No.011 復元記紀年表で迫る ~倭の五王 その1~
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No.011 復元記紀年表で迫る ~倭の五王 その1~

2017-06-25 22:46
    投稿が遅れてすいません。
    今回の話は中国の歴史書に記述された「倭の五王」についてです。
    この部分は話をする見込みはつけていたのですが、その時点では掘り下げが浅く、調べていくうちにいろいろな可能性に新たに気付かされることが多く、そう展開したらいいやら躊躇していた次第です。
    ということで、分かっている部分を数回に分けてお送りしたいと思います。

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    倭の五王とは


    中国の歴史書に記述された古代日本の王権としては、「漢委奴国王印」を授与された倭奴国(後漢書)、卑弥呼の邪馬台国(三国志の魏志)などがありますが、西暦266年に倭の女王が遣使した(※1)との記録を最後にしばらくの間、中国歴史書の中の日本に関する記述が途絶えます。(古代日本に関する中国文献についてのwikipediaページはこちら

    その後、西暦413年から502年にかけて数回に渡って当時の数代の中国王朝に対して倭国から遣使が行われ、この事がそれぞれの中国王朝の歴史書に記事として記載されています。

    記事の特長としては、
    • 中国名的な王の名前が示されていること
    • 遣使の年代がはっきりしていること
    • 一部父子兄弟の相続関係が示されていること
    • 王位・将軍位などの肩書を認めるよう要求していること
    • 肩書が一部を除き授与されていること
    などが挙げられます。

    それらの記事では5名の王(讃、珍、済、興、武)が挙げられていて、それらの王を「倭の五王」と通称しているのです。

    古代日本史の研究にとっては、「この中国風の名前を持つ五人の王が歴代天皇のうちで誰に対応するのか?」というテーマで扱われます。

    既に定説があって、以下のように五王と天皇の対応がなされています。

    古事記の没年干支を基準にして讃=仁徳、珍=反正、済=允恭、興=安康、武=雄略と推定するか、日本書紀の即位時の干支から讃=履中、珍=反正、済=允恭、興=安康、武=雄略と推定する方法が取られ、通説では後者のほうらしいです。

    筆者の復元した年表では、日本書紀から干支を数周繰り下げて得られる年代を基準に古事記の特長も取り入れているため、上記の推定方法では古事記を基準とした方法にかねがね一致しますが、それ以外にも発見があったので、見てみましょう。

    原因に迫るための予備知識

    復元年表の抜粋と倭の五王の記録を以下に示します。


    表1:応神朝年表
    • 天皇名で朱記されているのは画期となったとされる天皇
    • 皇統が連続したとされる一区切りを~朝という場合がある。応神天皇から武烈天皇までを応神朝という。
    • G列 推定享年でオレンジの項目は、古事記・日本書紀ともに享年がないもので、他の史料からの引用。
    • 他の朱記項目は本文参照
    表2:倭の五王の記録
    • 表が小さくて読めない場合は、クリックして拡大してください。
    • 倭の五王に関する情報はwikipediaからの引用
    • 1年に複数回遣使している、あるいは、記事になっているものもあるが、表2では年毎にまとめている。
    • 中国王朝は中国の五胡十六国時代、南北朝時代の各王朝
    • 倭王名は元の記録に記述なしのばあいは推定で「?」と付与
    • 世代交代で(子)の場合は親子関係、(弟)の場合は兄弟関係が示されている
    • 倭国側からの要求と臣下への授号はその他の要件欄参照筆者の見解は見出し背景が緑の部分
    復元年表の詳細については第6回第8回を参照してください。

    今回の最大の特長は仁徳天皇からと允恭天皇の在位が重なる点です。
    通説では、仁徳天皇は仁政を敷いたとされる天皇で、その後履中、反正、允恭の兄弟が順に皇位の兄弟継承をした(皇位の兄弟継承の初出とされる)となっています。

    ですが、復元した年表では仁徳、履中、反正天皇と允恭天皇は在位が重なり、そのまま解釈すると対立関係になります。
    しかも、允恭天皇そ即位年が倭の五王の遣使再開年=西暦413年と重なるのです。

    これは一体どういうことでしょうか?

    まずは通説の各天皇の概要から説明しましょう。(表2に記載がある分)
    第16代仁徳天皇 
    • 父である応神天皇の崩御後、皇太子であった菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)皇子から皇位の委譲を受け即位。その際3年の空位が発生(日本書紀)。
    • 即位後3年間税の免除を行い国力の回復を図った。この措置を含めて一般に仁徳天皇の治世は仁政と評価されている。
    • 多くの土木事業を行った。大和川流路変更、大仙陵古墳(仁徳天皇陵で国内最大の大きさ、在位時に造成した寿陵とされる)、他用水(運河?)、堤防、道路、池などの記事が連なる。在位前半に記事が集中する。
    • 仁徳16年以降、皇后と妃との関係に悩む記事があり、人間的側面の記述と評価される。
    第17代履中天皇
    • 仁徳天皇崩御後、弟の住吉仲皇子が謀反を起こす。即位前の去来穂別尊(いざほわけのみこと、履中天皇)は弟の瑞歯別尊(みずはわけのみこと、後の第18代反正天皇)を派遣してこれを討伐する。(出生順は日本書紀では履中、住吉仲、反正、允恭の順)
    • 皇后を立てず、履中天皇の記事にのみ見られる「皇妃」として黒媛を立てる。
    • 黒媛が祟りで亡くなる、召し出した王が参内しないなど不穏な記事が目立つ。
    • 履中天皇陵とされる上石津ミサンザイ古墳は国内3位の大きさ
    第18代反正天皇
    • 諱の瑞歯別尊(みずはわけのみこと)は歯が揃ってキレイな様子をあらわす。容姿は美麗と書かれているので、かなりイケメンだった模様。
    • 履中天皇期に反乱を起こした住吉仲皇子を謀殺する。
    • 記事内で皇太子でなく儲君(立太子礼を経ない皇位継承者)と書かれる、皇后でなく「皇夫人」を立てるなど扱いが特別。
    • 記事は極めて簡潔で量が少ない。
    第19代允恭天皇
    • 反正天皇の崩御から足かけ2年皇位継承を拒み続けたが、群臣から請われて皇位継承を決意する。
    • 出自を偽る臣下が多いため、盟神探湯(くがたち)を行う。(神罰で脅す裁判、踏み絵のようなもの)
    • 皇后の妹が気に入り妃とし、仁徳天皇と同様揉め事になっている。
    • 容姿が美麗な木梨軽皇子(きなしのかるのみこ)を皇太子に立てるが、彼が同母妹を愛してしまったため妹君を流罪にする。色恋沙汰のトラブルが多い。
    第20代安康天皇
    • 允恭天皇崩御後、木梨軽皇子が皇太子だったが素行不良で群臣が従わなかったため、これを実力で排除。木梨軽皇子は自ら命を絶つ。
    • かなり怒りっぽかった模様
    • 仁徳天皇の皇子の大草香皇子を臣下の讒言を信じて殺害してしまう。
    • 皇后とした中蒂姫命(なかしひめのみこと)の前夫は大草香皇子で、遺児の眉輪王(まよわおう)も引き取って養育したが、安康天皇はこの眉輪王によって殺害されてしまう。
    第21代雄略天皇
    • 兄の安康天皇殺害を受け反撃に出ると共に、政敵になりうる皇子や臣下を殺害する。
    • 政敵殺害により皇位継承可能な皇族が少なくなり、後代の皇位継承問題の遠因となる。
    • 独断強権的で従来の有力氏族に依存するのではなく、渡来系書記官の身狭村主青(むさのすぐり あお)や檜隈民使博徳(ひのくまのたみのつかい はかとこ)などを重用した。
    • 朝鮮半島での外交・軍事活動も活発で、帰化した多くの渡来系氏族を活用している。
    • 地方の反乱鎮圧を有力氏族に討伐させており、反対勢力の弱小化を図っている。
    • 中国の呉に遣使する記事が見られる。倭の武の遣使先は南朝の宋なので位置的に同じ。

    第25代武烈天皇
    • 武烈天皇の扱いは古事記と日本書紀では大きく異なり、古事記では形式的な内容だけで記事がありません。
    • 日本書紀では悪逆に表現されています。これは次代の継体天皇と武烈天皇の皇統上の接点が15代応神天皇にまで遡り、実質王朝交替と捉えられてきたからです。すなわち、系統の断絶の責任を武烈天皇個人に着せ、他の要因や次代の皇統に影響が及ばないようにするための配慮と考えられます。ですから、武烈天皇に関してはなかなか正確な判断ができないものと考えます。
    さて、ここからが本題になるわけですが、文量が多くなってきたので、次回に続くことにします。(まとめなし)

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    【次回予告】
    ~倭の五王 その2~ をお送りします。
    各天皇の記事を復元年表に合わせて読むことで、何故中国への遣使が必要になったのかが見えてきます。
    他には復元年表で在位年数を短縮した仁徳天皇の記事をどう読むかがカギです。

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