• 涼宮ハルヒの憂鬱とオタクの消失

    2018-05-06 19:4452

    「オタク」というのは奇妙な言葉で、かつて確かにこの世に存在していたし、その存在が公然の事実として衆人に認知されていたにもかかわらず、いつの間にかその姿を消して私たちの日常からいなくなってしまった。まるで近世の入り口をくぐった人類が、中世には世界の同居人として信じられていた妖精や精霊や物の怪といった昔日の隣人を思い出す時のように、今はいないけれども、昔はたしかに居たのだと、少し物寂しい残り香のする存在となった。こう言ってしまうとまるでトトロのようで、確かにあの奇妙な生き物はこの日本に存在したのである、と言いたくなる。

    2010年代に入って「オタク」は消滅した。少なくとも人々のコミュニケーションや情報のトラフィックのなかで「生きた言葉」としては用いられなくなった。薄く広く伸び切った一般人の層の中に取り込まれ、「オタク」はただ辞書の中の単語としてのみ存在しているに過ぎない。今はもう、実在しない。

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    GW中は見放題だというので、もう10年以上も前の作品なのかと思いながら、ハルヒ本編を見た。

    懐かしい。改めて見ると、当時は気づかなかったが、今にしてみればやはり「ハルヒ」は日常系アニメだったのだなぁ、と思わせられる。コメントでもポツリポツリとあったがとにかく「テンポ」が秀逸で、自分がつまらない大人に仕上がった今から見ても、設定だけやたら奇想天外なキャラクターたちの取り留めもない日常を追っているだけの内容なのに飽きることがない。

    そういえばいつだったか、「王道のストーリーをどれだけ楽しく演出できるかが作家の才能」という論を聞いたことがあるが、だとすれば「ハルヒ」はまさしく秀才的な仕上がりになっている。キョンが狂言回しとして特段に愛されていることは、このテンポと演出のおかげでくどい言い回しと「やれやれ系」特有の天邪鬼っぷりが個性としてよく光っているためだろう。いまではツイッター芸人になってしまったけど、全編を通して演出担当の山本寛の才能を感じざるを得なかった。

    いわゆるポピュラーな「日常系」が完成するのはさらに後の「らきすた」や「けいおん」などの四コマ原作アニメからで、ちょうどそのころからコンビニのポップに深夜アニメのキャラクターが登場し始めたりとアニメの一般層への裾野の拡大が始まった。エヴァンゲリヲンの新劇場版も発表されて、アニメが特別な一部階級の好むコンテンツではなく大衆消費型のものとして多くのメディアに目をつけられたころでもある。土曜夕方のアニメと平日深夜のアニメの生態系が次第に区別できなくなっていった。結局、そうやって、いつのまにかオタクたちの住む静かな森はなくなり、オタクたちも姿を消した。

    「涼宮ハルヒの憂鬱」はアニメ産業が現代化される以前の過渡的な存在で、作品の底流にセカイ系の芳香が漂っている通り(※)、今は亡きオタク文化の面影を見ることができる。もしかしたらこれは、アニメがオタクのために作られていた最後期のものだったんじゃなかろうか。これ以降はオタクが消滅して、ニコニコ動画ができたりまとめブログが拡大したりツイッターが流行ったり、オタクでなくてもアニメを消費できる環境が整ってしまった。資本主義的大量消費市場の常で、あとは宣伝と物量がものをいうようになり、新しいクールが始まる毎に「覇権」が叫ばれ、「嫁」はオタク人生の伴侶ではなく四半期ごとに変わるコンパニオンとなった。

    2009年のハルヒ2期・・・正確に言うと1.5期は、今見ると懐かしさのカケラもない。

    だって2期は放送当時見てなかったんだもん、という身もふたもない真実を別にしても、同時期に放送された「けいおん」に通じる、やたらと登場人物がグリグリ動いて作画の良さで圧倒するようなケバケバしい驕奢さが「ハルヒ2期」にはあって、なんだかそれが好きになれないし、それに懐かしさを回顧するには時代軸(時間でなく)が近すぎる気がしてならないのです。

    これは個人的な好き嫌いな問題だが、逆に言うと個人的な好き嫌いを通して時代の変化を見ることができるというわけでもある。やはり2006年前後の過渡期は2009年になってはっきりと新時代に切り替わったんじゃなかろうか。エンドレスエイトがあんなことになってしまったのは、もう2009年にはオタク文化が「ロストテクノロジー」化していて2006年のハルヒを再現できなくなってしまっていたからかもしれない。

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    懐古趣味とか懐古厨とか懐古補正というが、懐古できるのは失われ今はなくなってしまったものだからである。そういう意味で、私たちが懐古できるのはハルヒ以前のアニメということになってしまう。

    かつて信奉される二次元のキャラクターの大半はアニメや漫画などの物語の中からやってきた。今はソシャゲのガチャでやってくる。まさに大量生産大量消費で、「クラナドは人生」などという言葉が聞かれることは、もはや二度とないだろう。町中にアニメ調キャラのポスターが溢れ、ようやく二次元絵のキャラクターに市民権が与えられる時代を迎えたが、皮肉にもその代わり、キャラは人格を持たなくなった。

    そういえばかつて平野耕太が80年代オタクの虚無感を語っていたけども、今となっては、虚無を抱きうるオタクさえ生まれることはないだろう。

    やっぱりオタクってのは、どこか特殊なものだったんだなぁ、と今「ハルヒ」を見て思う。



    ※原作が発表されたのが2003年であるから、セカイ系風味を含んでいてなんの珍しさもない。

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  • 「必要なのは平和だけ」

    2018-05-02 23:16

    異母兄弟を殺し、義理の叔父を殺し、政府高官や軍人を殺し、民主的機関による制限を受けない大権を恣にする独裁者がいたとして、そのような人間の座る席はこの国際社会に存在しない、と言い切ってしまうと、まるで自分がホワイトハウスのマッチョな大統領補佐官になれたような気がして気分は良くなるのだが、それは気分だけのことで、現実の問題は特に何も解決されない。

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    金正恩が国家指導者の座に就いたのは27歳の時だった。その後わずか数年の間に最大の実力者である叔父の張成沢を処刑し政府と軍部で粛清の辣腕を振るい、報道を信じるならば若干34歳にして専制君主としての地盤を固め、加えて日本のいち地方公共団体ほどの経済規模しかない国家を以てしてアメリカや中国を相手に大立ち回りを披露する、稀代の外交プレイヤーを演じている。

    甚大な恐怖と政治術をして国家を統率していた先代金正日の得体のしれない指導力に対して、金正恩のそれは、残忍な粛清と視察現場で見せる大口を開けた笑顔、アメリカに向けた感情的な物言いと文大統領とのパフォーマンスなどに象徴されるように、エネルギッシュで若いアグレッシブさに満ちているように見える。

    70歳で死去し、その後半生を瀬戸際外交に費やした父に対して、まだ30前半の金正恩には長い長い未来がある。これからの数十年を、父が行ったような、神経をすり減らす瀬戸際戦術で過ごそうと思うほど、この男の感性はカビてはいないのじゃなかろうか。

    若い指導者の胸中には現状維持的なその場しのぎよりも抜本的な解決策への渇望がある。

    北朝鮮を国際社会の一員とし、世界経済にフルアクセスさせること。外国からの投資を呼び込むこと。そのためには、2次的3次的にであれ自国民との取引を停止するような広範な適用範囲を持つ米国の経済制裁を解除させること・・・キャッチアップ時代の中国がそうであったように、外国企業は北朝鮮の安い労働力を利用して利潤をあげ、かつカネを落とし、互恵関係を築く。投資と成長のサイクルさえ掴めば、金正日がやったような、外部からの支援にたかって糊口を凌ぐような惨め且つ危険な先細りの戦術をとらずに済む。かつて中国が核兵器を以て脅迫し投資を呼び込んだことがあるか?というとそういうわけでもなく、つまり脅迫という戦術は常に包囲され追い詰められた者こそが取る手段である、というわけです。

    北朝鮮に核を捨てさせたいのであれば制裁をまるきし解除して彼らの望む自由投資の門戸を開くしかない。だからこの場合、制裁という手段は追い込みをかけて相手に戦争の火ぶたを切らせる誘因策以上の意味を持たない。

    むざむざ北朝鮮に戦争準備の時間を与えられても、あるいは先制攻撃の機会を設けられても困るだけなので、一国民としては、無駄に先延ばしするだけの制裁に現を抜かすくらいならチャッチャと戦争仕掛けて終わらせるか、こっちも核武装するか、それくらい思い切ってくれた方が分かりやすいいいのにと思う。

    まぁ実際そうなるとなかなか大変なことになるので、このままボーッと何もしないで、韓国大統領と金正恩とトランプのウルトラCによって、想像だにできなかった方法で目下の東アジア核危機がまるっと解決ないしうやむやに雲散霧消してしまう可能性に祈りを捧げていたほうがいいのかもしれない。

    そういやバノンが前に言ってたと思うが、今のトランプ政権はイランに照準を合わせているので東アジアから関心が離れて戦争の危機は薄まるかもれいない、ってシナリオもあり得る。

    もちろんそうなれば東アジアで孤立する日本にとってはますます厳しい立場となるのだろうが、しがない小市民の自分にとっては自国がどれだけ屈辱的な外交的袋小路に陥ろうとどうでもよくて、自分に火の粉が降りかかるかもしれない戦争さえ起きてくれなければそれだけで万々歳である。

    それ以外の困難について言えば、結局、日本国民の行いが日本国民自身に返ってきただけなのだ、と諦めた方がいいんじゃないか。

    何はともあれ、文大統領の言うように、私たちには平和があればそれでいいのだ。それでいいじゃないか。今は。

    (了)
  • 部活動顧問は教員の仕事なのか

    2018-04-15 20:4361

    「部活顧問を拒否します」中学教諭が職員会議で宣言、長時間労働に一石

    微妙に旬がずれている記事を投稿するのは、タイムラグを設けネット上の話題のトラフィックから意図的に外れることで人目を忍び、間違っても「話題の記事」入りして必要以上のアクセスを稼いでしまわないようにする高等な戦略である、というわけではまったくなく、単にブロマガに割ける時間が減少して遅筆化しているだけである。

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    言っておくが、まず大前提として、部活は教師の仕事ではない。少なくとも公立義務教育諸学校においてはそうである。

    学校は「教育」の場であるが、文科省の定める「教育」課程にはクラブ活動や「部活動」などという項目は一切存在しない。だから元記事にある通り、部活動は本来「教育」を公務とする教職公務員の職掌にはいらない。教員が部活動を指導しているのは結局のところ「ボランティア」、つまりやる必要がまったくないのに善意でやっているだけである。貴重な就業時間を潰して職掌外の労働に勤しむ顧問教師の「自己犠牲」である。

    部費は公費から捻出されない。なぜなら正規の業務でないからである。必要のない活動のために税金を割いてやる義理はない。子どもがゲームソフトを買うのにわざわざ役所がカネを出してやることがないように、子どもが公教育の時間外に球蹴りや球打ちをするのにわざわざサッカーボールやテニスボールのカネを出してやる義務はない。自分たちの分は自分たちで出せ。当然である。なので多くの場合、部費はPTA会計などの私費会計から捻出されている。

    教師の本分は授業である。

    教師の仕事は授業をすることである。

    授業のない放課後は次の日の授業の準備期間である。教材研究の時間である。

    つまりクラブをする時間はない。

    そんな時間があるなら放課後に補習をすべきである。

    現在の教育課程では、英語で言えばリスニングをやってリーディングをやってヒアリングをやって、それでたかだか週50分×4回程度の学習時間しかなく、それでは英単語を習得するにも文法や動詞形容詞の変化を理解するにも時間がまったく不足しているのである。結局、塾に通って補填しなければ教師の期待する成果の水準には届かない。

    卑しくも公教育を名乗るのであれば、学校教育だけで事足りるよう授業内容を質量ともに充足させるべきである。

    教師の能力は授業の改善に注がれるべきである。そこを疎かにしておきながら、あまつさえ学習内容を理解できず呆然と立ち尽くしている生徒の困難を放置しておきながら、貴重な労働時間と能力をまったく不必要な部活動に浪費するなどとは一体何事なのか。それが公教育のあるべき姿か。

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    日本のスポーツは部活動によって大きく支えられている。

    なぜならほぼ全ての公立中学校でクラブが活動しており、門地家柄貧富を問わず生徒が幅広くこれに参加し、国民がスポーツに触れる機会を非常に大きなものとし、スポーツ文化の裾野を広げているからである。

    そしてこれらすべてが巨大なボランティアの塊である。

    つまり、教師が無給で動員されている。

    日本のスポーツ行政の一翼を担うのが日本中学校体育連盟(中体連)だが、これは実際には日本中学校部活動連盟と言っていい。ほぼすべてのスポーツ系部活動には「公式試合」と呼ばれる全国区レベルに繋がる中体連主催の大会が行われている。地方大会から勝ち上がり最終的には全中と通称される全国大会に進むもので、日本中体連の下には各都道府県中体連が、その下には各市町村中体連が連なって極めて巨大なツリー構造をなしており、全国6万校もの中学校が加盟している。

    そしてこの膨大な公式大会は、ほとんどすべてボランティアによって運営されているのだ。

    各市町村中体連の構成員は全員が顧問教師であり、彼らは学校での授業と事務作業、そして部活動をする一方、時間を作っては中体連の運営に携わる。中体連の公式大会は当然のこと教員の正式業務ではないので、大会は必ず土日に行われる(もし平日に行っていれば、本来公務に従事すべき時間を公務と無関係の他業種に割いていることになるので、公務員の職務専念義務違反になる、と思われる)だから、土日に公式試合があれば大会場所の確保、参加各校への連絡および調整、大会の運営事務、運営要員としての動員に教師が駆り出される。

    もし学校に陸上部が存在しない状況で、陸上の公式大会に出たい生徒がいるとする。親は、あわよくば我が子を陸上選手に育て上げたいという身の程しらずな野望があって、学校に中体連大会への手配を要求する。こうなると大変で、もし生徒が大会に出場するとなると(たとえ予選であったとしても)教師の引率がどうしても必要で、その子一人のために誰か教師が一人休日を潰さなければならない。見て帰ればいいじゃん、と思われるかもしれないが、大会にタダで参加することなどできない。誰もがボランティアでやっているのだから、参加する以上はタダ乗りは許されず、別の日に運営要員として働かなければならないのである(別日ではなくその日のうちに別の試合等に審判などで動員されることもある)そうでなくとも公式戦に参加すれば、もちろん競技にもよるが、試合待ちなどで一日拘束されることはザラにある。

    安易な考えで公式大会に出たいなどと抜かしてはいけない。中体連の大会は数えきれない教員の自己犠牲と苦しみの上に成り立っているからです。たとえば大阪中体連陸上協議のホームページhttp://www.oaaa.jp/cyutairen/を見ると、問い合わせ先が大阪市立松虫中学校 出石となっているが、これは松虫中学校の出石先生が専門委員長の役を割り当てられているだけで、この中学校の校舎内にプレハブ建ての本部棟があってそこに専任の事務職が雇用されて配置されているとかそんなわけでは全然ない。普通の先生が普段どおり授業をこなしながら中体連の仕事もしているわけである。大会を取り仕切る専門委員長に当たっているのだからなにかしら業務上の配慮があるかというと、そんなものも特段ない。そもそも業務と関係ないことに配慮しなけりゃならん理由がない。

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    そうは言っても実際のところは中学校教育と教員の作業に占める部活動の割合はまったく無視できないので、最近は現実に合わせて制度の方も変わってきた。

    教員にクラブ手当が支給されるようになったことがその典型で、大阪府職員特殊勤務手当条例によれば週休日に6時間以上の部活動指導で3700円が支給されると明記されている。時給にしてわずか600円ちょいだが、昔は日給数百円レベルだったというからかなり改善したほうだろう(これは大阪府の例だが、教員給与の財源の一部は国庫から出ているので手当の額については文科省も口を出す、というか指針を定めるので、ほとんど全国で同じ水準だと思われる)ちなみにこれは「特殊勤務手当」となっているが支給対象は「土日等週休日の部活動指導」に限られているので、実際のところは「時間外勤務手当」の意味合いが強い。件の記事中で「手当もらってんだから部活やれ」などという書き込みがあったが、本来は部活をしたから手当がでるのであって、これでは原因と結果が完全に入れ替わってしまっている。まぁ書き込んでる本人は「残業代が出るんだから残業しろ」程度の考えしかないのかもしれないが、それでも相当おかしな感覚ではある。

    活動が教育課程に組み込まれることは、まだ無いだろう。もし教育課程に組み込まれれば生徒は全員強制的にいずれかのクラブ活動に参加せねばならず、さらにその活動実績を「評価」されて成績に反映されてしまうことになる。そうなると評価の基準と規準が必要で、ただでさえ道徳の教科化で頭を悩ませている中学校教員は脳みそ爆発しちゃうんじゃなかろうか?

    日本の学校教育制度における大きな「節目」というのは、まず第一に明治維新、つぎに太平洋戦争敗戦後の戦後教育があって、これらに続く第三の変わり目が20世紀末頃であり、所謂ゆとり教育が本格化し始めた時期です。日本の官僚も馬鹿ではないから、1990年代には現代の日本の社会モデルが限界に達するであろうことを理解していて、2017年の私たちが直面している問題の多くはこの時すでに予測されていた。そして様々な解決策が提示されたのだが、今ご覧になっている通り、その多くは不発に終わったのです。

    教育面もご多分に漏れず、ゆとり教育は2011年に事実上撤回されたが、失敗の原因は、アタッチメントのように題目だけを付け替えて、本体である教育現場そのものを根本的に変えようとしなかったところにあったのではないかと思える。北欧型の教育が将来国際的な潮流になるであろうという予測はまったく正鵠を射たものだったけども、現実の教室では40~30人の生徒を教壇に立つ一人の教師に正対して一斉に着座させる「講義」形式がなお続いていたわけで、文科省の思い描く理想図と現場教員の直面する現実には天地ほどの隔絶があった。

    理想を実現するには体制をまるごとひっくり返す必要があるように思えるが、文科省(あるいは社会)はこの点を素通りして、旧体制や従来の価値観を放置したまま新目標を押し付けるものだから、結局その間にあるギャップは授業者である現場教員の負担という形で転嫁されてしまう。例えば文科省は「アクティブラーニング」という言葉で生徒同士の自主的な協議や議論を授業に求めるが、しかし現場教員は同時に「授業規律」や「生徒指導」という「教室の統制」を課されていて、現実の教育現場でこの二つの両立は極めて困難である。

    部活動も今後、アクティブラーニングの面からして重視はされていくのだろうが、一方で教員の負担問題も注目されていくだろう。

    今現在やたらと部活が熱心であるのは、学生時代に部活に打ち込んでキラキラした思い出を作った人々がキラキラした思い出を追ったまま教員になり、キラキラした思い出をずっとキラキラさせたいたいめに部活に打ち込んでいるためである。つまり言うと、学生の頃に部活は先生の仕事」と勘違いしてしまった人が先生になってしまった為なのだが、部活動に熱中して授業を二の次にするという本末転倒な事例さえなかにはある。

    問題を解決するには教育課程を厳格に適用して部活を廃止し教員を部活指導から解放するか、逆に部活をもっとはっきりと教育課程に組み込んで、「体育科」があるように、国語科教師や英語科教師とならんで「クラブ課教師」という人員を学校教職員の定員に盛り込むかするしかない。

    しかし、小手先の付け焼刃に終始する日本の公教育体制の現状からして、このような抜本的な対策が取られることはなく、現場教員が血反吐を吐いて倒れるまでこの矛盾は放置され続けるだろう。

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    教師が聖職者ではなく単なる労働者になってからすでに10~20年は経ったのじゃないだろか。

    それでも世間様が教師に対して聖職者であることを求める理由は、簡単に言うと「親切な人がいれば犠牲を押し付けられて自分は何もせずに済む」からである。他の先進国並みの学力を要求する癖に公的教育に関する支出は抑えたままとなると、なるほど現場の人間に「無償労働」と「犠牲労働」を押し付ける以外に手段がなくなる。

    「部活」なんてものをやらせたいのなら、別に子どもにボールをあてがってどっかの空き地で遊ばせてりゃいい。そうならないのは監督責任者としての教員という人員を無償で確保できてしまうからである。

    ただまぁ、ここまでいろいろと教員側の愚痴を書いてきたが、教員が文句を口にして言うことを利かなくなると、次は保護者様方が汗を流さなければならなくなります。実際、クラブ活動のために保護者が休日に動員され無償労働を強いられるというのはスポーツ強豪校などのPTAではよくあったりする。

    しっかし、そこまで熱心に親子ともどもクラブ活動に打ち込んで、育ち盛りの時期に肉体を酷使し、その結果20代前半で筋断裂や腰痛持ちや関節遊離になったりして体を壊すことになった人も大勢いる。

    スポーツ青春至上主義のような、クラブ活動を煽る風潮は、なんだか多くの人の人生に悪い影響を与えているようであまり好きではない。部活に関してはやはり所謂ガチ勢よりはエンジョイ勢の方が正しい気がしてならない。

    (了)