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  • この本に腐女子を語る資格なし 最終版――『社会にとって趣味とは何か』レビュー

    2017-07-21 19:49
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     北田暁大師匠の名著『社会にとって趣味とは何か』については、以前も扱いました。

     リベラルたちの楽園と妄想の共同体――『社会にとって趣味とは何か』
     リベラルたちの楽園と妄想の共同体――『社会にとって趣味とは何か』(その2)

     がそれです。
     しかし本書のAmazonレビューが、一時期話題になっていたことをご存じでしょうか。
     本書に否定的なレビューは、幾度投稿しても度々消えるという奇怪な現象が起きているのです。ぼくの記憶では本書のレビューは確か六つくらいはあったかと思うのですが、現時点では高評価の二つのみになっております。
     ことに「M1」さんのレビューはその舌鋒の鋭さで話題になっていましたが、度々消失に見舞われておりました。
     また、そのレビューには北田師匠御自らがコメント欄で反論を繰り返し、ついには師匠が「M1」さんに「セッションに参加しろ」と迫るという珍事も起きました。
     そしてついに、「M1」さんはレビューへの書き込みそのものができなくなってしまったのです。
     一体、どういうことなのでしょうか……?
     詳細はぼくのもう一つのブログの『社会にとって趣味とは何か』レビューのコメント欄「北田師匠に絡まれています!」以降を参照してください。
     ここで「M1」さんが述べられている北田師匠のコメント、今では消されているのですが、ぼくもAmazonレビューのコメント欄でこの通りのことが書かれていたことを確認していることを、申し添えておきます。

     ともあれ、このままではいかにも惜しいということで今回、「M1」さんとお話しして、ここにレビューを掲載することにしました。が、ぼくだけではどうにも心許ない。
     もし自分のブログでも「M1」さんのレビューを転載したいとお考えの方がいらっしゃったら、どうぞご連絡ください。
     それでは、以下はレビュー本文です。どうぞご覧ください。

     *     *     *

     指導教授から2冊の本を紹介されました。一冊は「社会にとって趣味とは何か」で、もう一冊は「腐女子の心理学」です。指導教授は「社会にとって趣味とは何か」が「腐女子の心理学」を批判しているので、2冊を読んでゼミで発表しろという課題を出されました。大変だったけど面白かったのでレビューを書きます。

     結論から言って、この本に腐女子を語る資格はありません。それは、「二次創作に興味がある」という質問に当てはまると答えたオタク度が高い女性を「腐女子」と認定しているからです。二次創作に興味がある人を「二次創作好き」と拡大解釈し、さらには「二次創作をしている人」扱いまでしている箇所もありました。
     これは私の指導教授のコメントですが、面白かったので紹介します。腐女子の肝であるBL好き関連の質問をしないで二次創作への興味だけで腐女子認定することは、「ヤクザに興味がある人」を全員ヤクザ認定するようなものだ。ヤクザ映画が好きな一般人も、警察関係や報道関係の人も「ヤクザに興味がある人」だろう。ヤクザも含まれているだろうが、全員ヤクザと認定することは明らかにおかしい。現象をできる限り正確に捉えることが科学の第一歩だが、第一歩からまちがっている、とのことでした。
     著者の北田さんも何カ所か言い訳していますが、二次創作好き女オタクは、ほぼほぼ腐女子であると言い張っています。北田さんにとって腐女子はBL好きな人ではなく、「男性中心主義的な世界観に異議を申し立てている人(p.304)」なのだそうです。二次創作に興味がある女オタクがジェンダー規範がらみの質問に否定的に答え、フェミニズム的な腐女子イメージと一致するから腐女子認定は正しいらしいです。
     北田さんは本文中で概念的定義を明記していませんし、「腐女子とは誰か」については様々な解釈群が火花を散らしている状況で、EMや概念分析、フィールドワーク等の分析(カテゴリー理解の分析)が必要となり、あまりに議論が紛糾しているので踏み込まない、とコメントしています。明確な概念的定義はしていないけれど北田さんは次のように書いています。「特筆に値する成果を生み出しているのが、データベース消費の概念を受け継ぎながら、「やおい」を生産・受容する女性たち-「腐女子」というカテゴリーが自己執行される-の共同体を、相関図消費という観点から分析した東園子の研究である。(p.269)」、「腐女子たちは「妄想」された男性同士の性愛関係を通して、現実的な異性愛関係を排除した、女性どうしの共同体を作り上げる、と東園子は分析する。(p.278)」このように北田先生は、東さんの研究の紹介という形ですが、明らかに 「腐女子=やおい(BL)を生産・受容する女性」という前提を受け入れ議論しています。それにも関わらず操作的定義ができないとコメントしています。これは、「腐女子はBL嗜好の女性」という定義をしてしまうと、「二次創作に関心がある女性=腐女子」とする自分の研究を否定することになるからではないでしょうか。

     腐女子とは逆にジェンダーがらみの質問に肯定的に答えているオタク男は男性中心主義的な保守的なジェンダー意識を持つ人にされています。同じように「腐女子の心理学」の著者の山岡さんのことも、「腐女子に偏見を持つ保守的な男性主義者」と決めつけています。「おそらく山岡に限られない男性知識人の」なんて表現もありました。つまり、フェミニズム系の社会学をやっている北田さんたちは腐女子に偏見なんて持っていない政治的に正しい人たちだけど、腐女子をフェミニズム扱いしない男性知識人はみんな腐女子への偏見に凝り固まった悪しき男性中心主義者だと言いたいのですね。これこそステレオタイプであり、自己正当化でしょう。この北田さんが見ているのは腐女子そのものではなく、フェミニズムという思想なんじゃないでしょうか。

     「性愛のリアリズムと妄想の共同体」という見出しがあったので、どんなすごいことが書いてあるのかと楽しみにしていたら、「マンガの登場人物に恋をしたような気持ちになったことがある」と「マンガみたいな恋をしたい」という2つの質問の考察でした。この2つの質問でこんなに大げさに書けるなんて、それが「妄想の共同体」ですかって感じです。「二次創作に興味」で腐女子認定するように、質問と考察に距離がありすぎると感じました。こういった飛躍を埋めるのが「真の意味での社会学的想像力(p.17)」なんでしょうか。「本書は読者を選んでいる」と最初に書いてありましたが、フェミニズム信仰を共有し、飛躍とこじつけを社会学的想像力と表現できる人だけ選ばれるのでしょうね。それならば私は選ばれなくていいです。
     北田さんたちのオリジナルの研究報告書と質問紙を拝見しました。一般的な趣味に関する質問紙であり、オタクや腐女子の何らかの調査のために作成された質問ではないですね。北田先生の「オタク尺度」は一般的な趣味の質問の中からオタク趣味に関連しそうな項目をチョイスして作成したものですよね。直接的な質問がないことを不思議に思っていましたが、一般趣味用の質問の再利用ではオタクや腐女子をとらえようとしても表面をなぞるだけでディープなことはわからないのではないでしょうか。
     質問項目に関して北田さんは、「インテンシブではない(つまり、「腐女子(orオタク)についてのアンケート調査」等)ある程度幅の広い質問群への回答を分析することで見えてくることもあり、直球で聞けば聞けなくなってしまう事柄もある」とコメントしてくれましたが、オタクや腐女子も含めて趣味に関する質問で、「直球で聞けば聞けなくなってしまう事柄」と「インテンシブではないある程度幅の広い質問群への回答を分析することで見えてくること」のどちらが大きいかと考えると直球から見えてくることの方が大きいと思います。そこが「社会にとって趣味とは何か」を読んだときに感じたもやもやの原因なのではないでしょうか。北田先生は、これが計量社会学の走りであるラザースフェルド以来の伝統とおっしゃいますが、社会学の教科書的には正しい研究方法でも、それが他の社会科学からも正しいと認められる研究方法であるとは思えません。

     統計的にも疑問があります。指導教授は、因子分析をしているのに項目ごとに考察するのでは分析した意味がないと言っていました。これは私にもわかったところですが、「10%水準で有意差が認められる(p.278)」と書いてありますが、「有意」と言っていいのは5%未満でしょう。さっき書いたジェンダー規範関連で、「結婚したら子供を持ちたい」という質問に二次創作に興味がある女オタクの76.1%が肯定的に回答しているのに、他の女性グループより肯定率が低いから、腐女子は「家父長的な役割分業に懐疑的な立場をとっている(p.300)」ことにして議論を進めています。1/4以下の人たちの反応で全体を語っちゃっていいの、と私は思いました。データの読み方が強引というか恣意的というかこじつけというか。でも北田さんにとっては、フェミニズム信仰と一致する議論になるから社会学的想像力でOKにしちゃうのでしょうね。

     BL芸人の金田淳子さんのツイッターをはじめとしたネットの反応を見ていて、なんで社会学系の人はそこまで感情的に「腐女子の心理学」を否定しようとするのか不思議に思っていましたが、この本を読んでよくわかりました。この本でも、「腐女子への偏見に基づく一般化 -ヘテロ男性の『認知的不協和』の解消?- が少なくない(p.287)」「(山岡の)提案は限りなく現実性を欠いたものといわなくてはならない(p.293)」「山岡の著作は、徹底的に既存の男性主義的な観点から見た腐女子の『逸脱化』に貫かれている(p.302)」なんて、かなり感情的に否定しています。「腐女子の心理学」はフェミニズム地雷を踏んでしまったようです。

     「腐女子の心理学」は、1人で満足しているのならそれでもいいけど、もっと楽しく生きたければ現実を変えろ、そのためには1人よりも仲間がいる方がいい、とアドバイスします。オタクや腐女子は趣味の仲間作りに関しては積極的だけど、恋人がほしいのに恋愛に関して不安に思っている人が多いからそちらのアドバイスをしています。ここが社会学系の人には許せないところなのですね。「腐女子は男性中心主義的な世界観に異議を申し立てているフェミニストである」という教義を信奉している社会学系の人にとっては、「楽しく生きたければオタク男と恋愛するのもいいよ」などというのは自分たちのセントラル・ドグマを破壊する悪魔の声なのでしょうね。
     北田さんは山岡さんのオタク度尺度そのもののなかに「趣味指向性を聞く項目や自己認識に関する項目が入っているのだから、それらで構成された尺度の得点が高い者が『自分の趣味の仲間以外の人と付き合うと違和感を感じる』などの傾向があったとしても何の不思議もない。(p.287)」、「従属変数を作るために使用された質問項目は、独立変数として使用されてもおかしくなく、意味的に独立変数と従属変数はトートロジー的な要素を多分に含んでいる」と批判し「腐女子の心理学」を否定しています。
     その北田さんのオタク尺度は、「好きなマンガについて友だちと話をする」「友だちと一緒にマンガ・アニメ専門店に行く」「マンガがきっかけでできた友だちがいる」「アニメがきっかけでできた友だちがいる」「ライトノベルが好きだ」「マンガ趣味選択」「アニメ趣味選択」「ゲーム趣味選択」の8項目です。北田さんが「オタク」と操作的に定義する人物類型はマンガ・アニメ・ゲームが趣味でライトノベルが好きで、それらの趣味を媒介にして友人関係を持っている人物です。北田さんのオタク像は、アニメ・マンガ・ゲーム・ラノベの趣味自認と趣味を媒介にした友人関係を持つことがオタクをオタクたらしめる独立変数ということです。独立変数を設定する8項目中4項目が趣味媒介の友人関係に関する質問項目ですが、それを独立変数とし、「違う趣味の友だちよりも、同じ趣味の友だちの方が大切である」を従属変数にしています(p.278~284)。
     はっきり言って、北田さんは山岡さんを批判するのと同じことを自分でやっています。私には山岡さんの研究が独立変数と従属変数の設定がおかしくて、北田さんの設定がおかしくないとは思えません。
     やはり社会学系の人が「腐女子の心理学」を感情的に否定するのは方法論的に納得できないからではなく、フェミニズム的に納得できないからなのでしょう。BLはフェミニズムであり、その観点から研究することが社会学における腐女子研究のポリティカル・コレクトネスの証明だから、この観点以外の研究は政治的に正しくない。そのような研究を全否定することが社会学者の使命なのですね。これはもう科学ではなくカルトですね。

     この本を読んで私が感じた全体的な印象を一言で言うと、竜頭蛇尾とか羊頭狗肉です。北田さんたちがたくさんの文献を読んでお勉強したことはよく分かります。さすが東大の先生はお勉強得意だというのはよく分かります。でも、実際自分たちがとったデータは「性愛のリアリズムと妄想の共同体」のようにしょぼい質問を拡大解釈して自分たちのフェミニズム思想の正義を歌い上げ、自分たちとは異なる立場の人を政治的に正しくない態度を持つ人と決めつけ否定する。これが「腐女子の心理学」で山岡さんが書いていた「自分たちだけが正しい人」、文化的権威主義者や文化的全体主義者なんですね。

     フェミニズム信者ならこの本の読者に選ばれるのでしょう。でも腐女子の実態を知りたい人には役に立たない本です。もう一度言います。BL関連の質問なしで、二次創作に対する興味だけで腐女子認定する人に、腐女子を語る資格なし!!
  • セーラームーン世代の社会論Crystal

    2017-07-14 18:403
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     さて、前回の続きです。
     初めての方は前回記事の方から読んでいただくことを強く推奨します。

     以前、KTBアニキのご著書をご紹介した時のことをご記憶でしょうか。
     アニキは同書の中で「結婚はおわコンおわコン」と一億回くらい繰り返しているのですが、見ていくとどういうわけか、見合い文化や、長年連れ添った老夫婦を称揚する箇所に出食わします。
     どうもアニキは「ロマンティック・ラブ・イデオロギーの否定」というフェミニズムの主要な考えをご存知ではないらしく、ぼくはそれを根拠に、彼には(フェミニストの)バックはいないと想像しました。
     また、ぼくは以前、フェミニズムを「サイエントロジー」に準えました(正確にはeternalwindの指摘です)。それなりに勢力を持っているカルト組織なのですが、信者にすら知らされていない、「宇宙帝王がどうのこうの」という突拍子のないトンデモ教義が「密教」として存在し、ステージを昇り詰めた者だけが、その「密教」に触れることができる、というモノですね。
     フェミニズムについては、実はそのあまりにも奇矯かつ反社会的な「教え」は別に隠されているわけではなく、どこの図書館にでもある本の中に書かれているのですが、フェミニズムに絶対服従を誓っているはずのリベラル君たちはどういうわけか、そのフェミニズムの「密教」部分を知らない。多分、グルに図書館に行くことを禁じられているか、或いは字が読めないのだと思います。
     いずれもフェミニストが大好きなクセに、フェミニズムについての正確な知識に欠けている。それは彼らがフェミニストという「ママ」に萌えるためには、「フェミニストの真実の姿」が邪魔だから、と考える他はない。
     そして、稲田豊史師匠もまた彼らと同じ特徴を持っているのではないか……というのが、本書を読んでのぼくの感想です。

     第四章後半から、「母としてのセーラームーン」という節タイトルが付されるなどして、「セーラームーンの母性」を大いに礼賛する流れになります。
     この辺りからぼくは、薄氷を踏むような気持ちで本書を読み進めました。
     何しろ、「母性」「結婚」を弱者男性の一兆倍憎むのがフェミニストです。本書の姉妹編とも呼ぶべき『ドラdisり』――じゃなかった、何だったっけ、忘れちゃった――でもママが目を三角にして怒りそうな記述がぼくをはらはらさせましたが、本書では「セーラームーンの母性」がどのような評価を与えられているのか……いえ、考えるまでもないでしょう。「何も考えず称揚を続ける」に一京クリスタル。
     ぼくはそう予想し、その予想はまんまと的中しました。
     本作の主人公(つまり、セーラームーンの普段の姿)は月野うさぎという女子中学生ですが、『R』からはちびうさという、うさぎを小さくしたような少女が登場します。当初は謎の少女であったちびうさは、次第に「未来から来たうさぎの娘」との正体が明かされ、セーラーちびムーンへと変身し、ついにはうさぎとのダブル主役状態になり……とその物語上の比重を増していきます。
     これを師匠は

     そう考えると、『セーラームーン』の物語構造はなかなかに革新的だ。
    (中略)
     その延長としての「結婚」を匂わせることはあっても、うさぎのように未来の夫、未来の娘がすぐ隣にいる状態でドラマが展開するのは珍しい。
    (p144)

     と驚いて見せますが、当然、知識不足による誤謬です
     むしろ「女児向け」としては「娘を育てる」という要素が登場するのは鉄板と言っていいのですから。
    『セラムン』後、『プリキュア』以前に放映された東映アニメ『おジャ魔女』シリーズもそうですし、リカちゃん人形もまた、ママや赤ん坊のキャラクターがセットになっていました。もっともリカちゃんの場合、赤ん坊はあくまで「妹」ではあるのですが。そしてまた、確かに、タキシード仮面というパパ役が設定されること自体は、そこそこ珍しいかも知れません(女児向け作品では父親なり、男子の影が薄いのがお約束です)。
     しかしこれは『セラムン』が当初から内包していた「女児向け」という要素と、「高学年向き」の大学生との恋愛、という要素が化学変化を起こして生じた、偶然の産物という見方をするのが正しいように思われます。
     いずれにせよこうした世代を繋いでいく要素は、女児向けのコンテンツの基本と言っていいように思います。『プリキュア』はたまに小学生戦士が加わるくらいでちびムーン的ポジションのキャラはいませんが、赤ん坊的なマスコットは常に出て来ますしね。
     そう、つまり『セラムン』は最初から答えていたのに、師匠だけが気づいていなかったのです。
     前回、師匠の『セラムン』は「老いに怯える成人女性」を敵としながら、実際にそうした年齢にさしかかった女性への答えを用意していなかった、との評に対し、ぼくが『セラムン』は明快に答えを提出している、師匠は理解できないだろうから、後に説明して差し上げると予告したことをご記憶でしょうか。
     上の構造が、その答えです。
     そう、次代を育てることで、自らの生命を繋いでいくことこそが、「母であるセーラームーン」の出した答えでした。
     こうなるとセーラームーンの敵の正体も明らかでしょう。
     そう、「男性」を、「結婚」を、「家庭」を何よりも憎む者たち。
     師匠のグルのガールフレンドたちを倒すために、セーラー戦士たちは出現したのです。
     しかしそれに気づかず、師匠はセーラームーンを礼賛し続けているのです。
     フェミニズムの「密教」をいまだ、知ることなく。

     何しろ師匠は月野うさぎに孤独な魂を救済されたセーラー戦士たち、という物語テーマについて、或いはまた、敵キャラクターをもその悪しき心性を「浄化」する展開が多いことについて、極めて熱の籠もったペンを走らせているのですから。
     いえ、それをぼくは、否定しようとは思いません。
     詳しい方は想像がおつきかと思いますが、ここで採り挙げられるのは劇場版『セーラームーンR』。本作は長きに渡る『セラムン』の歴史の中でも間違いなく最高傑作と言っていい出来であり、ここにおける師匠の熱い語りについて、(先のEDテーマへのリスペクト同様)ぼくは素直に賛同の意を表します。
     ……が、同時にここでぼくは二点、指摘しておかないわけにはいかないのです。
     師匠は劇中の名セリフ、

    「大丈夫よ、セーラームーンはみんなのママだもん」

     を引用するのですが、少なくともフェミニストは彼らのママではないということがまず一点。
     そして、実は師匠が劇場版『ドラえもん』の勇敢なのび太を「授業参観日だけ優等生を演じているだけなのだ」と一蹴して見せましたが、もしそれが正しいのであれば、うさぎちゃんもまた……ということが二点目です。
    「うさぎの友情によって救われたセーラー戦士たち」とのモチーフは劇場版のみならず、テレビ放映版にも時おり姿を見せるものです。が、まあ、顕著なのはクソ真面目なガリ勉だったセーラーマーキュリーだけではないかなあ……とぼくは感じます。セーラージュピターもまた、初登場時は不良のようだと恐れられていたところをうさぎに声をかけられる、といったエピソードがありましたが、以降、それを引っ張るわけではない。
     セーラーマーズはうさぎと一番親しい間柄ではあれ、「それ以前は孤独」だったのか。セーラーヴィーナスはどうか。劇場版を観てもこの二人の「かつて、孤独だった」描写はいささか強引であったことは見て取れるはずです。
     これらはちょっとした瑕疵であり、娯楽作品としての『セラムン』の価値を損なうものではありません。しかし(何らかの政治的意図を持って)やたらと「セーラームーンの母性」を賛美されると、「良質な娯楽作品」であった本作までが、何やらうさんくさいものに見えてきます。
     というのも、上のような側面を全面的に否定する気はありませんが、仲間たちの関係性の中で、うさぎはどちらかと言えばスキルのある他の少女たちに比べてみそっかす、変身後も「守られるべき姫」としての側面の方がむしろ、強いように思われるからです。師匠は彼女を

     うさぎは楽天的で物怖じや人見知りをしない、“近所の世話焼きおばさん”気質だ。
    (128p)

     と形容していますが、そしてこれもそれなりに当を得てはいるのですが、上に書いた劣等生的な部分を見ずにこうした点ばかりを強調するのは極めてアンフェアです。

     いえ、それに留まりません。
     ご覧になったことのない方には感覚が伝えにくいですが、『セラムン』というのは基本、こんなシビアなお話ではないのですから。セーラー戦士たちは放課後、ファミレスに集っては、地球の平和について(彼氏が欲しいというガールズトークの合間に)語りあいます。当時、『セラムン』評論で著名な志水一夫氏が彼女らについて「汗一つかかず正義を守る」とちくりと揶揄していた記憶があります。師匠はタキシード仮面について、「実はセーラームーンに依存している」などと腐していますが、実際はセーラームーンが危機に陥ると、タキシード仮面は率先して楯になるんですね。そして、肉弾戦を展開する(『セラムン』の女児向けリファインとも呼ぶべき)『プリキュア』の戦士たちとは異なり、ムーンは実質的には相手にエネルギーを照射してヒーリングするだけの、「キレイな戦い」しかしない。
     実のところ、『プリキュア』に慣れた後、『セラムン』を観るとかなり驚かされます。肉弾戦の有無もそうですが、先のガールズトークに見られる(今の感覚で言うと)ビッチぶりと、そして、戦いの「不真面目」さ。
     正直、ここについては当時の感覚を正確に把握していないと語ることは困難です。
     セーラー戦士たちのバトルを観返すと、極めてコント的であることに驚きます。これは『ゴレンジャー』に端を発する戦隊のバトルがコント的であること、そして(『ゴレンジャー』自体は74年の放映であり、源流はドリフなんじゃないかと思うんですが)それが80年代的ニヒリズムに源流を持つことを知らないと理解ができないのですが、ともあれそうしたバックボーンのせいもあって、実はセーラー戦士たちの戦いはかなり、コミカルなものであったのです。


    ■少しはマジメに戦えと言いたい。

     つまり、『セラムン』は変身ヒーローのパロディとして誕生した。
    「パロディ」であるが故に必然的に「コント」性を獲得したとも言えるが、いや、実のところ「元ネタ」である『ゴレンジャー』が元からコントであり、それを引き継いだという感が強い。それは時代背景故の必然とも言える。とは言え一番大きな理由は、やはり女児にシビアなバトルが期待されていなかったから、ということに尽きるのではないでしょうか(プリキュアは肉弾戦で戦う勇壮な戦士ですが、当然、女児の喜ぶ生活描写やモンスターのコミカルさは遵守されています)。
     ちなみにこれは余談ですが、217pではタキシード仮面は「滑稽」な存在であり、それが「茶化される」場面もあるとの指摘がなされています。それは全く、間違いではありません。しかし上の動画を見ればおわかりになるのではないでしょうか。そう、タキシード仮面が「滑稽」なのと同じくらいに、セーラー戦士たちもまた、「滑稽」であることに。だからこそ彼女らは愛すべき、実際に愛されたキャラなのです。それは丁度、のび太と同様に
     むろん、彼女らは最後の最後までおちゃらけているわけでは全くなく、「やる時はやる」のですが、それが皮肉にも日常描写との連続性を断ってしまうという事態を引き起こすこともありました。
     例えば、ファーストシリーズのクライマックスはどうだったでしょうか。
     ムーン以外のセーラー戦士たちは敵と戦い、一人、また一人と倒れていきます。
     何というか、『聖闘士星矢』みたいな感じです。
     実のところ、セーラームーンが敵に勝利した時点で奇跡が起こり、仲間たちは何ごともなかったように復活するのですが、この最終回が前後編であったがため(つまり、仲間が死んで前編が終わってしまう!)、女児たちがものすごいショックを受けたといいます。
     当たり前です。
     恐らくですが、女の子向け作品であるにもかかわらず、スタッフがつい男の子向けアクションを作っていた時の手癖を出してしまったのではないでしょうか。
     そのせいで言わば、女児向けアニメで描かれるべき日常の楽しさとバトルのシリアスさに齟齬が生じてしまった。その亀裂の大きさは残念ながら、劇場版と通常回ののび太の比ではなかった
    「滑稽」さと言うことでいえば、忘れてはならないことがあります。
    「原作」では二の線であるセーラーマーズがアニメでは二枚目半にされたことです。
     詳しくない方のためにご説明が必要となりましょうが、『セラムン』の「原作者」が若い女性であったことは、比較的有名かと思います。しかし、この「原作者」とアニメ側に確執めいたものがあるらしきことも、ファンの間では有名です。
     もちろん、そうした情報は明確に可視化される形で表に出てくることはありませんが、「原作者」が(先に挙げた『R』ではなく『S』の)劇場版の脚本を担当し、そのクオリティが低かったことに対しての苦言を書いたアニメスタッフのブログ記事がアップされていたことがあったはずです。
    「原作」漫画の連載開始時期とアニメの放映開始時期を見ても、企画が同時進行していたことは、ほぼ、間違いがありません。また、本作の雛形となった漫画『コードネームはセーラーV』を見ると、言っては悪いのですが非常に拙い作で、『セラムン』のプロットや設定を本当に「原作者」が作ったかどうかは疑問が残る。この「原作者」は、東映にありがちな、実質的には「キャラデザ及びコミカライズ担当」というパターンだったのではないでしょうか。
     そして、先に書いたマーズは「ハイヒールでおしおきよ!」が決めゼリフの女王様的キャラで、男嫌い。「原作者」のトークを見ていくと、彼女のホンネをかなり表したキャラだと想像できます。いえ、他のセーラー戦士たちも「原作」版ではムーンのナイトという性格が強調されており、そこにはアニメ以上に百合的なムードが立ちこめています(「原作」ではセーラー戦士たちが「彼氏が欲しい」と漏らした後一転して、「私たち本当は姫にぞっこんで、男なんか目じゃない」と啖呵を切る、アニメへの「返歌」とも思えるシーンがありました)。
     即ち、「原作」版のセーラー戦士たちは女子校的厨二的ミサンドリーをこじらせた存在と言え、中でも「恐い」印象を与えるマーズは、前回もちょっと書いたように女児人気が最低でした。
     しかしそのマーズを、アニメスタッフたちは「気取ってはいるがドジで、本当は気のいい少女」としたのです。「男無用の勇ましい女」であるはずが、衛(後のムーンの彼氏)に横恋慕して周囲をうろちょろしてはドジを踏むという、かなり辛辣なギャグまでも演じさせられていました。ついには「アニメファン」という設定までが与えられてしまったのですが、これもどちらかと言えば格好が悪い感を出すためのものでした。こうした改変はキャラクターの魅力を引き出すためである、との旨が、当時のスタッフインタビューで語られています。
     もちろん、こうした流れについて、本書は一行たりと触れていません
     本書は専らアニメ版に限定して批評すると明言されており、「原作」を扱わなかったのでしょうが、それでもこのマーズの改変は、記しておくべきだったでしょう。「男性に依存しない、毅然とした少女」という師匠の淫夢を明快に否定したのは他ならぬ、このアニメ版マーズだったのですから。
     もう一つ触れておくべきことがあります。
    『S』のクライマックスはどうだったでしょうか。
     病弱な少女・ほたるの中に眠る悪の戦士「セーラーサターン」。それが覚醒しては地球が滅びる。セーラームーンたちの先輩であるセーラーウラヌス、セーラーネプチューンは大の虫を生かすため、ほたるを殺すべきと主張。しかしうさぎたちは誰も犠牲にしない道を選ぶべきだと対立します。
     しかし!
     ここで普通ならば、うさぎたちの理想論が勝利するのが正しいエンタメであろうに、こともあろうに彼女らは、ほたるを救うために具体的な行動を起こさない。ウラヌスたちがほたるに危害を加えようとした時にだけ、場当たり的に理想論を吐くだけです。
     結果、ほたるは覚醒し、街は廃墟と化し、仲間の戦士たちも倒れるというのがクライマックスの展開です。
     ウラヌスが「全てはお前の甘さが引き起こしたことだ。これで満足か、セーラームーン!」と絶叫する中、ムーンは為す術なく立ち尽くすのみ。
     もっとも、その後はまた奇跡が起こり、事態はウヤムヤで収束するのですが――。
     この『S』のクライマックス、エンタメとしてはあまり評価できません。
     純粋に、(それこそ『エヴァ』のラストのように)話を上手くまとめられなかったが故のヤケクソの展開であったかのようにも見えます。しかし――いや、むしろだからこそ、ここにはスタッフたちの美少女戦士に対する悪意が透けても見えます。作品世界の綻びを、スタッフは悪意でもって意図的にクローズアップして見せた。その時のスタッフの声はきっと、ウラヌスの声と「完全に一致」していたのではないでしょうか。
     それはつまり、「女性性を放棄しないまま、しなやかに地球を守る」というフレコミの「母性の戦士セーラームーン」の「誰も犠牲にはしない」との言葉は、内実を伴わない甘言だ、と――。

     師匠の弱者男性への見ていて退いてしまうような憎悪について、ここしばらくずっとご紹介を続けてきました。前回も、本書にまでのび太をdisる箇所があることを、お伝えしました。
     本書のそうしたのび太disりコーナーの節タイトルに「運命の相手を“待っている”のは、のび太系男子」というものがありました。この種の「男の子は白馬に乗ったお姫さまを待ち望んでいるが、女の子たちはそんな男の子たちを見捨て、一人で旅立ったのだ」的な言説は、本当にバブル期によく見られたものです。というか、この文章自体が内田春菊師匠が出て来た時に大塚英志氏の書いた作品評を記憶で再現したものです。
     しかし、内田師匠の凋落ぶりは、言っては悪いですが本作の「原作者」である武内直子氏のそれと、かなり近い。
     そして――ここまでくれば、もうおわかりになるかと思います。師匠がここでも重大かつ悪辣な事実の隠蔽を行っていることに。
    「待っている」のはむしろ、セーラームーンの方であった、ということです。
     何しろ師匠が否定してみせたEDテーマ、「プリンセス・ムーン」には「恋人が来るのを待っている」と歌われているのですから。
     公式設定で、うさぎの将来の夢は「お嫁さん」であるとされているのですから。
     そして、そうした事実を隠蔽してまでママのキスを待っているのは、のび太系男子ではなく師匠に代表されるリベラル君であった――どうやら、そんなオチがつきそうです。
    「女の時代」のアイコンとして燦然と輝いていた『セーラームーン』、しかしその「原作者」はいささかその才能に疑問の残る、キツい言い方をすればお飾り。
     そして――実際の『セラムン』のクオリティを保っていたのは佐藤順一、幾原邦彦といったシリーズディレクター、当時まだ二十、三十代だった若い男性スタッフたちの働きによるものが大きかったように思われます。これはまた、「萌え」や「アキバ系」が先端文化として採り挙げられる時、決まってアイコンである二次元美少女やそれの模倣であるコスプレイヤーの少女たちが持ち出されるのに対し、実際の作り手たちの多くが男性であったこととパラレルでしょう。
     彼らはアニメのクオリティを上げると共に、セーラー戦士たちを「気取ったムカつく女」から「親しみやすい俗っぽさを持つ少女」にすることで、女児たちの支持を得たのでした。
     しかし、それは「生命懸けで何かをなす」こととは齟齬が生じる。だからこそ女児やセーラーウラヌスが泣き叫ぶ結果となったのです。
    「女の時代」の寵児であったセーラームーンは、「ステキな美少年」――というには微妙かも知れませんが、事実、幾原はイケメンでした――にツッコミを受け、フェミニズムのウソの全てを暴き、その敗北を予言した――そんなところが実態だったようです。
     師匠は「原作者」のインタビューを引き、

    「女子の欲望すべて」。これほどまでに『セーラームーン』という作品の魅力をひと言で言い表した言葉はない。 それまで、「男性受け」を念頭に置いたお仕着せの「かわいい」をまとっていた女子たちが、「誰かがいいと思うもの」ではなく「私がいいと思うもの」に価値観をシフトさせた。それがコギャルであり、セーラームーンだった。
    (175-176p)

     と語ります。
    「男子の欲望」は全て否定する師匠が、どうして「女子の欲望」はここまで全肯定なのかと問いたくなりますが、「女は全て正しく男は全て間違っている」が師匠の所属する闇の結社のドグマなのだから、仕方がありません。
     それよりも気になるのが、ここでも師匠が事実をスルーしていることです。
    『セラムン』は『ゴレンジャー』のパロディであり――そしてまた、オタク男子たちがOVAなどで描いていた「戦闘美少女」もののパロディでもありました。ようやっとアニメが若者文化として根づき、作り手にも若手が育ちつつあったこの頃、オタク男子の、オタク男子による、オタク男子のための「強い美少女が戦う」OVA(テレビメディアなどには乗らない、ビデオとして販売されるアニメ)が佃煮にするほど作られました。『セラムン』は明らかに、その延長線上に存在しているのです。
     以前、ぼくの周囲のオタク男子たちが、『セラムン』が女児向けであると理解できず、「オタク男子の欲望」をこそ受けて作られたものと頑なに信じ込んでいたことを、ご紹介しましたが、それにはそうした理由があったからなのです。そうそう、放映当時、テレ朝(キー局)の社員でも口の悪い者は、本作を「キャバクラアニメ」などと呼んでいたとも聞きます。
     そう、ぼくたちが女の子に「男性受け」を念頭に置いたお仕着せの「かわいい」をまとわせていたところに、セーラームーンは現れて、こう言ったのです。
    それいいじゃん」と。
    キミがいいと思うもの」を「私もいいと思ったよ」と。
     師匠だけが、それを理解できていません。
     そうして、『セーラームーン』は女児の快楽原則に従った、極めて良質なエンタメになったのです。
     決して、フェミニズムのプロパガンダやリベラル君に「ママのキス」を与えるために描かれたものではありません。
     だからこそその実態は、フェミニストやリベラル君たちの妄想からは、遠く遠く隔たっていた。
     そういうことだったのです。

  • セーラームーン世代の社会論

    2017-07-07 19:439

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    ジェダイト    「泣け! わめけ! 男がいなければ何もできぬのか。所詮女などは浅はかなものよ。ハッハッハッ」
    セーラーマーズ「今どき女よりも男のほうが偉いなんて言ってるのは、オジさんだけだわ」
    セーラーマーキュリー「そうよ。女を軽蔑するなんて封建時代の名残よ」
    セーラームーン「男女差別はんたーい!」
    三人「戦うべきは、傲慢な男、ジェダイト」
    セーラームーン「女の子をバカにしないで、女の子はいつも泣いているばかりじゃないんだから」

     本書に引用された台詞をまず、お送りしました。
     これは『美少女戦士セーラームーン』(無印と俗称されるファーストシリーズ)13話「女の子は団結よ! ジェダイトの最期」の決戦時のやり取り。敵の大幹部ジェダイトとの決戦編であり、山場ではありますが、五年に渡る長寿番組になった『セラムン』の中では本当に序盤も序盤のストーリーです。

     ――さて、今回採り挙げるのは稲田豊史師匠の著作。同じく師匠の著した『ドラ騙り』――じゃなかった、何だったっけ、忘れちゃった――前回まで書評していたご著作の前著にあたるものであり、『ドラレイプ』――じゃなかった、何だったっけ――そちらの方でもこの著作からの引用が度々なされている、姉妹編とでも言うべきご本のようなので、ことはついでと目を通してみたのです。
     そんなわけで本稿がでっち上げられたわけでありますが、最初に書いておくと、正直、前回のような煮えたぎる怒りは、本書に対しては湧いてはきませんでした。
     そりゃそうですよね、『ドラヘイト』――じゃなかった――アチラのご本はのび太をdisることで弱者男性を惨殺することが目的とされていましたが、となるとそれとは裏腹に、こちらはセーラームーンをageることで強者女性を賞揚することが目的であるのは、容易に想像ができます。そして一読してみれば案の定、『渡辺篤史の建もの探訪』と同じような内容が展開されていた――というのがまあ、結論なのですが、それだけではレビューになりません。ない知恵を絞り、何か評論するためのフックになる記述でもあれば……そう考え、探し出してきたのが上の箇所です。
     このやり取りを、我らが稲田豊史師匠は2pにも渡って引用なさっております(このページ以外、ここまでに長ったらしい引用はありません)。
    「あーあ」以外の感想が浮かんできませんね。
     と言っても「あーあ」だけでは思うところが伝わらないかも知れません。『セーラームーン』、メジャータイトルとは言え、今では詳しくない方も大勢いらっしゃろうと思いますので、多少、詳しく解説していくことにしましょう。
     実は、人によっては意外に思われるかも知れませんが、『セラムン』において、ストレートな形で「男女差別反対」的な主張がなされたことはほぼ、ありません。上のやり取りはぼくが記憶する限り、唯一の例のはずです。
     何というか、本当に、おしゃれな女の子向けアニメで野暮なことはやってくれるな、というのがぼくの感想でした。
    「相手はステキな美少年(と、挿入歌で歌われていました)」であるからこそ、セーラー戦士たちの戦いは華やかなのであって、それに、「おじさん」役をムリからにやらせることはあるまいと。
     で、何より、一番のアイロニーは、この「異色」なセリフをセーラー戦士たち(と、ステキな美少年)に叫ばせたのは富田祐弘氏だったということです。氏は本話を担当した脚本家で、当時で既に長いキャリアを誇るベテランだったのですが、正直、『セラムン』ファンからは評判が悪い人物でした。つまり、上のやり取りは新世代のアニメでロートル作家が書いたいささか「時代遅れ」なものであった、というわけです(更に皮肉なことに、本話の作画監督がやはり、そうした評判の悪い旧世代の人物、中村明氏であったことを、今、調べて気づきました)。
     しかし、それは、案の定、予定通り、まんまと、当時の『朝日新聞』の記事に引用されました。『セラムン』を「強い女」であると持ち上げる文脈で採り上げたくて仕方がなかった同紙が、このセリフを必死になって探し出してきた、というわけです。
     むろんそしてそれはまた、稲田師匠も同様です――いえ、もっとも、彼はこのやり取りに対し、根本では好意的に評価しつつも「類型的で大人が見るに堪えがたいセリフ」との感想を漏らしているのですが。また、この記述がある節のタイトルは「セーラームーン世代のフェミニズム(もどき)」とわざわざ(もどき)という言葉が付されています。正直、ここにおける師匠の真意は、今一わかりませんが、そこは後述することにします。
    『セラムン』が放映されたのは92年から97年。バブルそのものは崩壊していましたが、その余韻がまだ色濃く残っていた時期です。「原作者」である武内直子氏がブルジョアであることも手伝い(また、本作がある程度上の年齢層の女性をも意識して作っていたことを考えれば、その論理的必然として)、作品にはバブル的豊かさが溢れていました。
     言うまでもなく当時は均等法導入直後であり、フェミバブルもまた起こっていた。今となっては想像しにくいほどに、当時の週刊誌等メディアでは「女が強くなった、強くなった」と病人のうわごとのように繰り返されていました。CMではOLが「おじさん」の上司を圧倒する、みたいなのがやたら流れていました。今ちょっと思い出せるのを挙げると、『SPA!』だか何だかの当時のキャッチコピーで「女にリードしてもらった方が楽だと、時代が言い始めた」みたいなのが確か、ありました。
     恥ずかしすぎてこっちの方が耳まで真っ赤になっちゃいますね。
     セーラームーンはそうした文脈の中でこそ、登場し得たのです。
     師匠の主張もまた、それと本質的な部分では同じです。何しろ彼はセーラー戦士と「コギャル」とが同根だなどと言っているのですから。
     以降、森高千里だ、SPEEDだ、赤名リカだと当時のアイコンが並べられていくのですが、(本当に、本書を読んで初めて知ったのですが)SPEEDって小学生とかにあからさまにセックスの暗喩の歌を歌わせていたらしいんですね。そういうのってどうなのかなあ。まあ、子供とのセックスをよきこととするリベラル君たちには無問題なんでしょうが。
     そう、この時期は長らく「女の時代」などと呼ばれていた。
     その実態は、極めて空疎なモノであったとぼくは考えますが、師匠の見方はまた違うように思えます。先の「男女差別はんたーい!」へのアンビバレントな評価は、本書全体から推察すると、「肩肘張って男に対抗するのではなく、自然体で戦う戦士」とでもいった師匠の「セーラームーン」観に端を発していると考えるべきなのかも知れません。「セーラームーン世代」とやらを以下のように評価している辺りに、そこは表れています。

     セーラームーン世代よりも上の団塊ジュニアやバブル世代のように、「男には負けない」ことが前線を志向する理由ではないのだ。
    (109p)

    「女を捨てねば男に(仕事で)対抗できない!」的な、一部世代のノイローゼじみたい強迫観念とは、当然ながら一切無縁であり、通勤ファッションや仕事で使う文房具に至るまで「女子性」をキープしようとするのは、セーラームーン世代の好ましき美点であろう。
    (110p)

     またセーラームーンの変身は「ムーンプリズムパワー・メイクアップ」と呼ばれるのですが、一体全体どうしたことか、師匠はこれを以下のように評します。

     この「飾らない素の自分こそが魅力的なのだ」という強い自己肯定感は、セーラームーン世代に含まれる「ゆとり世代」の特徴と、良くも悪くも共通する要素である。
    (98p)

     リップが光ったりコスチュームに身をまとっていく演出など、「メイクアップ」がお化粧のメタファであるのは自明で、「飾らない自分」という言葉とは180度違うのですが(師匠は「変身」は「機能強化」であって「機能変更」ではないから飾ってはいないのだと支離滅裂なことを言うのですが)、この論理の乱れも上の女性観を鑑みれば納得がいきます。
     かつての「女を捨て、男並みになろうとしたウィメンズリブ」などではなく、「女性性を捨て去ることのない、しなやかなフェミニズム」。口が腐りそうな甘言ですが、当時のフェミニストたちは確かに、そうしたイメージ戦略を取っていた気がします。もっとも同時期に彼女らは「ジェンダーは虚構なのでリセットすべき」と言っていたのだから、結局はメチャクチャなデタラメでしかないんですけれどもね。

     本書二章では、『セラムン』の敵キャラについてページが割かれます。
     本作の第二期、『セーラームーンR』の敵勢力の幹部勢あやかしの四姉妹やエスメロードを、師匠は罵倒します。ファーストシリーズの敵幹部が「ステキな美少年」であったのに対し、彼女らは「大人の女」です。エスメロードの体現する「ジュリアナ」的風俗など、バブル的な女性像を、師匠が否定すべきモノとしているのは意外と言えば意外でした。恐らく当時の『セラムン』はそれこそ「ジュリアナギャル()」とそれほど違わない位相で捉えられていたはずで、またコギャルもそれに連なるモノとしか考えようがありませんから。
     また、第三期『セーラームーンS』の幹部勢ウィッチーズ5は明らかにリアルなOLそのままの描かれ方がなされており(作戦行動中は普通の人間の格好をしていましたし)、これは『セラムン』が「バリキャリ女子」の上昇志向を否定しているのだとご満悦。ここも意外と言えば意外なのですが、師匠にとっては過剰な競争指向が否定されるべきモノなのでしょう。
     第四期『SuperS』に登場した悪の幼女軍団アマゾネスカルテットも「成長を忌避する存在」として全否定。この辺は、まあ、そんなに外したことは書かれていないのですが、笑ってしまうのが以下の下り。

     このように大人を嫌い、“純粋(ピュア)”という魔法の言葉を盾に幼児性が抜けない「コドモオトナ」は、昔も今も世に溢れているが、そういう存在にセーラームーンたちはまさしく“お仕置き”の鉄槌を下す。モラトリアムのなかで自ら成長を止め、成熟した大人を自分の理屈で小バカにし、(失敗するかもしれない)夢へのチャレンジを回避し続けて生きる彼女たちに「そんなことはない!」と教育的指導を行うのが、セーラームーンたちというわけだ。
    (70p)

     リベラル君というのは言うまでもなく、オタク文化を自分たちの政治的主張のために利用することを使命とする存在ですが、この牽強付会ぶりにはさすがに笑ってしまいました。
     セーラー戦士たちの敵は、「ステキな美少年」に始まって年上の女、オカマと続き、「年下の少女」であるアマゾネスカルテットは悪い言い方をすればネタが尽きての苦し紛れとでもいった感があり、(当時見ていた記憶で書きますが)師匠の主張通り「モラトリアム」の体現者ではあったでしょうが、そこまでテーマ的に掘り下げられたキャラクターとは言い難かったように思います。
     そこを、師匠は自説に無理やりこと寄せているわけであり、その強引さは今までご紹介した彼の言説からも充分、おわかりいただけることではないでしょうか。
     そして、このアマゾネスカルテットのボスとも言えるのがネヘレニア。
     師匠は彼女を「老いを恐れる美魔女」と評し、(ファーストシリーズのクインベリルも熟女と言っていい存在であり、少女が主役である以上、ラスボスが「大人の女」であるのが妥当であることは、多言を要しないでしょう)腐した後、驚いたことに以下のようなことを言い出します。

     ただ、『SuperS』の結末には重大な穴がある。歳を取り、もはや美が自分の手もとからすり抜けていったと感じている現実の女性(ネヘレニア側の女性)は、一体どんなマインドセットをもってそれを乗り切ればいいのか。その答えを『SuperS』は教えてくれない。
    (74p)

     そんなこと、子供番組に教えてもらおうとするなよ……と言いたいところですが(「セーラームーンに学べ!」的な売り出し方がなされていたからか、本書はこうした妙な物言いが多いのです)、『セラムン』という作品全体を観てみれば、その答えは実のところ、極めて明快に提出されているのです。
     もっとも、師匠の読解力では理解できないでしょうから、それは後に説明して差し上げることにして、先を急ぎましょう。
     上に書いたように本書ではまず、敵勢力について述べられてから、第三章でセーラー戦士についての紹介がなされます。順序が逆でヘンな気もしますが、この種の番組は敵役が作品の性格を大きく規定する面もあり、それ自体はまあ、わからないではありません。
     わからないのは、肝心なセーラー戦士の紹介が極めて大雑把であることです。

     セーラーマーズ好きは、自己顕示欲の強い文化系女子の傾向がある。
    (120p)

     とか何とか一人につき1p足らずでささっと述べられているだけ。
     しかしこれすらメインの五人だけで、セーラーウラヌスについては何と驚くなかれ、「セーラームーンとLGBT」みたいな節で僅か3行の記述があるのみ(!)。
    『ドラ嬲り』もそうでしたが、ご当人はそれなりに作品のコアなファンであることが伺えるのに、その筆致はどこまでも薄っぺらなネット記事レベル、というのが師匠の最大の特徴です。
     五人について語るなら、例えばマーズが不人気、マーキュリーが人気だなど、いくらでも語ることはあるでしょうに(もっともマーキュリー人気は「大きなお友だち」にだし、マーズの不人気は原作におけるものこそが顕著でしたが)。

    ■よければ以下は聞きながら……。

     本書には「セーラームーン世代のアンセムとしてのエンディング曲」という奇妙なインターバルが設けられています。
    『セラムン』と言われて一番に思い出す曲となると、四年に渡って使われ続けたOPテーマ「ムーンライト伝説」だと思うのですが、師匠はそれをドン無視、一体全体どういうわけかEDこそが白眉だと言い立て、一曲一曲について思い入れを語っていきます。
     ……と言いつつ、ファーストシリーズに使われていたED、「HEART MOVING」、「プリンセス・ムーン」については初っぱなから「当時の視聴者層の主流だった小学生女児の幼い恋愛感情に寄り添った」、「女児特有のプリンセス願望を汲んだ」「自己陶酔ソング」とバッサリ。いや、視聴者に寄り添ってるんなら、好ましい歌のような気がするんですが……。
     そして「乙女のポリシー」を持ち出して、「全EDのなかでも1、2を争うセーラームーン世代人気を集める、超絶名曲」、「溌剌とした自己啓発ソング」と大仰に称揚します(ちなみに本当にそこまでの人気曲なのかについての根拠は近年、CMに使われたということ以外には示されません)。

    「女の子は男に守ってもらう、か弱い存在ではない。人生も運命も自ら切り拓くのが本当に魅力的な女の子だ」。
    (86p)

     と、別段歌詞に書かれていないことを書き殴りながら大喜び。
    「タキシード・ミラージュ」は「特筆すべきでない」「おのろけソング」と一蹴、「私たちになりたくて」も低評価。
     ところが「“らしく”いきましょ」を語る段になると、またしても小躍りを始めます。

     ここからわかるように、セーラームーンたちが体現する少女性とは、処女性やか弱さを売りにした「お嬢ちゃんぽさ」ではない。
    (89p)

     そしてまた、最後のED曲「風も空もきっと」についても全肯定。何だか知らないけど男と別れた後の歌でありながら、前向きなところがいいんだそうな。
     更に言うと、あそこまでOPを否定しておきながら第五期『セーラースターズ』のみに使われた「セーラースターソング」になるや、またも大喜び。

     さらに、この曲のフルコーラス版は、聴く者の取り巻かれている状況によって、「離婚ソング」「不倫ソング」「おひとりさまでずっと生きていく決意ソング」にも受け取れる。セーラームーン世代が今こそ襟を正して聴くべき問題曲だ。(92p)

     などと絶叫します。ご記憶の方もいらっしゃいましょうが、何故『セーラースターズ』のOPの内容がこうしたものかとなると、それは本編のお話がセーラームーンの彼氏であるタキシード仮面が行方不明になったところに端を発しているから、なのです。つまり本編のストーリーを巧みに暗示させるよう書かれたのがこの歌詞だったのです。お話自体が「亭主」が行方不明な間、新たなイケメンである星夜クンとよろしくやるという、疑似離婚、疑似不倫といった趣もあり、その意味で師匠の指摘は正しいことは正しい。しかしそれは当たり前のことを言っているに過ぎないし、過度に称揚するのは(まあ、道徳上というか、子供番組としてみた場合)どうなんだという気がしなくもありません。
     ちなみに、先に冒頭の会話以上に長い引用はないと言いましたが、これら曲については、自分の好きなモノだけしっかり歌詞が掲載されています。
     しかし、このインターバルが明らかにしたのは、何よりも師匠の、先にも書いた「コンテンツの、自説への強引なこと寄せ」ではないでしょうか。
     本作の五年という放映期間の間、「セーラースターソング」が使われていたのは一年。師匠が称揚するEDと否定するEDの割合だって大雑把に言って3:2。要するに多くの曲の中から、師匠は自分の好みの曲だけを恣意的に取り出しては、『セラムン』の本質だと強弁しているのです。
     今更になりますが、実のところ師匠の誉める歌はぼくも大好きだったりします。「風も空もきっと」だけは何とも思いませんが、他の曲の持つ勇壮さ、前向きさに感銘を受けたその気持ち自体は、きっと師匠と変わらないはずです。一方、師匠の貶す歌について、ぼく自身、好きではありません。お姫さまがどうのこうの、夢の中で会ったことがどうのこうの言われたって、男の子の心には響きませんしね。
     だから、「好み」という点でぼくと師匠とは見事な一致を見ているのです。
     ぼくと師匠との違いは、「他者の価値観を否定せずにはおれない」か否かです。
     お姫さまソングだって女の子の夢を語っているのだから、師匠も先刻ご承知の通り、セーラームーンは「お姫さま」なのだから(知らなかったらすみません)、それを否定したってしょうがないでしょう。
     この辺りで、みなさんもおわかりになったかと思います。
    「他者の価値観を排撃する」のはリベラル君の本能なのだから、責めようとは思いません。
     しかし師匠はセーラームーンの「ありのまま」が好きなのでは決してないのだ、ということは、指摘しておかなければならないでしょう。
     彼女らの中から、自分の好みにあう部分だけを目を皿のようにして選り分けて、称揚しているのだと。
     自らの政治的意図に、コンテンツを利用するため、に。

     実のところ、何しろ、懲りもせず本書でも師匠はのび太を攻撃しているのです(時系列からするとこっちが先ですが……)。内容はむろん、今まで繰り返しご紹介したことと全く変わりません。

     ひと言で言うなら、「のび太のように生きてもいいんだ」という空気が、現在の30~40代男性の間には漂っている。
    (137p)

     二者の決定的な違いはこうだ。セーラームーン世代は「自分がセーラームーンたちのように強くなりたい」と思っているがのび太系男子は自分が強くなりたいとは思っていない――これに尽きる。
    (139p)

     そしてタキシード仮面を「のび太男子」世代であると強弁し、だから受動的だ、そしてのび太も「毎年、劇場版で、事件に巻き込まれるから」受動的だとの、ナゾ論法。

     ネコ型ロボットという最高のお世話ロボットを待ち続け、「ことに挑む」際も常に受け身ののび太系男子、ここに極まれりだ。
    (p195)

    「げ……劇場版じゃドラえもんは助けられるお姫さま役のはずじゃ……?」
    「セ……セーラームーンも強引に変身させられたんだから受動的じゃ……?」
     などと、主張する度にいくつもいくつもツッコミ所がたちどころに浮かんできてしまうのが師匠流です。
     もうおわかりかと思います。
    「男がだらしない、しかしそんな男たちを一蹴し、颯爽とする女たち」。
     そうした、バブル期に佃煮にするほど溢れていた、「女の時代」を称揚する無内容な週刊誌記事。
     本書はそれの、見事なまでのリプレイです。
     そう、「女は強くなった」はずだったし「世界を手に入れる」はずでした。
     師匠がセーラームーンと並べた赤名リカにしても、前も指摘したことがあるのですが、この人がドラマ内で男性をセックスに誘ったことが、後年何年にも渡って「女性が性に積極的になったこと」の根拠として使われていました。「フィクションの、たった一例」を根拠にしている時点で、もうお察しなのですが、当時は誰も疑問に思わなかったのです。
     それが、なぜこんなことになってしまったんだ?
     いつも言うように、女性たちは政界にさほど進出するでもなく、経済をさほど動かすでもなく、主夫を養うでもなく、一方、本人たちも婚期を逃して、やり場のない「女子力」をこじらせ、何だかパッとしない存在になってしまいました。
    「セーラームーン世代」というのがもしいるのならば、それは願い叶わず、自分たちは割りを食った世代だという被害者意識まり、その鬱屈をおおむね弱者男性に向け「社会正義」の旗印をエクスキューズに私怨を爆発させ、押し寄せる劣等感と吐き出すルサンチマンの出納業務で、毎日が忙殺されている人たちではなでしょうか。
     フェミニストそのものですね。
     わかりにくいので書いておきますが、上の赤文字は『ドラ殺し』において師匠の書いた「のび太系男子」評から引っ張ってきたモノであります。
     そんなわけで本書は「強い三次元女子」に萌える変態どもの「夢よもう一度」企画、バブルの頃を思い出したい人々の「懐かし企画」である、とまとめれば、いろいろと見えてくるモノがある気がします。
     ――さて、気づくともう随分と文字数を使ってしまいました。
     先に「それは後に説明して差し上げることにして」と書いたことについても、その機会を設けられないままになってしまいました。
     というわけで、続きは次回ということで……。