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  • ネットハイ

    2016-11-26 15:1012

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     俺らがゲームに、なりました。
     いえ、去年の今日、11月26日、丁度一年前に発売したゲームなので、正確には「なっていました」。
     それが今回ご紹介する『ネットハイ』。
     本作を一言で説明するならば、ネット文化、オタク文化を舞台にした『ダンガンロンパ』。いえ、どちらかと言えば『逆転裁判』の影響が大らしいのですが、ニコニコ生放送そのものが舞台に選ばれ、主人公と敵とのディベート中に聴衆コメントが流れる辺りはやはり、『ダンガンロンパ』的です(学級裁判でのガヤの声の演出も、ニコ動が着想の元になっていたと言います)。また、マスコットキャラの声はガチャピン、ムック(の声優さん)が担当しており、これもまたモノクマの影響が大きい。
     本作は膨大なフォロワー数を誇るリア充どもを、ド底辺な主人公が爆発させるというゲーム。「ニコ生における論戦で、ツイッターのフォロワーを競うディベートバトルゲーム」なのです。
     いえ、劇中では「ツイッター」に近しい「ツイイッター」というのが登場するのですが、面倒なので本稿では「元ネタと思しい」サービスの名前をそのまま書いていきます。ご了承ください。
     それともう一つ。
     本作はネタバレ禁止とされています。
     しかし正直ネタバレなしに本作の面白さ、深さ、素晴らしさを批評することは困難です。
     よって今回は体験版として公開されている第一話は置くとして、それ以降については、キーワードを白文字にすることで対処しました。
     ネタバレしても面白さを損なうゲームではないと思いますが、以上のような次第ですので、どうぞご了承ください。

     さて、本作におけるディベートは「ENJ(エンジョイ)バトル」と呼ばれるのですが、主人公は敢えて「爆発炎上バトル」と呼称します。というのもリア充どもを「炎上」させ、「爆発」せしめることが、このゲームにおける目的だから。そう、「オタク」という言葉を「非リア」と読み替えることで、そのバトルをある種の階級闘争に準えたのが、本ゲーム。
     何しろ国家が「ネオ・コミュニケーション法」を施行、人々にツイッターアカウントの所持を義務づけ、フォロワーの数でヒエラルキーが決まってしまう、というのが本作の世界観なのですから。フォロワーがゼロになった者はアカウントを凍結され、「Zランク」にまで落ちてしまいます。これは実質的には社会的な死。「Zランク」は俗に「ゾンビアカウント」と呼称されるのです。
     ぼくの想像なのですが、恐らくこの世界観の根底には岡田斗司夫氏の提唱する「評価経済社会」の概念があります。他者の評価が数値化され、そうした「人気」の高い者がヒエラルキーを形作る「いいね!至上主義社会」。それは既にネット上では確立しつつあり、しかしぼっちでありコミュ障なオタクにこそ厳しい社会なのではないか、という疑問。それが本作のスタート地点にある気がしてなりません*1
     もう一つ、ネタ元を勘繰るとするならば、『ゲームウォーズ』でしょうか。以前にも採り挙げたことがあるアメリカの小説ですが、近未来、ヴァーチャルリアリティの中だけが居場所の超底辺少年が日本の巨大ロボを操り大活躍、というお話で、ここで描かれる「SNS運営によって大衆が支配される超格差、管理社会」といったディストピア的世界観は恐らく、本作の元になっている気がします。
     アマゾンのレビューに秀逸な批評がありました。

    表面的にはリア充爆発というケツの穴の小さいテーマに見えますが、中身は全然違いました。


     そう、その通りなのです。
     今まで「オタクvsリア充」のバトルは「オタクという唾棄すべき存在の、やっかみ」という解釈のみが許されてきました。本田透は『電波男』で(当初は「チクショー、オタクが何したっていうんだよ!?」というボヤき芸を想定していたところを急遽、路線を変えて)「オタクは勝った!」と勝ち鬨を上げましたが、そんな危険思想がこの社会で許されるはずもなく、彼は存在そのものが「黒歴史」として葬られました。「女災」という概念を提唱した者もまた、しかりです。
     そんな絶望的状況の中、現れた第三の戦士、それが本作の主人公「俺氏」なのです。
     そう、本作は俺らのゲーム、なのです。
     繰り返しましょう。
    「オタク」ネタは、どうしてもそれを嘲笑しなければならない、という社会の「お約束」の前に、苦戦を強いられてきた。『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』、『私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い』は主人公を少女化することでそこをクリアしましたが、今やオタクネタのコンテンツは『うまるちゃん』、『私がモテてどうすんだ』とみな一様に、女性向けのものに埋め尽くされてしまいました。ガガガ
     そしてこれはむろん、「男性」全般に言える話です。ハゲは、インポは、ブサメンは、童貞は笑われなければ、なりません
     先に挙げたアマゾンのレビューは、それを表しているわけです。ただ単にオタクがリア充をやっつけるだけというお話であれば、それはケツの穴が小さい。いえ、決して小さくはないはずなのですが、世間はそう見る。
     ならば、ぼくたちはどうすればいいのか。
     その答えを、本作は完全に提示しています。
     この「俺氏」はヘタレで気の弱いオタクですが、ある日、捨て猫をきっかけに、とある心優しい少女と会話を交わします。しかし彼女のツイッターはいきなり「炎上」、フォロワーがゼロとなり、アカウントが凍結されてしまいます。そう、ネット社会では日常茶飯事ですが、「こいつは悪者だから叩いていいのだ」と決まった者を、よってたかってそいつを晒しageて、集団でフルボッコにする。そうした様子を目の当たりにして、俺氏は「こんな腐ったシステムはぶっ壊してやる」と決意するのです。

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    「必然的に観客もhimeのフォロワーの比率が多くなる
     最初から公平な戦いなんかじゃねえんだよ」
    「でも、それじゃあENJバトルってなんのために……」
    「そうだな……公開処刑ってところか」
    「こ、公開処刑……」
    「人気者に噛みついてきた無謀で愚かな人間を
     フォロワーという数の力でいたぶるんだ
     観客たちはそうやって火あぶりになってもがき苦しむ人間を
     画面の向こうで眺めて楽しんでやがるんだよ
     なにがエンジョイバトルだ
     それこそ炎上バトルじゃねぇか……!」

    「ちょっとばかり失敗したヤツをフォロワーの数にまかせて
     これでもかと叩いて笑いものにする
     ツイイッターじゃめずらしくもねぇ光景だ
     だけど、俺はそういうやり方が一番気に入らねぇ
     だから言わせてもらおう
     一緒になって叩いてるヤツら! そして見て見ぬ振りを
     しているヤツら! どいつもこいつも最低のクズどもだ!


     フォロワーが四人しかいない俺氏ですが、現れた美少女型ナビゲーションAI「シル」と共に「ENJバトル」に殴り込み、圧倒的フォロワー数を誇るリア充どもへ、敢然と戦いを挑みます。

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    ■中央が「俺氏」。右が宿敵「MC」。左がナビの「シル」。可愛いです。

     70年代、漫画やアニメの世界では、叩き上げがエリートを努力と根性でやっつけました。代表例は星飛雄馬と花形満ですね。
     80年代はそうしたドラマツルギーが徹底的に無化されました。これはフジテレビなど、リア充をも含めた全体的な流れだったのですが、そろそろリベラル君たちがこれをオタクの仕業であると歴史修正を始める気もします。
     90年代は本当の意味でのニヒリズムが蔓延し、シンジ君は戦いを拒否。
     ゼロ年代は夜神月が、そしてなろう的チート主人公が人気を得るに至りました。
     しかし10年代からは――と言っても、もう後半まで来てしまいましたが――再び「持てる者」へのカウンターが描かれる、70年代への回帰が始まるのかも知れません。
     ただ一つ違うのは、「努力と根性」という要素は相変わらずオミットされていること。それは仕方がありません。現代で「努力すれば報われる」と語っても、それはギャグにすらならないでしょうから。
     では、「俺氏」は何を武器に戦うのでしょうか。
     本作では、「愛」が敵と戦う武器に選ばれています
     なぁんだ、と思われるでしょうか。
     この「愛」こそ80年代に空疎に振り回され、世の中をエゴイズムに染めてきた諸悪の根源である、と言いたい人がいるかも知れません。
     てか、そうした物言いは、(最近してないですが)以前、ぼくがよくしておりました*2
     しかしまあ、待ってください。
     ここから先は更に、本作のストーリーを詳しくご紹介していく必要がありそうです。

    *1 本作一話では「食べログ」が登場。飲食店を逆恨みした者が不当に貶めるレビューを書き込む様が描かれ、「これもまた飲食店版のリア充ランキングだ」と語られます。
    *2 「兵頭新児の女災対策的読書・Rewrite(http://blog.goo.ne.jp/hyodoshinji/e/c3c7a2885239e41196a8f861d1cb3987)」「Rewrite(その2)(http://blog.goo.ne.jp/hyodoshinji/e/8db66092b31bb737534e59e2da49289a)」など。

     俺氏は「リア充、爆発しろ!」「特定完了!」の決めゼリフと共にリア充どもの「正体」を暴いていきます。
     本作における「ENJバトル」、基本は相手のゴシップを集め、その正体を暴露するという、かなりゲスなものです。とは言え、まず最初に俺氏はこのシステムそのものを否定しており、「そうした手法を使わざるを得ない矛盾に苦悩しつつも、それによりシステムそのものを否定しよう」とするところにこそ、本作の醍醐味があるわけなのです。
     例えば、第一の敵、「Mrエリート」。
    「超一流」のブルジョワである彼は、90年代あかほりアニメのライバル役でよくいたような、何だかちょっとカマっぽいスネ夫キャラです。彼はまさにリア充のお約束の行動として、ディナーをツイッターにうpします。高級フレンチを食べたとドヤ顔なのですが……ん? よくよく見ると何だかコラ画像のような……ENJバトルで、彼が本当に食べていたのは牛丼であったと暴露されます。まさかこれ、内田樹師匠と古市憲寿師匠が元ネタになっていたり……しないよなあ?
     案の定、Mrエリートの正体は単なる牛丼屋のバイトでした。イケメンのアバター(?)とは裏腹に、本人はデブなキモオタ。
     しかし、本作の秀逸なのはここからです。Mrエリートは牛丼をバカにされ、本人の「牛丼愛」故にそれを看過できず、正体を現してしまう。俺氏はそんな彼の牛丼愛を讃えるのです。
     何となれば、俺氏は愛を武器に、戦うのですから。
     とあるブログで「俺氏は相手に同情も、ましてや嘲りもしない、敬意を持って臨むのだ」と評していた人がいました。まさに「それな」です。
     以降も次々と現れるリア充どもの正体を暴くことで、俺氏はバトルを勝ち進むのですが――ここで更なるネタバレをしておくと、本作のもう一つのすごさは、その女性観のシビアさにあります。
     Mrエリート自身は男性ですが、彼のパートナー「部下子」は「意識高い系OL」。
     彼女は俺氏がMrエリートにとって不利な客観的事実をツイートすると、猛然と噛みついてきて「ツイートを消せ」「訴える」「弁護士と相談している」と恫喝を始めます。
     本作は俺らの、ゲーム化です。
     本作は「推理ゲーム」をフォーマットにしてはいるものの、あくまで「民意誘導」こそがその目的(何しろシステムの中に「民意先導スピーチ」というものがあります)。論理の整合性に重きが置かれているわけではありません。だからこそ女性対戦者は「女子力」をもって戦いを挑んできます。彼女らはみな一様に被害者ぶり、或いは色仕掛け、「私のことが好きなの?」と主人公に問うことでバトルを乗り切っていくのです。
     第二話の対戦者himeが「誰かhimeを守って!」「himeを守ってくれる王子様はどこ?」と続け、俺氏に対して「ひょっとしてあなたが王子様?」と迫る展開は、敵ながらあっぱれです。
     ちなみに第二話のタイトルは「ウソつきは姫の始まり」。もうこれだけで「はは~ん」となる人がいるのではないでしょうか。このhimeは日本のオタク文化を愛し、ユーチューバーとしての知名度を誇るブリュンヒルデ王国から来たお姫様。「クールジャパンを愛する異国の姫」というのが既にオタク心をくすぐる設定で(そんなの、宇宙からやってきたぼくのことを溺愛してくれる美少女、といっしょですもんね)、当初は「少女の憧れである魔法少女アニメが好き」と語っていたところを「魔法少女は少女のためだけのものではない」と反論され、「深夜の、ちょっとエッチな魔法少女アニメ」も好きであると語ることで支持を挽回する下りは見事です。そう、俺氏が指摘するようにぼくたちは「アニメには夢がある」など一遍通りなことを言う「にわか」を何よりも憎みますが、そこを「あなたたちの愛する、欲にまみれた深夜アニメをも、受け容れる」と言われたら、「あぁ、本当に俺たちのことをわかってくれるんだ」となって、一発でメロメロになっちゃいますよね。
     そして彼女は最後に「姫は姫でもオタサーの姫」という正体を現します。
     彼女の取り巻きである「騎士くん」は彼女を守ると称して(彼女に不快感を与えた者へと過剰な報復行動に出るなど)暴走を続けていました。俺氏は「仮にそれが姫の命じた行為ではないにせよ、男たちの歓心を買い、彼らを操縦していたことで責任は免れない」と憤ります。そんな彼女が「どうしてみんな仲よくできないの?」を連発することで俺氏の戦意を削ぐ戦術を使っていた(口先では平和を謳いつつ相手の攻撃を続けていた)ことがまた、見事。ここでは「女性性」、即ち「受動性というジェンダーが持つ攻撃性」が十全に描かれているのです。
     最終的に、彼女はアバターを暴かれ、本来の姿を現します(アバターを剥ぎ取り、相手の正体を「特定完了」することが本作のクライマックスです)。王冠を被り錫杖を手にした異国の金髪の姫が、「姫と呼ばれたかったーーー!!」と絶叫しながら、ネコ耳に魔法少女ステッキを手にした、ルックスも微妙でボディラインもたるんだ「いまいち萌えない」正体を現す様は悲惨でもあると同時に、しかしその「残念さ」に萌えてもしまいます。結果、彼女は少数のサークルの中でファンに囲まれながら、オタサーの姫に戻るのです。

     第三の敵はボカロ。とは言え、本丸の敵はこのボカロを操るプロデューサーであり、俺氏は彼と、オタク文化の尊厳を懸けた戦いを繰り広げます。ここで語られるのは、「愛もないくせに、金の匂いを嗅ぎつけ、外から俺らの業界に入ってきたものへの違和」。

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     まさか、こんなテーマを語ることが許されていようとは、ぼくは夢にも思いませんでした。何しろ現実のオタク世界を支配する「運営」は、オタクたちがそんなことに疑問を持つことを厳に禁じています。思想犯は矯正されるか、アカウントを凍結されるしかありません。しかし俺氏はオタク文化に愛のない者へと、果敢に噛みつくのです。
     本作は俺らの理想を描いた、ゲームです。
     もっとも、このボカロもまた、「いろいろあって、リア充界から都落ちしてオタク文化にすがるようになった」切ない正体を現すのですが……。
     第四の敵は「ギャル」です。「スウィーツ()」とか「携帯小説」といった表現はさすがに古いからか表には出ませんでしたが、要するにそういう感じの人物。「オンナのコわ、もっとワガママでいいと思う」という彼女の「恋愛脳」から発せられるワードはその理解不能さで俺氏陣営を苦しめ、一方、彼女の著作に感化された女性たちは「モンスター女子」としてネットにもリアルにも夥しい被害をもたらしています。ツイッター上で萌えキャラが叩かれる描写も(ちょっと抑えたものですが)あり、これが実際のいかなる事件をモデルにしているかは明らかです。

    「女子はか弱い。女子は守られなければいけない
     そんな考えがどんどん過激にエスカレートしていって
     ついには男子が女子のために尽くすのは当たり前
     女子のために尽くすことが男子の幸せだ――
     そんな思想を持って男子を虐げるようになってしまったんだ
     今や女子たちはモンスターそのものだよ


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     本作は俺らのゲームです。
     このギャルのもう一つの決めゼリフである「愛があれば、言葉なんてなくたって気持ちは通じる」に対して、殊更に俺氏は批判的で、男女のディスコミにおける女性の「ムードでわかれ」圧力が、オタクにとっては極めてムチャ振りであることが、ここでは十全に描かれるわけです。
     さて、ではこの「ギャル」がどうなるかというと――みなさん、そろそろおわかりになってきたかと思います。
     対戦相手の正体は例外もあれど、ぶっちゃけてしまえば、みな「非リア」でした。だからこそ正体を現した相手と俺氏とは和解し、友情を育んでいく。作品として非常に後味のいいものになっているのです。
     このギャルの彼氏は非実在であり、そして彼女の正体は――あぁ、やっぱり腐女子だったか! そんな「脱オタ」しようとしていた彼女がオタクとしての生き方を取り戻すことが、本話のテーマだったのです。
     また、彼女のケータイ小説は映画化などがされるにつれ、スポンサーの意向に振り回されるようになったと描写され、そのスポンサーである企業こそが悪ではないかとも暗示もなされ、「ラスボス」への伏線を張ります。

     第五話は、中でも一番、女性へと辛辣な話でしょう。
     対戦相手はイケメンアイドルなのですが、ここでは実際の事件をモデルにした「バンビーナ事件」というものが描かれます。「バンビーナ」とはこのアイドルのファンである女性を総称する言葉なのですが、かつてこのアイドルの(正確には彼がかつて所属していたグループの)ライブが急遽中止になり、地方から上京してきたバンビーナたちがコンビニや行政に食事や宿泊場所を無償で提供せよと主張、またバンビーナを狙う性犯罪者がいるなどのデマまでをも流してしまう、といった事件が起きていたのです(彼女らが「か弱いバンビーナを守れ!」と自ら発信していたというのがまた、見事)。それ以降、バンビーナたちはタチのよくないファンとして暴走することになってしまったのです。
     本作は俺らの住む現実世界の、ゲーム化です。
     また、このアイドルは同時に俺氏の幼なじみでもありました。
     俺氏の非リア、コミュ障は、元を辿れば小学生時代の金魚殺しの冤罪を着せられた過去に起因します。
     証拠もなく俺氏を犯人として糾弾するクラスの一同。その吊し上げ、糾弾会の様を、俺氏は「今思えばネットの炎上に似ていた」と述懐します。

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     が、そこをただ一人、幼なじみは俺氏をかばってくれました。二人の友情はそれをきっかけとしたものでしたが――ENJバトルの場で、衝撃的な真実が明らかになります。実は金魚殺しの真犯人は、この幼なじみでした。「俺がこいつの味方をしてやったら、女どもは俺のことを優しいと言うのだ。証拠もなく犯人と決めつけた相手に『死ね』と罵詈雑言の限りを尽くしたその口でな!」。

    「傑作だろ! オマエに「しね!」と言った口で
     今度はオレに「好き」だとかぬかしやがるんだからな!」

    「今世紀最高のイケメン、オンナたちバンビーナと呼び
     数え切れないオンナを抱いた肉食獣!
     だが、本当の肉食獣はそのバンビーナたちだった!」


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     本作は俺らの、ゲーム化です。
     ここではイケメンアイドルの女性への失望がイヤというほど描かれます。
     彼は虚飾の世界に疲れ果てたアイドルという「正体」を晒し、退場していきます。いえ、現実の世界では「女性を罵るイケメン」はミソジニストと呼ばれることも決してなく、充分に需要があることでしょうが……。
     アイドルの明かした過去の事実には、女性性のリアルがこれでもかというくらいに描破されています。
    「『死ね』と言ったその口でイケメンのことは『優しい』と言う」。
     残念なことに近い事例は世間のあちこちで見ることができますが、これを分析するならば、「判断を強者に委ねた者」「観客であることを許された者」故の無責任さである、とまとめてしまうことができます。
     そうした匿名性、受動性は女性ジェンダーのネガティビティでもありますが、同時にネットの特性でもあります。
     本作は何よりもそうした匿名性をこそ、受動性をこそ「悪」であると厳しく告発しているのことが、おわかりになるでしょう(考えれば『絶対絶望少女』のテーマもまさにこれでした)。
     この五話を最後に、本作は以降、最終編へと突入していき、「女災」的テーマからはいったん、距離を置きます。しかしラスボス戦においてすら、俺氏はこの「リア充至上主義社会」、否、実のところフォロワーたちのリアクションが、「いいね!」を押す者が主導権を握っている……えぇと、ポピュリズム社会、みたいな形容でいいのかなあ、ともかくそうしたものの裏を掻く「邪道」で勝利を収めるのです。

     そして、もう一つ。
     先にぼくは「俺氏」は愛を武器に戦うと述べました。
     しかしその愛は、「リア充」の言う愛ではない。
     オタクが愛と言う時、オタク文化への愛を指すことが多く、そのニュアンスに独特のものがあることにお気づきでしょうか。それは「自己愛(ナルシシズム)」と言い換えてもいいでしょうし、「ライナスの安心毛布的なものへの愛」と言い変えてもいいでしょう。ぼくは時々、オタク文化を「裸の男性性」と形容しますが、要するにオタクのキャラやコンテンツへの愛情は、自らの内面への愛情だとも言い得るわけです。
     自分を愛することをタブーとし、女性に全ての愛を捧げよと命じられた男性が、フェミニズムによる社会動乱に乗じて、とうとう自分自身を愛するガジェットとして、萌えというものを発明した――それが、オタクの言う「愛」の実体です。
     先に「俺氏は敵に敬意を持って臨む」との意見を引用しましたが、Mrエリートが牛丼を愛しているからこそ俺氏は彼と友になり、またhimeが「オタどもを搾取するオタサー姫」である点については厳しく糾弾しますが、オタク女子として愛する作品がある一面に対しては、リスペクトもします。
     俺氏は「いいね!至上主義社会」を基本的に否定していますが、オタクの愛を信じることで、民意を自分側に向けさせもするのです。オタク文化をバカにしたMrエリートを批判することで流れを変える展開など、その好例ですね。

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     今まで貼ってきた画像をご覧いただければわかるように、本作のキャラクターデザインは「島本和彦」系です。実際、ファンの中にはデザイナーさんを『グレンラガン』の人だと信じ切っている人が結構いるようです。
     島本和彦先生と言えば、もう彼自身を語るのに別な記事を五つも六つも書く必要が生じてしまう作家なのですが……要は「男性性というものが否定されてしまう状況下で、一度、男性性を笑いのめし、しかしその中から立ち上がっていこうという実験をした作家」と定義することができましょうか。
     本作もまたその魂を受け継いでいます。
     ぼくは以前、オタクの内部指向を「格好は悪いけど、ぼくは自分のニーズに没頭する」、「対外的には自虐しつつ、自らの欲求を吐露する、スタイル」と表現しました*3
     本作では島本先生の「熱血→ギャグ」という流れを「オタクの自虐」に読み替えました。
    「男の魂」を笑いのめし、しかし感動に持っていくという島本先生の荒技に倣い、本作はオタクの愛の全肯定という荒技を敢行した作品である、と言えるのです。
     ――ぼくは一ヶ月ほど前、本当に何気なく本作を手に取り、そして毎話、感動と驚愕に震え上がりながら、終えてしまうのが惜しいと感じつつ、プレイを終えました。
     が、大変残念なことに本作、一般的な知名度はそこまで高いとは言えません。
     興味を持っていただけた方は、まず体験版を――と思ったのですが、プレステストアを見てもどこから体験版をDLできるのかわかりません。ニコ動ででも見て気に入った方は購入していただけたら……と思います。

    *3 サブカルがまたオタクを攻撃してきた件  ――その2 オタク差別、男性差別許すまじ! でも…?(http://asread.info/archives/3673

  • 秋だ一番! 男性学祭り!!(その2.『男子問題の時代?』)

    2016-11-20 23:124

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     原田実師匠がピル師匠の、「碧志摩メグが規制されたきっかけは保守派の武田邦彦教授だ!」とのデマを真に受け、RTしているのを見て、「あぁ、リベしぐさは恐ろしいなあ」と実感する今日この頃、皆様におかれましてはいかがお過ごしでしょうか。
     今回はえりちかさんのリクエストで多賀太師匠の著作を採り挙げさせていただきます。見るとぼくの名前と著作もホンのちょっとだけやり玉に挙がっている本書、いかなる内容のものでしょうか……?

    ゲンロンデンパ3 THE END OF フェミヶ丘学園 未来編

     ――ぼくは怒シンジ(声:緒方恵美)。元・超高校級の不運。
     フェミヶ丘学園の学園長・フェミクマ(声:TARAKO)に拉致され、ミサンドリアイ学園生活を強要された、生き残りの一人だ。
     ぼくたち超高校級の生徒たちをフェミ裁判で殺し続けた黒幕の正体は超高校級のフェミ・羅路府恵美子(らじふえみこ・声:豊口めぐみ)であった。
     羅路府を倒したぼくたちは、フェミヶ丘学園の卒業生で構成される「男性機関」に所属、フェミに崩壊させられた世界の再建に従事していた。そう、我らが男性機関は「絶望」そのものであるフェミに対抗する、「希望」の象徴だ。
     だが……再びフェミクマは姿を現した。ぼくたちは腕にバングルを填められ、またしてもデスゲームに参加させられる羽目に陥った。
     バングルには「NG行動」が設定され、それに反する行動を取った者は殺される。また、ぼくたちの中には「裏切り者」が紛れているため、仮に「NG行動」に反しなくとも、寝ている間に一人ひとり殺されていく。
    「裏切り者」を見つけ出さない限り、ぼくたちは死を迎えることになってしまうのだ――。

    ???「裏切り者の正体は自明だ!」
     そう言うのは男性機関副会長、そして元・超高校級の男性学者だった乙許斐方郎(おとこのみかたろう・声:森川智之)。
    乙許斐「男性機関はラディカルフェミニズムの魔の手から人々を守る、人類の希望。しかしそんな中、ジェンダーフリーによる男性解放に反対している者がいる。そいつが裏切り者なのは、考えるまでもないことだ!」
     乙許斐がぼくを睨みつける。彼は反ジェンダーフリー派であるぼくを処刑せよとの、強硬派のトップなのだ。
    シンジ「……………」
    乙許斐「ジェンダーフリーに反対するということは男性差別を許容するということ。即ち、ラディカルフェミニズムの手先だ!!」
    シンジ「それは違うよ!!
    乙許斐「どこが違うんだ?」
    シンジ「乙許斐さんの意見には、大きく言って二つの間違いがあります。ラディカルフェミニズムという言葉に対する認識と、そしてジェンダーフリーが男性差別を解消する思想だと信じている点」
    乙許斐「何だと!?」
    シンジ「ラディカルフェミニズムという言葉の誤認については、多くを繰り返す余裕がないけど*1、大ざっぱに言えば、ジェンダーフリーを推進しようとする思想、と言っていいんです。つまりぼくが反ジェンダーフリー派である限り、ラディカルフェミニストであるはずはないし、ジェンダーフリー派はむしろ、ラディフェミとこそ親和性があると言わざるを得ないんですよ!」
    乙許斐「見ろ! ジェンダーフリーを否定する怒シンジ、やはりラディフェミの手先だ!」
    シンジ「ひ……人の話は聞かないのか、この人……」
     ぼくはふと、手持ちの本を掲げて見せた。
    シンジ「じゃあ、この本をテキストに説明しましょう。多賀太教授の著した『男子問題の時代?』です」
    ???「それは!?」
     横から弾んだ声を上げたのは、元・超高校級のジェンダーフリー論者・寺園田振子(じえんだふりこ・声:中原麻衣)。
    振子「多賀太教授と言えば、教育社会学者よ! 間違ったことを言うわけがないわね!」
    シンジ「それはどうだろう……例えば多賀は、欧米では学齢期の男児の『男性問題』こそが採り挙げられている、事実女子より男子の方が成績が悪い、と指摘する一方、日本では専ら青年期男子の『男性問題』ばかりが取り沙汰されると不思議がっているんだ」
    振子「それのどこに問題があるわけ?」
    シンジ「問題というか……要するに第1章におけるこの箇所は、近年の『男性学』を自称する書にお約束の、現代が女尊男卑であるとの世論への反論なんだけど、ここで多賀がしているのは、『それ故、日本の男性優位は揺らいでいないのだ(大意)』という奇妙奇天烈な主張なんだ(20p)」
    振子「はぁ?」
    シンジ「つまり海外と違い、青年期男子について騒ぐだけで、学童期の男子の問題が浮上していないのは日本が男性優位だから、という実に奇妙な主張。だったら海外は女性優位なのか、と聞きたくなるよね」
    振子「そ……それは……」
    シンジ「日本で専ら青年期の男子の『男性問題』ばかりが取り沙汰される理由、それは明白だ。要するに『男性問題』など、アカデミズム、ジャーナリズムはまともに相手にしていない。数少ない『男性問題』についての書は、彼らフェミニズムの使徒たちが『フェミニズムに逆らうな』『男性性を捨てよ』と若年男性に迫るだけのものだからだよ。
     それとは異なる実際の弱者男性の声は、表には出ず、ネットで見られるのみだ。多賀が兵頭新児の著作を否定的に採り挙げているけれど(15p)、逆に言えば彼の著作が、弱者男性の声が出版物として世に出た、数少ない例外だからだよ」
    振子「そ……それは多賀教授があくまでネットのミソジナスな意見をよしとしないだけよ。それだけで彼を男性の敵だと断言できるの!?」
    シンジ「男性の窮状を男性の自己責任である、とする論調を男性の敵であるとするならば、多賀は明らかに男性の敵だよ。
     23p以降では、男性の経済状況が悪化しているのは女のせいではない、男性側の支配の構造に変化があったのだ(大意)としているけれど、そこに『女は男を養わない』傾向への視点はない。この種の男性学者にありがちな(男性の味方という看板を背負ったが故の困難からの)社会のシステムに全てをおっ被せるやり方だよ。
     田中俊之氏の本にもあったけれど*2、第2章の「男はつらい?」の節ではNHKの番組での幸福度調査で男性の方が幸福を感じていないという調査を持ち出し、それに対して『経済的に優位にあるのは男で云々』と延々言い訳が続く。社会的に権力を握っているのだから不幸でもガマンしろ、と言いたいとしか思えないよ。
     第2章以降も多賀は男がつらいのは優位でいようとするのが悪いのだとのロジックを垂れ流し続ける。47pでは男性の自殺者、過労死者の圧倒的な比率を上げながら、これは男性支配社会から女性支配社会に移行したからではないとし、更にはこれを男の方が女より所得が多いことと表裏一体だと言い募る」
    乙許斐「いや……ちょっと待て! 52pでは男性の方が女性よりも収入が多くとも、上昇の横ばい具合(上の世代と比較すれば、相対的に女性の方が稼いでいる)と扶養責任を求められる風潮から、不満を持つことは理があるとしているぞ!」
    シンジ「でも、その後がよくないですよ。多賀は

     確かに、男性たちが経験するこうした剥奪感自体が、男性の特権意識と表裏一体のものであり、ある種の女性蔑視に基づくものであるともいえよう。
    (同ページ)


     とまで言っている。まるで上野千鶴子のした主張のように、彼は男の生命には何の価値もないと言っているようにしか、ぼくには読めない。しかもその男の所得は、妻が管理しているというのに!」
    振子「ま……待って。そうは言うけど、多賀教授は同ページでこうも言っているわ。

     しかし、個々の男性たちは、社会的真空のなかでそうした特権意識を勝手に作り上げているわけではない。右に述べたように、彼らの意識は、そうした「特権」の獲得を目指す競争から「降りさせない」ための男同士の相互監視にさらされるなかで形成されている。


     また、そうした空気の醸成に女性も一役買ってる、とも指摘しているの。
     更に76pで女性が上昇婚を望む傾向を、指摘してもいるじゃない。

     女性の場合、結婚した人の割合とその人の雇用上の地位との間に関連は見られなかったが、男性の場合、非正規雇用者で結婚した人の割合(12.1%)は正規雇用者で結婚した人の割合(24.0%)の約半分であり、年収が低いと結婚した割合も低い傾向が見られた。


    シンジ「そう、ところどころに、客観的事実に基づいた、論理的な、頷ける指摘が挟み込まれるのが、こうした男性学者たちの著作の特徴だよ。そう考えると、彼ら自身はホンキで男性の味方たろうとしているのかも知れない
     しかし残念なことに、彼らは一方で、フェミニズムの盲信者としてのドグマをどうしても捨てようとしない。だからこそ彼らの主張は、支離滅裂の矛盾に満ちたものとならざるを得ないんだ。
     76pの指摘以降、多賀は『男性社会』がこうした『男性的な価値』に身を染めて成功した『名誉男性』的なキャリアウーマンを味方に引き入れることで男性的な社会を維持しているのだ、と続ける。
     つまりキャリアウーマンは男性的価値観という悪しきものに染められた被害者であり、行く行くは社会を女性的なモノへ変えようという、エコフェミ的な価値観を、彼は持っているんじゃないかと、想像できるんだ*3。男性学者というのは男らしさに非現実的な憎悪を抱く傾向が、大変に強いからね」
     第3章では労働問題について、以下のように述べている。

    もっとも、前章でも確認し、本章でも後に示すように、女性は従来から、労働市場において男性よりも圧倒的に不利な立場に置かれており、現在でもその傾向に変わりはない。したがって、こうした女性の状況に目配りせず、男性の雇用状況の悪化だけをことさら取り立てて問題にすることには慎重でなければならない。
    (62p)


     ぼくには何十年も前から、女性の雇用悪化だけがことさら取り立てて問題にされ続け、対策が取られている気がするけれど。
     もっとも、評価できることもある。3章の最後には、いまだ男に男らしさが求められている現状で男の子に『男らしさ』より『自分らしさ』だ、と説くことは彼を不利に追い込むことになりかねない、と秀逸な指摘がある(82-83p)」
    乙許斐「な……何! 多賀はジェンダーフリーを否定しているのか!?」
    シンジ「ここは重要な指摘です。ジェンダーフリーという机上の理念が、教育の現場でどこまで通用するかについて、多賀は疑問を呈しているんですから。ここを捉え損ねると、仕事のない弱者男性にただ、『働かなくてもいいじゃないか』と言い捨てるだけの、田中俊之レベル*4にまで落ちてしまいますよ」
    乙許斐「許せぬ! 多賀は男の敵だ!!」
    シンジ「心配する必要はありませんね。この問題は掘り下げられることなく、やはり『自分らしさが大切』みたいなことを言って、ささっと逃げるように章が終わっているんですから。自分にとって都合の悪いことは、目立たぬようちょろちょろっと書いて、ささっと逃げる、というのはフェミニズムの教科書のお約束です」
    振子「じゃ……じゃあ、多賀教授は男の味方じゃないって、あなたは言うの?」
    シンジ「そのことは第4章を見ればわかると思う。ここでは教育現場におけるジェンダー教育の方針について、“ジェンダー保守主義”と“ジェンダー平等主義”、“ジェンダー自由主義”の三つに分類がなされているんだ。
     ぼくが言うまでもなく想像がつくと思うけれども、まずこのジェンダー規範を尊重しようとする“ジェンダー保守主義”については、憲法に認められた男女平等に反すると一刀両断されているんだ(90p)」
    乙許斐「当然だろう、ジェンダー保守派はジェンダーフリーを否定するんだからな」
    シンジ「ジェンダーフリーが男女平等につながるというロジックには賛成できないし、多賀がマネーなどに言及することもなく、ジェンダーは社会的に作られたのだとの前提で論を進めていることも問題だと思うけれど、それはひとまず置きましょう。
     ここでは更に“異質平等論”という概念が提出されることになる。それはつまり、ジェンダー保守派の『男女の性差、性役割を認めた上での平等』、異質だが平等性が保たれているのだ、との論のこと。しかしそれはすぐに、『組織的意思決定権や経済力を得られるのは職業労働を通してなのだから、そちらに立つ男性の方が権力を持っているのだ(大意)』との反論で切って捨てられる(93p)。あくまで男女は全く同じでなければならない、女性は労働市場に身を投じなければならないとの、ドグマを主張し続けるんだ。
     職場ですらよほど偉くなければ我を通せない一介の労働者よりも、『一家の主』である主婦の方が『組織的意思決定権』も『経済力』も持っていると思うけれどもね」
    振子「ちょっと待って。多賀教授は“ジェンダー保守主義”以外に、“ジェンダー平等主義”、“ジェンダー自由主義”という概念を持ち出しているって言ってたけど……それはどういうものなの?」
    シンジ「ここからの多賀の議論は、実に奇妙なものになっていくんだ。まず、“ジェンダー平等主義”と“ジェンダー保守主義”の間には『男は仕事、女は家庭』といった性別役割分業の是非について、ある種の親和性が発生する、と説く。何故なら、上にある“異質平等論”、即ち双方異なりながらも対等である、との論法が可能であるからだ、ってね。しかしそこに、“ジェンダー自由主義”を導入すれば、保守主義の主張はあっさりと退けられてしまう。

    なぜなら、「男は仕事、女は家庭」という規範は、それが対等な分業であろうが不平等な分業であろうが、性別によって個人の選択を規制しているという点ですでに問題だからである。
    (101p)


    乙許斐「なるほど、“ジェンダー自由主義”こそが正義というわけだな」
    シンジ「残念ながら、話しはもう少し複雑なんだ。多賀は“ジェンダー自由主義”は“自由”であるが故に伝統的ジェンダーロールを選択する自由をも認めねばならない、そこにジレンマがある、とするんだ」
    乙許斐「……???」
    振子「それは当たり前よね。例えばだけれど、女の子に自由にランドセルの色を選ばせたら、みな赤い色を選んだ……なんてことになったら、ジェンダーフリーに反して、大問題だもの!」
    乙許斐「あ……そ、そうそう、そうだ! 確かにそんなのは憂慮すべき事態だ!!」
    シンジ「ふたりとも全く、多賀そっくりですね……。

     しかし、自由を別の方向に求めたとたんに、ジェンダー自由主義の視点は、意外にもジェンダー保守主義を支える立場へと姿を変えることになる。
    (105p)


     多賀はこんな悔しげな声を漏らし(本当に女性ジェンダーが女性に強制された不当なものであれば、そんなことになるはずがないと思うのだけれども)、そしてやむなしと言わんばかりに、ここでワイルドーカードを切ることになる」
    乙許斐「ワイルドカード、だと……?」
    シンジ「そう、“見えないカリキュラム”によって、今まで子供のジェンダー観は操作されていたのだ、と言い出すんです」
    乙許斐「その“見えないカリキュラム”というのは?」
    シンジ「国語科で採り上げられる作者や歴史で採り上げられる人物に圧倒的に男性が多いとかいう、言ったってしょうがない問題についてです。他はおなじみの女子だけが家庭科を習うことがどうの、名簿の男女別がどうのという話。もっともそれらも現在は相当に“改善”されているはずですけどね。
     ぼくには“ジェンダー平等主義”だの“ジェンダー自由主義”だのは言葉の遊びにしか見えないけど、問題なのはそうした言葉の遊びがただひたすら、“ジェンダー保守主義”とやらを切り捨てるためになされていること。ためにする議論としか、言いようがないことだよ。
     こうした彼らの“見えないカリキュラム”という見えないものに対する敵愾心が、ジェンダーフリー教育という莫大な血税を必要とする“見えるカリキュラム”を生んだんだ。そんな空理空論を続けた挙げ句、第5章ではついに学校でのジェンダーフリー授業の様子が描かれる。しかしここで、(先にも多少、言及のあった)机上論と現場との齟齬がいよいよ明らかになっていくんだ。
     具体的にはまさにさっき、振子さんが言ったことと同じだよ。ここでは『ぼくたちがこんなにジェンフリ教育をガンバってるのに、生徒たちは相変わらず男は黒、女は赤を選ぶ』と苦渋に満ちた記述が続く。
     読んでいて、あまりに馬鹿らしくも気の毒で、苦笑を漏らしてしまう箇所だ。もっとも、こんな偏向した教師の珍奇な試みにつきあわされる子供のことを考えた時、笑っていていいのかは疑問だけれどもね」
    乙許斐「それのどこが悪い! 男性差別解消のためにはやむないコストだ!」
    シンジ「以下のような記述を見ても、そう思うんですか?

     児童を社会化される存在としてとらえる立場に立てば、多くの児童は、小学生の時点ですでにある程度の「伝統的ジェンダー規範」を身につけており、それに沿った好みを形成していると考えられる。たとえば、先の三年生のあるクラスでは、黒いランドセルを使っている男子が、黒を買った理由として「赤より黒が好き」と答えていた。したがって、たとえ学校環境が完全にジェンダーに中立的であったとしても、児童たちが「伝統的ジェンダー規範」に沿って形成されている好みに従って「自分らしい」選択を行えば、それは結果的に「性別にとらわれた」選択と変わりがなくなってしまう。
     もちろん、L小学校では、こうした結果を「個性尊重」として放置しているわけではない。そうした「自分らしい」選択の背後にひそむ「性別へのとらわれ」に気づかせ、より「自分らしい」選択ができるよう児童に働きかけている。
    (125p)


     こんな狂ったジェンダーフリーを、乙許斐さんは肯定するんですか?
     きっと彼らは男の子が赤いランドセルを選ぶまで、山小屋で『自己批判しろ!』と絶叫を続けた人々同様、糾弾会を続けるんでしょうね」
    乙許斐「……………」
    シンジ「一応、補足しておけば、読み進めると、男の子が黒いランドセルを選んだ選択を『本当の好みなのかジェンダー規範に則ったものか証明のしようがない』と一応、悩む素振りは見せている。さすがに、赤いランドセルを選べと無理強いまではできないしね。もっとも、フェミニズムによれば『セックスよりもジェンダーが先行する』はずなのに、その『ジェンダーに先行する、真の好み』というものがあるのだ、という多賀の前提が、ぼくには全く理解できないのだけれど」
    振子「そ……それのどこが悪いって言うの!? ジェンダーフリー社会を現出させるためには、耐えねばならない痛みよ!!」
    シンジ「男の子が黒いランドセルを選ぶことすらも延々と問題視する社会が、そんなにも理想的なものなの? そんな世界では男の子がヒーローに憧れることも、オタクが萌えアニメにはまることも、全てジェンダー規範に則った悪しき行動として、糾弾されることになるだろうね。それが、男性解放なの?
    乙許斐「……………」
    シンジ「もう一つ、補足しておこう。第6章では男女共学について延々と語られる。その中の「弱者支援としての別学」という節では、男性性に欠ける、いわゆる落ち零れの生徒たちへの指導が紹介されているんだ。彼らは一般的には女性的とされる職のスキルを学んでいる存在なのだけれども、そんな彼らに対し、『男なんだからしっかりしろ』といった男性性をくすぐる、男としてのプライドを尊重する指導が行われることもあるという」
    乙許斐「許せん! 男性に対し、『男らしくしろ!』と言うなど、許し難い男性差別だ!!」
    シンジ「多賀はこれについて、『現場でのやむない処置だ』と留保つきで肯定しているんだ。何だか、売買春を全否定していた者が障害者のためのソープという存在を知り、とたんにそこだけ賞賛してみせるような気持ち悪さ、卑しさを感じるけれども、同時にここは、多賀が一応の現実的なバランス感覚を持っていることの現れであるとも思う。
     教育現場では、彼らの妄念と現実とが、日夜火花を散らしているのだろうと思うと、ゾッとする話だけれどもね……」
    乙許斐「……つまり、どういうことだ!?」
    シンジ「ジェンダーフリーという机上の論理を現場で押しつけようとして、彼らは自縄自縛に陥っている、っていうことです。多賀が『多くの児童は、小学生の時点ですでにある程度の「伝統的ジェンダー規範」を身につけており』と言い立てているのが象徴的で、普通に考えれば未就学児童の段階から男の子は仮面ライダーなどのヒーローを、女の子はプリキュアなどのヒロインに憧れるのは自明であって*5、彼らのヴァーチャルなロジックをそこに押しつけるのは、洗脳以外の何物でもないんですよ!」
    乙許斐「バカな……そんなバカなことがあるものか!!」
    振子「まぁまぁ、まずは方郎が落ち着いてよ」
     ――振子が、何十本ものペットボトルを持って来て、一同に勧めた。
    乙許斐「すまない」
     乙許斐は何気なくその中の一本を手に取り――。
    乙許斐「―――――ッッ!?」
     ――乙許斐、死亡。
    シンジ「こ……これは……!?」
    振子「あらら~? 赤い午後の紅茶もあったのに、緑のお~いお茶なんか選んじゃったのね……」
    シンジ「そんなカップ麺みたいな言い方しなくても……そうか、乙許斐さんのNG行動は『ジェンダー規範に則った色を選ぶ』だったんだ!!」
    ???「ひゃ~~~っはっはっはっはっはっはっはっは!!」
    シンジ「フェミクマ!?」
    フェミクマ「おわかりになったようですなあ、怒君? 今まで出落ちキャラとして死んでいったキャラたちもみな、ジェンダー規範に乗っ取った行動を取ってしまったがため、NGに抵触してしまったのです」
    シンジ「何て卑劣な!!」
    フェミクマ「ひゃっほう!!」

     フェミクマは一人、はしゃいでいる。
     フェミニズムと言う名の単なる洗脳により全世界を壊滅させ、まだなお飽きたらずに男性機関すらをも崩壊させんとして。
     ぼくたちは……「希望編」での力技な逆転劇に希望を託すしかなかった……。

    *1 詳しくは「重ねて、ラディカル/リベラルフェミニスト問題について」を参照。
    *2 「男がつらいよ
    *3 以前、えりちかさんが本書を紹介して、

    管理職を目指す上昇志向の女性を「名誉男性」呼ばわりしているくだりを読んだときは一驚しました。

    とおっしゃっていたのですが、それはこの部分を指すようです。
    *4 「男が働かない、いいじゃないか!
    *5 この種の話題に差しかかると、オタクでリベラル寄りの御仁が、嬉しげに「戦隊シリーズの影響で近年は」みたいなこと言い出すのですが、(何故そんなことを言いたいのか、さっぱりわからないんですが)、あまり意味がありません。
     単に学校では赤との対象で黒、ないし青が男の色と認識され、戦隊では赤やその他が男の色と認識されているというだけのことです。
     その意味で男の子たちが黒を選ぶ時も、赤を選ぶ時も、そこに付随する「男性性」という属性をもって選んでいるのだとすら言えましょう(これは女の子も同様です)。
     だから仮に学校のランドセルなどに赤、ピンクの二色しかなかったとしたら、男女で赤/ピンクときれいに別れることでしょう。

  • 秋だ一番! 男性学祭り!!(その1.『非モテの品格』)

    2016-11-13 02:434
    c593a66b6d5e57f8d852baf653ea6c78e2e4834d

     え~と、前回、「秋祭りだよ! 石坂啓」をお送りしましたが、あれは一回を持って終了しました
     今回お届けするのは杉田俊介師匠の著作。
     GUY FAWKES氏に指摘されるまで気づかなかったのですが、少し前、『シン・ゴジラ』を作っちゃいけなかった映画であると称し、Togetterでフルボッコにされた御仁です。要するに「政治家が格好よく描かれているからケチカラン」「巨災対が男ばかりでホモソーシャルだからケチカラン」みたいな(詳しくは忘れたけれど、多分そんな)ことを言っていた御仁ですね*1
     何しろ本書はタイトルが「非モテの品格」なのだからお察しです。
    「品格を持ち、非モテでも女性様に逆らわずに生きていこう、さもなくば死ね」とのポリコレしぐさが炸裂するのだろうな……そう思いながらページをめくると。
     本文の最初のページで、読者は驚くべき記述にぶち当たるのです。
     冒頭でまず、真っ先に、自殺してしまった知人についての述懐がなされます。その知人は妻に浮気された挙げ句、離婚し、発達障害児を抱え、しかもその妻にはカネを無心され続けて、しかしついぞ妻を責めなかったと言います。

     その人が自ら命を絶ったときの、僕の周りの人々の反応――「男のプライドを捨てられたらよかったのに」「あの子だって、お父さんが生きていてくれることを臨んでいただろうにね」。
     僕は、あのときの、はらわたをえぐられるような違和感を、今でも忘れられない。
     そうじゃあないだろう。なんで、自ら命を絶ったときにまで、「男であること」を責められなきゃいけないんだ。
    (中略)
     悔しかった。
     やりきれなかった。
    (8-9p)

     上の文章での師匠の憤りを、ぼくは全面的に支持します。
     分けても、「男のプライドを捨てられたらよかったのに」という声が「男性性を責める言葉であり、残忍なものだ」とする認識は重要です。それって例えばですが、着物姿でノーパンの女性が火災から逃れようとする時、裾が捲れ上がるのを恥じらって転落死してしまった*2のを「女のプライドを捨てればよかったのに」と言っているようなものですよね。もちろん、一般論としてプライドを捨ててでも生きる道を選ぶことが望ましいとは、両ケース共に思いはするものの。
     男を女より上位にいるものであると思考停止し、そのネガティビティについては「既得権益を捨てないから反面給付としてついて回っているだけだ、ざまあみろ」と切り捨てるのがこれまでの「男性学」でした。しかし杉田師匠は「プライドで自己を守らざるを得ない」ほどに追い詰められている男性ジェンダーの行き詰まりに疑問の萌芽を感じた、女災理論へと一歩近づくことのできた人物なのです。
     何しろ師匠は

     悔しかった。
     やりきれなかった。

     とわざわざ改行を繰り返しています。
     これは枚数を稼いで原稿料を多く取ろうという計算などでは断じてなく、彼の中の憤りを表現したいがためのものであるのです。
     読み進めると、本書には自身の子供が男の子でなければいい、男の子に産むなんて申し訳ない、とまで語る箇所があります。

     男なんてかわいそうだ、自分みたいに鬱屈し、悶々とする人生を送るなんて、気の毒だ。くだらない能力や権威の競いあいや、男としての自尊心に苦しめられるに違いない。どうしてもそうとしか思えなかった。
    (p45)

     このページの次には近しい述懐がなされる福満しげゆき氏の漫画が引用され、いかに男性のミサンドリーが激しいかを強調します。
     福満氏のイラストはカバーにも登場しますが、これは田中俊之師匠の手法を真似た、漫画家の人気にあやかろうという計算などでは断じてなく、彼の中の悲しみを表現したいがためのものであるのです。
     いずれにせよ自身のミサンドリーを自覚し、内省する「男性学」者を、ぼくは初めて見ました。
    「ルサンチマンは疚しい良心である」とのニーチェの説を引用し、男女平等を唱える男性にこそ女性にモテないルサンチマンが潜んでいる(マッチョな男性という悪者をやっつけたいという情念に取り憑かれている)と指摘するのも秀逸です(112p)。今までもしつこくご紹介してきた「男性学」者の、例えば田中俊之師匠の著作から滲み出てくるのは、自分以外の男性への昏くおぞましい憎悪ばかりでしたから。

    *1「 『シン・ゴジラ』は一番作っちゃいけない作品だったのでは
    *2 白木屋の大火災。今では都市伝説とされることが多いのですが、ネットでぱらぱら見た限り、「転落死した女性はいない」「転落死した女性はいたが恥じらい故かは疑問」と根本的なところですら説が分かれており、本当のところがどうだったのかよくわかりません。

     ――ただし。
     最初の引用に(中略)とありますが、実はそこには以下のような文章が挿入されています。

    その人たちの見かけは優しい同情は、たとえば、男に逃げられ経済状況から中絶を選んだ女の子に対して、「何も子どもを殺すことはなかったよね」と外野から同情するような振る舞いと、何が違うのだろうか。
    (9p)

     う~ん、それって最初の男性の件と比較する例としては、どうなんでしょう。
     まず、現行では中絶そのものが法的に認められ、現実にバンバン行われているのですから、ぼくは上の女の子を責める気にはなれません。
     しかし、それと先の男性の例とでは全然違うでしょう。
     子供が障害を負っていることはまあ、男女差とは関わらない部分なので見逃してあげましょう。
     ですが、妻が男と逃げ、しかもそのクセに金を無心に来るという状況を男女逆転してみたら、当然、男の方が何倍も苛烈なバッシングを受けるはずで、それを考えてみれば、男の窮状は伺い知れるはずです。
     しかし何と言っても、一番違うのは師匠がまさに指摘しているように、「男のプライドを捨てられたらよかったのに」という声の残忍さ、「男であること」を責められることの理不尽さでしょう。女性はそんな風には言われないのですから。繰り返しますが、現状の男性の立場は、女性が恥じらいで焼け死んだのをバカにされるのと、同じような状況にあると言えるわけです。
     い……いえ、そうは言っても師匠は男性性のネガティビティに目を向けようという、希有な視点をお持ちの方です。気を取り直して続きを読むことにしましょう。

     男たちには、たくさんの社会的な既得権がある、無数の上げ底がある。ごちゃごちゃ言い訳するのではなく、そのことを、しっかりと自覚して欲しい。加害者である自分たちの精神と生活習慣を変えてほしい。優しく葛藤するふりや自己反省のポーズなんて、もういらない。
    (18p)

     れれっ!?
    「優しく葛藤するふり」というのは師匠の振る舞いを指すべき言葉ではないでしょうか。あ、「自己反省のポーズ」を見せている素振りはありませんでしたが……。
     しかしいずれにせよ、こうした言葉を浴びせる必要性があるのは、師匠を含むリベラル男性だけのような気が、ぼくにはします。
     それ以降も師匠は男性の自殺者が女性の二倍であるなどのデータを提示した直後、「日本人男性たちの様々な優位は依然として揺らいでいない。」などと言い出すのですから(32p)、お察しです。
     フェミニズムとは、「男性の生命は女性のそれよりも価値が低い」との前提を導入することで成立している思想ですが、どうやら師匠もまた、その思想の影響を極めて強く受けている人のようです。
     本書には「男性には圧倒的に自身を語る言葉がない」との極めて秀逸な指摘があるのですが、本書自身がそれを身をもって証明し、また「言葉を語ろうとした男性」を殴りにかかるスタイルを取るという、実に奇妙なことになっているのです。
     ぼくは今までも他の「男性学」者の著作を紹介し、「評価できる主張もしているのに、その主張とフェミニズムとが絶望的な齟齬を来していることに、彼らが気づかない理由がさっぱりわからない」といった評をしてきたかと思いますが、そうした「男性学」者の中でも、杉田師匠はその分裂が一番著しい方ではないでしょうか。
     上にあるようにミサンドリーに疑問を突きつけながら、別のページではフェミニストたちの口調そのままに男性を絶対悪と規定し、男性を憎悪し、男性に男性性を捨てよと迫っているのですから、何が何やらさっぱりわかりません。
     何だか、キカイダー*3が五分ごとにギルの笛の音が聞こえたり聞こえなくなったりで、正義になったり悪になったりを繰り返すコントでも見ている気分にさせられます
     以降も赤木智弘氏の「弱者男性は弱者女性より弱い(大意)」という指摘を「ミソジニー」の一言で切って捨て、よりにもよって「男の方が正社員が多い、男が優位だ(大意)」などと続ける無能無策ぶり(73p-)。赤木氏の主張は「専業主夫になれる男の数は限られている」というものなのだから、噛みあってないどころの話ではありません。
     こうした「あるものが見えず、ないものが見える」のはフェミニスト(やリベラル)共通の特徴です。前回もそれを戯画化して描いてみましたし、実例を何度もお伝えしているかと思いますし、実際にそうした場に立ち会い、唖然となさった方も多いのではないでしょうか。
     それ以降もDVは男らしさにこだわるが故の病とか、もう耳にタコができたどうでもいい話のオンパレード。
     ところがページをめくると何だかナルシーな述懐と共に、「自分がモテなくて辛いと零すとたちまち『女性に身勝手な要求をしているからだ』『男性権力だ』『ミソジニーだ』などと叩かれてしまう(大意)」などと平然と言い出すのだから、びっくりです(114p)。
    「あるものが見えず、ないものが見える」ために、ブーメランに気づくことが、一生ない。
     他者に対しては男性の優位性について説き、反省しろと高圧的に繰り返しながら、師匠は返す刀の峰で、自分の辛い辛い半生についておセンチな述懐を重ねます。この種の「男性学」者は「カムアウトはよいこと」という信念をお持ちで(今まで男性は感情を顕わにしてこなかった、というリクツが前提されており)、自らのルサンチマンを自己憐憫に満ちた筆致でお書きになるのが常です。田中師匠の著作にも、そういう箇所がありましたよね*4
     師匠も男性に必要なのは自分の殻に閉じこもる「内省」ではなく「開かれた問い直し」だとして(p123)、まあ、何か、自分のルサンチマンとかコンプレックスとかを実に饒舌に語り続けます。
     しかしその結果、出てくる結論は「男らしくない男である自分を受け容れよ(大意)」といった、観念的でふわっとした精神論(134p)。
     そう言われたところで、受け容れたら仕事に就けるわけでも、彼女ができるわけでもないのは自明のことです。黒屋ぶるー氏が

    弱者は男性性から降りれば救われる、みたいな事は言ってたが、その「救い」ってのが「家庭を作らず女を欲しがらず独りで生きていけ」という、出家して俗世から離れるのと大差ないものでしかなく、最早宗教の管轄であって社会運動、政治運動の存在価値を自ら否定するものだったんだからもうね…

     と言っていましたが*5、本件もそれが完全に当てはまります。
     杉田師匠はご高説賜っているワリに嫁も子供もいらっしゃるのですが、本書もやはり、フレンチとウナギを食いながらの低成長礼賛にしか、ぼくには見えません。
     また、ここでは引きこもりが負け組であるが故にかえってプライドから一発逆転を狙ってしまう転倒について書かれており、それはまさにその通りなのですが、そんなの、高齢未婚女性もいっしょのはずで、要するにプライドなんて男も女も持っているものであり、「マチズモに囚われた愚かな男」だけが一方的に存在しているわけでは全くない、そこが師匠にはおわかりにならないのです。
     左派の地に足のつかない空論は、時に「人権ポエム」といった揶揄をされますが、本書の妙に情緒的な記述もまたそれに近く、第二章の補論辺りになると、とうとうホンモノのポエムと化してしまいます。

     誰からも構われないからこそ、誰からも愛されずに孤独だからこそ、誇り高く生きていく。気高く生きていく。
     誰も傷つけずに。優しく。
     不要な自己卑下もせずに。
     自分の体も大切にして。
     どうか、君自身を嫌悪したり、自信を失ったり、自らを傷つけたり、殺したりすることがないように。
     いつか、ゆっくりと、この世界は変わっていくはずだ、もっとずっと優しくなっていくはずだ、と信じて。
    (151p)

     僕はそれを祈っている。
     その日は来る。きっと来る。
     そんなふうに祈っている。
    (152p)

     本当に、比喩でも揶揄でも何でもなく単なるポエムです。
     結局、杉田師匠は「フェミニズムは正義」と脳に刷り込みを受けてしまい、その後で我に目覚めてしまったがため、一歩も動けなくなってしまった人なのです。
     先のキカイダーの比喩に立ち戻れば、師匠はものすごいポンコツな良心回路しか与えられなかったロボット、なのです(漫画版のゴールデンバットがそうしたキャラですが、このゴールデンバットがそれ故にか、実に饒舌に詭弁を弄して自らの行動を正当化する自己愛的なインテリキャラだったのは何だか示唆的です)。
     それは恐竜の化石を見つけて「神様が動物を作った時の失敗作だ」と言っている中世の人のようでもありますし、溶鉱炉を親だと刷り込まれ(そんなことが可能かは知りませんが)、溶けた鉄の中に自ら飛び込んでいく雛のようでもあります。
     なるほど師匠にしてみれば、確かに進退窮まって「祈」る以外のことをやりようがないなあ、としか言いようがありません。できれば祈りだけにして、新書など出さずに済ませていただければ、世に害毒を流すことも少なかったかと思うのですが……。

    *3 悪の組織「ダーク」にさらわれ、破壊工作用アンドロイドを作らされていた光明寺博士がダークを倒すため、「良心回路」を内蔵して製作した正義のロボット。ただし、ダークの首領、プロフェッサーギルが超音波笛で指令を発すると、笛の音と良心回路の相矛盾する命令に葛藤し、悩み苦しみます。
    *4 『〈40男〉はなぜ嫌われるか
    *5 (https://twitter.com/kuroya_blue/status/796367472270176256)

     さて、ポエムを吟じてご機嫌になったしかる後には、第三章「男のケアと子育てについて」が控えています。
     この最終章は(介護職をやっていた自身の経験から)何か、介護の現場でこそ「新しい男性性」の構築が可能ではないかとか言いながら、どうでもいい話がダラダラ続きます。自閉症の青年がドングリをくれて、彼がドングリを貨幣だと思っているらしいの何のという話とか。何かと思えばどうも障害者に教えられた、的な話がしたいご様子なのですが、何を教えられたのかが、ぼくの頭が悪いのか、どうにも伝わってきません。
     他にも若く、中性的な外見をした重度障害者の男性と添い寝してドキドキしたの、赤ん坊である息子に乳首を吸われてドキドキしたのと繰り返し、どうも性の揺らぎみたいなことが言いたいご様子なのですが、ぼくのポリコレセンスが低いのか、「そうですか」以上の感想がありません。
     後は「自分の子供の存在が自分の頑張るエナジーだ」とか何とか、そんな話。どうでもいいけどそれ、昭和のお父さんに一番言われてるから。
     見ていてこの三章はそれまでと全然噛みあっていません。こうした本はあちこちの雑誌で書き散らした記事を強引にまとめて作られることがあり、その弊害が現れたとも取れますが、ぼくの目からは師匠が(ミサンドリーという問題点に着目したところまでは立派だったものの)結局は男性問題に対して何ら語る言葉を持っていないことを露呈させてしまったことの証明のように、見えてしまいます。
     上の「障害者に教えられた」的な話、正直退屈極まりないですが、左派の中には障害者を「我々の上位に位置する者」と信じきっている人々がおり、これはジェンダー論者がホモを崇拝する心理と、実は一切変わるところがありません。
     そしてこれはまた、ぼくが「サブカル君は他者志向だ」と指摘した*6ことと「完全に一致」していることが、ここまで見てくるとおわかりになるのではないでしょうか。
     そうそう、サブカル君たちもまた、都合のいい時は「俺たちもオタクだ」と称し、「オタクは左派だ」と主張しながら、しかしその数分後にはオタクを蔑み、「オタクはネトウヨだ」と言い出す、「あるものが見えず、ないものが見える」というリベラル回路の持ち主でした。
     男性の他者志向性、自己疎外性に気づいた杉田師匠。
     そしてまた、見ている限り、確かに師匠の筆致からは、(他の「男性学」者と異なり)男性への憎悪はあまり感じ取れません。こうした師匠のスタンスは(本書でも名前の出る)森岡正博師匠に近く、まあ、田中師匠よりはマシだとは、思います。
     しかし杉田師匠の「リベラル回路」にインプットされた「ポリコレしぐさ」は彼の中に生まれた疑問を突きつめることを許さない。結果、「何か、障害者を適当に称揚して、お茶を濁した(他者志向に逃げた)」ように、ぼくには思われました。
     それは丁度、ギルの笛の音に負けてしまったキカイダーのように。
     実はキカイダーもギルの笛の音と良心回路に葛藤し、ついには笛の音に負けて光明寺博士を襲ってしまう、というお話がありました。キカイダーはその後、「自責の念」に駆られ、何と「失語」してしまう(!)のです。
     が、師匠の場合はそれとは裏腹に、超絶キモポエムを書くという大技が繰り出されました*7
     そのポエムが、男性の苦しみを増幅させるということには、気づくことができないままに。
     最後に師匠の、冒頭の自殺者に捧げられたポエムを引用してみましょう。

     もちろん、死者はもう語らない。何一つ。
     シングルファーザーのあの人の本心は、誰にもわからない。
    (34p)

     もちろん、この人の本心はぼくにもわかりませんが、少しでもホンネを吐露すれば「女性に身勝手な要求をしているからだ」「男性権力だ」「ミソジニーだ」などと言い出す杉田師匠には、間違っても弱音など吐けなかっただろうな、ということだけはわかります。
     そして、死者が語らぬのをいいことに、今日も男性学の研究家たちは自殺者の屍肉を食らって肥え太り、新書を書き飛ばして小銭を稼ぎ続けています。

    *6 「サブカルがまたオタクを攻撃してきた件  ――その2 オタク差別、男性差別許すまじ! でも…?
    *7 実は上の「失語」という言葉は本書で何度も繰り返されます。「男たちよ、悩め」とでもいったニュアンスで「失語すべき」などと書かれているのですが、ぼくとしてはむしろ杉田師匠の「饒舌」さに、圧倒されっぱなしでした。


    ■オマケ■

     昨日、本書とパオロ・マッツァリーノの新刊が届いたのでそれを手にぶらぶらと町をぶらつきつつ、一日で二冊を読了し、地獄のような気分に陥ったまま今回のレビューをしたためました。
     パオロ氏については左派寄りではあるものの、ずっと好きな作家さんだったのですが、正直3.11以降、「ちょっと……」という感じになり、大変残念なのですが今回の新刊で「取り返しのつかないこと」になっておりました。
     オマケ程度にそちらのレビューも……と思っていたのですが力尽きたので、今回はパスしますが、どうもトランプ以後の世界では、彼も「軽やかなトリックスター」から単なる「顔真っ赤おじさん」と化しそうで、何だか切ないものがあります。