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  • 実践するフェミニズム――【悲報】テラケイが表現規制に賛成だった件

    2018-12-07 07:232
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     兵頭新児の一人読書会、最終回である今回はいよいよ「ポルノ」にまつわる後半戦をお届けします。
     前回前々回をご覧になっていない方は、そちらから読んでいただくことを、強く推奨します。
     また、noteにも同じ記事をうpしております。もし当記事がお気に召しましたら、そちらの方にも「スキ」だけでもつけていただけると幸いです。
     さて、テラケイ師匠、青識師匠、借金玉が大絶賛の本書ですが、ポルノについて述べた第5章ののっけから、「行動する女たちの会」もマッキノン師匠も、そしてドウォーキン師匠も、その全員を延々延々延々延々称揚し続け、こちらのやる気をどっと減退させます。前回、前々回をお読みの方はおわかりでしょうが、本書の、そして牟田師匠のスタンスはほとんどマッキノン師匠と同じ。

    彼女たち(引用者註・マッキノン師匠とドウォーキン師匠)の定義では、ポルノとは、女性が人間性を奪われ性的対象としてのみ表現されている、女性が苦痛や屈辱を楽しんだり強姦を喜んでいるかのように描かれている、乳房や膣、尻など身体の部分のみが女性の全体から切り離されて強調して描かれている、などの特徴を持つ、「絵やことばで女性の明らかな性的服従を描いたもの」であり、「ポルノは性(セックス)に基づく搾取と従属が組織的に実践されたものであり、差別的に女性を傷つける」。
    (149-150p)

     本書の、ことに後半を読んでいる間、実のところぼくはずっと祈るような気持ちでおりました。何しろ上に挙げたような「アンチフェミ」と呼称されている連中が、本書を称揚しているのですから。しかし(今まで見てきた通り)そんなこちらの期待をことごとく裏切り、本書は古色蒼然たるフェミ本でしかありませんでした。いえ、正直に言えば、それは予測していたことではあります。ただ、それでも恐らくポルノについてだけは一応、多少なりとも冷静な記述がなされており、「アンチフェミ」のお歴々はそこを評価したのだろう、と思っておりました。
     だから、上のような記述に失意しつつも、両論併記のような形ででも、後に反論が添えられるのではないか……と思いつつ読んでいたのですが。
     牟田師匠はフェミニストのアンチポルノ運動が必ずしも女性全般に受け容れられたわけではないと指摘します。うんうん、そこがわかってるだけでもまあ、フェミの中ではマシじゃないか……と思いつつさらに読み進めると。

     私はここで、ポルノ批判が揶揄的な反応や批判を呼び起こしてしまうから、少なからぬ反発を女性からも受けるから、フェミニストのポルノ反対運動に問題があるなどといっているのではない。むしろ、そのようないささか感情的とも言える反発は、ポルノ批判が問題の核心をついてパンドラの箱を開けた証拠だ。内容のいかんを問わず、新鮮でラディカルな主張というのは、当初は荒唐無稽、「非常識」に聞こえて当たり前だ。
    (151p)

     つまりフェミニストが女性からも反発を食らっているのは、彼女らが革新的で、正しかったからだったのだあぁぁ~~~~~!!
     ΩΩΩ<な、なんだって~~~~~!!??
     怪しげな主張や発明をするトンデモ研究家が、自分を宗教裁判にかけられたガリレオになぞらえるのといっしょです(あ、でも俺も自分の理論が受け入れられない時、似たようなことを言うけどな!)。
     ちなみに本書、白饅頭師匠が超絶賛してます

    実際、ポルノへの異議申し立てが有効で妥当な主張だったことは、ポルノの規制や撤廃にはつながらなかったとしても、一〇年の後、セクシュアル・ハラスメントや性暴力を含めて、性の問題をめぐる社会の「常識」がこれだけ変わってきていることからみても証明されている。ポルノを批判するフェミニストたちに、やりすぎ、ヒステリックだとまゆをひそめる女性はいまもあるだろうが、身体にタッチしたりカラオケでデュエットをしつこくしたがる上司に、「それってセクハラよ」といなすことができるようになったのは、もとをたどればその「ヒステリック」と揶揄されてきた女性たちのおかげであることを知った方がいい。
    (151p)

     これ、時々「ツイフェミ」とやらが吐く暴言と同じですよね。「誰のおかげで女性が安心して生きられる世の中になったと思ってるんだ」と。
     しかも、ここまで言っておいて「フェミニストのマジョリティは規制に与しない(大意・152p)などとぬけぬけと続けるのも大した心臓です。
     しかし、確かに、「行動する女たちの会」のやってきたことは、「規制」というよりは「テロ」と呼ぶべきものではありました。フェミニストも「表現の自由クラスタ」も左派ですから、とにかく国家の規制だけを念頭に置きたがりますし、だからこそ「自分たちの規制はキレイな規制、規制にはあたらない」との「揺らがぬ信念」からこのようなことを言い続けるのでしょう。
    「いや、それでも国家の規制をよしとしないだけマシだ」といった見方も可能かもしれません。
     ですが、師匠はこんなことも言っているのです。

     それは、AV(アダルトビデオ)や写真の中でレイプが描かれることがかりに許されるとしても、レイプや女性に対する暴力がAVというフィクションの形をとって行われるのが許されるわけではないということだ。
    (153p)

     れれっ!?
     どういうことでしょう。
     い……いえ、御田寺圭師匠ご推薦の書籍に軽はずみなことが書かれているわけはありません。これは「フィクション」を謳ってその中で本当のレイプが行われる可能性がると言いたいのでしょう。それは確かに、単純な労働上の契約違反の問題です。
     が!
     ここで例に挙がるのはバクシーシ山下の残忍なAV。確かに同監督の作品はフェミニストによってレイプ疑惑が叫ばれたことがあるのですが(その疑惑にどれだけの妥当性があるのかは知りませんが)読み進めてもその問題について語られる様子はなく、ただ同監督の作が残忍極まりないものであるからけしからぬというだけの話。
     そりゃ、確かにそんな胸糞なAVはぼくも見たくないけど、この理屈が通るならエロ漫画など純フィクションの表現でも、残忍なものは規制してしまえる(ぼくも残忍性の強いものはエロとはまた別な暴力関連のレーティングなりゾーニングなりがあってしかるべきと考えますが、それとこれとはまた、問題が別です)。

     そのとき言い訳になるのは、そのAV女優は自由意志で出演した、契約に基づているというものだ。金を稼ぐ目的で納得してやってるんだ、その証拠にこれまで暴力を受けた、強姦されたと警察に届けたような女優はいない、というわけだ。(154p)

     いや、自由意志で契約に基づいて納得しているものすらも駄目だと言い出したら、それはポルノ全否定でしょう。その証拠にこれまで暴力を受けた、強姦されたと警察に届けたような女優はいくらもいるのですから。そもそもそうした事例はあってはならぬものではあれ、常に起こり得ることです。上の強姦を過労死や労働上の事故死に置き換えれば、あらゆる「労働」はNGになってしまうでしょう。
     これに関して、師匠は一応の補論を試みているのですが、それが「契約があれば殺人や暴力が許されるのか」などというシリメツレツなもの。こういうのを「詭弁」と言います。
     そして「第二に」と前置きしてようやっと契約違反の可能性を疑いだします。いや、順番が違うというか、こうなると「契約違反」は自説を補強する言い訳として無理に持ち出してきているとしか言いようがありません。
     一応、補足しておきますと、この後さらに、師匠は労働前の説明が不足していること(上記のバクシーシ監督は、女優に内容の説明をほとんどしない旨を発言しています)、現場で女優が「やっぱり嫌」と言ったのに撮影が続いたら、といった可能性も指摘しています。ここは一応の納得がいくものです。しかしむろん、だからといって上の主張が正当性を帯びるわけでは、全くありません。
     ちなみに本書、『矛盾社会序説』の著者が超絶賛してます

     さて、読み進めると、ストロッセン師匠(本書ではストローセン表記)についても言及があります。
     このストロッセン師匠、一時期は「表現の自由クラスタ」の口から唯一出てくる「真のフェミニスト」の名前でした。ポルノを擁護しているから素晴らしいと。ぼくも読もう読もうと思いつつ、読めずにいるうちに、すっかり名前を聞くこともなくなりましたが(ネオリブのおかげでしょうが)。
     しかしここを読む限り、そのストロッセン師匠の主張とは「検閲が実地されれば、女性たちの権利のための表現も対象となり、男女の平等を達成しようとするフェミニストの力をそぐことになるという。(156p)」というバッカみたいなものなのです。ドウォーキン師匠の反ポルノ論文なども「ポルノである」として検閲の対象になってしまうではないかと。ドウォーキン師匠はこれに対し、ポルノをなくすためには「値打ちのある犠牲」と反論しているといいますが、仮にポルノ撲滅を絶対の正義とするならば、検閲がなされた時点で目的を達成できるのだから、反ポルノ論文など不要になるわけで、これじゃあドウォーキン師匠の方が理は通っています
     もっとも、フェミニストの流す中絶推進の情報すらもポルノ扱いされるといった、また「別枠」の危惧も語られてはいます。しかし、これもあくまで「ポルノそのものに対する否定的スタンス」を揺らがせるものではありません。重要なのは「ポルノはけしからぬ」というフェミの第一義を、牟田師匠が(そしてこの引用を読む限りにおいてストロッセン師匠も)「全く疑い得ない真理」であると捉えている点です。
     ストロッセン師匠、以下のようなことも言っているそうです。

    ストローセンは、この対立を超えて、ポルノ検閲が「スケープゴート」となって女性の運動が女性差別や女性への性暴力をなくそうという建設的方向に進むことを阻害すると主張する。
    (157p)

     まずこの「ガス抜き」論、以前も言ったように何でも貼りつけられる、意味のない万能理論ですが、さらに「ポルノを悪役にすると性犯罪者を免罪することになる(大意)」と続けます。

     ――え? 兵頭、それは正論ではないか。悪いのは性犯罪者なんだから。まさかお前、性犯罪者を擁護するのか?

     違います。性犯罪者を擁護することはフェミ様の聖なる使命でしょう。
     先を続けます。

     ポルノが女性の人格や性の自由の侵害を表象しているとすれば、それは現実の社会の女性への差別や人権侵害を反映しているからだ。
    (159p)

     おわかりでしょうか。
     師匠は「だから現実の方を変えよ」とおっしゃっているわけです。しかし、そんなこと言われたって、何を変えるんでしょう?
     レイプが現実に起こるからレイプネタのポルノが作られるのだとの主張、フェミニストの合言葉である「ポルノはテキスト、レイプは実践」とのロジックの真逆です。しかしならばそれが正しいのかとなると、丸っきり理には適っていません。日本は七十年間平和ですが、戦争モノのコンテンツはずっと作られてきたでしょう。ウルトラマンはいなくてもウルトラマンの番組は作られました。

    ましてやそれを、安易に、国家や行政の規制に頼るとすればそれはあまりにも危険な道だ。また女性の人権侵害のイメージであるポルノを国家や自治体の規制によって取り締まろうとするのは、法のエージェントによって女性を守ってもらおうということだ。
    (159p)

     また、そうした保護主義は父権主義的でけしからぬとの議論がここでも蒸し返されますが、こんなのは前回に書いたように駄々っ子のマッチポンプです。
     ……こうして見てくると、暗鬱たる気持ちにならざるを得ません。
     というのも、「答」が出てしまったからです。
     テラケイ師匠、青識師匠たち「アンチフェミ」否、「自分をアンチフェミだと思い込んでいる一般フェミ」たちが本書に「異常な執着」を見せたのも、結局はここ、「国家の規制をよしとしていないからエラい」という点に他愛ない賛意を示しているに過ぎないことはもう、自明でしょう。

     もっとも、章の最後の節は、「ポルノは女のためにある?」と題され、ここではウェンディ・マッケロイ師匠の『女性のポルノ権』を採り挙げ、もっと積極的なポルノ評価について紹介がされています。
     その論旨はまとめるならば、「ポルノ女優を被害者視することへの懐疑」、「女性たちの性の解放のためにポルノは必要」、「女性がポルノで得る、マゾヒスティックな楽しみを否定するな」といったところでしょう(162-163p)。
    「自分をアンチフェミだと思い込んでいる一般フェミ」が恐らくここを一番の「抜きどころ」にしているであろうことは想像に難くありません。
     そればかりでなく、本稿をお読みの方の中にも、「なかなかいい」と思った方もいらっしゃるのではないでしょうか。
     むろん、しかしぼくは一切、いいとは思いませんが。
     というのもこれは結局、「彼女ら」が「見えていない」ことの何よりも雄弁なマニフェストだからです。
     上の三つの論点、そこだけ取り出せば、ぼく自身もさしたる異論はありません。
     しかし三点の内、最初と最後のモノが真ん中とは対立的であることにお気づきでしょうか。「女性ジェンダーは男に押しつけられた絶対悪」という世界観が師匠の、そして全フェミニストのドグマであることはもう、多言を要しないでしょう。そしてその考えを演繹すれば、「ポルノ女優」も「マゾヒスティックなポルノを見て喜ぶ女性」も、そうした「ジェンダー規範」に突き動かされてそのような行動をとっていると考える他はない。「女性の性の解放」と師匠たちが言う時、それがそうしたジェンダーの変革を意味していないと考えることは困難です。
     つまり、(後に述べるように)結局彼女らは「ポルノを全否定した上で、自分たちのマスターベーションイマジネーションに敵うよきポルノを作れ」と言っているに過ぎないのです。
     そしてもちろん、それは間違っています。
     何となればポルノは全て、男女共有のものなのだから。
     フェミニストたちが「男の価値観だ」と泣き叫ぶ「ジェンダー規範に則ったポルノ表現」は、男女が共犯で作り上げてきたものなのだから。
     そして、上の下りはあくまでマッケロイ師匠の説の中立的紹介であり(つまり、ことさらそれに同調しているわけでではなく)、牟田師匠はさらにこう続けるのです。

    女性たちは、「よくない性」「間違った性」としてポルノを否定し撤廃を願うよりも、そのような性のファンタジーを作り出す現実の社会経済的力関係の構造を変えていかねばならないし、ポルノ表現においてはもっと積極的・能動的に、消費者としても作り手としても、自分たちの満足できるポルノにかかわり作り出すことが必要だ。
    (163-164p)

     はい、ぼくの予言が見事に的中しました。ポルノ(さえも)自分たちの満足できるものに改変せよという、千田有紀師匠と丸っきり同じ主張*1ですね。
     あ、それと本書、「レディースコミック」「BL」についてはただの一言の言及もありません。

     実際アメリカでは、このような立場から、ポルノ製作に進出している女性たちがいる(原文ママ)。かつてポルノ女優として活躍していたキャンディダ・ロワイヤルは、「女性のためのポルノ」を専門とするファム(femme)プロダクションを作った。
    (164p)

     何というか、こういう記述にこそ、ぼくは落胆と失意を覚えます。
     師匠はレディコミを完全にスルー、その上で大上段に気負って「さあ女性のためのポルノだぞ」とドヤっている。その神経が、ぼくにとってはろくでなし子師匠のフェミアートを見た時くらいにいたたまれないのです。
     つまり、結局、既に存在している「女性のためのポルノ」であるはずのレディコミも、実はフェミニストにはお許しいただけない。だからこそ、師匠はわざわざガイジンの例を挙げ、「私が好むもの以外はダメだ」と言っているだけなのです。
     いずれにせよ師匠がこの節を「日本では女性のポルノは普及していない」で終えているのは、何重にも何重にも彼女が周回遅れの議論をしている証明なのです。

     公共空間にヌードポスターなどが氾濫し、見たくもないのに性表現が眼に入ってしまう状況を規制して「見たくない権利」を守ることは必要だろう。しかし、ポルノを「醜悪」だと嫌悪するばかりでなく、自らの性幻想を創造し表現する必要が同時にある。「そんなおぞましいものには近寄りたくもない」と忌避するのではなく、そこから遠ざけられてきたことの意味を再検討すべきだ。「人格の合一」やらに拘泥するロマンティック・ラブの対幻想に依存しないとすれば、性幻想の源泉としてのポルノグラフィは、女性にとってもポジティブな意味を持つものとして女性をエンパワーメントするものとして、再生しうるにちがいない。
    (169p)

     本章のラストです。この無残な文章が、フェミニズムが何重にも何重にも何重にも何重にも間違ったものであることを、ぼくたちに教えてくれています。
     まず、過度な性表現は公衆から遠ざけられるべきかもしれませんが、(師匠が全肯定する)行動する女たちの会は他愛ない水着のポスターにこそ、文句をつけていました。
     中盤の「そこから遠ざけられてきたことの意味」とは何でしょう。女性は性表現から遠ざけられてなどいないし(何せ被写体のほとんどは女性だそうですから)遠ざかっている者は自分の意志からそうしているのだから、尊重すべきです。「悪者が女性を性表現から遠ざけた」などといった事実はありません。
     最後の文章も千両です。彼女らは「ロマンチック・ラブ」を悪と断じ、それを殲滅するための武器として、ポルノを用いよと言っている。それはまるで全共闘がエロ本業界に入り込み、エロ本にウザいコラムを書いて多くの青少年をムカつかせたのと、全く同じに。

    *1 夏休み千田有紀祭り(第二幕:ゲンロンデンパ さよなら絶望学問)

     第6章は「売買春」について語られますが、もう疲れました。簡単に片づけましょう。
     ここで師匠は売買春を女性差別であるとしながら、しかしフェミが売買春を全否定してきたわけではないと摩訶不思議なことを言います。しかしこれも先のポルノについての議論を思い起こせば不思議がるには当たりません。「男の性は全て悪だが、女の自主的な売買春はいい」という、いつもの他愛のない論調が垂れ流されるだけです。
     売買春を「単なる労働の一形態」と位置づけるフェミを紹介し、「売買春の否定は女性の自己決定の否定だ」とぶったりする一方、90年代に大いに騒がれた援助交際についても言及があります。これも同様に、「一律に禁じるのは女性の自己決定を妨げる」との論調。
     また「女子高生はブランド物のバッグだか何だかを欲しいがために援助交際しているのだ」との、どこまで正しいのかもわからない俗言を持ち出し、「ブランド物を欲しがって何が悪い」などと言い出します。ここまで来るともう、噛みつく対象を血眼で探し出して片っ端から噛みついているという感じ、当たるを幸いです。

     買春することが、「誰にも迷惑かけてない」「自分の勝手」――買春女子高生のこれらの言葉はまったく正しい。
    (191p)

     そこまで言いながら、彼女らは「気持ち悪いのを我慢して」やっている、それは「気持ち悪いのを我慢させる」男社会の強制なんだと主張します。いえ、そうストレートには書いてはいませんが、師匠は職場で女性が女性ジェンダーを期待されることとセクハラとが地続きであり、女性が売春することもまたそうだ、として、

    セクハラを生み出している背景と売買春とには、通底するものがあるのだ。(194p)

     と言っているのだから、そういことなのでしょう。
     それにしても、あの種の人たちは「気持ち悪いのを我慢して」やってるんですかね。
     好きでやってるのも何割かいると思うんだけど。

    売春からそうしたスティグマが取り去られ、マッサージやセラピーと同じような、心身への癒しや快を提供する専門職になることは、自由な選択肢として売春が選ばれうる条件である。
    (195p)

     ついにはこんなことまで言い出します。聞き覚えがありますね。そう、女性器を手足と同様にしたいのだとわめくろくでなし師匠の言*2と、これは「完全に一致」しているのです(ただし、それが困難を極める道であるとも、師匠は言っています。確かにそこをわかっているだけ、他のフェミに比べマシだとは言えるかもしれません)。
     この後(197p)「ルッキズムは差別だ」論に移ります。師匠はそのルッキズムもこれから覆っていくはずだと希望的観測を述べますが、その根拠はガングロやヤマンバw
     しかしそれにしても、美人を称揚することがまかりならんのだから、当然ポルノなんてダメに決まっていますよね。
     ちなみに本書、「かわいそうランキング」の批判者が超絶賛してます

    *2 『毎日変態よい子新聞』、もとい『毎日小学生新聞』が小学生相手に「ま○こまん○」と連呼した件

     ――これ以降もまとめにあたる「終章」が入るのですが、大体まあ、こんなところです。
     この最後のトピックでは、「売買春」について妙に肯定的です。「アンチフェミ」諸氏にはそこが印象に残り、そのせいで本書は奇妙な高評価を叩き出したのでしょう。
     しかしそれも、牟田師匠の援交女子高生への「欲情」ぶりが原因であると言えます(仮にですが彼女らが「管理売春」下にあったら、師匠はそれを血涙を迸らせながら全否定していたはずです)。
     事実、師匠の論調は実際のところ、売買春を自分でも肯定すべきか否定すべきかわけがわからないままに筆を進めている、といった混乱ぶりですが、このダブルスタンダードこそがフェミの本質。師匠はルッキズムを否定しておきながら、返す刀でマドンナを称揚するのですが、そうしたダブルスタンダードは『GIジェーン』への評価と全く同じです。
     みんな大好き、香山リカ師匠は『フェミニストとオタクは何故相性が悪いのか』の中で実に奇妙なことを言っています*3。彼女は碧志摩メグもAKBに憧れる女子大生も全否定しながら、しかし会田誠の描く、「女子高生をジューサーで粉砕する」アートはアリだと(P108)。そんな胸糞なもの、真っ先に否定しそうなものですが、彼女に言わせると、それは「体制への反抗だからおk(大意)」なのだそうです。あぁ、そうですか。
     そう、牟田師匠が援交女子高生に「欲情」したのは、それが「体制への反抗」だった(ように、師匠には見えた)からでした。
     そしてまた、こうした「抜きどころ」を「脳内編集」し、本書を盲讃する人たちのメンタリティもまた、これと「完全に一致」しているのです。
     もう、おわかりでしょう。この無惨な著作を何故、テラケイ師匠が、青識師匠が称揚したか。
     それは彼らも彼女らも「表現の自由がどうこう、ポルノがどうこう、性犯罪がどうこう」といった些事は心の底からどうでもよい……とまではいわないまでも、それは一種のダシであり、真の目的があったからです。
     それはそう、「政治的スタンスが同じ異性とのデート」です。

    *3 フェミニストとオタクはなぜ相性が悪いのか

  • 実践するフェミニズム――【悲報】テラケイがパターナリズム支持者だった件

    2018-11-30 23:174
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     テラケイ師匠の擁護をなさっていたみなさん、渡辺真由子師匠叩きは順調でしょうか。てか、前者、甲斐あってもう鎮火したっぽいスね。
     というわけでテラケイ師匠ご推薦のフェミ本読書会、今回は中盤を採り挙げます。
     前回をご覧になっていない方は、そちらから読んでいただくことを、強く推奨します。
     レイプなど、「性暴力」が話題にされているのですが、まあ、基本は前回の「セクハラ」といっしょ。なので今回は軽く済ませることにします。
     さて、この問題を語るにおいて、牟田師匠はノン・ストレンジャー・レイプという言葉を乱発します(86p-)。要は(一般的にレイプは見知らぬ者からなされるとの神話があるが、そうではなく)知りあいからなされるレイプのことであり、知人間でのそうした揉めごとはなかなか性犯罪であると認識されない、だからこそそちらの方がより深刻である、ということですね。もちろんそれ自体は正論ですが、それはボーダーライン上に置かれてきたものを性犯罪化せよとの告発でもあります(師匠が「女性がその時はそう思わなくとも、後からレイプと思ったら、レイプだ」などと真顔で書いている人物であることを、みなさんゆめゆめお忘れなきよう*1)。
     何しろ師匠はこんなことまで言い出すのですから。

     セクハラ事件では、(中略)セクハラを訴えられた加害者による被害者への逆告訴がしばしばなされている。
    (中略)
     しかし「逆告訴」の手口は、勇気を奮い起こして告発した被害者に対するきわめて悪質な恫喝だ。
    (106p)

     師匠は逆告訴を、事実の歪曲や保身が目的であると全否定します。どうも男性は告訴してはならないようです。女性からのスラップ訴訟はおkなんでしょうが。
     何しろ師匠は性犯罪において、女性側を責める「風潮」に激おこです。といっても、それは変質者に追われた女性に母親が「だから早く帰ってくればいいのよ」と言ったり、性犯罪を見聞して「だから女の一人暮らしは危ないのよね」と言ったりすることも含まれます。

    気持ちの良い夜風に吹かれ夜のとばりをひとり楽しむこと、一人旅の冒険のよろこびとそれがもたらす人間としての成長、そうした可能性を女性たちは想像もしないうちに奪われている。性暴力犯罪は、そして性暴力にあった被害者を責める意識は、そのよろこびとチャンスも奪っていることに私たちは気づかねばならない。
    (119p)

    「強姦神話」を支えてきた、男性中心主義的な貞操観念には、「女は嘘をつく」、セックスに関して女の話は信用できない……、そんな思いが詰まっている。合意でセックスしたのに、あとで心変わりする女。自分も楽しんだくせに罪悪感にかられて「無理矢理された」と申し開きする女。そんな女の嘘で男が陥れられることがあってはならない……、こんな、心の奥深く潜む猜疑が、「抵抗するに困難なほどの暴行や脅迫」があったことが証明されなくては強姦罪にはあたらない、とする法解釈を支えてきたのはまちがいない。
    (120p)

     そんなこと言ったって、裁判って「疑う場」なんだから、猜疑的になるのは当たり前、そうじゃなきゃ困るでしょう。
     ちなみに本書、白饅頭師匠が大絶賛してます
     そもそも「女は嘘をつく」ものなのかは知りませんが(「女のレイプの訴えの六割は嘘」「DV冤罪には大変に虚偽が多い」「バーで女性の酒に睡眠薬を入れてレイプするドリンクスパイキングにあったとの女性の被害の訴えはほぼ、虚偽である」といったデータ*2はひとまず、出さないであげるとしても)まず師匠自身が上のような「申し開き」を続けてきた女であるのは間違いのないところです。
     上に続き、師匠は「女はNOと口にしないことを規範とされてきた(大意)」と称します。もっとも、それでは「YESの時もNOと言う」ことを強いられているも同然で、「男たちに深層心理学を学ぶことでも要求しなくてはならないのか。(121p)」とも言っており、ここはなかなかいいと思いました。問題は結局師匠自身が、本書の中で既に、それに近しい、いやそれ以上の要求を男性に幾度も幾度もしていることなのですが……。
     いえ、それでは足りないでしょう。師匠はそもそも「女にNOという言葉はない(大意)」とまで言い出すのですから。痴漢などの現場において女性が「やめてください」と訴えても、そんな言葉は「お願い」であり「NO」ではないのだそうな。これは、「女性はNOと言っているわけではない」との意味ではなく、「女言葉」には最初から「NO」を意味する言葉が用意されていない、と師匠は言っているのです。で、もし女が「やめろ!」と(男のように)怒鳴ったら、被害者として案じられるより「非常識な女」だと思われるのだそうですよ。
     また、師匠は女言葉というのは近代社会において生まれてきたものだと言っており、あれ、ということは中世以前だとレイプはなかったんですかね。
     そしてまたこれ以降、師匠の言は男女ジェンダーの持つ厄介さとでも称するべきものに話題を移します。女性がセクハラと感じても、それを行っていた男性が、女性側の気持ちにはなかなか思い至れない。それをマッキノン師匠の主張を引用し、強調します。
     さて、では、男側に悪気がないのであれば、どのようにすればいいのか。

    それを(引用者註・相手の女性が嫌がっているのだと)わからないのが「鈍感だ」と責めても問題解決には近づかないだろう。
    (124p)

     まさにその通り!!
     まさに至言。ぼくはフェミニストの著作で、こうした相手側の立場に立った発言を、初めて目にしました。では、どうすればいいのか。
    「ジェンダー規範を認識しよう(大意)」。
     あ、もういいです。
     結局「ジェンダー規範を認識しよう」って「女を慮れ」ってことですよね。そして師匠の言う慮り方は、繰り返しますが「女性がその時はそう思わなくとも、後から思った以上、レイプであった」とか、そういうレベルのことです。
     ちなみに本書、御田寺圭師匠が大絶賛してます

    *1「部長、その恋愛はセクハラです!(接触編)」、「部長、その恋愛はセクハラです!(発動編)
    *2 レイプについては「男性権力の神話 《男性差別》の可視化と撤廃のための学問」を、DVについては米国のキャンベル国務次官補がDVから逃れてアメリカから帰国する日本人の元妻らがいるが、「実際に暴力があった事例はほとんど見つからない。相当な誤認だ」と語ったということから、ドリンクスパイキングについては『女性専用車両の社会学』を参照。

     そしてそれ以降、牟田師匠は一度した上の主張に続いて、しかし性暴力を憎むあまり女性を性から遠ざけると、家父長制に近づく云々みたいな物言いを始めます。
     また、フェミニズムの言説自体がある種、女性の受動性を前提としているのが問題だとも言い出します。つまり、女性をもっと能動的な存在として捉えよ、と。しかし、女性が(ことに恋愛の場において)受動的であることが程度普遍的である以上、そりゃあ前提にする以外仕方ないだろ、と思います。大体、「女はノーと言えないんだから慮れ」と言っていたその舌でこういうことを言うんだから、もうメチャクチャとしかいいようがありません。
     ちょっと煩雑になりすぎるので、前回は採り挙げなかったのですが、実は前半の「セクハラ」について書かれたページでも、近い主張がなされています。
     そこではアメリカのフェミニストの警句が紹介されていました。セクハラ対策は、場合によっては女性の自由な性を規制する、女性へ貞淑を求める方向、即ちパターナリズムにも進み得るぞと(68p-)。
     同時に、セクハラという言葉が軽く扱われることで、重篤な性犯罪までが軽い印象を持たれるといった危惧も、再三書かれていました(7pなど)。新語には常について回るジレンマではあるのですが、あらゆる性にまつわるものごとを女性差別として断罪してきたお前が言うな、という感じです。
     つまり、上のパターナリズム批判はそれと同じ、「放火魔が自宅にまで延焼させてしまいブチ切れている」だけのことだったのです。こういうのはマッチポンプ、否、自分で火は点けたけれども他人に消させるのですから、差し詰め「マッチ&駄々」でしょうか。
     リベラル君が、こうした箇所をこそ「抜きどころ」にしていることは想像に難くないのですが、どうして彼らはこうした「マッチ&駄々」の「駄々」の面だけを恣意的にすくい取り、そこに「勇ましい女傑」というトンデモない妄想で脚色を施してまで、彼女らに「欲情」を続けるのでしょう*3
     結局、フェミニズムとは「女性よ、強くあれ」との口先だけのマニュフェストであり、そうした「戦闘美少女-(美少)」に欲情する者を、日本語では「リベラル」と呼ぶのですね。

    *3 以前、ピル神がぼくの批判に対して「発言の一つだけを採り挙げて批判するとは何ごとだ」とわけのわからない言い訳をしていたことがあるのですが、どうもこの人たちは「自分たちの主張は自分たちにとって好ましいところだけを恣意的にすくい上げ、自分たちの都合のいいように解釈されて当然だ」と素で思っているのではないでしょうか。

     さて、本書では章と章の間にいくつか、軽めのコラムが挿入されているのですが、この中盤では「Suck My Dick――『GIジェーン』の楽しみ方」といったものが挟まれています。面白すぎるので、これの紹介を今回の締めにしましょう。
     てか、『GIジェーン』、ぼくは未見なのですが、まあ『GIジョー』のパロディなのでしょう。言ってみればフェミが「教育目的」で作った『桃太郎』ならぬ『桃子ちゃん』の童話のようなもので、タイトルだけでおなかいっぱいです。
     ここでは女性軍人が男性軍人から苛め抜かれる様が描かれるそうです。それこそ久米泰介師匠の本で扱われそうなミサンドリームービーですね。
     日本の似非アンチフェミは「欧米のフェミは軍隊に入りたがって、エラい」などと言います。牟田師匠もここでは戦争という「男のせいで起こる悪(に、フェミニストには見える)」に女性が加担するのはどうかなどと迷う素振りは見せるものの、

     しかし、しかし、である。この映画の中でデミ・ムーアは、かなりかっこよくもあるのだ。(中略)あまたある戦争映画やアクション映画でヒーローたちがかっこいいと思ったことはあまりないが、GIジェーンはかっこいいのだ。
    (109p)


     などと大はしゃぎ。GIジェーンはいびり……というより、あからさまな暴力の限りを受けるのですが、そこで彼女は上官に「Suck My Dick!(おれのチンポコをしゃぶりやがれ!)」と絶叫するのです。
     この場面に師匠は大喜び。男性性を模するのは愚かしくもあると留保しつつも、「それでもやっぱりかっこいいんだなあ。スカッとするんだなあ!(110p)」と小躍りを始めます。
    『テルマ&ルイーズ』*4にも言及し、「でも、そんな暴力願望があってどこが悪いの、って気もする。(111p)」などと居直り、(あくまで想像の中のことだ、と言い訳しておいて、その後で)「ステレオタイプのジェンダー幻想に足を取られず、創造的に平和を守るにはやっぱり女も力をつけなくっちゃ。(111p)」との能天気な言葉で、コラムを終えます。
     どうなってるんでしょう。
     ぼくは上の映画、未見(だし、心の底から見たくない)なので、よくわからないのですが、師匠のコラムを読む限りは「Suck My Dick!」がクライマックスのよう。これ、上官にさらなる暴行を加えられるだけなんじゃないでしょうかね、この後、どうなって話が終わるんでしょう? 例えばこの後、ジェーンが上官をブッ殺すのであれば、むしろそこに言及するでしょうし、これ以上の描写があるとも思えません。
     結局、この種のしょせんフィクションで、女性が格好よく振る舞うだけで拍手喝采できる感受性が、ぼくにはさっぱりわかりません。プリキュアと現実の女性は全然違うのに、彼女らはそれがわかっていないのではないでしょうか。
     てか、ジェーンはペニスを持っていない以上、フェラをさせることは原理的に不可能。それでも立場が逆転した時にそう言ってみせるのであれば、見せ場としてそれなりに映えるシーンになるでしょうが、ピンチの時にただ言ってみせただけって、何じゃそりゃとしか思えません(或いは映画ではそう言われただけで、軍人たちが思わぬ女からの逆襲に恐れおののき、彼女にひれ伏すのかなあ?)。
     時々書くことですが、バブル期はトレンディードラマの中で女性から男性へと「セックスしよう」と誘ったというたった一つだけのケースを根拠に、犬も杓子も「女性が性に積極的になっているのだ」と絶叫を続けておりました。
     そしてまた、これは腐女子が「心にチンコがある」「○○君、犯したい!!」と「詐称」することをも連想させます。基本、BLとは受けを、つまり女性役を美少年に演じさせることで自らの感情移入を容易にする、「シスヘテロ女性」のためのポルノです。しかし、彼女らは「自分のプライドを守るため」、私は責めに感情移入しているのだ、と強弁する傾向にあります。
     いや、まあ、腐女子の言は罪のないものですが、それにもぼくはいささかばかりの苛立ちを覚える。それはまさに「男性ジェンダー」を安全地帯から形ばかり模して、そして本当に、ただそれだけで自分が偉業でも成し遂げたかのような顔をしていることに対してのもの、ということが言えましょう。
     ここでの師匠の言も、それとまるきり同じであり、そしてまたそれを「フェミニズム」というイデオロギーで装甲している時点で、腐女子の何千、何万倍も非道いわけです。
     ちなみに本書、「お気持ち案件」の批判者が大絶賛してます
     そう、リベラル君の牟田師匠への「欲情」ぶりは、師匠の『GIジェーン』への「欲情」ぶりと、「完全に一致」していると、これを読むとよくわかりますね。
     いつも書くことですが、ネット上の左派寄りのオタク、漫画やアニメの表現規制について活動している、ぼくが「表現の自由クラスタ」と呼ぶような人々は近年、フェミニストによるエロの規制に非常な勢いで噛みつく傾向にあります。しかし彼らはフェミニズムについての根本的な知識が欠落しており、また同じリベラル仲間ということでフェミニストのことを心の底では深く深く、深く深く深く深く深く深く深く深く愛しています。近年のいささか度を越したフェミ攻撃は、むしろストーカー的逆切れであると言えます。
     そして、彼らの持つフェミニスト像はこの、『GIジェーン』的なものなのです。
     ぼくはリベラル君たちからぞっとするような「ミソジニー」を感じることがあります。彼らのフェミニストへの「欲情」は丁度それの逆で、仮初めの「男性ジェンダーを有した女性」への「欲情」であると思えるのです。フェミニストがミソジニーの権化であり、フェミニズムが「男性ジェンダーを有した女性であるワタシ」という嘘まみれのマニフェストであることはもう、指摘するまでもないでしょう。
     結局テラケイ師匠の牟田師匠への妄讃は本書の中から、そうした『GIジェーン』的な箇所を恣意的に抜き出した、本書を脳内でニコニコ動画に上げられている「セーラー戦士エロシーン集」的なものへと「編集」した上でのものだった、ということがいえようかと思います。
     結局、フェミニズムは(もう何十回となく書いていることでしょうが)男性ジェンダーのネガティビティは全てオミットし、そのメリットだけは無批判、無反省、無制限にモノにしたいという運動でした。
     リベラルとは、暴力性、攻撃性、憎悪、弱者への侮蔑といった自らの中に渦巻いている人間の闇の部分の発露を、フェミニストという「怪獣兵器」に代行させ、その怪獣兵器が暴れ回る様を眺めつつ、マスターベーションをする者のことでした。
     テラケイ師匠が、青識師匠が、借金玉が、本書にいたく「欲情」していたのは、そここそが理由でした。
     彼ら彼女らを総称する、ステキな呼び名をここでご提案したいと思います。
    「パターナリスト」です。

    *4 何かもう、ご説明するのも大儀なのですが、要はアメリカンニューシネマを女性が「パロって」みせた映画、と言えばおわかりになるでしょうか。ごく普通の女性二人組がドライブに出かけるのですが、何か、モノの弾みで銀行強盗とか殺人(男)をしでかし、男へのフェミニズム的怨嗟を吐きつつ、自滅していくロードムービーで、当時フェミニストは本作に大はしゃぎして上映会など開いていたそうです。バッカじゃねーの。

  • 実践するフェミニズム――【悲報】テラケイがラディカルフェミニストとお友だちだった件

    2018-11-23 23:312

     どうも、まずはちょっとしたお断りです。
     この度、noteに手を出してみることにしました。
     実のところ本ブロマガ自体、ocnブログ(現・gooブログ)との二股で始めたもので、あんまりややこしいことはしたくないのですが、基本、同記事をこちらでも先方でもアップしていくことになります。ただし、noteでは多少、マニアック(オタク的ともいう)で揶揄気味の表現を和らげ、一般性を意識し、またこれはさすがに大っぴらにするのはヤバいかも……と思われる部分は課金コンテンツとして発表していこうかと思います。
     基本はいずれも変わりませんし、当ブログをお読みの方は、それを継続して、まあ課金コンテンツだけはお気が向けば購入していただければ幸いです(まあ、「ヤバい」と言っても大して期待するほどのものではありませんが……)。
     というわけで、今回は久々にフェミニズム本に対する真っ向からのレビューです。

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     先日、処女出版『矛盾社会序説』を物し、また「キモくてカネのないオッサン」「かわいそうランキング」「お気持ち案件」などの造語を次々にヒットさせ、ツイッター界では大きな影響力を持つ白饅頭ことテラケイこと御田寺圭氏。
     ぼくもまた、彼については基本、スタンス的に同じ人物として信頼感を持っておりました。
     ところが、ネット上で牟田和恵師匠が炎上した時、彼が師匠の『実践するフェミニズム』を称揚し、「かつてはまともだったのに」と述懐している*1のを見て、驚きました。
     さらには青識師匠、借金玉といっしょに持ち上げ合戦までしている始末*2
    「かつてからダメだが、それでも今よりはマシであった」というのならわからないでもないけれども、「読書会をしよう」と言い出すなど、手放しの誉めよう。おいおい、まずくないか。フェミの著作がまともだなんてこと、そもそも物理法則に反することであり、また師匠の悪辣さは以前、ぼくも採り挙げたところです*3
     ご当人に繰り返し、リプを送ったのですが、見事にスルー。この人、対話ぐらいはする人だと思っていたので、いささかショックでした。
     まあ、でも、確かにぼくもこの本自体は未読だったので、図書館で借りてきてようやっと読了しました。
     というわけで今回から数回に渡って、兵頭新児の一人読書会、お届けしましょう。

    *1(https://twitter.com/terrakei07/status/1042613516274827265
    *2 反フェミニズムの人すら名著と推奨する「実践するフェミニズム」が高すぎて買えない件について
    借金玉についてはスタンスをよく知らんのですが、青識師匠は典型的な「自分をアンチフェミだと思い込んでいる一般フェミ」と称するべき人。まあ、結論を書いておけばテラケイ師匠もそうだったということなのでしょう。

    *3『部長、その恋愛はセクハラです!』。ぼくのレビューは(http://ch.nicovideo.jp/hyodoshinji/blomaga/ar471284)(http://ch.nicovideo.jp/hyodoshinji/blomaga/ar476779)。
    『実践』は2001年の出版なのに対し、『部長』は2013年。以降、本稿では『部長』を「後の本」と呼ぶことにします。


     さて本書、前半(第1~2章)で「セクハラ」を、中盤(第3~4章)で「性暴力」を、後半(第5~6章)で「ポルノ(売買春)」を扱うといった具合。まずは「セクハラ」から見ていきましょう。
     が、テラケイ師匠おススメの本書、第1章の枕(リード文的なもの)からおかしな話の連続なのです。
     99年、均等法の条文に雇用主のセクハラ防止配慮義務が加わった。しかしこれは「防止義務」ではなく、被害があっても企業が防止規定を作ったり研修をしたりしていれば、「配慮はしていた」と責任逃れができ、また加害者も法的責任が問われない、と牟田師匠は嘆きます(2p)。
     しかしそもそも雇用主、企業側が個人の行い責任を問われること自体、どうなんだという感じです。「加害者も法的責任が問われない」と文句を言っているのですが、強制わいせつで訴えればいいんじゃないでしょうか。
     この謎の主張は、本文でも延々延々、延々延々と繰り返されます。

     痴漢や一般の性暴力、夫婦間のレイプなどと比べてみるとセクハラの問題構成の「有利さ」がよくわかる。街路や電車、映画館で不幸にも痴漢やレイプの被害に遭った場合、責任を加害者本人以外に求めるのは困難だ。(中略)しかし、係員や駅員に助けを求めた場合は別として、個々の事件の加害責任を鉄道会社や映画館に追わせることは不可能だ。それは公道における痴漢や性暴力も同じで、例えば警察や行政機関は、明るい街灯をつけて予防する責務があるとは言えても、県道で起こったレイプや痴漢の責任が県にあるとはとても言えない。
    (31p)

     いや、何を当たり前のことを、としか思えないのですが、しかし師匠はこんなことを言い出すのです。
     予防や救済という点でも、加害者本人以外に責任主体を設定しうることは大事な鍵になる。
    (32p)

     すごいとしか。
     ここまで男性側や公側に責任を負わせながら、女性側には一切責任がないとするのが師匠、いや、全フェミニストです。
     16pにおいては「両者の合意があればセクハラにならない」としながらも、しかる後、「しかし相手が偉ければ断れないじゃないか」と言い出します。この後者にこそフェミニストたちは力点を置く傾向にあります。
     ここで牟田師匠は東京都労政局の金子雅臣師匠*4の発言を引用し、「加害者たちは、問題が表面化し、場合によってはそのために処分を受けてからも、自分のしたことがセクハラであると理解できないケースが少なくない」としています。それは単に、男性の視点からは合意だったように思えたということじゃないでしょうか。裁判においては、そこを中立的にどちらが正しいかをジャッジしていただかなくては困るのですが、「フェミ裁判」においては男性の言い分は常に間違っているというのが不動の、絶対的根源的大前提的「真理」なのです。
     何しろここではマッキノン師匠の「女性は沈黙をもって拒絶の意を示す傾向にある」との説が紹介されています。「見かけは喜んでいるように見せて巧みに男性の面子を立ててや」るのだと(18p。強調ママ)。いやあ、マッキノン師匠ってポルノ以外でもスゴい人だったんですねえ。
     ちなみに本書、テラケイ師匠が絶賛してます
     要するに「女は拒絶しにくいジェンダー規範を押しつけられている」のだから、「そのような社会にした男が悪い」わけです。もっとも、ちょっとだけ「女もはっきりと拒絶の意志を示すべき」と言ってはいるのですが。
     先にも述べたように、ぼくは以前、師匠の『部長、その恋愛はセクハラです』をレビューしました。そこでは「女が嫌だと言っていなくても、外からは喜んでいるように見えてもセクハラ足り得る。その時はOKしても後からセクハラだと判断することもあり得る」とシリメツレツなことが書かれていましたが、その「元ネタ」がマッキノン師匠にあったことについては、多言を要しないでしょう。
     もう一つ、師匠はこんなことも言っています。

    たとえば、女性も男性と同じように仕事をこなし、上司に対しても遠慮せずに意見を言えるような雰囲気の会社があるとする(たくさんあるとは思えないが)。そういう職場で、対等な関係が根付いているならば、上司からの性的誘いがあっても、強圧的な「脅かし」にはなりにくいだろう。
    (中略)
    ところが権威的な上下関係があって言いたいこともなかなか言えないような職場なら、体を触られても「やめて下さい」とは言いにくい。
    (34-35p)

     カッコをつけて(たくさんあるとは思えないが)と補足しているのがケッサクで、そもそも「上司に対しても遠慮せずに意見を言えるような雰囲気の会社」なんて男女問わずそうそうないでしょう。いえ、「遠慮せずに意見を言える」というのはまあ、程度問題で、どの程度ならば自由な雰囲気と称するべきか、測る物差しは存在しません。しかし原則論として、上司に異を唱えることに対して、ある種の遠慮が働くのは当たり前のこと。そこを師匠は、「女だけは上司よりもエラいという扱いにしろ」と言っているだけです。
     事実、少なくともセクハラという言葉の浸透した後の社会にあっては、女性の「やめてください」は水戸黄門の印籠のような切り札になったのです。

    *4 ぼくの著作をお持ちの方は、ちょっと取ってきてください。金子師匠には『壊れる男たち』という著作があり、そこではフェミニストにこびへつらい、「男性は自らの本能をコントロールできない、人間以下の獣であるというプライドを欠いた主張を認めるかどうかがスタートラインとなると言っても、言い過ぎではないと思う。」などと男性を酸鼻を極める舌鋒で罵り倒しています。しかし『男女平等バカ』においては一転、「あなたの職場は大丈夫? ジコチュー女が仕掛けるセクハラ冤罪の構図」という、かなりラディカルに女災を批判した記事を書いておいでです。著作でも大いにからかいましたが、考えてみれば後者が本音とも思えますし、「正味の話、その両方が共に全く正しい」と考えるところからしか、話は進んでいかないというのが、本当のところなのではないでしょうか。

     また師匠はセクハラの概念が拡大されすぎていると嘆き、こんなことを口走ります。

    たとえば女性を「オバさん」扱いして職場で軽視するのがセクハラであるのなら、中高年の男性上司のことを、「脂ぎったハゲ」「オヤジは臭い」などと陰口を聞くのもセクハラだ、という具合だ。
    (中略)
    女性社員の発した「チビでハゲ」などという無礼な言葉に男性の上司や同僚の心が傷つけられたとしても、それはセクハラではない。
    (46p)

     非道い、とお思いでしょうか。
     一応つけ加えておきますと、師匠は「だから言ってもいいのだ」と主張しているわけではありません。「人を傷つけてはいけない」ということ自体は常識なのだから、

    そんな「子供のしつけ」のようなことを会社や大学からされねばならないのだろうか? 言うまでもなく、そんなことはナンセンスだ。
    (47p)

     まさにその通り! しかしそれならばセクハラも同様でしょう。そんな「子供のしつけ」のようなことを会社や大学からされねばならないというのは、言うまでもなく、ナンセンスです。
     いえ、もちろん師匠は反論するでしょう。「ジェンダーの何やらかんやらで、そんな子供のしつけのようなことが、今の男たちには必要なのだ!」と。しかしその理屈は、そうした男性へのハラスメントがセクハラよりも遥かに少ないのだとの前提があってこそ成り立つことです。ツイッター上でフェミニストらしき女性が「女は常に男からの暴力に晒されている、男たちはそんな危険に晒されていない」などと言っていたのに対し、dadaさん辺りが「ほとんどの男は男から殴られた経験があるぞ、フェミはそれに頬かむりしているだけだ」と返していたことを思い出します(記憶で書いているので、細かい点には差異があるかもしれませんが)。
     結局、フェミニズムの主張は、「個人的なことは、女性にのみ限り政治的である」との前提を導入しなければ、絶対に成立し得ないのです。
     さて、とはいえ、です。
     セクハラというのは言うまでもなくセクシュアルハラスメント、性的嫌がらせの略です。先の例でいえばハゲや脂ぎっているというのは男性にこそ多い特徴であり、その性的な弱みを攻撃するのは語義的にはセクハラと呼ぶしかない、とも思えます。
     しかしこの言葉、本来は労働用語でした。歴然とした力関係が横たわり、断りにくい中で性的関係を強要される。そうしたパワーをかさに着た強要行為こそをセクハラと呼ぶのです。
     そして、上の例は「男性上司」が対象として仮想されており、「上司だからセクハラじゃない」ということは一応、言える。理屈は一応、通っているのです。だから一応、師匠も女性上司に性行為を強要された男性がいれば、それはセクハラ被害者だと認めてはいます。
     その意味で、一応の筋は通しているわけですが(一応ばっかりだな)、しかし「ハゲ」であることと「上司」であることは直接の関係はないのだから、恣意的な「実例」を挙げることで、自分たちの言い分を正当化しているようにしか、読めない(仮に支障が「女性上司にブスというのはセクハラにあたらない、というのでしたらこれまた一応のつじつまはあうのですが)。一体、どうしてこのような論理展開を、師匠はしているのでしょうか?
     師匠は日本のセクハラ裁判の事例を挙げ、勝訴した事例も「性差別」そのものが裁かれたものではないのだ、と嘆きます。
     どういうことかおわかりでしょうか? 確かにセクハラは裁かれたが、それは「性犯罪だから有罪」なのであって、「性差別だから有罪」のわけではない、そこがけしからぬ、と師匠はお嘆きなのです。
     まずそもそも、「性犯罪」が「性差別」を必ず内包しているという考え自体が、フェミニズムの歪んだイデオロギーに生み出された誤謬でしかない。彼女らはよほど女性差別があってほしいのか、レイプは女性への憎しみによって行われる、などと繰り返します。そしてそれは、それこそ見知らぬ暴漢に襲われる類のものであれば(必ずしも正しくはないでしょうが)理解できなくはないものの、彼女らは決まって「男性側は合意だと思っていた関係」をこそ裁こうというのだから、もう何が何だかわかりません。
     いえ、一兆歩ほど譲ってそこは置くとしても、ぼくはヘイトスピーチ同様、差別そのものは法で裁かれるべきではない、と考えます。当たり前です。差別そのものも人間の考えの一つなのですから。そして考えそのものではなくあくまで、それを発露することがけしからぬというのであれば、なおのこと行為を行為としてのみ裁くしかない。しかし、牟田師匠はどうしてもそこが許せないご様子。

     アメリカの場合とは違って、日本におけるセクハラ裁判は、「性差別」にあたるかどうかが直接に問われてきたのではない。
    (52p)

     同趣旨のことを、師匠は幾度も幾度も幾度も幾度も幾度も幾度も繰り返します。事件の違法性が問われるのみで、セクハラが性差別に当たるかどうかは問われていないと。当たり前のことです。裁判所はフェミニズムのイデオロギーについて云々する場ではないのですから。

     マッキノンが詳述しているように、セクハラを不法行為法で裁くことは、加害者個人の言動にのみ焦点をあてて問題を個人レベルにとどめることになり、事柄の本質が性差別であることを曖昧にする(マッキノン、一九九九年、二六六-七頁)。
    (55-56p)

    「不法行為法」って言葉、スゴいですけど法学用語とかであるんですかね。上の文章、そのまま取ると「不法行為じゃなくても裁け」って言ってることになりますもんね。
     ちなみに(マッキノン、一九九九年、云々)というのはこれがマッキノン師匠の著作を引用しての主張であるという意味で、とにかく本書では延々延々延々延々とマッキノン師匠の主張が引用されます。しかし、性犯罪がそもそも個人的なものであるのは当たり前のことでしょう。本書の枕にもあるように、セクハラ関連の法は会社側に防犯義務を課すなどさせるようになってきていますが、そこには師匠たちのこのような思惑が働いていたのですね。
     マッキノンによれば、「不法行為法は、女性のセクシュアリティに対する権利侵害を女性の置かれている社会的状況という背景から切り離す点でセクシュアル・ハラスメントの問題を扱う概念枠組みとして不適切である」(マッキノン、一九九九年、二六六頁)。女性がセクハラを受けるのは、たまたま彼女の事情から、彼女の周りの環境や上司が「運悪く」「ろくでもないやつ」だったから起こるのではない。それらは要因の一つではあるとしても、セクハラの起こる根本の原因は、その女性が女性であるゆえに、性的圧力を受けやすくヴァルネラブルな(引用者註・傷つきやすい)立場に職業上立たされてしまいがちなことだ。セクハラは、偶発的で特異な逸脱行為ではなく、女性という集団への権利侵害であり、構造的な性差別に基づいている。女性が女性であるゆえに、社会経済的に無力で従属的な位置に置かれているからこそ、雇用と結びついた性的圧力にさらされ同意を強制されがちだし、社会における性的な位置づけのために、女性は社会経済的にも雇用上でも低い地位に置かれがちなのだ。
    (56p)

     後半を書きとりながら、頭がくらくらするのを抑えられませんでした。
     何しろセクハラはそれを行った個人の問題ではないのですから、男は全員悪者であり、そんな悪者を放置するこの社会は根源的に間違っているわけなのです。

    ましてや、受付係やエレベータ案内係などに典型的なように、女性の仕事につねに「若く」「親しみやすく」「感じよい」魅力をふりまくのが欠かせない要素がある限り、社員や客から性的な接近をされやすいことは当然すぎるほど当然だ。
    (57p)

     このような意味でセクハラは、単なる個々の女性への被害ではなく、性差別なのだ。したがって、セクシュアル・ハラスメントは本質的に、不法行為法の問題としてではなく、女性という集団への権利侵害、つまり性差別の問題として扱われるべきなのだ。不法行為法とは、権利侵害を受けた個人に損害賠償をするものだから、たとえ損害賠償の網を広げようとも、根本的に社会的に根絶されるべき問題を、個人的なものであって損害賠償によって解決できるとみなしている。そうではなく、セクシュアル・ハラスメントは、社会的に根絶されるべき性差別による権利侵害なのである(マッキノン、一九九九年、二六七頁)。
    (58p)

     それって泥棒だって同じじゃないでしょか。殺人だって、損害賠償によって解決はできないんだから、社会的に根絶されるべきと言ってしまえばそうでしょう。
     結局、後の本をご紹介した時の「なんでこんな企業に権限を持たせたがるんだ」という疑問に、本書は明快に答えることになっています。
     結局、師匠たちにとって、セクハラなどどうでもよかった――とまではいわないまでも、ある種のダシであったのです。つまり、「女性差別」という形のないものを違法化せよ、ということこそが、真の目的だったわけですね。
     だから、企業社会が女性の意を全て組むようになるまで、セクハラは企業側が(女性差別をした連帯)責任を負え。性犯罪を裁くのではなく、その根底にある(と彼女らが思い込んでいる)女性差別をこそ裁け。
     先にはマッキノン師匠が、「不法行為法で裁く」ことがダメと主張していましたね。しかしそれならどうすればいいのか。「遵法行為」か「不法思想」のいずれかを裁く以外の選択は、論理的にあり得ない。そして、その後者を裁けというのが、即ち人の思想を統制せよというのが、師匠の、全フェミニストの真意でした
     結局、セクハラという概念は、最初っから、成立したその時点から、それこそが目的だったのでした。少なくとも彼女らの願望が叶った世界では、「表現の自由」は根源的に否定されていることでしょう。
     ちなみに本書、白饅頭師匠が絶賛してます

     ちょっとページを戻ってみると、師匠は「ジェンダー・ハラスメント」と呼ばれる概念を紹介しています。
    「女には大事な仕事はまかせられない」「女は若いうちが花」「キレイな女性の入れてくれたお茶はうまい」……。
    (24p)

     何か、そんなんが「ジェンダー・ハラスメント」だそうです。「そう思われること自体は止めようがない」と思いますが、まあ、できるかぎり最大限、師匠に有利に解釈するならば、「口にすることがけしからぬ」ということなのでしょう。しかしそうなると結局、「A子ちゃん可愛いよね」といった会話すらもがセクハラにならざるを得ないし*5、「当然そうなのだ」というのが牟田師匠に限らず、フェミニストの一般的な考えであり、事実、会社社会は既に、そのようになってしまっているのです。つい先日やっていた『トネガワ』でもありましたが、ドラマなどでは男側が「セクハラになる」とビビり、女側が「私は気にしませんよ」というのがお約束になっているように思います。

    ジェンダー・ハラスメントとセクシャル・ハラスメントは、必ずしも別ものではなく、どちらとも区別つきがたい言動もあるし、どちらも、女性への蔑視と差別意識から来ている点で同根である。
    (26-27p)

    私たちはジェンダー・ハラスメントを含めたセクハラ問題の解決に取り組んでいかねばならない。
    (27p)

     はい、師匠の真意はもう明らかですね。
     ジェンダー規範が女性たちをモノも言えないほどに縛り、信じがたいほどの抑圧に押し込め、男性とは比べ物にならないほどの苦境へと追い込んでいる。そうしたフェミニズムの世界観を守ることそのものが師匠の目的でした。そして、そんな絶対的に間違った社会を改めるには、ジェンダーフリーによってジェンダー規範を壊滅させるしかない。本書のどう考えても首肯のしようがない奇怪な主張の数々は、そうした師匠たちの歪んだ世界観が前提されてることの、何よりも明白な証拠なのです。
     ちなみに本書、御田寺圭師匠が絶賛してます

    *5 こうした意見への反論が本書にも書かれているのですが、それは「例えば、『そんなことを言ったら美人が台なしですよ』など、その言葉が女性である相手の発言を否定する意図でなされたらどうだ(大意)」などとわけのわからないもの(23p)。果たして、「否定する意図」がなければセクハラにならないのか……(否定する意図で「ブス」とののしって相手をひるませたというならわかるのですが)とにかくここに限らず、師匠のロジックはわけのわからないシチュエーションを想定して「さあどうだ」とドヤるものが多すぎです。

     ……まあ、本書は毎ページ毎ページがこの調子で、キリがありません。
     もう既に相当な文字数を消費して、ようやっと冒頭で述べた「前半」を紹介し終えたところなのですが、続きはまた次回ということにして、そろそろお開きにしましょう。ただし、最後にトンデモない爆弾が控えていましたので、最後にそれを投下して。
     男性が女性上司から意に反した性的要求をされるような場合、上司―部下の力関係のために断りにくい圧力がかかることは同じでも、男性上司から女性の部下に行われるのとでは意味は同じではない。なぜなら性的な攻撃に対するヴァルネラビリティ(傷つきやすさ)が男女で大きく違うからだ。たとえば職場の飲み会の後、上司とふたりきりになってしまい、「前から好きだった……」と迫られるとき、上司が男性であるのと女性であるのとは大違いだ。
    (48p)

     え……?
     ここでは「物理的に男の方が力が強いから断れる」という(上司部下の関係を無視した)詭弁と、「男であれば女にモテたことは武勇伝だ」との詭弁が語られます(女だって自慢にはなるだろうに)。
     もう、語るに落ちるという他ありません。
     師匠が男性というものをの徹底的に軽視、侮蔑、憎悪していることが、よくおわかりになるかと思います。
     女性は地位が低い→だから性被害にあいやすいとのわけのわからん短絡もなされていますが、これもまた、フェミニズムの特徴です。それがもし本当ならば、貧者さえ救済すれば、性犯罪も激減するはずですが。
    「女性だから性犯罪にあいやすい」も「地位が低い者だから性犯罪にあいやすい」も真理ではありましょうが、両者はイコールではない。そこを雑にいっしょくたにしているのが、フェミニズムです。
     男女のジェンダーの非対称性(女性は性的な働きかけをされる性であり、それ故性犯罪の被害者になりやすい)を、ある時は無視し、ある時は過剰なまでに押し出すダブルスタンダードによって、彼女らは利を得ようとしているのです。「女/男はいかなる場合にも被害者/加害者」と言っているだけなのです。
     ちなみに本書、「キモくてカネのないオッサン」問題の提唱者が絶賛してます
     バブルの頃からずっとフェミニズム批判を続けている小浜逸郎氏は、『男はどこにいるのか』において、ポルノを男性支配社会のイデオロギーの産物であるとするフェミニストの主張を

     男と女の性的な磁場の本質からその否定的な現れのみを抽象して、そこに政治的意図を新たに塗り込めたところになりたっている。
    (草思社版47p)

     と批判しました。女性ジェンダーのネガティブな面ばかりを恣意的に抜き出して、本質をずらした文句のつけ方ばかりをしている、ということです。これ以上に優れた、ラディカルなフェミニズム批判を、ぼくは寡聞にして知りません。
     そして、テラケイ師匠、青識師匠たちはこの醜悪奇怪な書を盲讃しました。
     それは彼らと彼女らが、仲よしのお友だちだからです。
     その辺についてはまた、おいおいと語っていくことに(というか、以前からずっと言っているのですが)しましょう。