• フルート、弦楽三重奏、ハープのための作品

    2017-06-20 00:1011
    予約投稿動画があり、私の過去作品もあるので、列記してみますね。

    均衡のとれた美しい編成だと思います。
    ルネルロイというフランスのフルート吹きが結成していた五重奏団が恐らく発端で、
    その後、沢山の作曲家が曲を作っています。

    抜けや間違いがあったら指摘してください。
    室内楽の愉しみが広がらんことを。



    ■ジャン・クラ(1879-1932)フランス
    「五重奏曲1番」(1922年作、ルネルロイ献呈)

    ■ジョセフ・ジョンゲン(1873-1953)ベルギー
    「題名なし」(1923年作、ルネルロイ献呈)

    ■アルベール・ルーセル(1869-1937)フランス
    「小夜曲」Op.30(1925年作、ルネルロイ献呈)
    https://www.youtube.com/watch?v=IQxOqmImeoY


    ■ジャック・ピロワ(1877-1935)フランス
    「5つの俳句」(1926年作、ルネルロイ献呈)
     ←6/29 0:05予約

    ■シリル・スコット(1879-1970)イギリス
    「五重奏曲」(1926年作、ルネルロイ献呈)

    ■ヴァンサン・ダンディ(1851-1931)フランス
    「小組曲」Op.91(1927年作、ルネルロイ献呈)
    https://www.youtube.com/watch?v=6desBwXUWg0
     ←6/23 0:05予約

    ■ギィ・ロパルツ(1864-1955)フランス
    「前奏曲、海と歌」(1928年作)
    https://www.youtube.com/watch?v=MmmwjeSpScQ



    終楽章の私のアレンジ譜はこちら→ http://ch.nicovideo.jp/article/ar1117909

    ■ジャン・クラ(1879-1932)フランス
    「五重奏曲2番」(1928年作)
    https://www.youtube.com/watch?v=Q-ATDBgDbLE

    ■マルセル・トゥルニエ(1879-1951)フランス
    「組曲」(1928年作)←出版は1929年
    https://www.youtube.com/watch?v=sKPSHP_1-AY


    ■ガブリエル・ピエルネ(1863-1937)フランス
    「自由な変奏と終曲」Op.51(1932年作)←1933年との記述が多いが、パート譜が1932年に出版されている
    https://www.youtube.com/watch?v=LnJygJZ9aDI

    ■フロラン・シュミット(1870-1958)フランス
    「ロカイユ趣味組曲」(1934年作)
    https://www.youtube.com/watch?v=aYKJ6h6fqn0

    ■ジャン・フランセ(1912-1997)フランス
    「五重奏曲1番」(1934年作)
    https://www.youtube.com/watch?v=yupacdtmDCg

    ■ガブリエル・ピエルネ(1863-1937)フランス
    「愛する国への旅」(1935年)←日本語Wikipediaの作品番号や副題は誤り
    https://www.youtube.com/watch?v=5KRtaMHWYGs

    ■シャルル・ケクラン(1867-1950)フランス
    「プリマヴェーラ1番」Op.156(1936年作)
    https://www.youtube.com/watch?v=2veVKpWf0ok

    ■アンドレ・ジョリヴェ(1905-1974)フランス
    「リノスの歌」(1944年作)
    https://www.youtube.com/watch?v=-AoMXN_ET7E
    (余談だけど最近パユのこれを聴いてちびった)
    https://www.youtube.com/watch?v=sM-4pArS3jA

    ■シャルル・ケクラン(1867-1950)フランス
    「プリマヴェーラ2番」Op.223(1949年作)
    https://www.youtube.com/watch?v=yVthqyWoPiA (視聴注意)

    ■エイトル・ヴィラ=ロボス(1887-1959)ブラジル
    「五重奏曲」(1957年作)
    https://www.youtube.com/watch?v=GjXno8V02w8
     ←6/26 0:05予約

    ■ジャン・フランセ(1912-1997)フランス
    シューベルトによる6つの即興曲(1973年 編曲)

    ■ジャン・フランセ(1912-1997)フランス
    D.スカルラッティによる5つのソナタ(1975年 編曲)

    ■ジャン・フランセ(1912-1997)フランス
    「五重奏曲2番」(1989年作)
    https://www.youtube.com/watch?v=KAcvkczua9o


    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


    近い編成だと
    フランツリストの「ヴァーグナーの墓前で」S.135(1883年)、
    https://www.youtube.com/watch?v=QmEoAW45kc8

    モーリスラヴェルの「序奏とアレグロ」(1907年)、
    https://www.youtube.com/watch?v=vYinRNy3llA

    フロランシュミットの「アンダンテとスケルツォ」Op.35(1908年)、

    アンドレカプレの「協奏的幻想」(1908年)、
    https://www.youtube.com/watch?v=Xn9XidhQ8r0

    モーリスラヴェルの「マラルメの三つの詩」(1913年)
    https://www.youtube.com/watch?v=UPdsPhSQy58

    デジレエミールアンゲルブレシュトの「ハープ五重奏」(1917年)
    https://www.youtube.com/watch?v=gr9E_fZzlFU

    アーノルドバックスの「ハープ五重奏」(GP214 1919年)、
    https://www.youtube.com/watch?v=fZl92kvBUUI

    「サミュエルルソーによる古きクリスマスパストラールの変奏曲」(1919年編曲 トゥルニエによる室内楽版がある)
    https://www.youtube.com/watch?v=d7H_7DCFpdg

    エフゲニーゴルベフの「ハープ五重奏」(Op.39 1938年)
    https://www.youtube.com/watch?v=sIQiDzBE49g

    ジャンカルロメノッティの(カンティレーナとスケルツォ 1977年)
    https://www.youtube.com/watch?v=1hRCGNWfT4M

    も名曲です。
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  • 人は物事を繰り返す存在である

    2017-05-11 21:2261
    人は物事を繰り返す存在である。従って、優秀さとは行動によって得られる物ではない。習慣になっていなければならないのだ。 アリストテレス


    まず注意書きになりますが、、
    「実際に反復するその方法について、
     精確な解釈、その方法について幾らかの問題が生じ、
     その全てが明瞭な解決をみたわけではない」
    というのが歴史的結論として
    私が論文(久納さん、N.Temperley)にみていることを前提としてください。

    例えば、ベートーヴェンのスケルツォ(交響曲でもソナタでもよい)で、
    トリオ後の句を繰り返していた、繰り返していなかった、という2者が居たとします。
    何故そうなのか、というのを考えることが大事なのであって、
    前者が繰り返していたから私は繰り返す、後者が飛ばしていたから私は飛ばす
    というのは思考の放棄だと思うのです。
    そうではなく、その理由を考える必要があるだろう、というのが私の見方です。
    他人の習慣を持ち込むのではなく、自身の習慣を形作る、
    即ちこれが良い奏者だと、このように考えます。


    ~~~~~~~~~


    音楽の繰り返しには、2つのルーツがあると私は考えます。

    ■先議的都合による必要物
     例えば宗教儀式的な要因によるもの。
      →「Kyrie」は3唱しなければならない、など。
     例えば舞曲のステップに起因するもの。
      →元の位置に戻る必要があるので、偶数あるいは奇数、など。

    ■構造論からみた省略によるもの
     繰り返すことに意味があるのではなく、
     繰り返す物がたまたま同じであるという考え方。
     あるいはゴシック的な空間の作法。
     同じだから、一つで用を足そうという概念。
     (私は、歴史的に抜け落ちてしまった考え方ではないかと思っている
      日本人は疎い感覚なのかも、とも)


    例えばヴァリエーション(変奏曲)というのは、
    非常にバロック的な概念ですよね。
    端的に言うと「ごちゃごちゃしている」。
    ヴァリエーションこれも繰り返しなわけだけれども、
    フォリアとは違う物になってしまった。
    ここに潜んでいるのは、
    繰り返しであるのか、省略であるのか、
    という視点だと私は思うわけです。


    以前、これって何て名前の記号なの?

    (第3回オリジナルクラシカ初演祭 m-aさま作曲「三声の舞曲」より)
    という話題になったことがあったんです。
    私は不勉強で答えられなかった。
    その時調べた際の一旦の結論は、abbreviation、省略記号。
    典拠はこれ。
     
    (P.Weirick著 Dance Arranging 詳細は奥付の通り 
    …たこルカさんは、図書館の本ではないよ、私の写真だよというスタンプ)
    原書(PD)はこちら
    この時、私は繰り返し記号だと思っていたから、
    論文漁りもRepeatしか脳になかった。
    「ああ省略だったのか」と思ったように記憶しているのですが、
    最近書かれたウィキペディアには、
    AbbreviationとしてのRepetitionだと書いてあるんですよね。

    ちなみに、改めて他に拾ってみたところ、
    • 『最新 音楽用語辞典』(リットーミュージック 1998.3.20発刊)
    • 『吹奏楽のための音楽用語記号辞典』(シンコーミュージックエンターテイメント 2016.10.16発刊)
    の2冊でも、省略記号に位置づけています。
    言葉が適当かどうか疑問ですが、軽音楽によく使われるのではないか、という印象ですよね。
    要するに音楽のミニマル的な部分に現れる。

    Wikipedia記事を誰が書いたのかとか、真偽はどうなのかということはさておき、
    この表記のぶれというのは、
    記号の名称が決まらないまま慣習的に使われてきた証拠なのではないか、
    と、このように思う訳です。
    名称を気にする必要が、歴史的に求められてこなかった。
    だが、繰り返しと省略というのは、大きく違う概念だと
    最近の私は思うわけです。


    ~~~~~~~~~


    同時に、このようにも考える必要があります。
    楽譜に表記されたアーティキレーションは、
    作曲家の望んでいたもののほんの一部に過ぎない。
    だからこそ私たちは、かつて一般的だった
    伝統的な基礎知識をもう一度習得しなければならない。
    これはアーノンクールの言葉だったと思います。

    バロックダンスの舞踏譜をみると、
    軸を持ったシンメトリー(あるいは点対称)なものが多い。
    この軸は、仕えている侯爵の方向を向くわけだけれども、
    要するに主人に対してシンメトリーなわけです。
    だから、多くが偶数になるし、多くがトリオの後も繰り返す訳です。
    バロックダンスを勉強なさった古楽奏者の方は、
    演奏においてもこの傾向があるのではないでしょうか。

    その後、メヌエットが交響曲においてスケルツォへと転身していったように、
    バロックダンスは絶対音楽の中で居場所を失いつつあった。
    ムファット(ゴットリープではなくゲオルグ)は
    「グラーヴェの如く遅いものは繰り返しを省略して良い」と言っている。
    同じく「テンポの快活なものは、二、三度と繰り返して良い」とも言っています。
    私は、トリオ後の繰り返しが省略される習慣というのは、
    こういった思想から始まっていると考えています。

    あるいは、17世紀までのヴァージナル音楽の記譜について、
    反復の概念が不正確だ、ということを何かの文献で読んだことがあります。
    ムファットのレギュレーションもそうなのですが、
    割と自由だったのではないかとも思う訳です。
    ヘンデルの水上の音楽にもありますよね。反復回数問わないよ、と。
    しかし、例えばゴルトベルク変奏曲の、
    前半だけ繰り返して後半繰り返さない変奏を続けるのは、
    やはり不自然と考えるべきだと私は思うんです。

    これらは、ある種アカデミック…クラシカルな考え方だと思うのですが、
    例えばホロというのはその系譜にはない舞踏だと思うのです。
    Youtubeなどで踊りを見ましたが、歴史保存的な資料としての側面しか見えず、
    踊りの生きた姿…結婚式で踊るのか、葬式で踊るのか、酒場で踊るのか、港で踊るのか…がわからない。
    勿論、ダンスノーテーションも見あたらない。
    ブルガリアに行くお金も時間も当然ないので、
    実舞踏的な側面からのアプローチというのは極めて困難だと判断しました。
    民族音楽学者…具体的には今回はヂュヂェフの論文だけを拝見して、
    そこからは知識と経験で取り組みました。
    ヂュヂェフの項は初演祭のホームページでのやり取りをご覧下さい。
    タイトルがソナチナであること、
    作曲の動機としてラヴェルの名が挙がっていること、
    というのも、当然無視できない要素です。


    私が、kbnさまのソナチナのホロで、
    ダカーポ後も繰り返した一番の理由は、短すぎるから。
    その次の理由に、繰り返さなければ、在り来たりすぎるから。
    そして、ただアーチ型にするのではなく、ヴァリアントを設けるために、
    強弱を1箇所だけ変えました。(ダカーポ後の最初だけ、弱→強)
    ここに(民族音楽における)ルンガを持たせた、このような判断です。
    (個人的には、古いシャンソンのルシャンという形式にも通ずると思います)
    ただし、以下のような論拠も同時に存在します。


    ~~~~~~~~~


    例えば「言葉」。
    日本語の「あ」「し」「た」という文字それ自体には大した意味がない。
    だが「あした」となると意味が生まれる訳です。
    「明日」と「あした」というのは同じものだけれども、
    「明」「日」という文字は別々の意味を持っている。
    音楽も同じで、組み合わさった「音」だったり「構造」が意味を生んでいる。
    これらの意味は、歴史が作り出すものです。
    誰か個人が作り出しても、いずれコピーレフトになる。今までもなってきた。
    民族音楽というのは正にこれなんだ、というのがバルトークの言っていることです。
    作曲者が誰だかわからなくなっても、勝ち残ってきた音楽、
    この意義や理由から目を背けるべきでない、と。
    バルトークよりはコダーイの方が私は勉強したことがあるのですが、
    コダーイもまた、同じように言っています。
    ちなみに私は、kbnさまのソナチナ初見時に、
    バルトークとリゲティのイディオムを感じていました。
    (ラヴェルやカプースチンは影を潜めていた)

    この「明」の偏にあたる『日』は、「明"日"」の"日"とは似て非なるものです。
    構造としては日という字が繰り返されているのだけれども、
    漢字という大陸の概念、当て字という流用的な概念、音訓という概念、
    こうした歴史が、今の「明日」という字の「在り方」を形作っている。
    何故繰り返されるのか、省略される線引きはどこか。
    これはやはり歴史を紐解く必要があるのではないかと思います。
    人人→人々に対し、明日の日部分が省略されない理由は、
    文字の単位が2文字でそれぞれが違う字だからです。

    音楽において、強と弱は違うもの、対極にあるものです。
    私はそう考えています。


    ~~~~~~~~~


    ここと別に、初演祭というイベントの特殊性も留意すべき、と思います。

    普通の初演というのは、作曲家と演奏家が手を取り合って、
    より最奥のものを世に送り出す尊い仕事です(私は初回からずっと言っています)。
    初演祭では、それが割と遮断されてしまう。
    楽譜に込めきろう、楽譜から読み解こう、というイベントだからです。
    掲示板があるけれども、奏者と作曲者が音で語り合う場面がないまま初演となってしまう。
    これは作曲者にとっても演奏者にとっても、極めて怖いことなのだと思うわけですが、
    クラシカ(楽譜)というものの歓びや発見が垣間見られるチャンスだと思うんです。
    ここに魅せられた人が集まっているのではないかと思っています。

    初演祭の最も重要な点は、
    作曲大会ではなく、演奏するお祭りだ、というところです。
    (kbnさまに演奏で参加いただいたことに私は狂喜乱舞しました)
    これを見ているあなたの参加もお待ちしています。

    自分の見知った曲に取り組むのも良いですが、
    音で知らない作品に楽譜から取り組む、というのは本当に面白いですよ。
    クラシカ演奏の醍醐味です。
    IMSLPで発掘したり、過去の初演祭作品を
    是非演奏してみてください。

    初演祭がこれからも、
    こーじゃないか、あーじゃないか、えーじゃないか と言い合う
    楽しい場であってほしいと希望います。
  • 教わるということ

    2017-02-28 05:062
    とてもよい内容のマスタークラス動画をみつけたので、
    ここ最近の所感を交えてコメンタリーを書いてみようと思いました。

    まず「徒弟制度がどう」という方と、「ニコ動で先生もない」という方へ
    私が改めて言っておきたいのは、
    私はレッスンはお願いされれば喜んでやりますが、弟子はとらない、
    というスタンスであることです。
    音楽は、教わることはできても教えることは出来ないからです。
    付き合い上弟子と呼ぶことはあっても、私が師弟と考えることはありません。
    (勿論、私が師事していた先生は複数人おり、
     その方を師匠と呼ばないと言う話ではありません)
    「私は、弟子は要らない」というだけのことです。

    無礼講だという意味合いではないのですが、
    音楽をやる以上、先輩も後輩も同じ仲間だと考えています。
    やる人が居なくなったら、音楽なんておしまいでしょう?
    だから共にやるんです。

    そんな中で、私が「師匠」「先生」と呼びたい人は沢山います。
    ですから、私のことも呼びたいように呼べば良いのでは?と考えています。
    (先生という呼ばれ方は、私は好きではありませんが。
     私は、もう少しフランクな呼ばれ方が好きです)
    あと、関西などでは、単なる敬称として先生と呼ばれること
    も知っておく必要があるでしょう。



    何はともあれ動画をご覧ください。

    私のブロマガをご覧の方の中で、こういったレッスンを受けた経験のある方は、
    居ても恐らく半数以下だろうと想像するので、
    見所や考え方の、ひとつの指標にみて貰えれば、と思います。
    ロシア語の達者でない方は、聴きながら読むのは難しいかと思いますが、
    素晴らしい字幕がついているようですので、
    何度も見返したり、止めつつ付き合っていただければ嬉しく思います。

    なくともよいですが、スコアがあると尚よいでしょう。
    ベトヴェンのスコアはIMSLPでDLできます。
    http://imslp.org/wiki/String_Quartet_No.4,_Op.18_No.4_(Beethoven,_Ludwig_van)
    (ショスタコのレッスンは、あまり演奏そのものについて語っていませんが、
     8番のスコアは、持っていることに感謝する日が来ます。
     タコの弦四スコアは、日本ではまだ沢山出回っているので是非買ってください。
     …こんな国は世界的に稀なんじゃないかな。
     手元にスコアがあれば「あれ、最後のページがおかしいぞ」
     ということにも気付くでしょう…この動画の話ではないですが



    ●何年一緒にやっているか
    やはり室内楽では、経験・場数が大切なのでしょうか。
    呼吸や音楽性を、互いに知る・高めるのはソロとは違った分野です。
    確かに、DTMで言えば音源やDAWと何年付き合っているか、
    というのは似たような部分かも知れません。
    (付き合っている時間であって、持っている期間ではありません)
    ですが、彼の言いたいことはそこではなく、
    あと50年・もっとやってくれという所に尽きるでしょう。
    実際に長年やった彼の言葉には、説得力があります。
    (ベルリンスキーは倒れるまで現役でした)

    ●ベートーヴェンとショスタコーヴィチ
    続いて、この二人が弦楽四重奏曲という分野で非常に重要な作曲家であること、
    マスタークラスで採りあげるのに相応しい理由は、
    既に勉強済だよね?という確認がなされてます。
    折角なので、聴くべき・勉強すべきと私が思う弦四を挙げておきますね。
    (聴衆・作曲の視点で選んでおり、演奏の視点は欠けています。
     私は、弦楽器はバスガンバしか習ったことがありません)

    ・ハイドンの作品から少なくとも10曲
    ・ガスマン フーガを含む曲ならどれでも
    ・モーツァルト KV428、KV387
    ・ベートーヴェン 12~15番(含グロッセフーガ)
    ・シューベルト 13~15番
    ・ボロディン 両方
    ・ブラームス 2番
    ・サンサーンス 2番
    ・ドヴォルジャーク 11番以降
    ・フォーレ
    ・ダンディ 2番
    ・タネーエフ 6番
    ・ロパルツ 4~6番
    ・シェーンベルク 2番
    ・バルトーク 全部
    ・ヴィラロボス 6番
    ・ミヨー 14&15番
    ・ヒンデミット inEs の新しい方
    ・クルシェネク 7番
    ・ショスタコーヴィチ 8番
    ・ナンカロウ 2番
    ・イサンユン 2、4番
    ・リゲティ 2番

    以後、"新しい"曲はあるが、
    "新しさ"以外に目を見張る曲はないように思います。
    良いと思ったのは正直ラッヘンマンくらいかなぁ。
    好きだということならアイヴズ、ウォルトン、武満徹、
    西村朗、ファーニホウ、ベルトラン、藤倉大辺りも入ってきます。

    何年も寝かせて、改めて読み解いて凄いなと思うのは、
    ハイドン、ダンディ、バルトーク。

    完璧だ、と思うのは、
    ボロディン、ドヴォルジャーク、シェーンベルク、後期ヒンデミット。
    (モーツァルトの完璧さは三重奏に譲ります)


    ●チクルスがやりたい、やってほしい
    音楽家としての本懐でしょう。
    ちなみにボロディンカルテットは、
    ベートーヴェン全集を1998年に、ショスタコーヴィチ全集を1999年に達成しています。
    (録音がと言う意味です)
    途中でメンバーも替わり、足掛けという感じですが、
    この映像をみると色々感じるところがありますね。

    ●レッスンでの演奏は、コンサートと同じ
    かなり鋭い眼光です。弾き始めは、ベルリンスキーの顔を映して欲しかった。
    (映像としては真っ当なのですが)

    ●良い教師はまず褒める
    レッスンをしたことのある方ならわかると思いますが、
    第一声にはかなり神経をつかいます。
    繰っている、こけている、走っている、ということを遠回しに指摘しています。
    ターンの入れ方を違う違うと言っていますが、
    形容の仕方を具体的な拍点に言い変えています。
    私の個人的な経験則から言いますと、男性には抽象的なアプローチが有効で、
    女性には機械的な指摘・助言が有効です。
    女性には「こういう感じ」で伝わった試しがない。
    男性はには「こういう感じ」と言う方が音楽で返してきます。
    4:40辺りで「そうだ」と言っていますが、
    全ての音がようやく同じ土俵に上がっているのがわかりますでしょうか?
    この感じ方を、ベルリンスキーは「まっすぐだ」と表現していますね。
    どこが疎かか、どこを聴くべきか、を教えてくれています。

    チェロがなお走っていることに気がつきますでしょうか。
    (指を鳴らしているとき&拍をカウントしているとき)
    弾き方(音の作り方)を音の余韻で具体的に示していますが、
    納得していないのかそうだとは言っていません。
    内声のフレージングも指摘しています。
    こちらは返さない(もう一度やることを返すと言います)。
    丁寧になりすぎるが上に、もたつくところで、指をならしてテンポを作ってもいます。
    前述部分とは違う指ならしです。

    ●笑って
    ジョコーソではなく、ガイ、ゲ…歓びを、ということです。
    合わせるのではなく、自然に、と言っています。
    善行が、意図されずにできるのが善いということに似ています。
    作り笑顔と本当の笑顔は違いますよね。
    また、合図…身体表現が大切であることも指摘しています。
    こじんまり見えてしまいますよね。ベルリンスキーを前にしたら私なら萎縮しそうですがw

    ●強弱
    古典派の音楽では、フォルテ・ピアノについては忠実な音量で、
    スフォルツァンドは出来事の中心に置かれるアクセントだ、と言っています。
    フォルテピアノではディミニュエンドしないという大切なことにも触れています。
    ピアノ部分に緊張感が持続するのだということですね。
    逆に、スフォルツァンドではアクセント部分の緊張感の余韻だといえます。
    アクセントに種類があること、忘れず指摘し合うべきだということも添えられています。

    ■2楽章
    テンポ設定について述べています。
    一小節を一拍と捉える方法と、そうでない方法について、
    両方試してみよう、という提案です。
    逆弓で戸惑っていますが、スケルツァンドだ、とリードしています。
    全曲の中で、緩叙楽章がない2曲だということも踏まえて
    考えよう、難しい、という話のようです。
    私はどちらでもいいと思いますが、ボロディンカルテットほどの色彩感があれば、
    ベルリンスキーの解釈もよい、と、このように思います。
    俯瞰する、討議する、というのは大切な視点です。
    組んでじっくりやるという室内楽的な視点からも、重要なことでしょう。

    「椅子に座ると、ボウイングと運指が書いてあった。オブリガートだ。」
    ここは非常に深い部分です。
    第1ポジションと解放が多い…これはボロディンカルテットの隠し味のようです。
    結成時のメンバーに聴かせて納得するだろう、というのも中々深い。

    休符の間が延びないように、というところも、
    やはり全体からの統制を大切にするというか、フレージングなのだなぁと思います。
    筋の通し方や、そのドラマの在り方を、単純に明示してくれていますが、
    実際にやるのはかなり難しいことです。
    弦楽器のことは、私は余り詳しくないのですが、
    弓の先や腹を、急に変えて演奏するのは難しそうです。
    ですが、音色や音楽のキャラクターのみならず、
    アンサンブルが変わっていくのは興味深いところです。
    悪魔のリンゴというのは、面白いですね。



    ●仲
    逸話を面白おかしくしゃべっていますが、
    語りたいところはわかりますでしょうか?
    あと、今どうしているの?と訊かれて「言わない」と言った後に
    話し方のテンポを変えて「気にくわない」と言っているところからも、
    中々笑わせてくれます。
    煙草の箱を手にしているときが、彼の本音なのかも知れませんね。

    ●第三者の立場で
    DTMクラシックで言えば、モニター環境を変えてみるとか、
    そもそも(ミックスして、改めて)演奏法を考えてみる、などでしょうか。
    (響きの作り方に応じて奏法を変えるという話です)

    ●演奏者としての立場
    よき演奏者がよき指導者であると限らないが、
    よき指導者はよき演奏者だという言葉があります。
    やはり、現役であるのは凄いことで、大切なのだなぁと思わされます。
    「音楽に目をつぶるな」というのは、耳が痛いですね。

    ●チューニング
    についても、知りたいか?と訊きながら自ら語っています。
    チェロからとるのだ、ということです。面白いですね。
    聴きに行ったことがないのでわかりませんが、
    ドゥビンスキーらの時からそうなのでしょうか。



    ■3楽章
    「クレッシェンドが書いてあったら、小節を飛び越えて始める」
    これは文字通りではなく、クレッシェンドする必然がある音楽を
    既に作らなければならないということです。
    走るな、リンゴだと言っています。

    意外性なんて言っていますが、予定調和における広がりのことだと思います。

    「音符の長さで変わるのか」なんてコメントがついていますが、
    日本人が受けるレッスンのほとんどが音価でしょう。
    これが中々できないし、一番難しい。
    西洋の人は、てぃ・や・ぱ で表現しますが、
    ここからデュレーションを導きだせないと、いつまでたってもニェ、ノー、ナインです。

    休符に音楽を、ないしは、休符は休みだ、とも言っています。
    休符を走ってしまうことは罪だとまで。
    待て、待て、というのも向こうの人はよく言います。
    休符を「弾け」と言っていたり、ネイガウスの「音の処刑」の話は印象的ですね。
    (日本ではネイガウスというとスタニスラフの方が知られますが、
     世界的には親父のゲンリヒの方が著名で、ゲンリヒのことを言っています)
    音が死ぬんだ、断絶するんだというのは若い人のいうことではないようです。
    レッスンで生徒に、よい部分を「どうして?」と訊く。
    リヒテルはそれを覚えていて、ベルリンスキーに言う。
    門戸の歴史ですよね。
    あとはギレリスとユーディナの名があがっています。
    ギレリスは言うまでもありませんが、
    ユーディナはここ20年で復刻音源がかなり出回ったので、
    聴いてみることをオススメします。
    録音状態は劣悪なものが多いですが、
    ゴリデンヴァイゼル並の洞察力と統制力があります。



    ■4楽章
    休符や、ターンなどの話を踏まえて、
    ピアノから始めてみようという提案はすんなりと受け入れられています。
    彼女たち、やはりうまい。…気がゆるむと4拍目と拍頭がおざなりになっていますがw

    音間違いに気付くくだりが面白いですね。
    (プライド高く)ナチュラルだった、といって、
    「あ゛あ」やっぱりというところが映画みたいでイイwww

    よくなるだろう、という締め方もいいですね。
    後にでてくる「偉大な芸術家は予言者の素質がある」というところにも繋がっていそうです。

    ■ショスタコ
    1964年のショスタコ本人とのエピソードが話される辺りが、
    他の誰にもできない芸当だと思います。
    まず足組と姿勢について言っています。60年代の写真を見れば、想像に難くない。
    演奏したらば出て行ってしまい、
    夫人が出てきて、「感謝する、電話する」と家を出た。
    電話がかかってきた、かかってこなかった試しはなかった、
    いや、見送りしないことなんて他になかったのだという話です。
    「感動した、これ以上ない、忘れないでくれ」
    まくし立てるように語り口を真似しているところが、なんともという感じです。
    弾かせる前にこの話をするのだから、参ってしまいます。
    私が何回弾いたと思う?と訊かれて誰も応えられない。
    よくぞ映像に残してくれた、というところです。



    立ち上がるから出て行くのかと思う(笑)のだけれど、
    キスするだけなんですよね。これは出て行く話と同様に忘れない。
    多くを語らないけど、ベートーヴェンと抱き合わせたことで
    「イントネーション」の一言に凝縮されています。
    これはすなわち“音の彫り”だとも言っていますね。

    民族主義的な話については、私はノーコメントです。
    泣いているところは、共感を覚えます。
    嬉しいとか悲しいとか、そんなことではないでしょう。
    ショスタコーヴィチから受け取った音楽です。

    恋文を他人に読ませるつもりで書かない、
    この曲は書かれてしまった手紙だ、というのは凄い。
    ドイツに住んだことがないと、言ってのけるのも凄い。
    多くを語らないのは時間がないからではないでしょう。
    ベルリンスキーもまた、ショスタコーヴィチの気持ちに近づいたのだと思います。

    http://borodinquartet.com/legacy/shostakovich-and-the-quartet/
    ボロディンカルテットのホームページには、ショスタコーヴィチとの写真が。
    http://www.dominantquartet.ru/index.html
    ドミナントカルテットは今も解散していないようです。


    NHKのスーパーピアノレッスンなどで
    レッスンやマスタークラスに初めて触れたという方も多いと思いますが、
    あれは協奏曲止まりで室内楽らしい室内楽とは言えません。
    そもそも、門外不出であるべき性質のものですし、
    公開レッスンと言われるものもマスタークラスも無料で見られないものがほとんどですから、
    こういったヴィデオは大変貴重です。
    ただ、私が思うのは、奥義というのは隠すものではなく、
    教えても簡単にできるようにならないから奥義なのだと思うのです。
    厳しいですが、深く興味深い世界だとは思いませんか?

    日本で、ベルリンスキーのようなレッスンをしてくれる先生は、
    ヨーロッパ帰りの人でないとほとんど居ませんよね。
    そういった意味で、私は恵まれていました。
    学びたいという人間が、よいレッスンに出会えないというのは、さみしいことです。

    みなさんは、人に、音楽に、一体何を教わるでしょうか。