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  • フェミニストとオタクはなぜ相性が悪いのか

    2017-11-23 12:5014時間前
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     いや、本書が出版された直後から、まるでそれが契機にでもなったかのように、世の中大変な騒ぎです。
     イオン系列のアダルト書籍の販売中止、和月伸宏の児童ポルノ所持による書類送検など、オタク分野で大事件が頻発しています。
     まあ、当ブログをご愛好いただいている皆さまにはおわかりの通り、これらトピックスに対しても、ぼくは単純に被害者ヅラで騒ぎ立てるつもりはないのですが。
     ただ、それにしても、こうした事件をきっかけにフェミがアンチオタクキャンペーンを張るのではないか……そうした不安を抱く方もいらっしゃるかも知れませんが、本書を読むとこんな感想が湧いてくるのです。「攻撃は外から来るとは限らない」と。

     と、思わせぶりなマクラを終えたところで、本編です。
     さて、とはいえ本書についてはこっちが何か言う前から海燕師匠がネタにしてあちこちで話題になり、読んでもいないだろう連中が一言居士ってらっしゃるのを見て、早くもレビュるモチベがモリモリ下がっているのですが。
     もっとも本書は北原みのり、香山リカ両師匠の対談本。その時点で確かに、読まずともお察しではあるのですが、それにしても本書の出版はぼくの目にはそれなりの衝撃をもって映りました。というのも、この「フェミニストvsオタク」という対立構造はネット社会では周知でも、リアル社会で言及されるようなことではありませんでしたから。
     だから一応はオタク側の批判に対してフェミニストがいかなる反論を試みているかについて、多少の期待を持って本書を開いたのですが……残念ですが、その期待は叶えられることはありませんでした。
     読んでいくとオタクについての話題はほとんどナシ。
     全体の一割もないでしょう。5%あったかなあ……という程度です。
     その他は旧態依然としたアラフィフフェミニストの十年一日のごときだらだらしゃべり。こうしたモノでも本になり、懐が潤うのですから、本当にフェミニスト様は特権階級であらせられますなあ!
     何にせよタイトル詐欺の批判は免れませんし、「どう形にすんだ、これ!?」な素材を敏腕編集者がキャッチーなタイトルでまとめた、みたいな舞台裏を想像したくもなります。
     まあ、そんなこんなで、ネガティブな意味での期待をも外してくれた本書、お二人の思想的スタンスを考えれば容易に想像のつくとおりヘイトスピーチがどう、C.R.A.C.がこうと言った話題も盛んに登場します(言うまでもなく野間さん全肯定です)。下手をすると「オタク」より「ネトウヨ」というワードの方が頻出しているかも知れません。ただし、その両者を接続する言説は、残念なことにどこにもない。二人がその両者について、心の底から何の関係もないと考えているのならともかく、そうでないなら(そうでないとする証拠もないのですが)極めて不誠実というか、片手落ちです。「オタクvsフェミ」という問題にがっぷり四つに組む覚悟があるなら、ここ(「ネトウヨ≒オタク論」とでも称するべき左派の中の通説)は大変に重要なはずだからです。

     さて、そんなわけで正直、本書についてはどうアプローチするか迷っているのですが、ここは一応、表題になっている「オタクvsフェミ」をメインに、本書を紹介していくことにしましょう。
     本書では北原師匠によるまえがきから宮崎事件について語られ、オタクについての話題の半分くらいはこの事件についてに費やされております。
     既に海燕師匠の指摘があちこちに流布されており*1、ご存知の方も多いことでしょうが、ここで師匠らは「宮崎勤はオタク文化を誕生させたカルチャースター」とでも言うべき捉え方をしており、その無茶苦茶さが批判されたのです。
     が、敢えて師匠らの立場に立って言うならば、彼女らの言は「幼女を性的対象として消費する文化が大手を振ってまかり通るようになるなんておかしい!」ということに尽きます。「宮崎がそうした文化を産んだわけではないけれども、この時に、文化人が「表現の自由」を錦の御旗に論陣を張った。それがオタク文化の隆盛に一役買った。ある意味、宮崎は間接的功労者とでもいうべき人物だ」。師匠らの言いたいことをなるべく彼女らの親身になって翻訳するならば、まあ、こんなところになるのではないでしょうか。
     もちろん、それがどこまで正しいかは疑問です。別にこの時に表現全体が大幅にフリーダムになったわけではないでしょう。「今までは考えもしなかった表現が、この時期に出て来た」だけのことです。いや、美少女コミックの黎明期は80年代ですが、広がって行ったのが90年代という見方は、それほど外していないはず。そう考えると、これは構造としてはむしろブルセラに近い。まさか女子高生が自主的にそんなことをするとは、という。ヘアヌードや援助交際もこの頃に出て来た「まさか」でしたが、ブルセラがそれら以上にトリッキーなのは、使用済み下着というエロのカテゴリに入れにくい、今まで思ってもみなかったようなものが商品化されたという意外性です。エロ漫画にしたって、まさかアダルトビデオなどが普及してそれほどタイムラグもないというのに、二次元の美少女の方がリアルよりいいと言われるとは、予想外だったはずでしょうから(そしてまた、ロリコン的表現それ自体が今までは知られておらず、これまた意外だったはずです)。
     これらはつまり宗教的縛りもない日本において、村社会的共同体意識が解体されて、リベラルな考え方のみが専ら正義とされ、道徳心がストッパーにならず云々……みたいなことこそが原因であり、上の諸現象はその結果として立ち現れたと見るべきなんですね。
     端的に言えば、これら現象とフェミとのバトルは、左派、言ってみれば個人のエゴをスタート地点とする思想の、自己主張同士のバッティングというどこにでもある、あえて言えば「ただのケンカ」でしかありません。要するに、彼女らの敵は宮台真司なのです。実際、本書では宮台師匠についても否定的に言及されています。
     いずれにせよ、両師匠の発言は事実を踏まえているとは言い難いのですが、当時は美少女コミックが成年マークもつけずに売られておりましたし、現代でも『To LOVEる』とかはまあ、子供が読めるのはどうかなあ……と思います。その意味で、言い分には5%くらいは賛成できるわけです。コンビニの成人雑誌も「子供に見せるべきではない」という主張はわかるので(本書もその旨が書かれています)、ゾーニングせよというのであれば、大いに賛成できます。
     しかしもちろん、フェミニストは「それだけでは足りぬ、ポルノは根絶せよ」と主張する。そしてまた表現の自由クラスタも「ゾーニングはまかりならぬ、子供からエロ本を奪うな」と主張する。両者はぼくの目から見れば、「何か、ワンイシューな正義の御旗を振りかざす似たもの同士」に見えてしまうんですね。本書はオタク文化を客寄せに掲げているが、本丸は別のところにあると表現すべき内容でしたが、それを言えば「彼ら」のやっていることもまた……。

    *1「北原みのり『フェミニストとオタクはなぜ相性が悪いのか』の論があまりに酷い【歴史修正主義】(11/20追加)

     さて、宮崎事件(という、今時フェミニストと表現の自由クラスタと大塚英志以外には誰も興味関心を持っている者がいなさそうなトピック)以外で、本書で語られるオタク関連の話題となると、やはり碧志摩メグになるでしょうか。
     ただ、トピックが変わっただけで、言っていることは別段変わりません。
     逆に言えば、その変わらなさが彼女らのダメさを示してもいるのですが。

    香山 たとえばアメコミではグラマラスな格好良い女が出てくる一方で、日本のアニメは幼女が活躍するものばかり。欧米では年を取った女性もオシャレで派手な服も着るし、男性もパートナーとして女性を大事にしている。それに比べて日本は若い女ばかり追い求める。
    (112p)

     本書では「萌え美少女」が終止「幼女」と表現されます。果たして何歳までを「幼女」と呼ぶのか、別に定義などは存在しないでしょうが、碧志摩メグは「幼女」ではないでしょう。上の言葉も碧志摩メグ自身を「幼女」と明言しているわけではありませんが(そうした箇所はなかったかとは思いますが)、文脈としては碧志摩メグ(や、会田誠やAKB)の話題に続いて出てきた箇所です。これ以降も話題はおニャン子クラブへとつながり、「セーラー服に興味を持つこと」が断罪されています。
     ご存知の通り、碧志摩メグについてはその胸の表現こそが云々されました。本書でも、両師匠がそこをこそ問題にしているのです。

    北原 こういう萌えキャラって、骨格よりもむしろスカートのシワや乳房の膨らみを表現する影で体を表現している。どれだけエロティックな皺や影を描けるかが肝なんでしょうね。
    香山 この、ヒモをほどくような手がツヤ感ですね。
    (104p)

    「胸もない幼女を好むとは異常だ」ではなく、「少女の胸が強調されている絵を好むとはけしからぬ」との言い分です(しかし、「ヒモをほどくような手がツヤ感」って何だ?)。つまり、「幼い子供を性の対象にするとは許せぬ」という主張はタテマエで、彼女らが本当に憎悪しているのは「ごく一般的な男性の好み」という他はない。
     もちろん、「ごく一般的な男性の好み」を全否定することがフェミニストの使命であることは、当ブログの読者のみなさんは周知だと思うのですが、こうなると師匠らはそのためにオタクをダシにした」と言われても仕方がないわけです。

    香山 私、碧志摩メグもうな子*2も、大学の授業で触れたんです。女子学生でも、うな子のほうは「こんなのよくある、なんでダメなんですか」という感じで、メグのほうは「かわいい。私も好き」と言うんです。「あなたが男性の欲望の対象になったらどう思いますか」と聞くと、「私はこんなことしない」と。同じ女だからどうにかしなきゃっていうはっそうもあまりないんです。
    (120p)

     いやはや、女子が碧志摩メグを見て「かわいい」と思うことはまかりならん。むしろ見た瞬間、「同じ女だからどうにかしなきゃ」と思わねばならないそうです(どうにかって何をどうするんだ?)。
     もちろん、師匠らの攻撃の矛先が向けられるのは萌えキャラに留まりません。先にもあるようにAKBも決して許してはもらえないのです。香山師匠はAKBファンの女子大生に、お説教をする毎日のようです。
    香山 (前略)「でも彼女たちは男の人の欲望の対象なんじゃないの?」と言うと、「そんな言い方しなくても良いと思います!」とか言って。
    北原 こっちの見方が汚いと思われるんですよね。
    香山 そうなんです。それで、「可愛いし服も参考になるし」なんて言っている。
    北原 AKBがエロに見えないのも、この行政の萌えキャラがエロに見えないのも、どれだけ日常が悲惨でエロが溢れているかという証拠だと思うんですよね。
    (123-124p)

     師匠らはペドファイルに怒っているわけでは全くなく、オタクを叩きやすいから叩いているわけでも全くなく、男性全体の性欲を根源否定しているだけでした(ただし、ぼくもよく知らんのですがAKBって結構露骨にパンチラしてるそうで、そういうのはちょっとどうなのかなあ……という気はします)。
     もう一つ、敢えて論点を提示するのであれば、彼女らのオタクへの憎悪は「クールジャパン」的な認められ方にあるように思えます。碧志摩メグが騒がれたのもやはり、お役所の公認キャラであったことが大きい。こうした国家権力へのツンデレ的愛情もまた、フェミニストと「彼ら」との共通点と言えそうです。

    *2 鹿児島県志布志市のPR動画で、スクール水着の少女をうなぎに見立てたとして炎上。てっきりうなぎのPR動画と思っていたら「ふるさと納税」のものだという。

     さて、またちょっと、「表現の自由クラスタ」たちの物言いに立ち返ってみましょう。ツイッターなどでちらちら見た意見には、「お前(北原師匠)こそバイブ屋のくせに」「若い頃はさばけていたと思っていたが、このセックスヘイターぶりはどうだ、老いたせいか」といった評も散見されました。
     これは上に書いたぼくの指摘と大意を同じくしているかのようですが……実はそうではなく、的外れなものなのです
     上にもあるように、また当ブログの愛読者の方は周知でしょうが、北原師匠の本業はバイブ屋でいらっしゃいます*3。が、彼女の目的は最初から「女にとっての快」であり、バイブもまた「男不要の快楽」として称揚されているわけです。彼女はセックスが大好きだが、しかし世に溢れている性的な価値観は全否定しているだけなのです。ジェンダーフリーなどを顧みるまでもなく、これが師匠のみならずフェミニズムそのものの基本姿勢であることは、今更指摘するまでもありません。
     フェミニストたちに、ぼくたちは非常に往々にして「萌え文化には女性のファンも大勢いて……」などと語りかけますが、そんなことに何ら意味はないのです。レディースコミックなども専ら女性のニーズに沿って作られたメディアですが、そこに描かれるセクシュアリティは男性向けのポルノとさして変わりがない(レイプ描写に溢れているなど)。つまり、フェミニストが「男性に都合のいい」と形容する性文化は実のところ男女共にとって快い、両性が共犯関係によって作り上げてきたモノであったわけです。彼女らが「男の欲望」と強弁し続けているのは、それこそ女子大生とのAKB談義でも明らかなように、女性の欲望でもありました。だから、師匠らは「人類の欲望」を根源否定しているだけなのです。
     フェミニズムは全人類へのヘイトそのものだったのです。
     事実、本書でも男のセックスに対しさんざん罵った後には、「何で日本はこんなセックスレスなんだ、気持ちのいいセックスがしたいのに」と言い出す節が入ります。自分たちの好まぬ性表現はダメ、一方セックスから撤退するのもダメというのだから、男女逆にして言えばクラスの隅っこでおとなしくしている(或いはおとなしく『おそ松さん』に萌えている)ブスに襲いかかって「お前がブスに生まれついたのが全部悪い!」とボコってるようなものなのですが。
    「表現の自由クラスタ」は往々にして、彼女らを「彼女らはセックスヘイターだからけしからぬ」と批判しますが、それは間違っていました。上を見てもわかるように、フェミニストはセックスヘイターではないのですから。そしてまた、「一般人」は多かれ少なかれ「セックスヘイター」なのですから。更にまた、「ロリコンであること自体は何ら罪ではない」という彼らの大・大・大・大・大好きなレトリックを援用するのであれば、「お前はセックスヘイターだからけしからぬ」という物言いは一切、意味を持たないはず(こんなことにすら思い至れないことが、彼らの問題なのですが……)。
     繰り返しますが、彼ら彼女らは互いに自分の好みを押しつけあっている、似たもの同士です。そこを理解できず、お互いに背を背けあいながら全く同じゴールへの道を併走しているのです。

    *3『アンアンのセックスできれいになれた?

     ……ちょっと、「表現の自由クラスタ」の悪口を書きすぎだとお思いかも知れませんが、もうちょっとだけ続きます
     彼らは専らネット上に立ち現れる存在であり、その実態を、ぼくは知りません。何とはなしに若い連中である気がしているのですが、それは彼らの主張の生硬さが原因でもありますし、「オタク差別」を危惧する物言いの屈託なさ*4が理由でもあります(これはフェミニストにただ「ミサンドリー」という言葉をぶつければ勝てると思っている人に対しても感じることです)。
     が、彼らが実のところ、かなりの高齢者と考えるとどうでしょう?

     ――おい兵頭、そんなことはどうでもいいだろう。仮に若くてもSEALD'Sよろしく上の世代の影響を受けていようし。

     それはそうなのですが、仮に「オタクの代表者」をもって任じている彼らの「イデオロギー」ではなく「カルチャー」の部分が、もし高齢者のそれであったら?
     今までぼくは「サブカル」にさんざんっぱら毒を吐いてきました。一つには単純に彼らがぼくたちにケンカを売ってくるからであり、もう一つは彼らが古色蒼然たる左派的価値観を深く内面化しているからですが、更にもう一つには、彼らの文化が極めてDQN的だからです。暴力的な表現で何かを破壊することに意義があるとの素朴な信仰が、彼らの本質です。
     つまり先の仮定がもし正しいとすれば、彼らはオタクではないし、そもそも「オタク的心性」が丸きりわかっていない。となると、彼らが本書に対して物申すことは(いえ、そもそも彼らがオタクの代表者であると自称し続けることは)オタクにとって、大変にマイナスになると考えざるを得ないのです。
     今までもぼくはオタクを「草食系男子」に近しいモノとして語ってきました。皮膚感覚で感じることでもあるし、レイプの認知件数が年を追う毎に激減していることなどを考えてもこれはまず、間違いがない。
     何よりもオタク文化は基本、草食的なものです。「美少女コミック」自体がそうで、ある種、少女漫画に影響を受けた内省的な作風は、KEYの「泣きゲー」に象徴される美少女ゲームへとつながっていきました。もちろん、陰惨なレイプ物、猟奇的表現などもまた、一方では存在はしていましたが、しかし「萌え」という言葉がオタク文化を席巻したことを考えれば(過激で暴力的なエロを「萌え」とは言わないでしょう)何がオタク文化の本質かは自明です。
     そう、本書に対する批評には、「オタクと言う名の草食系男子を、あなたたちはどうしてそこまで気に入らないのか」という視点がどうしても入らざるを得ないわけです。
     引用した箇所で充分おわかりいただけるかと思いますが、本書では旧態依然とした「女を搾取するモンスター」としての男性像が透徹されています。もちろん「草食系男子」などといったナウい単語はご存じでないのであろう、一言も出てきません。
     確かにオタク文化は「幼女」を性の対象にする側面があり、ぼくはここを全面的に問題ナシと考えているわけではありません。しかしこれは、「オタクの草食男子性」と表裏一体なものです。それはフェミニスト様のお言いつけ通りに「男性性を降りた」男たちが、フェミニズムに物申すようになったことと実は全く、同じ構造を持っています。
     しかし恐らく左派の、悪いけど古くさい言説の力で、そこをちゃんと語ることができるかとなると、それは怪しいと言わざるを得ない。

    *4 今までの「オタク論」は過去のものと化す? 『ダンガンロンパ』の先進性に学べ!

     ツイッターでの、左派とおぼしい方の意見には「北原は非道いが、香山はそこまででもないよ」といったものもありました。もっとも、上の引用を見ているととてもそうとは思えませんが、全体的には北原師匠の方が過激ではあります。確かに、北原師匠は過激なフェミニスト、一方、香山師匠はそれほどフェミニスト色はない。北原師匠自身がまえがきで「香山さんがオタクを、私がフェミを代表する、というわけじゃない。(8p)」と書いていますが、同時に続けて香山師匠を「「オタク」文化の言論人」と評してもいますし、あとがきでは香山師匠が

     おそらくゲーム、漫画、プロレスなどのサブカルにどっぷりつかっていた私は、人間をあえて「オタク」と「非オタク」に分けると明らかに前者なのだと思う。
    (245p)

     とも言っています。「お引き取りください」と懇願したいところですが
     しかし上に「サブカル」という言葉が使われていることにこそ、ことの本質が現れているように、ぼくには思われます。
     そう、先の「香山はマシ」論者の気持ちは、本書を通読すると一応、理解ができるのです。香山師匠、会田誠にはかなり好意的なのですから。

    香山 社会全体が受け入れているというより、あくまで制度としてのアートの中で、と考えてはダメですか? 会田さんは安倍政権を批判しているといわれる作品もありましたが、デモではなくてアートとしてのレジスタンスということではないのでしょうか。
    (108p)

    香山 ある種の権力、制度、倫理への挑戦のシンボルではないですか。
    (108p)

     会田というのは萌え絵をパクったような絵*5で「女の子をジューサーにかけたり」といった胸糞表現をしている御仁ですが、彼女はそれを上のように称揚しているのです。ならば草食的なオタク表現などもっと許されるべきだろと思うのですが、何故かそうではないのは、既に引用した箇所でおわかりの通り。即ち、香山師匠は反社会的で残酷であればあるほど、それは望ましいとのサブカル≒左派的価値観の持ち主なのです。
     事実、あっさり北原師匠に「オルグ」される箇所もあります。

    北原 (前略)昭和時代にエロをカウンターカルチャーとして抵抗してきた延長で、今のAV文化を捉えるには無理がありすぎる。表現の自由というのは民主主義で揉んでいくものだと思うんですが、揉む力さえなくなっていると思います。
    香山 表現の自由って言いながら、結局は市場主義的に売れる物が優先されているだけなんですよね。萌えキャラを商売にする人は「自由を守れ!」と思いながらやっているわけではなく、「これやっといたほうが売れるから」くらいの安易なものなんです。
    (90-91p)

     売れた「オタク文化」への憎悪でいっぱいですね。商売で儲けようとするのが悪いと言われても困りますし、ましてや日陰者だったオタク的表現がここまで社会に広がるまでにはどれだけのエネルギーが費やされたか、考えるだけでも気が遠くなるのですが、香山師匠はそんなことは、絶対に認められないご様子です。
     以前ご紹介した『間違ったサブカルで「マウンティング」してくるすべてのクズどもに』*6には「なぜサブカルは自分はオタクだと言いたがるのか」という節タイトルがありました(もっとも、その節にも本全体にも、この疑問に応えている箇所はありませんが)。これは至言であり、サブカル君はオタク文化を深く憎んでいるにもかかわらず、世間に対してはオタクを自称したがる。香山師匠が本書でとっている態度もまた、同じでしょう。
     師匠の中にあるのは、サブカル君たちのオタクに対する憎悪と同じものではないかと想像できます。一つには滅び行く存在の、商業的成功を得たオタクへのはらわたの煮えくりかえるような嫉妬の感情でしょうが、もう一つはオタクが「カウンターカルチャー」としての自分たちの文化の特質、要は左派的価値観を継承しなかった点にあります。
     だからこそ、香山師匠はオタクという場から出て行ってくれたし、萌えにも否定的になった。これはちょうど、ピル神が「オタク界はリベラル女子のためのサークルですよ」と騙され、召喚されている状況と、完全に線対称です。

    *5「『朝日新聞』3月1日朝刊「アートか「児童ポルノ」か挑発的な美術展」」。ここにも引用しましたが田亀源五郎先生の、「オタク文化をつまみ食いしやがって」との感想に、ぼくも賛成です。
    *6『間違ったサブカルで「マウンティング」してくるすべてのクズどもに

     うまく論理を展開できているか、いささか心配なのですが、そろそろまとめましょう。
     先に書いたように本書は(北原師匠が留保をつけているモノの、実質的には)オタクである香山師匠とフェミニストである北原師匠の対話という体裁を取っており、その内容はフェミニストがオタクをオルグする過程そのものである、とまとめることができます。
     それと同様に「表現の自由クラスタ」とピル神の振る舞いは(本人たちは認めないでしょうが、実質的には)オタクである「表現の自由クラスタ」とフェミニストであるピル神の対話という体裁を取っており、その内容はリベラルがフェミニストをオルグする過程そのものである、とまとめることができます。
     いずれも、オタク男女も一般的な男女も放り出されたまま、密室で「何か、変わった人たち」による談合が進んでいるという点については変わりません。
     彼ら彼女らはどこまでも線対称の、しかし相似形な存在であったのです。
     冒頭に挙げた、「攻撃は外部から来るとは限らない」の意味は、もうおわかりでしょう。
     彼ら彼女らは共に、「人間の性意識を改造することで地球侵略を企む、悪い宇宙人」でした。ただ、たまたま出身星が違ったがため、その改造プランのベクトルが異なり、利害が一致せず、地球を舞台にバトルを繰り広げているだけなのです。地球人におびただしい被害を出しつつ、互いに「ヤツこそ侵略宇宙人、我こそは地球を守りに来たウルトラ一族なり!」と主張を続け、おずおずと「よそでやってください」と懇願する地球人たちに対してだけは口を揃え、「このネトウヨ星人め!!」と絶叫を続けながら。
     最後に、ぼくが本書で一番笑ったところを紹介しましょう。

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     北原師匠が楽しそうで、何よりです。
     もちろん本書、「まなざし村」と言った言葉も全く、出てきません。
     危機感は一切、ないのでしょう。
  • トンデモ女性学の後始末

    2017-11-17 23:242
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     ――さて、続きです。初めての方は前回記事からご覧頂くことを強く推奨します。
     前回記事で充分に明らかになったことと思いますが、「フェミニズム」とは地上最大の「妄想社会学」であり、基本的な部分で「疑似科学」と全く同じ性質を持っていると言えます。
     前回五つ目までご紹介した、「フェミニズムをめぐる10のファクト」の残りをご紹介することにしましょう。

    ファクト6
    知的な職業に就く人も多い

    「フェミニスト」に「知的な職業に就く人も多い」のは、もう説明するまでもないでしょう。
     しかし、オウム真理教の幹部に高学歴な者が多かったことが象徴するように、トンデモさんについてもこれが当てはまるのです。例えば、前回(『トンデモ本の世界F』。以降、『F』と略記)
    に採り挙げた紫藤甲子男氏は東海林さだお氏などと同期の大ベテランの作家、漫画家ですし、後述する谷口祐司氏も世界発明エキスポ銀賞、大阪府知事賞、厚生大臣賞などを受賞しています。他にもプロの科学者、弁護士、牧師など社会的に立派な人物がトンデモ本の作者である例は枚挙に暇がありません。
     何故か……となるとまあ、一口に説明することは難しいですが、一つに「それが流行りだった時期があったから」ということは言えようかと思います。例えば1950年代、UFOは今からは想像できないほどに人々にとっての大きな話題であり(この頃は「UFO」ではなく「空飛ぶ円盤」と呼ばれていましたが)、ホンキで信じていた人も大勢いました。それは一つには宇宙開発など科学力による人類の発展が強く信じられていたからであり、UFO研究団体「日本空飛ぶ円盤研究会」には、三島由紀夫、石原慎太郎、徳川夢声、星新一、黛敏郎、黒沼健とそうそうたるメンバーが集っていました。
     この頃、「空飛ぶ円盤」は何だか知的でナウい装いをまとっていたのです。
     そう、それは丁度、「ジェンダー」という言葉が知的でナウいモノとして登場してきた時の、かのイデオロギーと同様に。
     もちろん、今となっては「なんであんなものを信じていたんだ?」という感じのUFO(でありフェミニズム)ですが、年寄りにしてみれば捨てがたい。何のかんの言って上の世代には潜在的な信者が、何かきっかけがあれば反原発デモのように集まって騒ぎたい、と思っている人々が多い、ということなのでしょう。
     つまり、そこから必然的に――。

    ファクト7
    メジャーな勢力にも影響を与えている

     ――ということになるのです。
     原田実師匠が目の仇にしている「江戸しぐさ」、これは文科省の道徳教材にも採り挙げられましたし、『水からの伝言』もまた、小学校の道徳教材に使われたといいます。
     しかし更にコワい例としては、宇宙人や地底人とコンタクトしていると自称し、北朝鮮を全面肯定している中丸薫氏という人物に(拉致問題も、日本がごね続けているのが悪いのだと断言している!)、菅沼弘光氏という元公安調査庁調査第二部長である人物が心酔しており、対談本などを積極的に出しているという事実があります。
     大変にオソロしい話ですが、これらからぼくたちが得るべき教訓は何でしょうか?
     そう、それはフェミニズムが学問上の立場を確立しているからといって、信ずるに足るものであると考える理由にはならない、ということですね。
     仮に疑似科学本に対しては極めて論理的にツッコミを入れ、見事な批判をする人物でも、その人物のフェミ評が論理的かどうかは……。

    ファクト8
    愛を謳うが、実際には憎悪に満ちている

     これも前回(『F』)で述べました。もっとも、その時にご紹介したのはどちらかといえば社会に対する「憎悪に満ち」、それ故に終末を待望するネガティブなイメージの本でした。今回は補足の意味で、ポジティブに「愛を謳う」傾向が強いものをご紹介しましょう。
     先にちょっと述べた育児研究家の谷口祐司氏は、『トンデモ本の世界Q』及び『R』に続けて紹介されています。彼は妊婦に「胎教瞑想」というものを指導し、それによって胎児とテレパシーで会話できるようになると説いているのです。

     この本を手にされたお母さん達は、選ばれた地球改革の主人公を生み育てるマリア様なのです。(8ページ)

     というのが谷口氏の主張です(上はあくまで『Q』の83pからの、氏の著作の孫引きです)。
    選ばれた地球改革の主人公を生み育てるマリア様」!
    この世界がすべての人にとって優しい世界になることを目指すための運動」という言葉と、何と似通っていることでしょう(この話題については『F』参照)。いずれも、正常な人間が口にしたら、口が腐るであろう甘言です。
     同時に彼は二十一世紀には宇宙人との交流が深まり、受講者の妊婦さんの子供たちはその先人となる、十歳から十五歳くらいで宇宙学の先生になる、とも言います。ちなみにそう書かれた本は97年の出版。たった数年後にものすごい変化が起こるのだと説いていたわけですね。テレパシーといっても当然、第三者に確認できるものではなく、全ては「聞こえた」と称する人の主観に委ねられる性質のものなのですが。受講者は同様に、自分の幼い子供の「昨晩、UFOに乗った」といった、普通に考えれば夢を見たのだとしか思えない話を全部信じているといいます。
     以上について、山本弘師匠は極めて冷静に分析しています。

    しかし、谷口氏のセミナーが人気を集める理由がわかる気もする。自分が「選ばれた地球改革の主人公を生み育てるマリア様」だとおだてられ、虚栄心をくすぐられるのだろう。
    (87p)

     ここまでなら谷口氏の思想は「母親たちの甚だしく幼稚なナルシシズムの受け皿」で済ませられるのですが、当然更なる邪悪な側面を持っています。『R』で紹介された彼の教えによれば、2000年には天変地異が起こり、地球人の90%は死ぬといいます。しかし当然、心の清い人だけはUFOに救われる。そして心の清い人になるためにはもちろん、彼の教えを守ればいいわけですね(ちなみにその教えは心を軽くするため、「イェイェイェ!」とツイストを踊るというものだそうです……)。また、著作では「強姦されても子供は生まれない、妊娠した場合はその被害者女性がカルマを背負っているのだ」「子供のアトピーは母親の魂が汚れていることが原因だ」などといった非常識な主張がなされています。言わば彼のセミナーは、幸福なお母さんたちの母性エリーティズムの苗床となっているわけです。ちなみにこうした「トンデモ母性エリーティズム」というモノには一定の需要があるようで、『トンデモ本の逆襲』において七田眞氏の、上とかなり近しい内容の著作が紹介されてもいます。
     そして、フェミニズムはこれらと、どこまでもよく似ています。いずれも甚だしく勘違いした、幼稚なナルシシズムを根底に置いたエリーティズムなのですから。谷口氏の思想には極めて濃厚にニューエイジの影響が見て取れますが、フェミニズムそのもの、或いはフェミニズムに対するリベラル男性の妄信もまた、ニューエイジ的な女性性に対する信仰心に基づいているとしか思えない。80年代のSF、またそこに登場するヒロインにはニューエイジ的価値観が濃厚であることは『ズッコケ三人組』のレビュー*1をしていた時期、繰り返し述べましたが、山本師匠など一番この辺に影響されている世代でしょう。
     違うのは谷口氏の受講者が「幸福なお母さん」であるのに対し、フェミニズムが女性ジェンダーから逸脱した人たちによるものである点。その意味で谷口氏のセミナーとフェミニズムは完全に線対称な存在、と断じていいように思います。ただ、谷口氏は受講者に自宅出産を推奨し、死亡事故を何件か起こしているのみなのに対し、フェミニズムはそれを遙かに上回る災厄を世にもたらしている点は、大いに異なりますが……。
     山本師匠の「この世界がすべての人にとって優しい世界になることを目指すための運動」というフェミニズム定義には度肝を抜かれました。憎悪と怨念の権化としか表現のしようのない存在に対して、一体どれだけの勘違いを積み重ねたら、そのような評価ができるのか。しかしそれも、谷口氏のセミナーを見れば了解可能であるように思えます。師匠はフェミニストたちの口から語られるおぞましい選民思想を「マイノリティへの愛」と読み替え、今日も「魂を軽くしてイェイェイェ!」と踊り続けているのです。
     むろん、それは師匠に限ったことではありません。「フェミニズムは全てのマイノリティのための運動」的なお為ごかしは、みなさん大好きでいらっしゃいます。ろくでなし子師匠が同様のことを言い、しかし反論されるやバイセクシャルに対して「動物愛護団体に行け」と口汚く罵ったこと*2はみなさんご存じのことでしょう。そもそも彼女は著作でも(幼稚なナルシシズムは言うに及ばず)オタクを馬鹿にしきっているのですが*3、オタク界のトップって普段はオタク差別に反対しているフリをしているのに、どうしてあんなにろくでなし師匠が大好きなんでしょうね(いや、理由はわかりきっているんですが)。

    *1 「ズッコケ三人組シリーズ補遺」の『ズッコケ時間漂流記』の項など。
    *2(https://twitter.com/6d745/status/764471138181263360
    *3(https://twitter.com/6d745?visibility_check=true

    ファクト9
    その憎悪には、根拠がない

     大変残念な話ですが、彼ら彼女らの「愛」には一切、根拠がありませんでした。
     しかし更に哀しいことに、彼ら彼女らの「憎悪」にもまた、一切の根拠はないのです。
     秋山眞人という「超能力者」がいます。近年、テレビ番組で超能力者を「いじる」ことが定番になりましたが、その種の番組に出てはやたらと怒ってばかりいるというキャラのついた人です。超能力を馬鹿にする否定派(この人たちにもぼくはあまり好感が持てないのですが)に対して、「我々エスパーはずっとそうした偏見に晒されてきたんですよ!」と憤り、退席してしまう姿が印象的です。
     彼のそんな時の情念が、ぼくには非常にリアルに迫ってくるのです。
     いえ……それでは表現が不正確かも知れません。「その情念は非常にリアルだが、その根拠は非常にアンリアルだ。が、だからこそ余計にその情念にリアリティを感じてしまう」とでも言うべきでしょうか。
     フェミニストにもオカルト関係者にも、その深層心理には現世への深いルサンチマンが隠れていることでしょう。
     しかしそのルサンチマンは、例えば「愚かな世間の連中は、俺の才能を認めようとはしない!!」と憤るが別に「才能」など持っていないといった感じの、凡人の根拠のないものであるように、ぼくには見えます。
     例えばですが、クラスの中で自分の居場所が見つけられない中学生が、超能力者を自称して、注目を浴びるようになった、といったエピソードはかなり普遍的なモノなのではないでしょうか。近いことは伊集院光のラジオ番組、『深夜の馬鹿力』などでも時々話題に出ますし、秋山氏自身がユリ・ゲラー来日の際にスプーン曲げの能力に「開眼」したことに出自を持っています。
     そう、そんな超能力少年も当初は「クラスのみんなが冷たい」といったささやかな、しかしリアルなルサンチマンを根拠に超能力を「開眼」させたのかも知れません。ですが「超能力者」キャラを作ってしまうと自我が際限なく肥大化し、「異端者であるが故に言われない偏見と差別と迫害を受けてきた無辜の被害者であるエスパー」といった物語を紡ぎ出すようになる。だんだんと、膨れ上がったナルシシズムと憎悪とがわけのわからない方向へと、根拠のない噴出を始めてしまう。
    「憎悪に満ちている」ことそれ自体を取り出してみるならば、ぼくはあまり、彼ら彼女らを嫌う気にはなれません。しかしながら実際には彼ら彼女らは自らの抱えている憎悪について驚くほど無自覚であり、自ら(の教祖)を女神のごとく慈悲深い人物だと露ほども疑わず、「愛を謳」い続ける。ぼくにとってはそこが何よりも不快であり、また危険であると思われるのです。

    ファクト10
    彼ら彼女らの情緒的整合性には、極めて適った思想である

     いろいろと事例を挙げてきました。
     いずれも頭のクラクラするような「トンデモ」ぶりですが、それらは同時に哀しくもあります。ちょっと頭のいい人ならば彼ら彼女らの奇妙な主張の動機は、「ファクト9」で述べたようなものであると、窺い知れてしまうことでしょうから。
     彼ら彼女らは「ファクト1」で述べたように、論理と事実から完全に乖離している、いやむしろ乖離することそのものを目的として、「ファクト2」にあるような振る舞いに及んでいる。
    「ファクト3」と「ファクト4」の相矛盾する特性も、「ファクト5」のような傾向も、彼らが論理や事実を否定し、自分がチートできる「異世界」に「転生」しているが故のことでした。
     3、4を見てわかるのは彼ら彼女らが「偉大なる者と、それに選ばれたワタシ」という物語を希求しているということです。ノストラダムスもフェミニストも「異世界」の中の偉大なる者であり、虚構の世界の住民票を手に入れるためには、そうした人たちの覚えをめでたくする必要があるわけですね。
     そして……それらの根底にあるのは「ファクト8」「ファクト9」で述べた心理状態です。
    『トンデモ本の世界』で忘れられない図があります。広瀬謙次郎氏の『ヘンリー大王とヤマト救世主(メシヤ)』という本に出て来る、近未来の日本列島の地図。それは天変地異の挙げ句、伝説のムー大陸が浮かび上がり、日本とつながるとの予言に基づいたものでした。朝鮮、台湾、樺太、千島列島などもまた日本列島とつながり、みな日本の領土となる、という図です(樺太などは南北で両断され、癇性にも南だけが日本とつながります)。ちなみに欧米や中国大陸は海に沈むのだそうです(笑)。
     そして日本は宇宙人たちとの交流の中心地となり、「宇宙大陸ヤマト」と呼ばれるようになるのであった!!
     な、なんだってーーーーー!?
     レビュアーの藤倉珊氏が「著者がどういう願望を秘めているか、ひと目でわかる世界地図である。」と鋭く突っ込んでいたのが印象的です。
     そう、「トンデモ」は人間の心のうちに秘めた欲望の、忠実な反映でした。
     フェミニズムの主張もまた、ということは言うまでもないでしょう。彼ら彼女らの主張に事実や論理の反映があることは極めてまれですが、彼ら彼女らの「心的現実(要するに願望)」は常に非常に忠実に反映されている。多摩湖師匠の読んでいて赤面してしまうアジテーションはその好例であり、彼女らに対するリベラル君たちの、どう考えても正気を保っているとは思えない帰依もまた、そうです。
     多摩湖師匠は、「敢然とエスパー差別に立ち向かうエスパー」でした。もちろん、彼女の超能力が実在のものかについては、お察しなのですが。
     フェミニズムの描く、「男尊女卑社会」もまた、「エスパー差別が行われるディストピア」でした。言うまでもなく、エスパーが実在するかについては、お察しなのですが。
     彼ら彼女らの「心の目」には日本が先の地図のように朝鮮や台湾とつながって見えているのです。
     フェミニストたちは「ボクの望む未来」を予言してくれる女ノストラダムスであり、「愛を謳う」善なる宇宙人なのだ、といえます。
     一歩引いて見れば彼ら彼女らの描く未来図は現世を否定し、全てを破壊する種類のものなのですが、それに対する自覚は当然、ありません。
     彼ら彼女らはこれからも自らのエゴにも憎悪にも気づくことなく、自らこそがカタストロフを望み、引き起こそうとしている存在であることにも気づくことなく、自らをカタストロフ後の世界の救世主、「全ての人に優しい世界を作る運動」の主体であると信じ続けるのです。
  • トンデモフェミニズム本の世界

    2017-11-11 20:06
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    フェミニズムをめぐる10のファクト

     さて、「トンデモフェミニズム」と書いたモノの、フェミニズム自体がトンデモなわけで、この言葉自体が「頭の頭痛が痛い」みたいなものなのですが、ここではトンデモ、つまり疑似科学などへの妄信と、フェミニズムへの盲信とを比較、それらの共通点を見ることで両者が同じ構造を持っていることを指摘していきたいと思います。本稿を読み終えた時、あなたはきっとフェミニズムがオカルトの一種であり、その中でも最も非論理的で非理性的で反社会的なモノであると理解していることでしょう。

    ファクト1
    都合の悪いファクトは目に入れない

     初っ端からナンですが、これは前回(『トンデモ本の世界F』、及び『トンデモ本の世界G』。以降、『F』、『G』と略記)に詳しく述べました。
     フェミニストは自らの過ちを絶対に認めないし、自分にとって都合の悪いファクトを絶対に認めません。そもそもフェミニズムそのものが最初から間違っており、しかしながらそれを認めることができないのですから、後はファクトを否定していくより仕方がないのです
    『トンデモ本の世界』では清家新一という人物について一項が割かれ、解説されています。UFOを製作しようとしているトンデモ科学者なのですが、京大の学園祭で講演をしたことがあります。「学園祭での講演で、京大が招いたわけではない」とあるので、恐らくサークルから面白半分に招かれたのでしょう。
     しかしそこで彼は、受講者に矛盾を突かれても、平然と講義を続けたと言います。

     すべてこの調子である。答えられない質問が来ると、急に黒板に公式を書き始め、まったく関係のないことを喋り始めるのだ。わざとごまかしている様子はなく、天然のパフォーマンスであるらしい。
    (293p)

     これはまた、「終末予言」を唱える人たちにも同じことが言えましょう。『トンデモ本の世界』には「富士皇朝」についてもレポートがありました。オウム事件に掻き消された感もありますが、復古主義を唱え、ホンキで政府転覆を企んでいた危険な団体です。この会の構成員も「1994年6月24日、東京に大地震が起こる」との教祖の予言を信じ、それに乗じたクーデターを企んでいました。が、当然、地震などは起こらずとんだ肩すかし。しかし教祖の「自分は予言をカタカナによって発したのに、信者たちがそれをひらがなで発音し、伝えたがため、予言が成就しなかった」という声明に、信者たちは納得していたといいます(いや、読んでるあなたも意味がわからないでしょうが、ぼくだって書いていてわかりません。ただ、彼らはそれで納得したのです)。
    『トンデモ大予言の後始末』は2000年に出されたノストラダムス騒動について書かれた本ですが、ここにも予言が外れた研究家が、何ら反省のなかった様子が繰り返し書かれています。
     フェミニストもこれと同様です。彼ら彼女らが数分前に言ったことを平然と翻し、ログが残っているのにそれを全く気にする様子もなく勝ち誇っている、自分の言ったことをその場で明確に否定する証拠を提出されても、過ちを認めることなく話題を変えるのみ……といった様を、ぼくたちは無限回数目にしてきました*1
     彼ら彼女らの脳には、同じメーカーで作られたファイアーウォールが入れられているとしか、考えようがありません。

    *1 本当に枚挙に暇がないのですが、ここでは小山エミ師匠の「自分の言ったことを直後に翻し、しかし自覚が全くない」という驚くべき振る舞いを挙げておきましょう。
    「オカマ」は女湯には入れるのか?
    「オカマ」は女湯には入れるのか?Ⅱ

    ファクト2
    夥しい虚構の体系を築き上げている

     と学会の誇るデバンカー(オカルト解明家)、皆神龍太郎さんは『トンデモUFO入門』で以下のように述べています。

     僕がUFOを面白いと感じるのは、たとえばロズウェル事件なんか、ものすごくたくさんの証言やデータがあって、内容的にはガチガチに固まっているわけ。それらを読めば、UFOは墜落していて、宇宙人の死体がどこかに隠されているとしか思えない。でも、「なんかヘンだな」と思う小さな穴を見つけて、それに指を突っ込んで徐々に拡げていってみたら、最後には全部が嘘と勘違いだらけの瓦礫の山に変わっていってしまった。まったくの虚構の上に、巨大な帝国が築かれていただけ、ということが一望に見渡せるわけなんだ。これがなかなか気持ちいいんですよ。
    (215-216p)

     ロズウェル事件というのは1947年、UFOが墜落し、米軍がそれを回収したとされる事件です。が、そのUFOは単なる米軍の気球でした。実のところすぐにオチがついて忘れ去られていたのが、80年代になってから「俺は宇宙人の死体を見た」などと言い出す人物が現れ、蒸し返された事件なのですが、そうした証言者たちはとても信頼の置けない人物ばかり。何しろUFOの墜落地点自体が、この人たちの証言のおかげであちこち複数に渡る結果になってしまいました。
     彼らは実に熱心に証拠を「捏造」します。そして「信者」同士でその「証拠」を引用しあいます。元はチラシの裏にマジックで書いたような「政府文書」でも、そうする内に「何か、みんな言ってるし」「いろんな本に書いてあったし」と嘘が信憑性を帯びてくることになるのです。
     こうした嘘にはまた、もう一つの傾向があります。
     ジョージ・アダムスキーをご存じでしょうか。いわゆる「アダムスキー型のUFO」に乗った金星人と友だちになったと自称し、その金星人の説く「宇宙哲学」を広め、教祖的存在に収まった人物です。が、彼はかつて(UFOと遭遇するよりずっと前に)SF小説を書いており、その内容が金星人との遭遇や、その金星人が語る「宇宙哲学」とそっくりだったのです。
     普通はここで「ははーん」となるところでしょうが、アダムスキーは「そのSF小説は幽体離脱してUFOに乗った時の体験を書いたものだ、と説明しました。仮に幽体離脱を信じるにせよ、「では何故、その時は小説という形で発表し、二度目は実体験であると称したのか」、「一度幽体離脱して経験したのとそっくりな経験を、もう一度繰り返すのって何かヘンじゃないか」などいくつも疑問が湧き上がってしまいますが、信者たちは納得したようです。この種のオカルトを体験したと称する人物は、疑問点を突っ込まれては言い訳を繰り返すというのが常なのですが、その言い訳は「一応、その場の対処療法的な説明はなされているが、一歩引いて見ると不自然極まりない」という特徴があるようです。それはつまり、目的が既に「本当にUFOに乗ったのか」という疑問を究明することではなく、「UFOに乗った」という大前提を守ることにすり替わってしまっているからでしょう。
     フェミニストの主張もまた、これと同じです。「嘘に嘘を重ねるためわけのわからないモノになっていくが、本人たちだけは自分のついた嘘を信じ込んでいる」という彼ら彼女らの奇態はネットを見ているだけで明らかです。
     彼ら彼女らは今まで、「ラディカル/リベラルフェミニズム」についてのデマ、「ツイフェミ」「まなざし村」などといった(無意味な)用語の捏造を続けて来ました。多摩湖師匠は最近、「ネオリブ」という概念を提唱しています*2。本人の弁によればフェミニズムに失望し、見切りをつけ、新たな運動を始めるのだということですが……その言は幼稚な自己肯定感に酔ったポエムというべきもので、「ネオリブとは要するに何なのか、フェミニズムとどう違うのか」は、見事なほどに一切伝わってきません。
    「ネオリブ」をウィキで検索してみてください。「中ピ連」の項目に飛ばされます。「中ピ連」といえば70年代に活動していた「ウーマンリブ」団体であり、「ネオリブ」とは彼女らが出していた機関誌の名前。つまり「ネオリブ」という名前自体が遙かな昔に既に使われていたものなのですが、更に「ノート」*3や「削除依頼」*4を見ていくと興味深い事実がわかります。どうもごく少数の「信者」が多摩湖師匠のつぶやきを根拠に新たに「ネオリブ」という項目を作ったものの、根拠薄弱として削除されてしまったらしい。ハクをつけようとして小山エミ師匠のコメントにもリンクしたものの、「関係ないだろ」とツッコミを受けてしまった痕跡もあります。
     そう、ことほどさように「嘘も百回つけば本当になる」がUFO信者、そしてフェミ信者のやり方です。
     フェミニズムは、虚構の上に築かれた、巨大な帝国だったのです。

    *2「ネオリブの産声
    *3「ノート:ネオ・リブ
    *4「削除依頼/ネオ・リブ

    ファクト3
    往々にして、他のトンデモさんへの反論は当を得ている

     近年の、(少なくともネット世論における)フェミニズムの評判は、「地に落ちた」との表現がぴったり来ます。何しろ、ぼくが「オタク界のトップ」と呼ぶような連中までフェミニストを批判するツイートをしていたりします。名前を挙げることは控えますが、お堅い職業に就いて、表現の自由を守ると称する運動に関わっている人物までが「フェミニスト」を主語にした批判ツイートをしていたのは、さすがに驚きでした。
     が、ぼくは常に彼らに対して否定的です。それは言うまでもなく、彼らの「フェミニズム批判」とやらが「フェミニズムがポルノを攻撃する」点にのみ動機づけられた他愛ないものであり、フェミニズムの全体性を批判する視点を持ち得てはいないからです。彼らはまなざし村、ツイフェミといった言葉を捏造することに実に熱心で、ここにフェミニストを延命させるという秘められた目的があることは、自明だからです。上の人物もまた、裏ではフェミニストの悪事を隠蔽するための陰湿な脅迫活動に従事しておいででいらっしゃいます。この辺りは何度も書いているので、細かいことは省略しましょう。
     ただ、しかし、それにしても。
     見ていて彼らの「フェミ批判」、そしてまた彼らの持ち上げる「真のフェミ」の発言などは、それ自体は頷けることが多い(ただしこれは、ただ単に観念的なキレイゴトを並べているだけだからという側面も、当然あります)。
     そしてこれはそのまま、トンデモさんの特徴でもあるのです。
     前回(『G』)でも指摘した通り、トンデモ本シリーズを読んでいると、山本師匠は本当に幾度も幾度も「トンデモさんは自分に当てはまる言葉で相手を批判する」と繰り返しています。が、これは逆に言うと彼らが「普段は知的だが、ある一点にだけは平静さを失っている」ということでもあるのです。
     武田了円というお坊さんがいます。彼の著作は『トンデモ本の世界』、『トンデモ本の逆襲』の二冊に渡りされており、そこにはお札(日本で使われている普通の紙幣)に悪魔の顔や性的なシンボルが描かれており、そのサブリミナル効果で日本人は洗脳されている、そしてその黒幕はニャントロ星人だ、といったとんでもない主張がなされています。しかし、彼はそこまでぶっとんだ主張をしながら、アダムスキーなど他の宇宙人実在論者たちの話は否定するのです。山本師匠も(武田氏をこき下ろしつつも)その箇所については「この分析はなかなか鋭い」「同感!」と賛意を示しています。
     また、ノストラダムス研究家同士も、予言詩の解釈について争ったりします(確かと学会の本で、テレビ番組でそのような事態が起こったことを面白おかしく描写していたものがあったはずなのですが、今回は発見できませんでした)。
     もっとも、これについては不思議がることではありません。武田氏は「宇宙人悪者派」なのだから、「宇宙人救世主説」を唱えているアダムスキーなどとソリが悪いのは当たり前。ノストラダムス研究家にしてもバイブルの盲信者が、互いに相手のバイブル解釈を巡って罵りあっているだけで、当たり前すぎるほど当たり前な光景でしょう。
     そしてそれはポルノ反対派のフェミニストと、ポルノ容認派を自称するフェミニストが争うのと全く同じです。一歩引いて見れば同じ穴のムジナの、ちょっとした立場の違いによる「コップの中での大バトル」にすぎないのですが、渦中にいるものはついつい、争いが大きなモノであるかのように錯覚してしまっているというだけのことなのです。

    ファクト4
    互いに矛盾しあう説を両方信じる

     そしてまた、彼ら彼女らはこうした矛盾に満ちた精神状態に陥ることがあります。
     これは「ファクト3」に真っ向から相反する現象に見えて、実は全く同じ理由によるものであるといえます。
     近年、エマ・ワトソンがフェミニズム批判めいた発言をして話題になりました。この時のフェミ信者たちのリアクションは、大変におかしなものでした*5。ワトソンの舌鋒鋭いフェミ批判に対し一体全体どういうわけか、「このような発言をする者がいるから、フェミはやはり正しかったのだ」とのアクロバティックな解釈をしてしまったのです。
    「そうだ、これだからフェミはダメだ」と肯定するなら、或いは「ワトソンの発言は不当だ、何となればフェミは正しいのだから」と否定するなら、(全体としての整合性は置くとして、その場の)辻褄はあっています。しかし彼らの言い分をそのまま解釈すると「エマも、従来のフェミも両方とも正しい」とのおかしな理屈になってしまいます。いえ、彼ら彼女らはこう指摘されても、それのどこがおかしいのかすら、理解がおぼつかないことでしょう。
     しかし、これはトンデモさんにも見られる傾向です。
     例えば『週刊現代』。『トンデモ大予言の後始末』によれば、当時の編集者さんの中にトンデモさんがいたらしく、98年から99年にかけてやたらとノストラダムス特集を組んでいたのです。が、誌上に登場した「ノストラダムス研究家」は多数に渡りましたが、1999年7の月に何が起こるのかについては、みんな言うことがバラバラ。地震や洪水、火山の噴火、隕石、宇宙人の侵略、ユーゴ紛争の激化、グランドクロスによる異常現象。一体どれがホントの「恐怖の大王」なんだ!?
    「真に信ずる研究家」の言だけを掲載すればいい話なのに、何故こんな百花繚乱の様相を呈してしまうのか。誌面にバラエティを持たせるため? ならばお馴染みの肯定派否定派のバトルにすればいい。ノストラダムス自身は信じているが、いずれの解釈が正しいかは決めかねているから? それもおかしい。「ノストラダムスの予言が信じるに足る」と考えるには既に当たった予言があるという前提があるはずであり、その当たった予言を解釈した者だけを信じればいいはずです。
     ならばやはり、編集者は互いに相矛盾する予言をいずれも信じている……ということになってしまいます。
     結局、ノストラダムス研究家が予言を外しても「今度こそ当てよう」と懲りずにまたノストラダムスの本を開くのと同様で、(また、先のアダムスキーの言い訳と同じで)彼らは「何か、とにかくノストラダムスは正しい」という大前提を守ることだけが目的化していて、その内実は実のところ、どうでもいいのでしょう。それは「エマ・ワトソンを称揚するフェミ信者」の心性と「完全に一致」しています。

    *5「エマ・ワトソンのHeForShe国連演説と弱者男性論について(CDBさんVS青識亜論 +借金玉さん)

    ファクト5
    自分が依って立っているはずのものについての知識が皆無

     フェミ信者がフェミニズムに対する知識を全く持っていないことは、前回お伝えした(『F』)山本師匠の発言からもわかります。
     そしてこれがトンデモさんにも共通の特徴であることは、山本師匠が繰り返し述べています。彼は「UFOビリーバーは無知だ、UFO事件として大変有名な○○事件も知らない」といったことをよく書いています。もっとも、何しろ博学な山本師匠のことですから、彼の挙げる「○○事件」については、困ったことにそれなりのUFOマニアのつもりのぼくも知らないことが大半なのですが……。
     ただし、これについてはちょっと違うな、と思う部分もあります。「UFOビリーバー」は、例えばアダムスキーならアダムスキーだけが正しいとして、他のUFO事件は嘘であるとしていることが多い。となると山本師匠の言は宗教学者がキリスト教の(熱心な、しかし末端の)信者に「お前は宗教が好きなくせに仏教のこれこれの説話も知らないのか」と言いがかりをつけているのと同じです。
     ただ、更に言えば「フェミ信者」の多くは例えば素朴なピル神の信者であったり、或いは彼らに影響を与えている左派言論人がフェミ信者であるから、それを鵜呑みにしているだけであったりするのが実情です。だからぼくが山本師匠を「フェミについて知らないのか」と詰るのもまた、宗教学者がキリスト教の(熱心な、しかし末端の)信者に「お前は宗教が好きなくせに仏教のこれこれの説話も知らないのか」と言いがかりをつけているのと同じなのかも知れません。

     ――さて、10のうち、ようやっと五つまでをご紹介しましたが、ここまででそこそこページを消費してしまいました。
     残りの五つはまた来週と言うことで……。