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デコまん
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デコまん

2014-08-08 17:04

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     どうも、お久し振りです。
     随分と当ブロマガを放置し続けてしまいました。
     別に理由はなく、単に仕事が忙しかっただけなのですが。
     ここ二ヶ月近くずっと忙しく、おかげで「ろくでなし子事変」についてもあまり詳しくチェックすることができませんでした。
     が、せっかく彼女の主著『デコまん』も買っちゃったことですし、落ち着いた今、ざっと事態を顧みてみたいと思います。
     ちなみにこの『デコまん』の概要だけをざっと知りたい方は、真ん中の「――さて、随分と話が前後してしまいましたが、ようやっと『デコまん』です。」以降から読んでいただければいいかと存じます。

     ――さて、本件において一番問題になったのはろくでなし師匠が北原みのり師匠のお仲間であった、ということでしょうか。
     北原師匠の問題点については、ぼくも今まで繰り返し述べてきました*。
     が、それに加え(フェミニスト擁護派にとっては)タイミングの悪いことに、彼女はつい最近もいわゆる「ロリ系」の表現、それも漫画やゲームなど二次元の表現に対しても規制をよしとするような論調の記事を執筆していたのです。
     その直後に件の事件があったがため、オタク側からはブーメランだと嘲笑されることになったわけですね。
     一方、表現の自由を旗頭に掲げると共にフェミニストにもゴマをすらなければならないオタク界のトップたちは進退窮まり、ろくでなし師匠の味方をし(山口貴士弁護士はカンパを募り、師匠を釈放するよう働きかけていました)、一方ではオタクに向けて苦しい言い訳をしていた――まあ、本件のポイントを押さえるとすれば、そんなところになるかと思います。
     一体、こうしたリベラルたちのフェミストへの信仰心は、何に根ざしたものなのでしょうか。
     例えば少し前にご紹介した『男性権力の神話』。
     あれの訳者が「ファレルの功績にはフェミニズム活動の経験が役立っている」「フェミニストは男性差別の解消にも協力してくれる」などと、自分の訳した本を1ページでも読んでいれば口が裂けても出て来ないようなことを平然と口にしているのを見て、唖然とした人も多いでしょう。
     後藤和智もまた、レビューと称して「本書は女性よりも男性のほうが差別されていると主張しているものではない」などとデマを撒き散らしておりました。
     彼らがもしフェミニストの味方を持って任ずるのであれば、万難を排してもファレルを暗殺すべきだと思うのですが。
     恐らく彼らはウソをついている自覚はなく、天然なのでしょう。彼らの脳内がどうなっているのか、考えれば考えるほど、こちらの頭がおかしくなりそうになります。
     そしてまた、実は「ろくでなし子事変」においても、これらに非常に近い事態を、ぼくは何度も目撃することになりました。
     つまり、「表現の自由クラスタ」たちの言動です。
     例えば『マンガはなぜ規制されるのか』の著書である長岡義幸師匠はツイッターで「フェミニスト団体である行動する女たちの会は、かつて有害コミック騒動の時もオタク側と連帯し、国家による規制は望ましくないとの意見で一致した」とドヤっていましたが(そしてまた彼女らがそう考えていること自体は恐らく事実かと思いますが)、同団体はテレビCMなどに女性サベツだと因縁をつけては中止に追い込み続けた悪名高い団体です。そんな団体と「連帯」しているぞと誇らしげな人たちが「表現の自由」を守るのだといくら主張したところで、それはキバヤシさんの「人類は滅亡する」発言の一万倍くらい、信頼ができないでしょう。
     しかしそれだけではありません。本件では――というか、ここしばらく度々――「フェミニストは我々の味方だ」といったデマを拡散させ、ぼくに対しては半狂乱で罵詈雑言を並べ立てている人物が、別の場ではフェミニストに噛みついている、といった場面を度々目にしたのです。
     その時になされるフェミニズム批判はなかなか筋が通っていることも多く、彼らは自分たちの矛盾を脳内でどのように整理しているのか、その度にこちらの頭がおかしくなりそうになりました。
     以上のような、フェミニストたちに(想像するに、複雑な愛憎半ばの感情を抱き)辛辣に反論しているにもかかわらず、「外部」の者がフェミを責めるととたんにヒステリックにその相手を攻撃し出す人々のことを、ぼくは「フェミニストストーカー」、略して「フェミスト君」と呼びたいと思います。
     本稿のテーマはこうした「フェミスト君」のメンタリティを探ろう、というところにあります(すんません、『デコまん』については後半まで待って下さい)。

    *女ぎらい――ニッポンのミソジニー
    女ぎらい――ニッポンのミソジニー(その2)
    ぼくと彼女の有意義な会話――北原みのりさんとの往復ツゥイート
    アンアンのセックスできれいになれた?
    秋だ一番北原みのり祭!!


     彼らフェミスト君の多くはリベラル派です。上の『男性権力――』の訳者もファレルの功績に対し「リベラルであったからこそ成し得た」「フェミニストに反発する保守派と一八〇度立場が違う」などと繰り返していました。ファレルがフェミニスト出身なのは事実ですが、フェミニズムをここまで批判した著作に対して、訳した当人が一字一句たりと理解が及んでいないというのはいささか衝撃的です。
     恐らくですが(もう確認するのも面倒なので想像で書きますが)ぼくは今までもフェミスト君たちについて、幾度も言及してきたはずです。
     その時のぼくの分析は多分、以下の二種に別れていたのではないでしょうか。

     1.フェミスト君たちはフェミニズムに対する信仰心に取り憑かれているがため、ただひたすら「フェミニズムは正義なのだから、ボクちんの気持ちもわかってくれるはずなんだ!!」との素朴な妄想に囚われ、現実が見えていない。

     2.フェミスト君たちは、もうさすがにフェミはダメだと気づいていて、しかし仲間であるがため、かばわざるを得ないだけなのではないか。

     この二つの考えは互いに矛盾していますが、いや、実はこの二つのスタンスがフェミスト君の脳内では融合している、と考えるのがより実態に近いのではないか……という気がします。一方で「ママなんか嫌いだ!」と手足をじたばたさせている子供が他人から「お前の母ちゃんブスだよな」と言われたら「ママの悪口を言うな!!」と言い出すことは想像に難くなく、この二種の感情は彼らの中で矛盾なく同居しているのでしょう。
     目に見えるフェミニストたちの姿は、確かに愚かだ。しかしこの広い世界中にはボクちんのことをわかってくれる運命のフェミニストがいるはず。
    「ラディカルフェミニズム」についての苦しいデマからは、そうした彼らの願望が透けて見えます*。
     その意味でフェミスト君たちの振る舞いは「ポルノを肯定するフェミニスト、即ちリベラルフェミニスト」という非実在の概念を仮想し、「ポルノを否定するフェミニスト、即ちラディカルフェミニスト」へと噛みついている、という一種の脳内恋愛、及びシャドーボクシングであると考えることができます。
     そもそも、フェミニズムがある種の地位を築き上げてしまった以上、近い場にいる彼らにとってはつるむメリットがあるはずです。前にも書いたように目下、リベラル、左派はかなり追いつめられているようですから、自分たちの陣地を守るためにも、フェミという大ネタを逃したくない、という計算もあるのではないでしょうか(いや、フェミを切り捨てた方が大衆に理解されるようになるのではないか、というアドバイスは彼らの耳には入らないようです)。
     フェミニズムが思想的におわコンだと知りつつも、いや、まだ「生き」だと詐称することである種の利益を得る。これはおじいちゃんが死んでいるのに届け出をしないことで利を得るのと、同じシステムなのではないか……と想像できます。
     しかしフェミスト君は、そうした「利得」を冷静に計算しているだけのみならず、やはりフェミニズムの味方をしたい、という情緒的動機をも、同時に持ちあわせているようです。
     というのは、目下、オタク界のトップたちは「オタク文化を守る」と称して運動を続けていますが、実際のところ、彼らはオタクが大嫌いだから、です。
     いや……むろん、ぼくは彼らの一人ひとりを知っているわけではないのですが、彼らの「オタクはネトウヨ」的な罵詈雑言を見る限り、彼らがオタクのことを好きだとは、ぼくにはどうにも思えないのです。東浩紀師匠や宇野常寛師匠がフェミ的なレトリックでオタク文化をdisっていることを、ぼくたちはここで思い出してみるべきでしょう。
     自分を「表現の自由」を守る勇者だともって任じている彼らが、自分が正義の戦いによって守るのがキモオタであるとすると、あまりにもモチベーションが湧かない。
     しかしそこでもし、彼らが守るのがフェミニストであるならば?
    「女性という弱者」との看板を背負った彼女らならば、彼らも心安らかに「マイノリティ憑依」が可能なのではないでしょうか。
     ぶっちゃければ、フェミスト君たちはやはり、(高貴な我々の言うことを聞かぬネトウヨであるところの)オタクなどよりも(つるむことで正義の味方という地位を担保できる)フェミニストの方が好きだ、ということですね。ここでは中川右介師匠が『ドラえもん』よりもフェミニズムが好きであったことを、思い出してもいいかも知れません。
     大衆の心はもうフェミニズムから離反しているのに、メディア側に携わる人間だけは「違う、フェミを批判するのはネトウヨのミソジニストだ、それ以外の人々は我々の仲間であり、彼女らの理解者だ」との妄想から逃れられずにいる、という図式はオタク界に限らず、広く一般的な社会にも見られるところです。

    * この「ラディカル/リベラルフェミニスト」という二元論のウソについては「2012年女災10大ニュース」の第2位を参照。
    ただし、この種の議論の時、彼らが決まって名前を出すストロッセンについては確かに、正々堂々とポルノを擁護しているフェミニストではあるようです(いまだちゃんと調べてないので、これについては保留)。
    しかし、いずれにせよでは日本のフェミニストにストロッセンと同じスタンスを表明している者がいるのかとなると、(彼らのガールフレンドである上野千鶴子師匠、藤本由香里師匠など含め)否としか言いようがないのです。

     ――さて、随分と話が前後してしまいましたが、ようやっと『デコまん』です。
     いや……世間がろくでなし師匠の話題で盛り上がっている渦中に、ついつい買ってしまったのですが、ぶっちゃけると大したことはないです。
     要するに『本当にあった○○な話』系の雑誌に連載された師匠のエッセイ漫画の単行本化。この種の女性漫画家のダラダラしゃべりが面白かった試しって、ありませんもんね。
     一応、テーマとしては彼女の持ちネタであるところの「デコまん」に絞られているのですが、ここで要約してしまうと、以下のような具合です。

    ・彼氏(ミュージシャン志望のヒモ予備軍)に性器の形が変だと言われコンプレックスに。
    ・そのため、性器の整形手術をした。
    ・しかし彼氏はセックスの時も、綺麗になった性器に気づかない。
    ・知人の一言がヒントになって、自分の性器を型取りしたアートを発明した。
    北原みのり師匠がそれにいたく感激して、仲良しに。
    ・以降、マスコミを巻き込んで地味~に活動。


     大陰唇を切り取った様がモツみたいだみたいな話、俺、忙しいせいで松屋でプレミア牛丼食いながら読んじゃいましたよ。
     読んでいると(雑誌連載という事情もありましょうが)同じ話題の繰り返しで、その辺カットしたらページ数は半分に収まるんじゃないかという勢い。ただでも薄い内容が輪をかけて水増しされている、という仕掛けです。
     何しろチェ・ゲバラの似顔絵をバックに自らの活動を革命と自画自賛する(一応、北原師匠に誉められているというシーンではありますが……)場面も二度繰り返されているのですが、恐らくこのゲバラの絵は切り貼りの使い回しです。
     そしてまた、見ていてちょっと辟易としてしまうのが、何と言いますか彼女の構ってちゃん体質。それが言い過ぎなら、目立ちたがり精神です。
     女性器の手術後は、女性器のお披露目会のごときパーティーを催す。その一年後も(一周年記念と言うことなのか)またパーティー。見るとこの人、パーディーばかりしてはギョーカイ人が参加したぞ、また一方では「デコまん」がメディアで騒がれているぞと自慢ばかりしています(今読んでいる森○○子の日記本が丁度こんな感じです)。読まされる方は退屈の一語なのですが。
     そして、お話が急展開するのが、彼女がやはり北原みのり師匠の集まりに出かけていき、師匠に「デコまん」を絶賛される下りから。本書の後半は北原師匠との出会いに多くが割かれており、ろくでなし師匠の奇行に方向性を与えたのが彼女であることが伺えます。
     ろくでなし師匠は北原師匠のラブアンドピースクラブのサイトにもコラムの連載枠を持っているのですが、そこでもやはり、自分の「デコまん」の写真が北原師匠に絶賛された時のことが書かれています

    ほんの記念写真のつもりでしたが、たまたまラブピースクラブのワークショップで北原みのりさんにお会いした時にお見せしたところ、みのりさんに「すごーい!」と褒めていただいたのが運のつき。
    わたしは驚きと嬉しさで一杯になりました。
    それまでは、まんこの型をデコったと言うと、大体バカにされるか苦笑いで終わるので。

    あまり褒められた経験のない人間は、ちょっと褒められるとものすごく頑張るものです。
    わたしは俄然ヤル気になり、たくさんのデコまんを作るようになりました。


     北原師匠との出会いは「性器にコンプレックスを持っていたが、実はそれは間違っていた、ありのままがよかったのだ」と気づくきっかけのように書かれています。
     それは「男性に傷つけられた女性がフェミニズムによって救済される」ストーリーにも、「男に振られたブスが何かレズっぽいことを始めた」話にも見えます。いや、どっちもほとんどいっしょですし、重要なのは彼女は勝手に傷ついただけで、傷つけた男性はどこにもいないということなのですが(だってことのきっかけは単に「せっかく性器を整形したのにセックスの相手の男性はそれに気づきもしなかった」というそれだけのことですものね)。
     さて、ここでずっと当ブログをご愛読いただいている方は、ふと思い出したのではないでしょうか。
     そう、以前採り上げた上野千鶴子師匠の著作、『女遊び』です。
     この本は表紙はろくでなし師匠と同様に女性器を花に見立てた「フェミアート」が飾り、まえがきは「おまんこがいっぱい」と題され、以降もちんちんまんこちんちんまんことひたすら繰り返される、まあ幼稚園児には快哉をもって迎えられるであろう著作です。
     そう、この種の「フェミアート」、「女性器を表に出すことで女性の解放が成し遂げられる」との妄想はフェミニズムにとって大昔から言われていた(いえ、昔にこそ言われていた既に古びた)ものだったのです。
     いずれにせよ上野師匠からしてかつては、こうした「性をあからさまに語る女性=エロ女」という文脈でオヤジに媚びを売り、名を成したという歴史があり、ある意味ではろくでなし師匠もそれと同じとも、或いはたまたま同じことを天然でやっていた彼女を見つけた北原師匠が懐かし企画としてプロデュースしたとも言える、まあかつてのフェミの焼き直しなわけです。
     前回ご紹介した、ぼくの著作をねじ曲げて記事を書いた田岡尼師匠もろくでなし師匠を擁護し、そうした「フェミアート」を紹介する記事を書いており、この人もまたそうした古くさいフェミニズムの信奉者であることが伺えます。
     いずれにせよ、ここで留意すべきなのは彼女らが好んで口にする「女のための表現」「女の自立」といった惹句とは裏腹に、彼女らが性的な手段でマスメディアに売り込んでいる場面を見れば見るほど、端からは「この人たちは男に構われたいんだなあ」と感じられてしまう、ということです。
     そうした確信は、本書の前半部分を読み返すことでいよいよ強まります。
     上では敢えて伏せておりましたが、前半部分の要約を以下にまとめてみましょう。

    ・幼少期、優等生で美人の姉に比べ、眼鏡ブスで劣等感に苛まれた。
    ・そのため漫画の世界に没頭、「眼鏡ッ娘が実は美人」というストーリーをひたすら描く。
    ・ところが大学でアニメ漫画研究会に入るや、オタクにチヤホヤされるように。
    ・彼氏(アニ研ではないらしい)との初体験の時、剛毛がコンプレックスで性毛をそっていたことが変だと言われ、トラウマに。
    ・アニ研の先輩に誘われ、部屋に。先輩がコンドームを買いに走っている間に見たエロDVDで女優の性毛が薄いことを知り、トラウマがぶり返してその場から逃げ出す
    ・そして、先に書いたミュージシャン志望のヒモとの関係へ。


     いや~~、清々しいほどのクズっぷりっスねーwwwwwww
     まあ、大学時代の先輩がDVDを持っているなど時期的にあわないので、かなりフィクションが混入しているとは想像できますが(恐らく「オタク野郎とベッドインしかけるが、逃げ出す」というのは女性読者にとって快哉を叫ぶべきシーンでしょうから、この辺りはかなり作っていることでしょう)。
     ともあれ、ここでろくでなし師匠がオタサーの姫であったという過去が明らかになりました(それすらもウソという可能性もゼロではないとは言え)。
     しかしこうして見ていくと、師匠のやっていること、昔からずっと変わりませんよね。オタサーでチヤホヤされているシーンでも師匠は「私はアイドル!」と絶叫し、観客の快哉を浴びている自己像を描いていますが、後半の「デコまん」活動をしているシーンでもやはり同様なアイドルとしての自己像が登場してきます。
     実はフェミニストそのものが、「オタサーの姫」であると考えると、どうでしょう。全てがすとんと胸に落ちるのではないでしょうか。
     長岡師匠が挙げたものとはまた違うはずですが、ぼくも昔は「オタクの表現を守る」と称する人々の集会を見に行くという経験を何度かしました。そうした集まりでは決まって「女性からのご意見」とばかりにご招待したフェミニストの意見を拝聴し、男性陣が「タジタジになる」一幕があり、その度にキモいなー、と思っておりました。
    「オタサーの姫」型フェミニストとフェミスト君。
     自分の口を吐いて出る言葉と自分の中にある欲求に、絶望的な乖離がある(ことに絶望的に自覚のない)者同士。考えてみればこれほどにお似合いのカップルは他にありません。
     本件は、オタクをダシにしたチンポ騎士団たるリベラル男性とフェミニストたちとの蜜月が、当のオタクによって危機にさらされた過程そのものでした。それはまた、偏向した信念を抱いた者同士の、閉鎖的な場所でのみ通用する関係性が、開かれた場に出ることで、一挙にその虚偽性を露呈させてしまった、ということでもあります。
     先日、理化学研究所の笹井副センター長が自殺したとの報がありました。彼から小保方さんに宛てられた遺書には「STAP細胞を必ず再現してください」と書かれていたともあります。
     こうした話題について、限られた情報で勘繰るのは不謹慎なのですが、しかしそれでもいろんな推察がつい、頭を過ぎります。
     これは或いは、彼の中の「学者としての実証性を求める心」と「小保方さん萌えの心」に折りあいがつかなくなり、その果ての自殺――といったストーリーだったのではないか、と。
     フェミスト君たちにはくれぐれも、本件を他山の石として精進されんことを、祈るものであります。

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