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再掲「ピースメーカー」兼崎健太郎、滝口幸広、浜尾京介くん2011/06/10@Gロッソ
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再掲「ピースメーカー」兼崎健太郎、滝口幸広、浜尾京介くん2011/06/10@Gロッソ

2016-10-22 20:10

    2011/06/12

    11:58 pm

    「ピースメーカー」を一昨日、観て来た。
    兼崎健太郎くんがこんなにもクールでカッコイイ役者だったのかとか、
    浜尾京介くんは初対面のころと比較し台詞も身のこなしもこんなにも成長したのかとか、
    滝口幸広くんがこんなにもイケメンをかなぐり捨てる演技を見せてくれるとはとか、
    新たな発見はたくさんあった。
    でもストーリーが良くわからない。

    歴史的な新撰組の池田屋襲撃とその前史が物語の主要な題材になっているので、
    何か大きな歴史の流れの中で、
    主人公やそれを取り巻く登場人物たちの歴史に翻弄される様が見えるのかと思った。
    だが物語は、そんなことは全く関係なく、主人公が小さく、刀を抜くか抜かないか、
    人を切ることができるかできないか、で悩んでいるように見え、それがどうやら主題のようだった。
    但し、その葛藤の原因がなぜ生まれるのか舞台上では分からなかった。
    物語の結末で何か葛藤の原因が解決され主人公が成長したか、
    一つ経験してちょっと人生が豊かになったとか、それもなかった。

    主人公とそのほかの登場人物の土方歳三、坂本竜馬、沖田総司らの関係も良くわからなかった。
    そもそもそれらの登場人物が何を目前の目標にして生きているのかこの芝居の中では全く分からない。
    ただそこに居るだけで、人間の実在感がない。
    歴史を動かしている渦中の人物の持つエネルギーを感じない。
    俳優の責任ではない。脚本なのか、演出なのかどちらもそうなのか、
    ストーリーらしき事実の連続だけで、人間に魂が入っていないように見えた。
    また登場人間が置かれている状況と他の登場人物との関係が動くことによって
    そこにそれぞれの人間の心情が浮かび出てくることもなかった。
    たとえば滝口くん演ずる主人公のお兄さんは、
    物語の始まりと終わりで弟との関係に何か交流が深まったとか変化があったのだろうか、
    そこを語るのがお芝居なのではないのかと僕は思うのだが、そのようなものは見えなかった。

    結局、2時間30分かけて何が残ったのか、全く分からない。
    何が言いたかったお芝居なのか、なにも言うことはなかったから、コントの連続でお茶を濁したか、
    もとからコントの連続を見せたかっただけなのか、
    脚本家にも、演出家にも2時間半、観客に若い俳優の元気以外の、
    何か観客の心がちょっとでも豊かになるような娯楽を提供する意思も能力もなかったとしか思えない。

    演劇としても、演出家にはGロッソの無駄に広い空間を埋めるセンスがなかったか、
    広すぎる空間に絶望し埋める努力を放棄したとしか思えない。
    空間を設計するという本来演出家がセンスを働かさなければならない重要なポイントで、
    演出家が仕事を放棄してしまったことが、物語作りにも影響を与えたように見える。
    予算をかけられなかったからなのか、素舞台で良いとしたセンスのなさ原因か、
    どちらにしても大道具はほぼない。
    そのせいもあり、その瞬間がどの場所で、その空間と時間は、どのように他とつながっているのか、
    そこが演出家によって意識されていないので、
    越えられない時間の違いや、場所の違いをモノともせず、役者は移動してしまう。
    勝手に空間や時間を飛び越えてその場から出て行ってしまったのではドラマの作りようがないことになる。
    結局主人公以外の登場人物に人間味が出てこない原因の一つになっていると僕には見えた。

    コント部分は俳優たちが若く元気が良い分、結構盛り上がっていた。
    それが感動になっていかないのは、
    結局演劇では物語の起承転結とキャラクターの心情の変化や成長が必須で、
    この芝居にはそこがないからだ。
    ただのコントの連続はある種のサーカスとイコールになってしまう、
    目や耳に刺激と快感は在るかもしれないが、心に感動はやってこない。

    たぶん長い原作があり、そのどこかの部分をつまんで演劇に仕立て上げると言う作業を行ったのだろう。
    その作業工程の中で、観客には事前に設定は行き渡っていると言う前提を置いたのだろうと思う。
    そういう芝居の作り方もある。
    僕は原作を知らないのでこういう見方をするしかなかったのだが、
    原作を知っている人にはこれでも十分楽しめたのかもしれない。
    でもそれでは拡がらない。
    せっかく舞台化をするのだったら、何がしかの演劇的趣向に挑戦しそこも評価され、
    原作を知らないで観に来た人々にこの芝居面白い、って感じてもらい、
    原作を読んで見ようという気を起こさせて
    少しでも原作ファンを増やす方向を模索すべきだろう、
    と言うのが僕がプロデューサーとして原作を預かるときの基本スタンスだ。

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