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  • コビト

    2017-03-19 22:2710
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     星新一については、前にも「宇宙の男たち」という作品についてご紹介しました。
     その知名度に反して真価が理解されているとは言い難い作家の、あまり知名度のない作品についてすくい上げることができたと思っております。
     それに比べ、本作は殊にネットの世界では有名な作なのですが……。



     ご存じない方は是非上をごらんになっていただきたいのですが、大体のあらすじを記しておくと、以下のような感じです。
     ネタバレされたくない方は、お読みにならないようにお願いします(なお、以降太字は小説の原文の引用部分です)。

     小さなサーカス小屋で、コビトのショーが行われていた。
     身長20cmほどの、本物のコビト。
     ショーと言っても曲芸をするでもなく、座長がただコビトをいじめるというだけの残忍なもの。
     すぐに問題になるが、座長はコビトを自分の所有物と言って譲らない。コビトもまた、ここで働かせてもらえなければ飢え死にだと状況を甘受している。
     人々はことを裁判に訴えた。
     しかし座長は孤軍奮闘、詭弁を弄し裁判費用を都合し、最終裁判所まで持ち込むが、当然そこでも敗訴。
     ついにコビトは我々と同じ人権、選挙権なども持った存在として認められた。 
     と、その次の瞬間、コビトが勝ち鬨を上げる。
    「かつてなら力も武器もない我々は問答無用で一掃されていたことだろうが、時代は変わった」。
     各地で一斉におびただしい数のコビトが姿を現した。
     ここに至れれば、流血もなく合法的にコビトが地上を支配するのは、もはや時間の問題にすぎない。

     僅か5pの、ショートショートの中でも更に超短編。
     その中に極めて優れた寓意が圧縮されています。
     ネット上では外国人参政権に絡めて語られることが多く、上の動画もまた、保守派のグループによって作られています*1
     ――が。
     ぼくは最近、本作をトランプ現象と共に思い出したのです――と書くと、みなさんいかが思われるでしょうか。
     まずは、もうちょっと詳しく本作を分析していきましょう。
     星新一が本作にいかなる風刺意図を込めたかは、判然としません。
     そもそもが現在の視点からは「コビト」という言葉自体が「ヤバい」ものであり、ミゼットプロレスをつい、連想してしまいますが、本作が書かれたのは1968年。まだ「コビト」そのものにヤバさはなかったはずです*2
     設定に「コビト」が採用されたのは、言うまでもなく「弱者性」を表現するためと、ラストのどんでん返しで「わらわらと湧いて出てくる」場面を連想させたいがためでしょう。事実、コビトは前半ではオドオドとした卑屈な態度を取り続けますし、また、動画ではコビトがすごく可愛く描かれ、大変効果を上げています。
     逆に座長は実に憎々しげに描かれ、更にはコビトを助けようと奮闘する人々をト書きで「問題にすることで快感を味わう同好の士」、その活動を「だれもが、リンカーンや清水の次郎長、慈悲ぶかい王妃さまなどになったような気分になれる。」と極めて突き放して描いています。敢えて反感を覚えるような書き方をすることで、読者を逆にコビト側に肩入れするように、リードしているわけですね。
     これを外国人参政権そのものと結びつけることがどこまで妥当かはわかりませんが、「移民」の問題が描かれていると見ることは容易にできます。
     また、先にも書いたコビトの弱者性はまさに「女災」の理念と合致する、「被害者とされる者の発揮する加害者性」そのものでしょう。その意味で、この「コビト」を女性そのもののメタファーと見て取ることも、不可能ではありません。均等法前後のフェミバブルは、まさにぼくたちにとっっては「コビト」であったはずです。
     が、これは星新一作品全体に通底する特徴なのですが、あまりにもフラットでスペキュレイティブな作風が、すぐさま「○○が元ネタ」との「認定」をすることを拒絶するのです。
     例えばですが、このコビトは何故、地底からわらわらと出て来たのでしょうか。
     当時はSFブームの最盛期で、『ウルトラセブン』では毎週、いろいろな宇宙人が地球の侵略を目論んでいた頃です。ホンネを現したコビトがUFO――否、「空飛ぶ円盤」――を呼び、「我々は○○星人だ」と宣言するオチも、考えられたはずです。
     そう、或いは特撮オタクであればここで、「ノンマルトの使者」を思い出したかも知れません。これは『セブン』の中でも名作にして異色作と呼ばれる話で、「海底人のノンマルトが攻めてくるが、彼らは自分たちこそが原地球人で、今の地球人こそ自分たちを海底に追いやった侵略者だ」と主張する話です。
     これは(異説もありますが)どうしたって当時の「原日本人説」の影響を思わせます。「ノンマルト――」の脚本家とは別人ですが、『セブン』でも執筆していた佐々木守はホームドラマでも、また別な特撮作品『アイアンキング』でも「原日本人説」を扱っておりました。
     つまり、当時のそうした流れを鑑みるに、地底から現れた「コビト」はまた違ったニュアンスで解釈されていた可能性も大いにあるわけです。何しろ、星新一の祖父である人類学者・小金井良精がアイヌ人原日本人説を提唱していましたし、時代は下りますが『ズッコケ山賊修行中』でもまさに土ぐも一族が地底に潜んでいましたよね。

    *1 ここでも外国人参政権に絡めた解釈がなされていますが、作品そのものは極めて原作に忠実に(言い回しなどは変えてはいるものの、イデオロギーにあわせた改変などはせず)映像化されています。
    *2 本文中に「小人型チョコレート」という言葉が出て来ますが、当時はコビトチョコレートというブランドが存在しており、それが意識されていたことは想像に難くありません。

     ともあれ、そうした本作のフラットさ(換言するならば、どのようにも解釈しうる優れた寓話性)を確認した上で、もう一度、内容に検討を加えてみましょう。
     コビトは「かつてなら問答無用で一掃されていたろうから、時代が変わるまで長い時間雌伏していた」と語ります。
     つまり、何よりも「民主主義」こそが彼らの勝因であったのです。
     大体わかってきたのではないでしょうか。
     ここに着目した時、本作は「移民」の物語とも「女性」の物語とも(或いは「原日本人」の物語とも)取れると同時に、トランプ現象の話にもなり得るのです。
     本作において、確かにコビトは「敵」「異邦人」として描かれてはいます。
     が、そこにひとまず目をつぶれば、コビトは「男性」に見えてくるのではないでしょうか。
     ぼくたちは「コビト」です。「居ないことにされていた人々」です。
     リベラル寄りの人々は「女性」であるとか「セクシャルマイノリティ」であるとかを「居なかったことにされていた」と称し、そうした人たちを担ぐことが大好きですが、じつはそうした人たちは、「ずっといた」。
     オカマなどすらも別に、いないことにはされていませんでした。もちろん、一般的な社会で彼らが語られる文脈は、彼らにとっての望む形ではなかったにせよ。
     その、彼ら彼女らに付されていたネガティブなレッテルが「PC」という裏技で全部ポジティブなものにひっくり返った。それが、ここ数十年の動向であったはずです。
     フェミニストは「歴史」は英語で「history」、即ち「his story」だ、などと言います。近年、有村悠師匠が真顔でこう言っていた時は頭がクラクラしました
     が、それはそうではありません。
     ぼくたちはずっと、「心の参政権」を剥奪され続けて来たのですから。
     このことをファレルは

    男性は彼ら自身の司令官になったことは一度もなかった、男性が司令官になったのは守れという命令のためだったこと。


     と評し、ぼくは男性心理の「三人称性」と形容しました。
     もっと言うと「選挙」だの何だの「政治」そのものが(ホントは違うんですが)天下国家を語る、男の「三人称性」を強化させるシステムに他ならなかったわけです。
     だが、しかし、にもかかわらず、あまりにも蔑ろにされ続けて来た「ホワイトトラッシュ」という名の「コビト」が初めて味方を得た、というのがトランプ現象だったはずです。
     そして言うまでもなく、日本においても近いことが起こっています。
     そう、オタクが権利意識に目覚めるなどの傾向です。
     ぼくたちはフェミニズムによって「家庭」も「男性としてのアイデンティティ」も奪われました。しかしだからこそ逆説的に、「正義のために」とか「貧しい人のために」ではなく、「俺のために」行動することに目覚めてしまいました。これもホワイトトラッシュ同様、全てを奪われたが故の立ち振る舞いでしょう。
     むろん、ぼくの「表現の自由クラスタ」の政治活動に対する評価は高くありません。彼らのボスがフェミニストの手先であることは、幾度も指摘してきました。本来であれば男性対女性、或いは人類対フェミニストという対立構造で捉えるべき問題を、彼らは非実在フェミニストを次々と生み出して、妄想社会学の世界に押し留め続けているのですから。
    (トランプのやり方について、ぼくには興味も知識もありませんが、ホワイトトラッシュと移民の対立構造で事態を捉えていること、それ自体は正しいのではないでしょうか)
     だから、彼ら彼女らに乗っかっている限り、「オタク」という名の「コビト」の無血革命は成功することは、ないでしょう。
     ぼくたちが「コビト」になったということは、ぼくたちが「女性」であるとか「セクシャルマイノリティ」とかに対する後ろめたさを失ったことを意味します。
     ぼくは「表現の自由クラスタ」はフェミニズムをわかっていない、フェミニズムが「女性が男性に圧倒的絶対的に搾取されているのだ」との現状認識を大前提としていることを、彼らは全く理解していない、と指摘し続けて来ました。
     それは以前にも指摘した、「オタクをセクシャルマイノリティであると強弁し、失敗する姿」、或いは「ペドファイルをLGBTの仲間に入れてもらおうとして、失敗する姿」が象徴しています。彼らはフェミニズムの前提を取っ払ったがため、後ろめたさを持たない、フラットな人権観の主ですが(そしてここまでは正しいのですが)しかる後にフェミニズムにすがろうと考え、フェミニズムを妄信し続ける。その理由が、ぼくには全くわかりません。
     そもそも現実を見る能力が一切ない人たちなのだから、何ら不思議はないと考えるのが正しいのかも知れません。しかし敢えて理由を考えるならば、彼らが「上を見て、我々にパンを」方式の考え方しか教えられていないからかも知れません。自民党を倒せばオタク差別も男性差別もなくなるという摩訶不思議な考えは、「オタクセクマイ論」「ペドファイルLGBTに入れろ論」とワンセットですよね。
     ですが、それにしても、ほとほと、「表現の自由」という切り口を持ち出したことが、彼らの敗因であったと思います。
    「俺のために」行動することを、彼らは肯定してしまったのですから。
     そうなっては彼ら彼女らのしがみついている旧時代の強者/弱者観が古びた者であるということが、明らかになってしまうのですから。
     しかし、いずれにせよ、先人であるフェミニストたちのようにこの国のリソースをを食いつぶすだけのやり方では、ジリ貧です。
     何となれば、ぼくたちは何億という数で多数決の勝利を収めた「コビト」、即ちマジョリティなのだから。
     敢えてここで、作品としての「コビト」の続編を考えるとしたら、コビトたちが国のリソースを食いつぶし、寄生主を巻き添えにして共倒れ……とそんなストーリーしか、浮かばないのです。
  • 宮台真司が妄想とデマの糞フェミ擁護!'2017 みんなー!宮台師匠の布教が始まるよー!

    2017-03-03 18:1826
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     ここしばらく、ぼくがずっとピル師匠、多摩湖師匠を案じていたことは、皆さんご存じかと思います――などと書いて、頷いてくださる方がどれくらいいらっしゃるでしょうか。
    2016年女災10大ニュース」などでぼくは彼女らを「面白半分にバラエティ番組で担がれた、田舎のラーメン屋」であると形容しました。というのも、表現の自由クラスタは「ポルノに寛容なフェミニストがいるのだ、いるのだ」と絶叫しつつ、その「真のフェミ」の具体例を提示できずにいた。そこに渡りに舟で出現したのがピル師匠、多摩湖師匠であったと言える。
     しかしよく考えれば、元から彼らのガールフレンドたちには担ぐにふさわしい、社会的地位や知名度、何よりもオタクリテラシーを持った腐女子フェミニストが大勢いらっしゃったのです*1。彼らが今に至るまで彼女らを担がないのがどうにも不自然であり、いざとなったら切り捨てられるおばさんたちをわざわざ探し出してきたのだろうとの想像が、そうした不安の根拠となっておりました。それは丁度、「オタク界のトップ」やサブカルがオタクを特攻要員くらいにしか思っていないのではないかとの不安と、全く同じに。
     そしてまたここしばらく、ぼくがずっとツイッターレディース、まなざし村を案じていたことも、皆さんご存じかと思います――などと書いて、頷いてくださる方がどれくらいいらっしゃるでしょうか。
     というのも、社会的地位のあるフェミストたちと彼女らには、主張も品性もほとんど差異がないにも関わらず、表現の自由クラスタの彼女らへの憎悪は半端ない。彼らは彼女らを、お姫様に対して感じた不満を代わりにぶつける存在として選んでいることは、端から見れば自明だからです。幾度も指摘することですが、彼らが彼女らを好き放題に叩いているのは、彼女らが何ら後ろ盾を持たない個人だから、という面が大きいことは、どうしたって否定できないのです。
     いずれにせよ、両者とも表現の自由クラスタに選ばれたスケープゴートである、というのがぼくの見立てであり、そうなると、彼女らの未来がどうなるかも明らかです。
    『人造人間キカイダー』に出てくる悪の組織が失敗した戦闘員を処刑するシーンが、ふと思い出されます。「首領様、お許しを!」「チャンスを! もう一度チャンスをお与えください!!」と哀願する戦闘員たちがプレス機で押しつぶされ、廃棄処分にされてしまうシーンはぼくの心に深いトラウマとなって残っています。
     大変に、恐ろしいですね。
     ところが最近、よりにもよって、宮台真司師匠がピル教に入信してしまったのを知って*2、上の推理は修正を余儀なくされてしまったのです。考えてみれば確かに、表現の自由クラスタたちのピル神に対する崇拝心は天然であったようにも思います。「利用して捨てる気だ」などというのはいささか、彼らの知性に対する過剰評価だったかも知れません。
     しかし更に困ったことに、よりにもよって宮台師匠は上野千鶴子師匠を「ラディカルフェミニスト」と断言してしまいました。表現の自由クラスタの皆さんはこれからも安らかに呼吸ができるのだろうかと思ったのですが、こちらの心配をよそに、気にしている方はどこにもいらっしゃらない様子。そもそもが上野師匠のデタラメ極まる著作を自分たちの都合のいいように解釈し、ピル神が「おっぱい募金」に反対したことも一切気に留めない方々です*3彼らの信仰心は「事実」などによって、いささかたりとも揺るぎはしません
     どうぞ長生きなさって下さい。

     ――さて、ところで、しかし。
     上のまとめで宮台師匠が「糞フェミ」などと罵倒しているのは、アンチポルノ運動をしているフェミニストのようです。そうしたフェミを、本稿では略して「アンポルフェミ」と呼称しましょう。もちろんポルノを認めるフェミなどいないのですが、これはあくまで便宜上のものです。
     さて、確かに宮台師匠はずっとアンポルフェミたちともめておりました。ぼくもよく知らないのですが、「実際の強姦を記録した」との疑いのあるAVについて宮台師匠が擁護した、という(確かもう、十年以上前の)ことで執拗に「粘着」されていたという経緯があったかと思います。
     正直、ぼくはこの問題にあまり立ち入ろうとは思いません。フェミニストのことだから無理矢理な文句を言っているんだろうな……といった感想は抱きますが、実際に悪質なAVもあるわけで、まあ、細かい査定は当事者同士でやっていただくしかない。少なくとも宮台師匠もまた重篤なフェミ信者である以上、冷静な判断力があるとは思えない(ことは、今回の入信騒動で思い知らされました)。どっちが勝とうと知ったことかという気にしかなりません。ノイホイ氏や鳥越氏の件についてあんまり舌鋒荒げる気になれなかったのと、同様な理由です。
     が、いずれにせよこの「糞フェミ」が「ツイッターレディース」やら「まなざし村」やら「ツイフェミ」やらと同様の恣意的で幼稚なレッテルであり、宮台師匠の行いは上野師匠たちを「まだ、話せるフェミニスト」として延命させようとするだけの行為であることは、言うまでもないところです。

     ところで、実は最近他にも、AVにまつわるフェミ同士のバトルがありました。
     田中美津師匠がAVについて語った記事に、アンポルフェミが噛みついていたのです。
     田中師匠と言えば、上野師匠の師匠に当たるようなフェミニストの中の大師匠。フェミニズムが「時流を解さない」ことをテーマにしているだけあって、記事のずれっぷりはハンパありませんが*4、同時にこの中で、

    やりたくないと言いながら結局、AV出演契約をしてしまう人というのは、そういう深いところで倒錯した自己肯定感を持ちながら仕事をしているのではないでしょうか。数百本も出演して「強要だった」と訴えた人を「何を今さら?」と非難する人もいますが、そういう心の病があることを分かっていないと理解できませんよ。

     と、女優側を擁護しつつも「強要」に懐疑的な見方を示していて、それにアンポルフェミが噛みついた、という一幕があったのです(ちなみにこの箇所は抗議を受け、現時点では削除されてしまっています)。
     むろん、常識的に考えれば、田中師匠の方がまだしも正しいことでしょう。
     しかし同時に、女性の側の主体的な判断すらも「ジェンダー規範の刷り込みがあったのだ」として否定してきたのがフェミニズムです。
    部長、その恋愛はセクハラです!』を読むと、「セクハラかどうか、女性にもよくわからないので、その時点で合意があっても後づけでセクハラだと思ったのなら、それを尊重せよ」などとものすごいことが書いてあります*5
     そして大変残念なことに、この主張は「真のフェミニスト」であらせられるはずの上野師匠からも発せられ、同書に引用されたものなのです。
     そう、女性に主体は認められない。
     その時に何を言っていようが、本人は自分が何を言っているのかもよくわかっていない。
     だから、女性の発言や主張は後から自在に撤回する権利を与えよ。
     それがフェミニズムなのです。
     アンポルフェミを憎む正義の味方たちは彼女らを「女性の主体性を認めない」と罵っておりましたが、上野師匠こそがそれだったのですね。
     あ、いや……逆に「女性は発言の責任を持たなくていい」という前提を導入すれば、やはり彼女らは正しいのか……?
     なるほど、田中師匠の判断は間違っていてまなざし村こそが正しいことが、そしてまたぼくの指摘は間違っていてピル神を崇拝する表現の自由クラスタや宮台師匠こそが正しいことが明らかになりました。
     めでたしめでたし。

     ――終わってしまいました。
     もう少し続けましょう。
    「女に主体など認めてはならんのだ」とは、一体どこまで非人間的な主張なのかと思いますが、しかしこの問題、よく考えればセクハラ問題ともジェンダーフリー(即ち、ジェンダー規範は男にすり込まれたのだとするフェミの妄想)とも全く同じ構造を持っていることが、おわかりになるのではないでしょうか。何しろジェンダーフリーこそ、「あらゆる人間が主体的判断だと信じ切っているそれは、実はジェンダー規範に操られてのものであり、正されねばならない」という、人類史上最大の人権無視の思想なのですから。
     全く途方もない考えで、呆れる他はない……と言いたいところですが、実のところぼくは女性のメンタリティを考えた時、それは実は、ある種のリアルをすくい取っていると言えるのではないか、と思うのです。
     例えば、昭和時代のアイドルの決まり文句に「私は興味がなかったけど、友人が(オーディションに)応募した」というのがあります。もちろん、そのアイドルを清純に見せたい事務所によって作られた「設定」という側面もあることでしょうが、「自分から能動的にことに及んだわけではない、しかしあまりに可愛いので相手側から求められたのだ」という物語は女性にとって何よりも切実に希求する、この世で一番大切なものでしょう。
     AV女優というのは90年代の頃から「芸能人志望」、つまりそのステップとしてAVに出演しているのだと称するのがお約束でしたが、これも上に近しい心理が働いているわけです*6。そうした発言について、

     1.バカだから騙されている
     2.わかった上で、ある種の見栄として芸能人志望と称している

     といった「分析」が可能ですが、恐らく本人の中で上のいずれかの心理状態にあるというわけではなく、この二つが不可分に混ざりあっている。その上でAV界でちやほやされることで芸能人なりたい欲はほぼ満たされている、とでもいったことになるのではないでしょうか。
     こうした曖昧さは「AV女優は主体性を持って、自らの意志でAVに出演しているのだ」としたくてたまらない表現の自由クラスタ(及び、リベサーの姫型フェミニスト)の主張とは極めて親和性が悪い。
     しかし、人間心理がそんなに明確にくっきりはっきりとしたものである、という考え方こそ、フィクションではないか、とも思います。

     精神科医の木村敏教授は「人間」とは「人の間」なり、みたいなことを言っています。
    「主体」とは「人と人の間」にこそあるのだ。
     A君とB君が食事に行った。「何を食う?」と、ああでもないこうでもないと話しあっている間にいつの間にかカレー屋に入っていた。場合によってはどちらかが強力なリーダーシップを取ることもあり、また両者の思惑がぴたりと一致することもあろうが、少なくとも日本においては「何とはなしのその場の空気」によりメニューが決定することが多いのではないか。言わば「人と人の間」こそが主導権を握っている。
     まあ、そんな論法です。
     何しろ何十年も前に読んだことを記憶で書いているので、厳密さには欠けますが、アウトラインは間違っていないと思います。
     日本人の人間関係は受けと受けしか存在しない、腐女子が泣いて悲しむBLであり、「強固な、毅然とした主体的自我」などといったものは「西欧文明」の生み出したフィクションであり、そんなものは存在しないのだというわけですね。この考え方にはそれなりの説得力があると同時に、男性よりは女性に、より当てはまるのではとの印象を持ちます。
     つまり、この木村教授の理論を前提した時、「AV出演を強制されたのだ、仮に自らの意志で出演しますとの契約書が残っていても」というアンポルフェミの言い分にややリアリティが増し、一方、AVに賛成するフリをしているリベサー姫がデートの時に男の子から教えてもらった「近代的自我」を前提とした物言いが、やや不利になる。
     そうなると、必然的に上の『部長、その恋愛は――』などにおける「女は自分が何を言っているのかもわかってないから男たち、とにかく責任を取れ」といった言いがかりが浮上してきてしまう。
     しかし、当たり前のことですが、女性に主体というものを認めないのなら、男性にだって主体はなく、責任能力はないとしないことには平等ではない。
     いえ、『部長、その恋愛は――』が平然と出版されているという事実は、そうした平等の原則など歯牙にもかけず、男だけが無制限無条件無思考で全責任を負え、とのコンセンサスがこの世に根づいていることの表れでもあります(実のところ「チンポ騎士団」とは、フェミニズムに平身低頭すれば自分たちだけはそうした「女子力」の恩恵に与れるのだ、との宗教運動でした)。
     確かに、この状況で男女平等を導入すれば社会は完全に立ち行かなくなり、全人類がやったあらゆる悪行の全てが「何か、安倍さんのせい」みたいなわけのわからないロジックが横行するディストピアしか成立し得なくなる。
     そう、どう考えても詰んでいる、わけです。
     将来的に、「近代的自我」というフィクションには限界があるのだということが明らかになった時、それを超克する社会パラダイムやら何やらかんやらを見出す必要に迫られるのかも知れませんが、今、パラダイムという言葉もよくわからずに書いているぼくレベルの手には余る話です。
     ひとまず、AV出演強制問題に立ち戻りましょう。
     パラダイムはともかく、今ここでこの問題にうまい具合に対応するには、もう少し女性のメンタリティの曖昧な性質に肉薄するノウハウを確立し、うまく手綱を握るしかない。
     もっとも、そうした性質は現代の価値観からはあまりポジティブな評価を下し得ないものでしょう。そこをまあ、何とか当たり障りのない形で現実にソフトランディングする知恵が、ぼくたちには求められます。
     現代の社会は(フィクションだろうと何だろうと)近代的西洋的自我というものの上に成り立っているのだし、女性ももう少し努力することで多少なりともそこに適応していただく他は、ありません。
     いずれにせよ、その時にはフェミニストたちの曖昧模糊としたデタラメな言動を「兵器利用」しようとするだけのリベラルのやり方は、「女災」として厳に戒められることになりましょう。
     彼ら彼女らの未来は暗いようです。

    ■補遺■

     実は本稿の「人の間」に近しい論法が、ピル神の信徒の口からも聞かれました。
     丁度このテキストを書いている最中だったので驚きましたが、フェミニズムがそもそも、こうしたロジックであったことは上に書かれている通りです。
     彼女らの言い分はぼくが上でしている「ならば男性側もあらゆることから免責されなければならないし、そんなことは非現実的な空論だ」との指摘を全く織り込まないものでした。それでは自分が不利になった時にだけ、ちゃぶ台返しをしてもいいという身勝手な言い分にすぎません(しかしそもそも、ジェンダーフリーもこれと全く同様のグレートリセットであり、ポストモンダンクラスタの言い分って、基本、この程度のものなんですね)。
     実はピル神がおっぱい募金を否定していることを指摘された時の言い訳もこれと同様の論法であり、いずれにせよこの種の「自己決定能力あるかどうかわからない論」を持ち出せば持ち出すほど、彼ら彼女らはアンポルフェミに限りなく近づいていくのですが、どういうわけか、それには全く気づいていらっしゃらないご様子です。
     とにかくあの人たちはロジックを「自分の都合にあわせて倒すべき敵にだけ好きな時に好きなようにぶつけていいどくさいスイッチ」としか思っていないのですね。

    *1 そうした腐女子フェミが「ポルノに寛容」なのは一応、事実です。しかしそれはリベサーの姫として場当たり的に言っているだけだということもまた、幾度も指摘してきた通りです。例えば藤本由香里師匠がドウォーキンの「全てのセックスは強姦」との主張を肯定的に引用するなどしていて、彼女らが「ポルノに寛容」というスタンスとフェミニズムの理論をどう止揚しているのか、全くの不明なのですから。
    *2 「宮台真司首都大学東京教授、ネット上で流れている自称フェミの誹謗中傷のデマを否定する
    宮台真司氏による、日本的フェミニズムの「妄想のホメオスタシス」批判
    宮台真司が妄想とデマの糞フェミ退治!'2017 みんなー!宮台先生の授業が始まるよー!
    *3 「おっぱい募金への反対論者との議論」。
     ちなみに上の「宮台真司氏による、日本的フェミニズムの「妄想のホメオスタシス」批判」ではピル神の言い訳と、それについてのぼくのツッコミが記されています。こうしてみても表現の自由クラスタは一切、ポルノを守る気がないことがよくわかりますね。
    *4 「AV問題 男の力誇示にNO「女性のための作品を」
     BLがどうのといったツッコミはここではしませんが、考えると田中師匠が静かに主張を取り下げたことと、同様なずれっぷりを示した駒崎師匠があれだけ炎上したこととは、極めて対照的です。駒崎師匠が炎上した理由、それは彼を叩いているのがKTBアニキのそれと同様、「チンポ騎士」の地位を狙って彼を羨む層が主であった点にあります。「ツイフェミ」の反対語は「プロチンポ騎士」であり、彼らは「チンポ騎士」志願者から狂ったような憎悪を向けられる運命にあるのですね。
    *5 兵頭新児の女災対策的随想「部長、その恋愛はセクハラです!(接触編)
    *6 「女性たちは主体的にAVに出演しているわけではない」とのロジックに対する反証として、昨今ではAV女優たちが自主的に、嬉々として立ち上げているブログやツイッターなどが挙げられましょう。が、同時に、引退した彼女らが以前のブログを消し、「やりたくてやっていたのではなかった」と手のひらを返す現象も恐らく日常的に見られているはずです。AVマニアというのはそういうのに「粘着」したりはしないものなのか、ちょっと疑問ではあります……などと書いていたら、出て来ました。
    「AV女優の手のひら返しに戸惑い…」AV出演を“強要”したとされる男たちが、ついに重い口を開いた
     彼らも商売ですから、黙ってはいないことでしょう。
  • クリエイター様マンセーの時代はもう来ない? 『ニューダンガンロンパV3』の先進性に学べ!

    2017-02-04 22:1532
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     さて、『ダンガンロンパ』です。
     ファンの期待を受け、満を持して本年の初めに発売された新作ですが、その評価は大いに荒れております。
     Amazonのレビューは目下のところ554なのですが、星1つが197。星5つが113ですから「賛否両論」とは言え、いかにファンの失意や怒りが大きいかわかります。
     そんなわけで以下、ネタバレを含み簡単に経緯を記したいと思いますので、知りたくない方はご覧になりませんよう。
     後、ヒット数を稼ぐため、○○師匠を彷彿とさせるセンスのない週刊誌のリード文風タイトルをつけてみましたが、いかがでしょうか?

    *     *     *

     ――ちょっとネタバレの前に前フリを入れましょう。
     同人誌文化華やかなりし頃――『エヴァ』放映時だったでしょうか。と言っても今がどんな感じなのか、とんと疎くなってしまい、わからないのですが――「ジジイ落ち」というのが流行っていました。ぼく自身はそこまで見た記憶はないのですが、当時の評論系同人誌でそれについてのコラムを書いている人物がいました。
     エロシーンのクライマックス、美少女キャラのあられもない姿が大ゴマで描かれた一番の見せ場を読みつつ、更なる刺激を期待してページをめくると、そこにはクッソ汚いジジイのどアップが描かれている。或いは、痩せこけた飢餓地帯の子供の絵が描かれている。で、読者に冷や水を浴びせるような一言を放つ。後者であれば「君たちが無為にオナニーしている間も、世界には食べ物もなく死んでいく者たちがいるのだ、云々」など。
     その同人作家氏は、これを以下のように評しました。

     この落ちを一番最初にやった者はよい。先進性も批評性もあった。それなりの気概を持って描かれたのだろう。しかし、それを真似た者には、それらは全くない。単なる悪趣味な嫌がらせをやっているだけだ。

     記憶で書いてるので、ぼく自身の考えも混じっているかも知れませんが、そんな主旨でした。そして、ぼくはこれに全面的に同意します――いえ、むしろ一番最初にやった者にすら、評価すべき批評性などないと、ぼくは考えます。
     これを理解するにはいくつか押さえておくべきポイントがあるでしょうが、一番大きい理由としては、当時のエロ同人作家がオタク界の花形であり、ワイドショーのコメンテーター的「ご意見番」といったスタンスにいたことが挙げられるように思います。何しろネットもそこまで普及していない時代ですし、ぼくたちは同人誌を買うと共に、フリートークページに書かれた作者のアニメ評などを貪り読んでおりました。要は彼らは「エラかった」のです。
     こうしたことが許されていた背景には同人誌が「趣味だから」「商売じゃないから」といった認識があったからですが(今はもっと商業化されているでしょう)、それ以上にとにもかくにもこの業界は「クリエイター様エラい主義」が非常に濃厚で、同人作家って何やったっていいと思われていたのです、当時は。
     更に、そうした心理的土壌の深層には「オタクの、オタクへの憎悪」がありました。
     当時はオタクの社会的地位がほとんど士農工商エタ非人申酉戌亥の、更にその下くらいに設定されておりました。近年、オタク文化が市民権を得たおかげでぼくたちは逆説的に「オタクは差別されている!」と団結するようになりましたが、当時はあまりにも地位が低いために、お互いにお互いを憎み、呪いあうことで精神の安定を得ていたのです。当時の同人誌即売会のパンフには「オタクは人間に最も近い動物なり」などと書いていた人物もおりました。そう、そもそもこの「オタクのオタクヘイト」は上に立つ業界人連中がそそのかしていたのです
     もちろん、エロ同人誌の売り手の気持ちを想像した時、心情はわからないでもありません。血眼で自らのエロ同人誌を求めるオタクたちを見るとどうしても、「醜い」と感じてしまう。それは無理からぬというか、当たり前のことではありましょう。
     しかしそもそも最初にエロ同人誌を(他人様のキャラ人気に乗っかって)描いたのは自分です。彼ら自身が誰よりもエロ漫画に自らのリビドーをぶつけていたはずなのですが、いざそれを客観視してしまうと(漫画を描く時にもそんな自分を客観視しておいてほしかったものですが)嫌悪感を感じてしまうのでしょう。
     結果、彼らは他人様のキャラ人気にあやかったエロ同人誌で稼ぐ俺様はエラいエラいクリエイター様、買う者はゴミのようなオタクどもなので何をしてもよい、という自意識を発達させてしまったのです(し、その弊害は今も残っているように思われます)。

     ――とまあ、大体言いたいことは言っちゃいました。
     上の話が本件とどう関わるのかというと、(というわけで以下からネタバレですが)本作、最終章のチャプター6で黒幕が登場し、「お前たちはゲームキャラだ」と言ってしまうのです。
     メタネタです。
     もっとも、今回、キャラクターたちの人形が糸で釣られているといった、それを匂わせる演出が繰り返され、ぼくも当初から「黒幕はスタッフたちそのものでは」と予測をしていました。
     が、それは半分当たり、半分外れといった感じです。
     この『V3』の世界では『ダンガンロンパ』というコンテンツが大人気。『1』や『2』もこの『V3』世界ではゲームとして消費されています。主人公たちにコロシアイを強いていた黒幕の正体は「チームダンガンロンパ」のスタッフたちだったのですが、そのスタッフ以上に、彼らへと作品を求める、『ダンガンロンパ』の熱心なファンたちの声の方が前面に出てきているのです。
     主人公たちはしかし、そんな連中の見世物になるためにコロシアイをさせられていた事実に憤り、「ゲームを終結させる」「『ダンガンロンパ』そのものを否定する」ことを決意します。決死の覚悟で学級裁判そのものを放棄、学園を破壊、そんで、何か九死に一生を得て「ぼくらの戦いはこれからだ!」でエンド。いや、最後はどうだったか忘れちゃいましたが、何かそんな感じだったと思います
     このメタネタ、それほど斬新でもありません。
    『勇者特急マイトガイン』の最終回でも、「主人公たちがこの作品世界がフィクションだと気づく」落ちをやっていました。悪の大首領は「オモチャを売りたい玩具メーカー」であるとの暗示がなされ、スタッフたちのホンネが透けて見えました。
     そう、この種のネタってクリエイターなら誰しもがやりたくなるものなのでしょうが、なかなかスマートにまとまりません。
     本作においてはそれが顕著で、『ダンガンロンパ』ファンたちがモニタに現れ、ニコ動的演出で、コロシアイを止めさせようとするキャラクターたちを延々と罵ります。「もっと楽しませろ、今までどれだけのカネを落としてきたと思っているんだ」と。
     そもそも先にフィクションと書きましたが、本作の主人公たちは生身の人間です。「チームダンガンロンパ」は生身の人間の出演者を募って(或いは拉致して? 描写が曖昧で判然としません)コロシアイに参加させています。生身の人間でありながら、その記憶をリセットし、捏造された疑似記憶を植えつけることで、フィクショナルなキャラに仕立て上げ、フィクショナルな舞台の中で役割を演じさせている、ということのようです。それを視聴者たちは見物して楽しんでいる。視聴者たちも出演者たちも、そのコロシアイを「ゲームだと思って」視聴し、出演を志望しているのだろうけれども、そこも詳述されず、判然としない。
     そうした非現実的な、しかもあやふやな状況を仮想して、「お前たちファンはコロシアイを楽しんでいる悪しき存在だ」と糾弾されても、困惑するしかありません。それこそ非実在の少女に対する性的虐待を批判されるようなものです*1
     そのくせ、一体全体どういうわけかスタッフはそうした責から完全に免れている。スタッフは超越的な黒幕、ファンは主人公たちを口汚く罵る醜い存在と、役割がくっきりと分かれているのです*2。アニメ版『3』で愚かしい、節度を失った残酷描写でブーイングを受けたのはスタッフ側だろうに。
     これでは「事実関係を捏造により入れ替え、相手を罪に陥れた」ようにしか見えません。
     上にニコ動と書きましたが、仮に本作が十年前に作られていればここの演出は間違いなく2ちゃんねるのアンチスレとして表現されていたはずで、一言で言えばこれらはファンへのぼやき、『ダンロン』を作りたくないというグチという、一番やっちゃいけないモノにしか、ぼくには見えませんでした。
     何しろ、黒幕は歴代作のキャラクターたちに次々と変身し、その口から旧作を否定する台詞を吐いてみせるのです。あたかも、『ダンガンロンパ』そのものを完全に葬りたいとでも思っているかのように。ご丁寧なことに旧作の声優が全てのキャラたちの台詞を新録しています。ぼくはこれは恐らく、ミニゲームの台詞収録のついでだったのだろうと考えることで何とか自分を納得させていたのですが、プレイしてみるとミニゲームの方に新録はない模様
     スタッフたちは、ファンに深い憎悪を抱いているかのようです。
     そう、それはまるで、自分のエロリビドーをぶつけた漫画をカネに換えているのは自分なのに、読者にお説教をする、エラいエラいエロ同人誌作家サマのように。ネットで叩かれたので、それを劇場版『エヴァ』で大人げなく晒し上げた庵野のように。

    *1 また、この作品世界では「世の中が平和で退屈なため」に娯楽としてのコロシアイが求められているとされます。それは不景気な世の中での逆説的な癒しとしてデスゲーム物が流行っている現状とは全くの裏腹で、これもまた奇妙な設定です。
    *2 Amazonのレビューで痛烈に皮肉っている人がいました。この人ほどはっちゃけないまでも、「実はチームダンガンロンパは人間の心を荒廃させるゲームを制作することで世界征服を企む悪の組織」とか、そんな風にした方がよかったんじゃないでしょうか。

     当ブログでは、今まで繰り返し、『ダンガンロンパ』について語ってきました*3
     それは本シリーズが極めて優れた「女災批判ゲーム」であったからです。
     ですが、今回は作品が「女災」そのものとなってしまいました。
    「女災」とは女性ジェンダーによる災害、もう少し詳しく言うなら「被害者ぶることによる加害」です。
     いえ、確かに『ダンガンロンパ』のスタッフはほとんど男性でしょう。そしてまた「クリエイター」と「消費者」という関係性を男女ジェンダーのアナロジーとして考えた時(受け/責めで考えた時)、「クリエイター」が必ずしも女性的とは言えないとは思いますが、少なくとも本作において、全てをファンに押しつけ、一切の責から免れていたのはスタッフの側です。
     そしてまたお約束の(という気がするわりに、じゃあこの種の演出がなされた作品が他にあるかとなると、ぱっとは出て来ませんが)ニコ動のコメント的にファンの罵声が流れる演出を見ていると、何だか旧来の大メディアがネット世論に怯え、敵意を剥き出しにする様、フェミニストが「ネットの女叩き」に憤ってみせる様と被って見えます。
     ネットなどで大衆が発信できるようになった状況に「我らのアドバンテージが失われる」との危機感から描かれた本作は、言わば「弱者男性に対するフェミニストの悪辣な攻撃」、「貧困層であるネトウヨに対するリベラル様の汚物は消毒だ行為」と「完全に一致」していると言えるでしょう。
     そう、『ダンガンロンパ』は今回、自爆芸をもって「彼ら彼女ら」の醜さを描破しきってしまったのです。

    *3「これからは喪女がモテる? 『ダンガンロンパ』の先進性に学べ!
    被害者性と加害者性の微妙な関係? 『スーパーダンガンロンパ2』の先進性に学べ!
    これからの女子キャラクター造形はこうなる? 『ダンガンロンパ』の先進性に学べ!
    弱者性と強者性は転倒する? 『絶対絶望少女』の先進性に学べ!

     本作では「ギフテッド制度」という設定が語られます。超高校級の才能を持った少年少女たちが集められ、コロシアイを強要される、というのが『ダンガンロンパ』のお約束ですが、本作においては「超高校級」たちは「ギフテッド制度」により奨励金や選挙権・被選挙権といった、さまざまな特権が与えられるとされているのです。
     この「ギフテッド」自体が「先天的な天才」とでもいった意味であり、「才能」自体が『ダンガンロンパ』のテーマとして選ばれていました。『絶対絶望少女』では「与えられざる者」の甘えを喝破するシーンが描かれましたし、また「才能を持つ者は同時に才能に縛られる」といったテーマが語られたこともあったと思います(どこでだったかは忘れちゃいましたが)。
     が、この「ギフテッド制度」という言葉、第一章で語られたのみで早々に打ち棄てられ、以降は出て来ません。実はこれも意図的な演出で、彼らは以下のように言いたかったのです。

     我々は「与えられし者」である「クリエイター」だ。しかしながらそれ故に背負っているはずのノブレス・オブリージュなど履行する気はさらさらない。利だけを得て、後は「受け」としての無責任さを十全に味わうつもりだ。

     そう、本作は『絶対絶望少女』などで描かれた崇高な精神を敢えて打ち捨て、(わざわざ導入した新設定を全く無視することで、確信犯的に打ち捨てる様をファンに見せつけ)「女災」の醜さを自ら演じることで、批判したゲームであったのです。

     先の「ジジイ落ち」に立ち戻るならば、やはり一昔前のオタク界はそうした自由な気風があり、だからこそ先鋭的な表現が生まれたことも事実です。
     翻って現代のオタク作品は商品として落ち着きすぎている。ファンもクリエイターを自分たちを満足させる商品を生み出す役割を担った芸者だと捉えているフシがある。
     ぼくもそれがいい傾向だとは、全く思いません。
     エロゲーやラノベの惨憺たる現状は、そのような風潮が生んだものだと言えます。
     だから、本作についてはそこに牙を剥く気概ある意欲作であったのだと評することも、できるとは思います。
     しかしそれでも、オタクへの憎悪を根源にした、左派のまた別な目的意識をもって主張される、「クリエイター様エラい主義」が正しいとはどうしても思えません(時々書きますが、岡田斗司夫や大塚英志が叩かれるのはそうしたクリエイター様エラい主義を相対化しようとしたからなんですね)。
    『V3』の主人公たちが否定し、終結させた『ダンガンロンパ』はこれからどうなるのでしょう。
     先にスタッフがやる気を失っていると書きましたが、同時に作品に対する愛情が全くないわけでもないでしょう(例えば藤子Fだってまさに「才能に縛られ」、延々と『ドラえもん』を描いていました。本人の中には『ドラえもん』以外の作を描きたい/『ドラえもん』を極めたいというアンビバレントな気持ちが共存していたのではないでしょうか)。
     また、単純に商売として、ヒット作を簡単に終結させるとは、考えにくい。
     だからまた次回作が出ることは充分に考えられますが、一方、或いはファンが本作で愛想を尽かして、作品の寿命があっさりと尽きることも充分に考えられる。
     本作は「クリエイターが勝つか、ファンが勝つか」の勝負、リアル世界を舞台にしたクリエイターとファンの壮大な「コロシアイ」実験でした。
     そしてその結果を、ぼくは予言します。
     よくも悪くも、もう「クリエイター様マンセーの時代」は終わっている。
     それは丁度、ぼくたちが「女災」についての認識を深めつつあるのと、全く同じ理由で。
    『ダンガンロンパ』の息の根が完全に止まることはないでしょうが、次は「エッジさを失った、各方面のご意見を聞いたお利口さんなコロシアイ」が開始されるのではないでしょうか。
     楽しみに、待ちましょう。