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  • 腐女子の心理学(その2)

    2017-09-01 09:101
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     さて、前回の続きです。
     初めての方は前回記事の方から読んでいただくことを強く推奨します。
     前回は本書の前半部分といいますか、主に質問紙による調査について述べた部分を中心にご紹介しました。
     山岡師匠の論考は北田師匠の著作に比べ、遙かに冷静で豊富なデータを積み上げた上でなされていますが、とは言え、スタンス的には近いのではないか。北田師匠と山岡師匠は共に腐女子に恋い焦がれる恋敵であり、両者は単に右と左から腐女子の手を引っ張っていただけのところを、ぼくはイデオロギー闘争であると勘違いして、首を突っ込んでしまっただけのことではないか……そんな疑問を述べました。
     そしてその疑念は本書後半の「総合考察」と題された第12章から、一気にターボがかかるのです。
     何と228pでは悪名高い――スマン、考えると悪名高いのって俺の中でだけだったわ――「やおい論争」が持ち出されます。
     これは単純にホモが「腐女子キメェ」というだけの他愛ないもの。
     しかしあれだけ腐女子の味方として振る舞い続けてきた師匠のこと、颯爽たる反論を見せてくれる……と思いきや、師匠はホモに唱和し、腐女子を批判するのです!

     ゲイを許容しているつもりなのに、自分が好むBLでは嫌悪している。これも腐女子のジレンマである。
    (230p)

     意味がわかりません。
     そもそも、「BLとリアルなホモとは一切関係ない」という優れた指摘をしてきたのは師匠であるはずなのに*1。「BLはホモを嫌悪する表現である」というのもわけがわかりませんが、ホモが禁忌であるが故に純愛のダシになっていることを、そのように解釈しているようです。BLでホモの禁忌性が描かれることなど、近年では少なくなっていると思うのですが。
     そう、師匠の腐女子への共感や誠意を疑うことはできません。ただ……考察に入るや師匠の所属する「闇の教団」の厳しい戒律が、師匠と腐女子の仲を裂いてしまうのです。
     それは以下のような記述にも現れています。

     前節で述べたように、男性に都合よく作られた性規範が、女性の性的娯楽享受の許容度を低く抑え込んできた。その男性中心の性規範は、女性作家が女性読者のために創ってきた性的娯楽であるBLにも組み込まれている。
    (230p)

     師匠が言うにはそれは「BLの二重の安全装置」に組み込まれているのだそうです。
     それは一つには「BLがBLである限り、腐女子当人に実行不可能」というもの。
     もう一つは「愛がなければ性行為をしてはいけない」という規範であるといいます。

     女性にとっての実行不可能性と、愛の帰結としての性愛という二重の安全装置が組み込まれたBLは、女性が(男性に都合よく作られた)社会の性規範を逸脱することができないように造られた、安全なポルノグラフィである。
    (230p)
     要するに、BLとは「女性にふしだらであって欲しくないという男の願いが生んだもの(実行不可能だから)」ということのようですが、むしろ男は女が「男同士に萌える」ことなど望まないでしょう。
     今まで稲田豊史師匠の『ドラえもん』、『セーラームーン』評に、「男性学」とやらに対し、ぼくたちは同じ気分を味わってきました*2。これらの著者たちは必死でオタクの、弱者男性の味方であると振る舞おうとしているが、スイッチが入ると「大首領様」の命令に逆らえなくなり、オタク文化を、弱者男性を叩き出すという、大変に奇妙な人々でした。
     そしてこの12章は実に奇怪なオチを迎えます。上の後、女性研究者である堀あきこ師匠の「BLは男同士の恋愛を描くことで対等な関係性を描写することを試みた云々(大意)」という言葉が引用されます。もちろんこれは上野千鶴子師匠が三十年ほど前に言っていた古拙なロジックであり、「責め/受け」の概念がそれを無効化した……ということはぼくが何度か指摘しています*3
     が、ここでは年長者や権力者を「受け」とすることで、権力構造をずらすことができるのだ、といった論法で、BLが権力構造から自由である、との主張がなされているようです。ぼくが知る限り、BLは権力者が弱者を責めるものが大多数だと思うのですが。
     そもそも、BLは男同士なのだから(実際には女性たちは「受け」へと感情移入しているのですが、この種の評論ではそうしたことを認めないものですし、山岡師匠もまたそうなのだから)権力構造がどうのこうの言われたって、それは男女の性規範とは関係のないもののはずです。
     しかしいずれにせよ、この言説は山岡師匠の「BLは男性に都合よく作られた」論とは噛みあいません。では、ここから堀師匠への批判が展開されるのかと思いきや、特に何も言わないままに章が終わっています

    *1 本書30pでは学生や元学生である腐女子からの聞き取り調査を元に、「男性同性愛への興味」から腐女子になった者はいない、オタクコンテンツに登場するキャラへの興味が先行し、BLに至るとしていますし、第8章においても再三、「腐女子が好むのは現実のホモではない(大意)」と強調され、166pでは腐女子がホモビデオを見ることも、腐女子向けの実写作品もほとんどないことも指摘されています。
    *2『ドラえもん』、『セーラームーン』の一連のトンデモ評論、「男性学」者のトンデモ本については以下を参照。
    ドラがたり
    ドラがたり とよ史とフェミニン兵団
    ドラがたり とよ史とチンの騎士
    セーラームーン世代の社会論
    セーラームーン世代の社会論Crystal
    秋だ一番! 男性学祭り!!(その1.『非モテの品格』)
    *3「リベラルたちの楽園と妄想の共同体――『社会にとって趣味とは何か』(その2)

     チンプンカンプンになりながらページをめくると、最終章である第13章「腐女子とオタクの未来に向けて」が控えています。
     その第1節は「少女マンガの呪い」。
     驚いたことに師匠は古典的少女マンガが、主人公の少女が少年から愛されることで自らに価値を見いだす構造を持っていることを(藤本由香里師匠の著作から引用して)指摘、それが「男性支配」であると説くのです。
     すごい!!
     いえ、つまりこれは山岡師匠が、大変に正直な人物であることを表しています。少女漫画評論というものは今まで、少女漫画の上に指摘されたような構造とフェミニズムとの矛盾をスルーして、何とかその両方に対し、諸手を挙げて絶賛せねばならないというムリゲーを強いられてきました。
     山岡師匠はそうした(論者たちの独り相撲によるケガで生じた)レッドオーシャンへと、のこのこと入っていった一般人です。裸の王様を見て、「あれ、裸?」と言っちゃった少年です。モンダイは、この少年もまた裸でおり、それについて自覚がないのでは、との疑問が湧くことですが……。
     山岡師匠は藤本師匠の

     少女たちは“性”を自らの体から切り離し、少年の体に仮託することで、“性”を自由に操ることに成功した。
    (235p。あくまで藤本師匠の著作からの引用の孫引きです)

     といった論法に反論するかのように、「しかし愛という価値から逃れ得ていないではないか」と指摘します。
     それは、正しい。大変論理的です。
    「BLは従来の男女のジェンダー規範、セクシュアリティ規範をなぞった、それに対し何ら脅威をもたらさない表現である。であるから、フェミニズム的に解釈すると、BLが女性差別男性支配の表現であるとするのは正しい。そう解釈する以外に、道はない」。
     師匠の主張をまとめれば、そういうことになるはずです。
     しかし、何しろ腐女子たちは同人誌を描いてまでBLを欲するのですから(儲かるのは一部で、彼女らのほとんどは赤字でしょう)、「腐女子の存在こそが、フェミニズムが間違っていたということを何よりも雄弁に語っている」。
     そのように論理は展開されなければならないはずです。
     が、驚いたことにここから師匠は、精神的に安定していない腐女子群は少女漫画に親しみ、「少女マンガの呪い」を受けたのだろうとするのです!
     腐女子の中の健康的な層は「少年漫画」を読んで育ったのだろうが、対人忌避の傾向など、問題を抱えた腐女子は恋愛強迫観念(恋愛しない人間には価値がない)を少女漫画によって植えつけられているのだと、師匠は(特に根拠なく)推測します!
     すごい!!
     疑問はいくつもありますが、まず「人に愛されることが第一義だ」との人間の根幹をなす欲望に基づく価値観が、そうそうフィクションの影響を受けるものでしょうか。同様に山岡師匠は(70年代の)少女漫画の編集者たちがほとんど男性であったと述べ、少女漫画そのものを男性の女性支配のツールであるかのごとく記述します。こうなると『レディース・コミックの女性学』*4と変わりません。
     第2節は何と「少女マンガの呪いを解く方法」。
     師匠はここで腐女子に対し、「世界とのつながりを取り戻そう」と説くのです。
    「(恋人とつきあえば)少女マンガの呪いも解けていく(p244)」と師匠は語ります。
     そもそもが、恋愛至上主義こそがけしからぬというのが当初の主張であったのに、何故「男子とつきあおう」になるのかが今一わかりませんが、それに対する説明は、本書の中にはありません
    「オタク男子とつきあえ」というのは「恋愛至上主義だけが悪で、現実の恋愛を知ればそうした観念論に振り回されることもなくなる」程度に理解すればいいのかも知れません。しかしそれでは「この世のジェンダー規範(恋愛もまた、その一環であることは自明です)は男たちが自分たちに都合よく作り出したものだ」という大前提が崩れてしまう。いずれにせよ矛盾しているのです。

    *4 レディース・コミックは女性が結婚など、女性ジェンダーの旨味を十全に味わうメディアであり、フェミニストにとっては自分たちの主張の矛盾を暴露してしまう、極めて煙たい存在でした。『レディース・コミックの女性学』はレディコミブームの頃に出版された、フェミニストが「レディコミの編集者は男性だ、だから男性が自分たちの価値観を女性に押しつけているのだ!」と電波妄想を炸裂させるトンデモ本です。

    少女マンガの呪いを解く方法」には奇妙な項があります。
    萌えによるオタクの民主化」と題されたその項では、岡田斗司夫のオタク定義はエリーティズムだとの説が語られるのです。その根拠は岡田氏が『オタク学入門』などで「オタクになるには時間的、経済的、知的に極めて多くのエネルギーを投じなければならない(大意)」と語った、というだけのもの。それだけのことを取り出してエリーティズムだと決めつけるのって、どうなんでしょう。
     以降も岡田氏はガイナックスを追放されたという『噂の真相』レベルの話や、彼にはコンテンツを造る創作者になれなかったコンプレックスがあるといった話が続き、しかし「萌え」こそがその岡田氏のフェイズを超え、オタクを民主化させた功労者であると語られます。しかし残念なことに「萌え」がどうして民主的なのかについては、言及がありません(いえ、恐らくライト層も取っつきやすい、程度のことを言っているのでしょうが)。
     第一、この項の岡田氏批判が話の前後(「少女マンガの呪いを解く方法」)といかなる関わりがあるのかが、さっぱりわかりません
     岡田氏にクリエイターになれないコンプレックスがある、というのはネットでよく聞く風説です。ぼくが見る限り、これを流布させているのは左派寄りのオタク文化人の影響化にある人々です。山岡師匠の岡田評はこれと全く同じで、その影響を間違いなく受けています。
     ぼくは岡田氏の主張を「オタク≒鍛えられた消費者」論と表現してきました。どちらかと言えばクリエイターというエリートを想定し、階級を造ろうとしているのは左派寄りのオタク文化人であり、それに異を唱えるのが岡田氏で、むしろオタク文化人が彼(や大塚英志氏)を煙たがるのは彼らがオタク界を民主化しようとしたことが理由、とも言って来ました。
     もっとも、以上を裏読みすれば確かに「岡田はクリエイターに反感があるのだ」といった評も可能でしょう。しかし不思議なのはそうした主張をする連中は一体全体どうしたわけか、上にも書いた左派寄りのオタク文化人、つまり「別段、クリエイターじゃない人」がお好きなように見えることです。ブーメランという他はありません。以前にした、「サブカルはコンテンツを持たないが故にオタク業界の植民地化を企んでいる」との指摘と、これは全く同じですね*5
     そして残念なことですが、そうした人たちと同様、山岡師匠の腐女子への感情にこそ、ある種の傲慢さが見え隠れするのです。それは「耽美」という言葉に象徴されていると、ここまで来ればみなさんにもおわかりいただけるかと思います。
     他にも本書の端々には「オタク趣味が高じて制作者サイドに移った者は、すでにオタクとは呼ばない。(139p)」、「(引用者註・スポーツや芸術と異なり)しかし、アニメ、マンガ、ゲームなどのオタク趣味に対する熱中は、基本的にオタクたちを成長させたり、向上させたりはしない。(207p)」と、オタクからするとひっくり返りそうな記述が見られます。本当に細かい荒探しではあるのですが、山岡師匠は本当にオタク文化をリスペクトしているのか……との疑問が拭えないのです。
     つまり、師匠の「腐女子よ、現実の恋愛をせよ」はある種の正論ではある。
     正論ではあるが、そのウエメセぶりがやはり、例の「キモオタがサーフィンをやるCM」のような無神経さを、どこかオタクを利用しようとしているイヤらしさを匂わせている。
     それ以降、「多様な価値観を認めよう」的なことを滔々と書いて、本書は終わります。
     あとがきの最後の最後のフレーズを、以下に引用してみましょう。

     オタク諸君、腐女子諸君、現実とコネクトしよう。現実に一歩踏み出そう。その一歩から君の現実を変えていこう。君の現実を、君の人生を君自身の手に取り戻そう。君の人生を、君が楽しみながら生きていこう。夢の呪いに挑み、呪いを打ち破るのだ。

     Don't Dream It Be It 夢を見るんじゃない、夢になるんだ!
    (Rocky Horror Picture Show) (ロッキー・ホラー・ショー)
    (251p)

     余計なお世話です。
     実のところ、本書の言い分はある意味、「腐女子」を「オタク」に置換すると聞き飽きた、いや、懐かしくて涙が出るようなものになります。
    「オタクたちよ、アニメDVDを捨てて町へ出よ」と。
     宮崎事件の頃、耳にタコができるほどに聞かされた話です。
     それに対し、ぼくたちは「余計なお世話だ」と言ってきました。
     ほとんどの腐女子もそれと同様に、「余計なお世話だ」と思うことでしょう。
     もちろん、ウザいながら、「男の子と恋愛しよう」そのものは正論ではあると思います。
     ここからは、ぼくがここしばらく強調している「悪の組織による、本田透の兵器利用」*6という方法論を、師匠が拒否した様が見て取れます。
     本田透氏は「俺たちオタクは真の愛を求め、二次元の世界に旅立った」と主張しました。これは三次元に愛がないことからの、窮余の策。萌えとは、愛を得られないことを悟った男の描いた、理想の女性の絵でした。
    「悪の組織」の作戦はそれを曲解し、「弱者男性どもは二次元の世界に安住し、それで幸福だと言っているぞ」と主張し、ぼくたちへの援助物資を横からかすめ取るところにありました。
     北田暁大師匠のしたことは、その方法論を腐女子にも適用させたものと言えます。
     ツンデレ腐女子ちゃんが「三次元の男のことなんか興味ないんだから、ヘンな勘違いしないでよね!」と言ったのに乗じ、北田師匠は「彼女らは我が組織の目的(愛という概念の否定)のために生命を懸けてくれるのだ」と思い込み、腐女子たちを組織の兵士にしようとしました。
     しかし……山岡師匠は改造手術の途中で、腐女子があまりにも哀れになり、脳改造直前で「男の子と恋愛をしよう」とアドバイスをして、腐女子を逃がしてあげた……本書はその様子の実況中継だったように思えます。
     これはまた、時々指摘する、「フェミニズムの密教」を受け容れられなかった者の末路、と言えるかも知れません。「愛という概念を根源的に否定する」ことこそがフェミニズムの真の目的である。が、あまりにも反社会的なために普段はそれを隠している。それ故、「我こそはフェミニズムの真の理解者なり」と豪語して憚らないリベラル君たちはこの密教について全くの無知である*7
     山岡師匠はきっと、入信テストの土壇場になってフェミの密教に触れ、及び腰になった。本書はその様子の実況中継でもあったのではないでしょうか。
     だからこそ悪の組織の大幹部である北田師匠は、怒りを露わにしました。山岡師匠は肝心なところで組織を裏切ったのですから。
     では、山岡師匠は最後の最後で善に目覚め、仮面ライダーの仲間になったライダーマンなのでしょうか……?
     師匠の腐女子に対する視線は常に優しいものであり、何とかその理解者たらんとする意志に満ちたものです。そうした師匠の誠意については疑う余地はありませんが、それ自体は恐らく北田師匠も(少なくとも本人の主観の中では)同じでしょうし、北田師匠を見ればそうした心理が容易に「弱者、マイノリティと目される人物を自分の政治の道具にする」危険性をはらむことも伺い知れましょう。
     山岡師匠もまた北田師匠同様にその暗黒面に堕ちかけた。
     しかし、師匠は「闇の組織」の戒律を最後の最後で破ってしまった。そして、組織のアジトを脱出しようとして、地雷原を正面突破してしまった。
     そういうことだったのではないでしょうか。

    *5「敵の死体を兵器利用するなんて、ゾンビマスターみたいで格好いいね!
    *6「千葉市の男性保育士問題
    *7「間違った「サブカル」でマウンティングしてくる全てのクズどもに」。この書もまた、岡田氏を罵り倒しつつ、その根拠を一切述べないというトンデモ本でした。

  • 腐女子の心理学

    2017-08-25 19:472
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     ここしばらく、ずっと北田暁大師匠の『社会にとって趣味とは何か』について見てきました*1
     数回に渡り、M1さんのレビューやコメントも採録しましたが、それによって北田師匠が腐女子像を自分たちの政治的要請によってねじ曲げ、更に自らのそうした意図と相対する著作である『腐女子の心理学』に攻撃を加えていたことが、より明らかになったように思います。
     腐女子に対し、「男無用のフェミニズムの闘士」であってほしいと強く願う北田師匠にしてみれば、腐女子に対して「オタク男子とつきあえよ」と説く『腐女子の心理学』が許せなかったのです。「ボクの彼女さんになるはずの腐女子タンに手を出すな!!」と。そんなわけで、ぼくは件の『腐女子の心理学』について、「全面賛成ではないものの、北田師匠のわけのわからないリクツによって攻撃を受けた可哀想な書」といった感じで評していました。
     が、それは北田師匠の著作だけを読んでの、あくまで北田師匠のバイアスのかかった批評を手がかりにしたレビューでしかなかったわけです。
     ならば実際にこちらの方も読んでおこう……と思い立ったのですが。
     えぇ~と、そういうわけで今回は山岡重行師匠の『腐女子の心理学』についてのレビューを書かせていただきます――あぁ、前回は「山岡氏」だったのに「師匠」って言っちゃってるよ!
     すみません、そういうわけでM1さんがご覧になったらあまり愉快ではないレビューになるかも知れませんが……。

    *1 北田師匠の著作については
    リベラルたちの楽園と妄想の共同体――『社会にとって趣味とは何か』
    リベラルたちの楽園と妄想の共同体――『社会にとって趣味とは何か』(その2)
     を参照。
     M1さんのレビュー、レビューへのコメント、またM1さんの本書へのレビューはそれぞれ
    この本に腐女子を語る資格なし 最終版――『社会にとって趣味とは何か』レビュー
    『社会にとって趣味とは何か』コメント欄
    社会学者の地雷原を正面突破する研究書!――『腐女子の心理学』レビュー
     を参照。

     まず、最初に言っておきますと山岡師匠は長年に渡り、質問紙で腐女子についての調査を行っています。言っては悪いけれども、別な調査の使い回しで腐女子を語ろうとした北田師匠とは、最初から勝負になっていません。
     山岡師匠は「オタク度尺度」「腐女子度尺度」を設定、調査対象の学生たちを「一般群」「オタク群」「腐女子群」「耽美群」の四群に分けます。「オタク尺度も腐女子尺度も低い」のが一般、「オタク尺度が高く腐女子尺度が低い」のがオタク、「両方とも高い」のが腐女子というわけです。「耽美群」は「オタク尺度は低く、腐女子尺度が高い」人たちですが、普通に考えればわかるようにそうした層はごく少数で毎回、「分析から除外する」とされています。
     さて……ところが、ここで大きな問題があります。
     この調査、何と男女の区別がほとんどなされていません
    「オタク群」にはオタク男子と腐女子要素のないオタク女子が混在していると想像でき、それをごっちゃにしたまま話が進んでいきます。

    「美少年キャラが好きである」の得点が4以上だったのは、腐女子群では52.8%に対して、オタク群では28.2%だった。
    (33-34p)

     などと書かれているのですが、「当たり前やろ」という感じです(「腐女子群」の中にも腐男子と思しき男性が含まれるようですが、ほぼ無視していい数字のようです)。
     第3章「オタクや腐女子の外見は「残念」なのか?」では調査対象のファッションイメージを調べるため、ギャル系、ゴスロリ系などと共にオタク系のファッションを写真で提示し、感想を選ばせるという調査が行われています*2。が、ここでも調査対象は男女混合。女子には「自分がするファッションに近い/遠い」ものを、男子には「親しみを感じる/感じないファッション」を選ばせるという手法を採っており、「何じゃそりゃ」としか言いようがありません。せめてこの調査だけでも男女を分けるべきでは……いや、全てにおいて分けるのが当たり前だと思うのですが……。
     申し訳ないですが、この時点でぼくは「四コマ漫画のオチ」のごとくひっくり返ってしまいました。何というか、いくら何でも、それはちょっとないと思います。本稿もこれをオチにして終わってもいいくらいなのですが……。

    *2 しかし、「オタク系」などというファッションは存在しないし(何しろ山岡師匠自身がそう述べている!)せめて、そのファッションの写真を本の方にも載せてくれないと、読む側は何とも判断しがたいと思うのですが。

     もちろん、本書は「ちゃんと腐女子を調査するという目的意識を持った調査」を行っている時点で、北田師匠の著作よりは格段に優れていると思います。
     しかし、では、山岡師匠が「政治的意図のない、フラットな意識で調査」しているかとなると、そこは疑問です。M1さんに対して心苦しいですが、実のところ、本書を読んでいてぼくは師匠に「結局はジェンダー論かよ」と言いたくなってしまったのです。
     それは例えば、以下のような論調が象徴しています。

     アダルトビデオなどのポルノグラフィは、ほとんどが男性向けに製造された製品である。つまり男性は、女性より性を娯楽として楽しむことが許容されているのである。
    (中略)
     しかし女性向けに性的サービスを提供する風俗店は、繁華街を歩いていても目にすることはない。
    (101-102p)

     こうしたことが腐女子をして、自らを「性的少数者」であると位置づけていることの原因であるぞ、というわけです*3。他の箇所でも

     人前での男性の猥談は、バカで下品な男たちという評価を招く。しかし人前での女性の猥談は異常者という評価を招いてしまうのである。
    (51p)

     と書かれているのですが、その直前で

     公衆の面前で性的な話をする者は逸脱者とみなされる。
    (51p)

     と言っているのだから、わけがわかりません。上の「逸脱者とみなされる」は文脈からするに、男女問わず、であるはずです。恐らく、「公衆の面前」と「人前」に微妙なニュアンスの違いを込めているのでしょうが……。
     つまりフェミニズム的な「女性は抑圧されている」論を、山岡師匠もまた内面化しているのです。
     が、これは極めておかしいと言わざるを得ない。女性の猥談に対する許容度が低いのは、「女性が守られているから」です。男性への性被害と女性への性被害が共に同じ重さで憤られる世界が来れば、女性と男性の猥談も、同じ重みを持って迎えられることでしょう。
     そもそもBLが生まれたこと自体が「抑圧などなかった」証拠でもあるし、レディースコミックだって生まれて三十年くらい経っているのだから、今更という他ありません(本書、最後までレディースコミックという言葉すら出て来なかったんじゃないかなあ……)。
     BLやレディースコミックは抑圧を打ち破った革新的表現である、と解釈する方法もありますが、そうなると(後述される)「BLは男性社会の価値を温存している」との説との整合性が取れなくなる。どっちにせよ矛盾しているのです。
     また、ちょっと上級者向けの話ですが、そもそも女向けのポルノなんて、更に以前から存在しています。ワイドショーや女性週刊誌の芸能人スキャンダルがそれですね。そのことは「腐女子は関係性に萌える」と繰り返されている本書の論理を演繹すれば実のところ、わかることなのです。事実、腐女子が実に熱心に同人誌を発行し、即売会に出るのは、「今週のアニメの○○クンと××クンの怪しいシーン(大体は共に敵と戦ったとか、そんなの)」についての妄想を描き、仲間たちと共有したいからであって、本質はワイドショーなんですね。
     そう、BLは男たちの女への抑圧など、最初からなかったことの証明でした。

    *3 ちなみに腐女子が自らを「性的少数者」だと位置づけているという指摘は、溝口彰子師匠のものです。細かい話ですが、ここは腐女子が自らを「異端者」と位置づけていることを、フェミニストである溝口師匠が「性的少数者」と位置づけたのだ、と読み替えたのではないでしょうか。溝口師匠の著作は未読なので、これはまあ、あくまでゲスの勘繰りですが。

     師匠は腐女子を、一般のオタクよりも更なるマイノリティであると考えているようです。
     その例として、腐女子はオタクよりリーダーシップを取ることが少ないとの調査結果を挙げるのですが(140p)、繰り返すようにオタク群は男子が多いと想像できるのだから、どうしようもありません。腐女子の方がオタクより自己否定的、他者否定的であり、親密性回避の傾向、親と葛藤する傾向があるともされますが(第7章)、これも同様に、ジェンダー差(これは必ずしも女性の方が自己否定的ということではなく、女性の方がそうしたことに敏感であり、そうした感じ方を表に出したがる、ということです)が大きいはずです。
     本書は学術書であり、あくまで学生に対する調査と、それを元にした考察という、妥当かどうかは置くとしても手続きとしては「科学的」とされる形を踏まえた記述が続きます。
     が、本書が特徴的なのは、それらの合間にインターミッションが挟まれていることです。
     ここで師匠はやたらサブカルチャーについて語るのです。そこにあるのはハイカルチャーvsサブカルチャーという素朴な対立構造を前提とした、「マイノリティを抑圧する、排除の論理をやっつけろ!」とでもいったような世界観です。
     それは「オタクは市民権を得たが、腐女子はその代わりに否定的イメージを一身に背負ったマイノリティだ(大意)」と主張する「社会的マイノリティとしての腐女子の心理学的研究(161p)」や、ハイカルチャーとサブカルチャーの対立構造について熱心に語る「趣味と幸福感」(213p)、そしてまたサブカルチャーへのシンパシーを吐露する「「自分たちだけが正しい」と主張する人たち」(233p)にも現れています。
     実のところ本書の序章で、師匠はやたらと腐女子とサブカル(師匠は「サブカルチャー」としか言っていないのですが、敢えてぼくの感覚で「サブカル」と称します)とを結びつけようとしているのです。「少女マンガとグラムロック」「耽美派少女はサブカルチャーを漂う」「パンク・ニューウェーブからヴィジュアル系ロックへ」「耽美派からアニメファンへの勢力移行」といった項タイトルを見ていくだけで、何とはなしに師匠の世界観が見えてくるのではないでしょうか。それは「BLは元はサブカルの範疇であったが、後にオタク文化に取り込まれた史観」とでも言うべきものです(もちろん、項タイトルなどは編集者が考えることも多いわけで、本書もそうである可能性はあります。しかしこの項タイトルが内容を正確に反映しているとの判断から、例として挙げてみました)。
     先に「耽美群」という言葉を紹介しました。調査の度に毎回毎回、天丼として「耽美群は極めて少数なので除外した」と書かれることも述べました。
     ぼくの感覚ではBLは言うまでもなくオタク文化の一カテゴリーなのだから、「耽美群」は何かのバグとも言うべき例外だと思われるのですが、師匠の中では「オタク文化に足を踏み入れない、サブカルとしての腐女子が存在するのだ」とでもいった解釈が成り立っているのではないでしょうか。だからこそ「耽美」というネーミングを、(実際にはどんな人々か判然とせず、ホントに耽美かどうかわからないのに!)師匠は与えてしまっているのです。
     師匠は腐女子に過度に夢を見て、それ故に「俺の妹になれ」と腐女子を口説こうとしている人のように、ぼくには思われるのです。
     その意味で北田、山岡両師匠とも、根本的な部分では変わらないとも言えますし、告ハラなんて概念が持ち出されている昨今、二人ともタイーホされてしまうのではないかと思うと、心配で夜も眠れません。
     ちなみに「腐女子はオタクより以上のマイノリティ」というロジックのどこまでが正しいか、ぼくには疑問です。むしろ北田師匠を見てもわかるように*4オタク女子=腐女子といった見方が昨今では普通でしょうから、腐女子ではないオタク女子こそマイノリティという考え方も成り立つし、またオタク男子がBLを憎むという側面もあるだろうけど、それも当たり前と言えば当たり前、むしろそのわりに寛容だと見るべきだと、ぼくは考えますから。
     いずれにせよ、師匠のスタンスはある意味では「オタクを抑圧する自民党をやっつけろ!」と言っている人たちに近いと言えば近く、これをして師匠を「オタクの味方」とするか、「オタクを勧誘しようとしている、悪の組織のスカウトマン」とするかは解釈が分かれるところでしょう。
     では、そのどちらがより師匠の実態に近いのか……そこを次回はもう少し詳しく見ていくことにしましょう。

    *4「リベラルたちの楽園と妄想の共同体――『社会にとって趣味とは何か』


  • 社会学者の地雷原を正面突破する研究書!――『腐女子の心理学』レビュー

    2017-08-04 17:128
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     ここしばらく、ずっと『社会にとって趣味とは何か』についての「M1」さんの評について、採り挙げてきました。そして、その本の中では先行する類似書とも言える『腐女子の心理学』について、再三の攻撃がなされておりました。
     既に述べたように、その攻撃はいささか的外れなのではないか……というのがぼくの感想ですが。
     実は『社会にとって――』のみならず、このレビューについても、現時点で消えてしまっています。内容のかなりの部分が『社会にとって――』との比較に費やされているため削除の対象になったのだと想像できますが、それにしても一体どういうわけか……という感じですね。

     このままでは惜しいということでこちらのレビューもここに掲載します。
     ぼくだけではどうにも心許ない。もし自分のブログでも「M1」さんのレビューを転載したいとお考えの方がいらっしゃったら、どうぞご連絡ください。
     それでは、以下はレビュー本文です。どうぞご覧ください。

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    「社会にとって趣味とは何か」のカスタマーレビューでいろいろ書きましたが、あちらで書かなかったことを書きます。

     まず、「腐女子の心理学」の最大の欠点は値段が高いことです。税抜き3500円です。たしかに、装丁も凝っていてカッコイイです。ピンク系のカバーの下は黒のハードカバーで、背表紙は白文字でタイトルが、表紙にはダークグレイでバラの絵が書いてあります。スタイリッシュです。でも税抜き3500円は学生には高価です。文庫本にしたら表の数値が見えにくくなると思いますが、せめてソフトカバーにして注釈をたくさん付けて多くの人が購入しやすい廉価版を作って欲しいです。

     「腐女子の心理学」の内容に関して。 
     「社会にとって趣味とは何か」の中で著者の北田さんは、山岡さんのオタク度尺度そのもののなかに「趣味指向性を聞く項目や自己認識に関する項目が入っているのだから、それらで構成された尺度の得点が高い者が『自分の趣味の仲間以外の人と付き合うと違和感を感じる』などの傾向があったとしても何の不思議もない。(p.287)」、「従属変数を作るために使用された質問項目は、独立変数として使用されてもおかしくなく、意味的に独立変数と従属変数はトートロジー的な要素を多分に含んでいる」と批判しています。さらに「これは単なる方法論的な不備ではなく、変数の作り方、数字の出し方、およびそれに対する解釈まで及ぶものであり、容易には看過できない。(p.288)」と全否定しています。
     その一方で北田さんが作成したオタク尺度8項目中4項目が趣味媒介の友人関係に関する質問項目でそれを独立変数とし、「違う趣味の友だちよりも、同じ趣味の友だちの方が大切である」を従属変数にしています(p.278~284)。どう考えても山岡さんの研究1よりも、北田さんの研究の方が独立変数と従属変数が近いとしか思えません。
     また、北田さんが主張するように山岡さんの研究1の排他的人間関係に関する部分がトートロジーでまちがっているとしても、研究11までの多くの研究を否定することはできないはずです。

     北田さんの「社会にとって趣味とは何か」と「腐女子の心理学」を比較すると、「腐女子の心理学」の方が圧倒的に明快です。「腐女子の心理学」では、腐女子やオタクは明快に定義されています。「腐女子はBL作品を好む人物と概念的にも操作的にも定義できる。(p.18)」、「(オタクは行動の程度の違いであり)オタク系の趣味に多くの時間と資金と労力を投資する者がオタクなのである。(p.18)」それに対して北田さんは「腐女子」の概念的定義を明記せず、北田版オタク尺度の得点が高く「二次創作に興味がある」女性を「腐女子」と操作的に定義しています。また、山岡さんが重視するオタク系趣味に対する投資の程度も北田さんは質問していません。
     北田さんが使った質問項目は趣味全般に関する調査のための項目であり、オタクや腐女子の研究のために作成されたものではありません。それに対して「腐女子の心理学」で山岡さんが使用したオタク度尺度と腐女子度尺度の質問項目はオタクと腐女子の研究のために作られたものです。
     北田さんは、「社会にとって趣味とは何か」の私のレビューに対するコメントで、「インテンシブではない(つまり、「腐女子(orオタク)についてのアンケート調査」等)ある程度幅の広い質問群への回答を分析することで見えてくることもあり、直球で聞けば聞けなくなってしまう事柄もある」と答えています。しかし、オタクや腐女子も含めて趣味に関する質問で、「直球で聞けば聞けなくなってしまう事柄」と「インテンシブではないある程度幅の広い質問群への回答を分析することで見えてくること」のどちらが大きいかと考えると、山岡さんのように直球の質問から見えてくることの方がはるかに大きいと思います。北田さんの研究と山岡さんの研究を比較すると、オタク・腐女子研究にかける熱量の違いを感じます。
    北田さんは、「インテンシブではないある程度幅の広い質問群への回答を分析すること」が計量社会学の走りであるラザースフェルド以来の伝統だとコメントしてくれましたが、そうであるのなら、これは社会学と社会心理学の研究方法の違いなのでしょうか。この「腐女子の心理学」のコメントを読んでみると、腐女子に関する社会学の研究書を読んでみたけれど納得できない人が「腐女子の心理学」を支持しているようですね。そんな人たちが「腐女子の心理学」に出会って納得できたのでしょうね。
     「明快さ」ということで言うと、「腐女子の心理学」は様々な調査結果の平均値や人数等を省略せずに書いていますが、北田さんの「社会にとって趣味とは何か」は%しか書いていないなどだいぶ数値を省略してあります。そのため調査結果を検証することが困難です。ごまかすつもりはないでしょうが、不親切な書き方だと思います。少なくても私には「社会にとって趣味とは何か」よりも「腐女子の心理学」の方が納得できるし先行研究として役に立ちます。

     山岡さんの研究は、直球勝負で現象に直接向き合うことができない社会学の人たちのジェラシーをかき立てるのでしょうか。だからジェンダー地雷にかこつけて山岡さんの研究を感情的に全否定しようとするのでしょうか。

     「腐女子の心理学」は確かに社会学者が作った地雷を踏んでしまったのでしょう。でも、この「腐女子の心理学」は社会学者のジェンダー地雷なんか気にもとめないで地雷原を正面突破していく本です。具体的な調査結果を知りたい人、社会学者の腐女子研究のジェンダー論的お約束に納得できない人におすすめの本です。高いけど役に立ちます。