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  • 芥川賞・直木賞の候補作を無料で試し読み!

    2018-07-11 13:00
    新進作家の最も優秀な純文学短編作品に贈られる、
    「芥川龍之介賞」
    そして、最も優秀な大衆文芸作品に贈られる、
    「直木三十五賞」

    日本で最も有名な文学賞である両賞の、
    ニコニコでの発表&受賞者記者会見生放送も16回を数えます。

    なんと今回も、候補作の出版元の協力によって、
    芥川賞・直木賞候補作品試し読み部分の
    ブロマガでの無料配信が実現しました。

    【第159回 芥川賞 候補作】
    古谷田奈月『風下の朱』(早稲田文学初夏号)
    高橋弘希『送り火』(文學界五月号)
    北条裕子『美しい顔』(群像六月号)
    町屋良平『しき』(文藝夏号)
    松尾スズキ『もう「はい」としか言えない』(文學界三月号)

    【第159回 直木賞 候補作】
    上田早夕里『破滅の王』(双葉社)
    木下昌輝『宇喜多の楽土』(文藝春秋)
    窪美澄『じっと手を見る』(幻冬舎)
    島本理生『ファーストラヴ』(文藝春秋)
    本城雅人『傍流の記者』(新潮社)

    候補作を実際に読んで、
    両賞決定の瞬間をみんなで迎えよう!

    【生放送情報】

    タイムシフト視聴予約も上記生放送ページから!
  • 【第159回 直木賞 候補作】『未来』湊かなえ

    2018-07-11 13:00



         序章


     カラカラの喉をさらに乾燥させるかのように、開いたままの口に大量の空気を送り込みながら、全力で走る、走る、走る……。
     駅が見えてきた。高速バス乗り場には、大型バスが一台停まっている。すでに、改札が始まっているようだ。バスの乗車口前には、長い列ができている。
     夏休み中とはいえ、平日だからか、家族連れよりも、高校生や大学生っぽいグループの方が多い。八割方女子だ。これから約八時間、深夜のバス旅が始まるというのに、ほとんどの人たちがヘアスタイルもメイクもバッチリ決めていて、すでに、クマの耳が付いたカチューシャを着けている人さえいる。皆、笑顔だ。おしゃべりの声も止まらない。
     午後一一時前とは思えない、昼間のファストフード店並みの賑やかさだ。
     だから、かえって目立って見えた。待合室の一番奥のベンチに背中を丸めて座り、キャップを深くかぶっていても暗い顔をしていることがわかる、彼女の姿が。
     彼女はわたしを見つけると、駆け寄ってきた。ずっと待ち続けていた恋人が現れたかのように。わたしの右肩に両手をかけてすがりつく。
    「あ、あの、あのね、あたし……」
     座っていたはずなのに、息はわたしよりも弾んでいた。彼女も到着したばかりだったのかもしれない。わたしは左手の人差し指を立てて、自分の唇に当てた。
    「余計な話は、しなくていい。バスに乗ろう」
     声を潜めてそう言うと、彼女は静かに頷いた。短くなった列の最後尾につき、背負っていたリュックのポケットから、バスのチケットを取り出すと、彼女も同じ動作をした。
     チケットを二枚買ったのはわたしだけど、事前に彼女に一枚渡していた。もし、どちらかが来られなくても、一人でバスに乗ることができるように。でも、こうして二人一緒に乗ることができた。
     二列シートが両側に並んだバスの、わたしたちの席は、運転手側の後ろから二番目だった。最後尾は荷物置き場になっていて、乗客はいない。彼女に窓際の席を譲った。
    「酔わない?」
     こんな状況でも、ぶっきらぼうな口調で気遣ってくれる彼女を、改めて好きだと感じた。
    「ありがとう。薬も持ってる」
     酔ってから飲んでも効くタイプの薬だ。これなら、家で飲んでこなくてもいい。リュックを足元に置いて、二人並んで座った。グリーン車ではないものの、やせっぽちの女子二人にとっては十分なスペースなのに、彼女の左肩はわたしの右肩にピッタリとくっついていた。震えが伝わってくる。わたしは彼女に近い方の手で、彼女の手をしっかりと握りしめた。
     プシュウ、とバスのドアが閉まる音がした。ではこれより出発します、と男性乗務員のアナウンスがあり、バスはゆっくりと動き出した。
    「もう、大丈夫。何も考えずに寝ればいい」
     わたしがそう言うと、彼女はまた静かに頷いて、キャップをかぶったままの小さな頭を窓にくっつけ、まばたきを数回繰り返してから目を閉じた。
     駅のロータリーを抜けたバスは、高速道路に上がるまで、しばらく薄暗い田舎道を走る。まるで、今のわたしたちのようだ。だけど、暗闇がずっと続くわけではない。
     夜の道を何時間も走り続けて、夜明けとともに辿りつくのは、光溢{あふ}れる夢の国、未来の自分が導いてくれた場所だ。
     握っていた彼女の手をそっと放し、彼女が起きる気配がないことを確認してから、リュックのファスナーを開けると、内ポケットから封書を一通取り出した……。


     一〇才の章子へ
     こんにちは、章子。わたしは二〇年後のあなた、三〇才の章子です。
     つまり、これは未来からの手紙。あなたはきっと、これはだれかのいたずらではないかと思っているはず。大好きなお父さん(あなたはパパとよんでいましたね)をなくしたばかりのわたしをからかうなんてひどい、とおこっているかもしれません。
     しかし、これは本物の未来からの手紙なのです。
     うたがわれたままだと、続きを読んでもらえないかもしれないので、しょうこ品を同ふうします。あなたがお父さんと、たい院したら必ず行こうと約束していた、東京ドリームマウンテンのシンボルキャラクターである、ドリームキャットのしおりです。
     ほら、右下にきざまれた文字を読んでみて。
    〈TOKYO DREAM MOUNTAIN 30th Anniversary〉
     英語はまだ読めないかな? 東京ドリームマウンテン三〇周年記念、という意味です。
     そう、三〇周年。あなたが今年のお正月にお父さんからもらったお年玉で買ってきて、入院中のお父さんの病室でベッドにもぐりこみ、二人一しょに何度もながめた最新ばんのガイドブックには、一〇周年と書かれているはずです。
     にせ物ではありません。ドリームキャラクターの、無きょかの使用がきびしく取りしまられている事は、あなたが一番よく知っているはず。
     わたしの記おくにもハッキリと残っています。
     あなたは三学期の図工の時間、木の小箱せい作の、ふたの部分にちょうこくする図案として、ドリームキャットを選んだ。ガイドブックの表紙にのっていた、チロリアンハットをかぶったドリームキャットのイラストを上手に写し、ぼうしのハネかざりや、キャットのフワフワした毛なみの一本一本にいたるまで、大小の丸刀や角刀を使い分けて、根気よくほっていった。
     完成品をお父さんにプレゼントしたかったから。お父さんがたい院したら、家族三人で東京ドリームランドとドリームマウンテンの両方に行って、箱の中を記念写真でいっぱいにするのだと、あなたは赤いビロードのきれを、箱の内側に一面ずつ、しわ一つないよう、ていねいにはりつけていった。
     あなたはドリームランドよりマウンテンの方が楽しみだった。だって、ドリームマウンテンのオープンした日、九月九日は、あなたの生まれた日でもあるから。
     完成した木箱はボンドをかわかすために、教室の外のろう下にならべたつくえの上にしばらく置いておく事になった。クラスの子たちのほとんどが、あなたの箱の前に立ち、すごいすごい、とかん声を上げていた。
    「ギフトショップで売っている、本物みたい」
     実さいに、ドリームマウンテンに行った事がある子にそう言われ、あなたはほこらしい気分になった。
    「章子ちゃんは作文だけじゃなく、工作も得意なんだね」
     そんなふうにもほめてもらえた。自分で言うのもなんだけど、あなたの、そして、わたしの長所は、想ぞう力と集中力なんじゃないかな。
     休み時間の教室がどんなにさわがしくても、本をめくる手は止まらなかった。何より、教科書にのっているくらいの文章なら、三回声に出して読めば暗記する事ができた。
     国語のじゅ業中、お父さんの事が心配でぼんやりしていたあなたは、本読みを当てられた。あわてて立ち上がったけれど、教科書を開いてもいなかった。となりの席の男子が文頭を小声でささやくと、あなたは「ああ、そこね」と寒い季節にもかかわらず、ひたいにういたあせを手のこうでぬぐいながら前を向いた。そして、教科書を手に取らないまま、一だん落分を暗唱し始めたのだから、教室中のみんなが目を丸くしておどろいていた。
     それ以来、あなたは天才少女なんてよばれるようになった。はずかしがり屋のあなたは「やめて、いつも通りのアッコがいいよ」と顔を真っ赤にしながら、必死でうったえていた。
     そういう所は、今でも同じ。
     そんなあなたにいじわるな事を言う子もいた。あなたは今、自分はおとなしいため、せいかくが暗いと思われて、クラスの中心にいる活発な女子たちからさけられているのだ、となやんでいるかもしれない。だけど、大人になったわたしには、それがまったくの見当ちがいだった事が分かります。
     あなたはしっとされているだけ。だから、学級委員長の実里ちゃんはこう言った。
    「シロウトがお金目的で作ったものじゃなくても、ドリームキャラクターを勝手に使っちゃダメなんだよ。わたしのいとこのお兄ちゃんの知り合いの小学校で、卒業記念に体育館のかべに、みんなで、ドリームランドのメインキャラ、ドリームベアの絵をかいたら、アメリカのドリーム社から、すぐに消すようにってこう議の連らくがあったらしいんだから」
     そのとたん、あなたの顔はこおりついた。木箱をぼっしゅうされるだけでなく、ルールい反をしたせいで、ばっ金を払う事になったらどうしよう。それよりも、ドリームランドやマウンテンに立ち入りきん止にされたらどうしよう、と。
     あなたは泣きながら、たん任の篠宮真唯子先生に相談しに行った。すると先生は「まだ見つかっていないから、大じょう夫よ」と笑いながらあなたをはげまし、もう百点満点をつけたからと、その日のうちに木箱を持って帰らせてくれた。
    「パパに、すごく上手だってほめてもらえたよ」
     学校帰りに病院によったあなたは、よく朝、うれしそうに先生にほう告したよね。
     だけど、その木箱に、家族三人でのドリームランドとマウンテン旅行の写真を入れる事はできなかった。木箱ができたよく週、あなたのお父さんは天国へと旅立ったから。
     ひと月前の事ですね。
     その時に、この手紙を送る事ができたらよかったのだけど……。
     未来からの手紙はかん単にか去へ送れるものではありません。いつ、だれが、だれに、どういった目的で送るのか、きびしいしんさがあるのです。
     よく考えてみて。かん単に送る事ができたら、たからくじの当選番号を伝える事もできるでしょう? みんながそれをしたらどうなると思う? そんなのはくだらない例だけど、たとえば、一部分の不幸な未来を知り、そのステージをさけようとする人だっているかもしれない。
     知らなければ、そのステージを乗りこえた先に、大きな幸せが待っていたかもしれないのに。
     わたしがこの手紙に、げんざいの名字やしょく業を記していないのも、それらをきん止されているからです。この先、あなたがもう少し成長すれば、自分がなぜこの世に生まれてきたのかを、今までよりも真けんに考えるかもしれない。
     だれと出会うために、何をするために、などとなやんだり、色々な方法をためしてみたりしながら、人生は自分自身で切りひらいていくものです。なのに、先の事が分かってしまったら、だれかに決められた人生を歩んでいるだけなのだと思いこんでしまったら、努力をしない人間になってしまうかもしれません。もしくは、わざと反発しようとするかもしれません。
     未来など、知らない方がいいのです。
     それでも、わたしがあなたに手紙を書く事にしたのは、あなたの未来は、希望に満ちた、温かいものである事を伝えたかったからです。
     やさしかったお父さんをなくして悲しんでいるのは、あなただけではない。おそう式の日、お母さんはあまりの悲しみにたえ切れなくなってたおれてしまった。あなたはそんなお母さんの代わりに、自分がお父さんを見送るのだというように、必死でなみだをこらえ、親族席に一人ですわっていました。
     お母さんはそれからも、たびたび起きられなくなる事があって、お父さんのしょく場の社長さんご夫さいや同じマンションの人たちは、あなたに、お母さんを元気づけてあげてね、お手伝いしてあげてね、などと言ったけれど、あなたがお母さんをささえようと必死にがんばっている事は、わたしが一番よく知っています。
     夕飯のおべん当を買いに行ったり、ゴミ出しをしたりといった、家の事だけではありません。あがりしょうなのに、お母さんに喜んでもらいたくて、クラスで一人だけ選ばれる六年生を送る会で手紙を読む係に、自分から手をあげて立候ほしたよね。
     あなたにとっては、先週の出来事です。これには、すいせんされるのを待っていた実里ちゃんもおどろいて、いつものようにもんくを言いませんでしたね。
     努力した先の未来には、楽しい事が待っている。これは、お父さんがよく言っていた事。あなたはなみだがこみ上げそうになるごとに、おく歯をギュッとかみしめて、最後までどうどうと読み上げました。一ぱん公開していたものの、そこに、お母さんのすがたはなかったけれど、体育館中にひびいた大きなはく手は、きっと、天国のお父さんのもとにとどいたはずです。
     あなたは、このままお母さんの具合がよくならなかったらどうしようと、心配になっているかもしれません。この間まで、毎ばんふとんの中で泣いて、目を真っ赤にはらして登校していたでしょう? 先生には、大じょう夫、と作り笑いをうかべながら。そして今は、泣いた事がバレると、周囲の大人がお母さんに、もっとしっかりするように、と直せつ言いに行く事をおそれて、だれもいない所でさえ、なみだをがまんするようになってしまった。
     どうか、そんなに悲しまないで。自分を追いつめないで。
     さびしい時は本を読めばいい。心にうかんだ事を書いてみるのもいい。
     お父さんがあなたの名前にこめた思いを知っていますか? あなたがこの先知るであろう事を、ここに書くのはルールい反かもしれない。だけど、わたしは今のあなたにこの事を伝えたい。
     言葉には人をなぐさめる力がある。心を強くする力がある。勇気を与える力がある。いやし、はげまし、愛を伝える事もできる。だけど、口から出た言葉は目に見えない。すぐに消えてしまう。耳のおくに、頭のしんに、焼きつけておきたい言葉でさえも、時がすぎればあいまいなすがたに変わり果ててしまう。
     だからこそ、人は昔から、大切な事は書いて残す。言葉を形あるものにするために。えい遠のものにするために。
     それが「文章」です。
     お父さんは一〇代のころ、小説家になりたかったんだって。家のどこかをさがしてみると、お父さんが書いた小説が見つかるかもしれないね。
     あなたのお母さんの名前、文乃には「文」という字が入っている。だから、お父さんはあなたの名前には「章」という字を用いる事にした。小学校に上がったころ、お父さんに、もっとかっこいい名前がよかった、とだだをこねてこまらせた事があったよね。
    「どうしてこの名前にしたのか、章子がもう少し大人になったら教えてあげるよ」
     お父さんはそんなふうに言っていたよね。その答えが、今書いた事なのです。
     章子の「章」は文章の「章」。そんなあなたに、文字が、言葉が、文章が、そして物語が味方をしてくれないはずがない。
     未来からの手紙であるしょうこ品として、数多くあるドリームグッズの中から、わたしがしおりを選んだ理由も分かったでしょう?
     どんなしょく業についているかは教えられないと書いたけれど、あなたが本を読む事は、文章を書く事は、決して、今のさびしさをまぎらわすための行いだけではなく、あなたを未来のあなた、つまり、わたしにみちびいてくれる大切な役わりを果たすものになるはずです。
     章子、二〇年後のあなたは、むねをはって幸せだと言える人生を歩んでいます。
     悲しみの先には、光差す未来が待っています。それを、あなたに伝えたくて。
     がんばれ、章子! この手紙が、あなたの人生のささやかなエールとなりますように。
     三〇才の章子より

     追しん しおりはだれにも見せないで。あなたとわたしだけのヒミツの品だから。


     あと五分で消灯するというアナウンスが流れた。
     便箋を封筒の中に戻し、指先でプレート状の金属の感触を確かめてから、手紙をリュックに片付けた。もう一度、彼女の手を握り、ゆっくりと目を閉じる……。
     この手紙が届いたのは、小学四年生の終わり、三月末のことだ。
     三学期の終業式を終えて一人、自宅マンションに戻ると、ポストの中に封書が一通入っていた。白い縦長の、どこの文具コーナーにでも置いてあるような、最も特徴がないと言える封筒に、「佐伯章子様」と黒いペンで書かれていた。住所も差出人の名前もなく、切手も貼られていなかった。
     郵便で届いたものではない。ふと、この手紙はママが書いたものではないかと考えた。ママはわたしにこの手紙を残して、家を出ていってしまったのではないか。パパの後を追いかけようとして。まだ肌寒い季節にもかかわらず、脇の下に冷たい汗が流れるのを感じた。
     宛名の筆跡がママのものであるか、すぐには判別がつかなかった。
     わたしの持ち物への名前、学校に提出する書類などは、すべてパパが書いてくれていたからだ。当然、パパの筆跡とは違う。
     パパが死んだ後は、夜、提出物に記入しておいてほしいとママに頼み、ダイニングテーブルの上にプリント等を出しておいても、朝、何かが書き込まれていることはなかった。仕方なく、自分で記入した。文字を少し崩したり、繋げたりしながら、おとなが書いたものに見えるようにして。
     心臓がバクバクと高鳴るのを感じながら、封書におそるおそる手を伸ばした。裏面には何も書かれていない。封筒の口は、子どもの細い指を入れる隙間もないほどに、ビッシリと糊付けされていた。それが、少しママらしくないと感じて、ホッと息をつくと、見られてマズイものではないのに、片手で手紙をパーカーの内側に隠すように持ち、もう片方の手でポケットから鍵を取り出して、家の中に入った。
     ただいま、といつもより大きな声を出してみた。返事はなかった。
     ドアを開けたままのリビングから、積み重ねていたはずの分厚いファッション誌が、雪崩のように崩れて廊下を塞いでいた。それをまたいで歩きながらリビングを覗くと、ママの姿があった。窓辺を向いたお気に入りの籐椅子に座り、どこか遠くを見ていた。
     一瞬でも心配したことがおかしく思えてきた。ママが一人で外に出ていけるはずがない。
     だって、今のママは人形なのだから。
     ものすごく調子のいい時、ものすごく調子が悪い時、ママのコンディションはこの二種類しかない。パパとわたしは、前者を人もしくはオンと呼び、後者を人形もしくはオフと呼んでいた。人の時が二割、人形の時が八割といった具合だった。
     とはいえ、人であるママが活発だったわけではない。ベッドから起きて、簡単な家事をしていたくらいだ。マックスで、お菓子作りだった。パパやわたしと一緒なら、外出もできた。だけど、大概、翌日には人形に戻ってしまう。ベッドから起き上がることができなくなったり、椅子に座ったままぼんやりと一日を過ごしたりするだけの、人形に。
     ママの様子を確認して、食事の支度は後回しにしても大丈夫そうだと、四畳半の自室に向かった。担任の篠宮先生の話が長かったせいで、わたし自身空腹だったけれど、手紙の中身が気になったからだ。
     もしや、篠宮先生がクラスの子たち全員に手紙を書いたのだろうか。そう思ったものの、一年間ほぼ毎日見続けた、篠宮先生が黒板に書く文字は、大きく角ばった、男性っぽいものだった。これは、流れるように整った、女性っぽい文字だ。
     それが、開けてビックリ! まさか未来の自分からの手紙だったとは。
     たとえ、一〇歳の子どもでも簡単に信じられるはずはない。だけど、信じているあいだは、この手紙は本物の未来からの手紙だということを、あのころのわたしは知っていた。だから、その夜から返事を書くことにしたのだ。
     未来の自分に――。


    ※7月18日(水)18時~生放送
  • 【第159回 直木賞 候補作】『傍流の記者』本城雅人

    2018-07-11 13:00
    プロローグ

     二〇二一年某日 東都新聞総務局。
    「これが昨夜、うちの記者が財団の理事長にぶつけたメモだ」
     同期の運動部長が、A4にプリントアウトした取材メモを見せてきた。
    「あっちの部屋に行こう」
     なにかあったら応接室まで連絡してくれと部下の総務部員に伝え、局長席を立つ。
     使っていない応接室の灯りを点け、メモを読む。
     そこには二年前に設立された公益財団法人からの不正な資金流出について、東都新聞の記者と財団の理事長とのやりとりが仔細に書かれていた。
    「この件、他に裏取りは?」
     最後まで目を通してから言った。
    「社会部の島有子が特捜検事に当てた。最初は苦い顔をしていたそうだが、しつこく食い下がったら『邪魔しなければいい』だったと」
    「ということはすでに着手してるということか」
    「ああ、書いたところで捜査は止まらない」運動部長が答える。
    「それなら行くしかないんじゃないか」
     運動部長の表情が強張った。「なんだよ、書くつもりだったから、俺のところに来たんだろ」
    「そうだが、この財団にはうちの副会長も理事として名を連ねてる。設立委員会には会長も関わり、東都新聞全体で必要性を紙面で訴えてきた」
    「会長や副会長が資金を着服してるわけではないんだよな」
    「俺たちの取材ではそんな事実はでてきてない。だけど利益供与の疑いがある者の中には、うちの政治部が親しい政治家が大勢いる。オリンピック後の景気悪化でどこもかしこも資金不足だ。もらえる利権を喉から手が出るほど欲しがってる。首相にたかってきた連中だけじゃない。首相にしたって叩けばなにかしらの埃が出る」
     今の東都新聞は与党寄りだ。紙面に出せば東都新聞は自分の首を絞めることになる。それでも不正を掴んだのであればそれを書くのが新聞の使命である。
    「分かった。すぐに編集局長に直訴して東京、大阪、九州の三本社の編集会議を要求しろ」
    「おまえはどうする」
    「会長、副会長に確認しにいく。紙面にする正当性を訴え、誰にも邪魔させないようにしておくよ」
     そう答えると、同期の顔が少し緩んだ。


    第一話 敗者の行進


     官舎を囲む塀に、晩夏の朝陽が照り付けていた。植島昌志が階段を昇ると、半袖シャツにネクタイを締めた中央新聞の記者が、ハンカチで首の汗を拭きながら降りてきた。
    「あっ、おはようございます」
     十歳ほど年下の記者は、現れたのが東都新聞の「警視庁キャップ」である植島だったことに驚いたようだ。
     植島は「これは?」と親指を立てた。警視庁捜査一課長がまだ家にいたかという意味だ。中央の記者は苦々しい顔で頷いた。いたというだけではない。二〇一五年八月二十六日、今朝の毎朝新聞に載っていた「二十二歳男子大学生を参考人として取り調べ」の記事で当たりだったということだろう。
     ここ三日間、ニュースは豊島区で起きた女子大生の殺害事件で持ち切りだ。被害者はライブハウスに出演している歌手でもあった。大学を卒業する来春にはメジャーデビューも決まっている。ファンも多く、熱心な追っかけや、大手レコード会社に鞍替えしたことで恨みを持つ音楽関係者などが疑われていた。
     踊り場で植島は手に持っていたジャケットを広げ、袖に腕を突っ込む。さらに階段を上がる。別の新聞社の若手記者の肩越しに捜査一課長のエラの張った顔が見えた。
     朝と夜、「各社一分」という条件で、捜査一課長は自宅取材を受ける。それが出来るのは警視庁担当の中の各社三人いる捜査一課担当の一番上、「仕切り」と呼ばれる役目の記者だけだ。植島がキャップを務める東都新聞は野々垣という後輩に「仕切り」をさせているが、この日はあえてキャップである植島が来た。
     植島は取材の声が届かない階段途中で立ち止まった。一対一で取材している場には近づかないのがこの業界の不文律だが、顔の反応や口唇の動きを見るのは勝手だ。記者が一方的に質問をぶつけているだけなのか、一課長の口は動いていなかった。鑑識畑が長く、ハイテク機器の導入で名を馳せたこの一課長は、なにを聞かれようとも壊れたテープレコーダーのように同じ回答しかしない。捜査員時代から記者嫌いとして有名だった。
     一分間の取材が終わった。踵を返した記者は厳しい顔で階段に向かってくる。彼もまた東都新聞のキャップが一課長宅に朝駆けにきたことに驚いていた。植島は彼の顔も見ることもなく、「おはようございます」と捜査一課長の鉄仮面に挨拶する。階段を降りていく足音が消えてから切り出した。
    「どうして警視庁キャップが来る」
     一課長がいっそう仏頂面になった。
    「課長が電話では答えないと言ったから来たんですよ。僕だってキャップにもなって、朝駆けなんてしたくありませんよ」
     皮肉を込めて返した。
     キャップになったからといって朝駆け取材をしないわけではない。ただ捜査一課長が、捜査一課担当記者の最上位「仕切り」の取材しか受けないのと同じように、新聞記者も自分の担当より階級が下の警察官の元には行かない。キャップの植島が直接取材に行くとしたら刑事部長以上、警視総監までだ。捜査一課長が叩き上げ刑事たちの憧れで出世の頂点といえども、今の植島には格下でしかない。
     それでも植島が、警察と記者との暗黙のルールを破って取材に来たのは、この一課長に鑑識課員の時、何度も取材したことがあるからだった。情報を貰った記憶はほとんどないが、植島が探した証言が元となって、犯人逮捕に結びついたこともあった。それにもかかわらず、この一課長は〈いつからそんなに偉くなったんだ。俺は電話では答えん〉と一方的に電話を切ったのだった。
    「今朝の毎朝新聞に出ていた男子大学生の逮捕は事実ですか」
     あえて「逮捕」と言った。すぐさま「逮捕など誰もしとらん」と尖った声が返ってくる。毎朝も「取り調べ」と書いただけで、逮捕とは報じていない。
    「昨夜、うちの仕切りが『二十代男性を事情聴取していますか』と尋ねた時、課長は否定したそうですね」
     朝から燻っている恨みを隠して言う。
    「彼には知らんと言っただけだ」
     確かに「仕切り」の野々垣からは、一課長から知らないと言われましたと報告を受けた。
    「それなのに毎朝新聞の取材には認めたんですよね」
     野々垣の次に取材したのが毎朝の仕切りだったそうだ。
    「あんたの部下の質問では知らんと言うしかない」
     その回答に敗北を感じた。野々垣がぶつけたのは「二十代男性」だけだ。一方毎朝の今朝の紙面を見る限り、「二十二歳の男子大学生」と質問したのだろう。「二十代男性」と「二十二歳の男子大学生」――違いは明白だが、それでも新聞記者が、刑事たち同様に汗水垂らして走り回っているのを知っている警察官であるならば、少しは情けがあってもいい。
    「分かりました。今回はうちの取材不足でした。ですが、次から質問が掠っている時は、もう少し取材しろなどと、他のお答えも用意していただけると助かります。一課長がそう示してくだされば、僕も部下たちに発破をかけ、捜査に支障をきたさないよう正確な取材をさせますんで」
     この偏屈課長との距離が近づけばと無理やり笑みを作る。
     取材相手との関係は、抜かれた時の態度で大きく変わる。ここでしつこく愚痴ると嫌われる。
     各班が張り合って仕事をしている警察官と、ライバル紙に負けたくないという記者のメンタルは共通している。腐らずに頑張っている記者には、次はヒントをやろうという気持ちが警察官にも芽生える。
     植島はそうやってネタ元と親しくなり、これまでいくつものスクープを取ってきた。その結果、社内ではこう呼ばれるようになった。
     警視庁の植島――。
     だが、負けを次の取材への肥やしにするという取材方法の一つも、堅物の一課長には通用しなかった。
    「もういいか。時間だぞ」
     半袖のワイシャツを着た腕を曲げ、一課長は腕時計の文字盤を植島に向けた。
    「分かりました。でもうちはこの件、まだ諦めてませんよ」
    「来るなら仕切りに来させろ。一課長でいる間は、俺は仕切りとしか話さない」
     自分の方が格下だというのに偉そうにそう言った。
     業腹な思いで植島は来た道を戻る。
    「くそったれが」
     階段の踊り場まで降りたところで、無機質な壁に向かって言葉を吐いた。


    〈ということは毎朝の記事で当たりですね。僕が今朝、行った取材先でも似た反応でした。どうやら毎朝が書いた大学生と被害者は、同じ軽音楽部の同級生のようです。事件があった時間帯にアパート近くで目撃された若い男の外見とも一致します〉
     部下の野々垣は〈ではすぐ後追いします〉と続けた。その言い方に植島は苛立ちを覚えた。
     東都新聞の警視庁担当は、キャップの植島の下にサブキャップが一人、その下には捜査一・三課事件を取材する「一課担」が三人、二課と組織犯罪対策部を見る「二課担」が二人、生活安全部、公安部担当が各一人と八人の部下がいる。一課担の一番上、「仕切り」の野々垣は、強行犯事件の取材を文字通り仕切る役割だった。そもそも今朝の確認だって、野々垣がすべき仕事だ。上が確認してきたことを聞いて〈ではすぐ後追いします〉とは、おまえに仕切りとしてのプライドはないのか。
     植島の怒りは野々垣に伝わっていないようだった。
    〈でも今のキャップの話だと、うちも大学生まで掴んでいたら一課長は答えてくれた可能性はあるってことですよね〉
     おい――。今度は声が出そうになった。「二十代」と「二十二歳男子大学生」では全然違う。その怒りも植島は隠した。
    〈まぁ、山田にも問題がありますけどね。二十代まで聞き出してきたんですから、同じ大学の学生じゃないかくらい、当てても良さそうですけどね〉
     山田というのは「三番機」という一課担の一番下を任せている記者だ。「二番機」は菊池で、二人は支局から本社に上がってまだ一、二年目の若手である。山田は大学でラグビー部、菊池はトライアスロンをしていた体育会系だが、ともに人が良すぎて、義強な警察官から答えたくない事実を無理やり聞き出してくるほどの強引さはない。ただし今の植島の不満は若い二人ではなく、野々垣一人に向いている。
     ――山田のせいじゃない。野々垣、おまえがだらしないから、うちはこんな屈辱を受け続けてるんだぞ。
     植島が七月にキャップになって以来、二カ月弱、東都新聞の警視庁担当は大きなニュースを抜いていない。自分が捜査一課担当、そしてその「仕切り」だった頃、あるいは公安記者だった頃は良かった。自分が必死になって働けばネタはいくらでも取れた。植島は捜査一課のどの係にも、それが捜査上大事な質問だろうが最低でも「当たり」か「間違っている」かを答えてくれる捜査員を一人は持っていた。そしてそのうちの何人かは新聞記者の中で植島だけを自宅に上げ、捜査状況などを詳しく教えてくれた。それは植島と親しくすることが捜査にもメリットがあると考えてくれていたからだ。
     新米記者時代の植島は、コメントをもらおうと現場を歩く刑事の後ろに、しつこく付いていた。
     その時、いきなり振り向いた刑事に怒鳴られた。
     ――てめえ、俺たちは犯人逮捕のために命を削って仕事をしてんだ。話を聞きたけりゃただくっついてんでなく、おまえも死ぬ気で取材してからこい。
     それからは、植島も事件が起きれば刑事に負けないほど一軒ずつ聞き込みをやり、目撃証言を取った。未発表の情報を掴むとそれを刑事に当てにいく。彼らが知らない情報もあり、詳しく聞かせろとせがまれたこともある。徐々に刑事たちは植島を認めてくれるようになった。
     今は自分が動くのではなく、部下を動かすキャップに立場が変わった。そのことがもどかしい。まだ支局から上がってきたばかりの山田や、本社勤務二年目の菊池が、各社精鋭ぞろいの警視庁取材で戸惑うのは仕方がないにしても、社会部に五年以上いる野々垣がこれほどニュース勘のない男だとは、思いもしなかった。
     野々垣を叱れば、心の靄はいくらか晴れるのだろうが、口にせずに我慢した。警視庁キャップと一課の仕切りは、監督とエースの関係だ。いくら不甲斐なくてもエースを腐らせてはこの先戦えなくなる。
    「菊池に書かせるのか、それとも山田に書かせるのか、その判断は野々垣に任せる」
     後追い記事なのだから誰が書いても構わない。次の勝負は、大学生に逮捕状が出ることを発表前に報じられるかだ。
    〈僕が書きますよ〉
    「なにもおまえがやらなくてもいいだろうよ」
    〈山田も菊池も会社に上がってるんです〉
    「会社? どうしてだ」
     警視庁担当は記者クラブにいるか取材しているかのどっちかだ。社内の夜勤番も免除され、会社に上がることは滅多にない。
    〈富田部長に呼ばれたみたいです。伝票か精算のことじゃないですかね。二人とも精算が遅い上に、書き間違いが多いと、部長からしょっちゅう文句の電話がかかってきますから〉
     違う――すぐさまそう思った。
     朝駆け取材を終えると、発表や警察幹部からの説明のレクでもない限り、記者は夜討ち取材まで時間を自由に使える。だがきょうは大きなネタを落としたのだ。逮捕状の執行はもちろん、動機はなにか?
    被害者と交際していた事実はあったのか?
    庁内や現場を歩いて調べなくてはならないことは山積している。それなのに社会部長の富田は、抜かれた記者がすべき仕事より違うことを優先したのだ。
     敗者の行進――。
     脳裏に五年前の富田との確執が甦った。


    ※7月18日(水)18時~生放送