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  • お知らせ

    2016-12-30 19:514

     ネットマガジン『ASREAD』様でちょっと書かせていただきました。
    ウルトラ兄弟のつるの剛士は「日本死ね」に賛同しないので「弱者の敵」ということになりました」です。
     ちょっと時期を逸しましたが例の問題について。
     ともあれご一読いただければ幸いです。
  • 2016年女災10大ニュース

    2016-12-23 20:494
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     みなさん、新年明けましておめでとうございます。
     いよいよ新しい年の始まりです(ry
     というわけで恒例の10大ニュースです。もっとも、一般的なトピックスはあまり扱いません。
     あくまでぼくの目に止まった、ぼくが重要であると感じたネタが採り挙げられることになるのは、例年通りであります。

    【第10位】日本死ねブーム

     はい、第十位はこれです。
     確か、最初は年度初頭にとあるブロガーさんが書いたフレーズ、「保育園落ちた、日本死ね」が話題になり、そしてまた年末、流行語大賞で蒸し返された、という経緯じゃなかったでしょうか。
     そもそも保育園自体が増やされている、また育児施設が足りないと行っているのは都心のパワーカップルだけではないか、などといった疑問*1を全てスルーして、左派の人々が全力でこの「流行語」を支持している様が、大変に奇観でした。
     もちろん左派思想とフェミニズムは完全にイコールではないし、あまり「左派ガーーーー!!!」みたいなことは言いたくないのですが、本件は近年、いよいよ左派が依って立つ根拠を失い、フェミニズムという今にも沈みそうな小舟にたかっているということの、一つの例ではないでしょうか。彼ら彼女らの姿は見ていて気の毒であると共に、いよいよ船の沈むことが確定した時、ものすごい逆切れを始めそうだとの予兆も感じさせ、何だかきな臭いですね。

    *1 詳しくは「なぜ保育園を増やしても子供の数は増えないのか ~少子化問題の本当の原因~(http://asread.info/archives/3152)」などを参照してください。

    【第9位】『シン・ゴジラ』ブーム
    【第8位】『君の名は』ブーム

     これらについてはASREAD様で詳しく書かせていただきました*2
     基本的には両者とも、大衆が一般的な男女ジェンダーに基づいた物語を求めていたことの証明である、とまとめてしまうことができるかと思います。その意味でぼくは『シン・ゴジラ』は『シン・レッドマン』、『君の名は』は『シン・トリプルファイター』である、と論じました。
     もっともそれ故、『君の名は』はロマンチック・ラブ・イデオロギーに忠実な、ある意味では「萌え」以前の物語となってしまっています。
     岡田斗司夫氏は「萌え」の本質を「男女平等」であると喝破しました。ロマンチック・ラブ・イデオロギー(という名の、リアル世界のルール)は「女の子をゲットするために、男の子は犠牲を払う必要があるのだ」という「女尊男卑」だから、というわけです。
     基本、良作とも極めて優れた作品であり、またヒットは大変喜ばしいこととは言え、『君の名は』の成功により、閉塞感の漂うオタク業界が「萌え」を捨て、ロマンチック・ラブ・イデオロギーに回帰するのでは……と考えると、ちょっとぼくとしては不安です。

    *2 以下がASREAD様の当該記事へのリンクと、取りこぼした所見です。
    http://ch.nicovideo.jp/hyodoshinji/blomaga/ar1135329
    http://ch.nicovideo.jp/hyodoshinji/blomaga/ar1088024

    【第7位】ヒラリー終了
    【第6位】町山師匠終了

     これも「左派が云々」といった類の話題ではあるのですが。
     まず、ヒラリー。何しろ政治に興味が無く、この人がガチガチのフェミニストだということ自体を、ぼくは知りませんでした。しかし今回の大統領選でトランプを支持した比率は、男性よりも女性の方が高かったとのこと。左派もフェミニズムも、完全にご神体にしていたはずの女性から見捨てられているということです。
     この大統領選における町山師匠の立ち振る舞いも、いささかお粗末なものであったことは、これもASREAD様の記事に書きました*3。ここで師匠はオタクを悪役に仕立て上げ、映画に対する女優さんが美人じゃないというブーイングを「女性差別」であると言い立て、左派がオタクの、「表現の自由」の敵であるという事実を誰の目にも明らかにしました。
     が、この後の師匠は「大麻を吸えばアニメキャラが動いて見える云々」といったツイートをして、また批判を浴びておりました。「ピンチになって慌ててオタクに媚びを売っている」ようにも、「自分がオタクから反感を買ったとは夢にも思わず、いまだオタクは格好いい俺様に憧れているのだという妄想に浸り続けている」ようにも思え、心配になってくるのですが、いずれにせよ見ていて気の毒であると共に、いよいよ船の沈むことが確定した時、ものすごい逆切れを始めそうだとの予兆も感じさせ、何だかきな臭いですね。

    *3 「サブカルがまたオタクを攻撃してきた件  ――その1 トランプを支持するオルタナ右翼とは?

    【第5位】男性差別ブーム
    【第4位】男性学ブーム

     すんません、いよいよ強引になって参りました。
     四位の「男性学ブーム」についてはおわかりかと思います。
     去年も今年も本ブログでは「男性学祭り」を開催し、「騙されるなかれ」との警告を発しました*4
     が、去年は田中俊之師匠の大活躍と、かつてのメンズリブについてのみ語っていたのに比べ、今年は田中師匠以外の著作が目立ったことが、採り挙げた書籍からもおわかりになるかと思います。即ち、「男性学ブーム」にそれなりに広がりがあったのでは……と思われるのです。
     五位の「男性差別ブーム」、そんなことはなかったぞと言われるとまさにその通りで、ぶっちゃけネタがなかったがためのでっち上げなのですが、例えば以下のようなニュースはどうでしょう。

    3人に1人が「男性差別」感じていることが判明 「女性専用車両」や「レディースデー」に不公平感を抱く人も

     ニコニコニュースで採り挙げられたものです。
     まあ、正直内容としては今更な感じではあるんですが、一般的なニュースサイトで、しかもイデオロギー色のないこのようなニュースが採り挙げられたこと自体は、それなりに価値があると思います。
     また同様に、本年は(想像するに先行する「男性学」と称する書籍のブームに影響を受けて)女性の書き手による「男性の辛さ」を語る書籍が何冊か出されました。

    海原純子『男はなぜこんなに苦しいのか
    奥田祥子『男という名の絶望 病としての夫・父・息子

     まあ、ぼくは『こんなに苦しいのか』と、奥田さんが大分前に出した『男はつらいらしい』を読んだだけで(奥田さんは去年も『男性漂流』というのを出されていました)、これらはあくまで女性が男性に取材したルポタージュ以上のものではなく(つまり、批評性という点において特筆すべき点はなく)正直、ぼくからするとあまり語ることはないのですが、これらは同時にフェミニズムやその下部組織たる男性学界隈の影響の希薄な、バイアスの比較的ないモノが多かったように思います。
     恐らくこれからもしばらくはフェミニストの使徒である「男性学」者か、そうでなくとも女性の書き手によってしか、男性についての本は書くことが許されない状態が続きましょう。
     いずれにせよ、こうした声はフェミニズムに回収され、抹殺されるというのが今までの流れであり、今回もまたそうなって行く可能性は充分にあります。
     ですが、ホンの僅かな可能性もあるのでは……みたいな期待で、一応本件を五位としてランキングさせた次第です。

    *4 去年のものは「夏休み男性学祭り」。今年のものは「秋だ一番! 男性学祭り!!」。「男性学」「田中俊之」などのタグで辿れるはずですので、興味がおありでしたら、どうぞ。

    【第3位】ツイッターレディース、まなざし村ブーム
    【第2位】リベフェミブーム

     はい、三位、二位とも「非実在なもの」に対するブーム、一種の「怪獣ブーム」とでも言えましょうか。
    「表現の自由クラスタ」の流布させ続けているラディカル/リベラルフェミニズムについてのウソについては、多くを繰り返しません*5。彼らがまた、それと類似の「フェミニズムの延命策」として、「ツイフェミ」だけが悪者で「真のフェミ」という名の正義の味方が他にいるのだ、とのデマを流していることについても、繰り返し述べています。
     が、上の「まなざし村」は恐らく去年の年末頃、そして「ツイッターレディース」については今年になって言われ出したことなので、ここにランクインさせました。
    「まなざし村」については以前の記事を見てもらうとして*6、「ツイッターレディース」について。
     実はぼくは具体的な「ツイレディ」について多くを知りません(追っかけている人たちに聞けばいい話なんですが……)。しかし「キンタマつぶし云々」であるとか「ジャップオス」であるとか、並外れて口汚く男性への憎悪が度を超している人たちを、そのように呼んでいるようです(商業誌で「男は死に見あうだけのメリットを得ている」「男は産業廃棄物」などと絶叫する「プロフェミ」の方が遙かに並外れて口汚く男性への憎悪が度を超しているように思うのですが……)。
     ぼくも一度絡まれたことがあり、恐らくこの人たちが「ツイレディ」なのかなと思われる共通項が何となくわかったのですが、彼女らには「アカウントは数ヶ月前に作られたもの」「フォロワー数などはごく僅か」といった特徴があるようです。あくまで想像ですが、これはフェミたちの「毒吐き垢」なんじゃないでしょうか。
     そしてまた、今年は「リベフェミ」ブームでもありました。
     そう、「表現の自由」クラスタは「リベフェミ」としてピルつき師匠を神であるかのごとく持ち上げているのですね。何しろ、原田実師匠すらもが彼女のデマを信じ、RTしていたのですから。実のところピル師匠についてはかつての(70年代頃の)ウーマンリブの事情について詳しかったり、業界で古株なのかな、と思えることがあります。その意味では、彼女は世代的に「リベフェミ」であると言えなくもないかも知れません。また、彼女の主な主張はピルについてのもので、となると彼女を「ピルにまつわる法整備を目指しているフェミニスト」と解釈した時、彼女を「リベフェミ」と呼ぶことは不可能ではありません。
     しかし、それだけでは、「表現の自由クラスタ」が彼女を殊更に持ち上げる理由が理解できません。彼女はものすごい限定的な主張をしているだけの、しかも社会的影響力のほとんどない人なのですから、彼女を持ち上げれば持ち上げるほど、「彼女以外、持ち上げるべきフェミがいない」ことがバレてしまう。
     また、そもそも、彼女はおっぱい募金に反対しており、またバッドフェミニストについても肯定的なことを言っておりました。「表現の自由クラスタ」は「リベフェミ」という言葉を意図的に「エロに寛容なフェミ」という意味にねじ曲げ、またピル師匠自身、そのイメージ戦略に乗っかっていますが、別に彼女はエロに寛容でも何でもなかったわけです。そうした人物を、「我らオタクの味方」と御輿に担ぎたい人たちの気持ちが、ぼくには全くわかりません。
     ぼくは彼女を、「テレビ番組に面白半分に採り上げられた田舎のラーメン屋」に例えてきました。事実、多摩湖師匠(最近目立ちませんが、持ち上げられているもう一人の「リベフェミ」です)が「これからリベフェミの時代が来る」的なツイートをしていたのを見たことがあります。
     しかし……言うまでもなくテレビ局の扱いというのは面白半分なもので、ラーメン屋は使い捨てにされる運命にあるのです。
     ぼくが彼女らの運命を案じる理由。それは、「表現の自由クラスタ」には他にも身近に「プロフェミ」がいるにもかかわらず、彼女らを「真のフェミ」であるとして担がないことが、極めて不自然だからです。
     著作がいくつもあり、学会や出版界での実績があり、オタク界に地位と影響力を持つ大勢のフェミニストたち。そんな彼女らの名前が「表現の自由クラスタ」の口に上ることがなく、翻って田舎のラーメン屋特集ばかりしている理由とは?
     そしてこれは、仮定に仮定を積み重ねた推論ですが、「ツイレディ」とやらがここ数ヶ月でいきなり「爆誕」した事実。それらはどう符合するのでしょう?
     去年、オタク界でそれなりの地位を持つ腐女子フェミニスト、柏崎玲於奈師匠がエロフィギアを批判して、「オタクの敵」として集中砲火を浴びました。
     誰かが、この悲劇を二度と繰り返すまいとして、策を講じた――といった空想を、ついしてしまいたくなるのです。

    *5 「重ねて、ラディカル/リベラルフェミニスト問題について
    *6 「まなざし村という言葉を使いたがる人たちをまなざしてみる
    京都地下鉄の萌えキャラにクレームをつけたのはフェミ…じゃなくて“まなざし村”!?

    【第1位】ミサンドリーブーム

     一位はこれです。
     前回述べた通り、世間で使われている「ミサンドリー」という言葉を調べていった時、そのほとんどは「男性差別」の言い換え、程度のものでしかないと思います。それは丁度、「ミソジニー」が「女性差別」の言い換えでしかないという、世にもお粗末な単語であるのと同様に。
     しかし「ミソジニー」という言葉にはある種の新しさがありました。それはフェミニストがこの言葉を発する時、例外なく「ワタシを、ワタシの望む形で愛さない男」という意味でのみ使っているということです。即ち、「ミソジニー」という言葉はフェミニズムが被愛妄想そのものであり、全男性が自分の欲望を満たすためのみに存在しているのだという妄想であるという事実を、どんな馬鹿にでも理解できるよう提示して見せてくれる役割を果たしたわけです。
     それと同時に、「ミサンドリー」という言葉は、元から男性と女性に「愛され格差」があるのだとの事実を指摘する意味たり得るわけです*7
    「ミサンドリー」とは「ツイレディ」とやらの特徴ではなく、フェミニスト全体の特徴であること、否、フェミニストのみならずリベラル君全体の特徴であること――いえ、それも正確ではないでしょう、彼ら彼女らフェミニスト、リベラル君はミサンドリーに取り憑かれた人々ではありますが、そこまで重篤ではなくとも、全男性、全女性が患っている普遍的な病であること。
     それをまず、認識するきっかけになるとすれば、この「ミサンドリー」ブームには決して少なくない価値があると言えるわけです。

    *7 詳しくは「秋だ一番! 男性学祭り!!(最終回.『広がるミサンドリー』)
    サブカルがまたオタクを攻撃してきた件  ――その2 オタク差別、男性差別許すまじ! でも…?
  • 秋だ一番! 男性学祭り!!(最終回.『広がるミサンドリー』)

    2016-12-16 21:308
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     長い間ご愛顧いただいた「男性学祭り!!」も今回が最終回となります。
     が! 実のところいまだ、『広がるミサンドリー』を読めておりません。先日、ようやっと三章までを読み終えたばかり。いつまで経っても終わりそうもないので、取り敢えず、この辺りで中間報告をしようと思った次第です。
     と言っても、正直現時点でのぼくの評価は、あまり高くありません。
     目次を見る限り以降の章も期待できないな……という印象なのですが、終章が「結論」となっており、ここで評価がひっくり返る可能性は大いにあります。
     今回はあくまでその前哨戦ということで、ご理解いただきたく存じます。

     ――本書を読んでいて思い出したのは、「男性差別告発本」(以降、「男性差別本」)です。
     具体的な書名を出すことは差し控えますが、ぼくが『女災』を出版する以前、「男性差別本」とでも称するべき書籍が五、六冊ほど出版されました。言うまでもなく学者や評論家などが出したものではありません。文章のプロではないと思しき方が、自費出版と思われる形で出したそうした書籍が、いくつかあったのです。
     ぼくとしては、その心意気を評価するにやぶさかではないのですが、内容は乱暴に言ってしまえば「○○は男性差別です、○○は男性差別です、○○も男性差別です、終わり」という感じで、あまり本として完成度が高い、批評性が獲得できているとは言い難いものがほとんどでした。指摘一つひとつは頷けるものが多いし、そもそも男性の窮状を表現しようとした時、既存のガクモンを援用すればフェミニズムの罠に絡め取られるし、何もない荒野に一から街を建設するが如き大事業が必要とされるのですから、そうそう辛辣に評しては悪いのですが。
     或いはここでドクさべを思い出してもいいかも知れません。「女性専用車両は男性差別です」という指摘自体は頷けるのですが、彼はそこで考えることを止めてしまい、そこに「一般女性への恫喝」というステキなトッピングを加わえ、全てを台無しにしてしまいました。

     本書もまた、上の「男性差別本」と、基本は変わりないように思います。
    「日本語版への序文」では

     イデオロギーフェミニズムは確かにこの問題(引用者註・男性問題)を悪化させはしたが、しかしこの問題の原因ではない。
    (6p)


     とあります。ぼくはまずこれに賛同します。
    「序論」とも言える第一章では、

     ミソジニーのようにミサンドリーは文化的にプロパガンダされたヘイトだ。
    (26p)


     とあります。
     以前にも「愛され格差」と表現したように、ぼくには男女のジェンダー差は超えがたいものであるように思えるのですが、とは言え、男性の株がここまで下がったのは近年のことであるのは事実で、一応、これにも首肯しておきましょう。
     もっとも上の文章の脚注で、著者は「ヘイト」は感情ではない、という摩訶不思議なことを言っています。これは恐らくフェミニズムが「ミソジニー」などといったフレーズを「攻撃呪文」として使う時になされる、「公共性のある表現は感情の発露であるに留まらず政治性を帯びる(ので、碧志摩メグは規制せよ)」というロジックの「パクリ」と思われ、だとするならば許容できません。が、この問題は七章で詳述するとの予告があるので、まずは置きましょう。
     以降も「男は男であるだけで断罪されなくてはならぬとされ、女は女というだけで救済されなくてはならないとされる(大意)(29p)」、「女はヒーローとして扱われ、男が肯定されるのは、改造され、去勢され、名誉女性になることによってのみのだ。男のための部屋は、この世にはない(大意)(30p)」などといった、非常に頷ける指摘が続きます。
     また、以下のような指摘もなされます。

     ポピュラーカルチャーにおけるミサンドリックな芸術や作品は、政治的な主張を必ずしも意図しているわけではない。大部分のそれは、既に私たちの社会に根付いている偏見をただ単に反映しているだけにすぎない。
    (30p)


     まさにその通りで、ここを忘れるとフェミニズムと同じ、「悪者がメディアを操り大衆を洗脳をしているのだ」という陰謀論に陥ることになります。彼女らが「カウンターとしてジェンダーフリー教育で子供たちを逆洗脳しよう」と企み、惨めな失敗を繰り返していることは、最近*1も述べたかと思います。
     以上、著者たちの視点は、是非は置くとして極めてラディカルで刺激的。
     ところが二章以降の言わば「本論」に入ると、申し訳ないですがいささか退屈なものになっていきます。そう、テレビのバラエティーショー、ドラマ、映画などを採り上げての「○○は男性差別です、○○は男性差別です、○○も男性差別です」攻撃が始まるのです。

    *1 「秋だ一番! 男性学祭り!!(その2.『男子問題の時代?』)


     第二章は「笑われる男性」。ここでは

     第六六回アカデミー賞授与式でされた司会のウーピー・ゴールドバーグのお決まりのコメディには以下のジョークが含まれていた。「次に紹介するプレゼンテーターの一人はサルの心を持っていた男を映画で演じた女性です、私の経験ではそのような男は珍しくありません。」「ロレーナ・ボビット〔夫ジョンの男性器を切断した〕は、是非ボブ・ドールにもやってほしい。」
    (54p)


     といった下品なジョークでいかに男性が笑われているかを紹介します(ボブ・ドールは共和党の政治家ですが、殊更にフェミに嫌われるような人なのか、調べてもよくわかりません)。
     第三章「男性への見下し」のリード文では

    私は男性が嫌いというわけではない。単に女性の方が優れているというだけだ。[…]とても賢い私の友人が訪ねた(原文ママ)。「すごく優秀な男性だけしか女性に釣り合わないことに気付いていた?」その瞬間、頭の中で火花が走ったわ。
    (85p)


     というアンナ・クィンドレン(『ニューヨークタイムズ』の記者)のインタビューを引用します。
     映画『シーセッド・ヒーセッド』には典型的な「男はダメだが女は進歩派」史観に基づいた男女が登場します。最終的にこの二人は結婚するが、男が結婚と共に性的自由を手放すのに比べ、女は何も手放しません。これはヒロインが一流の女性で、男の稼ぎに頼らなくていいため。著者はこの映画には男の求める性的自由は悪、女の求める経済的職業的自由は善である、との前提がある、と指摘します。
     確かに一つひとつは見ていてムカつくのですが、こんなのがずっと続くので読んでいていささか食傷気味になります。

     アペンディクス1「準ミサンドリック映画」では映画『ピアノ・レッスン』がやり玉に挙がります。
     しかし読む限り、他愛ない「悪い夫から逃げた女性が再婚して幸福になる物語」を、著者が大仰に糾弾しているようにしか見えません(むろん、大前提としてそれが「声なき女性の声を拾い上げた素晴らしい映画」と大仰に称揚されているからこそなのですが)。
    「男が悪者になっている」映画は全部けしからぬ、ではフェミニストの「表現狩り」と同じですし、ましてや現実の世界でも、「男性が女性に暴力を振るう」ことがその逆よりも多いことは自明であり、そこに文句を言っても仕方がありません。かつて、漫画の少女キャラが少年キャラよりも背が低く描かれていることを差別であると言い立てたフェミニストがいるのですが、著者の口ぶりは何だかそれを思い出します。
     何より奇妙なのは、この映画のラストで、「悪い夫」にいじめられていたヒロインは「よき男性」と再婚し、幸福になるのです。レズになるのでもなく、一人で生きるでもなく。
     それにも関わらず、著者はここに噛みつき、「言い訳だ」とにじり寄ります! これは「フェミニズムの押しつけ」との追及をかわすために、言い訳として用意されたラストなのだそうです。
     そんなバカな。単に商業映画だからハッピーエンドにしただけでしょう(もっとも、この点も指摘されてはいます)。
     こうなると、「証拠がないことこそ悪者が証拠を隠した証拠」という陰謀論です。著者はもう、相手を追求するためにあるかどうかもわからない動機を勘繰る、フェミニストモードに入ってしまっているのです。
     本作は、ヒロインが二人の男性から求愛されるという、ただの、よくあるレディースコミックに過ぎません。もっとも最終的に彼女を娶るのが元使用人であり、最終的にマオリ族に溶け込んでいくというびっくりなオチは反レディコミ的ではあるのですが。よくわからないのはこの二人目の男性はヒロインの指を切り落としてしまうというとんでもないやつで、どう考えても正義のヒーローにやっつけられる以外のオチのつけようがないところを、何故かヒロインとハッピーエンドを迎えるのです。どうも西洋文明をドロップアウトすることで「贖罪」がなされるというのが本作の思想のようで、フェミと言うよりはまた何か別なPCのために作られた映画のように思われます。
     いずれにせよこの映画評については「差別ケシカラン」というPCの暴走にしか読めないし、本編にもまた、(概ね頷きながら読んだものの)その萌芽はあるように思われます。
     こうした「男性差別、男性差別」といった(ちょっと冷静さを欠く)連呼は「男性差別クラスタ」のリアクション、「男性差別本」のスタンスとも「完全に一致」しているのですが、もう一つ、ちょっと思い出したことがあります。
     随分昔、『君はペット』という少女漫画がドラマ化された時の、2ちゃんねる男女板の反応です。要するに女性がイケメン君をペットとして飼うという(漫画原作の)ドラマが放映されたことがあるのですね。
    「けしからぬ、仮に男女を入れ替えた作品があったとしたら、それが許されると思うか」。
     確かにそれはごもっともです。
     ただ三点、指摘しておかねばならないのは、エロ漫画、エロゲで幼い女の子をペットにするような話は、いくらでもあるということ。しかし一応、男たちはそれを反社会的表現とわきまえ、「ポルノ」という枠に押し留め、「裏物」としてきたのです(オタクを殲滅するため、オタクの味方を自称してこれら裏物を表に出そうとする悪の組織が存在することについては、本稿ではひとまず置きます)。
     それに比べ、女たちは自らが加害者になることに全く内省がないので、こうしたものを地上波ゴールデン枠で流してしまう、そここそが問題なのではないか、というのが、まず一点。
     もう一点は、上の観点に対する反論。確かに男女のジェンダーを考えた際、女性が上のような(男性をペットとして飼う)ことはリアリティは低いので、男性向けのそれとは同一に語れない。事実、上の作品は(すんません、未見なのですが)恐らくポルノ的な表現はなされていないはずです。ある種のインモラルさを持つ作品でも、そうした女性向け作品の特質故、ある程度、「ゴールデンでも観れるモノになってしまう」、即ちここにも男女の非対称性が動かしがたく横たわっているのであり、何でもかんでも逆転させて「差別だ、さあどうだ」と言うだけではあまり効果がない。
     三点目として、しかし更に、女性には「被害者を装うことによる加害者性」というまた別な「加害者性」がある。そこをこそ自覚し、また批判されるべきであるということ。
     即ち、「男が悪者扱いされている、許せぬ」と言いたいのであれば、映画におけるその断罪があからさまに過度であるとか、女の加害者性(被害者に居直り、無責任なまま、罪が糾弾されない、或いはヒーロー役の男性が彼女の意を汲む形であからさまに過度な攻撃を悪役男性に向けるなど)をこそが糾弾されないとならないのではないか。
     ぼくが『ダンガンロンパ』*2や『ネットハイ』*3などを紹介してきたのは、これら作品がそうした批評性を持っていたからでした。想像ですが推理物という「犯人の心理を分析する」内容が「女災を考察する」ことに親和性があること、もう一つはゲーム業界は出版業界と違ってフェミによる「検閲」がなされていないことが、これら作品群が優れた批評性を獲得できた理由ではないでしょうか。
     しかし、残念なことですが、少なくとも本書の筆致を見るに、著者たちがその辺りについて考えを巡らしているとは、ぼくには思えませんでした。

    *2 「これからは喪女がモテる? 『ダンガンロンパ』の先進性に学べ!
    被害者性と加害者性の微妙な関係? 『スーパーダンガンロンパ2』の先進性に学べ!
    今までの「オタク論」は過去のものと化す? 『ダンガンロンパ』の先進性に学べ!
    これからの女子キャラクター造形はこうなる? 『ダンガンロンパ』の先進性に学べ!
    弱者性と強者性は転倒する? 『絶対絶望少女』の先進性に学べ!
    *3 「ネットハイ

     繰り返すように、ぼくは「男性差別」という言葉を好まない。それは、言ってみれば「男性差別」というワードそのものに「批評性の欠如」という欠陥が内包されているから、とでもいうことになるのです。
     見てきたように「男性差別本」やドクさべの敗因は「男性差別!」と叫んだ時点で、「何か、勝った」気になったところにあるとしか、言いようがないのですから。
     ならば、「ミサンドリー」という言葉はどうでしょう。
    「ミソジニー」とは「女性差別」をただ単にカタカナにしてみただけの、粗雑な言葉です。そして「差別」よりもタチが悪い、「女性に対する嫌悪」という感情そのものを糾弾せよというおぞましさを含んだ言葉でもありました。
    「ミサンドリー」もまた、それと同様であり、同じ轍を踏む可能性が大いにありましょう。本書のタイトルに「ミサンドリー」との言葉が使われ、副題に「男性差別」との言葉が使われているのは示唆的です。
     が、とはいえ、もう一つ、この言葉にはラディカルさが内包されているとも言えるのです。
     というのも、以前も指摘したように、「ミソジニー」が非実在、穏当に言っても局所的なのに対し、「ミサンドリー」は普遍だからです。
     もちろん、それならば同様に「女性差別」が非実在なのに対し、「男性差別」が普遍だからラディカルだぞ、とも言えるのですが、まあ、ぼくが「男性差別」という言葉を嫌うのは論者たちのその「普遍」に対する洞察の低さが原因とも言えましょう。
     それに比べ、「ミサンドリー」は話を感情の問題であるとしたという点では、明らかに一歩進んでいるのです。「男性差別」という言葉が男女の超えがたい「愛され格差」を勘定に入れていない言葉とするならば、「ミサンドリー」はそこに真っ向から切り込んだ言葉、と言えるわけですから。
    (いえ、この非対称性を、「ミサンドリー」論者がどこまで理解しているかとなると、甚だしく疑問ですが……)
     本書について退屈だ退屈だと書きましたが、学術的な本である以上、ある意味「地味で退屈な調査結果の報告」という側面は避けられない。そういうことも大事ですから。
     それにまた、先にも述べた通り、「結論」では新たな視点による論理展開がなされている可能性は充分にある。
     ここしばらくあちこちで書いてきた文章と本稿で、ぼくの「ミサンドリー」という言葉に対するスタンスは大体、述べられたかと思います。
     後は、本書がそれを超える視点を提示してくれることを祈りつつ、四章以降に取り組んでいくことにしましょう。