新しい時代の出来事ほど記録にあらわれない、というのは、私たちが案外気付かないパラドックスである。誰も見たことがない大昔のことは、むしろ記録がたくさん残っている。あることないことを後々になってから捏造したからである。しかし、まだ記憶に新しい出来事や同時代の事件については捏造が難しく、何かとしがらみがあって書けないこともある。
それともうひとつ。人は自分たちに欠けている事柄から目を逸らし、実情の逆のありさまを強調することがある。たとえば、ろくな文化がない民族はそれを補うような事物の捏造をしたり、精神の乾ききった時代になるほど愛や感動が叫ばれる。王室を持たない国の人がロイヤルファミリーに憧れたり、悲惨な歴史しか持たない国がおのれの国史を華美に捏造する。これもそうした意識のあらわれである。
日本人も明治維新の頃は、自国の歴史に自信を持てずに、むしろ恥じていた。ゆえに西洋の文物ばかりを気にかけている様について、ドイツの医師ベルツが日本人の欠点として批判していたことはよく知られている。またドイツの法学者ローレンツ・フォン・シュタインも、日本人の欠点として自国の歴史を見つめないことを指摘していた。
シュタインは、明治日本の立憲国家化にあたって伊藤博文が教えを仰いだ法学者である。1887年(明治20年)に伊藤の勧めで渡欧した海江田信義は、シュタインに弟子入りして『スタイン氏講義』を残している。その講義録のなかでシュタインは次のように述べている。
シュタインは、明治日本の立憲国家化にあたって伊藤博文が教えを仰いだ法学者である。1887年(明治20年)に伊藤の勧めで渡欧した海江田信義は、シュタインに弟子入りして『スタイン氏講義』を残している。その講義録のなかでシュタインは次のように述べている。
今日、日本において歴史の振るわざるは、日本教育上一大欠点とす。(中略)
他国の人民は皆その国家の連続せる歴史を心中に有せり。
独り日本のみこれあらざるなり。
*原文はカタカナ・旧表記。
かかる状況をどうするのかと問われた海江田は「日本は学者に乏しいわけではないが、国家のために十分な精神をもって知識を活用する人材がいないのが残念だ」という趣旨のことを答えている。実際には、頼山陽の『日本外史』などは幕末・明治にかなり読まれていたが、明治の時点で過去をふりかえると、必然的に武家の政権史になってしまう。『日本外史』も当然そうなので、明治国家の大義にはならない。皇室の『六国史』は途中で終わっているし、『本朝通鑑』は幕府の手になる仕事で、しかも北朝を正統としている。水戸の『大日本史』は完成を目指して編纂中だったが、直接的に国民教育の史書にはならない。さしあたって明治政府の意に沿うコンパクトなテキストは『神皇正統記』ぐらいしかなかったのである。
そうこうするうちに、坪井正五郎による人類学的な研究が出てきた。本当に歴史をやろうとすれば民族成立論から説くことになってくる。国民国家化を急ぐほどに〝日本人〟とは何ぞやという問題意識が高まるが、実証主義に徹すれば天皇の神格は否定される。大日本帝国憲法公布と宮内省版『スタイン氏講義』の刊行から3年後に、歴史学者・久米邦武の論文「神道ハ祭天ノ古俗」が神道家を挑発したとして物議を醸し、久米は帝国大学を追われてしまう。久米は天皇祭祀の普遍性を述べただけだが、その合理主義の学風は神道家の嫌悪するものだった。海江田が言う「国家のために十分な精神をもって知識を活用する」という概念がここでもまた揺れていた。
官製歴史は国家を補佐しなければならず、いきおいその歴史観は事実より擬制を求める。当時の日本人は一般に天皇の神格を心から信じる土台を持たなかったが、国家としてはその擬制を国民に浸透させるべく国定歴史教科書を作らなければならなかった。しかし、その教科書の執筆にあたった喜田貞吉が、天皇の万世一系に水をさす南朝・北朝を併記しただけで新聞が騒ぎ出し、喜田は東京帝国大学の教授を事実上クビになる。背景には大逆事件があったわけだが、この冤罪事件は単に無政府主義者が弾圧された事件ではなく、薩長がでっちあげた明治天皇政府に正統性はあるのかという近代日本の根拠に関わる問題を孕んでいた。
官製歴史は国家を補佐しなければならず、いきおいその歴史観は事実より擬制を求める。当時の日本人は一般に天皇の神格を心から信じる土台を持たなかったが、国家としてはその擬制を国民に浸透させるべく国定歴史教科書を作らなければならなかった。しかし、その教科書の執筆にあたった喜田貞吉が、天皇の万世一系に水をさす南朝・北朝を併記しただけで新聞が騒ぎ出し、喜田は東京帝国大学の教授を事実上クビになる。背景には大逆事件があったわけだが、この冤罪事件は単に無政府主義者が弾圧された事件ではなく、薩長がでっちあげた明治天皇政府に正統性はあるのかという近代日本の根拠に関わる問題を孕んでいた。
実は、歴史の問題は江戸期の学者もかなり悩んでいた。徳川政権の正統性を歴史的に裏付けようとすると、歴代の武家政権の正統性も考えなければならなくなる。武家政権を確立した鎌倉幕府は、朝廷に替わる新体制と言えるのか。それとも朝廷に委任された政体なのか。あるいは日本には複数の体制があったのか、という問題が出てきてしまう。そして仮に日本の正統が古来、天皇の体制だとしても、鎌倉幕府は朝廷軍を武力で倒している。その時点で日本は新体制になっている。ところが鎌倉体制にしても、その後の足利体制にしても、天皇を擁立しないことには政権の正統性が定まっていない。
結局のところ武家というのは、自分たちに欠けているものを天皇に求めつづけた。内心では疑問に思っても、国の中心を天皇に置く価値観を完全に否定することはできなかった。もちろん鎌倉幕府以来の武家政権のなかで天皇抜きを主張した人はいたのだが、結局は武家内部の力学のなかで粛清されたり、なんらかの形で滅びていった。これは武家にかぎらず、藤原氏にしても弓削道鏡にしても何にしても同じである。天皇の外戚として権勢を振るい、天皇の存在をないがしろにしたり、皇室に取り入って皇位を狙っても結局は失敗する。天皇の系譜を前にしては超えられない壁がある。これはいったい何かという問題がずっとある。
それを考えるとき、ひとつの例外として、平将門という人物が思い浮かぶ。この人物は卓越した武力を持っていたが、わずかな期間で鎮圧されたこともあって、実は反乱としては小規模だったのではないかという見方もある。しかし、将門は同時代に東国で起きた数ある反乱と異なって、あからさまに〝新皇〟を名乗り、真っ向勝負で天皇と対峙しようとした。そこが他の反乱とは違って見える。現代人はこれを歴史の知識として「へえ、そうなんだ」ぐらいにしか思わないかもしれないが、いくら将門が関東の支配権を掌握しても、〝新皇〟を名乗るというのはかなり思い切ったことである。その大義は何だったかというと、直接的には八幡大菩薩の託宣であるが、それだけなら将門に特有の条件ではない。
それを考えるとき、ひとつの例外として、平将門という人物が思い浮かぶ。この人物は卓越した武力を持っていたが、わずかな期間で鎮圧されたこともあって、実は反乱としては小規模だったのではないかという見方もある。しかし、将門は同時代に東国で起きた数ある反乱と異なって、あからさまに〝新皇〟を名乗り、真っ向勝負で天皇と対峙しようとした。そこが他の反乱とは違って見える。現代人はこれを歴史の知識として「へえ、そうなんだ」ぐらいにしか思わないかもしれないが、いくら将門が関東の支配権を掌握しても、〝新皇〟を名乗るというのはかなり思い切ったことである。その大義は何だったかというと、直接的には八幡大菩薩の託宣であるが、それだけなら将門に特有の条件ではない。
ひとつの理由として、当時は律令体制の荒廃という多難な国政状況があるだけでなく、海外の情勢も波乱を呼んでいた。大唐帝国の滅亡で中華体制が崩壊し、高句麗の後継国だった渤海は契丹に滅ぼされた。半島は新羅が分裂して賊徒が日本にも襲来し、高麗による再統一まで内戦状態が続いた。将門の乱と同時に西国で起きた藤原純友の乱は、半島と往来する海賊が日本近海の治安をおびやかすなかで起きている。東アジアの秩序を武力で再編成しようとする国際的な思潮のなかで、日本でも天皇の正統性に不安定要因が増していたという背景がある。
大陸・半島の情勢からして、武力で正統性を勝ち取るのもありなのだ――という考えが将門にはあったが、それでもなお彼は桓武天皇五世孫という血筋をアイデンティティとしていた。その壁を超えることはできなかった。つまり純然たる革命を企図しながらも、東国の独立新体制を構築する能力が将門にはなかった。結局は皇孫という血筋を理由に、将門は朝廷にお伺いを立てている。「日本の半国経営を許可してもらいたい」という上申書を提出しているのだ。もっとも、それは『将門記』がそのように記しているだけで、本当に将門がそんなことを書いたのかどうかはわからない。ここが問題なのだが、文献上はそうなのである。しかし、その文献というのも非常に謎がある。
これは〝日本〟を考える上でのひとつの例題として挙げているのだが、大陸の騎馬民族さながらに馬と剣を駆使して戦う将門なる人物が、あからさまに〝新皇〟を名乗った理由が、本当に『将門記』のとおりかどうか。そして、彼が桓武天皇五世孫であるという〝肩書き〟も、どこまで信じてよいのかという疑問すら実際にはある。いま私は〝騎馬民族さながら〟と書いたが、これがひとつのヒントである。これまで当ブロマガで書いてきたことを踏まえれば、将門なる人物の正体がおぼろげにでも浮かんでこないか。
前回のvol.37で述べたように、日本の過去はいったん解体してパズルの組み換えをしないと原像が出てこない。将門は通常の歴史認識において〝皇孫〟ということになっている。将門について記録を残した過去の知識人がそのように規定したのである。これは、仮に将門が間違って天皇になったとしても、皇統の〝原理〟は崩れなかったのだよ、と後世の人に言い聞かせる仕掛けである。ここでもまた〝錯覚〟が仕組まれているのだが、この血筋の原理の〝強調〟によって、後世の人は、将門の乱を歴史上のひとコマとして安心して見られるのである。
この〝安心のための錯視の仕掛け〟というのは、平清盛が白河法皇の落胤と噂された話ともつながるし、藤原不比等を天智天皇の落胤とする記録にもつながる。現代でもこれに類する話は多々あるが、それによって日本人は何を錯視させられ、また何に安心しているのかという問題がある。冒頭で述べたように、実際には〝ない〟からこそ〝ある〟と見せる必要があり、そういう操作をおこなう〝係りの人〟が、いつの世においても存在するのだ。
『将門記』の写本の操作性については後に触れるが、その操作されたテキストには、将門の〝肩書き〟がわざとらしく記されている。原文では「柏原天皇五代之苗裔」である。この「柏原(かしわばら)天皇」というのは、桓武天皇の別名である。皇太子殿下が柏原芳恵のファンだったという話の〝裏〟でもある。