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双子の蛇。
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双子の蛇。

2017-09-22 20:30
     大変恐縮ではありますが、調子に乗ってもう一作、小説を書いてみました。もし暇で暇でしょうがないという方がいらっしゃいましたら読んでみてください。

     いや、わかっています。このブログに登録しているのは何もお前の稚拙な小説を読むためじゃないと仰りたいでしょう。しかし、どうか、そこを我慢してくださいませ。

     今回の短編はいままでの作よりはだいぶ出来が良いと思います。ようやく自分で書いていて、そして読み返してみてなかなか楽しいと感じるレベルになってきました。

     もちろん、まだまだ拙い作品ではありますが、作者としてはいくらか愛着が生じています。あと10年も書きつづければ自己満足できる域に達するのではないでしょうか。楽しみ。

     ちなみに前作と同じ「太陽帝国」を舞台にした『トワイライトエンパイア』という設定なのですが、固有名詞を初め、ほぼ何もかも違っています(笑)。試行錯誤ということでご容赦ください。だって、変えたほうが面白いのだもの。

     よろしくお願いします。

    『トワイライトエンパイア 双子の蛇』

     いったい人の一生にはあらかじめ運命と呼ぶべき星の軌跡が定まっているものなのだろうか、と綸子(りんす)は思う。もしそうなら、人生とは何なのか。遥か天上で神々の指さきが不可視の巻物に標す一篇の絵物語に過ぎないのか。それとも、自ら望み、試し、世界を切り拓いてゆくその自由が存在するのだろうか。その問は綸子にとって単なる哲学上のアポリアであるに留まらず、人生そのものを左右する難問であった。はたしてわたしには己の人生を開拓する権利が与えられているのか。否か。その答によって、数しれぬ人の生涯が左右されることになるだろう。なぜなら、かれはこの世で最も高貴な血筋に生まれ落ちたたったひとりの皇子なのだから。かれの行動は、俄かには信じがたいことながら、即ち全世界全人類の命運とそのままに重なっていたのである。

     綸子はこの百年でようやく斜陽の季(とき)を迎えた偉大な太陽帝国の親王であった。かつてこの惑星全土を統べ、威風、神国の如きであったこの帝国も、いまとなっては中央大陸の三分の一を治めるに過ぎない。それでも、なお、世界最大の帝国であるには違いなかったが、その版図は北の蛮族や南の海賊に自在に荒らされ、往古の繁栄は夢のようだった。その只中、綸子はなぜか一向に男児が産まれなくなった帝室の希望を担って産み落とされた。母はその美貌を見初めた皇帝の手が付いた卑しい遊女に過ぎなかったが、かれは男子であったために皇位継承の一位に咲いた。もっとも、その容色に似合わず愚劣であった母は、肉欲に溺れて皇帝を裏切り、自ら生命を喪った。あるいは、何かしら陰謀に巻き込まれた挙句の死ではあったかもしれぬ。いずれにしても、綸子はこの母が皇帝に自死を命じられたとき、まったく哀しいとは思わなかった。それは、生母の死が何を意味するのか理解しかねるほど幼かったからではなく(かれは齢五歳にしてその政治的な意味を十分に理解していた)、ただ、生まれてからその後、ほとんど母と知りあう機会がなかったためであった。人は、何と情の薄い子供だと囁きあったが、それもかれにとってはどうでも良いことであった。たしかにかれは生まれつき人並みの哀惜の感情が薄く、母が自ら毒酒を喫することを怖れて逃げ惑い、最後には絞殺されたと聞いても、何ひとつ心を動かされなかったからである。綸子は、宮中で、まるで子供らしくない、可愛げがないとひそかに後ろ指さされるような御子であった。

     ただ、かれは皇帝たる父と、この愚かだが美しい母から妖しくも艶めく美貌を受け継いだ。それは、かれが複雑怪奇を究める宮廷政治を生き抜くためにどうしても必要なものだった。太陽帝国においては、美こそが支配者たるものに必須の資質とされていたからだ。いまではたしかな肖像画さえ遺されてはいないが、伝説にあるこの国を切り拓いた神祖その人もまた類まれな美貌の人物であったという。そして綸子の父も驚くほど秀麗な人であった。その、どこかしら蛇か蜥蜴を連想させずにはおかない奇態な美は、太陽帝国の血脈に実に一千年にわたって伝わってきているものなのである。ただ、この皇帝もまた、宮廷においては暗愚と噂されていた。むろん、だれも綸子にその事実を伝えようとはしなかったが、風聞とはまさに風の囁きにも似ていずこからともなく耳に入るもの、かれはいつのまにかその事実を知るようになっていたのだ。しかし、そのようにして愚かな父母から生まれた綸子は、それでいて不思議なほど聡明な子供だったのである。

     かれは幼くして読書に親しみ、宮中にあっては禁書扱いされている本をも手にいれて読み耽った。かれが知りたいと考えたのは、なぜ、何のために自分は産まれ、何を行うよう運命づけられているのかということであった。至尊の帝位を継ぐ。それは良い。しかし、いったいその帝位を何に使えば良いのか。ただ先代から、あるいはその遥か以前から伝わってきたものを後代に残す。それはいかにも無意味でくだらない仕事としか思われなかった。ほんとうに自分の一生はそのようなことのためにあるのだろうか。自然、綸子は思い煩った。

     六歳のとき、かれは初めて父である皇帝と謁見する機会を得た。一千年のあいだ伝わる白金の玉座に傲然と座した皇帝は、すでに数しれぬ不思議に眩く宝石で彩られた帝冠の重さに困憊しているようにも見えた。その湖面の色の双眸にも、麻薬中毒者めいた倦怠が曖昧に浮かんでいた。かれは己の息子にほとんど興味を示さなかった。単に決まりきった文句を並べてこの頭脳明晰な息子の失望と軽蔑を誘っただけだった。ただ、別れ際のほんの一瞬、その美しいが魯鈍としか見えない眸が、砂漠の蜃気楼さながら、並はずれた知性を示したように思えたのは、綸子の願望に根ざした錯覚に過ぎなかっただろうか。

     父と別れて乳母のもとに戻されたあと、綸子はひとり沈思に耽った。あるいは父は陰謀渦巻く宮廷で生きのこるために白痴を演じているのかもしれない。ほんとうは異数の知性のもち主で、まさにそうであるからこそほんとうの頭脳を隠さなければならないのではないか。それはいかにもありそうなことだった。何といっても、かれのような神童の父親なのであるから、それくらいのことはやってのけそうだ。だが、おそらく、たとえあえて愚かしく振る舞っていたのだとしても、数十年にわたって愚者を演じているうちに、ほんとうにその知性は衰えてしまったのであろう。そうでなければ、何かしら息子に自分の正気を示すサインを送っても良さそうなものだ。じっさい、最後のあの刹那を除いて、父からは一切のインテリジェンスが感じられなかった……。

     皇帝がほんとうに凡愚だったのか。否か。綸子がその問の答を知ることは遂になく終わった。かれが十歳の誕生日を迎えたおり、皇帝は病を得て急逝したからである。下々の間で黒斑病として知られる呪われたはやり病であった。綸子が遺骸を目にする機会はなかったが、皇帝は世にも美しかったその貌を黒い斑に冒されて死んでいったものと思われる。そのことを思うと、綸子は、それでは一天万乗の天子も、市井の凡民と大して変わりなどありはしないのだと思えてくるのだった。かれのまわりの王侯貴族たちが思い違いしているような決定的な差など存在しないのだ。すべての生は儚くもむなしい。そう思うと命懸けで帝位を目ざそうという意志も萎れていきそうだった。だが、帝位をその手に掴まなければ、かれの命はない。それもまたたしかなことだったのだ。

     いまなお、帝室一位の地位はかれのものではある。しかし、綸子には帝冠を争うべき強力な敵手がいた。帝室三位の紗汪(しゃおう)皇女である。本来であれば帝位は男子である綸子のものであるべき掟だが、齢十四の紗汪は恐るべき魔術と陰謀の名手であり、じっさいに帝冠を頭に載せるまでは――あるいは、その後も――決して油断はできないのだった。いかにして紗汪を打倒し、帝冠を頭上に戴くか。綸子は考えた。だれを味方とし、だれを敵に選ぶべきか。それはきわめて難解な遊戯だった。そして、懸かっているものはかれ自身の命なのだ。綸子は不要な発言を慎むようになり、人心を得るべくより高貴に見えるよう振る舞うことに努めた。心から信じられる者はいない。孤独な戦いが続いた。

     ◇◆◇

    「殿下。綸子皇太子殿下」

     どこか遠い処からかれを呼ぶ声がする。綸子はいままで読み耽っていた書物の頁を捲る指さきを止めた。三百年前に生きた哲学者の人生論で、なかなかに興味深い内容だったのだが。呼び声に反応するつもりはなかった。その声に聞き覚えはなく、いったい何者がかれを呼んでいるのか、瞭然としなかったからだ。あるいは、かれの命を狙う暗殺者ということも考えられる。さすがにかれの自室の前を殺し屋が徘徊しているとは考えづらいが――しかし、綸子の周りは日一日と危険を増している。用心するに越したことはなかった。しだいに声は近づいている。綸子は寝台の下か箪笥のなかに身を隠すべきかどうか、いくらか迷った。しかし、結局、卓の前から動かなかった。どうせそのような処に隠れたところですぐに見つかることだろう。それなら、正面から相手を説得する機会に賭けたほうが良い。仮に失敗したとしても、ただ死ぬだけのことだ。そう思った。

    「殿下。どこにいらっしゃいます」

     綸子を捜す声は遂に部屋の前まで至った。無視しても扉を開けて入ってくることであろう。綸子はなるべく冷静に聞こえるよう注意して返事をした。

    「何者だ。綸子はここぞ」

     かれは満足した。声に動揺の気配が微塵もただよわなかったから。綸子はまだ十歳であったが、己の感情を御すことに懸けて、並の大人以上に成熟していた。

     呼び声は止まり、ほんのわずか軋みの音を立てて扉がひらいた。本来であれば、皇子の許可を得ることなく私室に立ち入ることは無礼きわまる。それに、乳母や護衛たちがこの男の侵入を許したことも不審であった。あるいは、すでにかれらは皆、死骸と化しているのか。それとも、だれもかれも皆、何者かに篭絡されてしまったのか。後者の可能性は考えづらいが、まったくありえないことではない。いずれにしても、綸子の命は風前の灯火というべきであっただろう。が、そこに現れた姿は、綸子の想像から外れた。それは人ではなく、きわめて曖昧な輪郭をもった黒い影のようなものだったのだ。かろうじて人の形を模した漆黒の滲み。いかなる魔術の仕業か、その影は自ら扉を開けることができるらしかった。ある意味では、暗殺者よりもさらに危険な相手であった。

    「おお、殿下。ここにおいででしたか」

     その影は言葉を口にした。あたりまえの人間のようなその口調がかえっておぞましい。しかし、綸子は何とか平静を保った。かれはこの世界の最も古い血脈の皇子であり、忌まわしい魔法にはなれている。人の影を操る魔術にも心あたりがなくはなかった。そのまま沈黙を続けると、影の口調が嘲弄を孕んだ。

    「なるほど、わたしのこの姿を前にしてなお怯える様子ひとつ見せないとは、さすがは太陽帝国の皇子だけはある。まだ幼いのに、わたしが怖くはないのかな、皇子よ。それとも、恐怖のあまり言葉も出ないか」

    「お前が何者であれ、妖魅よ、わたしはお前など怖れはせぬ。お前こそ、皇家の血を怖れることを知っているなら、いますぐ疾く去るが良い」

    「いいおる、いいおる」

     影はくつくつと不気味に嗤った。その眸にあたる箇所が紅くひかった。

    「良いか、皇子よ。わたしはお前の想像を遥かに絶する或る高名な魔術師だ。ここで吾が名を告げればお前は畏怖におののくことであろうから、あえて名のりはしないが、伝説のなかに伝えられる偉大な賢者と知るがいい。いま、吾がこの部屋を訪ったのは、お前に吾が力を貸し与える旨、告げておくためだ。皇子よ、お前は未だ幼く無力だ。だが、いくらか見どころがあることもたしか。もしお前が望むなら、吾が甚大な魔力をもってお前を帝位に就けてやろう。その返礼として吾はわずかなものをいただくが、何、至尊の帝冠の値としては取るに足りぬものだ。お前に味方するのは吾が親切と思ってもらってかまわぬ。どうだ、皇子よ、吾が申し出、受け入れてくれるであろうな」

    「断る」

     綸子は一瞬も迷わなかった。

    「亡霊よ、お前が何者であるかは知らないが、お前のようなおぞましいものに政(まつりごと)を壟断させるつもりはない。いますぐこの部屋を出ていって二度と戻るな。この宮には悪霊よけの結界が張られている。自在に力を振るえると思うなよ」

     影は今度こそ大きく笑った。

    「おお、いうではないか、小童よ。むろん、お前は吾が存在の真の偉大さを知らぬ故、そう威勢の良いことを申すのであろうが、かまわぬ。いまは語らせておいてやろう。何とも可愛らしい勇気だからな。欣快、欣快。さすがに太陽帝国のただひとりの正嫡の御子よ」

    「去れ!」

     綸子はひそかに卓の下に用意しておいた短刀をひき抜くと、影の心臓にあたる処を狙って突き刺した! それは処女女神の神殿によって正しく浄められた宝刀で、悪霊の類にも力を発揮するはずであった。実際、影は苦しげに呻くと、霧のように散っていった。しかし、その声はなお、部屋中に、あるいは綸子の脳内にひびいた。

    「皇子よ、忘れるな! 吾はお前の味方だ。お前が頼るべきは吾を措いていないのだぞ」

     綸子は皓い歯を食いしばってその声音に耐えた。が、どうしようもなく意識が薄れてゆくのを感じた。かれは気づくと、卓の上に倒れ込むようにして寝ていた。どうやらいつのまにか眠ってしまっていたらしい。周囲を見まわしてみたが、何ひとつ影とのやり取りを示すものは残っていない。つまり、とかれはひとつ頭を振って考えた。いまの問答は夢だったのだろうか――。が、とてもそうとは思われない。あるいは、自らの内なる悪そのものとの対話を夢のなかに視たのかもしれない。太陽皇帝として即位し、自らの命を護るために悪魔的な力を借りるつもりはなかった。しかし、もしそれしか生きのこる方法がないとしたら? 自分ははたして誘惑に打ち勝てるだろうか。綸子はいつ果てるともしれない重苦しい思惟に耽った。

     ◇◆◇

     先帝の盛大な国葬が済むと、次なる皇帝の位を巡り、宮廷はふたつに分かれ乱れていった。それぞれ綸子と紗汪を支持する派閥である。その陣営の主が好んでもちいる色から、いつしかそれぞれ「白砂の党」と「赤金の党」と呼ばれることとなった。その勢力はまず拮抗しているといって良かっただろう。白砂の党の綸子には男子であるという正当性があるが、何といってもまだ十歳にしか過ぎないという弱点ももっている。一方、赤金の党の紗汪はきわめてカリスマに富んだ少女ではあるが、王位継承は三位であるに過ぎない。世界最大の金剛石が燦爛と輝く至高の帝冠をいずれが戴くべきか、臣下たちを二分して論議は尽きなかった。否、諍いは論議では終わらず、宮中を舞台に陰謀と暗殺が繰りひろげられるに至った。紗汪は魔術を得意とするため、綸子は何人もの名高い魔法使いを雇って護衛にあたらせた。しかし、それもどこまであてになるのかわかったものではなかった。

     紗汪もまた太陽皇帝の血を継ぐにふさわしい凄絶な美少女であった。常日頃からより高貴、高潔であろうと努めている綸子と比べると、その性は冷酷、驕慢、そして奔放であった。十二歳の頃から幾人もの若者、そして美しい少女を褥にはべらせて玩具のように愉しんだ。ただ、その一方で決して愚かではなく、その知能の明敏さは綸子に匹敵し、あるいは上回るかとすら思われた。人の心の裏表を見抜く天才であり、碧い眉墨に彩られた吊り上がった眸はやはり蛇を思わせたが、その苛烈な眸に射すくめられると虚実なかばする宮廷政治に馴れた者ですら碌々、嘘を吐けなくなるのであった。敵である綸子ですらその猛々しくも禍々しい美には魅せられた。何とか彼女と和解する道はないだろうかと考えることもあった。むろん、それはありえないことであった。その選択は虎を野に解き放つようなものだ。安心して眠ることはできない。やはり、紗汪には死んでもらわねばならぬ。しかし、いったいこの少女の姿をした猛虎を相手に、ほんとうに勝利を収めることができるであろうか。綸子は思い悩んだ。

     事態が決定的に推移したのは、葡萄月の七日のことである。この日、赤金の党の重要人物である伊佐(いざ)卿が暗殺されたのであった。綸子の指図ではない。どうやらかれの配下のひとりの独走であるらしかったが、ともかく、この暗殺によって両党の関係は一気に険悪になった。だれもが宮中でも帯剣を欠かさないようになり、じっさい、剣戟のひびきが宮廷の各地で聞かれるようにすらなった。一触即発。両党の主が少しでも対処を間違えたならば、国を割る内乱へと進んだとしてもおかしくないところだった。

    「戦争は避けたい」

     綸子は配下の六人の騎士団長へ告げた。

    「たとえ勝つにしろ、喪うものが大きすぎる。国を割って戦うとなれば、北方の蛮族の侵入を許すことになるだろう。そうなれば千年続いたこの帝国は亡国の憂き目を見ないとも限らない。おそらく、そのことは紗汪もわかっているはずだ。どうにか政治的に決着を着けることはできないだろうか」

    「むずかしいでしょう」

     人魚騎士団の団長真砂(まあさ)が答えた。この騎士団は女のみで構成されている。団長もまた女性である。

    「政治的な決着と申しましても、敗れたほうがすべてを喪う戦いです。紗汪殿下はなまなかの条件では納得しないものと思われます。それこそ、帝冠をそのまま渡すくらいしか、解決の道はないでしょう。あるいは――」

    「あるいは?」

    「綸子殿下か紗汪殿下、どちらかがお亡くなりになるか」

    「ふむ」

     真砂が示唆しているのは紗汪の暗殺だろう。強力な魔術に守られた紗汪を殺害することは容易ではないが、まったくの不可能でもないかもしれない。そして、紗汪が斃れれば、帝位は自然と綸子の懐に転がり込む。もちろん、それは逆もいえることだ。酷薄な紗汪は綸子の暗殺を躊躇したりしないだろう。しかし――

    「何か他に方法はないだろうか」

     綸子はべつだん、紗汪の命を救おうと考えているわけではない。自ら敵手に情けをかけるほど甘い性格ではないのだ。しかし同時に、暗殺はのちに禍根を残すこともたしかである。紗汪を毒物なり魔術で殺害してしまえば、赤金の党の人々は綸子に服従するだろう。しかし、内心では必ずしも納得しないに違いない。暗殺はやはり最後の手段と考えるべきなのだった。紗汪もまたそう考えるとは限らないが。

    「斗真(とうま)殿下のお力を借りるのはいかがでしょうか」

     そういいだしたのは天馬騎士団長の天柱(てんちゅう)である。全身を筋肉の甲冑で鎧ったような壮年の男で、剣の腕ひとつで騎士団長の地位までのし上がった人物だが、決して愚物ではない。綸子はその言葉に考え込んだ。

    「斗真殿下か。しかし、殿下は事実上は中立を表明しておられる」

     斗真は綸子に次ぐ帝室二位の男性である。先帝の弟で、綸子にとっては叔父にあたる。本来であれば綸子以上に帝位に近い位置にいてもおかしくない人物なのだが、穏健な性格で、政争に巻き込まれることを好まず、明に暗に中立の立場を表明している。かれの力を借りることができれば紗汪を打倒することはむずかしくないだろうが、実際にはかれを味方にひき込むことは容易ではないであろうと思われる。

    「何か手段はないものだろうか。何か。もしわたしが姉上だとしたらどうする――?」

     綸子は考えた。

     しかし、かれが物思いに沈むうちにもいくつもの事件が起こり、事態は深刻さを増しながら次々と移り変わっていった。綸子は決断を迫られた。はたして暗殺や戦役という悪魔の手をもちいるべきか。否か。

     ◇◆◇

     その豪奢な一室には主人の趣味で、仄かに麝香の香りが垂れ込めていた。大理石の床が敷かれた室内には、いくつもの裸体の彫像が飾られ、淫靡とも奇怪ともいえる雰囲気を醸しだしている。その人物、太陽帝国の紗汪皇女はいままさに綿の褥のなかで淫らな愛の行為に耽っているところであった。その指さきが繊細に動くたび、あいての少年は甘く濡れた喘ぎを漏らした。その少女めいた声はしだいに強く、甲高く変わってゆく。そして、紗汪が褥のなかで優しく指の抽送を続けると、遂にかれは悦楽の絶頂に達して高く叫んだ。紗汪は愉快そうにほほ笑みながら褥から半身をだした。ささやかに膨らんだ美しい乳房が露わになる。彼女は少年の碌にひげも生えていない白皙の頬を猫のように舐めた。

     そこへ、ひとりの顔を黒麻の垂れ布で隠した女が静かに現れた。

    「お楽しみの最中、失礼いたします、殿下」

    「何の用じゃ、把留(ぱる)」

     紗汪は不機嫌そうに答えた。が、蜜ごとの最中に立ち入られたというのに、怒るでもなく、追い出そうとするわけでもない。その女――彼女の謀客である把留がわざわざこのようなときにやって来たからには、それだけの理由があるとわかっているのだ。紗汪はたしかに淫奔ではあったが、べつの一面ではきわめて冷静で聡明な娘だった。

    「斗真殿下の件ですが、失敗いたしました」

    「何じゃと?」

     紗汪は素裸のまま褥から起き出した。乳房のみならず、ほっそりした肢から黒々とした茂みまですべてが露わになったが、気に留める様子もない。側近である把留が口にだしたことは、そのようなことより遥かに大きな問題だった。

    「どういうことじゃ? 叔父上の愛娘未那(みな)を誘拐して、かれをこちらの味方につける策はどうなった? もしや、未那を浚うのに失敗したとでもいうのか?」

    「いいえ」

     把留は典雅に首を振った。

    「それより前の問題です。わたしたちの計略は事前に予期されていました。誘拐に出向いた兵たちは捕らえられ、真実を白状させられたのです。事は破れました。もはやどうしようもありません」

    「愚かなことを申すな。きゃつらはわたしの魔術で心を支配しておいたはずだ。たとえ、捕まったとしてもわたしの仕業だと白状したりするはずがない」

    「いいえ、いいえ」

     把留は紗汪の汗と体液に濡れた白い裸身を痛ましそうに見つめた。

    「あなたさまの魔術もまた敗れ去りました。綸子殿下は紗汪殿下以上の魔法使いであらせられます。あの方はいずこからか禁書を入手し、禁じられた魔法をもちいてわたしたちの裏を掻いたのです。あの方は百年来の魔術の天才です。紗汪殿下といえどもとても敵いませぬ」


    「ばかな――ばかな! 綸子に魔術の才などあってたまるものか。きゃつは無才じゃ。だからこそ、幾人もの魔術師を雇い入れたのではないか」

    「それもまた吾らの攪乱が狙い。わたしたちは欺かれたのです。殿下」

    「いうな!」

     紗汪は遂に激昂した。床に脱ぎ捨てた絹服を手に取って纏い、両耳に涙の形をした紅玉のピアスを身に付ける。はたして波留の言葉がほんとうに真実なのか、自らたしかめるつもりだった。仮に真実だとすれば、また、新たな対処を行わなければならぬ。
     だが、そのとき、把留はその場に力なく斃れた。紗汪は唖然として彼女に駆け寄り、そして呻いた。すでに彼女はこと切れていたのだ。その胸からはじわじわと赤黒い血が溢れてくる。傷跡から考えて、どうやら、自ら命を絶とうとしたらしかった。紗汪はその端麗な貌を苦渋で歪めた。彼女の怜悧な頭脳をもってしても、なぜこのようなことになったのかわからなかった。と、室内にひとつの声が響いた。宮中で珍重される〈少年楽器(オルゴール)〉の音色の如く玲瓏たる少年の声音。

    「姉上。もう遊戯は終わりです」

    「――綸子」

     さよう、そこに佇立していたのは綸子皇子に他ならなかった。その傍らには幾人かの兵士たちの姿がある。かれは一切の感情を殺した冷ややかな視線で姉でもある少女を眺めていた。紗汪は烈しい怒りが促すまま怒鳴りつけようとし――そして、やめた。彼女の強靭な理性は、己が戦いに敗れたことを悟ったのである。紗汪は朱唇を噛みしめ呟いた。

    「綸子、おぬし、最初から手の内を隠していたのか? わたしに比肩し、上回るだけの魔術の才能をもちながら、それをあえて使わず秘めておったのだな?」

    「はい」

     魔法使いの皇子は沈痛そうにうなずいて、淡々と言葉を続けた。

    「わたしは子供の頃から周囲には隠しながら魔術書を収集してきました。随分と苦労したものですが、その甲斐はあったといって良いでしょうね。こうして、どうにか姉上を上回ることができたのですから。姉上、あなたの頭脳はわたしより上です。しかし、わたしのほうが姉上よりほんの少しだけ狡猾だった。生まれの差でしょうか。わたしはいつも遊び女の子供であることを恥じて育ってきました。それに比べて姉上は正統の血筋を誇っていた。その差が出たのだと思います。いまでは姉上の策は破れて、叔父上はわたしの味方です。あなたの敗北ですよ、姉上」

    「そうか……。わたしは驕っていたのか。悔しいものよ」

     紗汪は力なく俯いた。が、やがて、その豊麗な唇から愉快そうな笑声がこぼれた。

    「良い! たしかにわたしの負けじゃ。事この期に及んでは命乞いなどするまい。綸子、わたしを処刑し、その首より滴る血でもって神々との証文に署名するがいい。しかし、その前にひとつ良いかな?」

    「はい。何でしょう」

    「綸子、その貌をよく見せてくれ。わたしのたったひとりの弟の貌を」

    「――はい」

     綸子はあえて拒みはしなかった。紗汪は静かにかれのもとに歩み寄ると、その貌を両手で抱え、正面から覗き込むようにして見つめ、そして、その唇に優しくくちづけた。綸子はまったく抵抗しなかった。それは、彼女の人生で最後となるはずの接吻であったから。紗汪は小さく吐息した。

    「さらばだ、綸子。この国はいまや斜陽にある。それでもかまわぬのなら、良い皇帝になるがいい」

    「はい」

     そうして、紗汪は兵士たちに連れられて行った。あしたにでも、彼女は叛逆罪でその頸を斬り落とされることになるだろう。そしてそれこそは、紗汪の弟への血の祝福なのだ。かれらはいわば双子の蛇だった。一方がもつ才は、もう一方もまたもち、一方が考えることは、もう一方もまた思いつく。ただ、ふたりの違いは、紗汪がその魔術や陰謀に関する才気を周りに見せつけたのに対し、綸子はそれをいくらか抑え、隠したところにあった。綸子はこの作戦を暗愚な父から学んだ。あるいは、父にそのつもりはなく、ただ自然に振る舞っていたのかもしれないが、結果としてかれは綸子の師となったのである。そのために、綸子はかろうじて勝利を得た。配下の暴走の末、苦い勝利ではあるが、かろうじて血のつながった姉の暗殺という悪魔の手を使わずに事を収めることに成功した。

     かれは勝ち――そして、生きのびたのだった。

     ◇◆◇

     こうして、綸子新帝が誕生する運びとなった。

     紗汪は一切抵抗することなく首を斬り落とされ、十四歳にして儚くその命を落とした。赤金の党は解散し、白砂の党の傘下に入った。ただ、その斬り落とされた少女の首が、末期の瞬間、予言の言葉を放ったという噂が綸子の耳に入ってきた。

     やがて、呪われた黒斑病はこの国を侵しつくし、叛乱はひとりの英雄を得て止めようもなくなり、北の蛮人、南の海賊たちは帝国の版図をことごとく奪い尽くす、そうして新帝は帝国最後の皇帝となるであろう。

     生首はそう告げたというのだ。

     あるいは、それは真実であるかもしれないと綸子は思った。類まれな魔術の才能をもって生まれた姉のことだ。死に際にそれくらいの予言を告げてのけても可笑しくはない。

     しかし、綸子が往くべき道に変わりはなかった。かれの前途は洋々とはいいがたい。いくつもの困難が、内と外に待ち受けていることだろう。それでも、かれはこの国を救わなければならないのだ。それが、神々がさだめた運命とは関わりなく、かれが選んだ道であったから。そう、予言が何であろう。たとえ、それが真実を告げているとしても、だから戦わなくて良いということにはならぬ。戦って、戦って、いつの日か真紅の屍を前向きに散らして死んでゆく。綸子の道はただそれしかなかった。もしかしたら、いつか、たったひとりの孤独な戦いに疲れて、逃がれようとすることもあるだろう。しかし、あるいは、この戦いをともに生きる友を見いだすことができるかもしれぬ。希望は薄く、ほとんど信じがたかったが、それでも、綸子はそうであれば良いと願った。かれにしてなお、ただひとりで戦い、生き抜くことは、あまりにも辛すぎたから。

     やがて、戴冠式の日がやって来た。綸子は処女女神に仕える神官長に導かれ、自ら、最大の金剛石とそのほかの無数の珠玉で飾られた煌びやかな帝冠をその頭上に戴いた。喝采を叫ぶ群衆のなかに、いつの日か見た影が混じっているのが見えた。あの影は現実の存在なのだろうか。おそらく、己が心弱まり、運命に絶望したそのとき、あの幻は再び誘いかけてくるのであろう。

     ともかく、いまかれが被ったその冠はかつてかれの父親の頭に載っていたものである。そしていまこそ、かれは信じることができた。父はやはり、自ら暗愚を装い、かれなりの日々を戦っていたのだと。そうでなければ、この帝冠の重みに耐えられるはずがないではないか。かれは紛れもなく綸子の父であったのだ。そしていま、綸子はかれが歩んだ道をひとり往くのだった。

     時に帝国暦一〇二三年。太陽帝国滅亡より十六年を残したある秋のことである。

     完 
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