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【第10話】岩手県陸前高田市/緊急時には、ルールはルールじゃなくていい
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【第10話】岩手県陸前高田市/緊急時には、ルールはルールじゃなくていい

2012-12-05 23:40
    陸前高田で自動車学校を営む田村さんは、学校が高台にあったために難を逃れた。しかし、地震と津波の後、東京や北海道から合宿で免許を取得しようとしていた生徒約100名が残された。全国からの支援によって全員無事に返す事ができた田村さんが、今後や復興の在り方などについて語った。

    取材者:島田健弘

    取材日:2012年4月5日


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    田村滿さん


    ■生徒全員を必ず無事で送り届ける

     市内のほぼ全域が津波に飲み込まれた岩手県陸前高田市。本庁舎、消防本部も被災した同市で、高台にあって津波被害を免れた自動車学校がある。高田自動車学校だ。社長の田村滿(65歳)さんは震災当時のことをこう語る。

    「3月は繁忙期で、震災当時、百数十名の生徒がいました。14時46分は僕も教習していました。助手席にいて、急に車が大きく揺れて、運転席の生徒がブレーキを踏んで、車を降りたんです。それからみんなの安否を確認すると、路上教習に出ている車が7台あった。講習が終わるのが15時で、彼らもちょうど引き上げていた時だったので、全車無事でした。しかしながら点呼をとったら合宿生の5〜6人がいない。これは大変だと社員と手分けして自転車で探しいきました。すると彼らも坂を上がってきていたので助かった。全員が無事でした」

     高台にある高田自動車学校からは、コースの端から気仙川が見える。気仙川は津波によって逆流していた。

    「ものすごい勢いで逆流していて、海岸に防風林として植えてあった松もガンガン流れてくるんです。これはもう大変なことだと。生徒のケアをしているうちに地元の皆さんも避難してきたので、みんなを校舎に案内しました。40人くらいだったと思います。ただ、地震で校舎2階の天井が落ちていて危ないので、1階のロビーや教室で過ごしてもらいました」

     幸運にも繁忙期だったので、学校には大量の料理の用意があった。ガスも電気も通らなくなっていたが、2台ある大型タンクには灯油が補充されてあり、教習車用のガソリンも満タン。水は、沢から汲むことができた。高田自動車学校では子会社で満福農園を営んでいたため、農園の水槽に水をいれてフォークリフトでトイレの近くに運んで用を立すこともできた。寮の毛布や布団をロビーにかき集め、暖を取った。

    「まず考えたのは生徒をどう帰そうかということでした。かろうじてラジオが聴ける状態でしたが、12日になっても新幹線はとまっていることがわかりました。もちろん道路もガレキに寸断されているので車も走れないわけです。生徒を帰さなければならないけど、アイデアが出てこない。12日に道路は駄目だけど、山道はなんとか通れそうだという情報をえて、山道に行ったら大きい車は難しいかもしれないけど、普通の車だったらなんとか通れそうだということがわかりました。13日になってまず県内の生徒は全部社員で手分けして自宅まで送ろうということになりました」

     残ったのは首都圏から来た約100名の生徒と8名の北海道の生徒だった。

    「交通手段がない、燃料がない、高速道路が使えない、仙台も通行できない、福島も通れない。そういう状況の中で13日に県内の生徒たちを返してからずっと寝ないで考えました。それで考えぬいて北上市のバス会社に連絡して大型バスを3台借りて送ってもらおうということになりました。けど、バスは陸前高田まで入ってこれないから、平泉まで教習所のマイクロバス5台で送っていくことなりました」

     最後に残ったのは北海道の生徒だった。

    「彼らは秋田空港から帰すことができました。16日のチケットがとれて、その便で送り届けました」


    ■支援の拠点に

     生徒をすべて無事に送り届けることができたころには、ロビーに避難していた住民もそれぞれ帰っていった。

    「我われのことを考えはじめたのが15日です、ようやく我われはどうしたらいいかを考えはじめころに、私も席を置く中小企業家同友会の仲間が物資をガンガン運んでくれると連絡をくれたんです」

     中小企業家同友会は中小企業家による任意団体で、全国都道府県にあり、4万1000企業経営者が加盟している。

    「当初はその支援物資を市役所にもっていこうと思ったんです。ところが役所の職員は67名が亡くなって、目の前のことをクリアするのに手一杯で物資の手配まで動きようがない。預けるといっても『勘弁してくれ』という状態でした。それで我われが物資の配給をするようになりました。物資が届きだしたのは19日ごろでした。それから陸前高田の南の気仙沼の唐桑地区から北の釜石あたりまでの200ヵ所以上の避難所を、わが社だけじゃなくて同友会の仲間の社員みんなでしらみつぶしに調べて、物資が行ってないところに届けることにしたんです。物資が届いてない避難所は40ヵ所くらいで、自衛隊からの支援物資も届いてないところもありました。避難所に指定されていない避難所もあったんですね。全国から届いた物資を仕分けて、みんなで配ってという作業を1日中していましたね」

     同じ時期に警察や自衛隊の車輌がやってきて、高田自動車学校を捜索や復旧の拠点に使わせてもらいたいと相談してきた。田村さんは二つ返事で了承した。それから毎日200人以上が詰めかけたていたという。

    「道路に関しては自衛隊さまさまですよね。最初、我われの社員が道路が寸断されているのをガレキの撤去しようとしたんですが、プロパンガスのボンベがいたるところにあるわけです。それを乗り越えていくのは勇気がいるんですよ。恐る恐るやってたんですけど、それを見ていた消防隊員たちが、『民間の人たちにやらせるわけにはいかない。我われにやらせてくれ』と言ってきたので貸しました。
     自衛隊の人たちはガレキを撤去して道路を作ってくれますが、自衛隊にはそれ以外にもいろんな任務があります。ですからすべての道路のガレキを撤去すこともできませんし、道路も全部きれいにするわけにはいかない。なんとか1台分通れるくらいやってもらうという感じでしたが、それでも1台通れる道ができただけでも嬉しかったですね。
     自衛隊というのはすごいと思いました。がけ崩れが起きて孤立している避難所があったんですが、そこの隣に河川敷があって、河川敷に道を作ってしまった。本当に助かりました」


    ■新しい街づくりを阻む行政の壁

     高田自動車学校は震災から1ヵ月10日後の4月21日に再開した。また、田村さんは9月には、復興まちづくり会社として「なつかしい未来創造株式会社」を設立。民間の力を活用して新たな陸前高田市を作っていこうとしている。そして復興には道路の整備からはじめるべきだったと言う。

    「関東大震災の時に東京市市長だった岩手県出身の後藤俊平は、復興事業として昭和通りを作りました。最初は道幅を108メートルとするとして『そんなに広くしてどうするんだ。ほかにもやることがある』と批判されましたが、実行し、それがいまの昭和通りになったんです。だから道路は絶対に必要です。
     だから、僕は市長とか市の役人にも『なんで道路を先に作らないのか』と何度も言いました。道路を最初に作ってちゃんと区画整理して、それから街を作っていくほうがいいんじゃないかと。でも彼らは前の道路をそのまま使おうとするんです。新しい街を作るという感覚じゃないと。そのためには道路をまず先に整備する。だからまず道路ありきなんです。
     震災の時も、被災した国道に代わって避難や支援の幹線となったのは農免農道でした。そしてそこしか車が通れる道がないので、いまはそこ仮設住宅を建てたりしているわけです。2011年5月には戸羽太市長にまず農免農道を整備する必要がある。そこが復興のメインストリームになるはずなので、仮設住宅や建物を建てないようにしてほしいと言ったんです。まず規制してそこから徐々に街を作っていく感じにしていかないといけないと。そして農免農道に直角に交わる海から逃げられるような道路をいっぱい作っていくべきだと。
     ところが、それをやると私有地がいっぱいあるため、規制するのはなかなか難しいと言うわけです。本来はそういう難しい権利や主張を整理していくのが行政のはずなのに、やらないわけです。結果的には駄目でしたね」

     復興を考える時に行き当たるの行政の壁だ。行政は法律通りにしか動かない。しかし平常時と非常時では常識も違う。復興期においても同じことがいえるだろう。田村さんはルールを守りすぎることで間違うこともあると言う。

    「自動車学校の教え方も悪いかもしれないけど、今回、津波が迫っているにもかかわらず、右側を走らないで亡くなっている人たちがいっぱいいました。緊急時にはルールはルールじゃなくていい、という教え方もしていかないといけないと思いました」

     形骸化したルールでもいまだに守られている。

    「信じられないのは、今年の2月に大船渡で踏切を一時停止しないから捕まった人がいるんです。踏切は被災してて絶対に電車が通らないところです。それなのに踏切で止まらないからと切符を切られた。ルールとはなんのためにあるのでしょうか」

     陸前高田市は津波によって市内のほとんどが被災した。極論すればゼロからのスタートを考えていかなければいけない。陸前高田市の復興計画には「世界に誇れる美しいまちの創造」とある。

    「復興計画は防潮堤を作り、土地を嵩上げすると。本来なら、『世界に誇れるまちとは、こういう町です』と雛形を作ってしめさないといけない。防潮堤をつくってほしいという意見はいままでほとんど聞いたことがありません。防潮堤なんかいらないという人のほうが僕が話した中では多い。それでもやるというのは、防潮堤つくるというのは国の予算で、防潮堤を作るための予算はあるんです。だから予算に色がついている。それをいらないと言ったら、もらえないだけ」

     住民への説明も不足しているという。

    「陸前高田市で11回説明会を開きました。しかし地区が11個あれば一回ずつしかしていないことなんです。住民と一回ずつの説明会を開いて、説明したことに対して住民の人がちゃんと意見を言えるかというと言えませんよ。なるほどなと思っているうちに終わってしまいます。これはアリバイ作りでしかないと思います」

     
    陸前高田ドライビングスクール
    http://takata.si-dsg.com/

    なつかしい未来創造株式会社
    http://www.natsu-mi.jp/


     
    [取材]島田健弘(しまだ・たけひろ)
    1975年生まれ。オンラインマガジンのライターを経てフリーライターに。現在は、月刊誌、週刊誌、Web媒体などで、政治、経済、ビジネス、サイエンス、アニメ、漫画、声優などのジャンルで取材、執筆をおこなっている。
     


    ■12月6日(木) 生放送番組

    【東日本大震災 証言アーカイブス】
    宮城県の仮設住宅を取材してきました!
    http://live.nicovideo.jp/watch/lv116518279

     
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    9月1日~3日、Fプロジェクトのメンバー5人が、宮城県石巻市や気仙沼市の仮設住宅を訪れ、合同取材をしてきました。この合同取材には、渋井哲也、畠山理仁、島田健弘、渡部真などFプロジェクト
    のメンバーだけでなく、Fプロジェクト以外ライター仲間や学生も参加しています。

    仮設住宅で暮らす人たちから、震災の体験談や現在のお気持ちなど、できるだけ多くのお話を聞かせていただき、それぞれの記者が取材した結果を同じ場で報告し合う事で見えてくるものがあるのではないかと企画しました。戦場ジャーナリストの村上和巳さんや、途中で津田大介さんとも合流し、宮城県石巻市や気仙沼市 の仮設住宅などに伺いました。

    最初は、以前から取材を続けていく中で、「ただ、話を聞いてくれるだけでもいいんだ」という声があり、「我々が仮設 住宅で暮らす方々からお話を聞かせていただく事で、少しでも役に立つなら皆で聞きに行こう!」というのがキッカケでした。そして、せっかく話を聞いたのであれば、やはりアウトプットする事が私たちの仕事です。

    震災から約1年半、仮設住宅で暮らす人たちが抱えている問題点はどんな事なのか? 合同取材の中で見えてきたものとは……

    【日時】2012年12月6日(木)20時00分~21時30分

    【出演】島田健弘(フリーライター)
        渋井哲也(フリーライター)
        畠山理仁(フリーランスライター)
        増田菜穂子(学生)

    【番組】http://live.nicovideo.jp/watch/lv116518279

    無料放送です。ぜひ御視聴ください。
     

    【関連チャンネル】

    渋井哲也の「てっちゃんネル」
    http://ch.nicovideo.jp/channel/shibui


    フリーランサーズマガジン「石のスープ」
    http://ch.nicovideo.jp/channel/sdp


    畠山理仁チャンネル
    http://ch.nicovideo.jp/channel/hatakezo



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