No.013 復元記紀年表で迫る ~倭の五王 その3~
閉じる
閉じる

新しい記事を投稿しました。シェアして読者に伝えましょう

×

No.013 復元記紀年表で迫る ~倭の五王 その3~

2017-07-07 13:35
    早速ですが、倭の五王の3回目を始めたいと思います。
    前回は仁徳天皇の即位後課役を3年間停止したエピソードのところで終わりました。
    一般の説と異なる部分は以下の通りです。
    • 朝鮮半島進出を推進したのは神功皇后ではなく応神天皇。
    • 葛城襲津彦をはじめとする武内宿禰の一族(おそらく武内宿禰の没後)を排除しようとする傾向が見受けられる。
    • 磐之媛の皇子は去来穂別尊(だけ?)で、瑞歯別尊、雄朝津間稚子宿禰尊は別の妃の子。八田皇女の子と思われる。
    • 磐之媛の薨去と葛城襲津彦の失脚により武内宿禰の一族は窮地に立つ
    • 応神天皇の崩御により朝鮮半島進出策と武内宿禰の一族に転機が訪れる。
    • 仁徳天皇が即位し、武内宿禰一族の平群木菟宿禰が大臣就任を実現する。一方、朝鮮半島からは撤兵し、国内の生産力回復に専念するようになる。
    以上の背景があって、3年の課役免除期間が終了し、新しい動きが始まるのです。

    (本ブログでは古事記・日本書紀から復元した年表を基準に記紀に記述された古代史を再解釈
    しています。通説とは異なる点に注意してください。復元年表については第6回第8回を参照してください。)

    それから、このブログはなるべく多くの人に読んでもらいたいので、ツイート拡散か、次のボタンをクリックしてランキング投票してください。よろしくお願いします。

    原始・古墳時代ランキング

    表1:応神朝年表

    表2:倭の五王の記録


    表3:仁徳天皇~允恭天皇年表(407年~454年)

    資料の読み方のおさらい

    今回解説する分の年表を表3に示します。
    前回にも示しましたが、仁徳天皇の在位年数は日本書紀だと87年に及びます。
    筆者の説では、57年以上の在位年数の場合は干支1周分=60年を減算して考えますので、復元した仁徳天皇の在位年数は27年間になります。
    ですが仁徳天皇の記事は87年分ありますので、これを27年間の在位にどう対応つけるのかが問題になります。
    このあたりの経緯は前回に述べましたが、結果として以下のように割り当てると辻褄が合いそうだということになりました。
    (日本書紀の記事そのままの年代をオリジナル、変換後・復元先の年代を新説としてあります)
    • オリジナルの仁徳元年~27年の記事はそのまま新説の年代とする。
    • オリジナルの仁徳28年~87年の記事はオリジナル87年=新説27年として順に遡って対応付ける。仁徳元年以前の分は皇子の時代の事蹟として解釈する。
    下段の割当かたを示したのが表3の仁徳天皇の「没基準」の列になり、記事内には仁徳天皇没基準◯年と示してあります。

    このように読み替えを行うことで、仁徳天皇の若い時代に婚姻関係の記事が登場するなど、今まで解釈が難しかった部分の疑問が解消します。

    また筆者の説では允恭天皇は西暦413年に仁徳天皇存命のまま即位することになっていますので、表3でも仁徳・履中・反正天皇と併記してあります。

    では、前回と同様、表3の年表を解釈していきましょう。

    重課役から皇統分裂へ

    西暦407年 課役免除終了、寿陵造営開始
    読み替えにより仁徳7年の課役終了の年と仁徳67年の寿陵造営開始(生前に天皇陵を作ること、仁徳天皇陵造営の話)が同年になることが分かります。
    同年に鹿が暴れて死ぬ話と、ミツチ(蛇の化物か?)が暴れ退治される話、それにともない反逆者が発生する話があるが、いずれも暴動の発生を暗喩しているものと思われ、日本最大の天皇陵造営が一筋縄ではいかなかった状況が推し量れます。
    しかも、上記に記事は日本書紀では仁徳天皇の最晩年の記事で天皇は結果として反省し改めることになりますが、読み替えを行った結果はまだ在位の前半であって、ここから課役の記事が続いていくのです。

    西暦410年 課役(宮殿造営)
    西暦411年 課役(大和川流路変更)
    西暦412年 課役(用水路建設)

    仁徳天皇の公共事業は堤防、用水路・運河、道路など公共性の高いものが多いように感じられ、その後効果が高かったのではないか?と思われるのですが、流石に規模と頻度がアンバランスな感じがします。
    大和川流路変更については、大和川は当初直接堺付近の大阪湾に流れ込むのではなく、現在の大坂城の東方にあった河内湖に流れ込んでいましたが、その流路を変更する大工事です。
    現在の流路にするには、後世にも工事が行われたようなので、どの程度の規模、経路なのか判断できませんが、いずれにせよ河川の流路変更は後の世でも大変規模の大きな工事です。
    立て続けの公共事業は、朝鮮進出による有力氏族の勢力削減策の代替として行われたと思われますが、これを請け負った氏族にとってはたまらない話だったでしょう。

    応神天皇の時代、朝鮮半島に派遣された人物として葛城襲津彦と上毛野氏が登場します。葛城襲津彦は神功紀に一説として自殺説が記載されており、少なくとも失脚したのではないかと思われ、勢力を削がれたことが伺われます。
    上毛野氏は朝鮮半島進出と東北の蝦夷支配に動員されたことが明らかで、負担は多大だったでしょう。(5世紀には榛名山の噴火など天災によって勢力が衰えていきます。)
    このように過酷な氏族の勢力削減策の代替策が公共事業だったのではないかと思われます。

    ですが今回の勢力削減の標的は武内宿禰一族ではありません。
    大臣平群木菟宿禰は仁徳天皇の傍にあって、反対勢力にはならなかったと判断できるのです。

    西暦412年にあたる記事が允恭紀にもう一つあります。

    西暦412年 雄朝津間稚子宿禰尊(允常天皇、即位前)群臣に帝位に就くことを請われる。
    日本書紀では反正天皇崩御後に群臣から請われ、当初健康上の不安を理由に拒んでいたが決心して帝位についたことになっています。
    しかし、筆者の説では復元年表で允常天皇の即位は仁徳天皇在位中の西暦413年なので、仁徳天皇在任中、しかも、治世の前半でこのイベントが発生します。
    もちろん健康上の理由で拒んだわけではありません。
    臣下の多くの支持があるにせよ、明らかに現天皇への反逆となり、成功すれば前代未聞の話です。
    しかもたとえ成功したとしても後世への前例として決して良い影響を与えないでしょう。
    要因については、氏族の勢力削減のための公共事業だけではかなったかもしれません。
    仁徳天皇は応神天皇の皇太子であった菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)皇子を武力で退けて実力で皇位に立ちました。
    応神天皇の施策としては、朝鮮半島進出と有力氏族の勢力削減(特に葛城襲津彦)がキモで仁徳天皇の代ではそれが方針転換されていることから、逆に菟道稚郎子皇子は応神天皇の施策を引き継いていた可能性が高いです。
    しかも、仁徳天皇を補佐したのは大臣平群木菟宿禰なので、仁徳天皇の代での方針転換は彼の要求である可能性もあります。
    天皇になりたいのであれば、要求を呑んで頂きたいというわけです。

    これに対して他の氏族としては、朝鮮半島進出の方針転換は負担が減るのでありがたいが、菟道稚郎子皇太子を退けた事には納得がいかず、武内宿禰の後裔が国を動かすことには反感を憶え、ましてや、同列だったはずの武内宿禰の後裔が他の氏族の一段上の立場になるのは我慢がならず、それが公共事業を口実に自分たちの勢力削減に走るのを黙ってみているわけにはいかないということで、雄朝津間稚子宿禰尊を天皇に仰ごうと決めたのでしょう。

    西暦413年 仁徳天皇東晋遣使、課役継続。允恭天皇、群臣の要請に応じ即位。
    どちらのイベントが前後するのか不明ですが、事態の変化は前年から継続していますし、仁徳天皇側もある程度の動き、群臣の反感程度は事前に掴んでいるでしょうから、いずれが先かということはあまり問題にならないと思います。
    しかし、事態は悪い方向に動きました。
    仁徳天皇は離反した群臣の支持を回復するため、あるいは、自らの正当性を主張するために東晋遣使を決定、実施します。

    一方、雄朝津間稚子宿禰尊は前年から即位を拒み続けてきましたがとうとう決心し允恭天皇として即位します。
    允恭天皇は日本書紀では病を持っていた(後に治療して回復)ため皇位を拒否したとなっていますが、心の動も記述されており、苦心をしたことが窺われます。

    しかも日本書紀では允恭天皇は皇子のときに病の治療のため自ら体を傷つけたことを父君である仁徳天皇から咎められ「長く生きても皇位を継ぐことはできない」と叱責されています。
    このあたりの対立関係も、復元年表と読み替えから得られる状況と合致しており、仁徳天皇側から允恭天皇をどのように評価していたかが窺えるのです。

    仁徳天皇と允恭天皇の並立ということに目を奪われがちになりますが、このように倭の五王の中国への遣使開始には裏がありました。
    この事態にもかかわらず、課役は継続されるのです。

    西暦413年 課役(大道、大溝)
    仁徳14年の記事にあたります。河内湖周辺の道路の整備と用水路の建設、橋の建設などの記事があります。
    皇統分裂の危機を招いたにもかかわらず課役を中断しません。
    課役の記事については他の天皇の世代でもあったでしょうから、焦点の当て方自体が他の天皇紀と異なっていて、そのあたりの事情を考慮して解釈する必要がありますが、危機的状況のなかであえて方針変更をしなかったことの傍証になりうるので、この部分はその通りに解釈しましょう。
    仁徳天皇は多くの臣下が允恭天皇に流れたにもかかわらず、方針変更をしなかったのです。

    しかしながら、これ以降課役の記事はなくなります。(仁徳天皇陵の造営記事は先に述べたように仁徳7年にあたります。)
    さすがに臣下の多くがいなくなった状況では、課役の継続は難しいですね。

    西暦415年 新羅へ医師派遣を求め、医師が来朝(允恭)
    西暦416年 クガタチ実施(允恭)
    西暦417年 新羅が遣使せず(仁徳)、葛城玉田宿禰誅殺(允恭)

    政治的な記事が徐々に減っていきますので、まとめて見ていきましょう。
    西暦415年には応神天皇の時代には敵対関係だった新羅に対して医師派遣を求めています。新羅は要精に応じて医師を派遣し、允恭天皇の治療にあたり治療は成功しています。
    この時点で皇統が分立していますから、片方の要請に応じることは他方との敵対関係に至るかもしれないので慎重な判断が必要ですが、新羅が要請に応じたことは允恭天皇側を認めたということになります。
    仁徳天皇側を認めるのであれば、逆賊の治療になるので医師の派遣はありえないわけです。
    一方、西暦417年には新羅は仁徳天皇側に遣使していません。

    西暦416年には允恭天皇は盟神探湯(くがたち)を実施しています。
    一種の神前裁判、踏み絵で沸騰した湯の中に手を入れ、真実を述べているものは火傷を負わず、嘘を言ったものは火傷をするとされています。
    日本書紀では出身の氏族を偽る者が多かったためとありますが、状況から考えて裏切り者=仁徳天皇側に内通している者を炙り出そうという意図だと思われます。

    西暦417年には葛城襲津彦の孫とされる(雄略紀では子とする)葛城玉田宿禰誅殺の記事があります。
    日本書紀では反正天皇の殯(もがり、長期に渡る葬儀のこと)を命じられた玉田宿禰がしきたりに反して酒宴を行っていた(殯の間は謹んだ生活をしなければならない)ことをきっかけとし、允恭天皇に翻意を示したため、誅殺されます。
    しかし、前年のクガタチの記事や武内宿禰の後裔と仁徳天皇の関係から考えて、判明した允恭天皇に対する裏切り者、仁徳天皇への内通者が玉田宿禰であったのだろうと推測します。

    西暦419年~426年 
    その後、直接的政治的対立をほのめかす記事は影を潜め、允恭天皇の政権の盤石さが伺われます。
    允恭天皇は皇后の妹である弟姫を見初め、皇后との対立を避けるため弟姫を茅渟に転居させますが、時々天皇が茅渟に行幸するようになります。

    茅渟は現在の大阪府の最南部、関空のあるあたりで、皇后が度々の行幸をたしなめる記事があります。
    允恭天皇は遠飛鳥宮(奈良県明日香村)を本拠地としていて、仁徳天皇は現在の大坂城のあたりなので、茅渟は仁徳天皇の勢力範囲に近く、身の危険もありうるということかもしれません。
    何故、危険にもかかわらず茅渟が転居先に選ばれたのか不明ですが、そのあたり調べてみると面白いかもしれませんね。

    これに対して仁徳天皇側が421年、425年にも宋に対して遣使を行っていますが、勢力の回復はしなかったと思われます。
    これは、允恭天皇が西暦426年に淡路島への行幸を実現しているためで、最早大阪を超えて淡路島に至っても問題ない状態になっていたというわけです。

    西暦427年 仁徳天皇崩御、履中天皇即位
    仁徳27年に83才で仁徳天皇は崩御されますが皇統の並立は解消されず、履中天皇が即位します。
    前回、磐之媛と八田皇女の皇子は誰かということを考察しました。
    磐之媛の薨去年の関係から履中天皇は磐之媛、允恭天皇と反正天皇は八田皇女の皇子で、復元年表の出生年から允恭天皇が反正天皇の兄であろうと推定しました。
    つまり履中天皇は武内宿禰の後裔一族の期待のホープなわけです。

    この時点で既に亡くなっている方も合わせて対立関係を示すと以下のようになります。

    仁徳天皇派
    • 仁徳天皇の前皇后、磐之媛
    • 磐之媛の父、葛城襲津彦
    • 武内宿禰の後裔一族(葛城氏、平群氏、羽田氏、蘇我氏など)
    • 磐之媛の皇子、履中天皇

    允恭天皇派
    • 仁徳天皇の後の皇后、八田皇女
    • 多くの有力氏族
    (状況から考えて応神天皇や菟道稚郎子皇子も反武内宿禰一族ということではこちらになるでしょう)

    履中紀には武内宿禰の後裔一族が多く登場します。
    平群木菟宿禰、羽田八代宿禰、葛城葦田宿禰、葛城円大使主、蘇我満智宿禰
    一方、允恭紀では前述したように葛城玉田宿禰が誅殺されています。
    このあたりも上記の構図の傍証になるでしょう。

    武内宿禰の後裔一族は葛城襲津彦を朝鮮出兵に関連して(勢力として)失うなど損害を出しながらも、一族の血を引く次期天皇を輩出しようとようやくここまで来ました。
    大半の氏族が允恭天皇に付こうとここで引き下がるわけにはいかず、履中天皇を即位させたのです。



    武内宿禰の後裔一族にとって念願の履中天皇ですが、朝廷の大半が允恭天皇の配下として移ってしまった状況は変わらなかったようです。
    概して天皇にそぐわないようなエピソードが多く散りばめられています。

    西暦430年 宋遣使
    仁徳天皇の時代にも度々宋への遣使が行われましたが、西暦430年にも履中天皇の代に遣使しています。
    ただし、宋の側の記録としては遣使を行った人物が明らかになっておらず、仁徳天皇なのか履中天皇なのか特定できません。
    これは在位の年代が通説において特定できないためで、筆者の説では年代が明らかなので高い確率で履中天皇であろうと推定できます。

    では何故名前を明らかにしなかったのでしょうか?

    おそらく、歴代天皇は中国の歴代王朝に対して本名を明らかにしていないのでしょう。
    隋の頃の遣使においても「俀王姓阿毎字多利思北孤 號阿輩雞彌」(倭王は姓をアメ、字をタリシヒコといい、オオキミと号す)と尊称と位を示されているだけで、本名の片鱗もありません。
    卑弥呼も「日巫子」のことだとすれば役職名です。
    倭の五王の名前は使者の話の状況から便箋的に中国側で付けられた仮名なのです。

    中国の史書は王朝が交代したあとで、後世の歴史家が残された資料を元に記述します。
    前の王朝の行政文書や記録が元なので資料の量は膨大ですが、その要約である史書も維持管理をしていくには量が少ない方が都合がよく、内容は吟味され必要最小限のことしか後世には伝えられません。
    (昔の本は手書きで転写するか、木版を原本として印刷するかしないと複製もできません。読みたい、買いたいと思っても量が膨大だと費用が高騰して実用になりません。)

    「名前を明らかにしてくれないので、様々な話からこう仮名を付けた」という微妙な話は「名前も教えてもらえない中華皇帝」というメンツ的な不都合が理由なのか、記載されなかったのだろうと見ています。

    日本側が天皇名を示さない理由としては、名前を明らかにした時の呪詛の恐れを避けようとしたという説を支持したいと思います。

    西暦431年 淡路島行幸、皇妃黒媛薨去
    淡路島行幸前に履中天皇は宗像三神の警告を受けますが、祈祷だけで祭事はしないまま済ませました。
    結果として淡路島行幸は波乱含みのものになり、神罰として皇妃黒媛が薨去します。
    このあたりは淡路島行幸を成功裏に終わらせた允恭天皇とは対照的な描写です。
    後から調べたところ、筑紫の車持君が筑紫の車持部(車を扱う専門職集団のこと)と宗像社の神戸(神領に属した民のこと)を勝手に掌握していた事が判明します。
    これに対して神事の対処として尼崎での祈祷を、政事の対処として車持部の収容と宗像社への寄進を行っています。

    いずれの結果も履中天皇の威光が全国に及んでいないことを示しています。
    まず、宗像三神から警告を受けた時点で、宗像社へ出向き祭事を行わないとなりませんが、これを実行していません。
    実行しなかったのではなく、実行できなかったと解釈できるでしょう。
    車持君が勝手に行動していることも、臣下を掌握できていない証です。
    しかも、妃が亡くなっているにもかかわらず、宗像三神に対する祭事が筑紫ではなく、尼崎で行われているのです。
    これではさらに祟りがあってもおかしくありません。

    淡路島自体には移動できていますが不穏な結果となっており、履中天皇の勢力範囲は大阪平野一円程度ということができるでしょう。

    西暦432年 草香幡梭皇女立后、鷲住王を召し出すが参内せず、履中天皇崩御
    亡くなった黒媛に代わり、草香幡梭皇女が皇后になります。
    黒媛は羽田八代宿禰の娘で皇妃とされており、その位がどのような立場なのか説明がありません。
    皇后でなかったことを強調するような書き方で謎が残ります。
    一方、草香幡梭皇女は皇族の女性なので、元々皇后になる資格があります。
    黒媛の存命中は皇后の資格のある女性を差し置き、皇后を立てないという措置を講じてまでして、武内宿禰の後裔一族が次代天皇の外戚になるように仕組んだということです。

    履中天皇は自分の嬪(みめ、位の低い妃)の兄である鷲住王の話を聞き、臣下として招きたいと参内を要請しますが断られてしまいます。
    非常に屈強で優秀そうな王(皇族男子、今で言う所の宮様)ですが、二人の嬪から話を聞いた時点では何処かに行ってしまい所在不明であること、皇族なのに天皇の要請を断っていることが(普通なら)不可解です。
    もちろん、何処にいるかは予想できますね^^;)

    そして、以上のような様々な傍証を残して履中天皇は崩御されます。

    西暦433年 反正天皇即位
    反正天皇は多遅比瑞歯別尊(たじひのみずはわけのみこと)といいます。
    瑞歯とは「きれいな歯」くらいの意味で、非常に歯が揃ってきれいだったようです。
    容姿もイケメンだったようですね。
    反正天皇も不思議な記述があります。

    まずは即位前は皇太子ではなく「儲君(ちょくん)」だったということです。
    履中2年に履中天皇によって儲君に立てられています。
    意味は皇太子と同じでいわゆる「お世継ぎ」ですが、皇太子礼という儀式を行い正式なお世継ぎになった方が皇太子で、皇太子礼をしてない方が儲君になります。
    すなわち、皇太子礼という儀式ができなかった(時間は十分ありました)か、皇太子ではなかったことを暗に仄めかしているか、いずれかになるでしょう。

    次は、反正天皇の妃が皇后でも皇妃でもなく「皇夫人(きさき)」という表現であることです。日本書紀の中でもここだけの表現らしいです。
    皇夫人である津野媛(つのひめ)は第5代孝昭天皇の流れをくむ和珥氏の娘で、武内宿禰の後裔一族ではありません。
    武内宿禰は(オリジナルの日本書紀では)第8代孝元天皇の流れなので、武内宿禰の後裔一族の方が和珥氏よりもより血の繋がりが濃いです。
    武内宿禰の後裔一族は皇后を出すことを諦めてしまったのでしょうか?

    そもそも、履中天皇の黒媛の皇子である市辺押磐皇子(いちのへのおしはのみこ)は何故即位しなかったのでしょう?

    このあたり、謎だらけですが、反正天皇の記事は原文で2ページもないくらいなので、良く分かりません。

    西暦435年、436年 木梨軽皇子立太子、不義発覚(允恭)
    允恭天皇のほうでは426年の淡路島行幸移行記事がありませんが、この年になって木梨軽皇子(きなしかるのみこ)が皇太子となります。
    そして翌年、皇太子とその同母妹、軽大娘皇女(かるのおおいらつめのみこ)との不義が発覚、
    廃太子にはなりませんでしたが、代わりに軽大娘皇女が流罪となります。
    允恭天皇も全てが順風満帆とはいかなかったようです。

    西暦437年、438年 反正天皇崩御(1月)、珍、宋遣使(宋書)
    允恭天皇側、反正天皇側ともに軍事衝突などの物騒な記事がないまま、反正天皇は437年1月に崩御されます。
    その翌年に倭王珍による宋への遣使があったと(宋書)に記されています。
    派遣中に反正天皇は亡くなったのではないかという推測もありますが、崩御が437年の初頭なので可能性は低いと思います。
    仁徳天皇派の仁徳天皇、履中天皇ともに遣使しているので、弔いの意味も込めた臣下による儀礼的な派遣で、歴史に名を残したと考えたほうがいいでしょう。
    このときには、日本からの使者などへの叙位も求めているので、反正天皇側の臣下が允恭天皇側に戻る際、位の格上げを狙ったものかもしれません。
    珍は「使持節都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王」を自称、正式の任命を求めていますが、この時には叙位されていません。

    この時、宋側の記録では珍は讃の弟となっていますが、前回の遣使で履中天皇の使者が仁徳天皇からの代替わりを述べなかったこと、各時代の使者が天皇の名前を示さないこと、反正天皇の使者が「(現在の天皇は)前代の弟」と報告したこと、中国の役人か史書の編纂者が状況を判断して名前で世代関係を記述したこと、以上の条件は揃えば矛盾はなくなります。
    使節を派遣した場合、派遣を行った側も相手先で何を話したのかを詳細に残さないとあとで話の齟齬が起こりかねませんが、当時はそういった外交実務が確立してなかったのかもしれません。
    つまり、履中天皇の使者が仁徳天皇からの代替わりを宋側に話さなかった事実を反正天皇の使者が把握していなかったために、反正天皇の使節派遣時に宋側に誤解が生じたというのが実情だろうと思います。

    西暦443年、451年 済、宋遣使(宋書)
    日本書紀にはこの期間の記事が全くないので、治世が安定していたことしか分かりませんが、仁徳、履中、反正天皇が宋に遣使を行っていたことは、允恭天皇側に戻ってきていたであろう
    武内宿禰の後裔諸氏などから把握していたと思われ、この点をどう扱うかがポイントとなります。
    一つは関心を示さず黙殺し評価すらしないという方法、もう一つは遣使して授号してもらうが、前3天皇よりも格が高い位にしてもらうことです。
    允恭天皇が取った策は後者でした。
    すなわち、反正天皇の派遣時に要求し実現しなかった「使持節都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王」の授号を狙ったのです。

    允恭天皇の代では遣使は2回行われていますが、決して焦ることなく着実に実行されているようです。
    遣使の間隔を仁徳天皇の第1回遣使から挙げていくと
    1回目ー2回目 8年
    2回目ー3回目 4年
    3回目ー4回目 5年
    4回目ー5回目 8年
    と4~8年間隔で行われていて、允恭天皇の2回はこの5年後、8年後に行われています。
    (同年に年内に行われている遣使もあるので、下賜品などの予算の関係で宋側の要求によって期間が決まっているのではないかと思います。事務連絡ならいつでもOK。正式は遣使は予算を組んでということかもしれません)
    この時点で允恭天皇はかなり高齢ですが、焦ること無く計画的にことを進めているのがわかります。

    允恭天皇の1回目の遣使では下準備のためでしょうか?安東将軍倭国王のみで前3天皇と変わりありません。
    特徴的なのは、宋側の記録で済の世代交代の記述がないことです。
    前回、前々回の記事を読んでいただいた方には明確だと思いますが、これは確実に允恭天皇が
    前3天皇と敵対関係だったからといっていいでしょう。
    もう親子の縁も兄弟の縁も切り捨てた状態というわけです。
    付け加えて宋側の倭王名「済」は「事を済ませること」「成し遂げること」を表しており、反正天皇の崩御によって前3天皇との確執が収束したことが宋側に伝わっていると推測できます。
    宋書の記述はこのあたりの事情を汲んだ上で書かれていることが分かります。

    允恭天皇の2回目の遣使ではいよいよ当初の目的である「前3天皇よりも格が高い位にしてもらう」ことが実現します。
    年内に2回の派遣が行われ、結果として「安東大将軍倭国王、使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」が授号され、派遣された使者へも称号が授けられました。

    允恭天皇はまさに「成し遂げた」天皇となったのです。

    西暦454年 允恭天皇崩御
    応神天皇以来、、、いえ、日本武尊命薨去から争い続きで反正天皇崩御までですから140年あまりの長期間、対立や戦続きだった不穏な時代が収束し、争いの記事がない時代を達成した允恭天皇も崩御のときを迎えます。

    しかし、そのことは逆に「各氏族に都合のいい天皇」であることも示しています。
    朝鮮半島進出や公共事業は有力氏族の勢力を削ぐことも目的にしていたはずです。
    氏族締め付け政策のカウンターとして担がれた允恭天皇は強硬な改革はできなかったハズです。
    過去においては天皇家と同等のクニを持っていた氏族が、朝廷の忠実な臣下になるにはまだ時間がかかりそうです。

    まとめ
    • 仁徳天皇は課役による有力氏族の勢力削減策を開始する。
    • 課役は仁徳天皇陵造営や大和川流路変更など大規模なものが立て続けに行われ、現場では暴動が発生するなど過酷なものだった。
    • そのような状況の中仁徳天皇の施策に反対する臣下は雄朝津間稚子宿禰尊に天皇即位を請い、允恭天皇が即位する。
    • 武内宿禰の後裔諸氏を中心とした仁徳天皇派は自身の権威を回復するため、対宋遣使を決定、実行に移す。
    • 対宋遣使によっても状況は回復せず、允恭天皇側優勢のまま、状況は固定化。新羅が允恭天皇側を認め医師を派遣したり、允恭天皇側で仁徳天皇への内通者への粛清が行われるなど、権力基盤を着実に固めていく。
    • 仁徳天皇が崩御し、武内宿禰の後裔諸氏にとっては待望の磐之媛の皇子、履中天皇が即位する。
    • 武内宿禰の後裔諸氏が束になって政権を支えているにも関わらず、履中天皇についての日本書紀の内容は不穏なものばかりになっている。
    • 反正天皇の記事は少なく、その内容は皇太子や皇后でないことを匂わすものになっている。
    • 反正天皇の対宋遣使はその崩御後に行われ、亡き天皇や臣下の品格向上を目的として行われた可能性が高いが、要請した天皇への追加の称号は得られなかった。
    • 宋書において、珍が讃の弟となっている原因は、履中天皇の使節が仁徳天皇からの代替わりを話さなかった事実を反正天皇の使者が把握していなかったために宋側に誤解が生じたことによる。
    • 反正天皇の崩御により、全氏族を掌握した允恭天皇は前3天皇よりも高い位の授号を目指し、対宋遣使を決定、実行に移す。
    • 允恭天皇と前3天皇の対立の関係から、宋書では済と讃、珍との世代関係が示されていない。宋側でもこの事実は把握されており、允恭天皇に対して「済」の呼称を用いた。
    • 允恭天皇の成功と治世の安定は各氏族の勢力温存も意味しており、国王と国王の関係から天皇と臣下の関係に完全に移行するまでの道のりは長い。
    いや、ゆうに2回分位の文章量になってしまいました。
    予告通りにならず、失礼しました。

    【次回予告】
    これで区切りが付いた感じがしますが、倭の五王は(宋書において)まだ2名残っています。
    倭の五王シリーズはまだ続きます。

    ↓上でボタンを押されなかった方、ご協力お願いします。

    原始・古墳時代ランキング






    広告
    コメントを書く
    コメントをするには、
    ログインして下さい。