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  • 左翼の異常な粘着 または私は如何にしてオルグするのを止めてオタクを憎むようになったか

    2018-05-25 23:2717時間前
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     前回記事を書いて以降も「オタク差別問題」、ずっとくすぶっております。
     イザンベール青地とかいう御仁が「オタクはパブリックエネミーである」と語り、オタク論壇(……?)の人たちと延々ともめているようです。
     オタク世論(……?)はむろん、イザンベール師匠を総バッシング。しかしそんな中、昼間たかし師匠がおたぽるというサイト(当然、「オタク向けポータルサイト」の意味でしょう)でイザンベール師匠の味方をして、彼女の主張を肯定する趣旨の記事を書いておりました*1

     社会に迫害されたマイノリティが、自分を迫害した社会で地位を気づくと(引用者註・「築くと」の間違いと思われる)、自身が属していたマイノリティを攻撃する。貧困から成り上がった経営者が、かつての自分のような貧困層を、より搾取するビジネスに血道をあげる……。そんなものと同じ匂いがそこにはある。

     まさにその通り。
     フェミニズムこそ、社会に迫害されたマイノリティ(であるとの誤った自意識を持つ者)が、自分を迫害した社会で地位を気づくと(引用者註・「築くと」の間違いと思われる)、自身が属していたマイノリティを攻撃している好例でしょう。
     と思いつつよくよく前後を読み直すと、どうも師匠の言う「マイノリティを攻撃している」主体は、どうもオタクを指していらっしゃるような……。
     確かに、イザンベール師匠はどうもオタクのようで、だとするならば「同士討ち」ということは言えますが、どう見たって、殴ってきたのは彼女の方でしょう。
     大体、「自身が属していたマイノリティを攻撃する」という日本語がヘンです。恐らく、「自身が属していたコミュニティのマイノリティを」と言いたいのでしょうが。
     短い記事なのですが、ラストはあまりにも味わい深い名文なので、まるまる引用しましょう。

     せっかくなので記しておくが、「オタクはパブリックエネミー(公共の敵)」といわれて、怒っているほうがオカシイ。最先端の文化が、世間一般から恐れられないということは、まずあり得ない。もしも「ボクたちオタクですけど、一般市民と同じですよ~」というのならば、もう文化としては衰退期に入っているということだ。

     過剰な怒りは、狡猾な者に利用される隙をつくるだけである。

     宇宙人が呼ばれもしないのに勝手にやってきて、地球の風習に文句をつけてるようなモンです。
     師匠自身、あまり支持を得ている御仁ではないようですし、そうした(ネット上でオタ言居士の方々が寄ってたかって叩くような種類の)人を声高にバッシングするのはぼくの本意ではありません。が、師匠については以前から気になっていたこともあり、簡単に触れてみたいと思います。

    *1 やっぱりオタクはパブリックエネミー。新潟女児殺害事件に「定番」のオタク報道が登場したけれど……

     さて、師匠の記事は前回採り上げた、藤田氏の「オタクはオタク差別に憤る前に、女性差別に理解を示せ」との意見と近しいものだということができましょう。どうも、昼間師匠の言わんとするところは、「イザンベール師匠の辛い内面を忖度してやるべきだ」とでもいったことになるようですから。
     その意味で、これはリベラルの既得権益を守るための言動、彼らが描いた古典的「弱者MAP」を守ろうとするリベしぐさという、毎度お馴染みのものであるように思います。
     それは彼の以前の記事を見ていくと、さらに明らかになりましょう。
     ぼくが最初に昼間師匠に注目したのは、岐阜県美濃加茂市で行われたスタンプラリーのポスターにアニメ『のうりん』の萌え絵が使われ、問題視された件でした。
     その時、師匠はやはりおたぽるで

     オタク表現への批判が現れた時、オタクを自称する側が批判者をフェミニストと仮定し「フェミガー」と罵倒してカタルシスを得るいつもの展開に突入しているわけである。

     またもやTwitterなどを用いて「セクハラ」だとか「フェミガー」という応酬を繰り返すことで、何かのルサンチマンを晴らした気分になっている人々の醜さを見せてくれた騒動。とりわけ「表現の自由」を主張しながら「フェミ」という言葉を使うオタクの側を自認する人々は哀れなことこの上ないと思った

     などとモノスゴいことを言っていたのです*2
     ぼくがリベラル寄りのオタクを「自分をオタクだと思い込んでいる一派リベ」と揶揄するのは、彼ら彼女らがことさらに「我こそは真のオタクなり」と拳を振り上げながら、ぼくたちに自分たちの思想を押しつけてくるから(そしてまたそれは絶対にオタクに益するものではないから)です。
     師匠はまた、つい先日も(ほとんど話題にもならなかったのですが)「オタクは(他の運動家たちから)見捨てられている」との記事を書いていました*3

    「表現の自由を守ろう」と立ち上がるオタク……マンガ・アニメファンたちは、気づいているのだろうか。自分たちは、もはや信用されない存在だということを。

     14年まで「表現の自由」に興味を惹かれるオタクにとって「児童ポルノ法」は主要な問題であった。そこでは、マンガやアニメを禁止される児童ポルノに含めることへの反対と共に、冤罪や権力の暴走を生みかねない単純所持への反対も唱えられていた。けれども14年、国会での改定に向けた議論の中で創作物は除外されることが確実になると、空気は変わった。マンガやアニメが規制されないという安堵の声に、単純所持の禁止が決められたことへの危惧は打ち消されていった。

     う~ん、少なくとも漫画やアニメが規制されないなら、オタクにとっては一安心なのは当たり前だと思うのですが(いつも不思議なのですが児童ポルノ守り隊の人たちがフェミニストの作り上げたDV法改正案などによる性犯罪冤罪について危惧しているのを、一度も見たことがないのですが、どうしてなんでしょうね)。
     この記事の後半は、師匠の絶望感や諦念が極めて自己憐憫に満ちた観念的な文章で綴られていて、正直何を言っているのやらさっぱりわかりません。
     これを踏まえると、最初の記事の「「オタクはパブリックエネミー(公共の敵)」といわれて、怒っているほうがオカシイ。」という奇怪な記述の本意が明らかになります。それは「オタクどもは漫画やアニメなど、自分たちの直接の利害に関わらないことであろうとも、我々左派の清浄なる思想に従い働け!」ということですね。
     他にも師匠はツイッターで

    文章書いて、ごはんを頂いている俺たちが世間様の敵じゃないはずがない

    本当に面白いマンガでも文章でもつくろうとしたら、市民社会には背を向けなければならないわけですよ。獲得するものは世界であって、平穏な趣味生活ではありません。

     などとつぶやいておいででした。
     つまり先の「オタクは見捨てられている」との主張は、オタクから見捨てられたリベラルの逆切れだったわけです。
     心の底から帰ってほしいお客の、「もっと歓待しないと帰るぞ」発言です。

    *2 濃加茂市は新たなPR効果を期待──オタクによる「フェミ」批判の醜さが目立った『のうりん』ポスター騒動の顛末
    *3「マンガの人たち」の信用は地に堕ちている──青少年健全育成基本法案の本当の問題点

     しかし、これら一連の流れを見ていて、ぼくはオタ世論というか、オタク界の思想マップが今、分岐点に来ていると思わずにはおれませんでした。
     ぼくは今まで「オタク差別けしからぬ」と息巻いている人のことを、あまり肯定的に語っていなかったと思います。
     その理由は二つあります。一つに、前回記事に書いたように「差別はおわコンだから」、即ち「オタクが虐げられていることについての憤りはぼくも持ってはいるものの、それはリベしぐさによって解消され得る種類のものとはどうしても思えないから」です。
     そしてもう一つの理由は今回、「オタクパブエネ論」をけしからんと腐している人たちの何割かは、かつてオタクをゴミクズのように全否定していた人たちだからです。言うまでもなく彼らの多くは、目下フェミを否定するフリをしていますが、かつてはフェミの靴をただひたすら舐めしゃぶっていた人たちでもあります。
     そう、ぼくがいつも「ネオリブよりもツイフェミの方がまだしもウソがないだけマシ」と言うのと全く同様に、今の「反オタク差別クラスタ」の何割かには、全く信頼が置けないのです。そう考えると昼間師匠も「変節」できなかった、「ツイフェミ」と同じ、真っ正直な人である、と言えましょう。これは藤田氏、田川氏もまた同様で、ぼくが彼ら彼女らをむしろ好ましく思っているのは、政治的な読みで姑息なウソをつくことをよしとしていないからなのです。
     しかし、「反オタク差別クラスタ」の(これはまた「アンチフェミクラスタ」、「表現の自由クラスタ」も同様なのですが)若い層、或いは有り体に言って下っ端層には「そうした歴史を知らず、純粋にそれらに憤っている」人たちが多いように見える*4
     まとめれば昼間師匠(や、野間氏、野川氏)はリベラルのホンネをあけすけに吐露しているだけなのであり、「反オタク差別クラスタ」(や「アンチフェミクラスタ」、「表現の自由クラスタ」)のオピニオンリーダーとして振る舞っているような古株連中は、ホンネでは昼間師匠と同じことを考えていながら、蝙蝠のように若年層のオタクに媚びている。下っ端層はそれに見事に騙されている、といったカテゴリ分けができる。オピニオンリーダー層(つまり、ぼくが「オタク界のトップ」と呼ぶような連中)はともかく、下っ端層は騙されているだけなのだから否定しなくていいだろう、との考え方も成り立ちますが、同時に彼らも無意識裡に「リベしぐさ」を刷り込まれており、このままじゃヤバい、というのがぼくのスタンスなわけです。

    *4 かつて、以下の記事で若いオタクのオタクとしての屈託が、旧世代と比べ変化してきている、との指摘をしたことがあります。
    今までの「オタク論」は過去のものと化す? 『ダンガンロンパ』の先進性に学べ!

     最後に、昼間師匠の記事の最後の下りに注目してみましょう。

     過剰な怒りは、狡猾な者に利用される隙をつくるだけである。

     これを読んで、ぼくはひっくり返りました。
     まさかとは思いますが、この「狡猾な者」とは師匠のグルなのではないでしょうか、と。今までオタクを利用し続けてきたのはそっちで、今回の記事はそれが適わなくなっての逆切れではないか、と。
     しかし別に驚くようなことではないのです。
     ぼくは「表現の自由クラスタ」をフェミニストと同じ、「地球を狙う侵略宇宙人」でありながら、「ちょっとだけ指令系統が違う」ために地球上で同族争いをしているのだ、と形容してきました。
     師匠の言う「狡猾な者」とは、「表現の自由クラスタ」の言う「似非フェミ」同様、自分自身の影みたいなモノでしかないことが想像できるわけです。
     彼ら彼女らが同士討ちで疲弊を続けていることは、まあ、そんなに悪いことではない。
     しかし……問題はその戦場に選ばれているのがぼくたちのの故郷の星である、ということ。
     彼ら彼女らが滅んだ時、大地は汚染されきって、この星はぼくたちも棲めないような状況に陥っているのではないか……というのが、ぼくの専らの不安なのです。

  • 自分をオタクだと思い込んでいる一般リベは嫌オタク流の夢を見るか

    2018-04-27 23:352

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     C.R.A.C.(旧しばき隊)の野間易通氏、漫画家の田川滋氏の発言がきっかけで、「オタク差別」というもののあるやなしやについてが話題になっております(スマン、政治家、及びアイドルのセクハラ関係のニュースは追ってない)。
     ぼくの理解できる範囲で経緯をまとめれば、まず野間氏が「オタク差別などなかった」旨の発言をし、青識氏辺りと議論になり、「オタクを差別することなど、そもそも不可能。それは豚を差別できないのと同様(大意)」と放言。それに対する「オタクは豚ではなく人間だ(大意)」との反論に、田川氏が横レスする形で「オタクが人間であると証明ができるのか?(大意)」と問いただしてきた、という感じです*1
     え~と、ぼくがまず両氏を「師匠」呼ばわりしていないことを怪訝に思われる方もいらっしゃるかもしれません。togetterでコメントした時「氏」とつけたので何となくそれを継続させているだけなのですが、敢えてそれに理屈をつけるならばこの二人には特別な感情が沸かないというか、何の興味も抱けないので、自然と「氏」をつけてしまったようです。
     正直、二人の言に対して、ぼくは声を荒立てて激昂する気にはなれない。そもそも田川氏の発言の意図はわかりづらく、恐らくは苦し紛れの発言をして、引っ込みがつかなくなっただけなのではと思えます(そういうの、鬼の首と思って得意の絶頂で取りにかかる人もいますが、あんまり自慢になりませんよね)。どうしてそこまで苦し紛れなことを言ってしまったのか、正直それも端から見て理解に苦しむのですが、勘繰るならば(野間氏と田川氏の関係性をぼくは知らないけれども)野間氏を助けようとの義侠心が、田川氏をしてフライングさせてしまった……といったようにも、ぼくには思われます。というのも、見れば見るほどため息が出てしまうほどに、彼らは自らを「極めて清浄な、正常な正義の使徒」と頑なに信じて疑っていないからです。

    *1 詳しくは以下のまとめをご覧になってください。他にもいっぱいあるのですが、まあ、代表的なもの、ということで。

    「オタク差別など今も昔も存在しない」といういつもの話
    オタクが人間であると証明せよ(最近のオタク差別論争の中でのやりとりから抜粋)

     さて、一連の騒ぎの中、藤田直哉氏(SF作家。オタク第一世代と思い込んでいましたが、調べたらアラサーという若さ!)は「オタクはオタク差別云々という前に、女性差別など他の人権問題にセンシティブであるべきだ」といった主旨の発言をしていました。
     もう一つ、新田五郎さん(ぼくの好きな同人作家さん。アラフィフだったと思います)は「やはりオタク差別という言葉はしっくりこない、差別とはもっと深刻な事態に対して付されるべき言葉だろう」といった意見を述べていました。
     この二つの意見は、上の両者のみならず多く聞かれましたし、想像するにわざわざ声を挙げないような人々にこそ共感され得る(即ち、かなり一般的な)意見ではないか……という気が、ぼくにはしています。そしてだからこそ、この二つの意見にこそこの問題の鍵が秘められているのでは……と、ぼくは考えます。
     まず、藤田氏の主張を検討してみましょう。これはもちろん、理論的にはおかしな意見です。例えばものすごく障害者を差別する黒人がいたとして、そのこと自体は厳しく批判されるべきだとしても、だからと言ってその黒人(黒人全体は置くとして、その黒人個人)を差別していいことにはなりません。
     一方、新田さんの意見は「正しい」とは思わないけれども、心情として「共感」を覚えます。少なくともオタクは奴隷にされたり殺されたりはしていないだろうと。ただ、これについても既に「ならば女性も黒人も現代においてはそうした扱いは受けていないだろう」という反論があちこちでなされており(困ったことに山本弘師匠も言ってました)、それは確かにその通りです。
     結局、この藤田氏の意見も新田さんの意見も、「本来の差別」、「真の非差別者」という確固たる存在が前提されており、「オタク」という名の「被差別者」は格下だよ、とまとめてしまうことができるわけです。
     そしてそう考えると、(藤田氏はともかく、新田さんを貶める意図はないので、こう申し上げることにはためらいも覚えるのですが)結局これは野間氏の意見とさほど変わらない。
     事実、野間氏も「オタクは反差別運動を腐すための口実としてのみ、オタク差別とのロジックを持ち出してくる(大意)」と言っていました。これはむろん、事実と全く相違しており、例えば学校でしか会わない友だちを「学校に住んでいるのだ」と考えるような、自分の主観に囚われた幼稚な誤謬なのですが、やはりその「心情」を汲み取るとするならば、誰もがひれ伏すべき「本来の差別」、「本来の非差別者」がそこには前提され、彼は「我こそはそれに寄り添う真の正義の徒なり」との自意識を持っているとしか、言いようがないわけです。いえ、そりゃあしばき隊のトップなのだから、当たり前ではあるのですが。

     しかしこうした考え方は、差別にもランキングがあるのだという価値観が前提されています。即ち彼らは「差別差別」を行っているのです。
     仮に「差別差別」をすることが不当でないとするならば、「オタクだから殺した」と「○○人だから殺した」にはランクがあるというトンデモない理屈にならざるを得ません。逆に例えば「○○人だから殺した」といった事例と「やーい○○人と罵った」事例が、ある種、同列に語られてしまうことにすらなってしまうのです(拙著には山崎浩一氏の著作で「セクハラ」という概念がまさにそうしたツールとなってしまっている、「レイプされた」も「嫌な目つきで見られた」もいっしょくたにしてしまう、との指摘がなされている旨を引用しています)。
     リクツを言うならば、「差別」という言葉の裏にある根本的な価値観は、「途方もなく不当な偏見が社会全般に拭い難くはびこり、それにより大変な理不尽を味わわされている人がいる」というものです。が、そうした偏見が現代の少なくとも日本に成立し得るかとなると、それは疑問というしかない(逆に言うとそうした世界観を前提できる、ある種のバランスを欠いた人こそが「反差別」であると言えるわけですが)。
     先の「セクハラ」について、フェミニズムは「レイプされた」も「嫌な目つきで見られた」も、同じジェンダー規範を根にすることが共通点である、と説明します。さすがにフェミニスト裁判官でも「レイプされた」事件と「嫌な目つきで見られた」事件とを全く同じ量刑で裁いたりはしないだろうが、根は同じだ、というのがフェミの考え方です。
     しかし彼女らが言うような「女性への極めて不当な偏見」が今時残っているかどうかは極めて疑わしいし、それがないからこそ彼女らは「ジェンダーフリー」というジェンダーの全否定を行う以外、手がなくなってしまっているのです。
     結局、ぼくがいつも言っているように、「差別」という概念自体がオワコンなのだ、ということです。少なくとも近代社会においては、例えば「黒人差別」と言った時に想定されるようなラディカルな差別は解体されてしまっている。もう、「差別」は、ないんです。
     だから新田さんのような「差別とはもっと深刻な事態に対して付されるべき言葉だろう」といった意見は、演繹していくと、「そもそももっと深刻な事態」、即ち「差別」はもう、ない、という意見にならざるを得ない。
     実のところこれについては、リベラルが「差別」という言葉を置いて「ヘイト」という言葉を持ち出してきた時点で、彼ら彼女ら自身が自分から認めているようなものなのですが、恐らく野間氏(や、それに同意する田川氏たち、一連の人々)にそう言っても、おそらくご納得いただけないことでしょう。彼ら彼女らは「差別」がまだあることにしないと困る人たちですから。
     しかし、もう一点、押さえておかねばならぬ点があります。
     おわかりでしょう。ぼくがここで「差別はない、ない」と繰り返しても、実は野間氏や田川氏に憤っている青識氏やその支持者たちの方もまた、喜んでくれないであろうことに。
     何となれば彼らもまた、「差別」がまだあることにしないと困る人たちですから。

    「オタク差別」(ないし「男性差別」)はあるのだ、という言い分はどうしたって、「既に被差別者と確定した者、及びその取り巻き」に対しての「被差別者仲間に入れてほしい」という要求、「オラたちもご相伴に与らせてケロ」という懇願になるしかないのです。仮に物言いが攻撃的であったとしても、本質はどうしたってそうなるわけです。
     野間氏の言は、実のところ「誰に断ってワシらの島で被差別者ヅラしとるんじゃワレ! 商売したいんやったら、みかじめ料払わんかい、このフリーライダーが!!」との叫びであったのです。
     そして青識氏を始めとする、いわゆる「表現の自由クラスタ」はそう言われても仕方がないのでは……とぼくは考えます。彼らは(そしてまた「男性差別クラスタ」は)結局、「ミソジニーが許されぬのなら同様にミサンドリーも許されぬはずだ」などと主張することが大好きなことからも見て取れるように、「反差別」という理念そのものを疑おうとはしていないのですから。
     ぼくはずっと、そうした彼らのスタンスを無理ゲーであると指摘し続けてきましたが、本件はそれが露わになった象徴的な事例であった、ということが言えましょう。
    「男性」とは少なくともフェミニズムの世界観では「差別」の主体、最初から悪者なのですから。その悪者が救われるにはどうすればよいのか……ぼくのブログの愛読者の方はもうご存知のはずです。「メンズリブ」とは「フェミニズムに全面降伏し、男性であることを辞めると宣言すれば女性軍の二軍として生きることをお許しいただける」とのありがたいありがたいお誘いでした。
     以上は「男性差別」についてですが、「オタク差別」も同様です。
    「反差別」は「被差別者」という名の「被害者」「弱者」を想定することから成り立っている思想であり、最初っから仮想敵を想定する必要のある思想だったのですから。
     ぼくたちは「オタク/非オタク」という対立構造で世界を認識します。「非リア/リア充」という言葉の流行はその好例です。そうして見れば「オタク被害者論」は、ごく当たり前な、正論であるように思われる。
     しかし本件では野間氏も田川氏もそして藤田氏も、「オタクはまず、被差別者ではなく差別者として存在しているのだ」とのスタンスを崩そうとはしませんでした。その時に開陳されるのがオタクが女性や韓国人などを差別しているのだとの、彼らが抑えがたく抱いている妄想だったのです。先に「障害者を差別する黒人」の例を出しましたが、これは彼ら彼女らにとっては適切な例えではない。何となれば「オタク」は「元から、全員、差別している人」という妄想が、彼ら彼女らの中で前提されているのですから。
     この妄想、「自分をオタクだと思い込んでいる一般リベ」に実に広範に流布され、しかしいまだ根拠が持ち出されたことが一度もないのですが(ネットにヘイト的な言説が溢れているからだ(キリッというのが根拠であると、彼らはギャグではなく本気で思っているようです)、どうも彼ら彼女らは自分たちの価値観が(当否は置くとして)かなり偏ったものであることに、気づいていないようです。いえ、本当の本当は深層意識下では恐らく気づき、「日本人はどいつもこいつも俺の高説に耳を傾けないネトウヨ!!」と考えている。しかしどうしてもそれを意識の上で認めることができず、「下等なオタクだけが俺たちと異なるのだ」と妄想することで何とか平静を保とうとしている。そんなところが実情である気がします*2
     更に、いつも言うようにオタク業界というのは左派寄りの人々が多いですから、「業界寄りではない市井のオタク」ないし「若いオタク」との意識の食い違いに愕然とし、逆切れ的に「オタクどもはネトウヨだ、レイシストだ!」と絶叫せずにはおれなくなっている。
     彼らの「オタクは人間ではない」発言は、実のところ「我々清浄なるリベラル以外の一般ピープルは人間ではない」という彼らの本音を、「通りがいいように」偽装したモノでした。
     ただ、一つだけ言うと「オタク文化は日本を、いや世界を席巻し、ある種のパワーを持っているが市井のオタクの多くは弱者男性である」というねじれについて、あまりみなさんご理解が及んでいないきらいがあります。だから彼ら彼女ら(萌え絵に憎悪を燃やすフェミニストなども含め)にはそこをわかってほしいと思う反面、オタク側も自分たちが「表現強者」であることについては自覚的であってもいい気はします(ほら、現代社会における権力勾配というのは実に両価的でしょう?)。

    *2 もっとも、「確信犯」かと思われる人もいます。例えば東浩紀師匠は「オタクから遠く離れてリターンズ」(『Quick Japan vol.21』所収)において、
     いきなり論壇人みたいになっちゃうけど(笑)、オタクの行動はその意味で、日本社会の醜さを凝縮している。しかし彼らはそれでいいわけ?

     日本の「悪い場所」を一番象徴しているのは、明らかにオタクだよね。

     などと絶叫し、高橋ヨシキもまた、『嫌オタク流』において
     結局、オタクの立脚してるメンタリティって一般人のメンタリティとまったくおなじで、僕はそこに憤りを感じるんですよ。

     そのメンタリティは一般人とまったく同じなんですよ。

     などと泣き叫んでいました。まあ、先に「確信犯」とは書いたものの、恐らく彼らに自分が何を言っているかを理解するだけの知性はないことでしょうが、まあ、要するにそういうことです。

     ともあれ、「反差別」とは漠たる(ホントに実在しているかどうかも疑わしい)「マジョリティ」を仮想して、「何か、そいつらが阿部さんくらい悪い」と思い込むことで成り立っている思想でした。
     何故か。「反差別」を標榜するリベラルの本質がまず、「マジョリティへのカウンター」だからです。そこでは「辺境の弱者」を連れてきて自らの運動の「正義」を根拠づける必要がどうしてもある。それはまた、「組織」の子分に「お前は罪人だ!」とまるでキリスト教みたいなことを放言し、罪悪感を煽り、その心理をコントロールするという手法が有効だったからでもあります。
     そんなわけで今回の野間氏、田川氏の放言は「若手に見捨てられた旧支配者層のファビョり」とまとめてしまうことができます。しかしぼくが青識氏にも諸手を挙げることができないのは、彼ら彼女らが「老害を勇ましくやっつけている割に、実はその脛を齧り続けることについては屈託がない若手」であったからです。それは「ネオリブ」と、久米師匠と、ドクさべと、全く同様に。
     奇しくも……いや、奇しくも何ともないのですが、最後に久米師匠の名前が出てしまいました。
     本稿を読んで「差別がないんなら、男性差別もないというのか?」と言いたい男性差別クラスタの方もいらっしゃるかもしれませんが、本稿は期せずして、前回記事の前段階について語る内容になってしまいました。そちらの方では「差別はない」ことは自明の前提とした上で、「ミサンドリーは大いに、(久米師匠の思う百兆倍くらいは)広範にある。しかしそれをなくせというのではなく、オトコスキーが失われたことこそが重大であるとの問題設定がなされるべきだ」との結論が語られております*3。ご納得できない方は、そちらの方をどうぞお読みください。
     ちなみに「オトコスキー」とはご想像の通りロシア語ですが、「男性性をリスペクトする心理」を指した学術用語であります。野間氏や田川氏の、オタクという(彼らの主観の世界では自分より目下の)存在をここまで憎悪する理由も、この学術用語を導入した今となっては明白ですよね。そう、彼らは圧倒的に「オトコスキー」に恵まれなかったがため、自分より劣ると信じている存在に対しマウントしないと死んでしまうのです。

    *3 『広がるミサンドリー』(その3)
     三部作の最後ですが、まあこの際これだけ読んでもわかるのではと思います。
  • 広がるミサンドリー(その3)

    2018-04-06 22:5811
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     前回記事の続きです。
     未読の方はまず、そちらを読んでいただくことを強く推奨します。
     さて、いよいよ最終章、九章の「結論」です(ホントに「結論」っていうタイトルです)。
     が、読みだすや「ジェンダー両極化を覆さねばならない(大意)」などと言っていて(355p)、早速どんよりさせられます。

    どうしてミソジニーの存在が、ミサンドリーを正当化するだろう?
    (368p)

    ミソジニー(女性蔑視)とそれを作り出している男性中心的世界観に反対することは重要である。しかしミサンドリー(男性蔑視)とそれを作り出している女性中心的世界観に反対することも平等に重要である。
    (376-377p)


     著者たち、及び翻訳者の「わかってなさ」を象徴する名フレーズです。
     この著者たちの「ミソジニー」に対する温度はわかりません。が、こうある以上、「ミソジニーがあるのだ」というフェミニズムの主張を、ある程度受け入れていると考える他はないでしょう。
     フェミニストの欺瞞について批判しつつも、ジェンダーフリーなどのフェミの成果に対しては盲信を抱いている。「男性差別クラスタ」にたまにいる層であり、また「表現の自由クラスタ」ともそっくりです。
     しかし本ブログの愛読者の方にはとっくにおわかりでしょう。
     男女には絶対的究極的根源的な「愛され格差」がある。
     基本的に、男性は「殺していい性」として設定されている。
     過労死者の、ホームレスの95%が男性なのはそれ故です。
     そんな中、「ミサンドリー」と言われても、困る。
     ぼくたちの棲むこの宇宙それ自体が「巨大なミサンドリーそのもの」としか、言いようがないのですから。
    「ミサンドリー」は神羅万象全てに宿っているが、「ミソジニー」は、そもそも、ない。
     いや、全くないわけではないぞと言いたい方もいるかもしれないが、だとしてもそれはニホンオオカミや二ホンカワウソの分布図くらいに局所的なものです。
     しかしそういった認識が本書の著者たちや翻訳者にあるかとなると、疑問と言わざるを得ない。
     もっともよい着眼点もあります。ミサンドリーの理解されにくい点として、

    ミサンドリーが最も露骨な形態をとって現れたときも、事実として、男性蔑視はしばしば女性蔑視にすり替えて解釈されてしまう。
    (358p。アンダーライン部は原典では傍点)

     
    としていることです。
     その例として、著者たちはまた一つ、「絶対悪としての男性が被害者としての女性に加害する」映画を例に挙げます。この映画、『イン・ザ・カンパニー・オブ・メン』の主人公であるチャドはマッチョで、女性ばかりかあらゆる男性をも憎み蔑ろにしている、にもかかわらずこれはミソジニーを告発する映画として解釈され、場合によってはミソジニーそのものと解釈されると著者たちは言います。
     しかし何としたこと、著者たちはこの慧眼の直前で、こんなことを言っています。

     男性も女性もしばしばミサンドリーを問題として見ることができないのは、性差別がミソジニーの点からに限って定義されているからだ。
    (中略)
     あらゆるミソジニーの痕跡の何十年もの執拗な追跡のあとでは、ミサンドリーがミソジニーの重要なカウンター概念であることが受け入れられるのはとても難しくなり得る。
    (357-358p)

     まさしく「わかってないなあ」です。
     確かに、フェミニズムはミサンドリーの限りを尽くしてきました。上の映画もその影響を、受けていないわけがありません。
     しかしもし今ここでフェミニストを全員殲滅すれば――それでは足りないかもしれません、歴史を改変し、フェミニズムという思想の出現を完全に阻止すれば――「ミサンドリー」は地上に出現しなかったのでしょうか。
     そんなはずはありません。「ミサンドリー」は「ジェンダー」が地上に出現した時点で、そこに内包される形で生まれていたのです。
     そこを、まるで「ミサンドリー」が「ミソジニー」の二次概念ででもあるかのようによいしょと持ち出して来て、「ミソジニーがけしからぬならば同様にミサンドリーもけしからぬぞ、さあどうだ」などとイキったところで、解決する問題は何一つ、ない。
     ぼくたちは、ミサンドリーが正当なこととして存在している「凡ミサンドリー社会」に生きている。そのことをまず、認識しなければ何も始まらない。
     上の映画にしても、基本的にはチャドが女性へと悪さをする部分がメインの話なのだから、「チャドのミサンドリーについても言及がないとは許せぬ」という言い方はいささかパンチ不足です。例えばですが、チャドが男は平然と殺し、女には殴打で済ませているのに「ミソジニーだ」と言われている、とでもいった描写があるのならわかるのですが、そうでないのであれば、「映画のテーマ外のことを持ち出して、無理にインネンをつけている」に過ぎません(実際の映画を見てみないと断言はできませんが、少なくとも本書の筆致自体が、そうしたことに言及していない以上、彼らの見方に問題があると判断せざるを得ません)。
     これこそ、著者たちがミソジニーとミサンドリーをただ対照的な概念とだけ捉えていることの証拠であり、「わかってない」ことの証明です。
    「男性蔑視はしばしば女性蔑視にすり替えて解釈されてしまう。」との指摘は、例えばですが以下のような事例を指してなされるべきでした。
    「女性だけの街」問題というのがありました*1。フェミニストたちが「(安全のために)男を排除した女性だけの街が欲しい」と主張し、しかし平然と「しかしインフラは男たちが外部から通ってきて、整備せよ」などと言って呆れられたというのが経緯です。
     また、「フェミニスト男性」を自称する者が「ネットにはいつ女性が殺されてもおかしくないほどのミソジニーをはらんだ女叩きで溢れている」との主張をしたこともありました*2。しかし彼は「AEDで女性を救助すると訴えられるかも」との「真っ当な懸念」をも、「女叩き」にカウントしていました。
     これらは根を一にしています。
    「男は邪悪だから、女性だけの街を作り、排除せよ」。
    「男は邪悪だから、女性が倒れても、その汚らわしい手で助けるなど許さぬ」。
     もし、そうした意見があったのであれば、それは確かに「ミサンドリー」でしょう。
     しかし彼ら彼女らが言っているのは、そうしたことではありません。
    「排除するが、インフラだけは整えよ」。
    「その汚らわしい手で助け、女性の任意で罪人扱いされても文句を言うな」。
     それが彼ら彼女らの言い分です。
     この意見に異を唱えることが、絶対に許されるべきでない「ミソジニー」であるというのが、彼ら彼女らのホンキの考えです。
     彼ら彼女らは、ミサンドることは「空気のように当たり前な前提」とし、「その上でさらに女へと夥しいコストを投じないこと」を「ミソジニー」であると定義づけているのです。「ミサンドらないこと」が「ミソジニー」なのではありません。「ミサンドること」は大前提で、その上であれもしてこれもしてそれもしてが当然、それをしないことが「ミソジニー」なのです。それは「ミサンドリー」を遥かに上回る、本物の悪魔ですら震え上がるであろう吐き気を催すほどの邪悪な「何か」でした。
     それこそが「男性蔑視はしばしば女性蔑視にすり替えて解釈されてしまう。」ことの、本当の理由だったのです。
     フェミニズムは、「ミサンドリー」という「元から山のようにあった女性側の負債」を完全にスルーするという蛮行に、まず、出ました。その、しかる後に「ミソジニー」という仮想通貨による借金を捏造して、ぼくたちに「金返せ」と『ナニワ金融道』のような取り立てを始めました。そこが彼女らの悪質さであり、彼女らは「ミサンドリー」の発明者などではなかったのです。


     前回もちらっと触れましたが、あとがきでは久米師匠がこれからのマスキュリズムの展望について、

     要するに男女平等を目指す上で過去フェミニズムが男性に対して主張し行ってきたことを女性に対して主張し行うのである。
    (444p)

    (引用者註・離婚時の男親の不利な法的状態を例に挙げ)厳しく批判、監視していく必要がある。(まさにフェミニズムがやってきたことと同じことを性別を入れ替えてやるだけだが)。
    (445p)

     などと言っています。
     彼のかかわっている、「男親にも親権を認めよ」という運動自体には賛成なのですが、女親に有利な現状だって、ある意味では「母親により子供が懐くから」であり、それを無視したジェンダーフリーに賛成はできません。
     いや、それよりも、そもそも、ここまでフェミニズムの欺瞞を暴露しておきながら、その方法論だけはパクろうという久米師匠の感覚はさっぱり理解できません。上の監視すべき対象としては「マスメディア」も挙げられており、この調子だと「男性差別的漫画」とかに文句をつけそうですよね。
     つまり彼の言うマスキュリニズムも、フェミニズムの「功績」を頂戴しての「よし、俺も」でしかないことがここで明言されているわけです。しかしそれではダメなことは、ここまで読んできた方にはもうおわかりのことでしょう。
     先に「男性差別的漫画」と書きましたが、師匠は『巨人の星』、手塚治虫、宮崎駿、また『ワンピース』などをミサンドリー作品、作家であると位置づけます。しかしこれら作家、作品がミサンドリックであるとは、ぼくにはあまり思えません。これら作家、作品においては男親は悪、女親は善という図式が透徹されていてけしからぬそうですが、それって単純に昔の作品では主人公が「旧世代の男」を乗り越えることがドラマツルギーとして普遍的だったというだけのことです。『ワンピース』について、ぼくは全く知らないのですが、師匠の指摘を見る限り旧世代の作品と同様のようで、そうなるとこうした図式はやはり、時代を超えて普遍的なものなのかもしれません。
     師匠の『ワンピース』への憎悪はものすごく(戦闘員であっても女性は守られ続けるという図式が露骨だそうで、それに憤るのはわかるのですが)、

     まず、男性差別、ミサンドリーの代表的作品といえるのが、少年(?)漫画である『ワンピース』である。この作品は、極めて強く男性嫌悪、女性中心的作品でありつつ、さらに非常に知名度が高く、そしてメディアで人気(誰に人気なのかはおいておくが)なため、総合点において必ず、触れておくべきだと思ったため、あげた。
    (448-449p)

     何だか見ていて笑ってしまいます。
     師匠の腐女子への憎悪が(括弧の中から)窺われます。もっとも、師匠は「女性向けには少女漫画というジャンルがあるのに、何故少年漫画が女性に媚びるのだ(大意・452p)」とも言っており、「男女共生」というポリコレに盲目的に操られて「ガンダム事変」を引き起こした連中*3に比べれば、フラットなジェンダー感を持っていることもまた、窺われるのですが。
     ……などと思いながら読み進めていくと、本当に最後の最後というところまで来て、ものすごい爆弾が控えていました。

     またこれらの男性差別作品とし(原文ママ)挙げているものは、男性の作者であるが、男性の読者に自然発生的に人気が出て、横に広まっていったというよりも、ある一定の(フェミニズムを大いに含む)メディア政治勢力によって政治的な意図をもってプロパガンダされている気配がある。この手の作品が才能がないのに無理やり押されているというのではない、才能がある作品のうち男性差別的(言い換えるとミサンドリーフェミニズム)に都合のよいものが選んで政治的にプッシュされていると思っている。
    (452p)

     え~と、すみません、師匠は既に遠い世界に行っていらっしゃるようです。
     手塚の時代からフェミニズムはメディアを牛耳り、手塚を(本来人気などなかったのに)表舞台に押し上げたのだそうです。まあ、ジブリ作品は母親受けがいい、くらいのことは言えるかとは思うのですが、それだってフェミとは関係ないでしょう(フェミを延命したくてならない自称フェミ批判者が、ママさん世論的なものをフェミと混同してスケープゴートにしがちなのをふと、連想します)。
     まあ、こんなわけですから師匠に対しては遠目にそっと、(『巨人の星』の)明子姉ちゃんくらいの感じで見守るに留めておいた方がよさそうです。
    (後一つ、本書については訳文の拙さについて延々愚痴ってきましたが、こうして見ると師匠自身の文章もアレだとわかります。確か千田由紀師匠が「日本語ネイティブではないのでは」と評していた記憶があるのですが、それも道理です)。


     さて、では、これからぼくたちはどうすればいいのだ、と言われても困るのですが、しかしぼくたちが考えるべきことは、もう自明であるかのように思われます。
     例えば上の映画『イン・ザ・カンパニー・オブ・メン』には当初、チャドと協力状態にあるものの、次第に被害者女性を真剣に愛するようになるハワードという男性も登場します。言わば、今一頼りない男という、90年代を象徴する人物です。前回挙げた『愛がこわれるとき』のベンも、そんな感じでしたね。が、しかしそこを考えるとこの映画もまた「女性に加害する男性、誠実に愛する男性」の二者の登場するジェップスなのです。
     先に、こうしたジェップスを「ジェンダー規範に忠実」と書きましたが、正確にはちょっと違う。古典的な、ジェンダー規範に忠実な物語であれば、ハワードはヒロインを助けに来る正義の味方として描かれていたであろうからです。
     ひと昔、90年代より前ならば正義の男性と悪の男性が物語のメインとして描かれていたはずです(本書は専ら90年代の作品について語られています)。男性は能動的に動くというジェンダー規範が求められるため、かつての物語において、「ヒーローであると共にヒールであった」。つまり女性は無力なピーチ姫(或いはオリーブでも何でもいいのですが)という役割のみを与えられていたが、男性はマリオかクッパ(ないし、ポパイかブルート)に分かれていた。ところがマリオやポパイが失われてしまった、それが90年代に起きた変化だったのです。両者が共にブルーカラーなのは実に示唆的です。
    『セーラームーン』はまさにこの時期に誕生した「女の時代」の寵児であり、そうした「男を蹴散らす」的なミサンドリーの念をもって描かれ、しかしアニメスタッフによってそうしたノイズが取り除かれた良作であることは以前指摘した通りです*4。とは言え、このセーラームーンにおいても、彼女の彼氏であるタキシード仮面は活躍すると「男のくせに出しゃばるな」と言われ、しくじると「男のくせに情けない」と言われた存在でした。
     かつてより、「男は悪者」でした。その代わり、かつては「男は正義の味方」でもあり、「女はお姫様」役を演ずるのみでした。それは丁度、手柄を立てるのも悪いことをするのも男の方が多いという、現実世界のジェンダー規範の、忠実な反映です。
     男性解放論者の古典的名著『正しいオトコのやり方』において、フレドリック・ヘイワードは

    女の子はお砂糖とスパイスと、すてきなものばかりでできていた。そのかわり弱くて、おばかさんで、パンクしたタイヤも取り換えられない。そして男の子は強くて自信に満ち、有能だった。そのかわり無法者で信用がおけず、セックスに目がなくて、卵もゆでられない連中なのだ。両性の闘いは続き、そして現在、主役と悪役は決定された。女の子は以前両性で分けあっていた良い性質を全部独占してしまった。男の子はただもう、悪いだけだ。
    (191p)

     と極めて鋭い指摘をしています。
     本書の分析の全てが無意味だとは全く思いません。しかしそれを実りあるものにするならば、近年の物語(否、言説のレベル)において「ヒーロー」が不在になっていることをこそ、問題とすべきなのです(久米師匠は「ヒーロー」の存在そのものを「男性差別」だとい言い募りそうですが、まあ、彼のことはどうでもよろしい)。
     言わば「ミサンドリー」はあってもいい、しかしよりそれ以上の「オトコスキー」がかつてはあったし、あってしかるべきなのにそれが失われた、何故なのか、というのが設問であるべきだったのです*5
     その理由は、何か……? 大情況的には産業のサービス業への移行に伴う男性性の価値の減退みたいことは、先進国に必ず起こる必然だったでしょう。ヴィジュアル文化時代には、見栄えのする女性が有利ということもあります(これはテレビ普及が大きいでしょう)。
     むろん、フェミニズムだけが原因ではないとはいえ、彼女らがそこに乗っかり、男性のネガティビティを喧伝し続けてきたということは言えます。本書の諸々の指摘は、そうしたフェミの蛮行の記録にもなっており、そこはもちろん、大変に有意義です。
     本書を見ていくと、ポリティカルコレクトに対する鋭い批判、左派が雑に黒人と女性とを混同して「聖なる弱者」に仕立て上げている点についての批判もあり、それぞれ至極もっともな話です。
     端々には

    ほとんどの人はもし完全な平等が達成されたら、もし私たちが文化システムとしてのジェンダーの名残を全滅したとき、何が実際に起こるのか考えようとしない。私たちが、“脱ジェンダー化”と呼ぶものは全ての男女の文化的違いを解消し、生物学的違いさえ緩和するだろう。ではどうやって男性も女性もアイデンティティを形成するのだろう?
    (140p)

     といった記述もあり、これなどジェンダーフリーへの鋭いカウンターになっています。
     しかし、同時に別な箇所ではジェンダーフリー肯定と思える記述があるなど、全体を通してみると本書がぶれないはっきりとしたビジョンを提示し得ているとは、言い難い。
     ましてや久米師匠には、批判する漫画がむしろ古典的ジェンダー観に則ったものであることが象徴するように、ジェンダーフリーへの強烈な志向がある。
     それともう一つ、彼は「男性差別解消を目指す人は人文系の学問を納めるべき」と主張し、また本書を学者、学生に読まれることを期待しているなど(445p)、どこか権威主義の匂いのする御仁です。また、上の腐女子への視線や先のポルノ批判の記事*6を見ても、オタクに対しての憎悪を持っていることが窺い知れる。仮にブログ「独り言 女権主義」の主が久米師匠であるとの顔面核爆弾さんの考えを正しいとすると、そのオタク憎悪の強烈さは疑い得ないものとなりましょう。つまり彼自身が今の左派の特徴である「とにもかくにも弱者と見るや、本能的に激烈な憎悪を燃え立たせる」という特徴を十全にお持ちの方であると評価せざるを得なくなるのです。
     ぼくが「女災」問題と「オタク」問題を並列させて語ってきたわけは、当ブログの愛読者の方にはおわかりでしょう。「オタク」は「弱者男性」と「≒」で結べる存在であり、従来のポリティカルコレクトネスの穴を突く存在(アメリカで言えば「プア・ファット・ホワイトマン」に当たる存在)であるからです。
     そのオタクを呪う久米師匠こそ、この世で一番の「ミサンドリスト」と言えましょう。
     左派が女性でありセクシャルマイノリティであり特定の外国人でありを理解する素振りを見せるのは、言うまでもなく彼ら彼女らの人権を慮っているからでは全くなく、最初から持っていた「社会一般」に対する強烈な憎悪を、「正義」に偽装するためでした。
     フェミニズムの本質は「箱舟」です。「甚だしく勘違いした、幼稚なナルシシズムを根底に置いたエリーティズム」です。
     自らのエリーティズムを満たすため、箱舟に搭乗したが、しかしその箱舟すらもアララト山に辿り着くことができないと知った者がいたとしたら……?
     今までの久米師匠の主張は、彼が彼なりに考えて提示したアンサーでした。
     弱者男性を深く憎悪する久米師匠(及び、田中俊之師匠)は「男性解放」を小銭稼ぎのネタにすると同時に、実のところ自分たちと歩調をあわせる「選ばれし者」のみを正義とすることで、男性一般は見下すというウルトラCを開発した方でした。
     一方、数年前まで「世界ミサンドリストナンバー1」の地位にあった「オタク界のトップ」は、しかしながら、目下のところオタクの味方のふりをしている。彼らは専ら「表現の自由」問題というワンイシュー()に論点を特化することで、今までの方法論のまま、オタクの味方として振る舞おうとした人たちでした。
     久米師匠の、フェミの方法論をパクろうという施政方針演説を見ればわかるように、彼らはフェミニストを憎みつつ、同時に彼女らの持つ資産、つまり論理の構築であり(これこそ非実在の仮想通貨なのですが)アカデミズムやマスコミにおける権力に魅力を感じているように思われます。
     彼らはフェミニストのトップを殺して、首だけを挿げ替え、そのリソースを利用しようという野望に憑りつかれてしまったのではないでしょうか。彼らが勝利した時、きっとバカ殿としてピル神みたいな人が椅子に座らされることになるのでしょう。

    *4 セーラームーン世代の社会論
    *5 さらに言えばフェミニズムとは「オンナスキー」が(専ら彼女らの責任で)失われ、もう、しょうかたなしに、ほとほと根を上げて、男がホンの僅かばかり露呈させた「ミソジニー」を手に取り、大袈裟に誇張して騒ぎ立てるという現象そのものでしたが、まあ、それは置きましょう。
    *6 男性に対する性の商品化の学問上の批判