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忘れられたゲーム史「パソコンゲーム」――元自作ゲーム少年・志倉千代丸が”シュタゲ”に込めた想い
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忘れられたゲーム史「パソコンゲーム」――元自作ゲーム少年・志倉千代丸が”シュタゲ”に込めた想い

2014-11-29 19:00
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「もし秋葉原が元の電気街のままだったら、もし現在の「萌えの街」ではない秋葉原があり得たら――そう思っていました。そんな「世界線」を僕なりに描いたのが、実は『STEINS;GATE(シュタインズゲート)』という作品なんです」
 
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インタビューの終盤、志倉千代丸氏はこう語りだした。志倉氏は人気ゲーム『シュタインズゲート』で有名なMAGES.の代表取締役社長。そんな彼がこの言葉にこめた想い――それを解く鍵はどうやら「パソコンゲーム」にありそうだと言ったら、驚かれるだろうか。
 
ここまでの連載で、私たちはドラクエ開発者の中村光一氏、現ポケモンディレクターの増田順一氏、元ファミ通編集長の浜村弘一氏などの方々に、かつてのゲーム文化について聞いてきた。

 
 

その中で気づいたことがあった。彼らは共通して、80年代の「パソコンゲーム」の思い出をとても大事に語っていたのだ。任天堂が「ファミコン」を発売したのは1983年。それが本格的に普及する前、当時のゲーマーたちは、部屋ではパソコンでゲームを遊んでいたのだ。そこにはどんな作品があり、どんな遊びがあったのか。一体、そこで何が起きていたのか。
 
少なくとも彼らの話から見えるのは、そこには制作者とプレイヤーがはっきりと分かれてしまった後の家庭用ゲームでは消滅していった、ある文化が存在していたことだ。それは――中学生や高校生が自分の手でプログラミングをして、他の人のゲームを真似してみたり、改造してみたり、あるいはキャラを変えてみたり、そして、やがて自分でゲームを作って遊んだり――という、まさに「自作ゲーム」の文化である。
彼らはみな
「今となっては著作権的にね……」と、少し恥ずかしそうに語っていた。だが、聞けば聞くほどに、彼らが生み出してきた発想力豊かな、あの綺羅星のような名作ゲームたちの背景には、子どもの頃のその経験があるようにも見えた。
 
今回インタビューした志倉千代丸氏は、そんな当時のゲーム文化から飛び出して、今や大人気のクリエイターになった人物だ。志倉氏は小6のクリスマス、当時まだ珍しかったパソコンを手にした瞬間に、人生が一変したという。一体その日から、彼の運命はどんなふうに変わってしまったのだろうか。


 
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志倉 千代丸(しくら・ちよまる)

7月3日生まれ。幼少期よりプログラミングを学び、後に株式会社ヒューマンにサウンドプログラマーとして入社。同社の代表作で作曲など を手がけるようになる。退社後は音楽プロデューサーとして様々なアーティストに楽曲提供などを行い、株式会社5pb.を立ち上げ、現在は 株式会社MAGES.の代表取締役社長に就任。2014年に株式会社ドワンゴの取締役にも就任。
クリエイターとして、音楽プロデュースや「カオス・ヘッド」「シュタインズ・ゲート」「ロボティクス・ノーツ」、最新作「カオス・チャイルド」を代表とする科学アドベンチャーゲームの企画・原作を手掛ける他、自身初の小説「オカルティック・ナイン」を執筆中。
また、テーマレストラン「アフィリア魔法学院グループ」、アイドル育成型エンターテイメントカフェ「AKIHABARAバックステージpass」のプロデュースを務める等、その活動は多岐に渡っている。
FM NACK5『THE WORKS』(毎週日曜・24時~)、ニコニコ生放送『電人★ゲッチャ!』(毎週木曜・21時~)』などにレギュラー出演中。

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人生の「世界線」が変わった日
 
――千代丸さんは、1970年生まれですよね。ゲームとパソコンの思い出が結びついている世代だと思うのですが、出会いはいつ頃ですか。
 
志倉千代丸(以下、志倉) 昔はパソコンのことを「マイコン」と呼んでいて、それをもじって、持っていない人間を「ナイコン族」と呼んでいたんです。
僕も「ナイコン族」だったので、小6の頃には雑誌の付録についていたキーボードの写真を机に置いて、タイピングの練習を一生懸命にしていました。少しでも、パソコンを持っている気分を味わいたかったんです……ピアノを弾きたいのに買えない貧しいアフリカの子供のニュースを見て「あ、僕と同じだ」と子供ながらに思ってました(笑)。でも、プログラミングをやりたかったというよりは、単にキーボードをカタカタ言わせている自分が格好いいなと、きっと最初はその憧れだけなんです。
 
そうしたらある日、近所の電気屋さんが家に突然来て、カタログを広げて親と商談を始めました。それでクリスマスに届いたのが、当時20万円以上したMZ-2000というマイコンです。滅多にクリスマスプレゼントなんて買ってくれなかった親だったのですが、もう一気に好きになりました(笑)。
 
何よりも、あの瞬間に僕の人生の「世界線」は変わってしまって、それまでとは違うルートに進むことになったように思います。本当に、とても大きな人生の分岐点でした。両親に感謝です。
 
――すぐにゲームを作り始めたのですか?
 
志倉 最初はやっぱりカタカタやって、「俺、格好いい」と思っていただけです(笑)。
 
でもね、例えば、当時『ミステリーハウス』というゲームがあったのだけど、そこに「OPEN DOOR」と打ち込むと、「ソレハデキナイ」と返ってきたりするんです。「おぉー!コンピュータと会話が出来る!」って凄く感激したんですよ。あの頃は、もうそれだけのことが本当に楽しかったんですよね。
 
でも、触っているうちに、すぐにBASICという言語でプログラムを書くようになりました。当時、アドベンチャーブックという本が流行っていたんです。例えば、物語の中で道が3つに分岐したところで、それぞれの道に進みたい人に「〇ページヘ行くように」みたいに指示が出てくるので、その通りに読み進めていく本です。僕は一番好きだった作品を、プログラムで分岐を実装して、文字だけのアドベンチャーゲームにしました。それが、最初のゲームですね。
 
――もう最初から、いきなりアドベンチャーゲームだったんですね。
 
志倉 そうそう。次は、中1のときだったかな。ゲーセンで流行っていた『ハイパーオリンピック』をMZ-2000で再現しました。でもこれがまたヒドイんですよ。僕のはキャラクターが出てこなくて、文字だけでプレイする「ハイパーオリンピック」(笑)。
 
 
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ちなみに、上の画像はファミコン版の『ハイパーオリンピック』(コナミ・1985)。

  
例えば、走り幅跳びなら、数字の4と6を交互にカタカタカタカタと入力すると自キャラである「●」が走ります。●が走り幅跳びの踏切ラインに差し掛かったところでスペースキーを押すと角度が表示されるので――45°になった瞬間を狙って――パッとスペースキーを放す。この角度と走ったときの速度で飛距離の数字が出るんです。
 
そんな感じで、100m走、走り幅跳び、走り高跳び、ハードル、やり投げの5種目を作りました。でも、そうなると、一緒に遊ぶ相手がほしくなるでしょ。僕は中学の友だちを集めてゲーム大会をやろうと思いました。でも、ゲームセンターには良いゲームなんていくらでもあるわけで、僕のゲームなんてしょぼくて、みんな家に来てくれないわけですよ。だから、当時の僕は頑張ってトーナメント表を自分で作って、1位の人への商品も自分で用意して……なぜか一生懸命に準備してました。嫌われてたんですかね(笑)。
 
――ゲームだけでなくて、リアルで盛り上げる企画まで考えて……涙ぐましい中学1年生ですね(笑)。
 
志倉 でも実際みんなが集まって遊ぶと意外と燃えるんですよ。中学生の僕が用意した商品なんて、もちろん大したものじゃなかったんですけど、みんな熱くなって僕の作ったクソゲーで遊んでくれました(笑)。本気で「4646……」ってやってましたよ。
 
その後は、そうだなあ。BASICマガジンって雑誌に載っているプログラムを打ち込んで、そのキャラだけオリジナルに変えてみたり、FM音源を鳴らす為の簡単なサウンドツールをつくったり……。
 
 
――本当に、パソコンから全てが始まったんですね。

 
「僕のパソコン歴はMZ-2000から始まったんですが、その後がFM-NEW7、PC-8801mk2SRときて、PC-8801mk2TR、PC-88VA2、PC98でいうとUV2、後半はFM-TOWNS、X68000と……いずれも友達と交換したり、I/Oって雑誌の「売ります・買います」コーナーで取引きをして手に入れたものです」
 
 
忘れられたゲーム史――パソコンゲーム
 
――今日は、当時のパソコンゲームについて、お伺いしたいんです。かなりのパソコンゲームマニアとお伺いしたのですが、当時はどんな作品にハマっていたんですか。
 
志倉 アドベンチャーゲーム全般ですね。当時はスペースファンタジーの作品が多かったのですが、一番好きだったのは堀井雄二さんが作っていた、現実を舞台にしたゲームです。作品でいうと、『軽井沢誘拐案内』(エニックス・1985)、『北海道連鎖殺人 オホーツクに消ゆ』(アスキー・1984)とかです。今思えば、「聖地巡礼」的な発想の作品の走りでもありましたね。堀井さんの作品には人間ドラマがあって、そこにも共感していました。
 
 
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「『軽井沢誘拐案内』はこの前、ツイキャスで流しながらプレイしました。5時間くらいやって、300人の視聴者が釘付けになっていましたよ」(志倉)
 
 
――この自作ゲームフェスのインタビューで、ドラクエの中村光一さんやポケモンの増田順一さんなどに話を聞いていると、ファミコンでゲーム専用機が普及する前の「パソコンゲーム」の話題が何度も出てくるんです。ファミ通・元編集長の浜村さんもお好きだったらしくて、「僕らはファミコンのことをバカにしてましたからね」と(笑)。
 
志倉 ああ、僕も馬鹿にしてましたよ。「ファミコンなんてしょぼいよね」って。まあ、その後にみんなファミコンに流れていく瞬間が来るんですけどね(苦笑)。『ゼビウス』のファミコン版が出たときに、みんな目の色が変わったんです。それでも、僕は頑張ってしばらく否定していたんですけどね。
 
……それにしても、これを聞きに来ている君たちも、そういう世代じゃないでしょう。
 
――そうですね。レトロゲーム好きを自称していてもファミコンからという人がほとんどだと思います。ただ、『夢幻の心臓』のようなゲームの話を聞くと、まるでパソコンゲームってオーパーツのように高度に発展していた文化だったのかなと思います。
 
 
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『夢幻の心臓』(クリスタルソフト・1984)。ウルティマ風の2Dマップにウィザードリィの対面型戦闘システムを組み合わせた。画像はPC-8801版のオープニング。
 
 
志倉 アドベンチャーゲームっていうのはかなり特殊で、良い悪いは別にして、もっとも進化していないゲームジャンルと言えます。ぶっちゃけて言えば昔も今も大差ないですからね。スタイルとしても、グラフィックウィンドウの下にテキストウィンドウという形から、ほとんど変わってない。例えば『ジーザス』(エニックス・1987)や、小島秀夫さんの『スナッチャー』(コナミ・1988)というゲームなんかは、今遊んでもまったく色褪せてないというか、そんなにレトロな空気を感じないんですよ。
 
――小島監督って、90年代にプレイステーションと一緒に出てきたイメージがありますが、実はずっとパソコンの方で活躍されているんですよね。
 
志倉 僕の中ではMSXやPC-88の師匠です(笑)。
 
 
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『ジーザス』。当時の有名ゲーム作家・芸夢狂人がディレクターを務めたアドベンチャーゲーム。音楽をすぎやまこういちが担当している。
 
 
当時、MZ-2000で遊んでいたアーケード移植のゲームで『フロントライン』(タイトー・1983)というのがあったんですが、「戦争アクションゲーム」という切り出し方で現代のゲームと比較すると、とんでもなく別物というか、もう異世界ですよね(笑)。まあ、昔の『フロントライン』と現代の『バトルフィールド』のような作品を比べる事自体が間違っているんですけどね。アドベンチャーゲームと比べれば、圧倒的に進化の振れ幅が大きいジャンルなのは間違いないですね。
 
――当時のパソコンゲームって、どういう世界だったんですか?
 
志倉 まず、80年代前半は動きのないアドベンチャーゲームが主流だったんです。逆にアクションゲームはほとんどなかったです。これは処理能力の問題が大きくて、技術的な話をしてしまうと、まだスクロールやスプライトも使えなかったし、キャラクターを動かす事に一苦労していた時代です。
 

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HYDLIDE』(T&E SOFT・1984)。画像はPC-6001mkII版。現代でいうところのアクションロールプレイングになっている。
 
 
そこが大きく変わってきたのが、1984年に出たT&E SOFTの『ハイドライド』だと思いますね。個人的に、あれは実はアーケードの『ドルアーガの塔』に影響を受けたんじゃないかという仮説を持っています。同時期ではファルコムの『ザナドゥ』のグラフィックやアクション性も、本当に素晴らしかった。この2本と『イース』は、おそらく時代を変えたRPGと言ってよいでしょう。この80年代の中盤辺りから、キャラクターを2468のテンキーで動かしながら進めるゲームが出てきたのですね。
 
 
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『XANADU -Dragon Slayer II-』(1985・日本ファルコム)。画像は1986年発売のFM-7版より。約40万本の売り上げ本数を上げたRPG。日本国内のパソコンゲームソフトとしては最多の数字と言われている。
 
 
ちなみに、僕は『ハイドライド』の1があまりに魅力的すぎて、パッケージを抱いて寝ていたんです(笑)。そのくらいに大切だったんですよ。あと、中村光一さんの『ドアドア』は、毎日学校に登校する前に立ち上げていました。なぜだと思います?
 
――なぜでしょう……。
 
志倉 『ドアドア』は放っておくと、デモが始まるんです。これがどれほど愛しかった事か(笑)。あの頃は、家庭用ゲームでちゃんとデモが出るゲームなんてまずなかったんです。だからそれをじーっと見てから学校に行くんです。もう『ドアドア』は本当に大好きでしたね。今でもドットを打って、キャラクターを描けるかもしれない。
 
当時、パソコン雑誌には自分では到底書けないような高度なプログラムが載っていたので、それを打ち込んでは自分の描いたキャラを動かしていたんです。そういう「キャラ変え」という文化があったんですね。僕はそこで『ドアドア』のキャラをよく使っていて……って、こんなこと、自作ゲームフェス4の選考会場で中村さんに言えないな(笑)。
 
――でも、中村さんもインタビューで、まさに『ドアドア』を作るまでは、他のゲームのキャラクターのドット絵を描いて動かしたりしていたと仰ってました。
 
志倉 あ、そうなんだ。いや、でも「天才プログラマー」とか「スタープログラマー」なんて言葉に憧れていた僕にとって中村さんは神のごとき存在でしたよ。
 
少し歴史の話に戻ると、パソコンそのものもどんどん進化していくんです。特に1985年に出たPC-88シリーズというパソコンのSRという機種に、FM音源が搭載されていたのが大きかったです。ここからの2,3年が僕の中でのパソコンのピークでした。音楽が凄くなって、動きのあるゲームもたくさん登場してきて、進化がどんどん加速していく。もうパソコンゲームの花盛りの時期ですね。
 
 
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取材当日、ブロガーの清田いちるさんの記事(僕が惚れ込んだPC88ゲームたち:小鳥ピヨピヨ)を見せたところ、一本一本のゲームについてマシンガントークが始まりました……が、あまりに濃厚すぎて原稿に反映できませんでした!
 
 
――たぶん、これをスマホで読んでるニコニコの10代に補足する必要があると思うのですが、そもそもWindowsみたいなOSが普及する前は、ゲーム機みたいにどのパソコンを買うかでやれることが違っていたのですよね。しかも、最初の頃は音すら出なかった。そういう中で人気だったのが、NECが出していたPC-88シリーズですね。
 
志倉 あれを持っている人は、それだけで生きていける勝ち組でした。88版で出ないゲームなんてまずなかったので、もう羨望のまなざしですよ。その後、SRの廉価版のパソコンも出てきて、そこからリッチなアドベンチャーゲームも出てくるようになりました。もう全部やりました。お金がいくらあっても足りなかったですね。
 
この時代のゲームは、大人になってからコレクター心に火がついて、ヤフオクで毎日検索をかけてます(笑)。部屋に山ほど持ってますよ。しかも、当時のメディアは劣化問題が発生しやすいので、今『デゼニランド』というゲームなんて5本持ってます(笑)。フロッピー版を3つに、カセットテープ版の2本です。『サラダの国のトマト姫』も5本持っています。 
 
ドワンゴの自作ゲーム担当者 あ、そのゲームはファミコンでやりました!
 
志倉 いや、それはダメ。僕らからすれば、ファミコン版なんて『サラトマ』じゃないから。違うから。パソコン版でなきゃダメなの。まぁファミコン版も遊んだけど(笑)。
 
――なるほど……(笑)。
 
 
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「この『ミコとアケミのジャングルアドベンチャー』が手に入らなくて、困っているんですよ。女の子2人がジャングルに迷い込んで、動物たちと触れ合いながら物語が進んでいく作品です。ヤフオクで2年ぶりくらいに見つけたと思ったら、フロッピー1枚の値段が10万越えですよ。コレクターがいるんですね。8万円まではベットしたんですが……」(志倉)
 
 
 
秋葉原を「萌えの街」に変えてしまったマイコン少年
 
 
――その後は、どういうふうに音楽の方へ向かったのですか。
 
志倉 いやいや、ずっと僕はゲームを続けてきた人間ですよ。中学3年生くらいからバンドをやっていましたが、昼は音楽少年、夜はパソコン少年という感じでした。
 
ただ、最初の就職はゲームではないです。高校を卒業したときに、ゲームや音楽で食べていけるイメージはなかったので、C言語の専門学校に入ってプログラマになりました。でも、結局一年と続かなかったです。
その後、当時ハマッていた『ファイヤープロレスリング』を制作していたヒューマンに入りました。このシリーズの作曲をやれたら……と思って入社したら、なんと本当に担当者になれたんです。最初のゲームがスーパーファミコン版の『スーパーファイヤープロレスリング』だったのですが、もう大好きなゲームのクレジットに自分の名前が載ったのが嬉しくて嬉しくて、友だちを家に呼んでは、VHSに録画したスタッフロールを何度も見せていました(笑)。
 
――遂に、音楽とゲームが繋がったんですね。
 
志倉 ええ。ちなみに、次の転職先はサイトロンというレコード会社です。学生時代はプログラマーとバンドマン、就職先はゲーム会社とレコード会社、そしてここで5bp.(現・MAGES.)を起業したときに考えたのは、レコードとゲームのメーカーになること――まさに、パソコンを手にした小学6年生のあの日から、僕はずっと音楽とゲームの道を歩んでたきように思います。
 
――ただ、千代丸さんの経歴を見ていると、音楽とゲーム以外の領域も沢山手がけている印象があるのですが。アキバ系を色々……というか(笑)。
 
志倉 その傍らで、色んな妄想が浮かんでくるので、形にしたいと思ってしまうんですよ。それをゲームのシナリオにすることもあるけど、作品を作る感覚で飲食店を作ったりします。お店づくりって、実はゲームを作る感覚に近いんですよ。
 
例えば、5bp.で最初に作った「王立アフィリア魔法学院」の池袋店の企画書なんて、一見するとゲームの企画書にしか見えません。でも、その半年後に名古屋に作って、次に大阪にも作って、どれも中々良い作品になったと思ってます。
 
 
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 独自のファンタジー世界を背景にしたテーマカフェ。様々なゲーム的な仕掛けを楽しめる。(http://afilia.jp/
 
 
――「アフィリア・サーガ」で桃井はるこさんと組んでいらっしゃいますが、現在では大人気の声優さんたちとも関係が深いですよね。
 
志倉 ヒューマンにいたときにPCエンジンでCD-ROMが出て、ゲームの中に声を入れられる時代が来ました。そこで、僕のいたサウンド課では、声優さんの声の収録も始まりました。さらに、プレイステーションの時代になると、ますます声優さんが歌ったり喋ったりするようになって……ゲーム業界がみるみる華やかになっていきましたね。芸能界に片足突っ込んだような勘違いもしてました(笑)。僕もキャスティングを任されるようになり、水樹奈々さんのような多くの声優さんとお会いするようにもなりました。その頃に、やっとプロデューサーっぽくなってきた気がしますね。それまでは、ただコンピュータと向き合っているだけのオタクでしたから。
 
――なんだか千代丸さんの経歴を聞いていると、秋葉原の歴史が見えてきますね(笑)。マイコンオタクの集う電気街だった秋葉原が、いつの間にか「萌えの街」になっていったという。
 
志倉 子どもの頃は埼玉県に住んでいたので、電車で30分くらいかけてパソコンのために週1回ペースで通っていたんです。だから正直に言って、そんな秋葉原が「萌えの街」になっていくのを見るのは、さみしかったんです。でも、その一方で僕は――ここまでの話からも分かるように――電気街としての秋葉原を「萌えの街」に変えてしまった一人でもあったのかも……。
 
だから、もし秋葉原が元の電気街のままだったら、もし現在の「萌えの街」ではない秋葉原があり得たら――そう思っていました。そんな「世界線」を僕なりに描いたのが、実は『STEINS;GATE(シュタインズゲート)』という作品なんです。すみません、適当な事をしゃべってます(笑)。
 
 
“シュタゲ”はどのように作られたのか
 
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――その制作秘話はすごく面白いのですが、どういう経緯で生まれたのですか?
 
志倉 最初のキッカケは、単にループものをやりたかったんです。僕のようなSF好きにとって「時間の超越」って、一度は挑戦したいテーマなんですよ。秋葉原を舞台にしたのは、登場人物たちがものづくりのパーツを集めるのに最適な環境だからです。未来ガジェット研究所という組織が出てくるのですが、彼らは自分たちの根城に秋葉原を選ぶだろうと思いました。
 
毎回作品をつくるごとに、考えや思いを込めて土地を選ぶんです。これは、まさに堀井雄二さんのパソコンゲームからの影響ですよ。先ほども話したように彼の作品は、実際に存在している街を舞台にして人間の心情を描いたものです。やっぱり、それが好きだったんですね。

それまでに自分が見たSF作品は、どうしても人間の生死に痛みを感じられませんでした。どこかの星で20XX年に起きた事件で宇宙妖精が死んで……みたいな話って「かわいそうだな」とは思えるけれども、やっぱり痛みは感じないんですよ。でも、堀井さんの『軽井沢誘拐案内』で妹が誘拐されたと聞くと「あの軽井沢で妹が誘拐されただと!!!」と、ヘタなSFなんかよりもずっと事件の大きさが心に残るわけです。
 
 
『STEINS;GATE 変移空間のオクテット』(MAGES.・2011)。シュタインズゲートの大ヒット後に制作されたゲーム。当時のパソコンゲームの画面を徹底的に再現して、一部ファンの間で話題を呼んだ。「最初に、当時のパソコンの機種に対応したモードを複数選べるようにして、ちゃんと各々の機種での見た目を再現しました。パッケージも当時のものを再現しています」(志倉)
 
 
――本当に、千代丸さんのパソコンとの思い出が詰まったゲームだったんですね。実際に制作する上で一番大事にしていたことは何ですか。
 
志倉 伏線ですね。何を対象にして、それをどこに置いて、そして回収のポイントをどうするか。『STEINS;GATE』なら、第一章で一番大きな伏線を投げて、それをずっと引っ張っていくのですが、その間に小さな伏線も沢山投げてどんどん回収させていくんです。
 
あと、インターネットで調べたときに、その伏線が必ず検索でヒットするようにしました。今の時代、ゲーム内で「こんな現象が起こる」というネタを書いたら、ネットで検索する人もいるでしょう。もしそのときに、「実際にはない」と思っていたSF的な設定が検索した結果、実在していたらゾッとしませんか。
 
 
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例えば、『STEINS;GATE』の前作に当たる『CHAOS;HEAD』で、主人公がファンタズムというミュージシャンのサイトを検索したら、そこに未来の事件が予想されていたと気づくシーンを作りました。もちろん、ファンタズムは架空の存在なので、そのままでは実際にプレイヤーが検索してもヒットしません。そこで、僕はゲームが発売される前にファンタズムのサイトを作りました。こうすれば、もう検索した人は嘘か本当かわからなくなります。
 
――インターネットの存在を前提にして、ゲーム制作をしているんですね。
 
志倉 プレイヤーがゲームから離れた時の行動も意識してものづくりをしています。その方が楽しいじゃないですか。
 
 
手を動かした経験は絶対に意味がある
 
――最近の自作ゲームのブームについては、どう思いますか?
 
志倉 面白いですよね。だって、昔と違ってコンピュータ言語を知らなくても、RPGツクールのようなツールでゲームが作れるわけじゃないですか。僕も今だったら、絶対に同じことをやっていたと思います。

だって、僕の『ハイパーオリンピック』より明らかに凄いものが、とても簡単に作れるわけでしょう。最高の環境ですよね。しかも、僕なんて友だちを物で釣って、やっと面白いか面白くないかの評価を聞けたけど、ネットで感想を聞けるわけでしょう。
 
ちなみに、「売り物としてのゲーム」に対する僕の美学は、「誰かにとって面白いものを作るべきで、自分にとって面白いかは重要じゃない」ということです。でも、自作ゲームは、必ずしもそうである必要はないでしょう。「自分だけ面白ければ、それでいい」という考え方もありだし、それでリリースしたら「意外と面白いじゃん」と思ってくれる人がいるかもしれない。そういう意味では、いかにして自作ゲームとしての自由度を活かすかも考えてみたいですね。
 
もちろん、将来的にビジネスにしたいのであれば、第三者が見て面白いと思えるものをどう作るかは、絶対に考える必要はあります。その場合には、このみんなから意見が集まってくる土壌を活かすべきでしょう。
 
――千代丸さんにとってゲームづくりの醍醐味って、どんなところでしょうか?
 
志倉 みんなからの反応でしょう。昔からそうだったし、今もそこが醍醐味です。Twitterの反応だって、僕は見ていて本当に楽しいんですよ。
 
――最後に、自作ゲームクリエイターの方に期待することをお願い致します。
 
志倉 もう自作ゲームを作ることは、充分にビジネスになり得ると思います。でも、別にゲームクリエイターにならなくても、皆さんが自分で何かを考えて、一生懸命に手を動かした経験には、絶対に意味があります。
 
チームを組んでものづくりをするなんていう機会があるのは、本当に素晴らしいです。今どき、こんな機会なんて中々ないですよ。実は最近、若い人たちが熱意を持って何かに打ち込むことが減っている気がして、危惧しているんです。でも、皆さんがこの経験を楽しんでいさえすれば、将来そういう道に進まなかったとしても絶対に役に立つときが来ます。
 
あと、ものづくりの面白いところは、絶対に未来の自分にフィードバックが返ってくることなんです。自分のアウトプットに誰かが反応してくれる経験は、一種の快感です。
 
――中村光一さんは「ゲームはやるより作るほうが楽しい」と仰っていました。
 
志倉 それにはホントに同意します。でも、それで快感を得られる人は、きっとゲーム業界に向いていると思いますね。病みつきになったら、今度は仕事にしたくなってしまう。ものづくりの快感には、そういうところがあります。(了)
 

【聞き手・構成:稲葉ほたて



ニコニコ自作ゲームフェス4大賞の審査が行われました。


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選考委員はなんと、
中村光一さん(株式会社スパイク・チュンソフト代表取締役会長)
浜村弘一さん(KADOKAWA・DWANGO取締役 ゲームメディア担当)
志倉千代丸さん(株式会社MAGES.代表取締役社長)
に務めていただき、選考会の議論自体も大変に有意義なものとなりました。

ドラクエ開発者、ファミ通元編集長、シュタゲ作者が5時間にわたり議論!ニコニコ自作ゲームフェス4大賞の選考が行われました‐ニコニコインフォ

11/30(日)にはその結果を記事形式で発表いたします。

【自作ゲームフェス4 クリエイター応援インタビュー】

・第一回
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・第二回
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・第三回
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・第四回



【インタビュー記事一覧】
七月隆文「ゲーム製作で一番大事にしてほしいのは『自分で何かを作る』ことの“ワクワク感”」(代表作:『天使郷 -ヘブン-』『俺がお嬢様学校に「庶民サンプル」として拉致られた件』)

管理人「こんなにおもしろいゲームなのになんで有名じゃないんだろう」(ゲーム紹介サイト『フリーゲーム夢現』)
上原「携帯ゲームの世界に入ってこいよ!と伝えたい」(代表作:『上原の冒険』『上原パズル』)
【ならむら「英語圏で出したいというアクションを起こせば機会は増える」(代表作:『GR3』『LA-MULANA』『薔薇と椿』) 
なりた「商業に応用できるアイデアや可能性を同人ゲームで探っていた」(代表作:『MELTY BLOOD』) 
cutlass「これからのノベルゲーム文化を自分が背負わないで誰が背負うんだ!」(代表作:『NOeSIS~嘘を吐いた記憶の物語~』) 
海原海豚(黄昏フロンティア)「自作ゲーム制作にはブッ飛んだ愛が必要」(代表作:『東方萃夢想』『ひぐらしデイブレイク』) 
奥井晶久「ニコニコはゲームとユーザーの接点を作ってくれる」(代表作:『ワンナイト人狼』) 
支倉凍砂「目標はハリウッドで映画化でした」(代表作:『狼と香辛料』『ワールドエンドエコノミカ』) 
竜騎士07「ニコニコ自作ゲームフェスはいい“試練の場”になる!」 (代表作:『ひぐらしのなく頃に』) 
オガワコウサク「それはもう、祁答院が作るゲームが面白いからですよね」(代表作:『コープスパーティー』) 
ZUN「『東方Project』は自分のライフワークみたいなものになっている」(代表作:『東方』シリーズ) 
SmokingWOLF「2Dゲームでできることはほぼなんでもできてしまうんですよ」(代表作:『シルフェイド見聞録』) 
【後編】泉和良「自作ゲームは一生自分の体から離れないものになった」(代表作:『自給自足』『エレGY』)
【前編】泉和良「自作ゲームしかなくなっちゃったんですよ」(代表作:『自給自足』『エレGY』) 
八百谷真「ゲーム作りは欲求不満放出の場」(代表作:『囚人へのペル・エム・フル』) 
飯田和敏「自分が面白いと思うゲームを作るのが一番!」(代表作:『アクアノートの休日』)

他13件のコメントを表示
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>ゲームはやるより作るほうが楽しい
言い得て妙だね
何かを作り出すって無上の快感ですわ
20ヶ月前
×
カオヘプレイ中に検索した俺氏は見事に手の内にハマッたわけですねwwww
20ヶ月前
×
ひょっとしてそに子の生活ってこの人が源なの?
20ヶ月前
×
もしものお話をどう物語として成立させるか迷った挙句の『バタフライエフェクト』インスパイアだったんですね(笑)
20ヶ月前
×
シュタゲは箱○版の発売日の前日にPV見て衝動買いしたなぁ
後にも先にも紙芝居ゲーム買ったのはシュタゲだけだよ
XBOXONEで配信中のD4のシステムでシュタゲリメイクしてくれたらソフト代30000でも買う
20ヶ月前
×
物を作るのって凄く大変で、出来上がった時は本当に嬉しくて仕方ないよね
まぁ、作ってる最中に「あ、これクソだ!」って分かっても作らなきゃいけない時とかあるけど(笑
子供の頃に物を作る楽しさっていうのを知ることが、本当に大事だと思う
今の時世は大変だけど、大人が子供のために良い環境を作っていきたいね
支倉さんの親御さんみたいにね
20ヶ月前
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やべー、全部読んじまったw
ゲームじゃないけどオレも久しぶりに動画作るかな
20ヶ月前
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世界線(激寒)
20ヶ月前
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シュタゲ8bit版とかはこういう背景があったのね
20ヶ月前
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この人って本当にPCゲームとか萌えとかのオタク文化が好きなんだな
シュタインズゲートという言わずと知れた名作を作ったのとは別に、なんか色々と感銘を受けたわ
20ヶ月前
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