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  • CASE OF TELEGRAPH 2013

    2013-01-04 12:52
  • 遠藤ミチロウ・インタビュー  1994年.6月8日  三鷹  (『イーター』創刊号掲載)

    2012-12-25 18:50
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    「俺達の生活は、柵のないリザベーションみたいなもの」

    (2012年刊行の総集編『EATER 90s』には、『イーター』5号に掲載された1997年の遠藤ミチロウのインタビューが再録されているが、それ以前、創刊号でも遠藤ミチロウのインタビューが行われていた。そこでミチロウが語っているのは、アメリカ・インディアンを探訪した時の体験だ。その中で触れられている『ホピの予言』は、まさに原発事故後の現在の日本の状況に繋がっている。今また新たな意味を持つそのインタビューを、ここに抜粋、掲載します。)

    「理想的な黄泉の国」

    ───アメリカ・インディアンに強い興味を持っていることだけど。

    ミチロウ  インディアンに興味持ったこと自体っていうのは、別に例えば少数民族問題がどうのこうので興味を持ったんじゃなくて、昔から単純にインディアンに対する興味ってすごいあって。

    ───昔って?

    ミチロウ  西部劇見てるころから(笑)。西部劇すごい好きだったから。好きなんだけど、やっぱ疑問符がついちゃって。なんで?っていうみたいな。インディアンってカッコいいと思ってたわけ、すげぇ。裸馬乗ってワーみたいなさ。

    でもやっぱり悪モンじゃん。で、怖いもんだったじゃない、映画ンなかでは。それが、だんだん、『ソルジャー・ブルー』(70年/ラルフ・ネルソン監督)あたりから、ガラッと変わってきて。でやっぱり、そういう歴史を知ってくると、ムムムってこう・・・。

    あの頃って子供の持ってるナショナリズムってあるじゃない。例えば零戦かっこいいとか、戦艦大和かっこいいとか。アメリカ軍来ると馬鹿野郎!みたいな・・・。

    たぶん俺ら、生まれた世代が50年代だから、父親っていうのは全部戦争に行ってる連中じゃない。だからそういう辺で、いくら戦争に負けて戦後民主主義っていっても、精神的な部分ではかなりそういうものに引かれる要素ってあったじゃない。それと繋がった部分で、やっぱりインディアンっていうのはモンゴロイドだっていう・・・

    ───あ、成るほど。

    ミチロウ  おれ、歴史好きだったからさ。モンゴロイドで、何万年前かは、たぶん日本人と繋がってたんだろうみたいな、そういう一種のロマンチックなアレに、すごい引かれてて。それが全部・・・現実のインディアンを見てみたいっていう、まぁ野次馬根性っていえば、野次馬根性なんだろうけれど。

     だから・・例えば、東ヨーロッパとか行った時ってのは、スターリンだからこそ行ったみたいなとこアンノネ。でも、インディアンはスターリンとか関係なく、遠藤道郎っていう一人の人間として行ってみたいっていう感じだったから。

     インディアンのとこに行った一番最初の印象っていうのは、ああ、死ぬんだったらこんなとこで死んだらいいなあ、みたいな・・・ある種なんかね・・・理想的な黄泉の国だった。言い方悪いけど。

    自分のなかで黄泉の国的なイメージが、どっかで具体的なイメージとしてあるとしたら、それがなんかガーンと具体的に見せられたっていう感じがすごいある。それが今度のアルバム(『空は銀鼠』)までずーっと繋がってんだけど。

    ───アルバム全体に?

    ミチロウ  全体のイメージってのが。死の国だよね、黄泉の国っていうのは。死っていうものを、割りと日常感覚の中で意識して、歌を作っちゃったらっていうのが、けっこう今回のテーマのなかで、漠然となんだけど、強くて。やっぱ、その感じってのは、インディアンの所に行って、けっこう強く意識させられたとこあるよね。

    ・・・だから普通だったら、ああいうとこ行ってインディアンの人見れば、この人達はこんな砂と岩しかないような所でも生きてるんだみたいなところに感動するんだろうけど、でも、それがある種黄泉の国的な様子に見えたって言う事は、けっこう・・生きるんだ!っていう事にあんまりポジティブに考えてねぇのかなって、自分。(笑)

    ───居留地の建物は今式のものなんでしょ。

    ミチロウ  例えば村役場とか、そういう公共施設は完璧な近代建物だよね。学校とか。でも一人一人が住んでる家ってのは、アメリカの生活水準から言ったらかなり低い下層階級の建物だよね。プレハブだからね。元々、石造りの家に皆住んでたんだけども。最近は皆、プレハブだよね。

    ───黄泉の国に感じたってのは、周りの風景、それとも町の様子が・・

    ミチロウ  風景でしょ。町のモノってのはどんどんどんどん現実的になっていくから。スーパーマーケット行けば、やっぱスーパーだし。ただ、そういう黄泉の国の風景のなかにボーンとスーパーマーケットがあったりすると、なんだろうなっていう・・・・。まあ、アメリカだとよくある風景なんだろうけどね。でも、なんか・・・。

    「『ホピの予言』との出会い」

    ───インディアンの村にはどのくらい滞在してたの。

    ミチロウ  うん、だいだい一回行くたびに二週間くらいだよね。3回行ったけど。

    ───実際の生活に触れた印象は・・・

    ミチロウ  実際の生活は俺らと変わんないから。テレビ見て、普通に飯喰ってってみたいだから。だから、実際の彼らの生活に感動したっていう、そういうんじゃないよね。だって彼らが例えば未だに石ころを積み上げた家に住んでて、電気も水道も使わないで自給自足的な生活してんなら、それはそれでの感動があるだろうけど。

    そういうの、してる人もいるノネ。ただ、そういう人達は見せてくんないよ。外部の人間は信用してないから。もうちょっと、いわゆるアメリカの現代生活してる連中とか、そういう人とは親しくなれるけどね。

    彼らの生活がいいなあと思うんじゃなくて、そこにはどっちかといったら、彼等もこういう生活をせざるを得なくなってしまったんだっていう、ある種の悲哀みたいな・・・。やっぱり経済ってのは、資本主義ってのは恐ろしいなっていうか。彼らさえも、そういう生活に巻き込んでしまうっていうね。

     インディアンがもともと持ってた生活思想から、すごい感動する部分ってのいっぱいあるけど、現実の彼等だってそれができてないわけだからね。しようにもできない部分もあるだろうし、したくないっていうとこもあるだろうし。

    そこ全部とっぱらって、インディアンの昔からの生活が最高だっていうふうに、運動として持っていくってこと俺はできない。嘘がでてくるなって。それとインディアンに引かれるっていうことは、かなり俺のなかでは離れたもんだからね。

    ───実際にインディアンの人達に触れてみて、昔から持ってたインディアンに対する引かれる気持ちは変わらずにもう・・・

    ミチロウ  変わらずにある。うん。だから俺は、ある種インディアン的なものと関わらざるを得ない部分があったとしたら、たぶん、自分なりのやり方でしかやっていけないだろうな。

    ───アメリカ社会の中でのインディアンの位置ってのはどうなの。

    ミチロウ  ああ、最低層だよ。いろんな少数民族がいるなかで、インディアンっていうのはたぶん一番差別されてる。数も少ないしね。経済力も持ってない。

    ただ、アイデンティティー的なところ・・、アメリカっていう国家のナショナリズムはあるかって考えた場合には、インディアン抜きには考えられないわけじゃない。

    白人が入ってくる前から、インディアンは部族で国家だったわけだよね。彼等に国家っていう発想はなかったけれど、国家的な要素が入って来た時に、彼らも国家として部族を考え直して、それで対抗しなきゃいけなかった。

    だからインディアンの部族同志もすごい仲悪かったりするんだよ。おれが行ったホピ族と、隣のナバホ族なんかすげぇ仲悪いんだよ。未だに何百年前からの土地争いやってんだよね、延々と。昔は実力行使だったんだろうけど、今は民主主義だっていうんで裁判で争ってるけど。ホピ族はホピ族でナバホの悪口言うし。その辺はけっこう、たいしてユーゴスラビアと変わんないなっていう世界あるよ。

    その意味で、彼ら自体がそういうミニマムなナショナリズム的な部分を、どっかでクリアできなかったら、多分いくら周りがどうだこうだ言っても、やっぱりそこに問題はいっちゃうなぁと思うよね。

    ───インディアンの宗教は今、実際にはどうなの。

    ミチロウ  ホピは、土着だよ。インディアンの宗教が母体になってる。教会とかあるんだけど、そんなのクリスマスにプレゼントもらうとか、その位の感覚だよね。

    だけど例えばホピ族の子供達がホピ語がもうわかんなくなって、唯一『聖しこの夜』をホピ語で歌えた、みたいなことがあって。俺が例えばキリスト教でもないのに、クリスマス祝って「きーよし、こーのよるー」って歌うのと、同じだなっていう・・その状況。それにも、すごい共通を感じたよね。

     ホピ族はある意味ではねぇ、一番好戦的じゃあない部族なんだよね、インディアンのなかで。馬に乗んないんだよ。すごい好戦的じゃないのに、彼らが一番キリスト教的なものに、要するに宣教師が入って来た時に一番抵抗したの。で、結局追っ払っちゃったんだよね。その意味でインディアンの中で、一番キリスト教的じゃないよね。

    ───居留地から出ていって、町で成功しようとかは・・

    ミチロウ  みんなそうだよ。若い奴は皆高校位出たら、一回町に出てく。だって、仕事ないんだもん、リザベーション(インディアン居留地)には、何も。村役場の人間になるか、お土産物を観光客に売るしかないんだもん。そうじゃなかったら、自分で土産物を作るか。殆どそうだけどね、今。

    町に行って差別されたヤツとか、いやンなって結局皆帰ってきちゃって。で、町ブラブラしてる、若いヤツが。だからアル中とか多いんじゃない。リザベーションで生活してる限りは、ある種生活保護受けたりとか、そういう形になっちゃうからね。だからもう飼い殺しみたいな形だよね。

    ───インディアンは日本人に対してどう見てるの。

    ミチロウ  けっこう、日本人と昔は一緒だったっていうのは漠然と知ってるんだよね。だからやっぱり、白人が来るのと日本人が来るのでは、全然態度が違うよね。

    ───最初に行ったときは何人かと一緒だったの。

    ミチロウ  モーリー・ロバートソンと二人で行って。モーリーは用があって一晩しか泊まってないで、あとはずーっとオレが残っていたんだけど。だけどあいつは半分日本人だから、よくわかってるから、英語でそういう話できるじゃない。だから、インディアンもすごい判ってくれたみたい。

    最初行ったときに、ある人を訪ねて行ったんだけども、その人のとこがわかんなくて。で村に一軒ホテルがあって、そこに泊まったら向こうから訪ねてきたの、俺らが探してた人達が。そいでいろいろ話して、そしたらホテル高いから俺たちのとこ泊まれっていうふうに。次の日から。

    ───じゃあ、最初っから歓迎されたんだ。

    ミチロウ  いや、最初は何者なんだろうって思うじゃない。いきなり来たら。そうか、それだったらおいで、みたいな。俺が泊まった人ってのは、日本にも来てるんだよ。トーマス・バニヤッカって。

    『ホピの予言』っていう映画があって、原爆のウラニウムで被爆してるんだよね、インディアンの人達が。そのことを取り上げた映画の中で、ホピの予言のこと説明してる人がいるわけ。

    ホピの予言って石版があって、そこに絵文字でつい最近までの、原爆が落ちてどうのまで予言されてるって絵があって、それの説明をしてる人のとこだったんだよね、泊まったのが。その人、アイヌ問題とかで、やっぱり少数民族の問題で日本に来てたりして。80幾つの爺さんなんだけどね。

    ───その人のとこへ最初から行くつもりだったんだ。

    ミチロウ  俺はそういうのやってる人だって直接知らなくて、たまたま友達がそこの部族に行ったとき、その人のとこ泊まってて、紹介してくれたんだけど。で行ってみたら、そんな大変な人だった。

    「ホピ・スターリン熱狂ライブ」

    ───インディアンの村で、歌も歌ってきたそうだけど。

    ミチロウ  インディアンの場合はほんとに個人的なところで行ってて、ただ歌ってる人間だから、結局向こうでも歌ってきたって、そういう事だよね。三回目に行った時は、もうとにかく歌目的で行ったから。一度目は単に、たまたまホピだったし、たまたま歌ってしまったんだけど。

    ───それはアコースティックで最初にやった時?

    ミチロウ  それは三回目。一回目の時はバンド作ってやったんだもん、向こうで。

    ───ああ、あの高校生とか集めたっていう・・

    ミチロウ  そうそう。その時にサンフランシスコとバークレーで、向こうのアメリカ人のメンバー集めてスターリンっていうバンドにしてライブやって。でインディアンのとこ行って、インディアンの高校生とか楽器持ってる奴集めて、スターリンを作って。でスターリンの曲を演奏してきた。ライブやってきた。「ホピ・スターリン」て名前にして。

    ───そんな短期間で、メンバーも曲を覚えたりしたんだ。

    ミチロウ  リハーサルなんか、二時間位しかしてないよ。

    ───何曲位やったの?

    ミチロウ  五曲位やったのかな。コンサート会場が小学校の体育館で、小学生が百五十人位いるとこで。みんなギャーって並んでて。すごいよ。何もないから、設備が。

     ドラムは生。ギターとベースがちっちゃいアンプ持ってって、ボーカルはあの体育館とかよく付いてる小っちゃなマイクあるじゃない、しゃべる用の。そのスピーカー使ってやったからね。しょぼい音なんだけど、でもそれでも大喜びっていう。

    後ろのほうで、高校生とか中学生も見に来てて、そいつらがビールとか飲んでて、小学校の先生が焦っちゃって、もう小学生帰らせようとしてんだ。こんなとこ環境悪いから、みたいな。俺も、まずいなぁと思いながら。で、もうやめたら、残ったメンバーが演奏やめないんだよ、盛り上がっちゃって。

    小学校の先生が、「もう、終わらしてくれませんか」みたいに来てさ(笑)。「まずいんですよねぇ。後ろでビール飲んじゃってぇ」とか言って。

    ───やっぱり、ロックは不良だという、原点に帰っちゃった(笑)。

    ミチロウ  そうそう、それで悩んじゃったよ、俺。ジレンマで。板挟みになって。

    ───二回目は演奏はしなかったんだ。

    ミチロウ  二回目の時は、サン・ダンスとかいった儀式があんのね。それに参加してみたいと思って。それホピ族じゃないんだよ。それは、ナバホ族。ナバホのいわゆるサン・ダンス、太陽の踊りってのがあって、それ四日間踊り続けて、一種の成人の儀式みたいなんで。ある年齢に達した若者とかが、直接ピアスを肉にやって。

    ───あ、例のこうぶら下がるやつ。ほんとに今でもやってんだ、あれ。

    ミチロウ  やってる、やってる。それに、参加できる。直接俺はやんないよ。周りで一緒に踊ってるだけなんだけど。それが一年に一回あんのね。アメリカ中からいろんなヤツ来てる。白人も来てるし、ヒッピーとか、黒人も来てるし。

    50メートル位のサークルがあって、真ん中に木が一本あって、そこからロープでこうピアスで身体引っ張って、それで踊ってんのね、何人もの人が。それ四日間ずーっと日の出から日没まで踊り続けてるからね。一時間位踊って、あと煙を吹きかけたりとかいろいろ儀式をやって、でまた踊って、その繰り返しだけど。

    そのサークルの外側にみんなこう混ざって、一緒に踊ったりとか、その儀式の聖なる煙を受けたりとか、それは参加できる。外でキャンプ張ってみんな寝泊まりしてんの。一種のヒッピー・ムーブメントみたいな感じもあるんだけど。

     三回目の時は、クリスマスに向こうでコンサートやろうと思って。ほんとはスターリン連れてバンドで行きたかったけど、そのころはバンドボロボロだし、スポンサー見つかんないから、結局カズヤ(元男闘呼組の高橋一也)と二人で行ってっていう世界になったんだけどね。

    結局アコースティクで歌いだしたっていうのは、それが最初なんだよね。インディアンのとこ行って歌ったのが、最初のコンサート。一昨年。それで帰ってきてすぐ、友部(正人)さんのゲストに出て。それからだよね、歌いだしたの。

          

    ・・・でも、やっぱり、一種のリザベーションだよね、俺たちの生活ってのは。柵のないリザベーションみたいなもんじゃない。結局、なんもすっことねぇよなー、みたいなとこに。

    特に若い奴らは、ある種理想が成り立たないっていうことは、そういうことじゃない。今日はいいもの食いてぇとか、あれが欲しい、これが欲しいっていうとこにしか行けないっていうね、物欲的なとこにしか行けないっていう部分が、同じだよね、やっぱね。

    インディアンの場合はそれすらも実現できないから。いい車に乗りたいって思っても、金はないしみたいな。だからますます、なんもしないで、ボーッとしてるしかない。

    その意味では、インディアン自体が抱いている空虚さと、現代の特にこういう日本とか割りと豊かな国の若い奴が持ってる空虚さって、共通するものがあると思うよ。

                                ENDO

  • 追悼・若松孝二監督

    2012-11-04 00:01

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     若松孝二監督が亡くなった。若松監督には『イーター』5号でインタビューさせてもらったことがあり、さらに単行本『ムービー・パンクス』にそのインタビューを再録させてもらっている。『イーター』では先鋭的な映画監督も多く取り上げてきたが、若松監督こそ彼らの先達であり常に指針であり続けた。

     若松孝二という名前は、僕の学生時代に既に最も過激な映画監督として鳴り響いていた。キャンパスのタテ看に書かれた「若松孝二監督作品上映会」という文字の威圧感は、今も鮮明に記憶に残っている。

     実際に若松作品を観るようになったのはビデオが普及しだした頃で、『犯された白衣』などの初期の作品に衝撃を受け、若松作品を探して中央線沿線のレンタルビデオ屋を回ったものだった。

     『イーター』でのインタビューが実現したのは19977月のこと。阿部薫と鈴木いづみの生涯を描いた『エンドレス・ワルツ』という映画を、町田康の主演で若松監督が制作し、そのイベントがロフトプラスワンで行われた。その時に町田康に若松監督を紹介してもらい、インタビューをお願いしたのだった。

     インタビューは千駄ヶ谷の若松プロの事務所で行った。監督と差し向かいで二人きり、これ以上はないというほど緊張した二時間だった。帰る時には口の中がカラカラになっていた。しかし、そんな僕にも若松監督は、ピンク映画時代の話からパレスチナ・ゲリラとの交流、映画や若い世代に対する思いを、惜しむことなく語ってくれた。その懐の広さに深く感じ入ったものだった。

     若松監督はここ数年、次々と大作を発表し、海外での評価も高まり、まさに絶好調だった。それだけに一層、監督が亡くなった喪失感は大きい。その言葉を直接聞いた者として、『イーター』が少しでもその遺志を継ぐことができるのだろうか。

                   地引雄一  2012112