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【第152回 直木賞 候補作】 『悟浄出立』万城目学
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【第152回 直木賞 候補作】 『悟浄出立』万城目学

2015-01-07 11:50
     「上り坂ってのは、どうしてこうも神経をすり減らすものなのかね」
     背負った行李を大儀そうに担ぎ直し、八戒はぶうと鼻を鳴らし、白い息を勢いよく宙に吐き出した。
    「あそこが頂上かな、と思って歩を進めると、決まって同じ風景がまた目の前に現れる。今度こそあの木のあたりがてっぺんで、そこから先は下り坂だろう、と見当をつけていたら、いつの間にか木の脇を通り過ぎて、やっぱり続くのは相も変わらぬ上り坂だ。どこまでも、どこまでも坂道?ああ、何だか絶望的な気分になってしまうよ」
     八戒が大きな耳をはためかせ、またもぶうと低い鼻音を鳴らすと、三蔵法師の乗る白馬の先で、悟空が舌打ちとともに振り返った。
    「おい、おしゃべりブタ。いい加減、その開きっぱなしの口を閉じろよ。そうだらだらと文句ばかり聞かされていたら、こっちまで気が滅入ってくるだろうが」
    「仕方ないだろ だいたい、こんな薄ら寒い眺めばかり続いて、愉快な気持ちになれってほうが無茶だよ。ほら、地面に氷まで張りだした。おお寒い、寒い」
    「別にお前は上り坂だから文句を言ってるわけじゃないだろう。下りのときは下りのときで、やれふとももが張るだの、やれつま先が痛いだの、やれ膝を悪くするだの、そりゃあ始終うるさいじゃないか」
     そうだったかなあ、と八戒はそらとぼけたのち、
    「いったいぜんたい、俺は山というものが嫌いなんだな。だって、考えてみなよ。こんなに苦労して上って、また同じぶんを一生懸命になって下るんだぜ。なんて馬鹿馬鹿しい行いだと思わないかい」
     と背中とは別に、もう一つの行李を引っかけた肩のまぐわの位置を正した。
    「じゃあ、今度、お師匠様の前にうんと高い嶺(みね)が現れたときは、さっさと旅をあきらめるのか?」
    「そこまでは言ってないよ、兄き」
    「お師匠様は俺たちみたいに、雲には乗れない。なら、歩くしかないだろう」
    「そのくらい俺にだってわかってるよ。ただ、俺が言いたいのは、そう、何というんだろう?こういう過程が重視される行為というものが、どうにも苦手なんだな。山を上って下る。ただそれだけのことなのに、まるでそこに貴く、頑丈な精神があるかのように、世間はその苦労を讃えるじゃないか。そんなもの俺からしてみたら、どこまでも要らない苦労だよ。肝心かなめなことは、山を下りてから何をするか、ってことだよ。その途中の行為になんか、何の価値もありゃしない」
    「じゃあ八戒、お前は山を下りたら、何をする?」
     垂れ下がった大きな耳と耳との間に、ふさふさと短いたてがみが揺れる後頭部を見つめ、俺は列の最後尾からねた。
    「当たり前じゃないか、悟浄」
     黒い法衣を纏った大ブタは、何をか言わんやとばかりに、勢いよく振り返った。
    「ここで無駄に使った力を取り戻すんだよ。そうだなあ、湯気がもうもうと湧く、椀たっぷりの羹だろ、蒸したてのふかふかの饅頭だろ、こりこりとした焦げが香ばしい焼だろ、だしのたっぷり染みたうどんだろ、それに米を三石ばかりいただくかな。あと、少しでいいから酒を出してくれたら、万々歳だなあ……」
     案の定、八戒は斎の風景を克明に語り出した。語りながら、食欲が止まらなくなったらしく、そのうち前方に突き出した長い口の間からよだれを垂らし、のどをごきゅごきゅ鳴らし始めた。
    「汚いなあ」
     と俺が思わず顔をしかめると、
    「おっと、失敬」
     と八戒は法衣の袖でよだれを拭き取り、「ああ、腹が減った」と力なく前に向き直った。
     八戒の呑気な言葉に、先頭から「阿呆め」と悟空が毒づく声が聞こえてくる。馬上の三蔵法師は八戒の様子を見下ろし、かすかな笑みを浮かべつつ、さらに首を回して俺におねになった。
    「悟浄よ、これから先の天気は如何に?」
     俺は「はい」と答え、空に向かって、舌先を三寸突き出した。流沙河の水底で長い間暮らした俺は、いつの間にか、誰よりも水気を感じやすい身体になっていた。俺は舌をう、凍える空気に漂う水気を確かめ、
    「雪になりそうです」
     とお答えした。
     途端、師父は不安そうな表情に変わって、空を見上げられた。決して寒いと口にはされぬが、馬の蹄が土とともに氷を踏む音が山間に響くほどだ、先ほどから馬上にて寒風をまともに受け、すっかり身体は凍えておられるに違いない。
    「おい、兄き。ただでさえ、こんなに寒いのに、これで雪まで降ってきたらどうするんだい。このまま野宿なんてことになったら、師父が凍え死んじゃうよ」
    「八戒の言うとおりだ、兄き。山の天気は変わりやすい。暗くなる前に今夜の宿の場所を決めてしまおう」
     と俺も悟空に声をかけた。悟空は「このくらいでいちいち店じまいしていたら、いつになったって西天に着けやしねえよ」と不満そうにぶつぶつつぶやいていたが、
    「お師匠様、ご覧の通り、まだ険路は続きます。日が暮れるまでに山を越えることは難しいでしょう。風雪をしのげる洞穴を見つけて、そこに荷物を下ろしましょう。そうしたら、私があたりを探って、人家を見つけ斎を請うて参ります」
     と雲の向こうに薄ぼんやりと浮かぶ太陽を見上げ、三蔵法師に伝えた。
     そのとき、馬上の師父が急に、
    「おや悟空、あれに見える建物は何ぞ」
     と甲高い声を上げた。師父の指差す方に顔を向けると、鮮やかな朱に彩られた楼閣が薄らと霧に包まれ、山間の窪地にそびえているのが見えた。
    「わあ、立派な建物じゃないか。ありゃあ、きっと金持ちの邸宅に違いない。兄き、さっそくあそこに行って、今宵の斎と宿をお願いしよう。見るからに、景気よく振る舞ってくれそうじゃないか」
     と早くも八戒ははしゃいで肩のまぐわを振りかざし、ぶうぶうと騒いだ。
     悟空は白馬の手綱を引きながら、じっと目を細め、建物の様子をうかがっている。
     その横顔を見つめながら、俺は「ああ、これはいつもの展開がやってくるぞ」と早くもこれから始まる出来事の末を予感した。
    「お師匠さま」
     額からの脇へと連なる短い茶色の毛並みを細かく風に震わせ、悟空は静かに告げた。
    「あそこにいるのは、妖怪ですよ」
    「なあ、八戒」
    「何だい、悟浄?」
    「どうしてお前は、こうも毎度、同じ間違いをするんだ?」
    「俺だって、別に好きでこんな目に遭っているわけじゃないよ。俺なりに、最善を尽くしての結果さ。だいたい、俺ばかりに非を押しつけるのはどうなんだい 師父だって、俺の提案にすぐ乗ったし、お前だって、何が何でもといった態度で止めようとはしなかったじゃないか」
     それを言われると、俺もつらい。俺が言葉に詰まるのを誤魔化すように、もぞもぞと身体を動かすと、八戒も釣られて身体を揺らし始めた。ほどなく「痛ててて」とうめき声が天井に反射して、広い洞内に響き渡った。
    「俺はお前さんや師父より、よっぽど目方があるから、さっきから苦しくって仕方がないや」
    「だから、俺が肥えすぎだといつも注意しているんだ」
    「こんなところで効いてくるとわかっていたら、俺だってもう少し真面目にせようと努力したよ。ああ、痛い痛い」
     俺はため息をついて、身体から力を抜いた。その拍子に、後ろ手に縛られた部分が、きりきりと軋んだ音を立てた。
     広い洞内にて、俺は縄目に掛けられ、ずいぶん高い位置に天井から吊り下げられている。俺の隣には八戒の黒い大きな影がぶら下がっている。さらにその向こうには、師父の華奢な身体が、地面に置かれた灯明の光りを受け、心細げに揺れている。
     何もかも、俺が予想した通りの結末だった。斎を探しにいった悟空の留守中、我々三人は呆気なく妖魔の手に落ち、斯くの如く無様な囚われの身と相成ったのである。
     いったい、この失敗を我々はどれほど繰り返してきたことだろう。悟空が妖魔の存在を、その鋭敏な感覚から素早く嗅ぎ取り、いかに注意を促しても、我々は決まって妖魔の奸計に陥ってしまう。若しくは自ら墓穴を掘り、まんまと魔窟奥深くに虜となる羽目になる。
     今回に限っては特にひどい。彼方にそびえる楼閣に危険を察知した悟空は、斎を求めに行く前に、耳の穴から金箍棒を取り出し、背丈ほどの長さに引き伸ばすと、我々のまわりにぐるりと円を描いた。これでいかなる妖魔猛獣も近づくことができぬ、と結界まで築き、
    「決してこの円から外に、お出になりませぬよう」
     と険しい眼差しを霧に浮かぶ楼閣へ送りながら、師父に念を押した。「承知した」と師父がうなずくのを見届けてようやく、悟空は斗雲を呼ぶと、勢いよく飛び乗り托鉢へと向かったのである。
     雲に乗った悟空があっという間に見えなくなるのを見送ってから、俺は馬から師父と荷物を下ろした。少しずつ頭上の雲がぶ厚くなってくるのを確かめながら、我々は中央の師父を囲むようにして、悟空の描いた円の内側で彼の帰りを待った。
     俺はいったん鞍を外した馬の身体を木べらで撫でつけ、汗をこそぎ落としながら、ちらちらと八戒の様子をうかがった。八戒は胡座を組んで、師父の前で大きな身体をちぢこませている。その様子がいかにも芝居じみていて、俺は口元に笑みが浮かぶのを抑えるのにずいぶん苦労した。案の定、大人しくしていたのはごく初めのうちだけで、俺が鞍を馬の背に戻した頃には、八戒はそわそわと大きな耳を顔の横ではためかせ、地面に引かれた結界線に胡散臭げな視線を送り始めていた。
     八戒とは真の楽天家だと、つくづく思う。天性の楽天家は、その言葉に真心が宿る。言い訳ではないが、
    「大丈夫だよ。そもそも、兄きは心配性なんだ。だって、あれほどきれいな五色に彩られた建物が、妖魔のすみかなんてことがあるものかい。心のねじれた妖魔なら、もっとみすぼらしい、すさんだ建物を作り上げるはずさ。そうじゃありませんか、お師匠様 あんな歩いてすぐの場所に、立派な建物が我々を待っているのに、こんな寒風吹き荒ぶ場所で、じっとしている法はありません。だいたい、あの怠けザル、どこで油を売って遊んでいるか、わかったものじゃありませんぞ。それにこんな地面に円を描いただけで、魔除けになるなんて聞いたこともない。きっと我々に勝手なことをされたら面倒だと、あの弼馬温めが咄嗟に考え出した勝手なはったりですよ、これは」
     といつもの軽快な調子で八戒が語りだすと、なるほどそうかもしれない、とつい思ってしまう。
     結局、八戒の言に惑わされた三蔵法師は、悟空の築いた結界を出て、楼閣を目指すことになる。もちろん、楼閣は妖魔が生みだしたまぼろしであり、その門前にのこのこと赴いた我々は、いとも容易く相手の術中にはまり、人馬もろとも洞内に引っ立てられたのである。
     地面に一つだけ据えられた、洞内を照らす灯台の明かりが、先ほどから頼りなく揺らめいている。為す術なく、こうして天井より吊り下げられながら、俺はこの展開を悟空が楼閣を見つけたときから予見していたことを改めて思い返す。きっと今ごろ、托鉢から帰ってきた悟空は、結界から師父と不甲斐ない弟弟子たちが消えていること、山間の楼閣がその役目を終え、枯れ果てた雑木林に変わっていることを発見し、ことの末を即座に了解したことだろう。「お師匠様ァ、お師匠様ァ」と鮮やかな赭顔をさらに赤らめ、雲上から必死になって声を張り上げていることだろう。
     ああ、いったい、俺はどこまで観察者であり続けるのか。世間には「だから、自分はこうなると思っていたのだ」と事後になって、賢しらにその思考の履歴を披露する者がいる。たとえそれがどれほど無意味な、単に周囲を苛立たせ、かつ自己すらも満足させられない行為であったとしても、その発言はその者が思考していた事実を周囲に伝えることができる。だが、俺はそれすらもしない。八戒が悟空の言いつけを破り、自ら危地に飛びこむだろう、ととっくの昔に承知していたにもかかわらず、俺は何も行動せず、何も発言せず、今もこうして黙って宙に浮くのみである。最悪の場合、このまま妖魔に取って食われる、などという展開すら待ち受けているやもしれぬのに、俺の心はどこまでも醒めきっている。まったく――俺はいつからこうも力なき傍観者となり果てたのか。
     そのとき、不意に洞内の明かりが消えた。灯心を浸した火皿の油が切れたのだろう。あたりは一瞬にして深い闇に包まれた。と思ったら、視界の上のあたりに淡い光を感じた。灯明の残像がちらついているのかと思ったが、そうではない。俺は無理して顔をねじ曲げ、天井を見上げた。俺は思わず「ほう」と声を上げた。なぜなら、我々の頭上に、いつの間にか、満天の星が広がっていたからである。
    「八戒――見えるか」
     俺は闇に浮かぶ大きな影に呼びかけた。
    「ああ、見える。大したもんだね。夜光石だよ、これは」
     いかにも感心したといった様子の言葉のあとに、ぶうふうという興奮の鼻息が続いた。師父の声は聞こえない。ひょっとしたら、心のなかで座禅を組み、すでに意識を遠ざけておられるのかもしれない。
    「きっと、岩盤に夜光石がたくさんむき出しになっていたんだ。ああ、あの光が連なっているあたりなんか、まるで天の川みたいじゃないか」
     その言葉を聞いたとき、俺はふと、八戒について、これまで確かめよう確かめようと思いつつ、なぜか聞きそびれていたあることを思い起こした。俺は天井から首を戻した。
    「おい――天元帥」
     しばらく間が空いてから、何だい、という声が返ってきた。それがどうもいつもの調子と違うので、俺が思わず「どうした」とねると、
    「なぜだか、たった今、その名前で呼びかけられるような予感がしていたんだ」
     と八戒は静かな声で答えた。
     俺はもう一度首をもたげた。
     まるでそこに本物の天の川が横たわっているかのように、蒼白い光が八戒のかつてのふるさとを、音もなく描き出していた。
     あれはいつのことだったろう。
     確か、宝象国で黄袍怪を相手に戦ったときのことだったろうか。そうだ、珍しく妖魔に囚われることなく、俺と八戒が、悟空とともに黄袍怪を退治したあとの出来事だ。
     俺の周囲には、自分たちの仲間が、地上に降りて妖魔と成り下がったことの始末をつけるため、天界から大挙して助太刀に訪れた二十七宿の星官の姿があった。無事決着を迎え、星官らが天上への帰り支度を進めているとき、彼らのうちの一人が急に俺の隣でつぶやいたのである。
    「おや?ひょっとしてあれは天元帥ではないか」


    ※冒頭部分を抜粋。続きは以下書籍にてご覧ください。


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