No.009 復元記紀年表で迫る ~日本武尊命の死後~
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No.009 復元記紀年表で迫る ~日本武尊命の死後~

2017-06-16 12:21
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今回から数回は前回までに作成した記紀の復元年表を数値的に眺めるとどのようなことが分かってくるか、という内容で進めたいと思います。
魏志倭人伝の謎に迫って欲しいという方、すいません、もうしばらくお待ち下さい。

年表の解釈が中心なので小ネタが続く感じですが、そうするとタイトル的に面白みがなく、読んでくれる方も少なくなってしまうので、記事を数回に分けて記事の見出しで話の概要がつかめるようにしたいと思います。
ですので、1回あたりの分量は短めにしたいと考えています。

以下、同時代に複数の天皇を扱います。まだ御子や皇太子の場合天皇号を用いるのは正確ではありませんが、人物は一人一呼称としたいので、全て天皇号で記述します。

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年表の数値的解釈


表1:復元年表抜粋(崇神天皇から応神天皇まで)

10代崇神天皇から15代応神天皇までの復元年表を表1に示します。
景行天皇、成務天皇、神功皇后が網掛けなのは、即位はされなかったと推測されるからです。
神功皇后は過去において15代とカウントされたころもあるようですが、現在は摂政扱いで一般には天皇としてカウントしません。
景行天皇と成務天皇は日本書紀の在位年数が60年ちょうどで、干支一回り分の減算を行うと在位年数0年となります。表でも垂仁天皇の在位期間内に亡くなっている計算になるので、即位されることはなかったと解釈します。
以下、表から読み取れることを列挙します。
  1. 崇神天皇の在位期間が短く8年間である。
  2. 崇神天皇と垂仁天皇の間に空位が13年ある。(筆者は魏志倭人伝において台与が立てられた時代と推測しています。)
  3. 崇神天皇と垂仁天皇の出生年が8年違いで、親子関係が疑われる。(陵墓も崇神天皇、景行天皇は三輪山近辺ですが、開化天皇、垂仁天皇、成務天皇は奈良盆地北部です。)
  4. 垂仁天皇は長寿で享年93才。(崇神天皇と同様干支2周分減算すると在位年数のほうが大きくなってしまい矛盾しますので享年93才としてあります。)
  5. 垂仁天皇と景行天皇がともに310年没。
  6. 景行天皇と成務天皇は即位されなかったと解釈できる。
  7. 仲哀天皇は日本武尊命の子、景行天皇の孫なので、成務天皇と親子関係はないため、U列がマイナス。
  8. 仲哀天皇の没年、享年と神功皇后の出生年を比較すると、神功皇后が仲哀天皇の皇后という通説には無理がある。
  9. 仲哀天皇の没年と応神天皇の出生年から考えて、親子関係ではないと推測できる。
  10. 垂仁天皇が亡くなってから、神功皇后が摂政になるまでの間に空位がある。
  11. 垂仁天皇と仲哀天皇の在位が重複する。
ネタがありすぎです。やはり年表の復元には無理があったのでしょうか?

特に「垂仁天皇と仲哀天皇の在位が重複する」点が気になります。
仲哀天皇元年の294年に何があったのでしょう?

ヒントは「白鳥」

仲哀天皇元年
仲哀天皇は即位後、亡くなり白鳥と化した父親の日本武尊命を慕い、父王の陵墓で白鳥を飼いならそうと諸国に白鳥を献じさせる。ところが越の国の献上者から天皇の異母弟のカマミワケ王が白鳥を奪い去ってしまう。カマミワケ王が生前父王に無礼だったこともあり、天皇は激怒されカマミワケ王を誅殺してしまった。(要約元※1 以下同じ)

これだけだと物騒な話ではありますが、天皇在位の重複ほど重大とは思えませんね。

白鳥記事は垂仁天皇、景行天皇にもあります。そちらを見てみましょう。

垂仁天皇は復元年表だと西暦310年に崩御されます。294年はそこから16年前ですね。
日本書紀のオリジナルに換算すると垂仁天皇39年までなので、垂仁天皇23年が対応可能な年になります。(対応の付け方は即位年からの年数、没年からの年数、干支の一致などいろいろありえますが、今回は没年からの年数です)

ちょうどこの年にも白鳥が出てきます。

垂仁天皇23年
ホムツワケ王(垂仁天皇の最初の皇后の皇子、景行天皇は大足彦忍代別尊で別人)は30才にになっても言葉が話せなかった。ある日皇子は飛んでいる白鳥を指差して「あれは何だ」と言葉を発することができた。そこで天皇はその白鳥を探し出させて献上させた。白鳥は出雲(一説但馬)で捕まえられた。

景行天皇も復元年表だと西暦310年に亡くなる計算ですが、日本書紀のオリジナルは景行天皇60年までなので、16年遡ると景行天皇44年です。
しかし44年の記事はなく、日本武尊命の亡くなった記事の最後に次の記述があります。

「是の歳、天皇践祚より43年」

普通年数は記事の頭に何年(何月何日)とだけ示してありますが、ここだけ違います。
43年目なのか43年後なのかも明示していなく、ボカしてあるように感じます。
景行天皇44年でも43年でも辻褄は合うのですが、ここは44年であることをボカしてあると解釈しましょう。

景行天皇44年
日本武尊命は東国遠征の帰途、山の神の毒気にあたり病で亡くなる。一度、伊勢国の能褒野陵に葬られるが、ここから白鳥となって飛び立った。棺の中が確認されたが衣服だけしかなかった。その後、白鳥は大和の琴弾、河内の古市に留まったのでそこにも陵を作った。

それぞれ、白鳥が出てきただけと考えるとそれまでなのですが、復元後の年表で同一年の記事になると考えるとそれぞれ関連性を考えざるを得ません。

実は皇位継承権争奪の記事

思うにこの白鳥は皇位継承権(=皇太子位)を暗示しているように思えます。

というのも復元年表では西暦294年時点で垂仁天皇は存命なので天皇位にありますが、80才近く高齢なため、事実上景行天皇が任にあたっていたと思われます。しかし、景行天皇ももはや高齢で、次代の若い世代から次期天皇を選ぶ時期になっていたとかんがえられるのです。

東西の遠征により実績的にはトップにあった日本武尊命が亡くなり、継承権は垂仁天皇の実子
ホムツワケ王に移ります。これに対して日本武尊命の遺児、仲哀天皇は実力で皇位継承権を手に入れた(というか、自ら即位を主張した)というのが、白鳥記事をひとまとまりに扱い、復元年表と合わせた解釈になります。

この件については知りうることを語り足りていないのですが、十分に説明するには前世代の状況を示す必要があります。全体像を示すには何回もかかってしまうので、それはまたの機会にしたいと思います。

まとめ
  • 復元した年表の西暦294年に相当する日本書紀の記事はいずれも白鳥を扱っている。
  • 白鳥は日本武尊命の化身や皇位継承権を暗示しているように思われる。
  • 該当記事を皇位継承権の争奪と解釈すると、復元年表において西暦294年に仲哀天皇が垂仁天皇の在位時に即位した形になっていることにも説明がつく。
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【次回予告】
初期の天皇家は末子相続だったとされています。そのあたりの事情を復元年表から読み解きましょう。

※1:要約元 「原本現代語訳 日本書紀(上) 山田宗睦訳 ニュートンプレス」
参考資料:
国会図書館デジタルコレクション 日本書紀30巻


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筆者です。
やってしまいました。
景行天皇の出生年が234年、仲哀天皇の出生年が251年だと、世代の間に日本武尊命が入る余地が無いですね。
年表のほうが正しいという前提での記紀の解釈を行うという考え方なので、父子関係を見直さないとなりません。
直前直後の世代間はチェックしてるのですが、世代が飛ぶと気付かないですね。
系図の修正が入ると一気に常識からかけ離れるので、納得のいく根拠を探さないとならないですが、本職の歴史家と違い知識の引き出しが少ないので苦しい所です。
直感的には日本武尊命と仲哀天皇は父子関係でなく兄弟関係ということになるでしょうか?
そうすると、反乱のきっかけは日本武尊命の死の重要性は下がり、成務天皇と仲哀天皇の皇位継承権争いが大きいということになります。
1ヶ月前
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