• 楽譜のクオリア

    2018-05-27 00:422時間前11
    kbnさまのこの記事を読んでいて、
    http://ch.nicovideo.jp/kotohanoaya/blomaga/ar1542772
    書こうと思いました。

    装飾音符の奏法。
    時代様式というのは前提としてそうなのですが、
    これは演奏家にとってのTIPSの提供、というお話しから打ち込みの技というやつを。
    ブロマガはこういうことを書いてくれよって
    過去にコメントを頂戴したこともありましたね。

    装飾音符ではなくただの刺繍音だというのは勘弁してください。

    演奏家は装飾音符に、作曲家は装飾音符に、何を見るのか。
    演奏家はどう譜面から、作曲家はどう譜面に、おこすのか。
    ということです。



    これの演奏を聴いてみてください。
    楽譜ではこうなっています。

    ですが、私はこのように打ち込んでいることに気付きましたでしょうか?
    5連符なのです。滑り込んでいる。
    (音価が倍な理由は、ボカロエディタの都合で、リタルダンドの下限が心配なため)

    この、私の演奏の方を聴いて、採譜してね、と言われたら、
    サンサーンスの書いた通りか、
    もしくは、経験則からラヴェルの「クープランの墓」のような表記、
    あるいはミヨーの「ルネ王の暖炉」のようになるでしょう。
    5連符で採譜する人は、たぶんいない。


    しかも、ですね、
    同曲中で同じような動機の箇所において、
    4連符も同時に扱っています。

    動画の1:05辺り。
    言われたら気付くでしょう。この両者が違うことに。

    これが奏者の隠し味なのです。

    ちなみにチェンバロ…クラヴサンというべきかな…は、
    当初ピツィカートのつもりだった、ということがわかりますw
    クラヴさんの方がいいじゃねーか、とどこだかで思ったのですね。
    あと、打ち込み上、不必要な休符なども作業短縮のために打っていません。
    (その小節最後の音の後に休符がない)

    日本人は、こういうTIPSを奥義だから、秘伝だからと隠しますよね。
    欧米人はべらべら喋る。飯の種をばらしちゃって良いの?ってくらいに。
    でもまぁ、TIPSを観ただけで再現できるのは奥義ではないです。
    種明かしされて、火を見るよりも明らかなのに、真似できないのが奥義です。

    こういったTIPSが、他にあったかなぁと考えてみた訳ですが、
    これって私にとっては当たり前のことだったりする訳で、
    中々好例が思いつきません。

    折角なのでkbnさまの無伴奏の、打ち込み方?を披露してみます。
    私がどのように音価を捉えたか、ということが分かるかも知れません。
    改めてデータを見ましたが、取り立ててヒントになるものはあまりないかもしれません。



    こういったプレイバックから、打ち込みに持ち込んで、整えていくわけです。




    例えばこれはデュティユーのピアノソナタ1楽章の第二主題。動画の1:07辺り。
    第二主題美味しい(恍惚)

    赤丸のところ、右手のメロディーの発音がコンマ遅いわけです。わかりますか?
    音としては重い音。なのですが、これが浮き立つ訳です。
    フランスものの「dehors」ですね。
    他を抑えるのもそうですが、MIDIロールで見たときに、
    dehorsは実際にエンボスになる訳です。

    青丸のところ、低音は残響が多いので、短く切ります。
    こうして襟足を正さないと「区切り感」が出ないわけです。
    入る前の無音の間がわかりますでしょうか。
    短髪の方の散髪を思い起こしてください。
    1本でも長い毛が残っていると気になるんです。それが何ミリの細さであろうと。
    この彫りの深さ、これが欧米人に演奏のレッスンを受けると、
    ひたすら言われる事だったりするのです。



    ブランツバイスのMIDIを公開してみます。
    楽譜はIMSLPにあります。
    https://www.dropbox.com/s/vwjk2q67hdeqdkn/brandtsbuys20-3.mid?dl=0
    付点の跳ねる音符が、後ろに寄っているのがわかりますか?
    クオンタイズしてプレイしてみると違いが分かるでしょう。
    他にも、テンポを一定にしてみるとか、
    CC7を削ってもわかると思います。音価というのがどれだけ大切か。

    似たようなの

    ジョンゲン(これも楽譜はIMSLPにあります)。
    https://www.dropbox.com/s/flx1pilutef9myv/jongen.mid?dl=0


    あと、ハイドン(これも楽譜はIMSLPにあります)。

    ハイドンは本当に勉強になります。
    https://www.dropbox.com/s/mqe9dvav44xnw5l/haydn50-1.mid?dl=0
    MIDIでいう17小節目の三拍目トップから降りる前の間。
    28小節目のおりきった音から、次のフレーズが始まる間。
    49小節目と51小節目の違い、103小節目と105小節目の違いを、
    DTMで表現するには何を行っているのか。
    一音も余すことなく調整するということ。
    これらは、実演奏の引き写しではなく、
    音がどう振る舞うべきかの、べき論です。


    この「音に対する解像度を上げていく作業」これが私のやっていることです。

    この演奏される音と、楽譜の差違について思うのはこれです。
    https://twitter.com/hachibip/status/994478803853369344
    不文律、それは演奏様式です。

    あ、ドロップボックスは要領問題等で消すかも知れません。
    (アーカイブとして残す続けるつもりはないので各自どっかに保管してください。)






    あとこれです。
    http://ch.nicovideo.jp/kotohanoaya/blomaga/ar1546806
    ここから少し違う方向に展開して、数比表記の連符について。
    ┌5:4┐ とかいうやつ。 ┌(┌ ^o^)┐ホモォ
    この分母がどうあるのか、ということを考えます。

    分子はどのような数でも行けると思うのです。
    だが分母は?

    そこで、分母が統一できれば、数比表記は確実性を帯びると思ったのです。

    見方を変えてみます。
    一瞬「お、そうだな」と思ったけれど、これは違う気がする。
    拍頭がわからない。いや、では拍頭って何だろう。

    これを可能にするには、3/4や2/4拍子を説明できなければならない。
    9/12? 6/12? 15/20? 10/20? (=3/4の長さ)
    これで整合ってとれていますか?
    整合がとれているのと、楽譜としての必然があるのは違います。
    これってどうなの?

    この考え方が許容されるなら、
    分母の小数点やら無限数は許容される?本当に?

    そもそも拍子表記っておかしいんじゃないの?www
    袋小路の藪柑子\(^o^)/
    People People People! No shute ring gun!

    そういえば、ブロマガのメール読者に俺はなる!!
    ってとき、どこから登録すればいいのでしょう。
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  • 8bitPの初演祭6の自作品解説まとめ

    2018-05-13 17:36
    書いた先々に合わせて文体が違いますが、
    初演祭のサイトと楽譜自体に書いていないことをまとめてみました。
    幾つかは典拠や注釈を追記しました。

    ハンガリーの単彩綺想

    演奏していただいたもの。
    http://www.nicovideo.jp/watch/sm33151654
    http://www.nicovideo.jp/watch/sm33155337
    http://www.nicovideo.jp/watch/sm33164462
    (フラッシュや埋め込みが見られない方がいるそうなのでURLにて)

    2018年5月現在、京都で催されているネーベル展に、私は去年渋谷にて訪れた。
    私の興味をひいたのはカラーアトラスと音楽的作品群、近東シリーズだった。
    私の「ハンガリーの単彩綺想」という作品はこの時着想を得て、
    お祭りの思い出を肉に作曲(編曲)された。
    ※ http://www.bunpaku.or.jp/exhi_special_post/otto_nebel_2018/

    カラーアトラスは、訪れた街を構成している「色」を
    スケッチブックにパレットとしてファイリングしたもの。
    例えばローマのページは、夕暮れの海の色が切り取られ、
    紺から緋に変わるグラデーションが、現代の色見本冊子の如く塗り並べてある。

    ヴェスヴィオ火山のページは山麓や稜線、岩肌の明暗などが、
    煉瓦のように積まれてパステル調の色を湛えている。
    これは、音楽家にとってのバイノーラルサウンドスケープであり、人々の、地球の鼓動だ。

    ネーベルは、バウハウスでグルノウの手ほどきを得て、
    カンディンスキーやクレーと共に音楽的作品を描いた。
    ドッピオムヴメント、コンテネレッツァ、ロンドコンブリオ、アニマート。
    これらはネーベルの画のタイトル。
    ※ https://de.wikipedia.org/wiki/Gertrud_Grunow
    ※ http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/detail.php?koara_id=AN00224504-20110228-0565


    実物をつぶさに観て私は脳髄に衝撃を受けた。
    美術館には少なからず行くが「画が欲しい」と人生で初めて痛感した瞬間だった。
    私は灰青色のフーガと言う画が見たかったが、これは叶わなかった。
    一度空襲で焼けたが後に描き直した作品で、ルーン文字でフーガが描かれている画だ。

    コンポジションという語を使うのは美術、建築、音楽に共通している。
    「クレーの絵と音楽」だったと思うが、ブーレーズはクレーを以ってして、
    作曲家は演奏家でなくてはならないと語っていた筈だ。
    私はネーベルのそれに心を奪われた。

    シャガール、カンディンスキー、クレーの画も並んでおり、
    行きつ戻りつ何度も眺めたが、ネーベルのグアッシュは私にとって鬼気迫るものだった。
    私はそういう音楽家でありたい、と思った。

    なので、色というキーワードが楽曲名に含まれています。
    オネゲルが好きなひとは、ネーベルが好きだと思う。たぶん。

    ~~~

    1曲目は童歌(わらべうた)、
    2曲目は俗謡、
    3曲目は遊び歌、
    4曲目は労働歌、
    5曲目は新婚夫婦を起こす歌です。

    楽譜には、マジャル語の歌い出しの歌詞と、
    その記録されてる出典を書いてあります。
    どの地方で歌われていたかも調べて書きました。
    (どれも現在の地名ではなく、蒐集当時の地名です)
    オリジナルは全て、無伴奏の単旋律で、
    その旋律に伴奏をつけて、室内楽にした、という
    いわば編曲作品です。

    1曲目の童歌は、似た形の聖歌があって、その変形だろうと言われています。
    その聖歌のテンポはゆっくりで、私が元にした童歌はやや速いのです。
    第1曲と同じ歌詞、音型でト長調(厳密には違うけど)の記録も地方によってはあります。
    音型が少し違って、ゆっくりのものもあります。
    ですが、私が参考にしたのは、楽譜に書いた録音の記録です。

    民謡の研究をした5人(たまたま挙げたのが5人なだけで5曲とは関係ありません)の作曲家を
    讃えた曲なだけで、5人には何も基づいておりません。
    この5人の曲を編曲したとか、それぞれスタイルを踏襲した、
    と思われてはとても困るので、放送では民謡なのです、と書かせて貰いました。
    ファルカシュやクルターグはPDではありません。
    あと、作者も全て不明です。ずっと歌い継がれてきたうたなのです。
    ただ、1曲目の、似た形の聖歌には、さらに似た器楽曲があって、
    それがガナッシという作曲家のリチェルカーレという曲の旋律なのだ、と
    コダーイは30年代に言っています。
    ※ Regola Rubertina (1542) ガナッシ …IMSLPに初版あり
    ※ A magyar népzene (1937) コダーイ


    ハンガリーの民謡蒐集は、
    何故か全てト調(ト長調・ト短調)で楽譜に書かれます。
    たぶんコダーイが最初にそうしたからでしょう。
    (実際オリジナルがト調の民謡がずば抜けて多い)
    ですが、記録もとの、原調も記録されていて(開始音だけ書いてある)、
    その原調すらもト調の曲ばかりを選び、
    曲種も違うジャンルのものを選びました。
    (例えば、童歌は一個だけにしよう、ということ)

    場所も時代も少しずつ違う曲ばかりですが、
    どれもハンガリーの匂いが感じられないか、という問いかけ、想いがあります。

    ~~~

    日本アルプス

    演奏していただいたもの。
    http://www.nicovideo.jp/watch/sm33141654

    純邦楽の特徴として「間」をあげる向きがある。
    確かに我々は鹿威しのカーンという音でなく、間の静寂に耳を傾ける民族なのだと思う。
    1000年の時を経て凡そ無拍化したというのはきっと正しい。
    日本伝統音楽研究センターの「平家物語の音楽その1」を参照されたい。
    ※ http://jupiter.kcua.ac.jp/jtm/archives/takuwa_gakudan/20121013openschool.html

    日本建築は間を仕切る。
    斎藤学山は、書道の対位法を「組織と釣り合いだ」と述べており、これは即ち間だ。
    この「間」は「無」ではない。呼吸であり、プシュケだ。
    ここに私は、洋楽の姿を純邦楽に投影できると考えた。
    フレージング、それが間ではないか、と。
    ※ http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/954048/38

    「日本アルプス」作曲の契機や方法については楽譜序文に記したが、
    これは承前の試論を反映させたものだ。
    この楽曲の演奏には、間に対する感性が問われる。
    それを私達は容易く熟(こな)すだろう。呑み会の一本締めを外す日本人が居ないように。

    予備動作無しに拍点を共有する事は洋楽圏に於いては困難で、
    この様々な振舞いがフレーズを形作る。
    武満徹がウケたのは、高度にフレージングされた音塊の亡霊が彼らに見えたからではないか。
    そして、その原点に立ち返ろうというのが、私の日本アルプスだったとも言える。
    今思えば佐藤聰明にも似ている。

    ゴドフスキ「ジャワ組曲」。
    私もガムランの楽器などで取り組んだが、この作品の原題は「フォノラマ」だ。
    高岡結貴氏の1992年の報告で知ったが、現在のガムランは日本人が思うほど儀式的な音楽ではない。
    私の過言なら、王宮外で演奏されるものはメシのタネでしかないという。
    ※ http://www.nicovideo.jp/watch/sm29510697
    ※ 日本音楽学会「音楽学」第38巻3号 P193-4
     

    承前 楽器職人の作る楽器は民間奏者向けで、
    職人も奏者も伝統に対する誇りが薄いという意識調査報告。
    王宮は楽器を新たに発注する経済力も持たない。
    王宮では未だ厳格だが民間では
    「楽器は神聖だから食べ物を上に置かない、跨がない」とは言うものの、
    その意味についてはあまり論じられないそうだ。

    私は失われたものを嘆いているのではなく、
    彼ら民衆の生きる糧となって歴史に残った事に注目しているが、
    その、在りし日のガムランの姿をゴドフスキはその目で見たのだ。
    本人による序文や解説にまざまざと記されている。
    これは録音とは違った音楽家による歴史的記録だ。これを彼はフォノラマと題した。

    ゴドフスキはフォノトグラフに逸早く注目した人物。
    フォノラマ、ここに私はヒントを得て、日本アルプスを「セマフォア」と名付けた。
    これは旗、信号、通信である。
    そしてそれらが必要とされるのが間(距離)であり、
    それを伝えるのもまた、間(音…波の有無・緩急)なのだ。

    19世紀のオランダ統治によって、ガムランは既に王宮から民間の娯楽に変わりつつあった、
    というのは注記しておく必要があるか。
    この構造は、GHQ下で社格廃止をうけた、
    日本の神事・まつりごとの姿にもやや似ているかも知れない。

    ~~~

    詩篇唱と交唱

    演奏していただいたもの。
    http://www.nicovideo.jp/watch/sm33121801
    http://www.nicovideo.jp/watch/sm33104410
    http://www.nicovideo.jp/watch/sm33166769
    http://www.nicovideo.jp/watch/sm33166796
    http://www.nicovideo.jp/watch/sm33166822

    私の「詩篇唱と交唱」はアドリアン・ヴィラルトの「ムジカノヴァ(1559)」を根底にしている。
    ムジカノヴァは歌詞を音楽に変える実践書。
    弟子のザルリーノは「休符とカデンツが構造を決める」と言ったが、
    ヴィラルトはマドリガルと比べ、モテトゥスにそれは難しいと述べている。
    ※ ムジカノヴァ自体に解説はほとんど書かれていない
    ※ 難しいといった理由は、パート…楽曲の構成単位…が、現在のフーガやカノンのように入り組むから


    承前ここがジョスカンとパレストリーナを繋ぐキーワードで、
    ポリフォニー史の方向を決めた点だと私は考えている。
    ジョスカンが自由だったのに比べ、ヴィラルトが抑圧的に映る理由は、規則にある。

    ヴィラルトは規則を「必須、任意、推奨」の三種に分類して「過去と現在」の区別をした。
    これを私は楽器との対話に持ち込んだ。
    だが、その起点はあくまでも語であり旋律だ。
    規則に反証しても、旋律には抗えない、それを私は認(したた)めたかった。

    承前、これをボーケマイヤーとマッテゾンの対立に見て、
    私はレチタティーヴォを置くことにした。
    ルカ伝2:14の天使のお告げが、必ずソプラノで唱されたように、
    音の高低は物理高低に当てはめられてきた。
    従って、楽譜で述べた通りこれは通奏高音下の独白なのだ。
    ※ Sprache und Musik bei J.Mattheson 礒山雅 …CiNiiにオープンアクセスあり


    ※ 記事サムネは、ネーベル展カタログと、同時期に行った北斎展のチケットと、たこ(2017年10月頃の写真)です

  • 音を紡ぐ

    2018-05-06 12:0541
    楽器が音を出すということ、
    そしてその音楽について少しばかりつらつらと。

    クラシカの楽器の中でも、
    ダブルリード属の楽器(オーボエやファゴットなど)は
    リードを水につけてから演奏します。
    からきし乾燥した状態からだと、リードは割れてしまうからです。
    水の容器にはフイルムケースが丁度良い大きさで、
    (持ち運ぶのに)蓋をすると水がこぼれにくいので重宝しましたが、
    デジカメが普及してからはフィルムケース自体が減ってしまい、
    今では希少だともききます。
    逆に、フィルムケースが普及する前はどうだったのか、というのは、
    日本ではあまり知られていませんが、
    やはり小さなコップを使ったそうです。水筒ではないらしい。
    それだけ水が潤沢に使えた時代の楽器ということだろうか。
    日本では湯飲みで水を汲み、舞台に持って上がることがあり、
    ホールの方が怒ったりする場面がありますが、
    飲むためではなく、水が楽器に必要な道具であることが
    一般に知られないことの一端のようです。
    舞台のプロフェッショナルが知らなかったりするのだから
    なかなかに奥深いものです。
    まぁ、湯飲みでは誤解を招くよね。

    「飲食禁止の舞台に湯飲み」ならまだ良いのですが、
    邦楽器の笙は温めてから演奏します。
    これもまた、冷えた状態から息を吹き込むと、
    リードの部分が割れてしまうからです。
    古くは火鉢を使ったのですが、
    現代のホールや楽屋で火鉢を使うことは、
    消防法の関係で許可がおりません。
    そこで、電熱線の小型ヒーターを持ち歩いているのだそうです。
    火鉢に寄り添って笙をまわしながら温める姿はなかなかに画になるのですが、
    それが難しい今、果たして笙の奏でる音も変わったのでしょうか。
    (楽器の材質が時代によって変わったという話はここでは置いておいて)
    余談だけれどもこれを聴きに行きました。小さなシドミード展も一緒にやっていた。
    当時は「ここでしか買えない今日のDVD付の記録CDを予約して帰らないか」
    と謳われたのに、後日普通に発売されて、話がちげーぞと思ったのは別の話ですが、
    この演奏会で、菅野さんがあれこれ要望を出した中で、
    火をたいて煙を出したい、ということだけが実現しなかったそうですね。
    そりゃそうだ。布と風で、驚くほどの演出をやっていましたが。

    擦弦属(ヴァイオリンなど)の弓に松脂を塗るように、
    グラスハープでは指をぬらしますね。
    アニメ「けものフレンズ」で話題になったクイカも、
    張った皮に付けた棒(糸)を、湿らせた手や布でこすって音を出します。

    ひとつ、水にまつわることで話を広げてみましょう。
    ハイドロフォン(現代の水オルガンの一種?)や
    ウォータードラムにも水を使いますが、
    水を使わないナイジェリアのウドゥ(壺のような楽器)も語源が舟だそうです。
    ものを詰めたのか、水を張ったのかはわかりませんが、
    壺というのは火と水を使って作り、その両者を扱う道具だと思います。

    インドの楽器カンジーラは、トカゲの皮を張ったタンバリンなのですが、
    皮を水でふやかして叩くため、小さいのに不可思議な低い音が出ます。
    その日の皮の具合と、湿らせ方(水の含み方)に左右されるので、
    沢山の種類のカンジーラを持ち歩き、その場にそぐう楽器を叩くのだそうです。

    ノヴェンバーステップスがアメリカで演奏旅行された際、
    日本のような湿度がないために
    「琵琶の音がしない」と武満徹が嘆いた話を思い出しますね。
    宮廷楽師から私が直接聴いた話だと、
    邦楽器が海外で最も様変わりするのは、締太鼓だそうです。
    皮面が裂けるのだそう。その原因は湿気の無さではないか、とのこと。
    逆に、洋楽器であるダブルリード属のオーボエやファゴットは、
    日本での雨や梅雨に参ってしまいます(発音が重くなる)。

    カンジーラに限らず、タンバリンやベンディールのようなものを思い起こすとき、
    そこには皮やガット(腸)を使うことがままあります。
    皮をなめすときに水を大量に使うので、
    皮の名産地は、決まって川沿いですよね。
    洗ったりタンニンなどに漬けるのに使う樽を
    「ドラム(日本ではタイコ)」と言います。
    楽器が、文化と共に生まれ、発展してきたことを感じますね。

    日本では三味線に猫(あるいは現代では犬)の皮を使います。
    猫は死なない生き物だと信じられていた(死に目を晒さない)し、
    猫又(化け猫)になってしまうと信じられていたというのもあるのでしょう。
    1年と少し前、こんなニュースがありましたね。
    https://imgur.com/gallery/uMroo
    飼い主が面倒をみきれなくなった子で、
    これは毛玉らしいけれど、猫又を信じてしまう。
    九尾狐狸というのは、中国だけでなく日本や朝鮮、ヴェトナムでも信じられています。

    ただ、こういった素材は時代が許さなくなっていくでしょう。
    猫皮や蜥蜴皮、羊皮は樹脂擬革に、
    ガットはナイロンやスティールに、
    象牙の鍵盤は単なる木材や樹脂に。
    コルセットやぜんまいの材料が鯨でなくなったように
    時代の要請はきっと避けられない。

    マーラーの処女作とも云うべき作品の『嘆きの歌』では、
    兄に謀られ、殺されてしまった弟の"骨"が、
    数年後に通りかかった吟遊詩人を誘(いざな)って骨を笛に細工させます。
    この骨の笛の奏でる音楽が嘆きの歌で、
    これはおとぎ話だけれど、
    恐らく歴史的には正史に残らなかった出来事として、
    人の皮や骨の楽器というものも、かつては存在していたでしょう。
    海賊のトレードマークにように描かれる三角帽が、
    襲った船の船員服だったように。
    悪趣味な物言いだけれど、
    人でなければ出ない音があったのではないでしょうか。

    しかしながら不思議なもので、
    卵の殻に砂をつめシェイカー(マラカス)を作っても、
    木を伐り家やギターを作っても、
    あまり批難を受けません。
    希少種でないから?植物だから?
    その木が特別変異で後に新種を生む木だったなら話が違う?
    なんだかよくわかりません。
    (私は無類の犬好きで最近は猫にもメロメロですが)

    少しだけ見方を変えてみるのですが、
    https://www.youtube.com/watch?v=cFYxRp9K9L4
    私は何故だか面白くて笑ってしまうのです。
    これはどうしてでしょうか。
    「鳥頭がオペラを」などと思っているのでは決してない筈なのに、
    何故だか可笑しくて笑ってしまう。
    https://twitter.com/chitta_321
    夜のピーちゃんのアリアは「おおお」と感心してしまうのに。
    この差は何なのだろうか。これは差別?
    音楽とはなんなのだろう。


    やや脱線してしまいましたが、
    何故このような話なのかといいますと、
    「音楽はわからない、パソコンもわからない」と仰る年配の方に
    「ボーカロイドって何?」と訊ねられたのです。

    「簡単なことさ、蛸なんだよ」と言いたい衝動を抑え、
    考えるのですが、どうにも答えられない。
    私は考えあぐねる顔で「…シンセサイザーですね」と答えるのですが、
    老境の御仁はどうにも腑に落ちない様子。
    私なりに苦慮した末の答えなのに、
    「知らない単語を言われても。話をはぐらかされた。
     こいつは本当にわかっているのか?」
    という面持ちで臨まれるのは辛い。
    横文字が覚えられないそうで、
    カタカナで「シンセサイザー」というメモを書いて、
    話は終わったのかと思っていました。

    すると、次にお会いした際、熱心にお調べになったご様子で、
    「娘に印刷して貰ったんだ」と
    掠れたインクジェットプリンタで刷ったであろうアナログシンセの写真を手に
    「こんななんだね!おっきいの?」と訊かれることに。
    私は「ボーカロイドはおっきくはないというか…」としどろもどろ。
    「Minimoogの写真を印刷できるならボカロを調べて教えてやってくれ!!!」
    会ったこともないご令嬢に心の叫びを送りつつ、
    「こういうものも昭和(期)のシンセサイザーのひとつなのですが、
     時代が進み進化して、今ではいろいろなタイプがあるんです」と私は言うものの、
    「これ(モーグ)はどういうことなんだ、何が音を出すの?」と言うわけです。

    なかなか哲学的な話ですよね。
    ボーカロイドは、シンセサイザーは、一体全体何が音を出しているのか。
    電鳴楽器というような楽器分類学の話であるようで、
    私にとってはそうでもない。

    スピーカーコーンやヘッドフォン・イヤフォンのコイル?
    アンプリファイヤーされる前のデータ…数字や演算?
    それらを形作る私たち人間の意志?あるいは象られた何か?
    はたまた、コイルを動かす電気そのもの?

    こういった考え方に、
    生きた時代を共にした、という意味で、
    ジョンケージ以上の存在を私は知りませんが、
    (古典…紀元前も含む…には広義でハイコンテクストな、同類の著作が当然無数にあると思う)
    ビルフォンタナのアプローチも時に音楽的なのだと思います。
    http://hive.ntticc.or.jp/contents/artist_talk/20150523
    龍安寺の鐘にケージが頭を突っ込んで居る写真が有名ですよね。

    フォンタナはこれらを楽器だとは言わないけれど、
    アボリジニはシロアリの食べた木をイダキ(ディジェリドゥ)と呼んだ。
    楽器として生み出されたものでない、時に人よりサイズの大きなディジェリドゥを
    そのままを楽器とする姿に武満徹は驚嘆したと言い、
    彼は地下鉄の音に耳を傾けた。
    同世代の中田喜直は相反するように鍵盤幅の狭いピアノを作ったのだから面白い。
    遡ればアルカンの「鉄道」やオネゲルの「パシフィック231」も、
    一見前述のようで、後述の中田と同じ辺りが、
    古(今)東西をあらわしているように思います。

    閑話休題、シンセサイザーは何が音を出すのか、
    これは即ち私にとってボカロとは何なのか、に近い問いで、
    我が人生の、ひとつの命題でもあるようなのですが、
    私の中では明確だのに、なかなかどうして理解されません。

    西洋楽器の生演奏の勉強をして、
    その演奏機会に携わってきた身としては、
    「サンプラー」「モデリング」という2種で見るべきなのでしょうけれど、
    私にはそうは見えず。

    くだんの返答は、その部屋にあったボーズのスピーカーを指さして、
    「コーンヘッドというものがあって」と説明しかけて…
    「スピーカーは(俺の知っている)シンセサイザーじゃない」と否定された(笑)ので、
    「電気ではないだろうか」ということで一件落着。
    いや、ボカロの正体は案外電気かも知れない。

    最新の著作、という点で、まつおさん(漢字が松尾さんなのかを私は存じ上げない)の
    「ボーカルシンセサイザーの楽器法と管弦楽内における使用」
    は非常に興味深く拝読しました。

    即マイリス行きでしたが、もっと聴かれて欲しいと思う。
    コメントもなんだか悲しいし、Youtubeの再生数の少なさには遺憾なほど。
    著作について、
    私は声の代替としてでなく、ひとつの音素材としてボカロを見ていますが、
    アプローチが違うだけでこうも言えるのかと感心しきりでした。

    丁度こちら
    http://www.tonmeister.ca/main/textbook/
    も読了した時分で、
    「何が音を出すの?」という質問は、
    私にとってクリティカルだったのです。
    そもそも音(楽音)とは何なのか。

    楽器としての可能性といいますか、
    オーケストレーションの妙ということで4方をご紹介。
    この偉人達をご存じない方も、
    このブロマガを読んでいただいているかも知れないので。


    ainoさま


    gonさま


    メッサPさま


    油性Pさま



    そうそう、ブロマガという点では、
    http://ch.nicovideo.jp/aetonal/blomaga/ar565620
    この解説2以降も楽しみに待っておりますが難しいのかなぁ。

    つれづれに書き始めてしまい、
    どう湿れば…もとい締めればよいのかわかりませんが、
    音響聽(Akustisches Hören)と音樂聽(Musikalisches Hören)と言う区別に反し、
    『読んでくれてありがTon』ということでお後がよろし…くない?

    ※記事サムネはヒンデミットの「トラウトニウムのための7つの小品」の直筆譜(PD)、カデンツ部分です