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[MM日本国の研究790]「大宅壮一が提示した知の体系」
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[MM日本国の研究790]「大宅壮一が提示した知の体系」

2014-03-27 15:00
                      2014年03月27日発行 第0790号 特別
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     ■■■    日本国の研究           
     ■■■    不安との訣別/再生のカルテ
     ■■■                       編集長 猪瀬直樹
    **********************************************************************

                     http://www.inose.gr.jp/mailmag/

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    「雑誌のなかに世界が見える 大宅壮一が提示した知の体系」

     大宅壮一は1900年生まれである。年齢が数えやすい。1970年に没し
    た。70歳である。三島由紀夫の年齢もある意味では数えやすい。大正14年
    1月14日生まれ。大正15年と昭和元年は同じなので、昭和の元号が年齢で
    ある。1970年、すなわち昭和45年は、45歳である。東京・市ヶ谷の自
    衛隊で割腹自殺を遂げたのは11月25日だった。

     70歳と45歳の2人、2人がこの世界から消えて40年が経つ。

     大宅壮一と三島由紀夫が不在の70年代、日本は大切ななにものかを置き去
    りにして高度成長を邁進していくのである。

     大宅壮一について『マガジン青春譜』では、人生の前半を描いた。大正時代
    である。昭和に入るところで筆をおいた。文学やジャーナリズムが市場かして
    いくまでを大宅壮一に託して描きたかったからである。なぜか。

     青年大宅壮一は、ほとんどいまのインターネットの時代の若者のライフ・モ
    デルを生ききった。もし彼がいま生きていたら……。

     ソニーのカラーテレビ、トリニトロンはかつてアメリカで大評判だったが、
    薄型テレビの時代になるとブランド力(品質)にはあまり意味がなく、ソニー
    も市場の価格競争では苦戦するしかない。

     日本人は、東芝であれ、パナソニックであれ、シャープであれ、精密機器を
    つくる能力は世界一であるのに、いまでは部品メーカーに成り下がった。パソ
    コンという機械を売っても、際限ない価格競争で利益が出ない。世界で売られ
    ている携帯電話の端末の9割は、日本製部品を使っている。しかし、部品でし
    かないからメイド・イン・ジャパンの端末は世界市場では見当たらない。

     日本はソフトで出遅れたのだ。システムと部品とを一体で売らなければ、単
    なる部品メーカーにすぎず、ビジネスでは勝負にならない。ものづくり世界一
    を、もはや自慢できる時代ではないのだ。

     検索エンジンのグーグルは、アメリカ人が考案した。ネットで図書を販売す
    るアマゾンも、あれだけ品揃えが優れている日本の大型書店が発明したわけで
    もなんでもない。

     では日本人にはソフトの考案は無理なのか。システムの設計に向いていない
    のか、と考えてみると決してそうではない。

     僕が大宅壮一文庫を初めて訪れたのは、いまから30年以上も前、1970
    年代の後半だった。だから生前の大宅壮一とは出会っていない。30歳を過ぎ
    たばかりで、業界の素人のようなものだった。
    (編集部註 大宅壮一文庫の公式HPはhttp://www.oya-bunko.or.jp/ )

     そのころの大宅文庫は、閲覧者が1日に10人いたかどうか。その程度にし
    か世間には知られていない。京王線で世田谷の八幡山駅を降りて、戦前から精
    神病院として有名な松沢病院の塀に沿って長い距離を歩いた。ときには横浜方
    面の自宅からクルマを走らせ、環八から清掃工場の煙突を目印に路地に入った。
    数台分の駐車場があったが、停まっているクルマはほとんどない。秘密の資料
    室を知っている、という軽い優越感さえ覚えたものだ。

     事務局員が4、5人いた。毎日、こつこつと1枚ごとに手書きでカードを作
    成していた。

     僕と同年代の事務局スタッフの糸川英穂さんはそのときからいた。しばらく
    して事務局長になり、いまもずっと縁の下の力持ちよろしくその任に就いてい
    る。客(閲覧者)が少なく、暇つぶしの会話の相手をしたものだ。

     僕は大宅文庫の雑誌記事検索システムに、圧倒された。ふつうの図書館の分
    類とはまったく異なることに、素直に驚き感動した。

     人名索引がある。調べたい人物がいたら、あいうえお順に並んだカードをめ
    くれば、その人物に関する週刊誌の記事も、月刊誌の対談も、戦前の雑誌に載
    った人物評も、どんな些細なことでも見つけることができる。記事の見出しや
    執筆者も、カードに記入されている。件名索引がある。それも政治とか経済と
    か歴史という項目とは限らず、「世相」とか「奇人変人」とか「おんな」とか
    「サラリーマン」とか「犯罪・事件」などが、大項目に分類されている。さら
    にそのなかに「世相」なら、「衣料各種」とか「美容」とか「食一般」などの
    中項目がいくつもあり、その中項目のなかで「美容」なら、「かつら」「アン
    ダー・ヘア」「整形美容」「有名人の美容法」「痩身美容」と数えきれないほ
    どの俗世間すべてに通じる小項目が並べ立てられている。

     いまでこそインターネットのグーグルやヤフーがあたりまえになっているが、
    大宅壮一がこのシステムを考案して体系化したのはじつに1960年ごろであ
    る。半世紀も前。しかも私費を投じて。

     ソニーやパナソニックが、ハリウッドの映画会社を買収しようと考えたのは、
    あくまでもテレビの機械メーカーの延長線上での思考だったと思う。もし、そ
    のとき大宅文庫を買収していたら、日本でグーグルやヤフー、いやそれに代わ
    るなにものかが誕生していたかもしれない。

     日本のサラリーマンに、いや大学教授にも、雑誌は読み捨てられるものとし
    ての扱いを受けていた。図書館とは、主に単行本を収蔵するところであり、し
    かも権威のある雑誌のみが保存資料と考えられていた。雑誌は従にすぎない。
    新聞の縮刷版の情報が一流で、雑誌そのものは消えては浮かび、浮かんでは消
    えるというはかないものであり、そこに書かれた短い記事や通俗小説には資料
    的価値はないと思われていた。

     世界をとらえる方法は、そういう表側に整理されたものではない、大宅壮一
    はそんな確信を持っていたのである。

    ○揺るぎない日常、終わりなき日常のはじまりと警鐘●

     大宅壮一は雑誌の時代のはじまりを知っていた。体験していたのである。ほ
    とんどグローバル化のなかのネットワークの誕生とパラレルな話である。

     日本の雑誌は投稿雑誌を中心に拡がっていった。明治時代以前、江戸の封建
    社会は300近い、小さな国々の寄せ集まりでしかない。黒船が来航して「日
    本」という統一国家をつくることになった。300の地方空間の壁が壊れ、天
    皇や富士山をシンボルとした巨大なひとつの空間に変容したのである。国民国
    家の空間とは、いわばグローバル化と言えた。

     東京で雑誌を発行する者がいた。読者はどこにいるのか、わからない。有名
    な政治家や学者に寄稿を頼み、残り3分の1から2分の1ほどを投稿欄にあて
    た。投稿すれば、自分の作品なり、意見なり、感想なり、人目に触れることが
    なかった個性が、雑誌というセンターに表示されるのである。

     投稿が掲載されると、投稿者は必ず購読者になる。雑誌というビジネスはこ
    うして誕生していく。インターネットのブログに自分の文章を載せたい、読ま
    れたいというニーズは、インターネットが存在しない時代にすでに投稿雑誌と
    いうかたちでとらえられていた。グローバル化は、地域に対する帰属感(組織
    に対する帰属感でもよい)を不安定にする。代わりにネットワークによる結合
    を育てるのである。

     大宅壮一は、明治時代から大正時代にかけて、つぎつぎと雑誌が簇生する時
    代の投稿少年のひとりだった。家業の醤油醸造は、父親の放蕩のせいで斜めに
    なり、働きながら学校へ通った貧しい大宅少年の部屋は、投稿で得たメダルが
    万国旗のように飾られて孤独を慰めた。無数の大宅壮一に似た少年が、政治家、
    軍人、官僚に代わる新しい立身出世のライフ・モデルを探していた。雑誌は生
    き物のように、時代を映しては誕生し、また死滅した。彼らは雑誌に寄り添っ
    て生き、ネットワークが拡大していくありさまを見て、生産者となり消費者と
    なっていったはずである。日本の近代化は、根底ではこうした情報化によって
    達成されていた。

     1970年以降、たぶん根底の部分での情報化が停滞していたのだと思う。
    年功序列・終身雇用は生活の安定を提供したが、大多数がサラリーマンという
    ローリスクの勤め人の道を選ぶことになった。わが社は、わが藩と同義語とな
    り、ふたたびローカルな帰属感に充足しはじめたのである。揺るぎない日常、
    終わりなき日常は、“旗本”(官僚)たちに委ねられた。

    (初出は2010年、現在は猪瀬直樹著『言葉の力』所収)

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    「日本国の研究」事務局 info@inose.gr.jp


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