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  • 「『日本会議の研究』を読んで、ミソジニーとオタクについて考える」を読む。

    2016-07-16 23:066

     上のタイトルを冠したブログ記事が目下、ちょっとだけ話題になっているようです。
     これは(これまた目下大評判の)菅野完氏の著作『日本会議の研究』を「オタク批判」へと(ムリからに)結びつけたモノなのですが、まあ、タイトルで想像できる通り、「オタクはミソジニストだ」と(何ら根拠なく)ひたすら絶叫を続けるだけの、他愛のない内容です。
     今までも当ブログではさんざん、この「ミソジニー」という幼稚な用語の無効性について語ってきました*1
     ここで簡単にまとめれば、そもそも好き嫌いという嗜好、感情に善悪のジャッジをしようというその考え自体が暴力的でおぞましい上、言葉の定義自体が極めて曖昧で、恣意的情緒的短絡的に運用される用語であるということになるでしょうか。
     彼ら彼女らが嬉しげに「ミソジニー」という単語を発する時、それは以下のような意味あいを実に気ままに混用していることに気づきます。

     A.単純に「女性差別」の同義語。これは上野師匠の著作でも明言されており*2、そのあまりにも穴だらけな主張に感嘆させられます。
     B.単純に「フェミニストに逆らう者」に脊髄反射で投げつける投擲兵器。フェミは絶対正義というのが大前提なので、仕方がないのです。
     C.そして一番ラディカルであり、フェミへの信仰度が90%を超えなければ到達し得ない用法ですが(このブロガー氏は軽々と到達してしまっていますが)単純に「女性に性的な欲望を抱く者」との意。

     上の定義を変幻自在、千変万化に使い分け、B.に当たる発言をした者、C.に当たる者をA.であると論難する。要は「男の中の自分の気に入らない者たちを恣意的に自由自在に屠殺することのできる大量破壊兵器」、それがこの「ミソジニー」という「攻撃呪文」の本質であると言うことができそうです。
     さて、しかしこの「ミソジニー」という攻撃呪文をオタクバッシングと結びつけたがる言説についてはストレートに語ったことはないかも知れません(あった気もしますが、思い出せません)。今回は、そこを簡単にやっておきましょう。これは同時に、女性のフェミニスト自身ではなく、フェミニズムの理解者を持って任ずる左派男性がフェミニズムをいかに「兵器」として運用しているか、ということを学ぶ機会ともなりましょう。
     このブロガー氏、bokukoui師匠は菅野氏の主張を引用し、

     端的にいってしまえば、それはミソジニー(女性嫌悪)、つまり「女子供は黙ってろ」ということだというのです。
     日本会議の本質はミソジニー、これは大いに腑に落ちました。


     と頷いてみせます。果たして、上の分析が当を得ているのかどうかはわかりませんし、ぼくには何の興味もないのですが、それは置くとして、ここから論理が

     そして小生が指摘せずにはおられないのは、ダイクストラが『倒錯の偶像』であまた紹介した、19世紀のミソジニーを表象した絵画のような文化風潮に相当する存在として、現在の日本で比定されるべきは、まさしく「オタク」文化とされる、「萌え」的な表象なのではないかということです。現在のオタクの「フェミ」嫌い、強いものに傾く権威主義などが、それを感じさせるにはおられません。


     と銀河を突き抜けんばかりの大ジャンプをしてしまうのには、失笑をさせるにはおられません
     この『倒錯の偶像』、ぼくは未読なのですが、師匠のおっしゃるには「主として絵画に描かれた女性像を題材として、(引用者註・ミソジニーを)詳細に論じてい」るご本のようで、そうなると論理的帰結として、上野千鶴子師匠の『セクシィ・ギャルの大研究』みたいなことが書いてあるんだろうなあと想像せざるを得ません。
     こうした主張に典型的なのは、論者がそうであって欲しいと乞い願う情念は痛いほど伝わってくるのですが、そうであるとするだけの根拠というモノが、見事なほどに抜け落ちている、換言するならば「そうであって欲しい」という論者の情緒的ニーズだけが根拠として提示されている点です。
     こういうのは、さしずめ「そうでなければならないから、そうなのだ」論、略して「ならない」論とでも呼べましょうか。
     しかし考えればそもそも、フェミニズムは「ならない」論が何よりも得意な学問です。彼らがフェミニズムへのファナティックな信仰者であるのはもう、必然としか言いようがないわけです。
     この種の論者の主張は常に、コピペでもしたかのように決まり切っています。

     a.オタクはフェミを嫌う(ので、絶対悪である)
     b.オタクは権威主義、ネトウヨ(と俺が思ったからそうに決まっているのである)
     c.オタクは既に社会的強者であり、オタク差別はなかった

     師匠の記事には「何故、オタクがフェミニズムを嫌うのか」という(ネットでちょっとでも調べてみればわかる)理由に対して、一切の論究がありません。それを分析し、その上で「それは間違っている」と批判するのが本筋だと思うのですが、他のあらゆる「ミソジニー」論者と同様、彼はただひたすら「フェミを嫌うことはならんのだ、ならんのだ」と泣きわめくばかり。
     つまり上のa.をまさに踏襲しているわけです。
     むろん、それはb.についても同様で、「オタクは権威主義」との思い込みの根拠もまた、全く示されません。
     c.についてはやはり昼間たかし師匠の妄言を引用することで言及されており、これは彼らのこれもお決まりの主張である「オタク=リア充論」を導き出すための、「こうでなければならないから、こうなのだ」論であることは言うまでもありません。
     ここではオタクという男性の中でも叩きやすい、叩くことの許される立場の弱い存在を、「いや、彼らは強者なのだ」と強弁する一方で、フェミニズムが社会的地位を得た強者であることについては一切目を伏せ耳を塞ぐという見事なまでの卑劣な振る舞いが、全くの無自覚になされています。
     彼らの中にあるのは「愚民は殺した方が救済になる」と言っていた人たちと全く同じ、「自分と毛色の違うものへの激しい憎悪」であり、ムツカシい言葉でこういうのを「ヘイト」とか「レイシズム」とか言う気がするんですが、何故だか一体全体どうしたわけか、彼ら彼女らは見ている側が赤面してしまうほどに「気高く清らかで誇らかで無謬な、正義を支持するワタシ」という高い高い、高い高い高い高い自己像を抱き続けます。
    「フェミニズム」とは、弱い者いじめを格好のいい正義にしてくれる、ステキな魔法なのです。
    嫌オタク流』などもそうですが、この種の人々は公的機関が萌えキャラを採用することに殊の外、憎悪の念を燃え立たせる傾向にあり、c.はb.を成り立たせるために専ら彼らの中の情緒的ニーズから帰納的に導き出されている「真実」であると言うことが伺い知れます。
     記事を読み進めると、彼はtogetter「こんな「パンチラ女子中学生募集」みたいな自衛官募集パンフレットはあまりにも不愉快です。」において(つまらぬ発言をして)同意を得られなかったことをボヤいています。このまとめは要するに、「自衛官募集パンフに萌えキャラが採用されて許せぬ」との毎度お馴染みのフェミニストの妄言を批判したものなのですが、ここで師匠は「オタクは権威主義者なので公的機関に認められることが嬉しくて仕方がないのだ」との妄想を開陳し、呆れられておりました。
    「墨東公安委員会@bokukoui」という名義で書き込みをなさっているので、よかったら確認していただきたいのですが、この種の人たちは実にナチュラルに、奴隷制時代の白人の黒人に対する対応のような風格でオタクを見下し、それについて叱られても理解できずにきょとんとしている、ということが大変に多く、見ていて本当に不思議なのですが。
     言うまでもなくオタクにしてみれば、公的機関であろうが私的企業であろうが可愛らしい萌えキャラが使われていれば飛びつくのが当たり前であり、そこを否定したいのであれば「公的機関の方にこそより飛びつく」傾向が強いことを説明する義務があるのですが、残念なことにその義務は果たされていません。「ならない」論者の面目躍如です。
     ちなみにまた彼はいわゆる「表現の自由クラスタ」を一体全体どういうわけか「ネトウヨ」であると信じきっていて、これはどうも彼の中で「フェミニズムに逆らう者は左派たるワタシの敵」という明確な基準が設定されているから、のようです。

    *1 兵頭新児の女災対策的読書「女ぎらい──ニッポンのミソジニー」「女ぎらい――ニッポンのミソジニー(その2)
    *2 厳密には「ミソジニー」と「女性蔑視」が同義であると断言されています。上のリンクの最初の方に引用があるので、興味のある方はどうぞ。

     さて、とは言え、しかしながら、bokukoui師匠は「まなざし村」などといった「非実在村」を捏造することでフェミニズムを延命させようとしている「表現の自由クラスタ」に比べれば、存外に理論的なのです。
     ここで彼が持論の根拠にしている『倒錯の偶像』に立ち返ってみましょう。
     ぼくも殊勝にも「読んだ方がいいのかなあ」といった気を起こし、Amazonで見てみたのですが、何と中古で六千円、700p近い大著。入手も読破も困難です。で、帯に書かれたキャッチフレーズが

    「映画やコマーシャルの世界に氾濫する女性イメージの起源を世紀末絵画のうちに読み説く」


     あ、もう、いいっス。
     先にも挙げた『セクシィ・ギャルの大研究』もまた、「主として絵画に描かれた女性像を題材として、(引用者註・女性差別を)詳細に論じてい」るご本でした。
     上野師匠は当時(1982年)の「ナウい言説」であった「広告批評」的な言説に乗っかり、専ら広告に立ち現れた男女ジェンダーを批判しており、そこでそれらを例えば「男性が女性よりも高い目線にある」「女性の性的なポーズ、表情を描写している」という「ジェンダー規範」に則ったものだからケチカラン、と難詰するという、非常に稚拙なご本だったと言うことができます。
     同様に師匠は現代の「ナウい言説」である「ネトウヨ批判」的な言説に乗っかり、専ら「公的な広告」に立ち現れた男女ジェンダーを批判しており、そこでそれらを例えば「女性の性的なポーズ、表情を描写している」という「ジェンダー規範」に則ったものだからケチカラン、と難詰するという、非常に稚拙な主張をなさっているのだ、と言うことができます。
     そう、上野千鶴子師匠は、そして日本に存在する全フェミニストは「まなざし村」であることが、ここで明らかになってしまいました。
     上野師匠のご本が出て数年後、「行動する女たちの会」が大暴れして、広告から水着の女性などの性的な要素は消えることになりました。今まさにまた、同じことがリプレイされようとしているわけですね。
     反ミソジニストであらせられる師匠が、萌えに憎悪を募らせていらっしゃることからもわかるように、こうした言は「女性の性的価値」をポスターなどに商業利用することを全否定しなければならぬ、との狂信を前提としたものであるとしか、考えようがありません。そのような正義を完遂しようとするのであれば、言うまでもなくポルノも萌えもこの世から抹殺するしかなくなります。
     いえ、それでも足りないでしょう。彼ら彼女らは(先の『セクシィ・ギャルの大研究』を見ればわかるように)そもそも男女のジェンダー全てを否定しているのですから、結局ぼくたちが恋愛も性欲もその全てを失う、或いは現行のそれとは全く異なる形にまで変形させてしまうまでは、許してはもらえないのです。あまりにも途方もない考えで、彼ら彼女らの悲願が叶った世界がいかなるものなのか、想像だにつかないのですが。
     結局、彼らの依拠するフェミニズムという思想は、あまりにも空想的あまりも破壊的あまりにも反社会的で、正常な人間が受容できるものではなく、批判されるのは当たり前のことです。
     しかし師匠は

     まとめて言えば、「萌え」好きな「オタク」の一般化・大衆化は、日本会議的な反動の風潮と軌を一にしているのではないか、というのが、幾つかの書物を読んで小生が考えていることなのであります。


     などと内省に欠けた発言を続けます。
     これは丁度、彼らがよくする、「ネトウヨは何故自民を選ぶのだ」といった発言と全く、同様でしょう。これは「ネトウヨがいる、のではなく自分たちが大衆に背を向けられているだけではないのか」「そもそも野党が不甲斐ないのが悪いのではないのか」といった設問を完全に無視した、二重に倒錯した認知の上に成り立つ誤謬といえます(そして案の定と言いますか、この記事の中でも、先の参院選についての自己中な嘆きが挿入されています)。

     さて、ところで、実のところ本当に今の今、当該記事を読んでいて気づいたのですが、師匠は以下のようなことを仰せです。

     ちなみに先のまとめで、小生のコメントに対し「フェミは行政にばかり文句をつける」という反論(これは反論としておかしいです。女性差別的な表現への異議申し立ては公的機関に限らず、企業に対しても広く行われています)をした人物は、ぼくたちの女災社会』なる、まことミソジニーを具現化した著作を物していたことには、オタクとミソジニーの縁の深さを感じさせられ、うんざりしました。


     まず、師匠の指摘の通り、ぼくは上のまとめで「フェミニストは公共団体にこそ文句をつける」と書きました。しかしむろん、一般企業にも文句をつけていることはご教示いただくまでもなく存じ上げておりますし、そこは重要な点ではないでしょう(ただし行政に文句をつけるケースが目立っていること、そしてそこには「お上にこそ噛みつきやすい/噛みつきたい」との心理が働いていることもまた、事実ではないかと思います)。
     しかし、(むろん、読んではいないことでしょうが)相手の著作の書名を挙げただけで「さあ見ろ、オタクはミソジニストだぞ」と勝ち鬨を上げることのできる心理の気持ちの悪さには慄然とします。
     ここでは「萌えキャラを愛好すること」も「フェミニズムを批判すること」も等しく「ミソジニー」と呼ばれる「殲滅すべき絶対悪」とだけ捉えられ、一切の思考は放棄されています。
     大変おぞましい話ですが、しかし、いつも言っているように、彼ら彼女らの言は「フェミニズムを正しいと前提すれば、正しい」のです。
     その意味で、仮にフェミニズムに一億の誤謬があるとするならば、「表現の自由クラスタ」は一億+1の誤謬を犯している人たちと言え、ホンのちょっとだけ、師匠が正しいわけです。
     例えばですが、師匠のような論調の人はメイドさん萌えなどを持ち出してオタクのジェンダー規範に基づいた欲望を糾弾する。しかし「表現の自由クラスタ」的な人は往々にしてBLだ、男の娘だを持ち出し、オタク文化をクィアフレンドリーである()とでも称して称揚する。しかし、いずれにせよフェミニズムという(完全に間違った)フォーマットの上でいかに自分が正しいかを競っているだけの話であり、そしてそのフォーマットの上でならば、まだしも論理的整合性を保っているのは師匠の方なのです。
     要するに、彼らは共にフェミニスト様の下にひざまずき、目を白黒させながらその靴を舐めている人たちであり、師匠の方が一回だけ、舐める回数が多かったのだ、ということが言えるわけです。

     疲れたのでまとめに入ります。
     彼らはいずれもがとにかく、「フェミニズム」を一切の思考を放棄して絶対に帰依すべき「真実」であるとする人々でした。
     しかし、「オタクはネトウヨであり、ミソジニーである」とする師匠の方が、自らは絶対的権威に依拠しつつ、「強者」とされる男性の中の「弱者」を蔑ろにすることで正義を完遂しようとする、フェミニズムの本来の運用法に則ったやり方をしていると言えましょう。
     先にも言ったように「フェミニズム」とは、弱い者いじめを正義に変える魔法です。そんなステキな認知のイリュージョンを見せてくれたという点で、ぼくはこの師匠を「表現の自由クラスタ」の上位に置きたいと思うのです。
     そしてまた、菅野完氏は女性に性的暴行を働こうとも、最初から「正義」の側にいるので、「ミソジニスト」であることからだけは免責されている、ということもまた、確かなことでしょう。羨ましい限りでございます。

    ■補遺■

     上に書いたように、bokukoui師匠はオタクを小馬鹿にした書き込みを(恐らくご当人は無自覚に)なさったがため、いわゆる「表現の自由」クラスタにフルボッコにされ、そのためにオタクへの更なる憎悪を燃え立たせておいででした。
     しかし考えるとそれって、以前に書いた「「サブカルvsオタク」の争いは岡田斗司夫が悪いことにしないと、すごく怒られる件」におけるサブカル陣営のオタクへの憎悪と全く、性質が同じなんですね。「俺はオタクよりエラいのに何故オタクは俺の言うことを聞かないんだ」というナチュラルなウエメセ。
     しかし、そうしたサブカル陣営の中には『エヴァ』以前はオタクを見下していたにもかかわらず、カネになると知るやオタクの味方を自称し、「オタク界のトップ」に収まった方も大勢いらっしゃいます。
     極言すれば「表現の自由」クラスタはそうした出自を知らないままに彼らの「戦闘員」となっている人々である、と言えます。
     その意味で師匠は、そして「まなざし村」は、「トップ」に捨てられた旧組織の「戦闘員」である、とも表現し得るわけです。
     ショッカーが仮面ライダーに追い込まれてゲルショッカーにリニューアルした時、戦闘員も一新したため、旧戦闘員は大量に殺戮され河原に累々と屍体が積まれていたことがありましたが、
    それを連想させる話です。

  • 不自由な男たち

    2016-06-25 22:124


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    ■GUY FAWKESさん、ちょっと快くないことを書くかも知れませんが、いつも言っていることなのでご容赦を……。■

    「反まなざし村」について、ぼくは今まで度々「敵の工作員である」と形容してきたかと思います。
    「オタクが事実に気づきそうだ、工作せよ」との「闇の大首領様」の命に従い、フェミニズムについて水際作戦でデマを流しているのであると。
    「男性学」についても同じことが言えましょう。フェミニズムによって破壊されたこの世界への素朴な懐疑を抱いた者を水際でいち早く取り込み、SEALDsにしてしまおうという。本書もまた、そんな「オルグ」の様子が捉えられた、貴重な一冊になっております。
     最近やたらと本を出していらっしゃる田中俊之師匠ですが、今回は小島慶子アナとの対談本。
     まえがきは小島アナが担当し、内容は「女性差別はなくすべきだが、男性は女性より強くてしかるべきというのもアンフェア、男も不自由だと言っていいのだ(大意)」といった、なかなかいいと思えるもの。
     が、みなさんもおわかりかと思います。
    「男性学」を謳う連中は、看板にはこの程度のことは平気で書く。しかし毎度毎度、中身を読んでいくとそれが見事に裏切られる。ちょっとやそっとで彼ら彼女らを信頼することはできない。
     どうなりますことやら……と思いつつ、ページをめくっていくと、育児について書かれた「「イクメン礼賛」では変わらない」といった節タイトルが目につきます(136p)、小島アナは「働く女は主婦よりエラい」といった価値観を批判、同様に男性も「イクメンこそが素晴らしい」などと一面的な価値観を持たないでほしいとの、こちらが舌を巻くような正論を展開し、田中師匠もそれに同意します。
     感激してうんうん頷きながらページをめくると、現れるのは「マスコミが植え付ける性別役割分担」といった節タイトル(140p)。舌の根も乾かぬうちに、田中師匠は妊婦向けの雑誌で「自分が入院したあと夫が困らないように、料理を作って冷凍しておきましょう」などと書かれていることを「気持ち悪い。」と非難し出します。小島アナも二十九歳の男性に恋人ができたというので「料理をしなかったら結婚してもらえないよ」とアドバイスしたことを自慢げに語り出します。この男性、いろいろ言われた挙げ句「もっとワークライフバランスの取りやすい会社」に行ったということで、まあご愁傷様と言うべきか、天上界では就職先がいっぱいあるらしくて羨ましゅうございますなあと言うべきか。
     こんな調子で、しょせん、マスコミなり何なりを仮想敵にして無限に妄想を繰り広げている限り、彼ら彼女らに「内省」の二文字は不要なのです。
    男が運ぶ母の呪い(61p)」での小島アナの語るエピソードもわけがわかりません。研究職にあった女性が高収入、高学歴、高肩書きの男性と結婚し、専業主婦となった、というお話です。傍からは「優秀な女性が研究を辞めるなんてもったいないな」と思いますが、そんなのは本人の自由ですし、彼ら彼女らはリベラリストとしてのタテマエを守るため、諸手を挙げて賞賛せねばならないはずです。
     ところが彼女はこの男性が「頭の悪い女性は嫌いだから高学歴がいい」と明言したことに「こういう夫たちに優秀な女性がどんどん潰されていく」と難じているのです。田中師匠は「まさに女性はサイドカーという発想を感じます。」と感想を漏らします。確かに「才能の無駄遣い」だと思うし、無学でも家事の上手い女性を娶ればいいのに、と思うのですが、彼ら彼女らのスタンスでこれに一体どういう不満があるのか、さっぱりわかりません。
     本来は「女なんぞ無学でいい」という風潮に噛みつきたいはずが、(そんな風潮はないので)ムリからにインネンをつけて噛みついている感じです。結局、イクメン、キャリア女性礼賛を批判して見せたのもポーズだけで、女性が社会に出ていないことは絶対悪、との偏向した価値観を他人に強制することこそが、彼ら彼女らの目的だということです。
     イクメン、男の家事、と言えば「専業主夫」の話題も登場します(191p~)。小島アナの旦那さんはオーストラリアで主夫をやっているらしいのですが、

      「家のことをやっているよ」と答えると、たいていの男性は「いいね、最高だよね」と言うそうです。


     理解があるオーストラリアは進んでいる、と雁屋哲さんばりに持ち上げるのかと思えば、

       でもどれほどの人が心の底から「いいね、最高」と思っているのか、私は疑わしいと思っています。
     
      「大変でしょう」と言われることのほうがよっぽど励みになります。つまりそれだけ理解をしてほしい。
     
      「いいですね」と言うのを聞くと、「どんだけ楽だと思ってるんじゃい」という気持ちになる。


     田中師匠も同調して言います。


      「他人事感」がありますね。自分はやらないけど、いいですね、みたいな話になる。


     あぁ、そうですか。
     何というか、『かってに改蔵』に出てきた「触ってはいけない人専用車両」というのを思い出します。そこには行きすぎた動物愛護精神を持っている人や行きすぎた環境問題への意識を持っている人などが集い、ちょっとでも扱いを間違えると勝手に傷ついて騒ぎ出すので、迷い込んだキャラクターたちは居たたまれなくなって、そこから飛び出してしまいます。
     他人が一挙手一投足自分たちの命令通りに動くまで、昭和時代のアニメに出てきた、共産圏を風刺したコンピュータによる管理国家のように人類をコントロールするその日まで、彼ら彼女らはこういうことを言い続けるのでしょう。
     田中師匠がこれをセクシャルマイノリティの問題に準えているのは非常に卓見で、彼ら彼女らは自分たちの思想が何故支持のされないか、もう少し真摯に考えてみるべきなのではないでしょうか。

     本書を見ていて感じるのは、(まあ、いつもの繰り返しなのですが)言うことがあまりに古い、ということです。
     以前も紹介した『男性受難時代』はバブル直後の男性に、「会社ばかりが人生ではない、家事を妻に任せきりのお前たちは、実は生活者として少しも自立していないのだ」と説く(ことで、男性の席を女性に明け渡させようとする、非常に姑息な)本でした。
     バブル後の徒花として一瞬僻地でちょっとだけ咲き、即行でおわコン化した「男性学」が、昨今、「脱成長ニキ」たちの指令を受けて復活しつつある、しかし、「新ネタ」を考えつかなかったのか、論調は二十年前のママである。いつも言ってきたことですが、本書を見ても、その印象はますます強くなるばかりです。
     25pの節タイトル「定年を迎えて考える『俺って何?』」や55pの「いつになったら、男たちは自分の足で歩けるようになるのか。」といった御高説、98pの「恋愛がうまくいけば、人生もうまくいくはずだという勘違い」を男が引きずっているという勘違い(女は男を相手にしていないが、男は女に夢中という被愛妄想は、バブル期に大いに喧伝されたウソでした)、242pの男は「友だちもいなければ、趣味もない」という決めつけなど、二十年前から古かった問題意識はもはやビンテージの域にまで達しつつあります。
     田中師匠はやたらと「定年後(の男性アイデンティティクライシス)」という随分と牧歌的な問題設定をしたがるのですが(その一方では脱成長礼賛と共に「老いることは解放だ」などとも語るのですが)、そんなことよりも働きたくても働けない、妻に依存したくても結婚できない弱者男性のことを少しでも考えてくれませんかね。社会に出たことのない恵まれた人には、ムツカシいかも知れませんが。
     それは、154pにおけるフレキシビリティのある雇用をしている会社を持ち上げ、「正規、非正規」の問題を「多様でいいね」とすり替える辺りにも現れています(もっともこれは小島アナの意見)。カネに余裕のある人は結構なことをおっしゃいますな。
     まあ、一応、これからは低成長時代で厳しいモノになるとの視点もあるにはあるのですが、むしろありすぎて、p184、p38など、田中師匠は「男にはそれ(引用者註・働くこと)以外の選択肢がない。」「「働かない」という選択肢は非現実的」と繰り返すことになっています。前者など、「男は過労死で殺されている(大意)」と言っていて、そこだけすくい取れば貴重な指摘なのですが、問題は田中師匠が何の疑問もなく前著を全否定している点です。
     前著で師匠が何とおっしゃっていたか皆さん、ご記憶でしょうか。
     はい、ドン。

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     ちなみに今回の本において、この前著についての言及は全くありません。やっぱりあれは「死ね」という意味だったのでしょうか

     ――とまあ、基本、本書の論調は以上のような感じで、類書と変わりがありません。
     が、小島アナがいるせいか、従来の田中師匠の本に比べて男性へのヘイトが軽減されているように思われます(もう一つ言うと、「フェミニズム」という言葉も確か、一回も出てきません。これはまあ、単純に詐欺勧誘のために隠しているのでしょうが)。
    大黒柱マザーになって」という節(167p~)では小島アナの旦那さんが無職になった時のエピソードが語られます。ここで彼女は、今まで旦那さんを社会的地位で評価していたと気づきます。

       けれど、いざそれ(引用者註・夫の職)がなくなってみると、自分の夫に年収があり、肩書きがあるということをすごく都合よく利用していた、寄りかかっていたことが露呈してしまった。
     
       いままで、私が大嫌いだったオヤジの言動すべてが、自分の中から出てきたんです。


     今まで嫌っていた「オヤジ」という存在がいかに大変か、いかに大きなモノを背負っていたのかを省みる小島アナ。旦那さんとのケンカの最中、「お前は俺自身ではなく別な者に対する感情を俺にぶつけているのではないか」と言われて、自分が「男社会」や「父」への憎悪を旦那さんへと投影していたのだとはたと気づくという下りもあります。
     いずれにせよこの小島アナの気づきは大変に素晴らしいものです。彼女は男性ジェンダーというものがいかに窮屈で危険で過酷なものかを知ったわけです。フェミニストが、彼女の万分の、億分の一でもここに気づいてくれればと願わずにはおれません
     しかしそれを、田中師匠は結局、

       仕事と家庭を両立させるための仕組みが整っていない状況で、女性が働くことに希望を持てないのは当然だと思います。(179p)


     という、「今更捨てられなくなってしまった、古びて硬直した考え」に立ち戻り、まとめてしまいます。
     見事な「オルグ」ぶりです。
     もうここまででおわかりでしょうが、「男性学」から「男性への憎悪」(と、「フェミニズムへの信仰心」)という要素を抜き去ってみると、まあ、確かに頷けることを言っていることが多いわけです。
     それは「「草食男子」への曲解」との節において(86p)「草食系男子」という言葉がネガティブなものとして流通していることについて憤る下りにも、同じことが言えます(むろん、彼らの定義、推奨する「草食系男子」のあり方が男性に益するモノかとなると、また別なハナシですが)。
     が、その処方箋となるや、「漠然と上を見て、オモチャ買ってとでんぐり返る」になってしまう。「何か、仕組みを整えてください」と。でもそれって、彼ら彼女の大々々々々々々々々好きな低成長時代ではなく景気のいい時にしか、不可能なことの気がするのですが。
     そしてもう一つ、主夫への対応が気に入らん、学のある女性が家庭に引っ込むのが気に入らんと騒ぐ下りでは、その「オモチャ買って」が為政者ではなく大衆へと向けられている。(国を相手にクダを巻いているだけなら騙される人もいように)ここで、彼ら彼女らの主張は大衆からはとてもとても受け容れられないものであるとわかってしまうわけです。

     ここでもまた「男性学」と「まなざし村批判」との構造の類似性が明らかになります。彼らはいずれもフェミニストが「男が一方的に得をしていたのだ、だから賠償せよ」との詐術で手に入れた“汚いカネ”のご相伴に、「ビョードーだから」のワンワードで預かろうとしている人たちです。そこには、フェミニズムの基調である「男側が圧倒的に得をしている」という視点が、一体全体どういうわけか、さわやかなまでに欠落しています。
     ある意味、もはや彼らにとってフェミニストというものに「おカネを持っているので仲よくしたらトクな人」以上の意味がなくなってしまっていることが、ここからは見て取れます。
     多分、彼ら彼女らは十年も経てばツイッターで「フェミと男性の対立はなかった、兵頭が捏造した」などと書き立てているのではないでしょうか。
     しかし、そんな彼らが、それでも強引にフェミニズム利権に預かりたいと考えるのであれば、「我々のようなご相伴に与る権利を持つ正しい男性/その権利を持たぬ悪しき男性」の二元論を持ち出すしか方法がない。それが田中師匠の普段の著作で現れる男性への憎悪であり、「表現の自由クラスタ」たちが見せる、自分たちの思い通りにならないオタクへの憎悪なわけです。
     フェミニズムは男性、女性への憎悪の思想であり、リベラル君たちにの中にも自分以外の男性、そして(いわゆる女性的な)女性への蔑視が深く根を下ろしている。
     彼ら彼女らのコラボはとてもステキなルサンチマンの協奏曲ではあるのですが、一般社会へと多大なる害毒を流した後、恐らく同士討ちで自滅する未来が待っているのではないでしょうか。

  • お知らせ

    2016-06-22 18:47

     どうも、またお知らせです。
    ASREAD』様と美津島明様のブログ「直言の宴」に記事を書かせていただきました。

    「サブカルvsオタク」の争いは岡田斗司夫が悪いことにしないと、すごく怒られる件

     竹熊健太郎さん、見ていたら謝っておきます、すみません。
     ただ今回については――否、サブカルの「対オタク」対応は常に――本当に非道いという他ないと思います。

     リンクはそれぞれ以下の通りです。

     ASREADhttp://asread.info/archives/3393
     直言の宴http://blog.goo.ne.jp/mdsdc568/e/379d87655e7cbb05a67bf051e244a13e

     実のところ、(ツイッターで騒がれた)この話題についてはもう終息しつつあるのですが、フジロックにSEALDsが出演した件で、またぞろ「ロックは元々政治的だ」「それをわからぬネットのオタク世代は云々」と、岡田斗司夫が捏造していたはずの「オタクvsサブカル」が再燃(と言うか、サブカル側のオタク叩き)しつつある模様。
     彼らはこうした現状を見ても、全てを岡田斗司夫のせいにし続けるのでしょう。
     いつまでも、お達者で。