕事をやるように
    なって「食べ物はあるのが当たり前ではない」ことを知り、「作るにも重労働の
    仕事」であることを知って、その上で「配給の僅かな食材が輸入頼み」の現実に
    気付けばすずさんを含め誰もが目を逸らしてきた現実を直視するしかありません。


    すずさんは「ぼーっとしたうちのまま死にたかったなぁ」と現実から離れて絵を
    描いたり創作活動といった楽しいことと日常生活を優先して生きてきたばかりに、
    掲げられた太極旗を見つけるクライマックスに至るまで「食糧難の破綻した状況」
    に気が付くことができませんでした。そしてその愚かさには泣くしかありません。
    だからこそ、敗戦を伝えるラジオの玉音放送が「国家の国民に対する裏切り行為」
    に聞こえて激高し抑えていた怒りを声に表します。それは体を使った表現でした。

    戦争をしていたとはいえ個人的な恨みがないのはすずさんら日本国民も進駐軍の
    兵隊も同じでした。「状況終了」になれば、かつての敵兵から道を尋ねられると
    案内もします。お礼にチョコレートをもらいますが、すずさんは「アメリカさん」
    と話していますから本作の方針として戦争相手の名前を伏せる意図がないことが
    わかります。参加した行列は炊き出しでタバコの包装紙が混じった雑な残飯雑炊
    でも「おいしい」と喜びます。娘の晴美を失った当時は悲しみのあまりやり場の
    ない怒りをすずさんにぶつけた径子さんですが片腕で不自由しているすずさんに
    雑炊を食べさせる短いシーンには二人が心から和解していることを確認できます。


    【 まとめ 】
    北條家の若夫婦には子供ができませんでした。妊娠ができていなかったからです。
    実家に帰る選択肢もありましたが、すずさんが嫁いだ先に残ると決められたのは
    戦争の被害に遭い利き腕を喪失した代償に、「負けるべくして負けた国の敗戦の
    理由」に気が付くことができたからです。食糧自給率の事情だけを見れば現在の
    日本もカロリーベースが三八パーセントで生産額ベースでも長期的な低下傾向に
    あります。日本が戦争を遺棄したことで太平洋戦争は終わりましたが、GHQは
    日本を植民地支配する素振りすら見せませんでした。すずさんにとっての戦争は、
    ラジオで聞いた玉音放送で怒りの感情を表出して「国家を見限る」ことで終わり
    ました。しかし人生は続きます。北條夫妻は最初に出会った街道を回顧しながら
    歩く中で原爆で母親と死別した戦災孤児の女の子に懐かれます。この子の母親も
    すずさんと同じく右腕を戦争で失っていました。そのため、すずさんに母の姿を
    重ねて見たのか近付いて、厳しい孤児生活の緊張が解けたためか負ぶわれて眠り、
    北條の家に受け容れられます。戦争体験を通したことで自身の身の丈を自覚した
    すずさんは、戦災孤児の女の子が寄生虫を宿した体でシラミまみれと知りますが、
    それを理由にわざとらしくびっくりする類いのリアクションを見せることはなく、
    すぐに適切な行動に出ます。「母親」ならば「子供の異変に速やかに対処」する
    ものだからです。「すずさんが母親になった」ことにより本作はエンドロールに
    迎え入れられます。コトリンゴさんのエンディングテーマ『たんぽぽ』が流れる
    中で戦災孤児の女の子が少しずつ成長していく様子が描かれていきます。以前は
    すずさんが祖母から針仕事を学びました。今度はすずさんが祖母から受け継いだ
    針仕事を子供に継承します。そのように後世に伝えられた生活が文化になります。

    片渕須直さんが『この世界の片隅に』で実践した『ショートレンジ仮現運動』は
    これからのアニメの制作現場で活用されていく智恵と思われます。認知心理学や
    知覚心理学を応用することで、頭打ちになっていた日本のアニメーション文化に
    未来が開けました。『この世界の片隅に』の物語を終えて広島の戦後が始まった
    ように、『この世界の片隅に』の登場によって日本のアニメは再起動したのです。



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  • 【円盤発売記念】映画『君の名は。』(2016年) 大人になり東京で再会した二人は恋愛を始められるか

    2017-09-19 20:30
    AIR です。

    今回のお題は『君の名は。』です。アニメ映画の当たり年と言われた二〇一六年
    から新海誠さんの作品です。いつものように自分の感想を正しく書く姿勢として、
    前情報や予備知識といった一切に触れずに視聴しましたが、やはり新海誠作品は
    私と相性が悪い以外に言いようがない結果になりました。歌の使い方の理由から、
    本作を見た人は『RADWIMPS(ラッドウィンプス)』を嫌いになるでしょうし私は
    ボーカルの「野田洋次郎」さんの声が聞こえる度に耐えがたい不快を感じた映画
    でした。このバンドの好き嫌いどうこうでなく、二度と見ることはない映画です。


    【 圧倒的な美術の秘密! 】
    しょせんアニメは絵空事です。アニメの作家は嘘の積み重ねで作品を作り上げる
    仕事ですから、映画のフォーマットで作られている本作では上映時間内だけでも
    視聴者を騙し続けられる嘘をつければ「成功」という結果を得られます。出身が
    PCゲームメーカーのビジュアル制作ですから、新海さんの得意分野は美術です。
    『君の名は。』の中心軸にあるものは「巫女さんならこれくらいできる」という
    設定です。飛騨の山々と田舎の景色と東京の新宿の都会の風景の対照的な二つの
    舞台を圧倒的なリアリティを持った映像で表現しきることができたのは、作者の
    特技が美術と映像表現だったからです。だからこそ新海さんの美術の指示により、
    東京は実際より美しく再構築されます。ここで視聴者が考えねばならないことは、
    ここまでの映像美が本作に必要だったかの理由です。私は従来のアニメで日常を
    描いている内容の作品に対して「何のためにアニメでやっているのか」の疑問を
    抱いてきました。アニメーション制作という手間暇がかかる手法でやるからには、
    アニメでしかやれないことをやるべきだからです。カメラを回せば撮れてしまう
    ものは実写でやるべきです。アニメでやるからには、アニメでしか表現できない
    ロボットものであるとか怪獣ものであるといった「非実在の対象を描きたい」と
    いう意志が必要です。原作の漫画なりラノベを右から左へ動画形式に単純に変換
    しただけのものを自身が抵抗なく受け容れてしまっているのならそれは迂闊です。

    『君の名は。』では時間軸を飛び越えた「高校生の恋愛」を描くために巫女さん
    なら何でもできるといった嘘から物語を起動させます。具体的には『時間の越境』
    です。「スピリチュアル」を用いれば根拠を示す必要がなくなりますから作者が
    「できる」と言い切り視聴者が途中で映画館の席を立って退場しないことだけで、
    「制作者と視聴者の共犯関係が成立」します。ですから冒頭から冗長に描かれる
    「人物の中身の入れ替わり」という古典的で使い古されたネタを「巫女なら可能」
    の理由でやりきってみせられたのは「現実に拮抗する映像美」があったからです。
    「大嘘」を視聴者に信じ込ませる「仕掛け」として用意されたのが「リアリティ」
    だったのです。単純に「背景が美しい映画」と思うのは自由ですが、ここまでの
    美術力を発揮しなければならなかったのは、陳腐でくだらないネタで二時間もの
    時間を引っ張っていかなければならない作者の精一杯の決意でありますが、実の
    ところ「アニメ業界一の美術力を持った作家」の自負があるからやれたことでも
    あります。その自惚れや慢心が、こういう出足の印象の悪さを作ってしまったの
    だとすると、下手に多くの賞をもらったぶん「監督/脚本/演出」に関する仕事
    の全部をその道のプロに預けた「美術監督に徹した人生」に仕切り直せませんが、
    新海さんの進退について私が言うことは何もありません。それよりも心配なのは、
    『勝ち馬に乗る』のスタンスで「ろくに論ずる言葉を持たないくせに絶賛する人」
    の存在です。水島努さんが監督したTVアニメ『ガールズ&パンツァー』を当時
    「ガルパンはいいぞ」としか言えなかった人々と『君の名は。』を支持している
    層は別に感じますが、「悪いものは悪い」と言語化できないようではまずいです。


    【 実は恋愛映画ではない? 】
    それでは本編に触れていきます。冒頭でも述べましたように事前情報は何もなく、
    発売日にソフトのジャケットイラストから「高校生の恋愛もの」と知ったくらい
    です。デビュー作の『ほしのこえ』は見ていましたが、こちらは庵野秀明さんが
    監督したガイナックスのアニメ『トップをねらえ!』を下敷きにしたものでした。
    本作は新房昭之さんが監督したシャフトのアニメ『魔法少女まどか☆マギカ』を
    下敷きにしたものでしょう。絶望的な結末を知っている人間が未来から介入して、
    本来あるべき歴史をねじ曲げて良い結果に導くという展開です。魔法少女である
    ほむらさんが葛藤と苦悩を乗り越えながら魔法の能力を駆使して、瑕疵はあるが
    許容できる未来に着地したのが『魔法少女まどか☆マギカ』という作品でしたが、
    そのような前例があるにも関わらず『君の名は。』はあまりにもご都合主義です。

    一応の理屈づけは行われていまして、ガジェットとして登場した「口噛み酒」と
    いうものがあります。上白石萌音さんが演じるヒロイン「宮水三葉」さんの家は
    「宮水神社」であり「みつは」は巫女さんです。映画の最初のほうで割とゾッと
    するシーンを見せてくれます。作者である新海誠さんの嗜癖ですから、視聴者は
    内容にとやかく言える立場ではありませんが、日本の民俗文化には、女子高生が
    唾液を瓶詰めにして性的な商品として売っていた時代がありました。その歴史を
    踏まえると「口噛み酒」という処女が噛んだ米を吐き出して発酵させて造る酒は、
    宗教的な儀式に従った製法でありながら非常にいかがわしいものに感じられます。
    また、そのヒロインが造った「口噛み酒」を、神木隆之介さんが演じる主人公の
    「立花瀧」さんが、あと一度でいいから「入れ替わりたい」と念じ飲んでしまう
    のですが、みつはに言われなくても「きもい」し、見ていて嫌な汗を掻きました。
    二人の心の入れ替わりは巫女の力で起きた現象ですから、半身を移したとされる
    酒を飲むことで普通の人間でも同等の能力を発動させられる展開は設定通りです。


    そのようにして「巫女さんならこれくらいできる」という本作の中心軸を支える
    ロジックとガジェットにより「三年後の未来人が三年前に死ぬべきだった人々に
    未来の情報を与えて生存ルートに導く」行動で、主人公はヒロインを救出します。
    しかしながら「入れ替わり」の体験は「夢」として認知されるため、それぞれの
    記憶には定着しません。この設定が、「高校生の恋愛」の障壁として機能します。
    だからといって本編のドラマをおもしろくしているかといえば、そうでもなくて、
    主人公の瀧とヒロインのみつはが恋愛関係まで発展する理由が描かれていません。

    「起きたら女子の体になっていた。自分の体だけど、おっぱいを揉めた体だから」、
    「起きたら男子の体になっていた。冗談の願望の東京の男子の生活を体験できた
    から」、だからお互いを好きになったりするものでしょうか。終盤の就職活動の
    シーンに「五年前」とセリフがあるため、入れ替わりの時期は高校二年生だった
    ことが判明します。高校二年生の男子ならバイト先に好意を抱いていてデートも
    した先輩がいるのに見ず知らずの女子に対して本気になりはしないと思いますが、
    こちらも「口噛み酒」と同じく新海誠さんのメンタルとして受け止めれば、そう
    いう展開もあるかもしれないと容認するしかありません。もしくは現代の若者は
    短期間でも知り合えば男女の関係かと錯覚するということを表現したのでしょう。
    みつはの入れ替わり先が瀧だったのは、過去に何かしらの因果があったからでも
    たまたま入れ替わった先でもなく瀧が中学生のときに電車の別れ際に受け取った
    「組紐」が「縁の始まり」となったからです。しかし、それでも恋愛に至るには
    動機が弱いです。視点を変えてみます。実は二人は恋愛をしていなかったのです。


    真実は本編に描かれたものから読み取れるものにしかありません。まず冒頭から、
    ヒロインは田舎に住んでいるが何時の時代の人間であるかを濁して描いています。
    若者が遊べる場所がなくてもスマートフォンを使うシーンがありますから現代で
    あることはわかるようになっています。しかし主人公との時間差が三年間もある
    のは映画の中盤あたりまで伏せられています。瀧からみつはへ、みつはから瀧へ、
    それぞれが送信するメールと電話が繋がらないことに悩んでいる場面があります。

    瀧からみつはに繋がらないのは、三年前の隕石衝突事故で死者になっているから
    です。みつはから瀧に繋がらないのは、みつはの時代の瀧は東京の電車で会った
    とき中学生で、三年後の入れ替わり期に使っていた電話番号やメールアドレスを
    持っていなかったからです。入れ替わりが終わったのはみつはが隕石衝突事故で
    他界したからですが、不可解なのは日記アプリに記述されていた内容が消滅して
    しまうことです。みつはが一方的に知っている状態で瀧に渡された組紐も手首に
    巻かれたままです。瀧がみつはの口噛み酒をご神体に奉納した記憶が瀧のなかに
    残っていたことから最後の入れ替わりを行えました。そのことによって糸守町の
    住民は、みつはに応えた町長である父が発令した緊急避難訓練により生き延びる
    ことができました。この時点で未来は書き換わりましたが隕石衝突から八年後の
    東京で二人が再会したときに涙を流したり入れ替わっていた記憶を思い出すのも
    不可解なところです。なお、親子関係が決して良好とは言えない状態で別居中の
    娘からの非常識な依頼を引き受けた根拠は、みつはの中身が入れ替わっていると
    父が見抜いたシーンにあります。宮水神社の血筋の女子は思春期に入れ替わりの
    体験をする設定が本編で描かれており、これは想像でしかありませんがみつはの
    父もまたみつはの母と入れ替わる体験を記憶していました。そのため同じ体験を
    我が娘が経験している最中と認めれば、町長辞任にもなりかねない行動を執れた
    わけです。また「ティアマト彗星」の再来は地球に逢いに来たという物語全体の
    フラクタル構造です。隕石が不自然な軌道を描いて一二〇〇年周期で同じ場所に
    落下する事象を繰り返したのは『君の名は。』という作品のテーマにこじつけた
    ためです。物理法則では落下がありえないからこそ政府は何ら対策を講じません
    でした。最後の場面で再会した二人はお互いに名前を尋ね合います。タイトルが
    表示され映画はエンドロールに突入します。「二人の恋愛が始まるかも知れない
    のはここから」なのですが、二人のそこからは描かれていませんから、視聴者の
    想像にお任せといった作りになっていますが、二人は相手の名前ばかり気にして
    いました。その感情は恋愛のそれではありません。「ずっと心にあり気に掛かり、
    得体が知れない存在」として二人を結びつけていた感情の正体は『好奇心』です。

    『君の名は。』は恋愛そのものではなく、『未然形の恋愛』を描いた物語でした。
    最後の場面で再会した二人がお互いの名前を確かめ合ってから恋人関係に至るか、
    名前を知ることで好奇心を満たせてお別れするかは『作者のみぞ知る未来』です。


    【 まとめ 】
    本編ディスクには映像特典としてTVで放送されたであろう三〇分の特別番組が
    収録されていました。それをボイスコンテと呼ぶかは知りませんが、声優さんに
    演技してもらいたい通りに全登場人物を自身で演じて録音を用意した新海さんは、
    作品の全部を自分で管理したいタイプの作家です。第一作目が話題になったのは、
    アニメーション制作における全行程を一人でやってのけたからです。その背景に
    個人向けパソコンとソフトウェアの性能の飛躍的な向上があったのは確かですが、
    ボイスコンテは歌の制作における仮歌のようなもので完成品に含まれるものでは
    ありません。邦画の作家のビートたけしさんが「俳優:北野武」としても出演し、
    監督をしながら「役者もやってのける」ことを思うと、美術出身ならスタッフに
    絵を任せず自身で仕上げるべきでしょう。しかしながらアニメ作家として有名に
    なりすぎてしまったことで、同人作品を描くような作り方はできなくなりました。

    次回作も大所帯でやることになるでしょうが、前作の『言の葉の庭』の昼ドラの
    ごとき内容や本作『君の名は。』を見る限り、私個人的には「監督/脚本/演出」
    に関する仕事の全部をその道のプロに預け「美術監督に徹した人生」に転向する
    ほうが良い仕事を残せると思いました。アニメは富野由悠季さんや宮崎駿さんと
    いったレジェンド級の才能の作家が同じ戦場に現役でいますから、全部やりたい
    という「こだわり」を捨てることが「良い作品を見たい」というアニメファンに
    応える最善策になりますし、「悪いものは悪い」と自分の感情を言語化できない
    層がメディアの言説に踊らされる滑稽なニュースを見なくて済むようになります。

    とは言いながらも、隕石衝突シーンは圧倒的な美術力で描かれていて目を見張る
    ものがありましたし、「新海誠フィルターを通せば日本はこんなにも美しい」と
    いうことを絵に疎い私でも感じられました。お話に関しては「君の名前は?」と
    問い続けた理由を「恋愛感情だから」でなく「好奇心を満たしたかったから」と
    結論づけましたが、この解釈に達せなかった人が見れば『日和った』と貶される
    物語構造です。「ヒロインは死んでいた」の展開は見事でしたが結局は救われて
    予定調和です。頭をひねって屁理屈をつけて名作認定するのも見苦しいですので、
    『新海誠さんが大衆に迎合して媚びたアニメ』と評しておきます。今回の成績は
    ターゲットを切り替えたことで、勝ち得たものです。多額の制作費を必要とする
    劇場用アニメを作れる体制の作家は数多くいませんので次回作に期待してみます。



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