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  • 【編集長:東浩紀】ゲンロンβ11【批評と怒り】

    2017-02-11 01:00
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    ゲンロンβ11 2017年2月10日号

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    11
    2017年2月10日号
    編集長:東浩紀 発行:ゲンロン


    【ブロマガ版『ゲンロンβ』購読者の皆さまへ】
    ※昨晩配信した『ゲンロンβ11』の東浩紀のビデオメッセージ「『ゲンロン0』執筆中のため連載を落とした東浩紀よりみなさまへ」ですが、動画へのリンクが欠落した状態での配信となっておりました。申し訳ございません。リンクを挿入したバージョンを再送させていただきます。
    なお、動画URLはhttps://vimeo.com/203435398、パスワードは「hontonideruzo」となっております。

     目次 

    1. 空白を横断する怒りの批評 「『現代日本の批評 1975-2016』再考」レポート 峰尾俊彦
    2. 『ゲンロン0』執筆中のため連載を落とした東浩紀よりみなさまへ
    3. ポスト・シネマ・クリティーク #14 マーティン・スコセッシ監督『沈黙 -サイレンス-』 渡邉大輔
    4. 「日本映画と海外ドラマ、いま、どちらを見るべきなのか」イベント前緊急寄稿 黒瀬陽平+渡邉大輔
    5. 浜通り通信 #47 ロッコクを走る2017 小松理虔
    6. 人文的、あまりに人文的 #10 山本貴光×吉川浩満
    7. アンビバレント・ヒップホップ #7 ラップ・ジェスチャー論~手は口ほどにモノをいう~(後編) 吉田雅史
    8. 批評再生塾定点観測記 #7 演劇・表象 横山宏介
    9. 新芸術校第2期標準コース 金賞・銀賞受賞者決定! ゲンロン編集部
    10. メディア掲載情報
    11. ゲンロンカフェイベント紹介
    12. 編集部からのお知らせ
    13. 編集後記
    14. 読者アンケート&プレゼント
    15. 次号予告
       

    ゲンロン カオス*ラウンジ 新芸術校標準コース成果展「直接行動(ハプニング)を待ちながら」にて、金賞を受賞した磯村暖さんの作品《homeparty》より。
    撮影=今井新

    ※今号は東浩紀「観(光)客公共論」、黒瀬陽平「『ポスト』モダニズムのハードコア」は休載です。

     


    空白を横断する怒りの批評
    「『現代日本の批評 1975-2016』再考――共同討議全3回完結記念」レポート
    峰尾俊彦
    @mine_o


    いったい誰がこのような展開を予想し得たのだろうか。去る2017年1月13日に開催された「『現代日本の批評 1975-2016』再考――共同討議全3回完結記念」は、タイトルにもあるように、『ゲンロン』において3回にわたって特集された「現代日本の批評」の完結記念イベントとして行われた。登壇者として共同討議「現代日本の批評」の中心メンバーである東浩紀氏と大澤聡氏に加え、外部のメンバーとして『神々の闘争』(2004年)、『光の曼荼羅』(2008年)などの折口信夫論で知られ、現在の文芸誌でも最も精力的に活動する批評家のひとりである安藤礼二氏、ロスジェネ世代の論客として出発し、『長渕剛論』(2016年)や『非モテの品格』(同)などの文化批評の書き手として精力的に活躍する杉田俊介氏を招き、多角的に共同討議「現代日本の批評」の意義を検証していく。それが、このイベントの趣旨である(以下本稿では敬称略)。

    筆者(峰尾)は、共同討議「現代日本の批評」の構成担当者として「現代日本の批評」に参加してきた。第3回まで大好評のうちに迎えられた「現代日本の批評」の完結イベントということで、正直に言えば筆者は本イベントが、内部のメンバーは誇りを持って共同討議の意義を語り、外部のメンバーは別の視点から共同討議の面白さを伝えていくというような、ありがちな「出版記念イベント」になる、と考えていた。しかし、批評の現状はそれを許さなかった。実際にイベントがはじまってみれば、筆者の予断はあっという間に覆されてしまう。本イベントで繰り広げられていたのは、安藤、杉田という外部のメンバーによる苛烈な「現代日本の批評」に対する異議申し立てであった。そう、「現代日本の批評」の完結を記念すべきはずの本イベントは和気あいあいと批評の未来について語り合うどころか、昨今では珍しく容赦なく批判がぶつかり合う荒れた展開となったのだ。

    では、その光景はどんなものだったのか。結論を先取りするならば、本イベントは、批評の現状への「怒り」をめぐるものとなったように思われる。筆者は本稿の冒頭で、誰がこのような展開を予想し得たのかと記した。しかし、本イベントにおける「怒り」を目の当たりにしたいまとなっては、この展開は予想できてしかるべきものであり、また必然だったのだと言わなくてはならない。以下、本レポートでは、実際のイベントの構成と同様に、安藤による「現代日本の批評」へのコメント、安藤コメントにまつわる討議、杉田による「現代日本の批評」へのコメント、杉田コメントにまつわる討議、という順に繰り広げられた主要な論点をまとめ、筆者の感想も交えながら、当日の白熱した議論を再現してみたい。
     

     
  • 【編集長:東浩紀】ゲンロンβ10【うごめく「もの」に目を凝らす】

    2017-01-13 00:061
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    ゲンロンβ10 2017年1月13日号

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    2017年1月13日号
    編集長:東浩紀 発行:ゲンロン


     目次 

    1. 観(光)客公共論 #12 東浩紀
    2. 「ポスト」モダニズムのハード・コア――「貧しい平面」のゆくえ #16 黒瀬陽平
    3. ポスト・シネマ・クリティーク #13 草川啓造監督『劇場版 艦これ』 渡邉大輔
    4. アンビバレント・ヒップホップ #6 ラップ・ジェスチャー論~手は口ほどにモノをいう~(前編) 吉田雅史
    5. 浜通り通信 #46 忘れやすい日本で、福島の観客を取り戻す 小松理虔
    6. 人文的、あまりに人文的 #9 山本貴光×吉川浩満
    7. 批評再生塾定点観測記 #6 文芸・文学 横山宏介
    8. ゲンロン友の会総会フォトレポート ゲンロン編集部
    9. メディア掲載情報
    10. ゲンロンカフェイベント紹介
    11. 編集部からのお知らせ
    12. 編集後記
    13. 読者アンケート&プレゼント
    14. 次号予告
       

    ゲンロン友の会第7期総会(2016年12月17日開催)にて行われた、カオス*ラウンジ×サエボーグのアートパフォーマンス「動物農場の子どもたち」より。
    撮影=丸尾隆一

     


    観(光)客公共論 #12
    東浩紀
    @hazuma


    「観(光)客公共論」と題したこの連載、連載とは名ばかりで休載が続いていた。バックナンバーを遡ってみたところ、昨年8月の『ゲンロンβ5』を最後に掲載が途絶えていたようだ。しかもその最後の回は「批評とはなにか(3)」と題した尻切れトンボの文章で、次回は柄谷行人について語るなどと続きが予告されているのだが、実際にはその続きは『ゲンロン4』の巻頭言で書いてしまった。なんとも手詰まりの雰囲気である。

    というわけであらためて仕切りなおしたいのだが、そもそもなぜこんな混乱に陥ってしまったのか。その理由は、ぼくがこの半年ほど『ゲンロン0』の書き下ろしに捕まっていることに尽きる。『ゲンロン0』の原稿を書く、それが最優先の仕事で、どうしても連載は後回しになる。おまけに内容も被っている。本連載は「観(光)客公共論」と題されているが、『ゲンロン0』のサブタイトルは「観光客の哲学」である。それでも連載開始当初は、こちらの連載をうまくまとめて『ゲンロン0』の一部に組み込むなどとムシのいいことを考えていたのだが、実際に執筆が始まってみればそんなことができるわけもない。結果的に、『ゲンロン0』を書き進めれば書き進めるほど、連載ではなにを書けばよいのかわからなくなり、迷走するというテイタラクになってしまった。

    とはいえ、その混乱も終わりが近づいている。『ゲンロン0』の制作が大詰めを迎えているからだ。本誌配信の翌週には、某所で2回目のカンヅメに入る(1回目のカンヅメは昨年秋に行った)。会社経営をしていると雑事が多く原稿に集中できないのだが、カンヅメのあいだは社内メーリングリストからも外され、否応なく原稿だけに向き合わなければならなくなる。うまくいけば2月はじめには原稿が完成し、3月中旬にはみなさんのお手元に本が届けられるはずである。

    ところでこの『ゲンロン0』だが、いったいなんのことだかよくわからんという読者も多いかもしれない。そこで軽く説明しておきたい。

    『ゲンロン0』は、要はぼくの新著である。形式的には『ゲンロン』の創刊準備号という位置づけで雑誌の体裁で出版されるが、掲載されるのはぼくの文章のみであり、実質は単行本と考えてさしつかえない。つまりは、『一般意志2・0』(2011年)、『セカイからもっと近くに』(2013年)以来の新著が、この3月に出るのである。しかも今回は完全な書き下ろしだ。

    書き下ろした長さは原稿用紙300枚ほど。主題は「観光客の哲学」。目次は第1部と第2部にわかれ、前者はどちらかと言えば哲学論文を意識した文章で、後者は文芸批評に近い文章で書かれている。出てくる固有名は、第1部では、ヴォルテール、カント、シュミット、アーレント、ネグリ、クリプキなど、第2部では、フィリップ・K・ディック、ジジェク、トッド、ジラール、ドストエフスキーなどだ。さまざまな時代のさまざまな内容のテクストが自由自在に登場し、それを横断してひとつの「批評」を紡ぐというこのスタイルは、柄谷行人の『探究』を強く意識している。ぼくはかねてより、いちど『探究』のような本を書きたいと思っていた。そしてまた、『ゲンロン4』の巻頭言でも記したように、最近は、いまこそ『探究』のような思弁的なスタイルの本が必要だとも考えるようになった。それゆえ自分で書くことにした。それが『ゲンロン0』である。

    具体的な内容としては、『ゲンロン0』は、「グローバリズムが世界を覆い尽くしたこの時代に、新しい政治思想の足がかりはどこにあるか」をテーマとしている。あるいは、別の角度から言い換えれば、「世界中で多くの人々が他者とつきあうのはうんざりだと言い始めた時代に、それでも他者への寛容を政治思想に組み込むためにはなにを手がかりとすればよいか」をテーマとしている。そのまわりに、「動物化」「ポストモダンの二層構造」「観光客」といったこの数年散発的に述べてきた概念や、ゲンロンカフェの座談会で口頭で述べるだけだったドストエフスキーの読解などが配置されている。ぼくのむかしからの読者は、ぼくがあちこちでばらばらに展開してきた話がこのように繋がるのかと、いろいろ発見があるはずである。『ゲンロン0』は、『存在論的、郵便的』『動物化するポストモダン』『一般意志2・0』のすべてを統合しつつも、その3冊のいずれよりも普遍的なテーマを追求した、公衆に開かれた本を目指している。ご期待いただきたい。
     


     

    というわけで、いまのぼくは『ゲンロン0』で頭がいっぱいなのだが、それにしても、ぼくはなぜこんな本を書こうとしてしまっているのか。

     
  • 【編集長:東浩紀】ゲンロンβ9【異界と接続する批評】

    2016-12-10 04:10
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    ゲンロンβ9 2016年12月9日号

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    2016年12月9日号
    編集長:東浩紀 発行:ゲンロン


     目次 

    1. 『観光客の哲学』第2部「家族の哲学(断片)」より断章 東浩紀
    2. ポスト・シネマ・クリティーク #12 片渕須直監督『この世界の片隅に』 渡邉大輔
    3. 「ポスト」モダニズムのハード・コア――「貧しい平面」のゆくえ #15 黒瀬陽平
    4. 日常の政治と非日常の政治 #8【最終回】 「POST-TRUTH」の時代に 西田亮介
    5. 人文的、あまりに人文的 #8 山本貴光×吉川浩満
    6. 浜通り通信 #45 小名浜のヤンキーが見た「小名浜竜宮」 小松理虔
    7. フクシマ・ノート #11 戦後津島とDASH村、失われたふたつの浪江町「開拓史」 二上英朗
    8. 批評再生塾定点観測記 #5 状況・社会 横山宏介
    9. メディア掲載情報
    10. ゲンロンカフェイベント紹介
    11. 編集部からのお知らせ
    12. 編集後記
    13. 読者アンケート&プレゼント
    14. 次号予告
       

    カオス*ラウンジ新芸術祭2016 市街劇「小名浜竜宮」に出品された村井祐希の作品《Omelet Embankment Section》の一部。中之作の海沿いにある清航館の前庭に展示された。スーパー堤防にヒントを得た大きくいびつな箱のような構造物で、シリコン樹脂で固めた絵の具を綱のように手繰りつつ、構造物の上に登ることができる。村井は『美術手帖』2016年12月号のアート界注目の新人100人を紹介する特集でも取り上げられている。
    撮影=小松理虔

     


    『観光客の哲学』第2部「家族の哲学(断片)」より断章
    東浩紀
    @hazuma


    下記に掲載するのは、ぼくが現在執筆中の新著『観光客の哲学』こと『ゲンロン0』の第2部から抜粋した断章である。『ゲンロン0』は、『ゲンロン』の創刊準備号という立て付けになっているが(そしてそれが出ないあいだに『ゲンロン』はすでに4号が刊行されているが)、実質的にはぼくの書き下ろしの新著である。いまのところ2017年4月刊行の予定で動いている。

    同著の一部は、本誌のバックナンバーですでに紹介したことがある(『ゲンロン観光通信 #3』『ゲンロン観光通信 #7』および『ゲンロンβ4』)。そちらを読まれた方はご存じのとおり、その時点では同著には「ですます」体の文章が採用されていた。というよりもぼくはこの数年、「ですます」での表現に強く傾いていた。しかし今回、あらためて、本誌に求められるもの、いまのぼくに寄せられている期待を熟慮した結果、完成稿は「だである」体に統一することとした。そのためにまた少なくない修正作業が発生しており、そのせいで刊行が遅れているが、そのぶん内容は読者の期待には応えていると信じている。

    ぼくがこの本で試みているのは、ひとことで言えば、『存在論的、郵便的』以来の――『動物化するポストモダン』以来のではないことに注意してほしい――新たな主著を書くことである。ぼくはそんな本は書きたくなかった。ひとことで言えば面倒だし、だれが読むのかもわからないからである。けれども、たぶんそれがないと、というよりもだれかがそういう時代錯誤なことをやらないと、批評はもうさきに進まない。『ゲンロン4』の巻頭言を書き、「現代日本の批評」の共同討議を修正しながら、ぼくはそんなことを考えていた。

    刊行を期待されたい。
     


     

    第1章「家族の脱構築のために」より

    第1部では、(1)21世紀の世界が、単数のリバタリアンな市場のうえに無数のコミュニタリアンな国民国家が乗っかっている二層の世界として捉えられること、したがって(2)現代の政治哲学の問題の多くが、その二層の原理の衝突として解釈できること、そして(3)そんな時代の「新しいよき市民」のモデルとして、ふたつの原理を往復する「観光客=郵便的マルチチュード」が想定できること、以上3点を明らかにした。「観光客」の存在から新たな哲学を構想するという本書の目的は、ここまでの議論であるていど達成されたことと思う。

    第2部では、以上の結論のうえで、「不気味なもの」や「子ども」について考えるふたつの草稿を掲載する。ただし両者はあくまでも草稿で、第1部のようにはまとまった議論になっていない。

    (……)

    ふたつの草稿は、いっけんかなり離れた主題を扱っている。一方は情報社会の新たな主体について論じ、他方はテロリズムの罠からの脱却を扱っている。けれどもその両者は、本書のここまでの議論から必然的に導かれる、同じひとつの問いに関係している。それはすなわち、この二層構造の世界において、もしかりにリバタリアンな市場に生きる「ビジネスマン」の拠りどころが「個人」であり、コミュニタリアンな国家に生きる「国民」あるいは「市民」の拠りどころが「国家」あるいは「共同体」であるとすれば、観光客=郵便的マルチチュードの拠りどころはいったいなにになるのか、という問いである。

    人間のアイデンティティをどこに求めるかは、政治思想の性格を大きく決定する。個人を出発点にすれば資本主義を肯定することになるし、共同体を出発点にすれば国家主義を肯定することになる。かつて共産主義なる政治思想が、個人でも国家でもない第三のアイデンティティとして、「階級」なる概念を提示したことがあった。というよりも、共産主義の革命性は、本当はこのアイデンティティの発明にこそあった。共産主義は階級に依拠していたからこそ、国家の存在を否定しつつも、個人の無秩序な自由の集積=資本主義を批判することができたからである。けれども、その共産主義は冷戦崩壊とともに影響力を失った。それゆえぼくたちはいま、リバタリアニズムとコミュニタリアニズムが正面からぶつかる、二層構造の世界に生きることになっている。

    この状況を脱するためには、個人でも国家でも階級でもない、第四のアイデンティティの発明あるいは発見が必要である。ロシアの思想家、アレクサンドル・ドゥーギンは「第四の政治理論」の必要性を訴えている。彼によれば、自由主義は個人の思想で、全体主義は国家の思想で、共産主義は革命の思想であり、それぞれ一長一短があるがいずれも現代に役立たない。それゆえいまは「第四の政治理論」として、ハイデガーの「現存在」の再解釈に依拠した新しい思想が必要なのだという。

    ドゥーギンは極右の体制派として知られ、この主張もロシアの地政学的拡張主義(ユーラシアニズム)と深く結びついており、ぼくはけっして彼の立場に同意するわけではない。そもそも「現存在」は、すでにいちど全体主義(ナチズム)にイデオロギーの要として利用されている。

    しかし彼のこの整理そのものは有益である。(……)