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【編集長:東浩紀】ゲンロンβ24【巻頭エッセイ・期間限定無料公開中!】
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【編集長:東浩紀】ゲンロンβ24【巻頭エッセイ・期間限定無料公開中!】

2018-04-20 21:30
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 ゲンロンβ24【「ゲームの時代」へ II】
 2018年4月20日号(テキスト版)
 編集長=東浩紀 発行=ゲンロン

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◆◆『ゲンロンβ24』試読版
https://issuu.com/genroninfo/docs/genronb24issuu/20
こちらから今号を試し読みいただけます。

◆◆◇◇ 目 次 ━━━━━━━━━━━━━━━━━


1. ゲンロンの未来――創業八周年に寄せて 東浩紀
2. スマホの写真論 第13回 視覚認識の「四人称」性 大山顕  
3. 【特別鼎談】仮想通貨と人工知能──技術は経済を変えるのか? 井上智洋×楠正憲×塚越健司
4. 【特別先行掲載】「ゲームの時代 10の論点(上)」一部抜粋 今井晋
5. 「ポスト」モダニズムのハード・コア――「貧しい平面」のゆくえ 第24回 黒瀬陽平
6. アンビバレントヒップホップ 第13回 RAP, LIP and CLIP――ヒップホップMVの物語論(後) 吉田雅史
7. トゥルーエンドを探して 第8回 ねぇきいて? 宇宙を救うのは、きっとお寿司…ではなく、でんぱ組.inc! 西島大介
8. 五反田アトリエからのお知らせ 藤城嘘(カオス*ラウンジ)
9. ゲンロンカフェイベント紹介
10. メディア掲載情報
11. 編集部からのお知らせ
12. 編集後記
13. 読者アンケート&プレゼント
14. 次号予告

※渡邉大輔さんの連載「ポスト・シネマ・クリティーク」は今号は休載いたします。

表紙:今号の「スマホの写真論」に掲載されているワンショット。ミュンヘンの空港内でエスカレーターを撮る大山さんの手元を、一定間隔で自動的にシャッターを切るライフログカメラが撮影したもの。スマートフォンには被写体のエスカレーターが写る。撮影=大山顕


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 ゲンロンの未来――創業八周年に寄せて
 東浩紀 @hazuma 

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 年度はじめはさまざまな業務が集中し、なかなか落ち着いた時間がとれない。申し訳ないが今回もまた「観光客の哲学の余白に」は休載として、かわりのエッセイでお許しいただきたい。


 とりたてて告知しなかったが、ゲンロンはこの四月で創業八周年を迎えた。八年前、ゲンロンがこれほど長く続くと考えていたかといえば、否だ。当時の思いは正確に思い出せないが、ぼくは当初、この会社をあくまでも時限つきのプロジェクトとして捉えていたように思う。
 その考えが変わったのは、二〇一一年春、『思想地図β1』を出版した直後に起きた東日本大震災がきっかけである。それまでのゲンロンは、大人が集まって好きなときに好きなことをするためのサークルのような組織で、またぼく自身それでいいと思っていた。ゼロ年代の日本では、思想や言論の役割なんて、もはやそれぐらいしか残されてないように感じていたからである。
 けれども震災に出会い、ぼくのような哲学者、つまり抽象的なことしか思考できない人間が、このタイミングで具体的に資金を集めひとを動かすことのできる組織をもっているという事実には、なんらかの「意味」があるのではないかと思い始めた。そこで運営の方針を変え、世に送り出したのが、震災特集の『思想地図β2』から『福島第一原発観光地化計画』までの四冊である。
 ぼくのデビューは早い。批評家になって四半世紀になる。けれどもぼくはずっと抽象的で記号的な世界ばかり扱ってきた。
 だからぼくは、そのときはじめて自分の言葉が現実と直接に触れる経験をした。むろん、それまでのぼくもぼくなりに現実に触れようとはしていた。現実に触れていると言い張ってもいた。けれども、それが無理な主張であることはぼく自身だれよりもわかっていた。二〇一一年以降は、そのような無理を主張する気がなくなった。自己申告なので信用ならないかもしれないが、二〇一一年から二〇一三年にかけての二年間で、ぼくはけっこう本質的なところで変わったように思う。
 けれども、あらゆる変化は痛みを伴う。震災を機にした方針転換の代償は、金銭的な危機だった。当時のぼくは言葉と現実の距離感がよくわからず、原発事故についても不用意な発言を行ってしまった。結果として『福島第一原発観光地化計画』は読者の支持を得られず、多額の借金を抱えることになった。
 加えてぼく自身の活動の変化が、支持者を離反させることになった。ゼロアカだ、朝生だ、ネット論壇だ、若手論客だと騒いで集まり、ぼくに有名人との交流やサブカル批評を期待していた人々が、この時期潮が引くように去っていった。カネが去りひとが去ると社内もおかしくなるもので、二〇一三年秋から二〇一五年春にかけての一年半は、毎週のように経営上の問題が勃発し、まったく落ち着くことができなかった。個人の貯金もぐいぐい目減りし、なんども社をたたむことを考えた。この時期、驚くほどの薄給でゲンロンを支えてくれたのが、現副代表の上田洋子と現事業統括の徳久倫康である。彼らがいなければゲンロンは潰れていたし、裏返せば、彼らしか結局は残ってくれなかった。この点において、二人にはいくら感謝してもしすぎることはない。原稿で社員に感謝を捧げるのは異例かもしれないが、むしろここでなければ書けない話なので、あえて記しておく。
 いずれにせよ、『福島第一原発観光地化計画』の失敗により、二〇一三年度にゲンロンの経営は深刻な危機に陥った。二〇一四年度はなんとかカフェの収入で食いつなぎ、二〇一五年度にスクールを立ちあげて息を継いだ。二〇一五年の年末には『ゲンロン』が創刊され、離れた客も戻り始める。二〇一六年度、二〇一七年度と売上はV字回復し、いまにいたっている。


 さて、二〇一八年四月のいま、ゲンロンはそれなりの規模の会社に成長している。安月給に変わりはないが、役員二人、社員九人がこの会社の売上で生計を立て、ほかアルバイトも二〇人近く抱えている。中小企業の経営者としての責任が、ぼくの肩には重くのしかかっている。
 加えて、それと同じか、それ以上に重いのが、この八年のあいだにゲンロンが築きあげてきた人間関係と、多くの人々がゲンロンに寄せてくれている期待である。『ゲンロン0 観光客の哲学』は毎日出版文化賞をいただいた。贈賞式で選考委員の鷲田清一氏は、著書の内容に加え、ゲンロンの活動への注目を授賞理由に挙げていた。カフェは開業して五年になる。そのあいだ、専門、職業、年齢、有名無名を問わず、じつにさまざまなひとにご登壇いただき、いまやゲンロンカフェは論壇ジャーナリズムで無視できない位置を占めている。登壇者累計が何人になるか数えていないが、サインはカフェの壁を埋め尽くしている。スクールも毎年実績を重ね、去る四月八日に行った懇親会には一〇〇名近い受講生と卒業生が集まった。
 ぼくはもともと、孤独に本を読んだり、文章を書いたりするのが好きな人間である。人間もあまり好きではない。だからこそ会社に勤めず、物書きになった。金儲けにも関心がない。それゆえ、八年前にはこのような責任を負うことになるとはまったく想定していなかった。
 けれども、その場その場で目のまえの問題を解決しているあいだに、ゲンロンはいつのまにか成長してしまっていた。『ゲンロン』にしろカフェにしろスクールにしろ、もはや簡単には潰すことができない。もしいまゲンロンをたたむことになったら、多くのひとが失望するだろう。そしてその失敗は、数十年後にいたるまで、日本の批評に浅くない傷を残すことになるだろう。このように考えるのは、かつて似た失敗をした批評家がいて、実際にぼくの世代は傷ついたからである。ゲンロンをやめ大学教師や作家に逃げ戻ることは、もはや道義的に許されそうもない。
 だからぼくは最近、ゲンロンはこれからなにをすべきなのか、この会社の「意味」はなにか、あらためて考えなおしている。
 ゲンロンはこれからなにをすべきか。それを語るためには、まずはゲンロンがここまでなにをなしとげたのかを明らかにしなければならない。ぼくはゲンロンの代表で、成果について語ればどうしても自画自賛になってしまうのでたいへん書きにくいのだが、自画自賛だからこそここでしか書けないとも言えるので、あえて記させてもらおう。
 ゲンロンはこの八年でなにをなしとげたか。多くの読者は、『ゲンロン』のあの号がすごかったとかカフェイベントのあの回がすごかったとか、あるいはスクールのような新しい教育の場を立ちあげたことがすごいとか、個別のプロジェクトの名を挙げるのではないかと思う。それは書き手あるいは企画者としては嬉しいことだが、経営者の立場からすれば、みなもっと重要な成果の副産物にすぎない。では、ゲンロンのいちばん重要な成果とはなにか。
 それは、そのようなさまざまなプロジェクトを可能にする、経済的に持続可能なプラットフォームの構築にほかならない。
 しばしば語っているように、ゲンロンはいっさい公的な補助金に頼っていない。特定のスポンサーがいるわけでもない。むろんぼくが私財を投じているわけでもない。ぼくはかわりに、人文知を流通させる、活字と映像とトークライブをミックスした、経済効率のいい新しいビジネスモデルの開発に注力してきた。そしてそれが成功して、いまのゲンロンがある。あんなに売れそうにない本を出版し、マイナーな小難しいテーマのイベントをやってもなんとか九人の社員を養うことができているのは、新しいビジネスモデルがあるからなのである。
 ちょっとだけ数字を出すことにしよう。たとえば世のなかにはたくさんの新書がある。多くは対談本で、ぼくもいくつも出したことがある。それらはどう作るかといえば、著者を編集部の会議室に集め、数回の対談を収録してライターが構成し、著者がまた修正して入稿し出版という流れが一般的である。
 それでいくら儲かるのだろうか。最近は新書も売れないので、定価七〇〇円、初版七〇〇〇部で増刷なしとしよう。その場合、出版社に入る売上はおおむね三〇〇万円強のはずである。そこから印刷費や制作費が差し引かれるので、利益はさらに少ない。著者の印税は一〇パーセントが基準だが、ライターが入れば率は下がるので、現実的には二人で計四〇万円弱だろうか。一冊の新書を作るのに三回の収録が必要だとすれば、対談一回あたりの出版社の売上は約一〇〇万円で、著者印税は一五万円弱ということになる。
 他方、ゲンロンカフェで、同じ著者を招いて公開で対談を行うとする。三〇〇〇円の入場券が一〇〇枚売れ、一〇〇〇円の有料放送が一〇〇〇件売れたとする。五年間の経営努力が実って、著名人が登壇する場合はそれぐらいの集客力はある。正確な計算式は伏せるが、その場合、ゲンロンの売上は約一〇〇万円になり、登壇者二人への分配金は一割を超える。これは、さきほど計算した新書出版での、収録対談一回あたりの売上や印税に匹敵する。つまりゲンロンは、既存の出版社では「素材」でしかなかった対談を、ほぼ未加工のまま商品化し、出版に匹敵する売上を出すしくみを作りあげている。加えてゲンロンには再放送やダウンロードでの収益も入る。登壇者のほうも、壇上の対談を新書にして出版するなど、再利用して利益を得ることができる。同じ対談からの収益は、二倍、三倍になる。
 ゲンロンの「経済効率のいい新しいビジネスモデル」とは、たとえばこういうものである。ぼくは、いままで出版社が捨ててきた、あるいは書店のトークショーなどで無料で提供してきた未加工のコミュニケーションに、収益性を見いだした。そしてそれを商品化する方法を考えた。
 とはいえ早とちりしてほしくないが、ぼくはここでけっして、いまは活字の本は売れない、トークのほうが売れる、ゲンロンはそちらにシフトしたので儲かったという話をしたいのではない。それはそれで真実だが、それだけで危機が乗り越えられるわけもない。低品質のトークが乱立すれば観客は離れる。ゲンロンの経営もけっしてカフェだけで支えられているわけではない。
 そうではなく、ぼくが言いたいのは、いまは、従来の人文知の「商品」としてのありかた、それそのものを根本から考えなおすことが必要だということである。よい本が売れない世のなかはダメだと嘆くのではなく、もしほんとうに本の内容がよいのだとしたらそこにはべつの収益の可能性が隠されているのではないか、高品質の商品すら生き残れないとしたらそもそもの市場の選びかたがおかしいのではないかと、いろいろ頭を巡らせてみることが必要なのだ。
 それを、もっと思想や哲学の可能性を信じるべきなのだと言い換えてもいい。いつの時代も、ひとは思想や哲学を必ず求めてきた。それゆえ現代にも思想や哲学の場所は必ずある。それを見つけられていないぼくたちのほうがおかしい。そう本気で信じることができれば、新たなビジネスモデルはおのずと見えてくる。
 たしかに人文書はエンタメと比較すれば売れない。アクセスも稼げない。一〇〇万部売り、一〇億PVを集めようとすれば、人文書もいまや自己啓発やポルノ(愛国ポルノのような精神的ポルノを指している)を偽装するしかない。けれどもそれは発想が転倒している。思想や哲学が、エンタメと同じ市場で、同じパッケージで勝負するのがそもそもおかしいのだ。人文書は自己啓発でもポルノでもない。それゆえ人文書には、自己啓発やポルノには不可能なべつの収益のあげかたがあるはずなのだ。問題は、ほとんどのひとがそれを発見していないことである。
 ゲンロンという会社については、いまでも古い知人から「東さんだからこそできる会社ですね」と評価されることが多い。
 彼らはどうやら、ゲンロンの売上の大半はぼくのコンテンツによるものだと考えているようだ。その認識は個人的には光栄だが、事実としては誤っている。いまやゲンロンの売上の少なからぬ部分(たとえばスクール)はぼくが関与せず生み出されているし、単行本刊行が始まるこれからはその比率はますます高くなるはずだ。ゲンロンの成功は、特定のプロジェクトの成功に依存するものではなく、売れない本、マイナーなイベントからも確実に利益を回収する、経済効率のよいスマートなプラットフォームの実現に起因している。当然、そのプラットフォームのうえにはぼく以外のコンテンツも載せることができる。
 そして、いまのぼくは、それこそがゲンロンというこの奇妙な組織に与えられた、そしてぼくという奇妙な経営者に与えられた歴史的な「使命」なのではないかと考え始めている。
 ぼくたちはポピュリズムとフェイクニュースの時代に生きている。世界中で同じ映画が観られ、同じ音楽が聴かれ、かつてなく拡がった富の格差のなか、SNSをもちいて市民同士が相互監視する世界に生きている。資本が悪いとは単純には言えないし、権力と市民が対立しているとも単純には言えない、厄介な時代に生きている。
 けれども、思想や哲学を担うはずの人々の多くは、いまだ、権力か反権力か、資本か反資本か、国家か市民か、市場か大学か、つまり自己啓発に堕するか補助金に依存するかといった素朴な二項対立に囚われ、身動きがとれなくなっている。ゲンロンの成功は、そのような人々に(少なくともその一部に)、善と悪が入り乱れ、権力と反権力がかぎりなく似姿になり区別できなくなってしまったこの世界においても、とりあえずはビジネスとしてスマートでありさえすれば、いくらでもオルタナティブな空間は作れるし、抵抗の線も引くことができるのだという、きわめて具体的で実践的な希望を与えることができるのではないか。むろん、ぼくはその希望を本にも書いた。『観光客の哲学』がそれだ。けれども、そのような希望は、残念ながらなかなか言葉だけでは伝わらないのである。だからこそ、ぼくにはいまゲンロンが与えられている。
 借金を抱えてからの三年半、経営者として日々の雑事を処理していくなかで、ぼくは少しずつそのようなことを考えるようになった。もし八年後にゲンロンがあるとすれば、以上の構想が少しでも前進しているとよいと思う。


 短いエッセイのつもりが、書きすぎてしまった。カンのいい読者は気づかれたことと思うが、以上の文章は、来る五月一四日にゲンロンカフェで行われるイベント「ゲンロンはどこから来て、どこへ行くのか」の準備稿でもある。これ以上の構想、というか夢については、当日会場で語ることにしたい。


東浩紀(あずま・ひろき)
 一九七一年生まれ。作家。ゲンロン代表取締役。主著に『動物化するポストモダン』(講談社)、『クォンタム・ファミリーズ』(新潮社、三島由紀夫賞受賞)、『一般意志2・0』(講談社)、『弱いつながり』(幻冬舎)、『ゲンロン0 観光客の哲学』(ゲンロン)等。東京五反田で「ゲンロンカフェ」を営業中。



 
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