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ファミコンって"自作ゲーム"みたいだったよね――元ファミ通編集長・浜村弘一が目撃したゲーム業界の「カオスな時代」
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ファミコンって"自作ゲーム"みたいだったよね――元ファミ通編集長・浜村弘一が目撃したゲーム業界の「カオスな時代」

2014-09-20 17:00
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「またファミコンの頃の、あのカオスで面白かった時代が戻ってきた気がして、とてもワクワクしていますね」

そう「自作ゲーム」について語るのは、かつては「ファミ通」の名物編集長として鳴らし、現在は株式会社KADOKAWA常務取締役で、ファミ通グループ代表を務める浜村弘一さんだ。1986年の創刊から28年、最初のドラクエが発売された年にはじまったゲーム雑誌「ファミ通」は、日本の家庭用ゲームの歴史とともに歩んできた。その創刊からたずさわっていた浜村さんは、さしづめゲーム業界の生き証人になるだろうか。


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週刊化して最初の「ファミ通」。1991年7月26日発売号。

この連載では、ドラゴンクエスト開発者の中村光一さんや、ポケットモンスター開発者の増田順一さんに、かつて彼らがどんな風にゲームを作ってきたかを「自作ゲーム」という観点からうかがってきた。
今回は、いわばその「番外編」である。初めてパソコンに感動した世代の学生が、現在の自作ゲームと変わらぬ開発人数だったファミコンの時代を経て、ゲームが世界規模の巨大ジャンルに発展していくまでを目にする――そんな当時の共通体験を、開発者に最も近いところにいた"最強のウォッチャー"の視点から語ってもらったのが、このインタビューである。

また今回は、ファミ通編集部のご厚意で当時の誌面を見せていただきながら、往年の名物企画たちの裏側も聞かせていただいた。しばしば言われるように、日本の雑誌カルチャーは、単に情報を伝える媒体ではなく、目利きとしての編集者の企画力と職人技で、カルチャーそのものを育ててきた存在でもあった。それはインターネット技術がまだまだ辿りつけない世界であり、私たちのよく知るゲームカルチャーの成り立ちを知るための決して欠かせないパーツである。




果たして、先日公開された「自作ゲームフェス4」のPVにあったように、自作ゲームはゲームのルネッサンスなのか――そんなことを考えつつ、"最強のウォッチャー"の語る歴史に耳を傾けていこう。


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浜村 弘一 (はまむら ひろかず)

株式会社KADOKAWA 常務取締役
ファミ通グループ代表

1961年生まれ。大阪出身。
1986年、ゲーム総合誌『週刊ファミ通』(当時は『ファミコン通信』)創刊から携わる。
1992年に編集長へ就任。現在はファミ通グループ代表として、さまざまな角度から
ゲーム業界の動向を分析し、コラムの執筆なども手掛ける。
著書に『ゲームばっかりしてなさい。-12歳の息子を育ててくれたゲームたち-』ほか。
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家にこもってひたすら「Wizardry」をプレイ


――ゲームにハマったのは、いつ頃なんですか?

浜村弘一(以下、浜村):元々、物書きになりたくて、上京して早稲田大学に入学したんです。でも、ライターのバイトには一生懸命になれなくて、就職活動にも身が入らずぼーっとする日々でした。そんなときに出会ったのが、Apple IIです。購入したキッカケは「LOGiN」というパソコン雑誌で見た『Wizardry』でした。


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「夜中に、一歩ごとに壁を蹴って、隠し扉がないかを確認しながら、マップを紙に描いていくんです。これがもう、楽しくて楽しくて仕方ない(笑)」(浜村)
※上記画像はガイドブック「ウィザードリィコレクション」鈴木常信(アークライト・1999)の書影より。

――プレイしてみて、どうでしたか?

浜村:いや、本当に衝撃的でしたね。冗談ではなくて、僕はあれで人生が変わりました。というか、そのせいで大学を留年しています(笑)。

なにしろ、RPGがなかったところに、経験値を貯めていく仕組みや、ジョブや種族のような概念を持ち込んできたんです。しかも、TRPGなんかと違って、一人でプレイできる。いやもう、こんな面白いものが世の中にあるのか、と思いましたね。購入してから、2週間くらいずっと家に引きこもって、インスタントラーメンを買いに外出する以外は、ひたすらほぼ寝ずにプレイですよ。


――完全にヒッキー状態ですね(笑)。周囲にゲーム仲間はいたんですか。

浜村:ほとんどいなかったですね。そういう時代です。

ただ、高田馬場のソフマップでアルバイト店員になれたんです。たぶん、あそこはソフマップの1号店でしょう。そこには、ゲーム仲間がいました。ちなみに、ゲームライターの山下章は当時のソフマップ新宿店の店員でした。そこから攻略本の仕事を始めたんですね。

ドワンゴの自作ゲーム担当者(以下、D担):いまや"攻略本の神様"ですね。

浜村:僕もドハマりした挙句に、パソコン雑誌で『Wizardry』のマップを袋とじで公開しています。たぶん、日本で公開した初めての人間ですよ。いま思うと凶悪なゲームで、ワープしたときに岩の中だったら、それで100時間くらい遊んだデータが吹っ飛ぶんです。そりゃ、欲しいよ(笑)。

そもそも攻略本のニーズが出てきたのが、その頃です。まさに、ゲームフリークが出てきた時期ですね。その後も何冊かの攻略本で『Wizardry』を書きました。

――現在では大御所になっている人たちが、そうやって趣味の延長線上でゲーム業界の周辺に集まってきた時代なんですね。

浜村:その後、角川メディアオフィスの「コンプティーク」という雑誌でバイトをしています。KADOKAWA・DWANGOの社長を現在務めている佐藤辰男さんが編集長で、現在はアスキー・メディアワークス代表の塚田正晃くんがバイトにいました。塚田くんは、よく僕の原稿を直してくれたものです。あそこは、ファミコンの編集部だったんだよね。

――当時はパソコンとファミコンではユーザー層が違ったのですか?

浜村:もう、全く別ですよ。だって、僕らはファミコンのことをバカにしてましたからね。

実際、AppleIIで出た『ロードランナー』のグラフィックなんて本当に芸術的で美しかったのに、ハドソンから出た方はなんだか少し子供っぽいわけです。当時の僕らは、深みのある面白さのゲームをAppleIIのようなパソコンで遊び、『ゼビウス』や『ドルアーガの塔』をアーケードで遊ぶ感じですね。その一方で『テニス』のような単純なゲームで喜ぶファミコンユーザーを、どこかで見下していたんです。

――後の「ファミ通」編集長が……(笑)。つまり、ファミコンは「子ども向けのオモチャ」だったんですね。

浜村:その評価が一変したのが、『ゼビウス』と『スーパーマリオ』、そして『ドラゴンクエスト』ですね。特に、ファミコン版の『ゼビウス』の絵を見たときに、初めて「ファミコンは、AppleIIより凄いのかも……」と思いました。隠し面のような発想も、当時はまだなかったんです。

その後、「LOGiN」編集部に入りたくて、新卒でアスキーに入社しました。でも、西和彦さんという副社長に目をつけられて、カバン持ちなどの仕事を1年くらいやらされて……もう本当に不服でね。「コンプティーク」の編集部に「戻れないか」と相談していたほどです(笑)。そんなときに、「LOGiN」編集部が「ファミコン通信」を創刊することになり、会社に残りました。


後発でボロボロ……創刊号では2億円の負債


――「ファミコン通信」創刊時の雰囲気って、どういう感じでしたか?

浜村:たぶん、ドワンゴさんなんかに似ていたんじゃないかなあ。もう勢いがあって、とにかく自由に楽しくやっていて……。1回出社したら、2週間くらい泊まりこむのは当たり前でした。


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「この表紙は「LOGiN」の漫画のキャラクターの「べーしっ君」というキャラなんですが、彼のことを誰も知らなかったことに、あとで気づきました(笑)。そのあと、しばらく色々とイラストを変えて迷走していたのですが、松下進さんのイラストに決まってから成功しました」(浜村)


当時、既にファミコン雑誌はいくつもあったんです。「ファミリーコンピュータマガジン」というゲーム雑誌が一番人気で、100万部の売上を出していました。ファミ通はそういう中で4番手の雑誌としてスタートしました。
ところが、自信満々でテレビCMまで打った創刊号が、全く売れなかった。いきなり2億円の負債を背負ってのスタートですよ(笑)。もうボロボロの場所からファミ通は始まったんです。

――いまとなっては、全然そういうイメージはないですね。当初はひたすら攻略情報を載せた雑誌という感じだったとお伺いしました。

浜村:「ファミマガ」(「ファミリーコンピューターマガジン」)の真似だよね(笑)。そうでないと売れないと思ってしまったんです。


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「写真をはさみでを切って貼り付けてます。僕らはかなり気をつけて綺麗に作っていたけど、他の雑誌なんかは切った後が残っていたものです」(浜村)


当時の攻略ページって、すごい労力なんですよ(笑)。暗い部屋にカメラマンがいて、ゲームをプレイする係が「ここで」と言うと、パチリと撮影する。それを貼りあわせるんです。キャラ絵も、いまならエディタで一発で出ますが、カメラで撮影していたんです。

あるとき、『女神転生』の中にある、一歩ごとにHPが減る「炎の腐海」という場所を撮影したんです。もうね、すぐに敵にやられて死んで、やり直す羽目になるの。そのたびに向こうの方から担当者の「アアアアア」という悲痛な叫び声が響くわけ(笑)。カメラマンも4時間くらい座って待機していて、イライラしながら「ねえ、まだ?」とかやってる。もう地獄ですよ。

――ネット時代ではもはや隔世の感がありますが、楽しそうですよね(笑)。

浜村:いやあ、本当に大変だったんだよ。ドラクエの攻略情報に竜王を掲載してしまって、大目玉を食らったりね。まだエンディングなんて概念がちゃんとないから「何を怒ってるんだろう?」でした(笑)。昔のゲームって、終わりまで行ったら、最初に戻るものばかりでしたから。

(当時の「ファミコン通信」をめくりながら)あ、「禁断の秘技」なんてコーナーもありましたね。裏ワザ紹介のコーナーです。

当時の裏ワザには、デバッグ用の隠しコマンドと、実際のバグの二通りが大きくあるんです。大体、デバッガーなんてせいぜい20人程度しか雇えないのに、それが100万本とか売れてしまうわけです。だからもうバグが、出るわ、出るわ(笑)。


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「僕らは再現性がないと掲載しなかったけど、他の雑誌ではガセが混じるんですね。だから、ある雑誌なんて、"この中に一つだけ嘘が混じっています"とか書いてるの。クレームをつけられたら"それそれ、当たりだよ!"みたいなね。もうムチャクチャだよ(笑)!」(浜村)


このページを作る班の人たちが、裏ワザの確認作業で寝られないんです。ゲーマーの数も足りなくなって、編集部で囲い込みました。都内のゲーセンで「キミキミ、良い腕してるね」なんて呼びかけるんです(笑)。ブンブン丸は、バーチャのときにそうやって声をかけた一人です。僕らも編集者なんて肩書きだったけど、彼ら凄腕のゲーマーのバイトたちのために、よくジュースやお菓子の買い出しに行ったものですよ。

でも、これは当時のゲーム雑誌の大人気コーナーでした。これがないと、売れなかったんです。しかも、見つけた人にお金を渡してたからね。ほら、よく見ると「10000円」とか書いてるでしょ(笑)。

――いまやったらネットで大炎上ですね。ゲーム会社から怒られなかったんですか(笑)?

浜村:そりゃ怒られるよ(笑)。実際、出禁を食らった雑誌もあるのだけど、でも読者が喜ぶからやるんだよね。そういうムチャクチャな時代があったの。
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後にポケットモンスターシリーズを制作したゲームフリークの、編集プロダクションとしての仕事。ゲームフリークの成り立ちについては、この連載の第二回を参照。


――あっ、ゲームフリークのコーナーですね。本当に編プロ仕事をされていたんですね。

浜村:田尻くんは、このコーナーと後ろにあるアーケード通信を担当していました。ゲームフリークは、既にゲーマーの間では有名なブランドだったんです。イラストを書いているのは、後にポケモンをデザインした杉森くんですよ。スゴい絵だよね(笑)。



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「これは、杉森くんの絵だね。ほら、だいぶイッてる絵でしょ(笑)」(浜村)


D担:田尻さんって、『ピンク・フラミンゴ』のジョン・ウォーターズがお好きだったと聞きますが、本当にそういう雰囲気の文章なんですね。「片ッ端からブチ殺せ!」とか、凄いですね(笑)。

浜村:僕はこのページの担当でしたが、「これ大丈夫かなあ、まあいいや」なんて思いながら、田尻くんたちの文章を入稿してました(笑)。こういうあり得ないのが掲載されていた時代だったんだよねえ。


ムチャクチャすぎてシュール 「ファミ通」がNo.1になるまで


――クロスレビューも、かなり初期からあるみたいですね。

浜村:元々は、車の雑誌でやってるのを真似したんです。最初は怒られるかなと思って、五段階評価をお天気マークで表現していたのですが、「もういいや、振り切ってしまえ」と点数制にしたんですよ。やはり波紋を呼んで、案の定いろいろな人に怒られました。


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森下万里子さんって、やはり架空のキャラなんですよね」「でも、中の人はちゃんと女性がやっていました。なんかね、アイドルみたいなのを作りたかったんですよ(笑)。他の人は全員実在しています」(浜村)


メーカーには嫌われたくないので、他の雑誌はそんなことはやりません。でも、僕たちは下からのスタートで、捨てるものなんて何もない。なりふり構わずやってました。

――後発で這い上がるしかなかったからこそ、思い切って読者に寄せた内容になったのでしょうか。まさにジャンプや電撃文庫の始まりみたいな……。

浜村:ええ、鈴木みそさんの『あんたっちゃぶる』という漫画も、その良い例です。


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「当時は編集部内の台割も本当に適当で、"浜村担当、漫画4ページ"みたいな感じです。それを見て、"みそ君とルポでもやるかあ"と考えたんですね」(浜村)
※ 上記画像のクリックで飛べる「Jコミ」ページから無料で読めます。


ゲーム業界の内部を探る漫画連載にしたのですが、こんなの普通は怖くてやらない。でも、読者の人気は一番です。みそ君は、なんでも書いちゃうんだよね。だってさ、取材に応じてくれた人がバーコードハゲだったりするとさ、それを茶化すギャグなんかを平気で入れてくるんだよ。怒られるだろ、と(笑)。

――さっきから全体的に当時の関係者がムチャクチャなのですが……。

浜村:まあ、他の雑誌はここまでじゃなかったと思うよ(笑)。

ウチは編集長もおかしくて、校了前日に酒を飲んで編集部にやってきて、なぜか机の上で歌って踊りはじめたことがあるんです。その挙句に、原稿を書かなかければいけないのに、「さあ、飲みに行こう」と居酒屋に連れて行かれてしまった。もう、何が何だか分からない。完全にどうかしていますよね。

――もはやシュールの領域ですね(笑)。そんな状況で、さらに1991年には隔週刊から週刊に変えてますよね。

浜村:あれは、当時の編集長の塩崎さんという人が言い出したんです。ただ、いきなりは難しいので、増刊号を挟んで月3回刊にするという変則的な編成で始めました。これがもう本当に辛かったんです。仕事のリズムも変になってくるし。

もう、本当にムチャクチャな時代でした。いまでも覚えているのが、徹夜が続いてる状態で、タクシーに乗るでしょう。もう視界も黄色くなっていて、タクシーの運転手に行き先を告げようにも地名が思い出せないんです。しばらくアウアウ言った後に、「し……新宿へ」みたいな(笑)。

でも、ともかく頑張ってやっていたら、あるとき塩崎さんが飲み屋で編集部員を集めたんです。で、「みんな無理みたいなので、週刊化はやめまーす」と言い出したんですね。

――こりゃもう限界だろう、と。

浜村:もうね、僕は激怒してテーブルをバーンと叩いて、「ふざけるなッ!!」とキレました。

「今まで何のためにこんな体制を組んできたんだ。週刊化のためだろうッ!」と。周囲の編集部員たちも「そうだそうだ」となって、しまいには、すすり泣くやつまで出てきて……。そしたら、それを見た塩崎さんが「やっぱ週刊化やめるのをやめまーす」と言いだしたもんだから……「いい加減にしろ、こいつ!」と(笑)。でも、そこで週刊化が決まりました。

――ここまで聞いてきたエピソードの中で、一番"狂気"を感じますね……。

浜村:しかも、そんな大事な話が居酒屋で決定してるからね(笑)。


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ただ、どこに聞いても週刊化はムチャクチャだと言っていました。ゲームの本数の増加に対して、当時はハードごとの専門誌を立ち上げるような路線が普通だったんですよ。ところが、僕たちはむしろ「ファミ通」を全てのゲームの総称として扱って、刊行ペースを上げたんです。

ところが――なんと、このとき一気にNo.1のゲーム雑誌になりました。実は、週刊のペースで出してくれる雑誌が他になかったもんで、ゲーム会社が出す情報がどれも最新になってしまって、軒並みスクープになったんです(笑)。

――なるほど……(笑)!

浜村:そうなるとゲーム会社の側も、週刊ペースに合わせて情報出しを始めるから、もう独走状態ですよね。どんどん広告が増えてしまって、しまいにはホッチキスがちゃんと綴られてない号まで出来てしまった(笑)。ついに、僕らの側で出稿者を選ばざるを得なくなったんです。

――そうして、翌年には編集長になっていますよね。

浜村:週刊化の頃には、もう実質的に僕が編集長として業務を回していました。当時の塩崎さんは、もう『ダービースタリオン』や『いただきストリート』を作るのに夢中な状態だったんですよね。


自作ゲームは、ゲームのルネッサンスなのか?


――当時のゲーム業界について、お伺いしたいんです。田尻智さんや堀井雄二さんもそうですが、ライターや編集者からゲームクリエイターになる人がいますよね。でも、いまゲームライターをやってる人が、プロのクリエイターに回ることなんてまずないわけで、少し不思議なんです。

浜村:そりゃ、ゲーム制作が簡単だったからですよ。ファミコンの頃って、大体ゲームは500万円~2000万円で制作できたんです。しかも、制作期間も短い。ドラクエの1と2なんて、ほとんど間を置かずに出てますからね。

そもそも当時、坂口博信さんは、単なる横浜国立大学の学生でした。それがAppleIIを手にして、「『Wizardry』すげー」となって、スクウェアでバイトを始めただけのことなんです。ドラクエの堀井雄二さんは元々、早稲田の漫画研究会出身のライターで、『ファミコン神拳』のようなゲーム連載をやっていた。広井王子さんなんて、元々は「ネクロスの要塞」みたいな食玩の企画を手がけていたような人ですよ。

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セガサターンで発売されたドラマチックアドベンチャー『サクラ大戦』(セガ・1996)。広井王子氏の代表作で、総合プロデューサーを務めている。



つまりは、色々な職業の上手く食えずにいた連中が、当時のゲームの盛り上がりの中で一気にぐわーっと集まってきただけなんです。だって、企画とプログラマとグラフィッカーが3人いれば、あとは任天堂の承認さえあれば、ゲームなんて作れたんだもん(笑)。だから、ヒドいゲームも多くて、クロスレビューで3点が並ぶようなのも沢山ありました。

――たまたまゲームに近い場所にいた人たちが作っていたという。だから、実は自作ゲームみたいなノリですよね。

浜村:うん、本当にそうですよ。ファミコンって"自作ゲーム"みたいだったよね。

だって、500万円なんて、企業の予算としては「やらせてくれ」と手を挙げれば、稟議が通るレベルの金額でしょう。それで2,3人の社内のチームが作った結果、ドカーンと伸びた会社なんて当時は沢山ありましたよ。

例えば、パソコンの方の話だけど、コーエーさんなんて元々は繊維屋さんですよ。
軽工業がどんどん傾く中で、社長の誕生日に奥さんがパソコンをプレゼントしたんです。それで社長が作ったのが、『シミュレーションウォーゲーム 川中島の合戦』と『投資ゲーム』。これなんて、文字通りの自作ゲームです。それを夫婦が手でテープにコピーして、パソコン雑誌に通販のモノクロ広告を出したのが、ゲーム会社としての始まりです。だから、彼らが売れてきて最初にやったのは、パートのおばちゃんを入れて、手コピーの人員を増やすことだったんだよね。

D担:家内制手工業ですね(笑)。

浜村:そういうところから、日本のゲームは始まったんです。

スクウェアだって、慶応大学の近くにあったパソコンショップが始まりです。そこに、鈴木尚さんや坂口博信さんのようなゲーム好きが集まりだして、一定の人数が来たところで、ショップを閉めてパソコンゲームを作る会社に切り替えた。それが、やがて上場まで行ってしまったんです。ハドソンだって、元々はICチップを売っていたようなショップで、悪く言えば、"ジャンク屋"です。


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高橋名人が主人公の横スクロールアクションゲーム『高橋名人の冒険島』(ハドソン・1986)

――本当に、誰にでもチャンスがある時代だったんですね。"山師"の時代だったとも言えるのかもしれませんが。その後の流れは、やはりハードの性能の進化が大きかったのですか。

浜村:スーパーファミコンになって、制作費が5000万円~8000万円になったんです。やっぱり、グラフィック性能が上がると、グラフィッカーの工数が上がってしまうんです。そして、プレイステーションになって、遂に制作費が1億円を超えた。この辺りで、もう普通の個人が参入するのは不可能になりました。

その後はもう、プレイステーション2で3億円だとかになり、プレイステーション3で5億円~10億円。こうなると、下手なハリウッド映画より制作費が高かったりするので、もうラインを絞るしかないんです。しかも、かつては一つのチームが3~4人でよかったものが、もう10倍だとか100倍だとかになりました。この辺りで、もうゲーム会社は誰もが入れる企業ではなくなってしまいましたね。


プレステとともに「ゲームクリエイター」が登場


――やはり、プレステは大きかったんですね。

浜村:でも、僕らが正式名称を「ファミ通」に変えたのは、プレステを扱いたかったからというのはあるんですよ。

当時、スクウェアの坂口博信さんが開発スタジオに僕を呼ぶんです。行って見せられたのが、あの「FFVII」の画面ですよ。


――衝撃ですよね。

浜村:ええ。ただ、実はその前にプレステの画面そのものは見ていたんです。

有名な話ですが、当時まだ無名のエンジニアだった久夛良木さん(※元SCEI代表取締役社長にして、プレイステーションの生みの親)が、恐竜が歩きまわるプレステのデモ動画を関係各所に見せて回っていて、ファミ通にも来ていたんです。確かに、ポリゴンは、もう凄かったです。

でも、そのエンジニアが「僕らはこれで世界を獲るんです」と自信満々で言いだしたものだから、さすがに僕らは「へ!?」となりました。見知らぬ技術屋さんにそんなこと言われてもなあ……という話ですよ。しかも、任天堂全盛期のあの時代です。だから、「あんた、そんなこと言うけど、どうやって勝つのよ?」と聞いたら、久夛良木さんがもう自信満々で言うの――「だって、僕らはSONYですから」って。

それを聞いて……ああ、SONYにはすごい人がいるな、と(笑)。

――(笑)。ところが、その無名のエンジニアが本当にゲームの歴史を変えてしまった。

浜村:だから、あの人に会うたびに「浜村くん、あんたがプレステを否定したのは、俺は忘れてないからね!」と、ずっと言われてたんですよ(笑)!

話を戻すと、そのプレステの印象が、坂口さんが見せた「FFVII」のデモで一気に変わりました。遠くからグーッと画面が寄っていく、あの迫力。「こんなRPGが可能なのか」とビックリしました。当時の坂口さんも、まずは一クリエイターとして、プレイステーションというハードに惚れ込んでいたと思います。僕は、編集部に帰ってすぐに「俺たちは、これからプレイステーションをやらねばならない。雑誌の名前を変えてでも、プレステを応援しよう」と言いました。

――プレステになって、ゲームの内容面で大きく変わったことはありますか。

浜村:ちょうどプレステが出てきた頃、作家性を問われるような作品を生み出す、生粋のクリエイターたちが、大きなゲーム会社の中に現れ始めたんです。

まだファミコンの頃までは、ゲームはオモチャと工業製品の間のようなものでした。実際、ゲーム会社にインタビューに行ったら、町工場のおじさんみたいな人が現れたりしてね。それが、あの頃から「ゲームクリエイター」という言葉が出てきたんです。僕らも「お前らのせいで、ゲームデザイナーがゲーム屋じゃなくなってしまったんだ」と批判を浴びていますよね。実際、その後は映画のように画面は凄いけれども……というゲームも出てきましたから。

でもね、やっぱりあのとき、確かに日本から登場したんですよ――あらゆるエンターテイメントに造詣が深くて、そして「ゲームクリエイター」という言葉にふさわしいような、そういう生粋の連中が。


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現在まで続く大人気ホラーアクションアドベンチャーの一作目『バイオハザード』(カプコン・1996)。カプコンの当時の若手社員が中心になって開発した。


具体的には、『バイオハザード』の三上真司さんや、『メタルギアソリッド』の小島秀夫さんのような人たちです。小島さんなんて、初めて会ったときに「これだけあらゆるカルチャーに通じていたからこそ、あんなゲームが作れたんだ」と感動したものです。もちろん一方で、山師みたいな連中も、まだまだ活躍できていた時代だったんですけどね。

――小島監督とは、個人的にも仲良くなったとおうかがいしました。

浜村:そうそう。彼は、知る人ぞ知るMSXの名クリエイターだったんです。最初はそっちでやっていたのですが、当時MSXは全く売れていなかった。でも、『メタルギア』はあまりに良くできたゲームだったので、僕らはよく知っていました。

それが、遂にプレイステーションの『メタルギアソリッド』で表に出たんです。本当にアレは衝撃的でした……水に潜ってから上昇していくカメラワークなんて、まるで映画みたいでしょう。しかも、ストーリーにも全く破綻がない。僕たちは、彼のことを「遅れてきた天才」と名づけました。

いまにして思えば、小島さんのような人が出てきたのは、実は海外まで含めた大きな動向だったのだと思います。

例えば、米国のエレクトロニック・アーツのような会社は、それまでパソコンユーザーの大人にしかゲームを作っていなかったのが、プレイステーションのポリゴンを見て参入してきました。当時のゲーム市場は、ディズニーアニメを好むようなローティーン以下の市場で、実写映画を好むような欧米のハイティーンには届いていなかったんです。だから、ここから一気に日本製ゲームのシェアが落ちています。海外でもこのときに、作家性の強いゲームデザイナーが多数登場してきました。

ただ、日本の場合は、年齢が持ち上がったという方が正しいですけどね。ゲーム文化が10年経っていたのに、子供の頃からゲームをプレイしてきた連中が、そのまま卒業していなかったんです。そんな彼らの前に登場したのが、当時の『メタルギアソリッド』であり、『バイオハザード』だったんですね。


「遊び手・作り手・売り手」の三者が喜ぶゲーム雑誌


――ファミ通を制作していく中で考えていたことってありますか?

浜村:ファミ通は、普通の人がなんとなくパラパラ読めるくらいがいいと思うんです。コンビニフーズやCD紹介のコーナーも入れていたのは、そのためです。特にマーケティング戦略なんて話じゃないですね。まあ、先に出ていた雑誌が完全にオタク向けだったので、後発として違う場所に行こうとしたのはあるかな。

でも、実際には、なんとなくですよ。「ゲームだけしか俺たちはやらないんだぜ」ってのは、どこか格好悪い気がしただけです。アニメも好きだし、漫画も好きだし、ゲームも好き。それでいて、ゲームについては"ちょっと斜め"から見て楽しんでいる。これがファミ通なんだと思うんです。

――ゲーム業界に果たした役割はあると思いますか。

浜村:実は、ファミ通にライバルがいなくなってから、ゲーム業界の市場規模と部数が連動するようになったんです。だったら、ゲーム業界に盛り上がってもらえばいいだけです。もう、他の雑誌の真似なんてしなくていい。
それ以前からゲーム雑誌は、ゲームの「遊び手・作り手・売り手」の三者が喜ぶようなものであるべきだと思っていたのですが、No.1になってからは、その三位一体の戦略をずっと行っています。


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「スケジュールのページがあるでしょう。あれは、ショップが調べるためのものです。全国の提携店にファミ通を無料配布する代わりに、この"短冊"を置かせてもらいます。クロスレビューを販促に繋げてもらうんです。こうやって店内に飾られると、レビューに箔もつきますしね」(浜村)


これは、そういう視点でクリエイターのモチベーションを上げるために考えたものです。外で言うのは初めてなのですが、クロスレビューで殿堂入りした会社には、メダル付きのシャンパンを贈っているんです。


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実は初公開……だそうです!


D担:すごい。粋ですね。

浜村:このメダルにゲームの名前を刻んで、プレゼントするんですよ。すると、シャンパンは飲み干しても、このメダルは捨てられないから、瓶ごと玄関口に飾ってくれるわけです。レベルファイブさんのオフィスに行くと、玄関に並んでいます。

もうね、僕らの目論見通り(笑)。ついにファミ通の存在がゲーム会社のモチベーションになってくれたんです。こういうことを真剣に考えてきたことが、ファミ通をゲーム雑誌の中で不動の地位にしてきたのだと思っています。


「なんじゃこりゃ」が存在する自作ゲームの可能性


――そんなファミ通が先日リニューアルして、ソーシャルゲームや自作ゲームも取り上げることになりました。

浜村:プレステ4やXbox Oneになると、開発体制が大規模になってしまっていて、もう制作費もハリウッド映画より大きいくらいなんです。そうなるとビッグタイトルしか作れないし、ラインも絞らざるを得ない。大手の会社でも、年間5本くらいしか制作できない状況で、その合間をどうするかが課題なんです。

最近、素人でもゲームを作れるように月額課金でツールを開放していたりするのは、その合間にお金を稼げるようにするためです。そういう時代に合わせて、僕たちも変わっていかなければいけなくて、その結果が今回のリニューアルです。


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2014年8月7日発売号。“遊びたいゲームがもっと見つかるゲーム誌に!”をテーマに、今後は家庭用ゲームに限らず、アーケードやインディゲームなども取り扱っていくと宣言した。


――自作ゲームとエンターブレインという点では、RPGツクールが大きな存在になり始めています。

浜村:元々、アメリカの方ではすごい売上だったけど、日本では売上が芳しくなかったのですが……いや、本当に続けていてよかったです(笑)。

もう完全に想定していなかった使われ方ですよね。

元々は、自分でRPGを作って「凄いでしょ」と、友だちに見せる程度の想定でした。それが、ネットのお陰だと思いますが、まさかこんなことになるなんて……戦闘のないホラーゲームが制作されて、それが実況されていて、みんながコメントして楽しむとかね(笑)。RPGツクールは、いつの間にか一つの文化を作っていたんだなと思いました。ありがたい話です。

――Unityのような開発ツールとの一番の違いは何だと思いますか?

浜村:やはり、小学生でも作れるところでしょう。「子ども向けのオモチャ」になるんです。ちょっとゲームを作ってみたいと思った人が、簡単にゲームを作れてしまう。でも、それはファミコンの時代にエディタで作りはじめた人たちと同じ感覚だと思いますね。だから、次のツクールをどうするのが一番よい形なのか、ドワンゴさんと相談しながら考えていきたいですね。

――以前に、初音ミクの開発者の人が、開発時にリアルな声を再現するよりも、あえてオモチャっぽくしたという話を聞いたことがあるんです。でも、結果的には既存のプロ向けの音声ソフトよりも、ボカロファミリーからこそエッジの利いた若い才能たちは飛び出してきたんです。そういう「オモチャ」にこそ創造性が宿るようなことが、RPGツクールでももっと起きると面白いですよね。


浜村:うん、あり得ると思うし、そうしなければいけないと思う。気持ちとしては、RPGツクールのためにこそ、KADOKAWAとドワンゴは組んだと言えるんじゃないかと思っているくらいです。本当に重要なものだと思っています。

実際、いまの自作ゲームって作り手のハードルが下がっているお陰で、凄い作品がある一方で、僕たちがかつてクロスレビューで3点を並べていたような「なんじゃこりゃ」という作品も沢山あるでしょう(笑)。でも、僕はそこにこそ勢いを感じるし、とてつもない可能性を見るんです。
またファミコンの頃の、あのカオスで面白かった時代が戻ってきた気がして、とてもワクワクしていますね。

(了)


【聞き手・構成:稲葉ほたて

そして、自作ゲームフェスについて重大発表が東京ゲームショウの自作ゲームフェスステージで行われました。

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なんと、中村光一さんと、浜村弘一さんに自作ゲームフェス4大賞の選考を行って頂くことになりました!

皆様のつくったゲームを、お二人にプレイして頂けるかもしれません。

ぜひ、2014年10月12日締切「自作ゲームフェス4」にご応募を!皆様のご応募をお待ちしております。募集要項は、コチラよりどうぞ。(D担より)

【自作ゲームフェス4 クリエイター応援インタビュー】

・第一回
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・第二回
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・第三回
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【インタビュー記事一覧】
七月隆文「ゲーム製作で一番大事にしてほしいのは『自分で何かを作る』ことの“ワクワク感”」(代表作:『天使郷 -ヘブン-』『俺がお嬢様学校に「庶民サンプル」として拉致られた件』)

管理人「こんなにおもしろいゲームなのになんで有名じゃないんだろう」(ゲーム紹介サイト『フリーゲーム夢現』)
上原「携帯ゲームの世界に入ってこいよ!と伝えたい」(代表作:『上原の冒険』『上原パズル』)
【ならむら「英語圏で出したいというアクションを起こせば機会は増える」(代表作:『GR3』『LA-MULANA』『薔薇と椿』)
なりた「商業に応用できるアイデアや可能性を同人ゲームで探っていた」(代表作:『MELTY BLOOD』)
cutlass「これからのノベルゲーム文化を自分が背負わないで誰が背負うんだ!」(代表作:『NOeSIS~嘘を吐いた記憶の物語~』)
海原海豚(黄昏フロンティア)「自作ゲーム制作にはブッ飛んだ愛が必要」(代表作:『東方萃夢想』『ひぐらしデイブレイク』)
奥井晶久「ニコニコはゲームとユーザーの接点を作ってくれる」(代表作:『ワンナイト人狼』)
支倉凍砂「目標はハリウッドで映画化でした」(代表作:『狼と香辛料』『ワールドエンドエコノミカ』)
竜騎士07「ニコニコ自作ゲームフェスはいい“試練の場”になる!」 (代表作:『ひぐらしのなく頃に』)
オガワコウサク「それはもう、祁答院が作るゲームが面白いからですよね」(代表作:『コープスパーティー』)
ZUN「『東方Project』は自分のライフワークみたいなものになっている」(代表作:『東方』シリーズ)
SmokingWOLF「2Dゲームでできることはほぼなんでもできてしまうんですよ」(代表作:『シルフェイド見聞録』)
【後編】泉和良「自作ゲームは一生自分の体から離れないものになった」(代表作:『自給自足』『エレGY』)
【前編】泉和良「自作ゲームしかなくなっちゃったんですよ」(代表作:『自給自足』『エレGY』)
八百谷真「ゲーム作りは欲求不満放出の場」(代表作:『囚人へのペル・エム・フル』)
飯田和敏「自分が面白いと思うゲームを作るのが一番!」(代表作:『アクアノートの休日』)

他40件のコメントを表示
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新作クロスレビューの数字が辛口すぎたなー
ゲーム雑誌なのに10段階評価で2とか1とか購入意欲が下がるわw

しかしファミマガの嘘テクにそんな裏話があったとかw
26ヶ月前
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そうは言うけど、ファミ通は買ってた
26ヶ月前
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ゲームに親しんできた世代が、フリーゲームを作って、実況プレイして、それを見てコメントする。
「下火になったかな?」と思っても、新しい「これ、面白いんじゃない?」がネットを通じてまた出てくる。
なんだかんだ言っても、まだゲームを楽しもうとする人はいなくならないと思うし、
その中で、「遊び手・作り手・売り手」の三者が喜ぶゲーム雑誌になってくれると、きっと私は読みたいと思う。
26ヶ月前
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13年間くらい欠かさず買ってたけど、FF11の記事が酷すぎて買うのをやめた
26ヶ月前
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そういやスクウェアはその昔テクザーっていうどっかで観たような自機が三段階変形する横シューティングつくってた
エニックスは東京ナンパなんたらっていう脱がせゲーを・・・・というかドラクエに実装させたコマンド選択システムはFC板ポートピアで実装したのが最初だったかな
テクザーは後にほぼ○パクいや・・・劣化版をバンダイがZガンダムのタイトルで出してたのをみてどっちもどっちだなとおもたッけな
他社がアイデア流用してコマンド選択方式はコマンド入力式アドベンチャーとRPG駆逐してしまうこととなる
優れたアイデアは有名無名問わずパクれというゲーム業界もゲーム雑誌もアイデアを出し続けれなければ直ぐに潰されることになる

ヒッポンスーパーやらマル勝やら
26ヶ月前
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今、ゲーム業界で飯を食ってるクリエイターさん達が昔作っていた「自作ゲーム」と
近年のフリーゲームや同人ゲームのようなものを指す「自作ゲーム」ではまるで別物。

俺は「自作ゲーム」と言われれば後者の印象が強いけど、この記事では主に前者の
ニュアンスが強いだろうからファミコンのゲームが自作ゲームみたいと言われてもピンとこない。
正直近年の自作ゲームについてはまるで知らない人が書いてるんだろうなという印象が強い。
26ヶ月前
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ウソ技クイズは、正解の嘘だった技を次々号に掲載していた。ウソ技を、そのまま載せたのがファミ通。だから、「僕らは再現性がないと掲載しなかったけど、他の雑誌なんて、"この中に一つだけ嘘が混じっています"とか書いてるの。クレームをつけられたら"それそれ、当たりだよ!"みたいなね。」(浜村)←ねつ造
26ヶ月前
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俺は未だにバハラグのミストさんスルーが許しきれないし、P3Pのデータズレで呆れた層だから、今も昔も素人がやってて少なくとも俺が見てる範囲では愛がないんだなぁとしか
26ヶ月前
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先駆者がいない頃のゲームはみんなが思い思いに想像を膨らませられたからな
今はもうドグマイズムに乗っ取らないと作れなくなってるからシリーズ物しか作れないよ。
未だにコマンド入力って何?
26ヶ月前
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ファミマガは、今子どもの時に買ったものを見返しても良くできている。
ゲーム愛に溢れているし、ワクワクする誌面だ。
ファミ通は、この記事を読んでも分かるけど、「売れるためなら何でもあり」のモラルが決壊している大人たちが作った雑誌って感じ。
実話系の編集者と大差ない。
そう言えば、ファミマガに、「某雑誌の増刊号は全体の4分の1を有料のパブリシティ広告が占める。メーカーと記事との独立性が保たれておらず、読者への裏切り行為。優れた面が多々ある雑誌だけに、非常に残念」と、酷評する山森編集長の記事が載っていたな。
16ヶ月前
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