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劣化する人:その20(1,942字)
劣化する人が増えたのは、結局勉強に向いていない人に勉強をさせてきたからだ。今から60年前の1960年代までは、勉強に向かない人は勉強をしなかった。しかしそこから勉強社会、受験社会に移行し、全ての子供にほとんど強制的に勉強をさせるようになった。その結果、勉強に向いていない子供も勉強をするようになった。だから、心に不調をきたす子供が増えたのだ。それでも、中には勉強ができないのに、心に不調をきたさず、学校の成績を上げられる人々も現れた。いわゆる器用で、モノマネが上手い人たちである。彼らは、勉強ができる人のモノマネをすることで、学校時代を乗り切った。そしていい会社に就職し、最初はできる社員のモノマネをすることで好成績をあげた。ところが、30代後半からきつくなった。10年くらい前まで、「プログラマー40歳定年説」というのがあった。プログラマーは若い人にしか向いていないため、40歳が限界である。 -
石原莞爾と東條英機:その45(1,708字)
満州事変で石原莞爾が激動の中心にいた頃、東條英機は何をしていたのか?彼は東京にいた。歩兵第一連隊長として、出世街道のほぼど真ん中を順調に歩んでいた。一方で、東條は一夕会でもど真ん中を歩いている。一夕会のトップは押しも押されもしない永田鉄山だったが、東條はその直下のナンバーツーだった。そして、忙しい永田に代わって、一夕会の中心的な役割を担っていたのだ。いうならば「幹事役」だった。ここまで見てきたように、一夕会は静かなるクーデターを目指した反逆者たちの集まりだ。彼らの目的は二つあって、一つは陸軍の合法的な乗っ取り(と改革)、もう一つは満蒙問題の解決である。そうして一夕会のうち板垣・石原ラインが満蒙問題――すなわち満州事変の中心的役割を担っていたため、東京にいた永田・東條ラインが静かなるクーデター――すなわち陸軍の改革を担うようになっていった。そこで東條は、歩兵第一連隊長という役職に就 -
庭について:その74(1,816字)
偕楽園といったらなんといっても「梅」である。園の北東側に広大な梅園が広がっている。その数は約3000本にも及ぶ。そして、園のもう半分、南西側には竹や杉の鬱蒼とした森が広がっている。この梅園と森との関係が、「太極図」のような陰陽の世界を表現している。明るい梅園に対し、暗い森。それらが対になることで、偕楽園は一つの世界観、あるいは思想を示している。偕楽園の梅は、もともとは水戸の領民に楽しんでもらうのと同時に、弘道館の生徒たちにも心安まる場所を提供したいという思いがあって植えられた。つまりそこには、この世の「陽」を多くの人に味わってもらいたい――という思想があった。徳川斉昭は、陽の世界に通じること――すなわちよく遊び、よく休んでこそ、陰の世界――すなわちよく学び、よく働き、よく戦えると考えていた。ちなみに、偕楽園から弘道館までは徒歩で30分ほど離れているが、弘道館の庭にもたくさんの梅が植
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