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お正月だよ!男性学祭り(その4:『新編 日本のフェミニズム12 男性学』
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お正月だよ!男性学祭り(その4:『新編 日本のフェミニズム12 男性学』

2023-02-03 19:20
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     さて、もう二月にもなってしまいましたが、続きなのでまだお正月と言い張ったまま、続けます。
     今回は前回の再録の続きで、2015年8月21日にうpしたもの
     それと動画と『WiLL Online』様でColabo問題について語っています。
     未見の方は、どうぞよろしく!



     前回は『日本のフェミニズム別冊 男性学』を採り上げましたが、同書は2009年に改訂版が出ているのです。というわけで、今回はそちらの方を簡単に採り挙げてみたいと思います。

     ページをめくると旧版にあった上野千鶴子師匠による端書き「「オヤジ」になりたくないキミのためのメンズ・リブのすすめ」が削られ、伊藤公雄師匠の「男性学・男性性研究の現在・過去・未来」に差し替えられています。男性学の流れを概観し、本書に収められたそれぞれの論文を軽く批評するという体裁は上野師匠のものと同じなのですが……何故差し替えになったのでしょう?
     あの過労死者を嘲笑する上野師匠の低劣な文章が問題になったから?
     何だかマネーの理論のウソがバレた時、それまでマネーを金科玉条のごとく振り回していたフェミニストが手のひらを返したのに憤り、近所の女性センターの資料室に行って「女性学事典」の類を見てみると軒並み改訂版に変わっていて、マネーを肯定する文書がほとんど見つからなかった時のような驚きに駆られます。
     あ、いやいやいやいやいや!
     何せ十五年ぶりの改訂版です。男性学の世界にも動きがあったはずです*1。端書きが差し替えられるのは当然のことですよね。
     実際、意外に増補部分が多いく、ボリューム的には1.5倍くらい増量してるんじゃないかなあ。そんな増補された論文の一つが多賀太師匠「「男」をどう見るか」です。
     師匠はぼくがいつも名を挙げる男性学の始祖、渡辺恒夫教授について言及しつつ、

     その後、彼の主張は、男女間の権力関係や社会的不平等に対する目配りが足りないとして、フェミニストからは批判された。
    (261p)


     としています(伊藤師匠も「権力問題から意識的に距離をとった渡辺さん」と繰り返しています)。
     要は「男が権力を有してきた事実から目をそらしていて許せぬ」と言いたいのですが、足りないも何も、女性が「美」という、そして「生命の安全」というものを独占している不平等を指摘し、それらもまた権力であることを指摘したのが渡辺教授だったのですが、こうしてみると「男性学」とはフェミニズムに逆らう者を絶対に許さない思想であるようです。
     師匠の主張は

     このように、フェミニストが「家父長制」(patriarchy)と呼んできた男性支配の社会構造は、少なくとも現代の多くの先進産業社会においては、すべての男性がすべての女性を同じように支配するという単純な構造なのではなく、特定のタイプの男性性が、女性性と他のタイプの男性性を従属させることによって、全体としての男性による女性支配を正当化するという構図なのである。
    (268p)


     と続きます。ざっくりまとめると「男性にもいろいろいるでヤンス」「だから男性同士にも支配/被支配の関係があるでヤンス」と言っているわけです。
     いえ、賛成できる考え方なのですが、それって「ジェンダーは人類最大の支配装置」というフェミニズムの根本から逸脱する異端思想なのでは……?
     師匠は更に

     同時に、ヘゲモニックな位置から疎外された男性と女性が、ヘゲモニックな男性性の定義に対する抵抗運動を通じて、そうした支配体制を変革できる可能性も残されている。
    (269p)


     と言います。「だから弱者男性はフェミニズムに帰依することで救われるでヤンス」というわけです。
     何というか……読んでいてイヤ~な気分に陥りました。
     旧版のレビューで、ぼくは「男性学」者はフェミニズムに媚びる「心のオカマ」「ゆう君ちゃん」である、と指摘しました。ここで多賀師匠がしているのは「弱者男性」という符牒を持つ自分たちは「名誉女性」としてオカマと同様の待遇が受けられるのではないか、との切ない期待です
     オタクの中の意識の高い方々にも時々、似た物言いをされる方がいます。彼らは「萌えフォビア」などという造語を持ち出し、自分たちをホモに並ぶ存在にしようと頑張っていらっしゃいます。
     ぼくは「やめとけやめとけ」と思います。それは格好が悪い上に、仮に「女性軍」に入れてもらえたとしても恐らく一軍に入るまでに十年くらいパシリをやらされ、その十年の間にフェミニズムはもうどうしようもないくらいに失墜しているのではないか……との予感がするからです。ぼくたちが女性軍に入れてもらうためのデメリットと、そうしてもらうことで得られるメリットを斟酌して、どれくらい利があるかというと……。
     結局、彼らに賛同できない理由は二つあります(いや、いつも言ってることでもう繰り返すのも面倒なんですが)。
     一つは「リクツはともかく、フェミニストたちは男性への憎悪が具現化したような存在であり、彼らの夢の中にだけ存在する女神のような清く気高く、凛々しくしなやかな聖者としてのフェミニストの存在を前提とした物言いが、どうしても理解の範囲を超えていること」。
     もう一つは、彼らが頑なに渡辺教授を否定し続け、フェミニズムの微調整でことを済ませようとしていることからもわかる通り(いや、それで既に崩壊してしまうほどにフェミニズムは危ういロジックであるのは上に書いた通りですが)、結局は「強者男性」をラスボスであると言い立て続けていることです。
     渡辺教授が指摘した「美の権力性」、ぼくの指摘した「女性性の加害者性」から頑迷に目を背け、「でも強者男性が」と言い続ける限り、男性学は「フェミニズムという泥舟に更にもう一つの穴を開けたもの」以上のものにはなり得ません。

    *1 フェミニズム自体に動きがないのに男性学に動きがあるはずないだろう、などというツッコミはシリーズ全体を否定することになるので、御法度です。

     更に読み進めると沼崎一郎師匠「殺す男たち」という論文に行き当たります。この沼崎師匠は「膣内射精は暴力だ」などと正気の沙汰とは思えないことを真顔で主張している御仁*2なのですが(フェミニズムにとっては「定説」ですが)、本論は当時まだ記憶に新しかった秋葉原テロ事件を持ち出し、「男はマッチョだ(大意)」と言うだけという、驚くべき無内容なもの。

     恥をかいてもいいじゃないか。誰もバカになんかしていないよ。そういう「ゆるーい」社会になれば、男も「沽券」なんかにこだわらなくなるはずだと思うのだが……。
    (306p)


     フェミニストの、自分たちの政治的立場を守るためには小学生男児へのレイプをも擁護し、相手に恫喝とデマの流布の限りを繰り返す、誰よりも強い攻撃性をスルーして、こういうことが言える人の感性が、ぼくには理解できません。
     凶悪な犯行に及んだ犯人を許すことはできないものの、そこに至るまでに追い詰められたこと自体には理解を示すべきだと思うのですが、沼崎師匠にかかっては「許せぬ」とばっさりです。結局、フェミニストも「男性学」者も、に弱者男性を救う気など毛頭ないのだとの宣言に、ぼくには読めてしまいます。

    *2 草食系男子と性暴力

     さて、こうなると「「オヤジ」になりたくないキミのためのメンズ・リブのすすめ」が削られた理由も見えてくるのではないでしょうか。
    「男性学」は「オヤジにならなかった」者を自軍へ取り込むための、フェミニズムの生き残り戦略の一環である。多賀師匠の論文に書かれているのは、要するにそれです。
     しかし「秋葉テロ事件」という「時事ネタ」を持ち出した瞬間、沼崎師匠はフェミニズムの底の浅さを露呈させてしまった。
     それは旧版のレビューで申し上げたこととパラレルです。
     ぼくたちは「オヤジ」にならずに「オタク」になった。しかしそれに対し、フェミニズムは好意的評価をしない。結局、口先だけの空論だとバレてしまったわけです。
     前宣伝とは異なり、フェミニズムは弱者男性を救う気はなかった。
     追い詰められ、逆ギレ気味に犯罪に走った秋葉テロ犯を沼崎師匠がそのマチズモ故に断罪しているのと、目下のフェミニズムが「オタクのマチズモ」を必死に必死に、一生懸命に探し出して叩いている様とは、「完全に一致」しています。
     それはまた、古市憲寿師匠の牛丼福祉論、海燕師匠のオタクリア充論、また黒子のバスケ犯への冷酷な舌鋒とも一致していることはもう、指摘するまでもないでしょう。

     実のところ、今回本書を読んで初めて気づいたのですが、伊藤師匠の端書きには「被害者としての男性」を論じる著作も増えてきたとして、小谷野敦博士の『もてない男』に並び、ぼくの著作も採り挙げられています。

     最近は、とうとう兵頭新児さんの『ぼくたちの女災社会』のように、男性を完全に「被害者」の立場におくような議論も出始めている。たぶん、若い世代を軸に、こうしたトレンドは、今後それなりのひろがりを持つような気がする。
    (19p)


     まさに、無名のライターであるぼくが上の著作を出せたのは、当時の空気が大きかったように思います。
     男性の危機と、それに対するフェミニズムその他のイデオロギーの無力。
     そのたじろぎの中で拙著も本書も、出て来たように思えます。
     そして、伊藤師匠は「今後それなりのひろがりを持つような気がする。」とおっしゃってくださっていますし、確かにそうした徴候はちらっとだけあったはずです。
     が、ぼくの活動はここ数年、ちょっとだけ盛り上がってはいますが、それにしても大したことはない。
     一方、フェミニストたちが「男性学」「メンズリブ」などと盛んに口走るようになって来ている。
     こうしてみると今度の「男性学」の流れも、サブカルがしゃしゃり出てきて『エヴァ』がおかしなことになったように、フェミがしゃしゃり出てきて少年への性的虐待が隠蔽されたように、フェミがしゃしゃり出てきて海女さん問題がねじ曲がったように、おかしな方向へ持って行かれ、つぶされるんだろうなとの意を強くしたのでありました。
     終わり。

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