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  • 【第10話】岩手県陸前高田市/緊急時には、ルールはルールじゃなくていい

    2012-12-05 23:40
    陸前高田で自動車学校を営む田村さんは、学校が高台にあったために難を逃れた。しかし、地震と津波の後、東京や北海道から合宿で免許を取得しようとしていた生徒約100名が残された。全国からの支援によって全員無事に返す事ができた田村さんが、今後や復興の在り方などについて語った。

    取材者:島田健弘

    取材日:2012年4月5日


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    田村滿さん


    ■生徒全員を必ず無事で送り届ける

     市内のほぼ全域が津波に飲み込まれた岩手県陸前高田市。本庁舎、消防本部も被災した同市で、高台にあって津波被害を免れた自動車学校がある。高田自動車学校だ。社長の田村滿(65歳)さんは震災当時のことをこう語る。

    「3月は繁忙期で、震災当時、百数十名の生徒がいました。14時46分は僕も教習していました。助手席にいて、急に車が大きく揺れて、運転席の生徒がブレーキを踏んで、車を降りたんです。それからみんなの安否を確認すると、路上教習に出ている車が7台あった。講習が終わるのが15時で、彼らもちょうど引き上げていた時だったので、全車無事でした。しかしながら点呼をとったら合宿生の5〜6人がいない。これは大変だと社員と手分けして自転車で探しいきました。すると彼らも坂を上がってきていたので助かった。全員が無事でした」

     高台にある高田自動車学校からは、コースの端から気仙川が見える。気仙川は津波によって逆流していた。

    「ものすごい勢いで逆流していて、海岸に防風林として植えてあった松もガンガン流れてくるんです。これはもう大変なことだと。生徒のケアをしているうちに地元の皆さんも避難してきたので、みんなを校舎に案内しました。40人くらいだったと思います。ただ、地震で校舎2階の天井が落ちていて危ないので、1階のロビーや教室で過ごしてもらいました」

     幸運にも繁忙期だったので、学校には大量の料理の用意があった。ガスも電気も通らなくなっていたが、2台ある大型タンクには灯油が補充されてあり、教習車用のガソリンも満タン。水は、沢から汲むことができた。高田自動車学校では子会社で満福農園を営んでいたため、農園の水槽に水をいれてフォークリフトでトイレの近くに運んで用を立すこともできた。寮の毛布や布団をロビーにかき集め、暖を取った。

    「まず考えたのは生徒をどう帰そうかということでした。かろうじてラジオが聴ける状態でしたが、12日になっても新幹線はとまっていることがわかりました。もちろん道路もガレキに寸断されているので車も走れないわけです。生徒を帰さなければならないけど、アイデアが出てこない。12日に道路は駄目だけど、山道はなんとか通れそうだという情報をえて、山道に行ったら大きい車は難しいかもしれないけど、普通の車だったらなんとか通れそうだということがわかりました。13日になってまず県内の生徒は全部社員で手分けして自宅まで送ろうということになりました」

     残ったのは首都圏から来た約100名の生徒と8名の北海道の生徒だった。

    「交通手段がない、燃料がない、高速道路が使えない、仙台も通行できない、福島も通れない。そういう状況の中で13日に県内の生徒たちを返してからずっと寝ないで考えました。それで考えぬいて北上市のバス会社に連絡して大型バスを3台借りて送ってもらおうということになりました。けど、バスは陸前高田まで入ってこれないから、平泉まで教習所のマイクロバス5台で送っていくことなりました」

     最後に残ったのは北海道の生徒だった。

    「彼らは秋田空港から帰すことができました。16日のチケットがとれて、その便で送り届けました」


    ■支援の拠点に

     生徒をすべて無事に送り届けることができたころには、ロビーに避難していた住民もそれぞれ帰っていった。

    「我われのことを考えはじめたのが15日です、ようやく我われはどうしたらいいかを考えはじめころに、私も席を置く中小企業家同友会の仲間が物資をガンガン運んでくれると連絡をくれたんです」

     中小企業家同友会は中小企業家による任意団体で、全国都道府県にあり、4万1000企業経営者が加盟している。

    「当初はその支援物資を市役所にもっていこうと思ったんです。ところが役所の職員は67名が亡くなって、目の前のことをクリアするのに手一杯で物資の手配まで動きようがない。預けるといっても『勘弁してくれ』という状態でした。それで我われが物資の配給をするようになりました。物資が届きだしたのは19日ごろでした。それから陸前高田の南の気仙沼の唐桑地区から北の釜石あたりまでの200ヵ所以上の避難所を、わが社だけじゃなくて同友会の仲間の社員みんなでしらみつぶしに調べて、物資が行ってないところに届けることにしたんです。物資が届いてない避難所は40ヵ所くらいで、自衛隊からの支援物資も届いてないところもありました。避難所に指定されていない避難所もあったんですね。全国から届いた物資を仕分けて、みんなで配ってという作業を1日中していましたね」

     同じ時期に警察や自衛隊の車輌がやってきて、高田自動車学校を捜索や復旧の拠点に使わせてもらいたいと相談してきた。田村さんは二つ返事で了承した。それから毎日200人以上が詰めかけたていたという。

    「道路に関しては自衛隊さまさまですよね。最初、我われの社員が道路が寸断されているのをガレキの撤去しようとしたんですが、プロパンガスのボンベがいたるところにあるわけです。それを乗り越えていくのは勇気がいるんですよ。恐る恐るやってたんですけど、それを見ていた消防隊員たちが、『民間の人たちにやらせるわけにはいかない。我われにやらせてくれ』と言ってきたので貸しました。
     自衛隊の人たちはガレキを撤去して道路を作ってくれますが、自衛隊にはそれ以外にもいろんな任務があります。ですからすべての道路のガレキを撤去すこともできませんし、道路も全部きれいにするわけにはいかない。なんとか1台分通れるくらいやってもらうという感じでしたが、それでも1台通れる道ができただけでも嬉しかったですね。
     自衛隊というのはすごいと思いました。がけ崩れが起きて孤立している避難所があったんですが、そこの隣に河川敷があって、河川敷に道を作ってしまった。本当に助かりました」


    ■新しい街づくりを阻む行政の壁

     高田自動車学校は震災から1ヵ月10日後の4月21日に再開した。また、田村さんは9月には、復興まちづくり会社として「なつかしい未来創造株式会社」を設立。民間の力を活用して新たな陸前高田市を作っていこうとしている。そして復興には道路の整備からはじめるべきだったと言う。

    「関東大震災の時に東京市市長だった岩手県出身の後藤俊平は、復興事業として昭和通りを作りました。最初は道幅を108メートルとするとして『そんなに広くしてどうするんだ。ほかにもやることがある』と批判されましたが、実行し、それがいまの昭和通りになったんです。だから道路は絶対に必要です。
     だから、僕は市長とか市の役人にも『なんで道路を先に作らないのか』と何度も言いました。道路を最初に作ってちゃんと区画整理して、それから街を作っていくほうがいいんじゃないかと。でも彼らは前の道路をそのまま使おうとするんです。新しい街を作るという感覚じゃないと。そのためには道路をまず先に整備する。だからまず道路ありきなんです。
     震災の時も、被災した国道に代わって避難や支援の幹線となったのは農免農道でした。そしてそこしか車が通れる道がないので、いまはそこ仮設住宅を建てたりしているわけです。2011年5月には戸羽太市長にまず農免農道を整備する必要がある。そこが復興のメインストリームになるはずなので、仮設住宅や建物を建てないようにしてほしいと言ったんです。まず規制してそこから徐々に街を作っていく感じにしていかないといけないと。そして農免農道に直角に交わる海から逃げられるような道路をいっぱい作っていくべきだと。
     ところが、それをやると私有地がいっぱいあるため、規制するのはなかなか難しいと言うわけです。本来はそういう難しい権利や主張を整理していくのが行政のはずなのに、やらないわけです。結果的には駄目でしたね」

     復興を考える時に行き当たるの行政の壁だ。行政は法律通りにしか動かない。しかし平常時と非常時では常識も違う。復興期においても同じことがいえるだろう。田村さんはルールを守りすぎることで間違うこともあると言う。

    「自動車学校の教え方も悪いかもしれないけど、今回、津波が迫っているにもかかわらず、右側を走らないで亡くなっている人たちがいっぱいいました。緊急時にはルールはルールじゃなくていい、という教え方もしていかないといけないと思いました」

     形骸化したルールでもいまだに守られている。

    「信じられないのは、今年の2月に大船渡で踏切を一時停止しないから捕まった人がいるんです。踏切は被災してて絶対に電車が通らないところです。それなのに踏切で止まらないからと切符を切られた。ルールとはなんのためにあるのでしょうか」

     陸前高田市は津波によって市内のほとんどが被災した。極論すればゼロからのスタートを考えていかなければいけない。陸前高田市の復興計画には「世界に誇れる美しいまちの創造」とある。

    「復興計画は防潮堤を作り、土地を嵩上げすると。本来なら、『世界に誇れるまちとは、こういう町です』と雛形を作ってしめさないといけない。防潮堤をつくってほしいという意見はいままでほとんど聞いたことがありません。防潮堤なんかいらないという人のほうが僕が話した中では多い。それでもやるというのは、防潮堤つくるというのは国の予算で、防潮堤を作るための予算はあるんです。だから予算に色がついている。それをいらないと言ったら、もらえないだけ」

     住民への説明も不足しているという。

    「陸前高田市で11回説明会を開きました。しかし地区が11個あれば一回ずつしかしていないことなんです。住民と一回ずつの説明会を開いて、説明したことに対して住民の人がちゃんと意見を言えるかというと言えませんよ。なるほどなと思っているうちに終わってしまいます。これはアリバイ作りでしかないと思います」

     
    陸前高田ドライビングスクール
    http://takata.si-dsg.com/

    なつかしい未来創造株式会社
    http://www.natsu-mi.jp/


     
    [取材]島田健弘(しまだ・たけひろ)
    1975年生まれ。オンラインマガジンのライターを経てフリーライターに。現在は、月刊誌、週刊誌、Web媒体などで、政治、経済、ビジネス、サイエンス、アニメ、漫画、声優などのジャンルで取材、執筆をおこなっている。
     


    ■12月6日(木) 生放送番組

    【東日本大震災 証言アーカイブス】
    宮城県の仮設住宅を取材してきました!
    http://live.nicovideo.jp/watch/lv116518279

     
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    9月1日~3日、Fプロジェクトのメンバー5人が、宮城県石巻市や気仙沼市の仮設住宅を訪れ、合同取材をしてきました。この合同取材には、渋井哲也、畠山理仁、島田健弘、渡部真などFプロジェクト
    のメンバーだけでなく、Fプロジェクト以外ライター仲間や学生も参加しています。

    仮設住宅で暮らす人たちから、震災の体験談や現在のお気持ちなど、できるだけ多くのお話を聞かせていただき、それぞれの記者が取材した結果を同じ場で報告し合う事で見えてくるものがあるのではないかと企画しました。戦場ジャーナリストの村上和巳さんや、途中で津田大介さんとも合流し、宮城県石巻市や気仙沼市 の仮設住宅などに伺いました。

    最初は、以前から取材を続けていく中で、「ただ、話を聞いてくれるだけでもいいんだ」という声があり、「我々が仮設 住宅で暮らす方々からお話を聞かせていただく事で、少しでも役に立つなら皆で聞きに行こう!」というのがキッカケでした。そして、せっかく話を聞いたのであれば、やはりアウトプットする事が私たちの仕事です。

    震災から約1年半、仮設住宅で暮らす人たちが抱えている問題点はどんな事なのか? 合同取材の中で見えてきたものとは……

    【日時】2012年12月6日(木)20時00分~21時30分

    【出演】島田健弘(フリーライター)
        渋井哲也(フリーライター)
        畠山理仁(フリーランスライター)
        増田菜穂子(学生)

    【番組】http://live.nicovideo.jp/watch/lv116518279

    無料放送です。ぜひ御視聴ください。
     

    【関連チャンネル】

    渋井哲也の「てっちゃんネル」
    http://ch.nicovideo.jp/channel/shibui


    フリーランサーズマガジン「石のスープ」
    http://ch.nicovideo.jp/channel/sdp


    畠山理仁チャンネル
    http://ch.nicovideo.jp/channel/hatakezo



  • 【第9話】宮城県七ヶ浜町/これからは我が子に安心感を与える事が私の仕事

    2012-12-02 10:001
    震災直後、宮城県七ヶ浜町の職員として救援活動を優先して働き、家族の元に帰れずにいた加藤さん。実家に預けていた3歳の子どもに再会すると、子どもの様子が変わっていた。町の職員として立場と、母親としての立場。震災対応に追われながらも、子どもの心のケアをどうしているのか話をうかがった。

    取材者:渡部真

    取材日:2011年3月28日

     
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    [キャプション]加藤淳子さんと佑弥くん親子


    ■町の職員として泊まり込みで働いた5日間

     2011年3月28日、筆者が取材に訪れた宮城県七ヶ浜町では、児童館などで子ども支援活動が続けられていた。
     仙台市の北東に隣接する七ヶ浜町は、津波の影響で町の面積の約4分の1が浸水。ライフラインの復旧も遅れ、当時はまだ深刻な状況が続いていた。こうした状況から子ども達への影響を危惧し、教員、保育士、学生ボランティアが「こどもサポートチーム」を結成。児童館などを利用して、小学校低学年の児童や未修学児を集めて、1日2時間ずつ「遊びの場」を提供していた。

     まつかぜ児童保育館で実施していた「遊びの場」で出会った加藤淳子さん(当時39歳)は、七ヶ浜町の職員だった。3月11日からしばらく職員としての対応に追われた。

    「私は七ヶ浜町の職員なんですけど、地震があった金曜日も仕事をしていました。ちょうどここの児童館も担当していたんですが、町内に3か所ある児童館をいろいろ回っていたときに地震があって、このまつかぜ児童保育館に到着したとき、津波がありました。その日は、津波の影響でここから役所に戻ることも、ちょっと難しいような状態だったんですが、なんとか戻りました」

     七ヶ浜の地形は、仙台湾に突き出した格好で北・東・南側が海に囲まれている。「七ヶ浜」という地名は、海沿いに7つの集落があった事から名づけられた。そのため、仙台湾を襲った大津波をもろにかぶる事になってしまい、道路が使えずに一時的に孤立する地域もあった。

    「そこからはいろんな地震や津波の対応で、気づけば4〜5日くらいは自宅に帰ることができずにおりました。当時は携帯も繋がらなかったので、子どもの様子や自宅の様子を細かく知ることもできませんでした」

     加藤さんのご家族は、佑弥くん(当時3歳)と夫の3人暮らし。加藤さんが仕事をしている昼間は、実家の母親に佑弥くんを預けて面倒を見てもらっていた。夫も別の自治体職員だったため、やはり震災の対応で、しばらくは自宅に戻る事が出来なかった。
     七ヶ浜町では津波の直後、しばらくの間は電子メールは繋がっていたという。その時に佑弥くんや実家の無事を確認していた。家族や親戚の地震直後の情報は、そのメールで知ることができた。

    「預けていたのが私の実家は、役所の近くなんです。車で5分くらい。私の母が面倒を見てくれているし、何かがあればすぐ行ける距離なんで、会いに行こうと思えば会えるって気持ちもあって、ある程度は安心して任せられたんで、その時は自分の仕事に専念する事が出来たんです。
     私のいる課の仕事は『救助部』となり、主に支援物資の受け取りですとか、炊き出し、その配送とかなどを担当していました。住民の方々、職員、消防団の方々の食事などの準備と配布ですね。もう4、5日ずっとおにぎりやおいなりさんを作っていました」

     町の仕事といっても、本来の児童館を担当する業務ではなく、住民の安全確保や情報収集などを含めて、町がやらなくてはならない業務が山のようにあり、緊急体制でのぞんでいた。加藤さんも役場に泊まり込みで無我夢中で働いており、気がつけば5日ほど経過していた。

    「私たち職員のなかにも、家を流された人もいました。実はちょっと体調を崩してしまいました。それで課長に『もういいから、一度帰れ』と言われたので、実家に帰ることができました。夜中から早朝まで働いて、少し仮眠して、朝から夜中まで働いて……。やっぱり、そういったことで結構ストレスがあったようです」

     その頃から、役場では、加藤さん以外にも体調を崩した職員が出てきた。加藤さんは「やっぱり、職員がやらなくちゃって気持ちが強かった」という。そうやって気持ちが張りつめていた職員たちも、1週間ほどでの疲労のピークが来ていたのかもしれない。
     
    「地方公務員って、役場で働き始めるとずっと一緒ですよね。ここの町は狭いので、やっぱり小さいときから顔見知りの職員とかもいる。もう2週間以上すぎて、私は通いにしてもらっていますけど、職員同士で言葉を掛け合ったりはしています。町の状況も少し落ち着き始めているので、職員たちもプレッシャーのような緊張感は少しずつ少なくなっていると思います」


    ■実家に預けていた子どもの変化

     震災からしばらく、佑弥くんの無事を直接確かめられない事について「もう仕方ないな」と思っていた加藤さんだったが、実家に帰ってようやく佑弥くんの顔を見る事が出来た。ただ、震災直後に会えなかった佑弥くんは、少し態度が変わってしまったと話す。

    「例えば、風の強い日とか、窓枠が『パキッ』って音をたてたり、テレビから『ピシッ』て音が出るだけでも、地震だと思って怖がるんですよね。地震で揺れているわけじゃないのに、敏感に反応して泣き出すんです」

     「子どもサポートチーム」は、仙台市からボランティアで来ている特別支援教育士が中心となって結成された。そこでアドバイスをもらいながら、佑弥くんの心のケアに注意している。しかし佑弥くんは、加藤さんではなく、加藤さんの母親を頼るようになっていた。

    「あの子が怖がっているとき、子どもの不安を私が受け止めてあげるべきなのに、地震にときに一緒にいなかったので、私のことを呼ばないんです。『バァバ!』と言って、私の母のところに行きます。私の膝の上にいても、私の母を探しに行くんですよね。母親として、ちょっと寂しいなっていう気持ちもあるんですけども、アドバイザーの先生にうかがったら、それはもう仕方がないことで、これから徐々にそういう気持ちを解いていくしかないと……。子どもが怖がらないようにというか、怖いけれども安心していれるっていうようなふうに持っていければ、徐々にまた、子どもにも変化が出てくると思います」

     町の職員として、災害が起これば自分たちの任務の重要性は十分に理解していた。震災以前から「何かあれば、実家にバックアップしてもらう体制にしていた」と加藤さんは話す。

    「やっぱり災害が起きれば、私たちが出なきゃいけないっていうのを気持ちにいつも持ってて仕事もしているし、そういう時にはバックアップをしてくれるような母も近くにいるので。母もそれはもう十分に理解していました」

     加藤さんは、佑弥くんの変化を知ってから、役場の仕事をセーブして佑弥くんと一緒にいる時間を優先するように心がけた。

    「『だっこ』って言ったときにはだっこをしてあげたり、『あそぼ』って言ったときには遊んであげたり。それでも、今も暗いのが怖いみたいですね。夜、寝るときに、電気とかテレビを消すと、『テレビつけて』って言うんです。以前は、そんな事はありませんでした。
     これからは、子どもに安心感を与える事が、私にとっての課題だと思っているので、いまはできるだけ明るいうちに家に帰るようにして、帰ってからは子どもと常にいるようにしています。本当に他の職員には申し訳ないです。町の人たちも大事なんですが、私にとっては子どもも大事なので……」

     加藤さんは、「子どもサポートチーム」からアドバイスをもらう前から、職員としての立場と、佑弥くんの母親の立場を明確に割り切るようできた。町の人たちのために働くことも重要だが、何よりも自分の子どもを大切にしなければ本末転倒だ。それと同時に、町の事も考えなければいけない。複雑な立場にいる。

    「町の職員として、児童館などがどうあるべきかも考えなくちゃいけませんが、私も正直に言って、これからどうしていいのか分からないという気持ちはあるんです。いまは幼稚園も保育園も学校もお休みの状態です。4月下旬に再開されて、子ども達のケアをどうしていくべきか、そういう情報が親や保護者の間で広まっていけば、また動きもちょっと変わってくるのかもしれません」

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    [キャプション]七ヶ浜町こどもサポートチームが開いた
    まつかぜ児童保育館の「遊びの場」(2011年3月28日)



     
    [取材]渡部真(わたべ・まこと)
    1967年、東京都生まれ。広告制作会社を経て、フリーランス編集者・ライターとなる。下町文化、映画、教育問題など、幅広い分野で取材を続け、編集中心に、執筆、撮影、デザインとプリプレス全般で活動。東日本大震災以降、東北各地で取材を続けながら、とくに被災した学校や教育現場の取材を重ねる。
    フリーランサーズ・マガジン「石のスープ」
    http://ch.nicovideo.jp/channel/sdp
     
  • 【第8話】宮城県気仙沼市/バラバラに避難した家族と事前に約束していたお寺の避難所で再会

    2012-11-30 03:003
    震災から1年半を迎える頃、宮城県気仙沼市の仮設住宅で暮らしている藤崎さんは、まだ仕事が見つからずにいた。大地震と大津波に襲われた当時を振り返ってもらいながら、現在の心境をうかがった。

    取材者:渋井哲也

    取材日:2012年9月3日

     
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    藤崎さんが住んでいる仮設住宅(2012年9月2日)


     宮城県気仙沼市本吉町。「昭和の大合併」で津谷町、小泉村、大谷村が合併して出来た本吉町が、「平成の大合併」で気仙沼市に編入されてできたのが、この地域だ。
     震災により、国道45号にある小泉大橋が崩落し不通となった。そのため仙台から気仙沼まで宮城県の南北を行き交う車は、本吉町の沿岸部は通行できなく、震災からしばらくは内陸に遠回りして迂回通行せざるを得なかった。2012年6月26日に、ようやく仮橋ができて通行ができるようになったが、壊滅的な国道の深刻な状況が、津波被害の大きさを物語っていた。

     藤崎由美さん(44歳)は2012年9月、大谷小中学校の仮設住宅に住んでいた。震災から一年半経ったこの時期に、話を聞いた。

    「震災ときはみんなに助けてもらいました、ほんとに。家族は、娘(当時小学校6年生)と両親と祖母の5人です。仮設住宅は狭いので、私と娘、そして両親と祖母の二つの部屋に別れて住んでいます。生活していると荷物が増えますので、部屋の中が狭くなってきましたが、避難所よりはよいと思います。

     仮設住宅では知っている人がいるので、声をかけてくれます。知っているから動ける。つながりで一緒にいることができる。地域密着ってのもいい。都会だと、誰がいても関係ないじゃないですか。仕事ばっかりだったので、あまり地域の接点がなかった。ここに来て、地域のつながりができた。ずっと東京にいたんです。そのためもあり、地域のうわさ話が好きじゃない。でも、こういう事態になると、ある程度、知らないといけないかな、って思うんです。その延長で、あまり地域に関心がなかったんですが、ちょっとは持たないといけないかな。

     高校を卒業して、東京・浅草の美容学校へ進学したんです。お寺が経営している珍しい学校でした。いまはもうありません。東京で就職をしたあと、『やっぱり、田舎がいいかな?』と思って、戻ったんです。先輩達が田舎に帰ったりして……。あとは東京では息が抜けない。自分では抜いているつもりなんですけどね。戻って12年ぐらい働いています。いまだに声をかけられる」

     震災当初の話を聞いてみた。地震があったときには仕事をしていたという。

    「気仙沼市南町で美容師の仕事をしていました。海が近いので、とりあえず、自分たちよりもお客さんを早く帰そうと思いました。薬品もあるので、そのままにはできないので、(地震で落ちたものなど)片付けたあと、自分たちも近くの高台に逃げました。高台があったことは本当に恵まれていたな、と思って。船着き場が近く、海が近いけど、逃げ場があったんです」

     気仙沼市は総浸水面積が18平方キロメートル。総面積の5.4%だったが、建物用地で考えると46%が浸水している。海から数百メートルの距離に店舗も浸水した。しかし、地理的に近くに高台があったために難を逃れることになる。

    「従業員3人だけで逃げたんです。従業員1人が『私たちは子ども達がいるから逃げなきゃいけない』と言ったんです。『そうだね。とりあえず、逃げよう』と言いながら、何もなければ、戻って来てお店を掃除しようということになったんです。その一言があったから助かりました」

     三陸地方では、大きな地震があると津波がくる恐れがあるとの教えがあり、一部の住民の間では、自然に高台に避難するという行動をとる人もいた。藤崎さん逃げようとしたのは、そうした反応ではなく、市内での放送があったからだ。

    「逃げようと思ったのは、津波に関する放送が流れたからです。『(気仙沼湾の)大島に6mの津波がくる』との情報が入りました。お客さんも『大島に6mも入ったら大変だよ』って。とりあえず、逃げるよ、ということになったんです。高台に向かう途中、同じようにどこかに逃げようとする人がいるなかで、逃げない人もいたんですよね。だから会う人会う人に『逃げたほうがいいですよ』と言ったんです。それで高台まで行きました」

     津波が来ているというのはわかって、家がなぎ倒されているのはわかったんです。津波に追いかけられることがなく、恐怖はなかったので、よかったなとは思います。知り合いの中には津波に追いかけられる人もいたみたいです。お母さんは足が何かに挟まったとか。でも、助けられました。ああいうのは、奇跡というのですかね? 何かの拍子で足が外れたとか。津波がきても手すりにつかまって、助かる人は助かった」

     藤崎さんの自宅は、国道45号線沿いにある大谷駐在所の近所だった。漁港からみると、高台になっているために、津波がくるとは思っていなかったようだ。

    「もともと家は海岸線から200mほどのところの国道45号線沿いにありました。近くには大谷駐在署がありました。やや高台になっていますので、まさかそこまで津波がくるとは思っていませんでした。

     最初のころは、『自分の家はあるはずだ』と思っていたりしたんです。でも、現実ってそうじゃないんだな、って。まさか自分の周りでそうなるとは思ってないです。地震がくるたびに家は治していたんです。結局、家がなくなった時点で、『ここに家を建てちゃいけない』ということなんですね。あそこはもう海から見える。建っていた家が流されたんですが、海がそんなに近いとは思わなかったんです。やっぱり、地盤が沈下した分、近くも見える」
     
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    津波で流された自宅付近(2012年9月2日)
     
     仕事をしていた藤崎さん、家族とはバラバラに避難した。娘は学校だろうと考えたが、他の家族は家にいた可能性がある。安否を確認したいがどうにもならない状況だった。ただ、生きていればすぐに会えるという確信があった。

    「当時は携帯電話も通じなかったですね。でも、うちでは前から話し合っていたんです。『うちは1人で逃げるから。何があっても大丈夫』と。ただ、仕事中は娘をおばあちゃんに預けているんで、『娘と一緒に逃げて』と。市では(指定避難所があるため)こういう時に集まるところが決まっているから、そこに逃げてと。(避難しなければいけないときのことは)前もって決めていました。避難所となったところに逃げれば、声をかえて、いつかは会えるだろうと、前から思っていました。それは家族との話し合いで決めていたんです。なんとか自分たちが避難すれば、いずれは会えるだろうと」

     結局、翌日、藤崎さんは決めていた避難所である仙扇寺(気仙沼市本吉町大谷地区)で家族に会うことができた。ただ、娘は当時のことを話さないという。

    「娘たちとは仙扇寺ですぐに会えました。震災当日は、娘は叔父と叔母が一緒にいたんです。1人より誰かと一緒にいたほうがいいということでしょう。翌日に家族みんなに会えました。学校でどうだったのかは、娘はまだ話しません。学校には親が迎えに来た人もいたようですが、『(当時のことを)話すのは嫌だ』って。だから無理に聞かないです。嫌な思い出なんでしょう。友達が亡くならなかったのはよかったんですけど、子どもたちはかなりショックだったんで。自分の家、自分のものがない...。結局、一緒にいられなかった時間もあったし。あと何年後かには『あのときはああだったね』という話にはなると思うんです」

     仮設住宅の期限は原則2年まで。延長はできるものの、いつまでも暮らせるわけではない。地区ごと高台移転をするという意見や、内陸部に引っ越しをするという住民もいる中で、藤崎さんの選択はどういうものだろうか。

    「土地だって高いし、結局、誰もがこれから家を建てるって人はいないです。私だって家をすでに建てていて、その家にずっと住もうと思っていたんですよ。それが逆転してしまったんです。この年で、『家、どうする?』って感じなんですよ。土地の値段は倍以上、という話も聞きます。以前は3万くらいの土地が、10万以上になっているとも聞きました。ただ、つながりで取引される場所がある。知っているから譲るということもあるみたいですが、それでも高いです」
     別の場所に建てようにも、土地の値段は上昇する一方だ。では、内陸部に引っ越すという選択はあるのだろうか。

    「(沿岸部から離れている住民もいるが)母たちがいるので、海の近くに住みます。それに離れてどうする?というのもあります。できれば、旧本吉地区の通りにあればいいんですけど、なかなか土地がない。そのうち、誰かが『土地、譲ってもいいよ』というようになるかな?とも思って。だから、とりあえず、こっちに帰れたらいいな、と思っています」

     慣れない仮設住宅での暮らし、将来への不安など、考えれば考えるほど、ストレスがたまる状況にあるが、藤崎さんはどんなストレス解消をしているのかが気になった。

    「ストレスは以前からは溜まらないほうかもしれません。お酒も飲まないほうですね。『仕方がない』と思えますから。現状を自分なりに把握しなければならないです。それが現実ですから。掃除をすれば、ある程度解消できますね。ストレスといっても、今までの通りじゃないと思ってるんですけど、家が残っている人は悪いかな?とも思ってるんです。『何かあったら……』とは話しますが、やっぱり、気を遣っていると思うんです。

     とりあえず、仕事を探さないと。仕事がまだ見つからないです。前の仕事を辞めてしまったんです。お店が機能しななったので、職安にいかないといけないんです。とりあえず、美容師を探していますが、見つからないので、焦ります。

     これからも美容師がいい。ただ、難しいんです。どんな仕事でもいいなら別でしょうが。本当は、うちの庭に美容室を建てる計画だったんです。何もなければ、いまごろ、そこで仕事をしていたと思うんです。自分が体力がなくなるまで働くつもりでした。これまで無職になったことがないのですが、仕事をしないと不安です。
     でも、結局、求人がないんです。何でもよければあるんですが、年齢制限もあるんです。若い人のほうがエネルギーがあるので欲しがるんでしょうね。自分が経営側になってもそう思います。美容師の雇用は45歳まではあるので、枠を広げてもらえるようなところがあればと思っています」

     取材の間、藤崎さんはずっと笑顔だった。家族や仮設住宅の近所の人たちなどに対しても、持ち前の明るさで、周囲を元気づけているように見えたのが印象深かった。
     
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    働いていた美容室がある気仙沼湾では、
    津波で漁船が打ち上げられていた(2011年4月20日)
     
     

     
    [取材]渋井哲也(しぶい・てつや)
    1969年、栃木県生まれ。長野日報社記者を経てフリーライター。自殺やメンタルヘルスやネット・コミュニケーションなどに関心がある。阪神淡路大震災以来の震災取材。著書に「自殺を防ぐためのいくつかの手がかり」(河出書房新社)など。ビジネスメディア「誠」( http://bizmakoto.jp/ )で、「東日本大震災ルポ・被災地を歩く」を連載。
    渋井哲也の「てっちゃんネル」
    http://ch.nicovideo.jp/channel/shibui