• 【円盤発売記念】映画『この世界の片隅に』(2016年)  戦争を遺棄した国で、私が私になるための喪失の物語

    2017-10-02 20:00
    AIR です。

    今回のお題は『この世界の片隅に』です。アニメ映画の当たり年二〇一六年から
    片渕須直さんの作品です。この映画は何を描こうとして、何を描いた作品なのか。
    一つは、主人公である「十八歳で嫁入りした主婦(北條すず)」の視点を主軸に
    「戦時下の民間人の暮らし」を描画してみせました。次に、アニメ作家としては
    日本独自のアニメーション制作技法に逆行するかのように動画の概念を組み直し、
    人間の仕草を細かく描き滑らかな動作に知覚させる『ショートレンジの仮現運動』
    を実践してみせることで、実写に拮抗する水準の丁寧な芝居をアニメでも可能に
    する自説を証明しました。本作は「太平洋戦争の広島」が舞台ですから、当然の
    ように原爆投下が行われます。しかしながら『この世界の片隅に』という作品は
    反戦活動の一環として作られたものではありません。本編を見ればわかるように、
    『この世界の片隅に存在する主人公の北條すずが「自身の身の丈を自覚する経験
    を通して母になる」お話』です。「女性の成長を描いたお話」に読み間違えると、
    「絵が得意」である点や失われた部位が「利き腕である右手だけ」である理由や、
    「戦災孤児を我が子のように当たり前に育てる」戦後の生活を説明しきれません。
    制作の資金を一般人から調達する「クラウドファンディング」を用いた背景から、
    熱烈な支持層により問答無用で絶賛されがちな向きはありますが、宮﨑駿さんの
    『魔女の宅急便』の演出補をしていた経歴を見れば実力が確かな作家の作品です。


    【 人災の戦争を、災害と捉える人々 】
    近年の流行の物語は、主人公が何らかの力を使って並行世界に継ぎ接ぎの編集を
    施しベストな時系列を正史にすげ替えることで誰も不幸にならないようにします。
    たとえば広島市への原子爆弾投下がなかった歴史や太平洋戦争に敗北しなかった
    日本を夢想したIFの物語を「架空戦記」と言いますが、監督の片渕須直さんが
    徹底したリアリティを構築するために読み込んだ資料や開発した動画技法などは、
    のんさん(旧芸名:能年玲奈)が演じる「北條すず(旧姓:浦野)」を徹底的に
    視聴者に実在する人物として知覚してもらうために必要不可欠だった努力でした。
    結果としてひねった展開やご都合主義の要素が含まれず非常に見やすい映画です。

    冒頭は日記スタイルで物語が進みます。画面に見えているすずさんは子供ですが、
    語り口は過去形です。本編の時間に接続されるのを待ちながら映画を観ていると
    嫁入りしたところで、「この視点から過去を物語っていた」ことに気が付きます。
    独身のうちは食事時に家族と「遠くに嫁に行く/行かない」の会話をしていたり、
    「嫁のもらい手がない」といった脅しが出てきますが、この時代の日本は或る日、
    見ず知らずの人のところであっても仲人の口利きにより嫁に入るのが普通でした。
    親戚が勝手に決めてきたからといって断れる話ではなく、これが本当に一般的な
    結婚の形式だからこそ、すずさんは「困ったねぇ」と他人事のように呟くのです。
    そもそも「恋愛」によりお互いを知り納得の上で好きの感情を確認してから行う
    結婚は明治期にヨーロッパから輸入された手順と観念に過ぎません。日本社会の
    結婚は好き嫌いの感情を要しませんから話がまとまれば大人しく嫁いで行きます。

    その決断の裏付けにあるのが「そのようになったものは、抵抗せずに受け容れる」
    というすずさんの生き方です。現代人の私の価値観からは仲人が身勝手に思えて、
    「この日からあの家で嫁だ」と決められれば反発の一つもしますが、すずさんは
    状況に流されて従います。だからといって無神経ではありませんから結婚生活の
    ストレスは自身の体調に現れて円形脱毛症の「ハゲ」ができてしまったりします。
    嫁いだ頃の夫婦関係がよそよそしいのは、子供のままの感性で慣れないからです。
    細谷佳正さんが演じる夫の「北條周作」の仲人を勤めた小林夫妻にしても本人の
    意思も問わずに顔も知らない人との結婚を決めますが、何ら悪気がない点からも
    当時の結婚の手順に誤りはありません。すずさんには災難でも、幸いにして夫は
    幼い頃に広島で「ばけもん」にすずさんとさらわれた体験を記憶する旧知の人物
    でした。本編中に痴話喧嘩が見られますが信頼しあっているからこその口論です。

    小野大輔さんが演じる幼なじみの「水原哲」が尋ねてきた時に周作は「嫉妬」を
    抱きながらも家長の権限を使って納屋で寝るように言って家の鍵を掛けてしまい、
    すずさんと一晩を過ごせるようにします。これから戦場で死にゆく者への手向け
    としての心遣いでしたが、すずさんは周作のことも愛していたから裏切りません
    でした。仲が良いことは体を重ねなくても膝枕をしているシーンに確認できます。
    そこには「波のうさぎ」の絵を描いて渡す以前から心許せる人物として関わって
    きた二人の関係が読み取れます。見合い話がなければ、結婚していた相手だった
    可能性があるからこそ、そのような小細工をした周作を許せず「夫婦ってそんな
    ものなのか!」と詰め寄るわけです。このように、状況が作られていても自分の
    判断で断ることができるものは抵抗して受け容れないのもすずさんの生き方です。

    そのような人間らしさを持つ一人一人が暮らしている生活に、日本の戦争という
    状況が覆ってきます。「戦争は政治の一手段」ですが政治が国民の生命を危険に
    晒しているのであれば外交の失敗により生じた戦争の被害は「人災」と呼べます。
    国民が為政者に責任を追及できる仕組みの上に成り立っている国が民主主義国家
    ですが、日本が「大日本帝国」だった時代の統治機構における国民は「日本臣民」
    ですから今のように個人に権利がありませんでした。しかし大正デモクラシーや
    自由民権運動といった中学校の社会の授業で習った活動の歴史はありましたから、
    現代に限らず戦時中の人も「政治は誰がやっても同じ、ダメの種類が変わるだけ」
    の真実を知っていて「戦争被害の怒りを政治家に向けなかった」ように見えます。
    事故で身体を欠損させられ恨みの感情が生じたとしても、おなかが空けばご飯を
    食べなくては生きられないし、食材や調味料の調達に多額の現金を持って闇市に
    出向く必要があるのなら行くしかありません。それは「生活の持続」こそが第一
    だからであり政策の失敗に振り回されても「災害」と捉える以外にないからです。


    【 すずさんは、ぼーっとしていない! 】
    さて主人公の「すずさん」ですが、作者の片渕須直さんが実在していない人物を
    丁寧な日常描写の堆積によって創作の「それ」を「人物」として起ち上げたから
    こそ視聴者は「すず」を「すずさん」という人間として認識できるようになって、
    反復される空襲や原爆投下の被害で消滅してしまった「広島」や「呉」の景色を
    劇場のスクリーンもしくは部屋のテレビの画面に「事実」であるかのように認識
    するようになりました。だから『この世界の片隅に』の視聴者は誰に強制されて
    いなくても「すず」でなく「すずさん」と敬称を付けて呼ぶようになっています。

    たとえば画面作りにしても、夜の空襲に備えて電灯に「防空カバー」と呼ばれる
    フードをかけているため、部屋の中でも照らされている場所だけが明るく見える
    ように設計されています。アニメにありがちな人物を正面から見た絵やアップや
    煽りといった撮り方も意図的に避けたカメラワークには日常を描くという意志が
    感じられます。広島における新婚さんの初夜の作法も丹念に描かれていて、ここ
    ではすずさんの等身を高くすることで、色っぽく見えるように作画されています。
    今のように便利な家電や安定したインフラも材料すらもない時代のお話ですから、
    食べられそうな草を摘むことから作業を始める当時の家事はまさしく一日仕事で、
    「専業主婦という職業」の重みを感じる調理シーンになっています。こだわりの
    動画により包丁を入れるときの角度や速度や筋肉の力の入れ加減が伝わってくる
    場面です。そうした日常を観察して気付くのは、すずさんが概ね無口なことです。


    こうの史代さんによる同名の漫画が映画の原作です。ひょっとすると作者自身を
    映し込んだ鏡像ではないかと思えてならないのは、右手への執着が絵が描けなく
    なった時の絶望とイコールになっている点にあります。すずさんは冒頭において、
    いつもぼーっとしていると独白をしますが、これは視聴者を含めて周囲の人間に
    「そのように思われたいため」に「ぼーっとしている自分のイメージの喧伝」を
    していると読めば「表情と内面の乖離」が強い人物であることがわかってきます。
    すずさんはよくしゃべっているように感じられますが、多くはモノローグであり、
    口パクをしていないことに注目して見ると、実は腹の中では何を考えているのか
    わからない人物にも思えてきます。絵を描いている最中の集中力が彼女の本質で
    あるため絵を描く以外の作業をしている時はエネルギーを使いたくない性格です。
    それは家業の手伝いで海苔を作っていた子供時代からそうでした。絵を描くのが
    何よりも楽しいからこそ普段は省エネで暮らしています。特に創作活動を好んで
    行っていますから、そういう種類の人間にとって現実の生活は億劫でなりません。

    夫の寝顔や街の風景を描いているときが自分が生きているという実感を得られる
    瞬間です。軍艦が停泊中の軍港は軍事機密のため、海をデッサンした時は憲兵に
    怒鳴り込まれましたが、空襲を受けている時ですら避難よりも先に水彩絵の具が
    手元にあれば描けるのにと悔しがるような人物です。それなのに不条理な戦争で
    大切な右腕を失ってしまいましたから「命が助かったから」というだけの理由で
    「良かった良かった」と口々に言った人々を思い出し「どこがどう良かったのか、
    うちにはさっぱりわからん!!」と病床で怨嗟を声にします。絵を描いたり創作
    活動をすることに自分の感情の表現を依拠している人間にとって、右腕を失って
    生きていても「何がどのように良かった」のか「すずさんには本当にわからない」
    のです。だからこそ、右腕を失ってからは「鉛筆」ではなく「口」で感情を表出
    するようになります。繰り返される空襲警報とその解除も苛立ちを増幅させます。

    不発弾に見せかけた時限爆弾は明らかに民間人を攻撃する目的で作られた卑劣な
    戦法ですが、本作は反戦映画ではありませんし非難したところで失われた部位が
    戻りはしませんから具体的に敵国はアメリカであると名言しません。それよりも
    すずさんは「日本は海の向こうから来た食材に頼っているから暴力に屈するしか
    ないのか」と「主食すら輸入しなければ国民が飢え死にする状況」に気が付いて
    しまいます。つまり「大日本帝国の破綻」という現実の受け容れです。「戦争は
    政治家が始めた政策上のイベント」であるのに、本土に敵の航空部隊が来襲して、
    無関係の国民を無差別攻撃しました。北條の家に嫁いで炊事の仕事をやるように
    なって「食べ物はあるのが当たり前ではない」ことを知り、「作るにも重労働の
    仕事」であることを知って、その上で「配給の僅かな食材が輸入頼み」の現実に
    気付けばすずさんを含め誰もが目を逸らしてきた現実を直視するしかありません。


    すずさんは「ぼーっとしたうちのまま死にたかったなぁ」と現実から離れて絵を
    描いたり創作活動といった楽しいことと日常生活を優先して生きてきたばかりに、
    掲げられた太極旗を見つけるクライマックスに至るまで「食糧難の破綻した状況」
    に気が付くことができませんでした。そしてその愚かさには泣くしかありません。
    だからこそ、敗戦を伝えるラジオの玉音放送が「国家の国民に対する裏切り行為」
    に聞こえて激高し抑えていた怒りを声に表します。それは体を使った表現でした。

    戦争をしていたとはいえ個人的な恨みがないのはすずさんら日本国民も進駐軍の
    兵隊も同じでした。「状況終了」になれば、かつての敵兵から道を尋ねられると
    案内もします。お礼にチョコレートをもらいますが、すずさんは「アメリカさん」
    と話していますから本作の方針として戦争相手の名前を伏せる意図がないことが
    わかります。参加した行列は炊き出しでタバコの包装紙が混じった雑な残飯雑炊
    でも「おいしい」と喜びます。娘の晴美を失った当時は悲しみのあまりやり場の
    ない怒りをすずさんにぶつけた径子さんですが片腕で不自由しているすずさんに
    雑炊を食べさせる短いシーンには二人が心から和解していることを確認できます。


    【 まとめ 】
    北條家の若夫婦には子供ができませんでした。妊娠ができていなかったからです。
    実家に帰る選択肢もありましたが、すずさんが嫁いだ先に残ると決められたのは
    戦争の被害に遭い利き腕を喪失した代償に、「負けるべくして負けた国の敗戦の
    理由」に気が付くことができたからです。食糧自給率の事情だけを見れば現在の
    日本もカロリーベースが三八パーセントで生産額ベースでも長期的な低下傾向に
    あります。日本が戦争を遺棄したことで太平洋戦争は終わりましたが、GHQは
    日本を植民地支配する素振りすら見せませんでした。すずさんにとっての戦争は、
    ラジオで聞いた玉音放送で怒りの感情を表出して「国家を見限る」ことで終わり
    ました。しかし人生は続きます。北條夫妻は最初に出会った街道を回顧しながら
    歩く中で原爆で母親と死別した戦災孤児の女の子に懐かれます。この子の母親も
    すずさんと同じく右腕を戦争で失っていました。そのため、すずさんに母の姿を
    重ねて見たのか近付いて、厳しい孤児生活の緊張が解けたためか負ぶわれて眠り、
    北條の家に受け容れられます。戦争体験を通したことで自身の身の丈を自覚した
    すずさんは、戦災孤児の女の子が寄生虫を宿した体でシラミまみれと知りますが、
    それを理由にわざとらしくびっくりする類いのリアクションを見せることはなく、
    すぐに適切な行動に出ます。「母親」ならば「子供の異変に速やかに対処」する
    ものだからです。「すずさんが母親になった」ことにより本作はエンドロールに
    迎え入れられます。コトリンゴさんのエンディングテーマ『たんぽぽ』が流れる
    中で戦災孤児の女の子が少しずつ成長していく様子が描かれていきます。以前は
    すずさんが祖母から針仕事を学びました。今度はすずさんが祖母から受け継いだ
    針仕事を子供に継承します。そのように後世に伝えられた生活が文化になります。

    片渕須直さんが『この世界の片隅に』で実践した『ショートレンジ仮現運動』は
    これからのアニメの制作現場で活用されていく智恵と思われます。認知心理学や
    知覚心理学を応用することで、頭打ちになっていた日本のアニメーション文化に
    未来が開けました。『この世界の片隅に』の物語を終えて広島の戦後が始まった
    ように、『この世界の片隅に』の登場によって日本のアニメは再起動したのです。



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  • 【円盤発売記念】映画『君の名は。』(2016年) 大人になり東京で再会した二人は恋愛を始められるか

    2017-09-19 20:30
    AIR です。

    今回のお題は『君の名は。』です。アニメ映画の当たり年と言われた二〇一六年
    から新海誠さんの作品です。いつものように自分の感想を正しく書く姿勢として、
    前情報や予備知識といった一切に触れずに視聴しましたが、やはり新海誠作品は
    私と相性が悪い以外に言いようがない結果になりました。歌の使い方の理由から、
    本作を見た人は『RADWIMPS(ラッドウィンプス)』を嫌いになるでしょうし私は
    ボーカルの「野田洋次郎」さんの声が聞こえる度に耐えがたい不快を感じた映画
    でした。このバンドの好き嫌いどうこうでなく、二度と見ることはない映画です。


    【 圧倒的な美術の秘密! 】
    しょせんアニメは絵空事です。アニメの作家は嘘の積み重ねで作品を作り上げる
    仕事ですから、映画のフォーマットで作られている本作では上映時間内だけでも
    視聴者を騙し続けられる嘘をつければ「成功」という結果を得られます。出身が
    PCゲームメーカーのビジュアル制作ですから、新海さんの得意分野は美術です。
    『君の名は。』の中心軸にあるものは「巫女さんならこれくらいできる」という
    設定です。飛騨の山々と田舎の景色と東京の新宿の都会の風景の対照的な二つの
    舞台を圧倒的なリアリティを持った映像で表現しきることができたのは、作者の
    特技が美術と映像表現だったからです。だからこそ新海さんの美術の指示により、
    東京は実際より美しく再構築されます。ここで視聴者が考えねばならないことは、
    ここまでの映像美が本作に必要だったかの理由です。私は従来のアニメで日常を
    描いている内容の作品に対して「何のためにアニメでやっているのか」の疑問を
    抱いてきました。アニメーション制作という手間暇がかかる手法でやるからには、
    アニメでしかやれないことをやるべきだからです。カメラを回せば撮れてしまう
    ものは実写でやるべきです。アニメでやるからには、アニメでしか表現できない
    ロボットものであるとか怪獣ものであるといった「非実在の対象を描きたい」と
    いう意志が必要です。原作の漫画なりラノベを右から左へ動画形式に単純に変換
    しただけのものを自身が抵抗なく受け容れてしまっているのならそれは迂闊です。

    『君の名は。』では時間軸を飛び越えた「高校生の恋愛」を描くために巫女さん
    なら何でもできるといった嘘から物語を起動させます。具体的には『時間の越境』
    です。「スピリチュアル」を用いれば根拠を示す必要がなくなりますから作者が
    「できる」と言い切り視聴者が途中で映画館の席を立って退場しないことだけで、
    「制作者と視聴者の共犯関係が成立」します。ですから冒頭から冗長に描かれる
    「人物の中身の入れ替わり」という古典的で使い古されたネタを「巫女なら可能」
    の理由でやりきってみせられたのは「現実に拮抗する映像美」があったからです。
    「大嘘」を視聴者に信じ込ませる「仕掛け」として用意されたのが「リアリティ」
    だったのです。単純に「背景が美しい映画」と思うのは自由ですが、ここまでの
    美術力を発揮しなければならなかったのは、陳腐でくだらないネタで二時間もの
    時間を引っ張っていかなければならない作者の精一杯の決意でありますが、実の
    ところ「アニメ業界一の美術力を持った作家」の自負があるからやれたことでも
    あります。その自惚れや慢心が、こういう出足の印象の悪さを作ってしまったの
    だとすると、下手に多くの賞をもらったぶん「監督/脚本/演出」に関する仕事
    の全部をその道のプロに預けた「美術監督に徹した人生」に仕切り直せませんが、
    新海さんの進退について私が言うことは何もありません。それよりも心配なのは、
    『勝ち馬に乗る』のスタンスで「ろくに論ずる言葉を持たないくせに絶賛する人」
    の存在です。水島努さんが監督したTVアニメ『ガールズ&パンツァー』を当時
    「ガルパンはいいぞ」としか言えなかった人々と『君の名は。』を支持している
    層は別に感じますが、「悪いものは悪い」と言語化できないようではまずいです。


    【 実は恋愛映画ではない? 】
    それでは本編に触れていきます。冒頭でも述べましたように事前情報は何もなく、
    発売日にソフトのジャケットイラストから「高校生の恋愛もの」と知ったくらい
    です。デビュー作の『ほしのこえ』は見ていましたが、こちらは庵野秀明さんが
    監督したガイナックスのアニメ『トップをねらえ!』を下敷きにしたものでした。
    本作は新房昭之さんが監督したシャフトのアニメ『魔法少女まどか☆マギカ』を
    下敷きにしたものでしょう。絶望的な結末を知っている人間が未来から介入して、
    本来あるべき歴史をねじ曲げて良い結果に導くという展開です。魔法少女である
    ほむらさんが葛藤と苦悩を乗り越えながら魔法の能力を駆使して、瑕疵はあるが
    許容できる未来に着地したのが『魔法少女まどか☆マギカ』という作品でしたが、
    そのような前例があるにも関わらず『君の名は。』はあまりにもご都合主義です。

    一応の理屈づけは行われていまして、ガジェットとして登場した「口噛み酒」と
    いうものがあります。上白石萌音さんが演じるヒロイン「宮水三葉」さんの家は
    「宮水神社」であり「みつは」は巫女さんです。映画の最初のほうで割とゾッと
    するシーンを見せてくれます。作者である新海誠さんの嗜癖ですから、視聴者は
    内容にとやかく言える立場ではありませんが、日本の民俗文化には、女子高生が
    唾液を瓶詰めにして性的な商品として売っていた時代がありました。その歴史を
    踏まえると「口噛み酒」という処女が噛んだ米を吐き出して発酵させて造る酒は、
    宗教的な儀式に従った製法でありながら非常にいかがわしいものに感じられます。
    また、そのヒロインが造った「口噛み酒」を、神木隆之介さんが演じる主人公の
    「立花瀧」さんが、あと一度でいいから「入れ替わりたい」と念じ飲んでしまう
    のですが、みつはに言われなくても「きもい」し、見ていて嫌な汗を掻きました。
    二人の心の入れ替わりは巫女の力で起きた現象ですから、半身を移したとされる
    酒を飲むことで普通の人間でも同等の能力を発動させられる展開は設定通りです。


    そのようにして「巫女さんならこれくらいできる」という本作の中心軸を支える
    ロジックとガジェットにより「三年後の未来人が三年前に死ぬべきだった人々に
    未来の情報を与えて生存ルートに導く」行動で、主人公はヒロインを救出します。
    しかしながら「入れ替わり」の体験は「夢」として認知されるため、それぞれの
    記憶には定着しません。この設定が、「高校生の恋愛」の障壁として機能します。
    だからといって本編のドラマをおもしろくしているかといえば、そうでもなくて、
    主人公の瀧とヒロインのみつはが恋愛関係まで発展する理由が描かれていません。

    「起きたら女子の体になっていた。自分の体だけど、おっぱいを揉めた体だから」、
    「起きたら男子の体になっていた。冗談の願望の東京の男子の生活を体験できた
    から」、だからお互いを好きになったりするものでしょうか。終盤の就職活動の
    シーンに「五年前」とセリフがあるため、入れ替わりの時期は高校二年生だった
    ことが判明します。高校二年生の男子ならバイト先に好意を抱いていてデートも
    した先輩がいるのに見ず知らずの女子に対して本気になりはしないと思いますが、
    こちらも「口噛み酒」と同じく新海誠さんのメンタルとして受け止めれば、そう
    いう展開もあるかもしれないと容認するしかありません。もしくは現代の若者は
    短期間でも知り合えば男女の関係かと錯覚するということを表現したのでしょう。
    みつはの入れ替わり先が瀧だったのは、過去に何かしらの因果があったからでも
    たまたま入れ替わった先でもなく瀧が中学生のときに電車の別れ際に受け取った
    「組紐」が「縁の始まり」となったからです。しかし、それでも恋愛に至るには
    動機が弱いです。視点を変えてみます。実は二人は恋愛をしていなかったのです。


    真実は本編に描かれたものから読み取れるものにしかありません。まず冒頭から、
    ヒロインは田舎に住んでいるが何時の時代の人間であるかを濁して描いています。
    若者が遊べる場所がなくてもスマートフォンを使うシーンがありますから現代で
    あることはわかるようになっています。しかし主人公との時間差が三年間もある
    のは映画の中盤あたりまで伏せられています。瀧からみつはへ、みつはから瀧へ、
    それぞれが送信するメールと電話が繋がらないことに悩んでいる場面があります。

    瀧からみつはに繋がらないのは、三年前の隕石衝突事故で死者になっているから
    です。みつはから瀧に繋がらないのは、みつはの時代の瀧は東京の電車で会った
    とき中学生で、三年後の入れ替わり期に使っていた電話番号やメールアドレスを
    持っていなかったからです。入れ替わりが終わったのはみつはが隕石衝突事故で
    他界したからですが、不可解なのは日記アプリに記述されていた内容が消滅して
    しまうことです。みつはが一方的に知っている状態で瀧に渡された組紐も手首に
    巻かれたままです。瀧がみつはの口噛み酒をご神体に奉納した記憶が瀧のなかに
    残っていたことから最後の入れ替わりを行えました。そのことによって糸守町の
    住民は、みつはに応えた町長である父が発令した緊急避難訓練により生き延びる
    ことができました。この時点で未来は書き換わりましたが隕石衝突から八年後の
    東京で二人が再会したときに涙を流したり入れ替わっていた記憶を思い出すのも
    不可解なところです。なお、親子関係が決して良好とは言えない状態で別居中の
    娘からの非常識な依頼を引き受けた根拠は、みつはの中身が入れ替わっていると
    父が見抜いたシーンにあります。宮水神社の血筋の女子は思春期に入れ替わりの
    体験をする設定が本編で描かれており、これは想像でしかありませんがみつはの
    父もまたみつはの母と入れ替わる体験を記憶していました。そのため同じ体験を
    我が娘が経験している最中と認めれば、町長辞任にもなりかねない行動を執れた
    わけです。また「ティアマト彗星」の再来は地球に逢いに来たという物語全体の
    フラクタル構造です。隕石が不自然な軌道を描いて一二〇〇年周期で同じ場所に
    落下する事象を繰り返したのは『君の名は。』という作品のテーマにこじつけた
    ためです。物理法則では落下がありえないからこそ政府は何ら対策を講じません
    でした。最後の場面で再会した二人はお互いに名前を尋ね合います。タイトルが
    表示され映画はエンドロールに突入します。「二人の恋愛が始まるかも知れない
    のはここから」なのですが、二人のそこからは描かれていませんから、視聴者の
    想像にお任せといった作りになっていますが、二人は相手の名前ばかり気にして
    いました。その感情は恋愛のそれではありません。「ずっと心にあり気に掛かり、
    得体が知れない存在」として二人を結びつけていた感情の正体は『好奇心』です。

    『君の名は。』は恋愛そのものではなく、『未然形の恋愛』を描いた物語でした。
    最後の場面で再会した二人がお互いの名前を確かめ合ってから恋人関係に至るか、
    名前を知ることで好奇心を満たせてお別れするかは『作者のみぞ知る未来』です。


    【 まとめ 】
    本編ディスクには映像特典としてTVで放送されたであろう三〇分の特別番組が
    収録されていました。それをボイスコンテと呼ぶかは知りませんが、声優さんに
    演技してもらいたい通りに全登場人物を自身で演じて録音を用意した新海さんは、
    作品の全部を自分で管理したいタイプの作家です。第一作目が話題になったのは、
    アニメーション制作における全行程を一人でやってのけたからです。その背景に
    個人向けパソコンとソフトウェアの性能の飛躍的な向上があったのは確かですが、
    ボイスコンテは歌の制作における仮歌のようなもので完成品に含まれるものでは
    ありません。邦画の作家のビートたけしさんが「俳優:北野武」としても出演し、
    監督をしながら「役者もやってのける」ことを思うと、美術出身ならスタッフに
    絵を任せず自身で仕上げるべきでしょう。しかしながらアニメ作家として有名に
    なりすぎてしまったことで、同人作品を描くような作り方はできなくなりました。

    次回作も大所帯でやることになるでしょうが、前作の『言の葉の庭』の昼ドラの
    ごとき内容や本作『君の名は。』を見る限り、私個人的には「監督/脚本/演出」
    に関する仕事の全部をその道のプロに預け「美術監督に徹した人生」に転向する
    ほうが良い仕事を残せると思いました。アニメは富野由悠季さんや宮崎駿さんと
    いったレジェンド級の才能の作家が同じ戦場に現役でいますから、全部やりたい
    という「こだわり」を捨てることが「良い作品を見たい」というアニメファンに
    応える最善策になりますし、「悪いものは悪い」と自分の感情を言語化できない
    層がメディアの言説に踊らされる滑稽なニュースを見なくて済むようになります。

    とは言いながらも、隕石衝突シーンは圧倒的な美術力で描かれていて目を見張る
    ものがありましたし、「新海誠フィルターを通せば日本はこんなにも美しい」と
    いうことを絵に疎い私でも感じられました。お話に関しては「君の名前は?」と
    問い続けた理由を「恋愛感情だから」でなく「好奇心を満たしたかったから」と
    結論づけましたが、この解釈に達せなかった人が見れば『日和った』と貶される
    物語構造です。「ヒロインは死んでいた」の展開は見事でしたが結局は救われて
    予定調和です。頭をひねって屁理屈をつけて名作認定するのも見苦しいですので、
    『新海誠さんが大衆に迎合して媚びたアニメ』と評しておきます。今回の成績は
    ターゲットを切り替えたことで、勝ち得たものです。多額の制作費を必要とする
    劇場用アニメを作れる体制の作家は数多くいませんので次回作に期待してみます。



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  • アニメ「エロマンガ先生」 兄と妹はゴールを見つけられるか

    2017-05-28 15:00
    AIR です。

    今回のお題はアニメ「エロマンガ先生」です。電撃文庫より原作ライトノベルが
    刊行されている最中の小説のアニメ版です。今の時点では原作が完結していない
    ため、アニメ版一期も区切りが良いところで一応の終わりを迎えると思われます。
    作者が「伏見つかさ」さんでイラストが「かんざきひろ」さんで、OP主題歌を
    「ClariS」さんが担当しているため、前作「俺の妹がこんなに可愛いわけがない」
    のファンが引き続き視聴するには良い内容かと思います。前作を見ていない私が
    「エロマンガ先生とは、ひどいタイトルだ」と遅れながらにして視聴を開始して
    みたところ、予想を裏切っておもしろく感じられたので語ってみたいと思います。


    【 主人公は誰? 】
    おそらく原作小説ではライトノベルの流行りの文体が採用されていると思われる
    ことから「一人称」の「僕(俺)語り」を容易に想像できますがアニメは主観で
    語られませんので、「原作がライトノベル」の先入観にとらわれずに受け取ると、
    松岡禎丞さん演じる「和泉正宗」のほうではなく藤田茜さんが演じる「和泉紗霧」
    を主人公に見ることで全体の物語の見通しがよくなります。最近は放送している
    アニメの本数が多いですので、いわゆる「一話切り」という「第一話の印象にて
    視聴を継続するかしないか」の判決をアニメファンはくださなければなりません。
    本作は「伏線を提示-直ちに回収」するスタイルをとっているため同居中の妹が
    自分の著作に挿絵を描いてくれている正体不明のイラストレーターだったという
    事実を兄が知るところから物語が起動します。もったいぶることも出し惜しみも
    せず視聴者に明かしてしまうところが好印象でしたので視聴の継続を決めました。

    その妹のペンネームが「エロマンガ先生」であり、本作のタイトルでもあります
    から、本作は高校生ながら現役人気作家である兄の人生を追いかけていくよりも、
    「エロマンガ先生」の人生の物語を追いかけていくほうが自然な見方といえます。
    その根拠はOPアニメーションにも描かれています。Bメロでは自分の殻の中で、
    楽しそうに「踊ってみた」をやっています。サビ1からは「走り出す」のですが、
    その表情には「寂しさと不安」が出ています。その後「妹を心配する兄」「兄の
    気持ちも知らずタブレットの絵にバカと殴り書きする妹」の絵が挿し込まれます。
    続いてサビ1’でも「走っている」のですが、今度は「妹と兄の併走」になります。
    「兄と一緒」だから「穏やかで満たされた気持ち」が表情に出ています。中一の
    女の子でメンタルが幼く感情が顔に出てしまうのですが、アニメを読み解くには
    見逃せない部分です。サビ1の不安の原因は「走る妹」の背景で、目まぐるしく
    通り過ぎていく「兄の興味を私から奪っていく兄の周囲に存在する女子達」です。
    ですがサビ1’は「心が通じ合った兄と妹の関係が築かれてからの併走」ですから、
    「兄の興味を私から奪う仕事関係の人達」が通り過ぎても大丈夫と言うわけです。

    さて妹の紗霧ですが、十二歳の中学一年生にして現役の人気イラストレーターで
    ありますから才能に恵まれています。義理の兄妹とはいえ、兄のほうも十五歳で
    紙の本を出していて知名度もある小説家を続けているため才能に恵まれています。
    この場合の評価として公平でない点は、ライトノベルは小説というよりはグッズ
    として売られている側面があることです。一般的に本は内容を確認できなければ、
    買いにくい商品のひとつです。そのため書店でも内容を確認する程度の立ち読み
    ができるように売り場に陳列されています。対してライトノベルは商品の主体が
    絵であるとの考え方からか、本体は小説でありながら内容を確認できないように
    ビニール状の袋でシュリンクされています。つまり表紙の絵が気に入った十代の
    中高生が買っていく商品の扱いですから、エロマンガ先生こと紗霧さんが描いた
    表紙イラストや挿絵がなければ、兄の小説は読者に読まれることすらないのです。
    この関係性を前提として踏まえておくことで本作のテーマを読みやすくなります。


    【 リア充は誰? 】
    流行り言葉に「リア充」という単語があります。現実の生活が充実している人を
    指すスラングなのだそうですが本作では紗霧さんのクラスの学級委員長を務めて
    いる神野めぐみさんがリア充キャラとして登場します。紗霧さんは不登校児です。
    神野めぐみさんが何様かは知りませんが、ライトノベルを指して「キモオタ小説」
    呼ばわりしたことで、正宗さんの同級生で「たかさご書店」の書店員をしている
    高砂智恵さんと喧嘩寸前のところまでいってしまいます。その根拠は、学校中の
    人気者が不登校児の紗霧さんを登校させようとクラスメイトに呼びかけて家まで
    押しかける運動を働きかける力を持っていたことで、彼女の自信を支えています。
    しかしながら、人間としての格は圧倒的に紗霧さんのほうが上回っているという
    事実がありますので、めぐみさんの「思い上がり」はギャグ要素になっています。

    ひきこもりであろうと不登校児であろうと、全国市場で商業作品を手がけている
    プロのイラストレーターという肩書きや売上実績は、経済に貢献していますので
    中学一年生にして納税者です。対して「何者でもなく、今後も何者にもなれない
    であろう」めぐみさんはみじめなものです。日本全国に少なからずファンがいて
    ニコニコ生放送のようなものでネット配信を行えばコメントで場が賑わう人気を
    持つ紗霧さんに向き合うには、「学級委員長です」「友達が多いです」では力が
    不足しすぎています。というよりも、相手になりません。主人公にしても、その
    兄にしても、ラノベ同業者であるところの売れっ子作家の「山田エルフ」さんや
    「千寿ムラマサ」さんにしても十三歳や十四歳という若すぎる年齢でありながら
    アニメ化される原作のラノベで出版社の経営を支えています。このような事実が
    ありますから、同世代で学生と社会人を兼業している面々を並べたとき一般人の
    めぐみさんは人生がみじめなギャグ要員です。人気作家こそが、リア充なのです。


    【 妹どうなる? 】
    主人公の和泉紗霧さんは、最初から完成形にして不完全な存在として登場します。
    アニメの第一話が始まったときは設定が見えませんから、きっと不登校児という
    欠陥の克服が物語の結末であろうと予想できて、その目的で兄が妹を登校させる
    ために奔走する様を一クールかけて描くくだらない内容かと侮っていたのですが、
    本作は展開がスピーディーですから設定が見えてくれば、兄と妹の二人の関係が
    「ビジネスパートナー」であったことがわかります。そして「紗霧さんに学校は
    いらない」ということころまで第一話で見えてきます。ただ、他の面々が学生と
    社会人を兼業していますから、プロのイラストレーターをしながら中学校に通う
    ことも本人の選択としてありえますし、将来的に本格的に絵の勉強をし直したい
    ということを思うようになるイベントがあれば「絵でつまずいたので専門学校に
    通うようになる」という形で、ひきこもりが解決する可能性が本人の選択として
    ありえます。しかしそれは遠い先の話であり、本編では「兄は妹との関係を向上
    させたい」と願って努力していますから、本作は「相互に信頼できる関係の完成」
    が一応の着地点でしょう。それでは作品全体としての物語はどこに着地するのか
    といえば、「エロマンガ先生」という作品はハーレムものですから、兄のほうが
    若くて可愛らしい女の子にモテモテになっていく内容です。紗霧さんは義理でも
    妹ですから、彼女達に嫉妬して焼き餅を焼いていても兄が誰かと付き合うことを
    妨げることはできても止めることまでできません。しかし兄は妹を心から大切に
    思っていますから、ハーレムに対して決着を付けることなく、適当に折り合いを
    付けて、妹とはビジネスパートナーとして平行線の関係を続けることになります。

    紗霧さんの欠落は「常識」です。中学生らしい中学生の生活を送っていないこと
    です。その紗霧さんが「何らかのイベントを通して欠落を克服することによって
    人間として完成する」ことが一般的な物語の落とし所ですから、兄がいなくても
    社会人として生きていける水準に至るまで、「紗霧の人間性が回復」することが
    メインのストーリーになります。見せ方のうえでは兄のほうが主役ですが、兄の
    正宗はアニメ「エロマンガ先生」においても、紗霧さんの人生においても脇役に
    過ぎません。そのような形の描き方しかできなかった理由は決して作者の力量が
    不足していたからではなくて、紗霧さんがひきこもりという設定であるがゆえに、
    「ストーリーを動かせない」からです。そのため「兄が代理で主役の仕事をする」
    形でアニメ「エロマンガ先生」は描画されていきます。兄の正宗の人生において
    妹の紗霧さんは足を引っ張る存在でしかありませんから、ビジネスパートナーで
    なかったとすれば、切り捨てることで人生が楽になります。両親が不在とはいえ、
    「兄妹が出来の悪い兄妹の面倒をすべてみなければならない責任はない」のです。
    小説家として売れなくなり廃業したときには会社員として時間に自由がきかない
    仕事に転職するかもしれません。そのような状況になると紗霧さんが兄に用事が
    あるときに床を叩いて呼びつける「床ドン」に応じることもできなくなりますが、
    生涯にわたって妹と同居して面倒を見続けるという義務は兄の正宗にありません。
    しかし紗霧さんのほうは絵の仕事が順調で編集者を通じて他の作家と手を組んで
    いくことができれば収入を得られますし、ペンネーム通りにエロマンガやエロで
    エッチなイラストを売って稼ぐこともできます。紗霧さんは勉強をしていないと
    思われますから「お金はあるが、生活力がない」といった困った将来になります。


    【 まとめ 】
    紗霧さんにとっての幸せは「いつまでも兄と暮らせる今の生活が続くこと」です。
    兄の正宗にしてみれば「中学や高校に通って一般教養を身に付けて、生きていく
    力を身に付けてほしい」と考えてはいますが、「大事な妹が苦しむことを無理に
    させたくない」という気持ちも心のなかに同居しています。ひきこもりの期間が
    長すぎたために会話するときも声が小さく、ヘッドセットを通してスピーカーで
    音量を増幅しなければならないくらいに社会性が欠落している紗霧さんが学校の
    クラスメイトや学級委員長のめぐみさんの声にそそのかされて登校するといった
    展開も幸福なゴールには見えません。前述しましたように主人公がひきこもりで、
    アニメ「エロマンガ先生」のストーリーを動かせないがために主役でありながら
    紗霧さんはアニメのストーリーの描き方の上で主役の座を兄に代理させています。
    「不登校やひきこもりを克服する」という一般的な物語の解答が自身にとっても
    正解にならないことくらいは気が付いているでしょうから、紗霧さんとその兄は
    別のゴールを二人の人生の着地点に設定し直さなければなりません。本作はその
    期間の二人の生活模様と人間関係を描いたものとして表現されますが、自発的な
    人生の改善が見られない紗霧さんの性格からは「兄に社会性をも代理してもらう」
    ことでしか生きていけません。そのために、『共依存の関係を強固にすることが、
    二人にとっての幸福なゴール』になるのです。愛情という名で依存しあう二人が
    生活のうえでも仕事のうえでも「助け合い支え合う家族」の礎になるのであれば、
    視聴者である他人が否定の言葉を述べる必要はありません。兄が妹を好きになる
    ことがあっても良いですし、創作という内向きのベクトルの行為を媒介してから
    心を通わせる関係があっても良い、そのような作者の嗜癖に触れられる作品です。



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