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  • 【第162回 直木賞 候補作】小川哲「噓と正典」

    2020-01-10 16:42
    『嘘と正典』より「魔術師」


    「私の師匠であるマックス・ウォルトンは、ロサンジェルスの小さなパブではじめて会ったときにこう言いました。『マジシャンにはやってはいけないことが三つある。お前は知っているか?』と──」
     観客席を映していたカメラがステージを向く。照明が少しずつ明るくなり、暗闇がぼんやりと白く光る。ステージの中央には、タキシードを着てシルクハットをかぶった竹村理道が立っている。年齢の割には老けているように見えるが、それでもまだ十分に男前だ。自分に注目が集まったとわかると、彼は不敵に微笑んで観客席を眺めまわした。この視線だ。いつもこの視線に心臓が高鳴ってしまう。彼の視線は何かの電波を発するみたいに、人々の頭を麻痺させる。それは最大の武器だった。その武器のおかげで彼は日本マジック界の頂点に立った。そしてそれだけでなく、幾人もの女性を惑わせて数億円もの金を借り、最終的に自らの人生を破壊してしまった。
    「──私は正直に『わかりません』と答えました。なぜなら、当時の私は『やってはいけないこと』など存在してはならないと思っていたからです。『やってはいけないこと』を決めてしまうことが、むしろマジックの可能性を狭めているのではないか。ステージの上ではあらゆる現象が起こり得るのではないか、と」
     タイミングはバッチリだ。理道が指を鳴らした瞬間、ステージ全体が明るくなり、彼の後ろに黒く巨大な装置が置いてあったことがわかる。装置の中央には筒状のガラスがついていて、その上下から複雑に伸びた配線が横の機械に接続されている。機械の上には大きなモニターが吊るされていた。
     一九九六年六月五日十九時十二分。
     モニターの下部には意味ありげな赤い文字で、時刻がただ映しだされているだけ。
     十二分が十三分に変わる。
    「マックス・ウォルトンは一つ目に、『マジックを演じる前に、説明してはいけない』と言いました。どういう意味でしょうか? そうですね、私は今から鳩を出します」
     理道はかぶっていたシルクハットを取り、そこから次々に五羽の白い鳩を出していった。それはマジックではなく、芋掘りのようだった。理道は出した鳩を淡々とステージの暗闇に放っていく。観客たちはどういう反応をすればいいのかわからず静まり返ったままだ。静寂の中に、誰かが咳きこむ音が虚しく響く。
    「わかりましたか? 鳩を出します、と宣言してから鳩を出しても、誰も驚きません」
     ステージの袖から大きな羽根で覆われた、派手な衣装を着たアシスタントの女性が歩いてきて、ゆっくりとした手つきで理道が出した鳩を回収した。女性は捕まえた鳩を一羽ずつ羽根の間にしまっていった。最後の鳩が見えなくなると、理道は小さく会釈をして、観客席を眺めまわして微笑んだ。
     何かが起こる。そんな空気が漂う。
     理道は背中から宝石で装飾された杖を出し、アシスタントに向かって杖を持った右手を伸ばした。
     その瞬間、アシスタントの女性が消えた。
     観客席から驚きの声が漏れる。
    「このように、何も言わずに突然何かの現象を起こすことで人々は驚くのです。マックス・ウォルトンは正しかった」
     すぐに大きな拍手が生まれた。
     二十二年前の僕も、最前列で拍手に加わっていたはずだ。僕はまだ十歳だった。隣に座っていた年の離れた姉は拍手に加わらず、僕の耳元で小さく「マスコット・モスね」とつぶやいた。「こんなことで拍手なんてしなくていいのに」
     今、僕は自宅のリビングで理道の最終公演の映像を見ている。それはつまり、コマ送りにすれば、彼がどのようにして女性を消したのか一目瞭然だということだ。三十二歳になった僕は「マスコット・モス」の意味も知っているし、理道がアシスタントを消した手段もわかっている。仕組みは思いのほか複雑だ。アシスタントが鳩を回収している間に、彼女の衣装を針金とチューブで支える。すべての鳩を回収し終えると、理道が派手な杖を出す。そのとき、実は彼女は鳩と一緒にこっそりステージ下へ消えていて、理道の前には衣装だけが残っているのだが、大げさな衣装のせいで観客席からはわかりづらくなっている。理道が抜け殻になった衣装に杖で魔法をかける。衣装が小さな隙間から一瞬にしてステージ下に引きこまれ、アシスタントが消えたように見える。
    「消える美女(マスコット・モス)」の完成だ。
    「マジシャンがやってはいけないことの二つ目は、『同じマジックを繰り返してはいけない』で、三つ目は『タネ明かしをしてはいけない』です」
     理道は胸元から出したシルクのハンカチを斜め上に放り投げた。ハンカチは遠くへ飛んでいき、天井の近くで舞台袖に入ると鳥のように会場中を飛びまわりはじめ、最後に理道の手元に戻った。静寂ののち、観客席から驚きの声と拍手が聞こえた。
     ハンカチが鳥に変わったからではない。理道がいつの間にかグレーの作業服姿になっていたからだ。
     拍手が止んでから、理道は再び別のハンカチを取りだし、先ほどと同じように投げた。しかしハンカチの行き先を見る者は誰もいなかった。理道の後ろにかがんで現れたアシスタントが彼の背中を強く引くと、作業服の下から先ほどまでと同じタキシードが現れた。アシスタントはそのまま幕の後ろへ戻り、理道の手にハンカチが戻ってくる。観客席から大きなため息が漏れた。
    「これで、マックス・ウォルトンの正しさがわかりましたか?」
     観客席から笑い声が聞こえる。
    「『繰り返さない』と『明かさない』です。この二つは似ています。マジックとは基本的に、仕掛けを知ってしまえばつまらないものばかりです。同じマジックを繰り返せば、タネを見破られる危険性が高まります。ましてや自分からタネ明かしを行うなど、もってのほかです──以上が『マジシャンがやってはいけない三つのこと』です。これはマックス・ウォルトンが考えついたものではなく、ハワード・サーストンという偉大なマジシャンの言葉として、一般的に『サーストンの三原則』と呼ばれています。この三原則をはじめて聞いたとき、駆け出しマジシャンだった私は、こんなものはマジシャンの理想を制限する無駄な掟だと感じました。先ほども述べましたが、マジックにはすべてが可能だと信じていたんです。何かを消すことも、何かを出すことも。みなさんの願望を叶えることも、大きな傷跡を癒すことも。『やってはいけないこと』を打ち破るのもまた、マジックでしょう。ですが、それからしばらくして、プロのマジシャンになった私は、『サーストンの三原則』の正しさを理解しました。それは間違いなく、セオリーとして従うべき掟でした。その正しさは、今みなさんにお見せした通りです。『説明しない』『繰り返さない』『明かさない』の三つは、私だけでなく、すべてのマジシャンが守るべき掟とされています。そして、この禁忌を破ったステージは失敗する運命にあるのです」
     マジックは演出がすべてなの──理道と同じようにプロのマジシャンになった姉は、僕が文化祭で披露したステージを見てそう言った。
     当時高校生だった僕は、文化祭の奇術ステージで電磁石コイルを使うことに決めた。僕は「今から浮きます」と宣言し、ステージ下に隠しておいた磁石の力で少しだけ宙に浮いた。それなりに反応はよかったが、後ろで見ていた姉は眉間に皺を寄せていた。
     家に帰ると、姉はありきたりな「電磁石」というタネを、素晴らしい演出で傑作に変えた伝説のマジシャン、ロベール・ウーダンの話を始めた。アルジェリアの呪術師と魔術勝負をすることになったウーダンは、マジックに電磁石を使うことに決めたが、彼は電磁石の力を逆に使ったのだ。彼は金属の仕込まれた小さな箱を軽々と持ち上げてから、力の強そうな部族民の男をステージに呼んだ。ウーダンは男に向かって「力を奪う魔法をかけます」と杖を振った。男は箱を持ち上げようとしたが、電磁石の力でびくともしない。小さな箱を持ち上げようとしてバランスを崩した男を見て、部族民たちに笑いが広がった。マジシャンが呪術師に勝利した瞬間だった。
     マジックは演出がすべてだ。
     今の僕はそれをよく知っている。もちろん技術や仕掛けも大事だが、それが活きるかどうかは演出にかかっている。上手に演出すれば市販のマジック品でも人々は驚くし、演出が下手だとどれだけ高度な技術があってもショーは台無しになる。「今から浮きます」と言って浮かすだけだった僕の舞台を、プロの姉がどういう風に見ていたのか、今だったらわかる。僕は、自分を浮かすために必要な演出をしなければならなかった。
    「ですが、ここ最近、私は再び考え方を変えました」
     理道が険しい顔をする。「何年もステージをしているうちに、まだ若造だったころの自分の声が、心の底から湧き上がってきたのです。やはり、マジックではすべてが可能なのではないか。ステージで奇跡を起こすことができるのではないか。大昔、まだ何も知らなかったころの私が正しくて、なまじ知識を得た私は間違っていたのではないか。さあ、紳士淑女のみなさま。今宵、私はサーストンの禁忌に挑戦します──」
     丁寧に「サーストンの三原則」の意味と価値を説明してから、理道はそう宣言した。
    「──つまり、説明し、繰り返し、タネ明かしをします。なぜならその行為が、私のマジックを成立させるために必要な手順だからです。しかもその上で、みなさまに、歴史上実演された、すべてのマジックを上回る驚きを与えると宣言します。私はマジックに挑戦します。そして私は、何も持たずアメリカへ渡ったころの過去の自分に挑戦します」

  • 【第162回 直木賞 候補作】誉田哲也「背中の蜘蛛」

    2020-01-10 15:23


    第一部 裏切りの日


     日常になんの変化も感じないといえば、嘘(うそ)になる。
     だが、日々起こる事件の一つひとつに驚きを覚えるほど、もう若くはない。
     本宮夏生(もとみやなつお)は眼鏡を外し、鼻根の両側にできているであろう、楕円形(だえんけい)の痕(あと)を揉んだ。ぬめりがある。皮脂だ。同じものが、眼鏡の側にも付着しているはずである。双方を半日使ったハンカチで拭(ふ)く。レンズは拭かない。見たところ、そこまで汚れてはいない。
     眼鏡を掛け直し、刑事(デカ)部屋をそれとなく見回す。既視感といえば大袈裟(おおげさ)だが、特に代わり映えのしない眺めだ。
     壁掛けの時計は十五時二十四分。机に着いているのは課員の半数以下、三十人程度。
     少し離れた席で、二十代のデカ長(巡査部長刑事)が頭を掻(か)き毟(むし)りながら調書をまとめている。自分が若い頃は全部手書だった。今はみんなパソコンだ。字の上手い下手で仕事の出来不出来を言われることはなくなった。だが文章の上手い下手は今もある。警察業務の大半は書類仕事だ。
     木村(きむら)デカ長。あいつは地域課の平和通交番から上がってきたばかりだから、まだ「事件を書く」ということができない。この先は分からない。上手くなるかもしれないし、下手なままかもしれない。だが今みたいに、担当係長や統括係長に指摘されて、その個所だけ手直しているうちは駄目だ。使えない。決して難しい要求をしているのではない。要は「文脈」だ。事件を文脈で捉えることが肝要なのだ。脈が乱れたら、読む方は引っ掛かる。疑問を持つ。そんな書類、検事は喰(く)わない。突き返してくる。刑事の仕事は、最終的には検事に書類を喰わせること。そこにたどり着くまでが捜査だ。
     右手を挙げる。
    「……星野(ほしの)、ちょっと」
     強行班(強行犯捜査係)担当係長の星野警部補を呼ぶ。はい、と応じた星野の眉間に浅く皺(しわ)が寄るのを見た。小言を言われるのが嫌か。ならば、それなりの仕事をしろと言いたい。
    「はい、課長。何か」
     星野が昨日作成した弁解録取書、今日作成した供述調書。どの個所というのではないが、机に広げたそれに指を落とす。
    「この学生、採尿はしなかったのか」
     星野の口が「は」の形になる。
     もう一度訊く。
    「したのか、してないのか」
    「して……ないです」
    「なぜしなかった」
     意地の悪い訊き方なのは自覚している。気づかなかったから採尿しなかった。それ以外に理由はあるまい。
    「お前……これがただの、学生同士の喧嘩だとでも思ったのか」
     返事はない。星野は決して馬鹿ではないから、本宮の言いたいことはもう分かっているはずだ。分かっているからこそ、返事ができない。反論できない。
    「あの顔、目の動き、口の動き、肌艶と発汗。三分見てれば分かるだろう。俺は調室に入るのを一瞬見ただけだが、分かったぞ。分かるぞ普通。シャブ食ってるだろ、あいつ。今頃、キンタマ握り締めてションベン絞り出してるぞ」
    「すんませんッ」
     星野は回れ右をし、刑事部屋から飛び出していった。
     留置場にいって、係員に頭を下げてマル被(被疑者)をもう一度出してもらって任意で採尿。応じなければ令状を取って強制採尿。陽性反応が出たら覚せい剤使用で再逮捕。取調べをして、入手ルートの把握が困難なら組対(そたい)(組織犯罪対策課)に協力を要請するか丸投げするか。それは、そうなってから考えればいい。
     星野の件は措(お)いておいて、別の調書を読む。
     刑事課長のデスクは常に書類の山だ。ここ、池袋署刑事課には強行犯捜査係、知能犯捜査係、盗犯捜査係、鑑識係の四つがある。人員は七十八名。うち課長代理は四名。四人もいれば課長業務のかなりの部分を肩代わりしてくれそうなものだが、本来そのための課長代理なのだが、本宮にはそれができない。決裁済みの書類にも目を通してしまう。そして、今のような粗を見つけてしまう。
     課長代理も統括係長も飛ばして、下の者に直接指示するのを快く思わない者もいる。承知の上だ。ならば、中途半端な決裁はするなと言いたい。目を通すだけ時間の無駄。そういう書類作りをすればいい。
     些末(さまつ)な誤りだが、また見つけてしまった。一応指摘しておこう。
    「岡村(おかむら)代理、ちょっと」
     主に盗犯係を監督する岡村課長代理を呼ぶ。岡村とは本部の捜査一課で一緒だったこともあり、気心は知れている。
    「……はい、なんでしょ。また何か、やってましたか」
     良くも悪くも、他の課員ほど恐縮することもない。
     岡村は部下たちに「課長の小言は天気予報」と言っているらしい。それを聞いた本宮が「どういう意味だ」と訊くと、「必ず毎日耳にする、でも三十パーセントまでは気にする必要はない」と説明された。本宮が「それじゃ降水確率だろう」と指摘すると、「課長、こういうのは語呂、リズムなんですよ。いわば『文脈』です」と返してきた。岡村とはそういう男だ。
    「あのな……オヤジ(署長)の漢字には気をつけろと、再三言ってるだろう」
    「あ、やってましたか。誰ですか」
     捜査報告書というのは基本的に、捜査員が所属長に向けて作るものだ。今も頭を掻き毟っている木村デカ長を例にとれば、司法警察員巡査部長、木村敬太(けいた)が、池袋警察署長、司法警察員警視正、渡邊三朗(わたなべさぶろう)に宛てて書くものだ。よって署長の名前が「渡辺三朗」であったり、「渡邉三朗」「渡部三朗」「渡邊三郎」であったりしてはならない。
    「千田(ちだ)チョウ(巡査部長)だよ。もうオヤジも着任一ヶ月なんだからさ。テンプレートの上のところを直すなり、単語登録するなりすれば済むことだろう」
    「はい。厳重に、注意しておきます」
    「こういうの、マル被の名前でやらかしたら問題だろ」
    「はい。厳重に、注意しておきます」
    「……という降水確率は、何パーセントだ」
    「三十パーセント以下ですね」
    「コノヤロウ」
     岡村は「失礼します」と苦笑いしながら調書を引き取っていった。
     次の調書を読む。

  • 第162回芥川賞・直木賞の候補作を無料で試し読み!

    2020-01-10 15:16
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    第162回芥川龍之介賞候補作品(令和元年下半期 作者名五十音順)
    木村友祐「幼な子の聖戦」(すばる十一月号)
    髙尾長良「音に聞く」(文學界九月号)
    千葉雅也「デッドライン」(新潮九月号)
    乗代雄介「最高の任務」(群像十二月号)
    古川真人「背高泡立草」(すばる十月号)

    第162回直木三十五賞候補作品(令和元年下半期 作者名五十音順)
    小川哲「噓と正典」(早川書房)
    川越宗一「熱源」(文藝春秋)
    呉勝浩「スワン」(KADOKAWA)
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    湊かなえ「落日」(角川春樹事務所)

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    2020/01/15(水) 17:00開始
    https://live2.nicovideo.jp/watch/lv323343794

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