No.012 復元記紀年表で迫る ~倭の五王 その2~
閉じる
閉じる

新しい記事を投稿しました。シェアして読者に伝えましょう

×

No.012 復元記紀年表で迫る ~倭の五王 その2~

2017-06-28 12:31
  • 1
文量が多く複数回に分かれてしまいましたが、倭の五王の回を再開します。
魏志倭人伝の経由地(第7回)の続きのほう忘れてないか?と言われそうですが、シッカリ憶えてますので、もうしばらくお待ち下さい。

それから、このブログはなるべく多くの人に読んでもらいたいので、ツイート拡散か、次のボタンをクリックしてランキング投票してください。よろしくお願いします。

原始・古墳時代ランキング

さて、前回は復元年表を使って解釈した倭の五王との対応表と、各天皇の概要を示した時点で終わってしまいました。
  • 仁徳・履中・反正天皇と允恭天皇の在位が重なる
  • 允恭天皇の即位年が倭の五王の遣使再開年=西暦413年と重なる
ので、西暦413年前後に何が起きたのだろう?というところでした。

復元年表が合っていることを前提に日本書紀の記事を読み直すと、このあたりの原因が明らかになっていきます。

前回提示して表を貼り付けておきます。(注意書きは前回の記事参照)
表1:応神朝年表
表2:倭の五王の記録


日本書紀の日付付きの記事を年代復元してみる

第4回の「記事内容の調整について」で日本書紀の各記事の年代復元、読み替えは困難だろうという見込みを立てています。
履中天皇以降は在位年数を干支1周分短縮する操作はないので、記事と年代の対応はつけやすいのです。
しかし、仁徳天皇は在位年数を87年間から27年間に読み替えるので、そのままでは記事の内容からどのような結果を生じたのかが判断できにくくなります。

記事内の「原因に対して結果が生じる」という因果関係を整理・理解することで歴史の全体像が把握可能になりますが、「結果は原因に対してより未来に生じる」ので記事の前後関係が把握できないかぎり、歴史書に書かれた歴史的事実の真の意味は分かりません。

古事記・日本書紀の記事は年代が海外の歴史書とズレていたり、人の時代の東征を神代の国譲りに投影したりされているので、一つ一つのヒントは確実に記載されていても、本来、その前後関係から理解できることが分からなくなるようボカされています。

その一つが干支1周分間延びさせられた在位期間内の記事で、この部分を本来の年代で解釈できれば新しい事実が浮かび上がってくるハズです。

今回の仁徳天皇の記事の場合は比較的単純です。
(日本書紀の記事そのままの年代をオリジナル、変換後・復元先の年代を新説としてあります)
  • オリジナルの仁徳元年~27年の記事はそのまま新説の年代とする。
  • オリジナルの仁徳28年~87年の記事はオリジナル87年=新説27年として順に遡って対応付ける。仁徳元年以前の分は皇子の時代の事蹟として解釈する。
例外もあって、恋愛絡みの記事はオリジナルの元年~27年であっても、若い頃で解釈したほうが良いようです。(仁徳天皇の享年は83才なので限界はある)
したがって、日本書紀の仁徳天皇の記事は皇子の時代の事蹟がかなり存在するということになります。

他の天皇の場合も同様かというとそうでもなく、神功皇后の場合は
  • オリジナルの神功皇后摂政元年=新説の神功皇后摂政元年として69年分対応付ける。新説の神功皇后摂政9年(没年)以降の事蹟は神功皇后没後の記事として解釈する。
  • 誉田別皇子(応神天皇)関係の記事は新説の神功皇后5年(西暦325年、応神天皇出生年)以降に対応付ける。
という感じになります。
神功皇后の三韓征伐と呼ばれる朝鮮半島出兵記事については、応神天皇出生以前については半島側に対応する記録がなく、神功皇后摂政46年以降のものは没後=応神天皇の事蹟に相当することになります。

日付付き記事復元方法の根拠

まずは遣使開始と允恭天皇即位の年、西暦404年以前の記事の一部概要を表3に示します。(表ばかりですいません、、、)クリックで拡大します。


表3:応神天皇~允恭天皇年表(404年まで)
  • 復元年表から読み取れる、西暦に対応する各天皇の年齢および年号年を示してあります。
  • 記事は左右に分かれていますが、例えば仁徳天皇の在位時は左列に仁徳紀の記事が、他の時期が重なる記事は逆側の列にというように分けて示してあります。
  • 記事末尾に(仁徳)とあるものは日本書紀の仁徳紀の記事になります。西暦404年「課役免除開始(仁徳)」とあるのは、仁徳天皇の年号を参照して「仁徳4年」の記事である。と読みます。
  • 仁徳天皇は28年~87年の記事の年を読み替える必要があります。そのための列が「没基準」列になります。例えば西暦371年「履中立太子(没基準仁徳31年)」とありのは、オリジナルの日本書紀において仁徳31年去来穂別皇子(のちの履中天皇)立太子の記事は年表を遡り、西暦371年仁徳天皇が27才のときに事蹟と読み替えます。
  • 西暦383年から390年までは省略してあります。
まずは前項で説明した「在年数を干支1周分短縮した天皇の日付付き記事の読み替え方法」について、根拠を神功皇后の場合と仁徳天皇の場合で説明しておきます。

年表に載せるのを忘れましたが(重要なのにw)第4回にあるように神功皇后摂政64年条に百済の貴須王薨去の記事があり、これが百済の近仇首王にあたり西暦384年にあたることが分かっています。
復元年表では神功皇后は摂政9年に亡くなっていますが、生存に関わらない朝鮮半島の記事については神功皇后摂政69年まで西暦との対応が取れていることになります。

次に仁徳天皇の分です。

西暦382年、神功皇后摂政62年条に「新羅が朝貢しなかったので葛城襲津彦を派遣して撃った」とあり、合わせて百済記からの引用や別の資料からの引用が示されています。
要約すると以下のようになります。

~百済記より~
壬午(西暦382年)新羅は倭国に献上しなかったため、沙至比跪(さちひこ)を派遣され撃たれたが、沙至比跪は新羅の美女に籠絡され、加羅にも攻撃を加えた。加羅からの避難者は百済や倭国にたどり着き、天皇の知る所となる。天皇は激怒され木羅斤資(もくらこんし)を派遣して加羅を回復した。

~他一書より~
沙至比跪は天皇の知る所となったことから帰国できず、天皇の妃である妹と密かに連絡を取った。天皇の怒りが収まらないことを知ると、石室に入り自殺した。

一方、仁徳41年に以下のような記事があります。
木角宿禰(きのつのすくね)を百済に派遣して、国郡の境界を決め、郷土の産物を調査した。このとき百済の王族の酒君(さけのきみ)が無礼だったので百済王を叱責した。百済王は酒君の逮捕連行に同意し、葛城襲津彦に同伴され倭国に移送。倭国内で逃げ隠れたが、天皇は結局その罪を許した。

仁徳41年は今回の読み替えを行うと西暦381年、応神天皇28年、仁徳天皇(即位前)36才のことになりますが、後年の史書(三国史記、三国遺事)では百済の記事では1年のズレがあるらしく(wikipedia好太王碑記事参照)、それを前提とすると同じ西暦381年(あるいは同じ西暦382年)のこれらの記事は同じ事実を示しているのではないかと筆者は考えます。

葛城襲津彦の記事は神功皇后5年、62年、応神天皇14年、16年、仁徳天皇41年がありますが、復元年表をと通してみると西暦382年が最終で、記事の内容からしてもこの時点で彼は失脚したと考えられ仁徳天皇41年の記事がそれ以前に読み替えられるのは妥当な方法だろうと考えます。

遣使開始と允恭天皇即位の背景
まず362年から順を追って説明していきます。

西暦362年 仁徳天皇(大雀命、おほさざきのみこと、即位前)は八田皇女(応神天皇の娘、仁徳天皇の異母妹)を娶ることを皇后磐之媛命(葛城襲津彦の妹、武内宿祢の娘)に了解してもらおうとし、皇后に拒否されます。
武内宿祢は磐之媛命を妃にすることに成功していましたが、葛城襲津彦も磐之媛命の子を次代天皇にしようと考えていたようです。
天皇の妃のなかでは皇后が位が高いですが、八田皇女は皇族ですから他に皇后がいなければ皇后候補のトップになる資格があり、八田皇女の子から次代天皇が出る可能性も出てきます。
よく考えると仁徳天皇も即位前なので、皇后もこの時点で磐之媛命に決まっているわけではありません。
ここは嫉妬抜きに考えて、磐之媛命としては断らざるを得ません。
出身元一族の浮沈が自分の判断にかかっているからです。  

西暦366年 応神紀の記事ですが、今度は大雀命と日向髪長媛の婚姻の記事です。
大雀命22才で若いので、めでたい記事が続きます。
オリジナルの日本書紀では仁徳天皇がおじいちゃんになってから色恋沙汰の記事が増えるのですが、筆者の読み替え方なら健康的です(笑)
同年に神功紀で斯摩宿禰の加羅への派遣の記事があります。朝鮮半島への進出は神功皇后の時代ではなく、応神天皇の時代に行われたものだと思います。

西暦369年 磐之媛命に第一子、去来穂別尊(いざほわけのみこと、履中天皇)が誕生します。それから上毛野君荒田別、鹿我別の朝鮮半島進出の記事です。上毛野氏は崇神天皇を祖とし、母方が紀氏の祖の出身なので応神朝と縁が深く重宝されているのですが、父方が崇神天皇なので東北開発や朝鮮進出で酷使されます。このあたりの事情の話は後で機会があるかもしれません。(ちなみに筆者はグンマー出身)

西暦370年 大雀命は磐之媛命が紀伊で遊行している間に八田皇女を娶ってしまいます。
磐之媛命は怒って帰ってきません。
この時点では応神天皇の時代ですから、もちろん大雀命と八田皇女の婚姻は応神天皇の意向が働いていることで、武内宿祢一族を外戚とすることへの拒否感が働いていることになり、葛城襲津彦側としては非常にマズい状況で、相手のカードが増えたことになります。

西暦371年 去来穂別尊立太子。
どういう策を講じたのか不明ですが、3才の皇子を皇太子にすることに成功します。
仁徳31年の記事ですが、そのような年はこのブログではあり得ないので、この年にならざるを得ません。
どう考えても前年の記事に対する対抗策としか考えられません。

西暦372年 百済肖古王、七支刀献上.。朝鮮半島への進出も効果を挙げているようです。

西暦375年 磐之媛薨去。
武内宿祢一族の期待の星である磐之媛が亡くなってしまいます。
幼子一人を残して、、、、
あれ?まだ瑞歯別尊(みずはわけのみこと、反正天皇)、雄朝津間稚子宿禰尊(おあさつまわくごのすくねのみこと、允恭天皇)が生まれていません。(住吉仲皇子(すみのえのなかつみこ)は不明)
そうです、この二人の皇子はおそらくは八田皇女の皇子なのです。
しかも允恭天皇のほうが一年兄ですね、、、

西暦378年 八田皇女立后。
まだ仁徳天皇即位前なので、妃のなかでトップということになります。前年、当年の皇子の誕生は八田皇女の御子ということでしょう。(誕生日付がないか確認しないとなりませんが、、)
武内宿祢一族としてはどうあっても去来穂別尊に天皇になってもらわないとなりません。

西暦381年(382年) 葛城襲津彦、新羅攻撃失敗、失脚する。
武内宿祢一族には泣きっ面に蜂が続きます。
前項で説明したように新羅への攻撃の際謀略にはまり結果として失脚したと思われます。
年代的には高齢の部類だと思うので引退かもしれませんが、、、
生没年が不明な人物はキチンと推定年齢を考えないとならないですね。

西暦391年 倭軍が百済・加羅・新羅を臣従させる(広開土王碑)
高句麗の事蹟を誇張するために倭軍の影響力を過大に設定して撃退した事実を誇張しているのかもしれませんが、朝鮮半島内で軍事行動をとり、外交的に駆け引きを行うだけの影響力はあったと考えていいでしょう。
葛城襲津彦の事件も大局的には影響がない気がします。

西暦393年 新羅が遣使せず、上毛野君竹葉瀬・田道新羅派遣。
前出の荒田別、鹿我別の次の世代竹葉瀬・田道も朝鮮に派遣されています。ご苦労様です。
襲津彦の一件と合わせて、新羅の攻勢が強くなっているように感じられます。

西暦394年 応神天皇崩御
朝鮮半島の雲行きが怪しい中、半島進出の推進役である応神天皇が亡くなります。
このあと仁徳紀の冒頭にあるように、大雀命と皇太子である菟道稚郎子皇子(うじのわきいらつこのみこ)との跡目争いが発生しますので、朝鮮半島どころではありませんね。
皇紀では応神天皇311年没、仁徳天皇313年即位なので1年空位ですが、復元年表では空位は6年にも及びます。
一方、応神天皇は武内宿祢の血を引いているのではないかという説もあるくらいですが、大雀命を皇太子にすることすらできていません。
それどころか事態の推移は葛城襲津彦や磐之媛の影響力を排除しようという動きにも見受けられます。
他の皇子の縁組にどう介入していたのかも気にかかりますが、武内宿祢の一族は思っていたほど圧倒的な権勢を誇っていたわけではないのかもしれません。

西暦399年 倭軍新羅侵入(広開土王碑)
皇位継承争いをしている最中に朝鮮半島で新たに勢力拡大策に出るとは思えないので、高句麗側の脚色だと思います。

西暦400年 高句麗軍新羅救援(広開土王碑)
抗争の相手国が内戦状態ですから、攻勢に出るのは当然ですね。遅いくらいだと思います。

西暦401年 仁徳天皇即位
ようやく皇位継承争いを勝ち抜いた仁徳天皇登場です。
オリジナルの日本書紀と違い磐之媛はもういらっしゃいませんが、去来穂別尊皇太子は健在で、武内宿祢一族の影響を削ろうとしてきた応神天皇もいらっしゃいません。
しかも(葛城氏ではないですが)武内宿祢一族の平群木菟宿禰(へぐりのつくのすくね)が大臣になっています。
武内宿祢一族にとっては明るい兆しが見えてきたように思えます。

西暦404年 倭軍帯方郡侵入高句麗軍による撃退(広開土王碑) 課役免除開始
応神天皇が進めてきた朝鮮半島進出策に最終的な結果が下ります。
この時点で大規模な軍事作戦をするとは考えられないので、広開土王碑の記事は脚色で、実際は暫減的な朝鮮半島からの軍の撤収ではないかと思います。
いずれにしても仁徳紀において朝鮮半島での大規模な軍事作戦の記事はなくなり、変わって国内での課役免除が開始されます。
仁徳天皇の漢風諡号「仁徳」の根拠である、課役免除による民間活力の醸成は長年の戦費負担の代償として与えられたものだったのです。
一方、朝鮮半島での軍事動員は天皇家以外の有力氏族の力を削ぐことを狙っていたはずです。その代替策を講じる必要があると思いますが、そのあたりは次回に説明することにしましょう。

まとめ
  • オリジナルの仁徳28年~87年の記事はオリジナル87年=新説27年として順に遡って対応付ける。仁徳元年以前の分は皇子の時代の事蹟として解釈する。
  • オリジナルの神功皇后摂政元年=新説の神功皇后摂政元年として69年分対応付ける。新説の神功皇后摂政9年(没年)以降の事蹟は神功皇后没後の記事として解釈する。
  • 応神天皇の時代、武内宿禰一族に対して影響力を削ごうとする動きがあった。その一つが大雀命と八田皇女の婚姻である。
  • 同時期、朝鮮半島進出政策が推し進められる。有力氏族の力を削ぐことも目的の一つとかんがえられる。
  • 大雀命と八田皇女の婚姻に対抗して、去来穂別尊立太子が実現した。
  • 磐之媛の薨去、八田皇女の皇子誕生、八田皇女立后、葛城襲津彦の失脚と武内宿禰一族にとって都合の悪い事態が連続する。
  • 日本書紀の系譜と異なり、磐之媛の皇子は去来穂別尊(だけ?)で、瑞歯別尊、雄朝津間稚子宿禰尊は別の妃の子。八田皇女の子と思われる。
  • 新羅や高句麗の攻勢が始まるとともに、朝鮮半島進出の立役者応神天皇が亡くなり、武内宿禰一族にも転機が訪れる。
  • 仁徳天皇が即位し、武内宿禰一族の平群木菟宿禰が大臣就任を実現する。一方、朝鮮半島からは撤兵し、国内の生産力回復に専念するようになる。
やはり、各記事を読み替えることができると収穫が多いですね。
まるで元々こうだったかのように矛盾なく自然に感じられます(←笑う所)
背景としては「こういうことがあったんだ」と納得ですが、これが何故中国への遣使と允恭天皇の即位につながるのか、まだ分かりません。
(分かるような部分はこの直後からだからですが、、、)

どうなるんでしょう?

というところで次回に続きます。

上でクリックし忘れた方。クリックお願いします。

原始・古墳時代ランキング

【次回予告】
次回はいよいよ「その時」西暦413年がやってきます。
資料はできているので、次回は早めに投稿できるかと思います。
ご期待下さい。

広告
×
筆者です。
まとめに以下の1行分抜けがあったので追記しました。
「日本書紀の系譜と異なり、磐之媛の皇子は去来穂別尊(だけ?)で、瑞歯別尊、雄朝津間稚子宿禰尊は別の妃の子。八田皇女の子と思われる。」
1ヶ月前
コメントを書く
コメントをするには、
ログインして下さい。