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  • リベラルたちの楽園と妄想の共同体――『社会にとって趣味とは何か』(その2)

    2017-05-19 18:527
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    ●腐女子の偽物をやっけろ!

     さて、前回の続きです。
     初めての方は前回記事の方から読んでいただくことを強く推奨します。
     前回のラスト、ぼくは北田暁大師匠の腐女子の持ち上げを見ていると、腐女子に同情してしまう、と書きました。
     そう、本書はあらゆるフェミニズムがそうであるように、「男性をただひたすら凄惨に虐げ、貶めるのみではなく、女性までをも犠牲にする」ことにも注力した書だからなのです。
     北田師匠は山岡重行氏の『腐女子の心理学』という著作にいたく激おこです。一体何をそこまで、と思うのですが、何しろぼくも山岡氏の著作は未読なので、本書の引用を孫引きしてみましょう。

     幸い、オタクは腐女子よりも、異性と親しくなりたいという欲求が強い。共通の話題があって、腐女子が少し好意的な態度を示せば、簡単にオタクと仲良くなれるはずである
    (293p)

     念を押しておきますが、上は本書293pから孫引きした、山岡氏の著作中の文章です(ちなみに山岡氏が「オタク」という時、オタク男子のみを指しているようです)。
     これに対する北田師匠の評が以下です。

    「腐女子」は、戦後家族的な性別役割規範に対してきわめて否定的な立場をとっており、一方で「男性オタク」は、もっとも家族の戦後体制に適合的なジェンダー規範を持っている。この対照的な両者をたかだか趣味が共通しているという点で「仲良くなれる」とするのは、いささか楽観的にすぎる。
    (239p)

     山岡(2016)は、腐女子は心を開いて同趣味の男性と付き合えばよい、などとしているが、両者のジェンダー意識のギャップをみると、それは官製婚活なみの、学術的にいささか度をこえた「アドバイス」であるというしかない。
    (286p)

    「オタク」は「生き方」であり、「道」であるのは周知ですが、それを「たかだか趣味」と言い捨てる北田師匠の認識は、一体どうしたことでしょう。これではいかに「こんにちは、801ちゃん」と哀願の限りを尽くしても、腐女子を「彼女さん」にすることは叶いそうにありません。
     それはともかく、どう思われましたか? みなさんw
     何だかどす黒いものが胸に沸き立ちますねw
     まあ、その、学術書(なのでしょう、多分)において上のような「アドバイス」がなされているのは、確かに余計なお世話という気もしないではありません。
     一方で実際にオタク婚活パーティーが開かれたり、オタ婚している男女だって珍しくない以上、「アドバイス」としてはそれほど外してもいない、常識的なものだとの感想も持ちます。
     が、奇妙なのは北田師匠がこの「アドバイス」を、憤死せんばかりの勢いで「あってはならぬもの」としている点です。
     いえ、実のところ、ぼくも山岡氏に大賛成というわけでは全くありません。もし今、北田師匠とぼくと本田透氏を一つの場所に連れてきて並ばせたら、きっと皆一様に顔を鼻水でパックしながら血涙を迸らせ、地団駄を踏み鳴らしている光景が見られることでしょう。
     しかしぼくたちの地団駄の理由は、師匠とはいささか異なります。
    「同じ趣味の者同士、男女交際しよう」はもちろんそれなりに理のある一般論なのですが、そうそううまくいくかどうかは疑問です。
     理由を、思いつくままに並べてみましょう。

     1.まず、オタクコンテンツというのはかなりラディカルに男性向け、女性向けに分かれていること。
     2.男女共に人気のあるコンテンツとなると化け物的なヒット作品であり、殊に近年、そういうのは少ないこと。
     3.またそんなヒット作でも、それこそ北田師匠が重視する「二次創作」を見れば自明なように、市川大河アニキが自分の「彼女さん」が「801ちゃん」であったと自称していることを見ればわかるように、その楽しみ方が男女でまるきり分かれること。

     まあ、こんな感じでしょうか。これはある種、オタクコンテンツが人間の欲望をストレートに描き出すものである以上当たり前であり、いかに大河アニキがデマを垂れ流そうが、事実は変わらないということでもあります*1
     また一方、山岡氏が指摘しており、本田氏も同様なことを言っていたように「オタク男子はオタク女子が好きだが、オタク女子はオタク男子が好きではない」という傾向は、ある程度言えるように思います。これは一つには、オタクに限らず、男子の方が女子を求める傾向が強いということでしょうが、同時に「オタク趣味は男らしさとは相反するが、女らしさとは必ずしもそうではない」という事情にも起因するように思います。やはり、オタク男子とオタク女子では、前者の方がよりモテないのです。
     しかし北田師匠は、前者はもちろん、後者の論法も全く歯牙にはかけません。
     何しろこの直後、師匠は得意の絶頂で絶叫しているのですから。

     腐女子は「現実の対異性関係になれておらず、そこから逃避する非社交的」な人たちではない。事実はまったく逆で、腐女子こそがもっとも現行社会における男女の差異、差別、家父長的な性別役割分担、セクシャリティ意識に敏感(sensitive)なのであり、その対極にあるのがデーターベース消費に生きる男性オタクである。
    (286p)

     ここでも「データーベース消費」とやらを根拠に、いちいちオタク男子をdisっています。
     師匠の主張で一番おかしいのは――もちろん勘違いなオタク男子観、腐女子観なのですが、それを置くとするならば――「ジェンダー意識のギャップ」がそのまま男女交際の不可能性にスライドするという謎の前提があることです。
     前回採り上げた、図.1の表に並んだ質問は「人生設計」的な性格が強く、仮に師匠の解釈を正しいと前提すれば(正しくないことは前回指摘しましたが)確かに「オタク男子とオタク女子が結婚したら、子育ての方針などでもめるかも」との推測も成り立ちますが、恋愛というのは別にそうした予断の元に行うものではないでしょう。にもかかわらず師匠は、「オタク女子は最も先端的であり、最も後進的なオタク男子とは釣りあわないのだ(だからボクの『彼女さん』になりなさい)」とでも言いたげです。
     何よりもぼくと本田氏が踏んでいる地団駄は、「草食系であるオタクよりも、肉食系であるDQNの方が女にモテる、そしてオタク女子もそうしたセクシュアリティにおいて、一般女子と変わることはない」という経験則に基づいています。そしてそれは何故か……言うまでもなく、本田氏が指摘しているように、DQNの方がジェンダー規範に忠実だから、「女を女として扱うから」ですよね。
     そこを、師匠は全く真逆の論理展開をしている。
    「オタクは、マッチョだから、女にモテないのだ」と。
     これは本当なのでしょうか。
     それこそ、師匠のグルの「彼女さん」である人たちのイデオロギーに則った論理展開をしているだけではないのでしょうか。

    *1 また、そこまで男女差があることが許せないのであれば、大河アニキ的な人物はオタク男女に歴然とした違いがあるとする北田師匠にも噛みつくべきだと思うのですが、何故だかそれは、決してなされません。こうした人たちは「男女差は一切ない」というドグマと共に、例外なく「女性は男性より優れている」というドグマも妄信しています。矛盾している……というより、深層心理では女性を蔑視しているからこそ「女性は優れている」と主張せずにはおれないのだという彼らの「ホンネ」が、ここからは透けて見えますね。

    ●不良腐女子の正体は!

     以降も師匠は山岡氏への攻撃の手を緩めません。
     章の後半でも、239pでなされた引用が再び繰り返され、

     山岡の著作は、徹底的に既存の男性主義的な観点からみた腐女子の「逸脱化」に貫かれている。
    (302p)

     と論難し、山岡氏が「腐女子は恋人が欲しいはずなのに」と前提しているがそうではない、腐女子は彼氏ができないのではない、作らないのだ(大意)と主張します。
     そしてついには、以下のような結論を導き出してしまうのです。

     端的にかれら(引用者註・腐女子)は――現在のジェンダー秩序に適合的、という意味においてであれば――「恋人はいらない」のであり、「結婚したくない」可能性も大きい。既存のシステムのバグを同性の友人とともに発見する「理想的親密状態」を手放すぐらいなら、恋人も結婚も不要、というのは不協和どころか、ごく自然な認知的・感情的・行動的「態度attitude」である。
    (中略)
     腐女子=二次創作好きオタクは、きわめて洗練された形で、それぞれの方法で男性中心主義的な世界観に――意識の存否にかかわらず――異議を申し立てている。
    (303-304p)

     すごい!
     すごすぎます!!
     北田師匠の(淫夢の)中では、腐女子とは女同士、「レズビアン共同体」によって団結し、この根底から間違った現代社会の家父長制、ヘテロセクシズムを糾弾するためにBLを描き、間違ったシステムを断罪するために戦いを挑む、勇猛なフェミニズムの闘士だったのです!!
     ちなみに「レズビアン共同体」というのは「何か、女性差別なので女同士で連帯する」程度の意味の言葉であり、事実、上の文章の直後、この言葉の解説が入ります。
     お気づきかも知れませんが、この言葉は「ホモソーシャル」の対義語です。「男の団結は悪/女の団結は善」という恐ろしく雑な二元論がここでは貫かれ、フェミニズムが「男は何でも悪/女は何でも善」という結論から始まっているガクモンであることを、何よりも雄弁に物語っています。
     師匠はまた、BLが従来の性規範には収まらないものであると書き立てます。

     結婚という制度は異性愛者間の、現代の日本においては異性愛者間の次世代再生産を担う集団を担保するものとして位置づけられている。
    (300p)

     てか、結婚ってどこの国でもどこの時代でも、そういうものだと思うんですが、とにもかくにも北田師匠は「結婚」制度含め、現行の社会のジェンダー、セクシュアリティを根底から破壊したいご様子。そしてそんな革命戦士である自分の「彼女さん」に、腐女子こそがなってくれるのだと、信じて疑っていないかのようです。東師匠の「BLはホモソシアルを風刺している」が可愛く見えてくるほどの被愛妄想ぶりですね。BLにおいてマタニティものが人気であることなど、師匠はご存じないのでしょうか。
     しかし、それにしても、そもそも、師匠は一体何故、ここまで腐女子=フェミニストとでもいった世界観を、あどけなく妄信しているのでしょう?
     むろん、前回に挙げた図.1と図.2の調査がその根拠になっているのですが(それが疑わしいことは前回述べましたが)補足として、図.2をもう一度、見てみましょう。

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     この調査から、師匠はオタク女子には「マンガみたいな恋をしたい」といった願望が低いというデータを導き出します(アンダーラインは原文では傍点です)。

     女性二次オタク≒腐女子について興味深いのは、「マンガの登場人物に恋をしたような気持ちになったことがある」に対する肯定的回答率の高さと、「マンガみたいな恋をしたい」に対する肯定的回答率の低さである。
    (273p)

     数字としては決して低くはないのですが、他のカテゴリ(リア充女子、男子)もまた高い数値を示しているがため、相対的に「何か低い」という結果になってしまうようです。
     そして師匠は殊更の理由なく*2、女性はこの「マンガみたいな」という言葉を「規範的理念型に近」いもの、という意味として捉えているのだろう、また「マンガ・アニメのコンテンツに恋愛のモデルをことさらに見いだすわけではない」のだろうと言い出します。
     つまり、「現実の恋愛は(男尊女卑で)ケチカラン。腐女子は『マンガみたいな』と問われた時、そうした現実の恋愛規範を連想し、それを否定したのだ」というわけです。
     実に奇妙です。
    「マンガみたいな」と問われ、現実を連想したという前提が極めて理解しにくい上に、そもそもBLそのものが女性を排除した男性同士の恋愛であり、その意味で腐女子が「マンガみたいな」恋愛をすることは、原理的に不可能です。BLが自身の欲望(男性にモテたい)を男性(受けキャラ)に仮託して安全裡にそれを成就させる、という構造を持った表現であることを考えれば、腐女子が「マンガみたいな恋をしたいか」と問われ、「No」と答える理由は明白ではないでしょうか。
     それは単に、「そうした欲求を(腐女子はジェンダー規範に忠実なので)表に出したくない」というものです。
    (先に書いた、「男は女よりもモテたいという欲望が強い」という表現もその意味では正確ではなく、それを表に出しやすいのだ、とするのが正しいでしょう)
     そこを、一体全体どうして、師匠は上のようなねじくれた解釈を施してしまうのか。師匠はBLの非現実性自体を、恋愛規範を解体するもので素晴らしいとしているのだから、「BLと現実の恋愛は別だ」とでも解釈するだけで充分のはずです。
     いえ、師匠にしてみれば、とにもかくにも「腐女子が現実の恋愛を呪っている」との結論を導き出さなければ、充分とは言えなかったのでしょう。最初から結論ありきなのです。
     しかし、そもそも、仮に師匠の腐女子観が正しいのであれば、ここまで腐女子が増えているのだから、フェミニズムは大いに盛り上がっていそうなのに、全然そんな感じがしないのは、何故だかわかりません。
     また、「練馬調査」には「主婦になりたいか」といった項目があり、女子(腐女子だけではない、女性全体)の42.6%が「専業主婦になりたい」と答えています。そんなにも腐女子が従来のジェンダー規範に否定的ならば、ここから彼女らが主婦になりたがっていない事実を導き出せそうなものですが、そうしたデータは何故か提示されません
     こうした主張は、三十年ほど前に上野千鶴子師匠が『風と木の詩』辺りを持ち出して「ジェンダーレスワールドの実験」などと言っていた頃の古拙な見方を、一歩も出ていません。
     実のところBLが男女ジェンダーのリプレイであることは自明であり、既にこの当時、中島梓師匠がそれを指摘、上野師匠のロジックに見事な反論を加えておりました*3。上野師匠が間違っていたことは、それ以降のBLの隆盛を見るに明らかなのですが――例えば、腐女子の使う「受け/責め」といった用語は、「ジェンダーレス云々」といった分析が虚妄であることを、何よりも雄弁に世に知らしめてしまいました――にもかかわらず、北田師匠は三十年以上、ずっと同じ場所で足踏みをなさっているようです。

    *2 厳密には一応、解釈らしきことが書かれています。それをぼくの理解できた範囲で思い切りざっくり説明すると、オタク女子は「マンガみたい」を「古典的な」とでもいった意味あいで捉えているのだろう。それは言わば、「マンガに出てくるような、唐草模様の風呂敷を背負った泥棒」とでもいった、つまりは「理念型」、「世間であるべきとされている形」というニュアンスである、といった内容です。
     何故かと言えば、男性が恋愛から阻害されている傾向があるのに対し、女性は「体験」としての恋愛を内面化する傾向にあることが原因ではないか、との仮説が語られます。
     まあ、更にざっくりと、女性は恋愛をリアルなモノとして捉えるので、「マンガみたい」と言われても、男の感覚ほどには空想的なモノとしては捉えない、とでも言い直せばわからないではないですが、ジェンダーフリー論者の唱える説としては問題ある気もします。
     もっとも、このリクツを持ち出すため、(また、男子が「マンガみたいな恋」をしたがる傾向が高いことを説明するため)、師匠は「男子は男性役割を必要とされないマンガの中の恋愛に憧れているのだ」という解釈をしています。ぼくとしては、これ自体は賛成できますが、師匠自身の本来の主張とは丸きり相反する解釈となってしまっています。
     いずれにせよ、この解釈だけで論点が五つも六つもできてしまう以上、短絡的な結論を出そうとすること自体に、問題があるんじゃないでしょうか

    *3 以上は雑誌『都市Ⅱ』の内容を、本が手元にないため記憶で再現したものですが、大きな間違いはないはずです。

    ●爆発!腐女子コントロールタワー

     他にも、本書はBLを自分たちのイデオロギーに適うものであると強弁するために、クラシカルな記述の目白押し。

     性犯罪が起こるたびに「男の性欲は……」という紋切り型の説明図式に日々晒される女性にとって、性そのものを否定することなく性愛を描くため、性そのものを関係性のなかに収めるという方法は、現行の男性中心主義に覆われた社会を相対化するうえで重要な戦略であるといえる。
    (296p)

     一体、本書の出た今年は、西暦何年なのでしょう。少なくともまだ21世紀を迎えていないことだけは確実です。
     こうした記述を見ていると、彼ら彼女らの戦略は既に、こうした時代錯誤なことを敢えて書いてアリバイを作っておくという、「歴史捏造」の方に既に舵が切られているのでは……と思いたくもなって来ますが、しかしそれはやはり違い、あくまで「天然」なのでしょう。北田師匠の周囲にはグルの「彼女さん」であるフェミ腐女子しかいらっしゃらないでしょうから、彼の主観では上のような腐女子観も、あながち非現実的とも思えないのかも知れません。
     しかしもちろん、それが腐女子のマジョリティの実態を反映しているとは考えにくい。
     萌えアニメなどにも、近年では一人くらい腐女子キャラが登場するのは珍しいことでなくなりました。それは、ぼくたちが彼女らを「知って」いるからです。
     何を「知って」いるのか。
     彼女らが「ぼくたち同様にアニメに夢中で、エッチなことにも興味があって、ぼくたちのそんな話にも乗っかってくれ、そして、しかし、言うまでもなく、伝統的な女性ジェンダーを保持した存在であること」を、です。いえ、先に「男子オタクと女子オタクではアニメの好みが違う」と書いたように、むろんアニメはアニメなりの脚色でよりぼくたちに親しみやすくしてくれているわけではありますが。
     彼女らが自身を「女の腐った」ような存在であると自己規定し、「腐女子」という言葉が生まれたことや『801ちゃん』が流行ったことにも満更ではないこと(女子としてスポットライトを浴びて嬉しげなこと)を「知って」います。
     彼女らが「心にペニスがある」と自称する時、ぼくたちは「サービス」で驚いてみせますが、彼女らが精神的にも肉体的にもペニスを持たない存在であることを、「知って」います。
     彼女らが男子のことを男子と呼ばず、「殿方」と呼ぶこと、それが彼女らの「伝統的女性ジェンダー」への少々の屈折を含んだ憧憬故の行動であることを、ぼくたちは(そんなムツカしい言葉として言語化はせずとも、直感的に)「知って」います。
     だからこそ、彼女らは伝統的女性ジェンダーに忠実に、自らの欲望を(男同士に演じさせることで)男性へと仮託し、彼氏が欲しくないようなポーズを取ることを「知って」います。
     彼女らが「この家父長制社会へと戦いを挑むため、敢えて男と距離を取っている」存在などでは決してないことを、ぼくたちは経験則的に「知って」います。
     だからこそ、腐女子を自らの政治の道具にしようとしているとしか思えない北田師匠の言動に、ぼくは激しい嫌悪感を覚えます。
     自分たちが既存のジェンダーを憎んでいるから腐女子もまたそうでなければならぬのだ、彼女らは結婚などしたがってもいないのだ、と絶叫する北田師匠の振る舞いは、かつてのフェミニストたちが女性の非婚化を推し進めたことと全く同じ、ここしばらくのリベラル君たちの「オタクは二次元で充足している存在なり」といったロジックと全く同じ、言語に絶する残忍で無慈悲な、見るに耐えない非人道的なものです。
     フェミニストは萌えを「男性側の身勝手な女性観を押しつけている、ミソジニーだ」と批判します。碧志摩メグを否定した北田師匠も当然、それに首肯することでしょう。
     しかしこうして見ると、デタラメな論理展開で腐女子を自分の「彼女さん」であると強弁する北田師匠(及び女性のフェミニスト)こそが真のミソジニストであると言うことも、もはや明らかではないでしょうか。
     ぼくは今まで「男性学」の研究家たちをご紹介して、彼らこそが女性の理解者であると自称しつつ女性に身勝手な幻想を見て取り、彼女らにつきまとうストーカーなのではないか、との指摘をしてきました*4。北田師匠についても、同じことが言えるのではないでしょうか。

    *4 男がつらいよ
  • リベラルたちの楽園と妄想の共同体――『社会にとって趣味とは何か』

    2017-05-12 17:494

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    ●ガールフレンドが出来た(ウソ)

    『となりの801ちゃん』が流行った頃、サブカル雑誌『百合以下』――じゃなかった間違えちゃった、『ユリイカ』だった――でBL特集が組まれたことがあります。キャッチコピーは確か「こんにちは、801ちゃん」。この何とも言えない下心満々な感じ、「彼女さん*1が欲しくて欲しくてたまらないオーラのハンパなさに、身体中を掻きむしりたくなってしまうほどの、耳まで真っ赤になってしまうほどの恥ずかしさを感じたことを覚えています。
     一体全体どういうわけか、リベラル君たちはオタク男子を深く深く、深く深く深く深く深く深く深く深く憎悪しつつ、オタク女子と見るや相好を崩し、手もみをしながら擦り寄り出すことは、何度も何度も述べてきました*2
     何だか進駐軍とパンパンが肩を組んで並んでいるのを横目で見ている気分がしないでも、貨幣価値の違う途上国で女遊びをしまくる先進国の人間を見ている現地人のような気分がしないでも、ありません。余談ですが東宝映画『地球防衛軍』は母星を失った宇宙人ミステリアンが「富士山麓を我々の居住区にさせて。後、お嫁さんを世話して(はぁと」と言ってくる話ですが、この宇宙人には当時まだ人々の記憶に新しかった進駐軍のイメージが重ねられていたと言われています。
     ――さて、そうした「国辱」を思い出させてくれるご本が、またまた出版されておりました。
     今回ご紹介する『社会にとって趣味とは何か』です。
     実は一ヶ月ほど前、本書に掲載された表がツイッター上で話題になっておりました。
     図.1がそれで、質問項目を見ただけでおなかいっぱいな上に、著者が北田暁大師匠*3とあってはもう、読む前からお察しのもの。が、そうは言ってもこの表だけでは判断のしようがありません。実際に本を手に取ってみました。
     以降、本稿では件の表の挙げられた北田師匠による第8章「動物たちの楽園と妄想の共同体 オタク文化受容様式とジェンダー」を専ら扱うことにします。何しろ専門性の強い難解な書で、たった一章を扱っただけで膨大な文章量になってしまいました。今までやったことがなかったのですがレビューの方も論点毎に章立てして、二回に分けてお送りすることにいたします。また、章タイトルを考えたのにあわせ、これも初の試みですが書名以外にレビュータイトルもつけてみました。
     それにしてもとうとうオタクを動物呼ばわりですか……本当にこの人たち、人間として失ってはならない何かが、完全に欠落してしまっているようですね。

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    ■図.1 ツイッターで取り上げられ、ちょっとだけ話題になった表です


    *1 この「彼女さん」という表現は市川大河アニキが「自分には腐女子の『彼女さん』がいた」と自称していることからいただきました。
    こんにちは、801ちゃん」、「彼女さん」、いずれも絶対にモテないサブカル君が必死になって女性に手揉みしてる様が目に見えるようで、言葉を見るだけで居たたまれなくなってきますね。
    *2 典型例はBLを「ホモソシアルをからかう」表現であるとした東浩紀師匠でしょうか。
    *3 北田師匠は碧志摩メグに反対するオタクの敵である一方、秋葉奪還計画などを画策したこともあり、「オタクを憎みつつ、都合のいい時には利用しようとする」、典型的なリベラル君です。

    ●リベラルの偽グラフ作戦

     さて、この図.1を素直に見れば、オタク男子とオタク女子のジェンダー観には大きな差があるという結論になりましょう。師匠はこれをもって「オタク女子はジェンダーセンシティブな存在であり、オタク男子はその対極」、「オタク女子が一番先進的で、オタク男子が一番保守的」といった理論を展開しているわけですね。
     もっとも、男女に意識の差があること自体は当たり前だと思うのですが、この調査ではそれ以上に、オタク男子と一般男子のジェンダー観に結構な齟齬があるとの結果が出ています。これはぼくにしてみれば、かなり意外な結果でした。オタク男子と一般男子のジェンダー観に殊更差異があるとは、あまり思えませんから。
     オタク男子は(本書の主張と異なり)一般男子よりも「草食系」であると、ぼくは思います。しかしそれが本件で問われているような質問への肯定的な回答、言い換えれば「ジェンダーセンシティビティ」という名の「フェミへの服従指数」とストレートにつながるとも、あまり思えません。が、それでは(本書が主張するように)一般男子よりも殊更にジェンダー規範に忠実かとなると、そうとも思えない。
     上の*2を見ればわかる通り、東浩紀師匠などは今まで、「オタクはマッチョである」と何ら根拠なく吹聴してきました。この図.1はある種、東師匠の主張を補強するものであり、そこがぼくにとっては不審でした。そんなの、インチキ教祖の予言がいきなり的中したようなものですからね。
     しかし感想ばかり言っていても仕方がありません。この調査そのものについて、ちょっと説明しておきましょう。
     この調査は「練馬調査」と呼ばれており、練馬区の住民基本台帳からの系統抽出法とやらいう無作為抽出を行ったとのことで、まあ、殊更のバイアスはないと思われます。
     ここにおける「二次オタ」「非二次非オタ」というのはそれぞれ、「二次創作を好むオタク度の高い者」「二次創作を好まないオタク度の低い者」の意。分析する際、質問紙による「あなたはオタクか」との問いに、「YES」と答えた者のみをすくい上げてしまうと、例えば「自分はサッカーオタクである」など、「オタク」を「何かに夢中になっている人」程度の意味に解している者をも含めてしまうかも知れぬとの懸念から導入された、オタク度の濃い者をセレクトするため「二次創作、即ち同人誌を好む者」という条件を加えようとの手法のようです。
    「二次創作好き」がオタク度の濃さの一つの指標として使われていることは概ね納得できるのですが、男女差(恐らく女性の方が二次好き度が高い)はあるような気がします。
     その他にも本調査のオタクセレクトの方法は混迷を極め、正直それが適切か不適切か、判断しづらいのですが*4
     また、対象にした2000人の中で有効ケースは647人。比較されている「二次オタ男子」「非二次非オタ男子」もそれぞれ50人程度であると推察でき、調査対象として充分な人数を確保できているのかという疑問は残ります。
     さて、もう一度このグラフを見てください。縦軸の数字が何を意味しているのか、おわかりになるでしょうか。
     グラフには「標準得点を示す」とだけあり、本文にもそれ以上の説明がありません。
     この「標準得点」、或いは「標準化得点」というのは調査で得られた素点を、「平均0、標準偏差1」となるように変換したデータを指します。標準化得点が-1~+1の間に収まれば、平均値を中心として前後68%の分布内に収まると言われており、要は北田師匠がいたく問題視なさっている「オタク男子の保守性」もこの68%、いえ、0.5~-0.4なのだからそれ以上に小さな範囲にすっぽり収まっている、「誤差」の範囲内――かどうかは解釈次第かも知れませんが、まあ、そんなものなわけです。
     大体、このデータだけ標準化得点を算出している理由が、ぼくにはわかりません。普通に棒グラフでオタク男子と非オタク男子の違いを表せばいいと思うのですが。実はそう考え、元のデータから、グラフを作成してみようかとも思ったのですが、データの記載されているウェブページ*5の「単純集計」を見ても全般的な数字が書かれているのみで、項目別の数字は(男女別ですら)記載されておらず、断念するしかありませんでした。
     統計局の「なるほど統計学園」を見ると、「統計の落とし穴」として図.2のようなグラフを提示しています(エピソード5. この変化は大きいの?小さいの? ~統計グラフの見せ方・見え方1~)。
     ありがちですよね、縦軸の数字を1点刻みにすることで針を棒のように大きく、10点刻みにすることで棒を針のように小さく見せかけるテクです。ルイ君は英語の成績が下がっていること、数学の成績の上昇が微増に過ぎないことを、これで誤魔化しているのですね。
     い……いえ、ぼくは本当に統計学については疎いので(どころか九九も怪しいくらい算数が苦手なので)本当のところはわかりませんが……。
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    ■図.2 ルイ君、悪い大人を見習っちゃいけませんよ

     しかし調査の母集団がさほど多くはないことは、先にも述べた通りです。例えば「保守的」でなければならないはずのオタク男子にしても「男性も家事や炊事をした方がいいと思う」の項目だけは「進歩的」だったりとその回答には揺らぎがある。これも、やはり差自体が僅かなものであったことが理由ではないでしょうか。
     また、北田師匠はこうも言います。

     やや予断めくが、女性二次オタクには古典的マンガを読むなどの教養志向、また作品から自らの生き方の示唆を受けるといった「自己陶冶としての読書」傾向がうかがわれ、態度としては、古典的な「自己陶冶としての読書」態度に近い。「内面的な奥行きのなさ」「歴史意識の飽和」というデーターベース消費とは異なった読書傾向が女性傾向が女性二次オタクにみられるわけだ。
    (272p)

     リベラル文化人のオタク論は必ず「オタク男性を全否定しつつ、オタク女性に対してはこちらが退くほどの卑屈さで手揉みを始める」というダブルスタンダードが求められ、女性をどういうリクツで持ち上げるかは最も彼らの頓知が求められるところなのですが、北田師匠は何を根拠に、こうまで言うのでしょうか。
     件の調査では漫画に対するスタンスの男女差についても調べられ、χ2(かいじじょう)検定とやらいう表にまとめられています。図.3がそれですが、師匠はこの「教養のために昔の有名なマンガを読むようにしている」と「わたしの生き方に影響を与えたマンガがある」という項目にオタク女子の多くが肯定的であることを根拠に、先のような主張をしているようです(もっとも後者は男子も多く頷いているので、男子をdisるのは勇み足だとも思うのですが……)。
     が、これは本当にアテになるのでしょうか?
     表には数字が書かれておらず、「なし」「*」「**」の三段階評価のため、差違がどの程度なのかがはっきりしない。「絵柄が魅力的であれば、ストーリー展開にこだわらない」といった設問についての男女差は数字が記載されているのですが……。
     そう思いつつ表をもう一度よく見てみると、とあることに気づきます。
     師匠がスルーしている「難しいマンガは好きではない」といった項目は、女性にこそ多くあてはまっているのです。これで、果たして「教養志向」、「自己陶冶としての読書」の傾向があるなどと言えるでしょうか。
     そう、師匠の解釈はかなり控え目に言っても、「極めて恣意的」と言わざるを得ないものなのです。

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    ■図.3 オタク女子が自己陶冶的だという証拠らしいんですが……。

    *4 他にもオタクを選び出すための指標として選ばれている質問が、例えば「マンガがきっかけでできた友だちがいる」「友だちと一緒にマンガ・アニメ専門店(アニメイト・とらのあな、など)に行く」などといったもので、これでは交友関係についての男女差が出てしまうでしょう。
    *5 「若者文化とコミュニケーションについてのアンケート」調査報告ページ

    ●質問項目の中にダイナマイト

     ――以上のように、件の表がそこまで重要視すべきものかとなると、それはいささか怪しい。となると「オタク女子とオタク男子のジェンダー観に歴然たる差がある」との師匠の説すらもが、怪しくなってきます。
     しかし、更に言うならば、いずれにせよ件の表の「質問項目」にそもそも、最初っから、何ら意味などなかったのだ、とぼくは考えます。
     何となればこの調査、端的に表現するならば「女性がトクをすることが正義なのだが、それに賛成か」との問いに対し、男性よりも女性の方がより多く肯定したので女性は正しい、と言っているだけのものだからです。
     いえ、仮にこれを師匠が聞いたら(聞かずに済む温室の中だけで生きているからこそ、彼ら彼女らはこうしたことを続けていられるのですが)反論することでしょう。「これら質問のどこが女性にとってトクなのか」と。
     もちろん、これら質問が直ちに何でもかんでも「女性に利を与えることが望ましいか否か」を問うているわけではありません。
     しかし例えばですが、「男の子と女の子は違った育て方をすべきだとわたしは思う」といった質問がなされる時、「男の自殺率は女の倍だが、これは男は強くあれという育て方に起因し、それ故救いの手が差し伸べられないためである、是正せよ」、「女のホームレスは全体の5%に満たない、これは女性が男性に比べ遙かに守られているからであり、男女不平等である」などといった視点が前提されているでしょうか。されているわけがない。「女性は差別されていたのでもっと利を得なければならない」というフェミニズムのテーゼが内在されているに決まっているのです(そうした前提が多くの人々に共有されていること自体が、この日本が男尊女卑などではあり得ないことの、何よりも明白な証拠なのですが)。こんな調査結果を持ち出してわざわざ驚いてみせる振る舞い自体が、一種のいやらしいポーズでしかないのです。

    ●僕のデーターベース消費は時代遅れ?

     さて、もう一つ本書の「奇怪な前提」について指摘しておきましょう。
    「データーベース消費」というものです。
     これは東浩紀師匠が言い出したことで、要は「オタクはアニメやゲームなどの作品性などは歯牙にかけず、キャラクターのみを取り出し、動物的に萌えているだけだ」といった、全くもって、どこの宇宙意志様の電波をどのように受信すればこのような結論に至るのか、到底理解が及ばないトンデモ理論です。
     反論するのも疲れますが、オタクが例えば『エヴァ』などにまつわる作品世界の謎などを考察し続けて来たことは、東師匠――そしてその理論を全く疑いもなく大前提として本書を編み上げた北田師匠――にとっては幻だったのでしょうか。それとも、「そういう高度なことをしているのはサブカルであり、オタクはもっと下等だ」とでも考えているのかなあ……。
     ましてや東師匠は「key大好き芸人」として出て来た人物です。しかしkey作品を初めとするこの時期の美少女ゲームは師匠の妄想に理がないことを、何よりも雄弁に物語っていると言えるのです*6
    「うる星大好き芸人」の宇野常寛が『うる星』の基本の基本の基本の基本も理解できてないのと全く同じに*7、東師匠もkeyのゲームを一切、ご理解できていらっしゃらないご様子です。
     そして、師匠はこうした東師匠の妄想を根拠にオタク男子をdisった上で、しかしオタク女子は「物語萌え」だから高尚だと主張します(本書においては東園子師匠の「相関図消費」という言葉で表現されています)。
     例えば、図.1の表が提示される直前には、以下のような主張がなされます(アンダーラインは原文では傍点です)。

     二次創作を、「既存の性愛」を読み替えるものであるか、「既存の性愛」を増幅させていくものであるか、のいずれで解釈するかにより、その意味はまったく異なってくる。
    (290p)

     意味がおわかりでしょうか。「既存の性愛を増幅させているだけのオタク男子の二次創作とは違い、BLとは既存の性愛を読み替えるものである、だからそうしたものを描く腐女子はエラい」と師匠は言いたいのです。
    (ちなみに本書では「腐女子=二次創作好きオタク」は大前提となっており、そこに疑念を差し挟む余地はありません
     男性向けポルノは女性の肉体性が何よりも重要である。例えばエロ漫画家などは女体をいかに描くかが何よりも求められる*8。しかしBLにとって一番重要なのはキャラとキャラとの関係性である。
     これはBL論としてはかなりクラシカルなものです。何しろ腐女子自身が「おそ松×十四松」といったカップリング表記をすることで、自らの欲望をある意味システマティックに表現するようになって、何十年も経つのですから。
    「女性は情緒的な結びつきを重視する」と表現すると、何とはなしに高尚な気がしますし、この分析自体は女性一般の心理から考えても、的を外してはいないでしょう。しかし、上に書いたシステマティックさは、彼女ら自身が彼女ら自身のセクシュアリティの「聖化」を阻む結果にもなっています。上のようなカップリング表記は二次創作の紹介のためになされることが多く、それって男性向けのエロ漫画でいちいち表紙に「縛り有り」「ろうそく有り」とでも表記するようなものなわけです。
     彼女らはおそ松が責めて十四松が受けていれば満足する……というほど単純じゃなくても一応、キャラ類型とその組みあわせをデータベース的に分解することは可能であり(例えば、年齢の離れたカップリングに萌えるとか、不良っぽいキャラがマジメ君を責めるのが萌えるとか)、それは結局、オタク男子と大差ないように、ぼくには思えます。

    *6 これについて詳述する余力はありませんが、かなり以前に書いたことがあります。80年代の「ラブコメ」から現代の「萌え」に至るまで、エンタメは「大きな物語」を捨て、「私的な物語」を描いてきた。冷戦の終結とか、何かそんなのが原因だろう。ところが、key作品を初めとする美少女ゲームは美少女キャラ頼みかと思いきや、「実はこの作品世界には秘密があり……」といった「大きな物語」を紡ぎ上げる傾向が強まってきた。恐らくこの種のゲームが「同じストーリーを何度もリプレイする」という特質を持っているためではないか……といったようなことです。
    詳しくは「Rewrite」「ゴーカイジャー ゴセイジャー スーパー戦隊199ヒーロー大決戦」「Rewrite(その2)」に書かれています。三つもありますが、今見直すと一つひとつは短いので、興味がある方は読んでみてください。
    *7 ゼロ年代の妄想力
    *8 マニアックな領域においては、絵は下手クソでもマニアックな嗜好に対する入れ込みの高い作家が支持されることがままあるのですが、それだって肉体性やその肉体性に対する働きかけこそが一番重要であるということは同様でしょう。

     ――さて、というわけで今回は北田師匠のグラフの怪しさ、オタク男子disについて主に見ていただきました。師匠はしかる後、腐女子を賞揚し出すのですがそれがまた、腐女子に同情を禁じ得ないようなもの。
     それについてはまた、来週辺りうpしますので、どうぞご期待下さい。
  • 千葉県我孫子市の女児殺害事件について

    2017-04-28 19:1510
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     ちょっと時期を逸した感がありますが――まあ、ぼくは大体、いつもやることなすことワンテンポ遅れるのですが――我孫子市で起きた女児殺害事件について。
     もちろん、現時点では逮捕された容疑者はあくまで「容疑者」であり(また、本人も黙秘しているようであり)軽々しいことは言うべきではないのかも知れませんが、「みんな」がいろいろ言っているのに乗り遅れたくないので、しょうがありません。あくまで「容疑者」を「犯人」と仮定してのお話なのですが、感じたことをまとめておきたいと思います。
     まず、今回ぼくが本件に対して抱いたのは、「随分と盛りだくさんだよな」という感想です。
     彼は妻子持ちであり、保護者会の会長職に就いており、言ってみれば社会的に信頼される教育者的立場の人物でした。
     つまり、こうした事件が起きた時に仮想されるであろう一人暮らしの独身男、社会的地位も低い人間といった犯人像とはどうにもつながらないわけです。
     しかし一方、オタクと思しい側面も報道されています。
     書店で『新潮』と『文春』をぱらぱら眺めたところ、前者では学生時代にアニメ絵を描いたり「アニオタの読むようなエロ本(確か、このような記述でした)」を読んだりしていたと伝えられ、後者では「裏物のDVD」のマニアであったとされています。「裏物」といっても、いわゆる小学生女児の水着DVDの類であり、裏は裏だが違法性はない(と、記事を読む限り想像できる)ものですが。
     つまり、こちらの方はこうした事件が起きた時に仮想されるであろうロリコン男といった犯人像に結びついてしまう。
     盛りだくさんすぎて、みなさん、お好きな要素だけサラダバー形式で選んで、お好きな論を展開なさってはどうでしょうかねと言いたくなってしまうわけです。
     言うまでもなく、今までこの種の問題がある度に、オタクを守ると称して先頭で旗を振る、「何らかの政治的な意図を持った、リベラル寄りの人々」――まあ、ぼくがいつも言っている「表現の自由クラスタ」――は「子供への性犯罪はペドファイルによるものより、近親者によるものの方が多い」といったロジックを好んで多用してきました。しかし「ペドファイル」と「近親者」は対立する概念ではなく、当然、「ペドファイルの近親者による犯行」が多いとの論法も成り立ち得る。正直、穴だらけのペド擁護論を、まるでマスゲームの如くに異口同音に繰り返すのがどうにも気持ち悪く、ぼくの「表現の自由クラスタ」への不信感の一因となっておりました。また、これはどうしたってフェミニズム的な家族解体指向と親和性がある主張であることも、疑い得ません。
     本件は、そうしたロジックの穴を、わかりやすく絵解きしてしまいました。
     まあ、もちろん、一方では「世間一般の、子供への性犯罪は怪しげな変質者である独身者によってなされるとの幻想」に穴を開けたとも、言えるでしょうが。

     さて、ネット界隈では本件の報道に対し、「オタクバッシングだ」との声が溢れました。
     或いはぼくの知らない「バッシング」報道もあったのかも知れませんが、少なくとも上のものはそうではないでしょう。しかしそうしたレベルの報道にすら激おこな、「犯人の趣味まで報じる必要がないのに何故報じるのだ」といったような声が聞かれたことには、いささか当惑せざるを得ませんでした。
     むろん、犯人の小学校時代の作文などを引っ張り出すような報道の仕方は、誉められたものではないかも知れません(だからといって何も報じないわけにもいかず、そもそもそれこそ「表現の自由クラスタ」の主張ともバッティングすると思うのですが)。が、上の「何故報じるのだ」発言は、そうした一般論から出て来たものとは違うでしょう。
     ここには、「無辜で清浄な被害者であるオタクと、凶悪な加害者であるマスゴミ」という対立構造が仮想されているのです。
     しかし、上の報道が正しいとすれば、「犯人」がオタクである可能性は少なくない。
     彼が嗜んでいたという「アニオタの読むようなエロ本」やら「裏物のDVD」も、どのようなものか、詳しいことはわかりません。オタ向けのエロ漫画といっても巨乳の人妻の登場するものだってありますし、水着DVDといってもモデルが女子高生ならば、ペドファイル向けではない。しかし仮にそれらがペドファイル色の強いものであったとしたら、犯行と相関関係がないとも言いにくくなってきます。
     ぼく自身はオタクとペドファイルは全く別物であるし、あくまで分けて論じるべきだと思っています。今回の「犯人」についても、「オタクではないが、ポルノ的リソースをオタクコンテンツに求めたペドファイル」といった解釈も大いに成り立ち得るでしょう。実写の児ポは貴重でしょうから、あくまで代替物として「ロリコン漫画」を収集していたという考えです。が、それでも相関関係があることには変わりないし、そしてその相関関係は「彼ら」が好んで例示する「犯人はパンを食べていた」よりは大きなものであることは、疑い得ません。
     そして、実のところ「彼ら」はこうした(オタクとペドは別だという)「切断操作」を許さないことは発言を見ていれば明らかであり、ここもまた、「彼ら」に不信感を抱かざるを得ないのです。
     この事件の「犯人」が捕まる直前、(本件とは関係ない、オタクと性犯罪の関連についての話題で)トゥゲッターで議論していた相手が「オタク的な文化を消費していた者が性犯罪に走った例はない」といった主張をして、絶句したことがありました。想像ですが、この主張は「ポルノは性犯罪の原因にはなり得ない」との「因果関係」否定論を拡大解釈し、「相関関係」にまで押し広げてしまったものであるように思われます。
     むろんこれは極端な例にせよ、近年オタクの被害者意識はいよいよエスカレートする傾向にあるように思われます。
    「彼ら」のトップにいると考えられる文化人――即ち、「自分をオタクだと思い込んでいる一般リベ」は一昔前まではオタクをゴミクズのように罵っていたにもかかわらず、オタク文化が市民権を得るに従い、手のひらを返した上、揉み手を始めた人たちなのですが。そこにあるのは「オタク」が「みんな」と呼べるような一定のマスにまで育ってしまったがため、それを利用することに乗り遅れまいとしている姿です。
    「彼ら」は「オタクを悪者であるかのように報じる、マスコミの偏向報道」をこそ、諸悪の根源であるかのように考えている節がある。また、明らかにそのような報道があったとしたら、それは確かに正されるべきではある。
     しかし「小学生の児童をレイプする漫画を読んで喜んでいたオタクが実際に小学生の児童をレイプした」としたら、それはそのように報道されてしまうのは仕方がないし、「そのようなオタク」がある程度、白眼視されるのも仕方がないでしょう。
     どうも「彼ら」の論調を見ていると、「小学生の児童をレイプする漫画を読んで喜んでいるオタク」がニコニコと実在の小学生の児童と手をつなげる世界をこそ、正常であると考えている節があります*1。そして、「そうした、本来の正しき社会」の建設を阻んでいるのが、オタク――否、ペドファイルへの「偏見」をまき散らすマスゴミという名の悪者である――「彼ら」はそう考えているように見えます。
     しかし、それは非現実的な妄想と言うしかありません。
     そもそもこの種の「マスコミの影響論」は「彼ら」の「性犯罪者はポルノの影響を受けなかった論」と真っ向から対立しますし、「彼ら」が親の敵の如く憎んでいる(フリをしている)「ラディカルフェミニズム」*2と全く同じ考えなのですが。

    *1 事実、NAMBLAという「子供とのセックスを合法化せよ」と主張をする少年愛者の組織がアメリカにあることを、ご存じの方もいらっしゃるかも知れません。
    *2「彼ら」は「ラディカルフェミニズム」という言葉を、「ポルノに反対するフェミニズム」という間違った意味で(恐らく確信犯的に)流布させていますが、実際には「マスコミなどの影響下にある男女のジェンダー、セクシュアリティを正さねばならぬ」とするフェミニズムをこそ、こう呼ぶのです。これは即ち、現行のフェミニズムはほぼ100%ラディカルフェミニズムであることをも、意味しています。詳しくは「重ねて、ラディカル/リベラルフェミニスト問題について」を参照してください。

     そんな「彼ら」は度々、「オタクがマスコミから攻撃を受けた事例」としての「宮崎事件」を引きあいに出します。
     みなさん、特にお若い方、ご存知でしょうか、「宮崎事件」。
     何しろ1988年のことです。オタク以外には――いや、下手をするとオタクにも――すっかり忘れ去られた事件です。四人もの幼女が殺害された凄惨な事件の犯人がオタクで、また、当時は「オタク」という概念そのものが一般的でなかったため、ある意味オタクの、強烈なネガティビティをもってのマスコミデビューとなってしまったという事件だったのです。
     その時にもオタク界隈では「宮崎くんはオタクではなかった」的な言が流通したのですが、そんな中で大塚英志氏は「そうじゃない、宮崎くんはオタクだった。それを引き受けた上で彼が好んだオタク文化を擁護しよう」との主張を展開したのです。
     確かに大塚氏の言はいささか宮崎くんに肩入れしすぎのものであって(これは逮捕当初の流れがいかにも冤罪っぽいものであったことが関係しているように思われます)、文化人連中や彼が愛して止まない大少女漫画家から「格好つけやがって」「殺された少女を蔑ろにしている」といった(完全に不当な)言いがかりをつけられていたことを思い出します。
     前者は、確か糸井重里。大塚氏の「ぼくの中の宮崎くん」的な表現に噛みついたものでした。
     もちろん、犯罪者に対して「切断処理」をすることを旨とする目下の「サヨしぐさ」からすれば、大塚氏のやり方はいささか「宮崎萌え」のすぎるものではありました。今こう書いて気づきましたが「宮崎萌」ってタレント、いそうですね。
     しかし大塚氏の主張は、あくまで宮崎くんの犯行そのものは裁かれなければならないけれども、彼の愛したオタク文化は守らねばならないというものだったのです。更に言えば、オタク文化と事件との間に一切の関係がないとするのもムリがある、「エロ漫画に刺激を受け、犯行を」といった因果関係論は否定すべきかも知れないが、「ロリコンだからロリコン漫画を読んでロリコン犯罪を犯した」といった相関関係までは否定できない。そこをそれなりに引き受けていくことが誠意ある態度だ……まあ、これはぼくの解釈も入っているかも知れませんが、当時の彼の主張は、要するにそういうことでした。
     その後、オタク文化が隆盛するようになって、大塚氏は「俺はお前らがでかい顔するために身体張ったんじゃねーぞ」などと憎まれ口を叩いておりましたが、そう言いたくなる気持ちもわかるのです(ただし、彼の言う「お前ら」は恐らく岡田斗司夫氏辺りが想定されていたと思います。ぼくとしてはそこに、また別な人たちの名前を入れたいところなのですが……)。

     ともあれ、目下の「ペドファイル被差別者論」はそうした考えるべき諸々を見事なまでに切り捨て去った、最近のリベラルに顕著な「仲間内でだけ盛り上がることだけが目的化した、まかり間違っても外の世界では通用しないレトリック」にしか思えません。
     そして、繰り返しになりますが、「在特会」のノウハウが左派のパクリであるのと同様、「彼ら」の論法はLGBTのパクリで成り立っています。ぼくはずっと、「オタク=セクシャルマイノリティ」論者のもの言いを批判して来ました*3。「彼ら」の狙う、オタクの「LGBT」への仲間入りは絶対に叶わないし、万一叶ったとしてもそれはオタクに決して益するものではない、と。
     LGBTは「名誉女性」として「被害者力」を獲得しましたが、オタクは決して、「女子力」の主ではありません(もっとも、「オタク=草食系男子」の図式は成り立つとは思います。ですが、逆にこうした図式を、一体全体どうしてだか「自分をオタクだと思い込んでいる一般リベ」は狂ったように否定し続けています)。
     つまり、ぼくたちが殊更に被害者意識を声高に叫んだところで、LGBTの獲得している「女子力」というスキルを持っていない以上、彼ら彼女ら以上にウザがられる、「自分をセクシャルマイノリティだと思い込んでいる一般人」になるのがオチなのです。
     更に、上に挙げたような非現実的な世界観を振りかざすようになったら、それは本当に、「単なるヤバい人」となってしまいます。ここから見て取れるのは、「被差別者バッヂ」さえ身につければ、自分はいついかなる場合も正しい側に立てるのだという、「彼ら」ののぼせ上がりようです。それは、全てを被害者/加害者の二元論に還元しようとするあまりにも幼稚な試みであり、その過程で、何よりも忘れてはならない「ペドファイルの加害者性」をすっぽりと置き去りにしてしまっているのです。
    「男性学」研究家である伊藤公雄師匠は拙著『ぼくたちの女災社会』を「男性を完全に被害者という位置に置いた書」と評しましたが*4、これはかなり的確な形容です。拙著のしたことは端的に表現すれば、世間が、分けてもフェミニズムが男女ジェンダーの両価性を全く顧みず、「女性を完全に被害者という位置に置い」ていることへの疑問の提出でした。拙著はそうした「片手落ち」に対する相互補完を目指した書である、と言えます。
     しかし今、フェミニズムに忠誠を誓った「彼ら」が「ペドファイルを完全に被害者という位置に置」きつつあるのです。「彼ら」が拙著と異なり、相互補完を目指していないことは、例えば上に挙げた空想科学的な現状認識が象徴していると言えましょう。
    「自分たちは被害者だ」という甘美な自意識は一度持ってしまうと、そこから動くのは困難です。それはフェミニズムがそうであったように阿片であり、しわ寄せは「更なる弱者へと行く」ことはもう、決定事項なのです
     ぼくたちは『薔薇族』の編集長が小学生とのセックスを称揚している証拠を目の前に突きつけられても、頑として認めなかったフェミニストたちのことを思い出し、他山の石とすべきでしょう。

    *3「新春暴論2016――「性的少数者」としてのオタク」を読む
    *4 夏休み男性学祭り(その4:『新編 日本のフェミニズム12 男性学』