• キャッチャー・イン・ザ・ライムを読んだゾ

    2018-02-24 14:5412時間前2

    たまたま書店に寄ったら平積みされていたのでジャケ買い・・・したわけではなく、もともとツイッターで見かけた下記画像に目を魅かれて興味を持っていたのでここぞとばかりに買ってしまった。



    一巻はラップバトル部創設を目指す少女たちが交友を深める内容だったが、詳しいあらすじについては姑く省く。

    一読した感想としては、非常に良い。満足。

    単純に視覚的に鑑みても絵柄はシンプルながらコマに切り取られたワンシーンごとにキャラクターの動きや感情が豊潤にあって読後に不足を感じない。また繊細で多感な少女の内面にスポットライトを当てたストーリーだが、物語が要求する複雑だがストレートな表現力に対して絵柄が十分に答えることができているように思える。

    一見して地味な主人公はキャラクターとして埋没しそうな「デザイン上の」頼りなさがあったが、ストーリーが展開していくにつれ彼女が物語の中心に据えられた理由に納得がいき、主人公としての説得力が増していく。

    物語の本筋は少女たちの成長物語になるのだと思う。

    少し前に流行った美少女ひらがな四文字日常系漫画の亜種だと思って読まず嫌いしている人には考えを改めてもらいたい(宣伝の煽りとしてゆるふわ女子高生の百合百合しぃラップバトルとか掲げてるのはどうかと思う)

    これはなんだか正統派の学園もののような気がする。楽しさがあって、嫌なこともあって、難しいこともあるが、乗り切ることもできて、友達もいる。人間的なドラマの展開のなかにも矛盾なくラップ紹介要素も収めてあり、単純に商業作品としてもよくできた内容だと感心してしまう。優秀な編集者がついてるんだろうか?なろう小説が濡れ手で粟式にコミカライズされている昨今ではなおさら感心する。

    小奇麗な絵柄だが主人公の内面に迫るシーンはいちいち生々しいので、個人的には学校関係者にぜひ読んでほしいと思った。

    ただ自分が一番好きな場面はカエデ先輩との登山で披露される山月記をモチーフにした主人公のライムである。女子高生とラップを結び付けたこの漫画の真骨頂のようなシーンだと思うから。

    みんな、読もう!

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    タイトルのCITRは言わずもがな「ライ麦畑でつかまえて」からだが、読んでみるとなるほど、単なる言葉遊びでつけたわけではないと分かる、気がする。
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  • 雑記:スターリン

    2018-02-20 21:149

    世界三大独裁者と言えば概ねスターリン・毛沢東・ヒトラーの三者で異論はないだろう。

    歴史を紐解けばアウグストゥスだとかオゴデイだとかスレイマン1世だとか康熙帝だとかどこかの英国女王だとか色々と名前は出てくるかもしれないが、握りしめた権力の強大さと暴力の性質から言って先述の三者に匹敵する者は類例を見出しがたい。

    このうちヒトラーは、まぁ破綻者として順当な末路を辿ったが、毛沢東については半ば英雄染みた経歴を持っているため扱いが難しい。

    またスターリンは、毛沢東とは別次元の存在で、難しく異様である。

    毛沢東が本来は天才的軍略家であり、その失政の汚点を晩年の人間的衰えと奸臣による謀略の神輿として利用されたところに原因を求め、「功績七分に失敗三分」との言葉の通り英雄としてその人生を総括できる情状酌量の余地が残されているのに対し、スターリンの政治的人生は最初から最後まで「衰え」でお目こぼしできるような人間的な温度がなく、またその冷酷さと無慈悲さのスケールが巨大すぎるために人間として見た場合の功罪のフレームが機能しておらず、まったく評価の方法に困る感がある。

    これはスターリン自身が己を非人間たらしめるべく切磋琢磨(大迷惑)していたためでもあるが、ただ時のソ連共産党(ボリシェビキ)が非常に独特の閉じた価値空間にあったことを忘れてはならず、謂わばソ連型共産主義社会というディストピアを具体化したひとつの偶像がスターリンであったと言っても決して誇大表現ではないだろう。

    だから、スターリンを理解しようと思えば当時のボリシェビキのエリート社会を理解しないわけにはいかなくて、ただそうするとここに紙面をいくら割いたところで収まるわけもなく、他の何物よりも貴重な自らの自由時間の希少価値を思えば断腸の思いで割愛せざるをえない。

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    スターリンの人間像はしばしば「冷酷な人間不信」に集約されるが、そういったパーソナルな部分を抜きにしても世評は決して明るくない。

    子どもの頃は神童とも呼ばれたようだが壮年期になると知的な洗練はあまり目立たなくなって、コスモポリタンや国際的なインテリゲンチャの多い党幹部のなかでは理論面での指導力を発揮する知的指導者であるよりむしろ実務面に没頭した官僚的な人物として埋没していたらしい。

    そのため、特に1920年代権力黎明期のボリシェビキ党内では最も重視された理論面での能力では政敵に大きく見劣りし、最高幹部連のなかでも二線級のメンバーであった感は否めない。

    レーニン存命中のボリシェビキ党幹部は、革命前は海外の亡命先から共産主義理論を展開し、論理の面で党員を指導していたインテリゲンチャが中枢に存在していたため、空気として学者肌の文化が存在した。共産党員(当時はボリシェビキ党員)であることは政治家であり革命戦士であると同時に学者であり研究者であらねばならず、マルクスの資本論やレーニンの著作の読破は勿論のこと、自ら高度で難解なマルクス・レーニン主義理論や唯物論的弁証法を扱えなければならなかった。帝政時代に高級知識人層の過程に生まれ高等教育を受けることができたものはいいが、中下流階級の家庭に生まれ満足な教育を受けられなかった幹部は党務に服する一方、寸暇を惜しんで理論面で追いつこうと学習に打ちこんだという。

    スターリンは地下活動家(テロリスト)として活動していた頃に民族問題に関する論文を執筆し、これがレーニンの目に留まって幹部として出世を始めたとされるが、彼の出世作であるこの民族問題論文は実際のところブハーリンの協力に拠るところが大きかったらしい。また革命後は幹部連の中で独自に「一国社会主義」理論を展開したと言われているものの、これも原型となる理論はブハーリンによるもので、その他スターリンのものとされる論文等は「レーニンなど他のインテリゲンチャの著作の切り貼りと焼き直し」だのと歴史家から酷い言われ様をされているほど「目新しさ」と「独創性」に欠けるものだった。

    また党内権力闘争の局面ではブハーリンら右派の理論を支持してトロツキーとジノヴィエフら左派を攻撃する一方、彼らを打ち倒すと今度は一度否定したはずの左派の理論を担ぎ出してブハーリンら右派を排撃するという節操の無さを展開している。

    こういった変節漢ぶりがスターリンの理論面での能力不足という欠陥を補強して世評を押し下げる一要因となっており、知性面で劣るが故に他人の褌を借りる式に政敵の政策理論を借用して政策論争を狡猾に乗り切ったと扱き下ろされることとなっている。

    ただ、これについては弁護の余地があって、1920年代のソ連政治というのは第一次大戦と内戦による経済荒廃からの脱却という難題に囚われて多事多難の五里霧中にあり、生まれたばかりの社会主義国家は安定した統治と革命の追求・社会主義建設を両天秤にかけてまさにすべてが手探りの「実験国家」状態にあった為、政策面での二転三転は別にスターリンに限った話ではなかった。変節漢という点ではスターリンの政敵であったジノヴィエフやトムスキーもそうだったし、あのブハーリンであっても誹りを免れることはできなかった。権力闘争の頂点にあった人物では唯一トロツキーが終始一貫して左派の代弁者であったのが例外だろう。

    しかし、結局のところスターリンを知る上でこれら政策理論の云々は枝葉末節な問題であって、究極的に言うと、この男は別に社会主義を信じていたわけではなかった。

    当の本人は信じていただろうし信じていると信じていただろうが、客観的に見ればスターリンが信じていたのは「党」であって社会主義の理想ではなかったように思える。キリスト教的な倫理観や道徳観、博愛主義、人間主義を放棄し、「科学」と「理性」による党の千年王国を奉じていたのは1920年代ボリシェビキ党員に広く共有される傾向であったが、スターリンは共産党による超垂直型の独裁・行政国家が既存の如何なる国家モデルよりも秀で、効率的かつ合理的で、国力を動員するうえでの最適解だと考えていたらしく、彼は「新千年王国」の理想よりもこういった統治上の利点に社会主義の価値を見出していた。。

    第一次世界大戦がドイツ革命により終結し、しかし修正主義者の社会民主主義者のエーベルトらが新生ドイツを掌握し、東欧の社会主義革命も頓挫して拡大を見せなくなると、スターリンは「世界同時革命」を前提としたロシアでの社会主義革命運動を見限って「一国社会主義」を追求していくが、これは世界で最も強固で効率的な共産党支配体制を駆使してロシアの富国強兵を邁進し、もって全資本主義世界と対峙し得る大国家を建設することを目的としていた。だから、スターリンにとって社会主義は手段であって目的ではない。差別の無い平等な社会主義社会はつまり、国家内国家としての私領を持つ貴族も、免税特権で私腹を肥やす教会も、政界と癒着して本来国家経済に提供されるべき資本を私物化する財閥も存在しない、理想的な開発独裁体制としてスターリンの目に映っていた。

    そしてそれは多かれ少なかれ、近世の啓蒙君主が抱く国家改革の理想と重なる部分があったのである。そういう点でスターリンはやはり君主だった。だから近代化し啓蒙された市民一人一人が社会を安定化させ国家を運営するような社会主義の夢を見るはずもなかった。

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    ヒトラーと並べたてられる「軍事オンチ」としてよくよく軍オタ(のような人々?)から批判にさらされるスターリンだが、これは言葉のあやというか、ネット上の又聞き論争によくある木を見て森を見ずの狭視眼的な物言いで、あまり公平でないように思える。ジューコフもスターリンの軍事的見解については「政治家ならあの程度で十分だろう」と評していて、やはり銃後の国家指導を総攬する者としてはけして「オンチ」ではなかった。確かに知識としては不足していたかもしれないが、それが問題とされる立場にはなかったのである。

    スターリンの過失として独ソ戦初期の大損害の責任が指摘されるが、そもそもその直接的な結果が「独ソ戦そのものを当面は回避する」という大方針にあるので、これには何とも単純には断罪できない政治的な難しさがある。

    冬戦争の教訓から大粛清による赤軍の後遺症が甚大であることは明々白々で戦争そのものがソ連に惨禍をもたらすことを理解して開戦を回避したこと自体は、政治家としての理性がよく発揮されており、ヒトラーを挑発し戦争を誘因するとして軍の事前動員を見送ったのもこの点で冷静な判断であったように思える。

    スターリンの極度に戦争を避けようとする姿勢が赤軍と国家の防衛体制を無防備に晒し緒戦の大敗を招いたとするのは究極的には結果論に過ぎず、一刻一刻が状況を作る蓋然性の揺らぎの中にあった当時においては、スターリンの判断はまぁ妥当なもので、独ソ双方に破滅的な損害をもたらす全面戦争の可能性を出来る限り小さく抑えようとしたことはやはり政治家としての資質を感じざるを得ない。

    何かあれば早々と俗世に見切りをつけて戦争の覚悟を決めてしまうヒトラーや日本の軍部が異常なだけで、キューバ危機に見る通り理性的な政治家は常に破壊的な結果を回避しようとするものである。血気盛んな歴史家や国防論者から、軍人に比べ政治家が常にその理性の有様を「弱腰」に転化されて非難されがちであるが、スターリンでさえ例外ではなかったのだとと言えるだろう。

    こうしてみるとスターリンにとって不幸であったのは人類史上稀にみる災禍であるヒトラーと同じ時代に君臨していたことで、ナチの黒い暴風雨を相手にしてはすべての理性的な判断が「敵を目前にしての油断」に置き換えられてしまい、あらゆる常識人が貧乏くじを引かされてしまう。もしスターリンが赤軍や在外スパイからの情報に従って事前動員をかけていた場合、「ヒトラーを刺激し、赤軍の再建途上にも関わらず独ソ開戦の可能性を現実化させた」として批判されたと思われ、やはりこればっかりはヒトラーと同時代に生まれ落ちたことを恨むほかない。

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    スターリン最大の特徴はやはり病的なまでの人間不信だが、これは後世の分かりやすい共産主義バッシング遊びのために都合よくキャラクター化・記号化されていて、実際のところ30年代は他の幹部同様に護衛もつけずに徒歩で街中を移動するなどかなり無防備な振る舞いであったようである。また猜疑心が悪化したと言われる戦後でも一般人の前に丸腰で姿を現して握手することもあったらしく(好んで、というわけではないが)常に暗殺の影に怯える小心者ではなかった。

    スターリンの猜疑心というのは日常に現れる分かりやすい個性ではなく、外向けの愛想笑いの奥に潜む氷点下の冷気であり、人間的なものというより政治的なものであったと思われる。

    根本的に言うと、スターリン・・・と言うよりは30年代~40年代ボリシェビキ社会(つまりスターリン主義時代)というのは政治人の「人間性」そのものを否定していて、人間を捨てきれない幹部をボリシェビキのエリートとして不適格であると見做していた節がある。スターリンはそういう意味では「人間不信」ではなく「人間否定」であったと表現した方が適切ではないだろうか。

    彼があらゆる人物にスパイの可能性を見出したのは、彼にとってのスパイとは敵国に通じて情報を漏らす人物ではなく「人間的な弱さが残っていてそれ故に無限の忠誠心を期待できない人物」であって、分かりやすい「スターリンの人間不信エピソード」の字面だけを追っていては実際のスターリン的な「人間否定」的価値観の恐ろしさは理解できない。

    こういったスターリン的価値観とボリシェビキ社会のディストピアっぷりについては何だか現代日本に充満する「息苦しさ」に通じる部分もあって色々と述べたり考えをまとめたいのだがまぁ、いまいちね~やる気が無いんですよね、やる気もないしちょっと面倒くさいしで、本記事はいったんここらへんで終わらせていただきまスゥゥゥゥゥゥ・・・

    続きはまた気が向いたら・・・

    (了)
  • 備忘録:ニコニコニュースからコメント欄を廃止しろ

    2018-02-16 22:088

    米州知事が「暴力的ゲーム」を激しく非難、銃乱射事件受け「ゴミ、ポルノと同じ」とコメント

    というニコニコニュースの記事のコメント欄を読んだら、頭が痛くなった。

    もう見なかったことにして、なんでもいいからくだらない動画を眺めて記憶を上書きしようかと思ったが、あえて苦行を選びこの頭の痛さを言語化してもいいかもしれない、と考えを改めたので少し書く。

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    よくよく見てみると、この記事のコメント欄に並んでいる意見(ですらないかもしれないが)というのは、だれに対してのものでもない。記事中のマットベヴィン州知事に対してのものでもないし、ましてや件のフロリダ州での銃乱射事件に対するものでもないし、それを受けた暴力ゲームに対する非難への反論でもない。

    じゃあ何だ、独り言か、と言われると、ううーん確かに独り言のようでもあるが、そう言われてもやはりどこかしっくりこない。

    というよりも、独り言よりは鳴き声に近い印象がある。独り言というのはまったく独りだけの完結した言葉だが、この鳴き声は、例えば断崖に立つ獣が虚空に咆哮するように「誰に対しての」という具体的な特定はないけども「誰か・何かに対しての」という指向性はある。

    おそらくこれら記事中のコメント群は、自分らの中に宿っている「敵」の抽象的なイメージに対して、とにかく吠えて溜飲を下げているのだと思う。

    だから記事の中身は碌に読んでいないし、読んでいたとしても理解していない。理解できないというわけではなく理解しようとしない。記事タイトルはタイトルというよりは「暴力的ゲーム」「銃乱射事件」「非難」といったタグの一覧としてしか映っていない。

    記事の内容やストーリーは、記事本文を読まず(理解せず)してタグのもたらす刺激とイメージのなかで自動生成され、そのイメージのなかに「敵」の姿が浮かび上がってくる。それに向かって、気の済むまで吠える。

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    とどのつまり匿名掲示板でクダをまいている連中とまったく同じというわけです。じゃあ匿名掲示板でやりゃいいじゃん。

    掲示板なのかニュース記事なのかどっちかはっきりしろ。

    これ、ニュース記事のコメント欄は目の毒だから読むなって話は、意外に英語圏でも似たような問題があるらしい。炊飯器にMP3再生機能をつけるのとおなじで、ニュース記事にコメント欄なんて無用の長物だオラ。

    (了)