マラン・メルセンヌの伝記を翻訳してみた(Google先生が)
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マラン・メルセンヌの伝記を翻訳してみた(Google先生が)

2016-12-03 11:16
    この記事は、日曜数学 Advent Calendar 2016 の3日目の記事です。
    2日目はこちら→日曜数学会の今後の活動方針
    マラン・メルセンヌという、17世紀に活躍したフランスの数学者をご存知でしょうか。
    彼の本職は司祭であり、趣味で数学や科学の研究を行っていました。

    (Marin Mersenne, 1588/9/8-1648/9/1)

    なぜ突然マラン・メルセンヌの話をしたかと言うと、彼が「メルセンヌ・アカデミー」と呼ばれる科学者の集会を開いていたからです。
    私は「日曜数学会」という、日曜数学者の集会を開催しておりますが、似たようなことをやっていた過去の偉人ということで、暇なときにちょくちょく彼について調べたりしているのです。


    ところで、MacTutor History of Mathematics archive という英語のWebサイトをご存知でしょうか。
    これは名前の通り、古今東西の様々な数学者たちの情報を集めた数学史のページです(存命の数学者も多数記載されています)。

    当然このページは、全部英語で書かれています。英語が苦手な私には、全く読めないページです。

    ところが最近、Google翻訳の精度が飛躍的に上がったという噂を耳にしました。なんでも、専門的な文章でも日本語として非常に自然な翻訳ができるというのです。

    そこで私は思いつきました。
    Google先生に、MacTutorを翻訳してもらおう、と。
    私の好きなユークリッドやピタゴラスの方が良いかとも思いましたが、昨日の記事でマラン・メルセンヌの話題を出したので、こちらを訳すことにしました。

    ただし、そのままでは日本語としておかしい部分や誤訳も少しあったので、私が手直ししています。
    原文はこちらを参照してもらうとして、Google先生の翻訳の威力を見てみましょう。
    ただしとっても長いので、私が面白いと思った部分や、メルセンヌ・アカデミーに関する部分を太字にしました。長い文章を読む気になれない方は、そこだけ読んでみてください。


    マラン・メルセンヌは、1588年9月8日にメーヌ州の小さな町オアゼで労働者階級の家庭で生まれ、同じ日に洗礼を受けました。幼い頃から彼には信仰心と、勉強への熱意がありました。メルセンヌ家は貧乏でしたが、両親は彼をコレージュ・デ・マンに入学させ、彼はそこで文法を学びました。その後、メルセンヌは16歳で、ラフレシュにあるイエスズ会の学校へ行かせてくれるように、両親へ頼みました。その学校は、すべての子供の利益のためのモデルスクールとして、新たに設立されたものでした。そこにはメルセンヌより8才年下のデカルトも在籍していましたが、のちに友人になるとは、このときまだ思っていませんでした。

    メルセンヌの父親は、息子が牧師になることを望んでいました。 メルセンヌは、しかし、彼が愛した勉強に専念し、彼が世界の責任を果たせるほどに成長したことを示して、パリで学問をさらに進めることにしました。 彼はパリに向かう途中、ミニム会の修道院に滞在しました。 この滞在が、禁欲生活を送る決心をしたらミニム会に入信しようと決めるきっかけになりました。 パリでは、彼はコレージュ・ロワイヤル・デ・フランスで哲学を学びました。さらにパリ大学で神学の授業を受け、哲学におけるマジスター・アトリウムの学位を取得しました。 彼は特権的な教育を受けたのち、1611年に卒業し、修道院での平穏で勉強に集中する生活を始めました。

    1436年にパオーラの聖フランシスによって設立されたミニム会の教会は、この時に繁栄していました。彼らは、自分達が地球上のすべての宗教の中で最も清貧(ミニム)であると信じており、その身を祈りと学問と奨学金に捧げました。彼らは(メルセンヌの肖像画に見られるように)広い袖の粗い黒い羊毛で作られた修道衣を着て、薄い黒い紐で縛りました。シャルル8世が修道士をフランスに向かわせたときは、余りに質素なので「les bons hommes」と呼ばれるほどでした。フランス革命の後、ミニム会の修道院は極端に減り、今日のイタリアにはわずかしか存在しません。メルセンヌは1611年7月16日に修道院に入り、1612年7月にパリの司祭に任命され、ニジェオンとモーの修道院で2ヶ月半の試験採用期間がありました。1614年、彼はヌヴェールの修道院に配属され、彼は若い信者達に哲学と神学を教えました。その時の生徒の一人、Hilarion de Costeは、のちに彼の親友となり、彼の伝記を書きました。メルセンヌはこの時期に、サイクロイド(幾何学的曲線)を発見したと考えられています。

    2年後、メルセンヌはパリのロワイヤル修道院の修道院長に選出され、1648年の彼の死まで(短い旅行の間を除いて)務めました。教会は彼の人生の大部分を援助していたと信じられています。 後年の話ですが、修道士のJacques Halleは彼を金銭的に援助し、図書館への入館も許可しました。 パリで生活を始めて以来、数学的な問題はメルセンヌの人生において重要な役割を果たしました。 彼はパリの重要な学者と頻繁に出会い、アイデアを交換したり、問題を議論したりしていました。 ミニム会は、メルセンヌができる最大の貢献は彼の本であることに気付き、彼らは決してそれ以上のことをメルセンヌに求めませんでした。

    1623年に彼はフランスの無神論と懐疑主義の研究からなる最初の2つの論文(L'usage de la raison と L'analyse de la vie spirituelle)を出版しました。彼は神学の著作の執筆を続け、魔法を否定したいと思っていましたが、修道士にそれは不適切であると指摘されたので、聖書の魔術師への批難を含むQuaestiones celeberrime in genesimを出版しました。 この本は最初の6章で聖書のテキストの1900の列を含んでいます。 1624年9月、パリに戻り、メルセンヌの結果についてコメントを求められたガッセンディと会った後、彼は親友になりました。

    当時のフランスは、様々な魔法使いを追放する、反魔法の時期でした。 フランス語で書かれたL'impiete des deistesは、フランスの大衆向けに、何が起きているのか解説しました。 この時、メルセンヌはデカルトとガリレオに対する神学的批判について考えるようになりました。 ガーバーが[16]で(以下の通り)指摘しているように、ガリレオへの実際のメルセンヌの態度は数年にわたって変化しました。

    「マラン・メルセンヌは、1630年代と1640年代のパリの新しい自然数学的アプローチの中心でした。 彼はそのプログラムの最も熱心な実践者の一人であり、その重要な数十年に数々の有力な本を出版しました。 しかし当初、メルセンヌは全く異なる態度を取っていました。 1620年代初頭、メルセンヌはパリで宗教的な話題の作家として知られており、アリストテレスの擁護者でもありました。 (中略)1620年代初頭にメルセンヌは、ガリレオを『排斥すべき自然哲学の革新者』にリストアップしました。 しかし、1630年代初めには、10年も経たないうちに、メルセンヌはガリレオの最も熱烈な支持者の一人となりました

    メルセンヌは、宗教とともに、本当に自分が興味を覚えるのは科学であることを認識し始めました。数学は彼が最も深く学んだ分野であり、数学がなければ科学はできないと信じていました。彼はいつも数学への哲学的アプローチを持ち、科学の原因が神の原因であると信じていました[5]。それで、ラ・ベライテ・デ・サイエンスでは、彼は多くの素晴らしい発見によって、人間の心の価値を証明しました。メルセンヌがすべてのヨーロッパの学者のコーディネーターになり始めたのはこの頃でした。 1623年から、彼はパリの修道院で会ったり、ヨーロッパ全土やコンスタンティノープルとトランシルヴァニア(現在のハンガリー)の遠くからでも彼と文通する学者を慎重に選ぶようになりました。彼の定期的な訪問者、または文通相手には、ペーレスク、ガッセンディ、デカルト、ロベルヴァル、ベークマン、J.B.ファン・ヘルモント、フェルマー、ホッブス、エチレンヌ・パスカル、そして彼の息子ブレイズ・パスカルが含まれていました。彼は、国内外の学術論文を読んでレビューし、他の学者と交流し、実験やその他の研究を計画し、議論するために、ヨーロッパ各地の学者の会合を開きました。これはAcademie Parisiensisと呼ばれ、時にはAcademie Mersenne(メルセンヌ・アカデミー)として友人の間でも知られていました。特に、その週にメンバーの家で、そして後に彼が病気がちになったらメルセンヌのセル(修道士が鍛錬する小部屋)で会議を行っていたのは、当時最も効率の良い研究センターの1つでした。メルセンヌの文通相手のリストは増え続け、メルセンヌ自身がヨーロッパ各地の学者との会議に出席することをためらいました。

    メルセンヌは音楽に強い関心を持ち、音響と音速を研究するために多くの時間を費やしました。 1627年に彼は彼の最も有名な論文の一つ、L'harmonie universelleを出版しました。 この論文では、彼は振動弦に関する法則を公表した最初の者でした。振動弦は、他の条件が同じである限り、その周波数は張力の平方根に比例し、弦の長さ、直径、糸の比重の平方根に反比例します。 メルセンヌはすでに他の人の才能を奨励し始め、彼らのアイデアや結果を他の学者と共有するのを助けました。 ロベルヴァルがメルセンヌの学者の集会に入会し、パリに到着すると、彼の才能はメルセンヌによってすぐに認識され、メルセンヌは彼にサイクロイドを研究するよう勧めました。

    1627年から1634年の間は、メルセンヌの人生の過渡期でした。 彼は1629年から1630年の間の数ヶ月、オランダに滞在しました。主な理由は、温泉で病気を癒すことでしたが、ついでに周辺地域の学者を訪ねました。 直前の出版から7年後、彼の執筆における成熟度が高まり、1634年にQuestions inouyesとQuestions harmoniquesが印刷されました。1644年10月、メルセンヌはプロヴァンスとイタリアに渡り、トリチェリから気圧計の実験を学びました。 パリへ帰国後、彼はフランスの学者にこの実験を奨励するために、学んだ内容を発表しました。

    彼の生涯にわたり、メルセンヌは多くの潜在的な科学者達に対し、正しい進路を教え、取るべき次のステップを助言しました。 彼は面倒を見ていたホイヘンスの手本となり、彼への励ましの手紙を通してホイヘンスの音楽理論に影響を与えました。 ホイヘンスは、メルセンヌともっと楽に連絡を取るために、1646年にパリへ移動するつもりでしたが、メルセンヌの死の数年後までホイヘンスが移動しなかったので、彼らが会うことはありませんでした。

    ガリレオは、メルセンヌの仕事がイタリア外に知られていることに感謝しなければいけません。 メルセンヌはガリレオの作品を出版することを主張しました。これなくして、ガリレオの考えが広く知られることはなかったでしょう。 メルセンヌは老後の旅行を続け、1646年、ボルドーへ出発しました。 そこで彼はピエール・トリシェに会い、彼の成功を手助けしました。 後にアカデミー・ロワイヤル・デ・サイエンスを結成したボルドーとグイエンでの科学的生活の成功は、メルセンヌが提供したアドバイスと経験に大きく起因しています。 彼は1647年にパリに戻りました。

    メルセンヌは1648年7月にデカルトを訪問したあと、体調を崩し、不幸にも彼の健康は改善しませんでした。 彼は、ワインと彼の水を混ぜて飲むよう勧められましたが、ミニム会ではワインを飲むことが禁じられていました。 彼は肺に膿瘍を持っていましたが、外科医はそれを見つけることができませんでした。 メルセンヌ自身は、彼が求め、実施された切開が浅すぎたのだと指摘しました。 ガッセンディはメルセンヌが病気の間ずっとそばにいて、彼が死ぬ1648年9月1日(彼の60歳の誕生日のわずか8日前)まで、パリで彼と一緒に過ごしました。 彼は決して科学を進歩させる彼の一生の望みを諦めませんでした。 彼は自分の意思で、自分の身体を生物学的研究に使うことさえ要求しました。

    メルセンヌが死亡した後、フェルマー、ホイヘンス、ペル、ガリレオ、トリチェリなどの78の異なる文通相手からの手紙が、彼のセル(修道士が鍛錬する小部屋)で発見されました。 また、いくつかの物理学的計器が彼のセルで発見され、さらに多くのメルセンヌの蔵書が回収されて1651年にL'optique et la catoptriqueが出版されました。この刊行物の中にロベルヴァルの文章が挿入されました。 その後、彼が他の学者とやり取りした手紙は蓄積され、数冊に分けて出版されました。 これらの手紙は、17世紀初頭の国際的な力学のレビューのようです。 メルセンヌは、すべての科学者がやっていたすべての科学を知り、科学を進歩させるために一緒に働くことだけを望んでいました。

    メルセンヌは数年間、Quaestiones in Genesim(1623)、Synopsis mathematica(1626)、Questions inouyes(1634)の研究を引用してサイクロイドを研究しました。 彼は、サイクロイドの定義を、直線に沿って転がる半径aの円の中心から、距離hにある点の軌跡として与えました。 彼は、基線の長さを含む明らかな特性が回転円の円周に等しいと述べました。 メルセンヌはサイクロイドを「ルーレット(roulette)」と呼びましたが、サイクロイドという用語は後に採用されました。 彼は統合によってカーブの下の面積を求めようとしましたが、失敗したので、ロベルヴァルに質問しました。 1638年、彼はロベルヴァルが実際にサイクロイドの下の面積を求めたと発表しました。
    (キグロ注:下線部「統合」は、原文では"integration"となっています。英辞郎 on the Webではこれは「積分」と書かれていますが、ニュートンやライプニッツが積分を考案するのはこの30~40年後なので、おそらく積分の前身のようなものを使ったのでしょう)

    メルセンヌの名前は、今日ではメルセンヌ素数により最もよく知られています。彼はすべての素数を表す数式を見つけようとし、これでは失敗しましたが、数式
     2p-1 (pは素数)
    に関する彼の整数論の研究は、現在も大きな素数の研究において関心が集まっています。数n = 2p-1が素数であれば、pは素数でなければならないことを証明することは簡単です。 1644年、メルセンヌは、p = 2,3,5,7,13,17,19,31,67,127,257の場合、nは素数であるが、257より小さい他の44個の素数pについては合成数であると主張しました。

    何百年もかかって、メルセンヌが、2p - 1の形の素数(pは257以下)のうちの5つを間違えていたことが分かりました(彼が素数になると主張した2つ(67と257)は素数にならず、彼が見落とした3つ(61、89、107)は素数になります)。 Drake [13]は、これらの素数に対するメルセンヌの仕事のソースを理解するとともに、使用されていた原理を突き止めよう試みました。彼はFrenicle de Bessyがソースであるかもしれないと示唆し、また、誤りが印刷機によるミスプリントであるかもしれないと示唆しています。 Drakeは、2nの値から2つの値だけ、または2の値から2nの値まで3つ以下の値だけ異なっていなければならないという指数についてのメルセンヌのルールを再構築しています。
    (キグロ注:下線部の原文は次の通り。私は当然訳せないし、グーグル先生にも意味が分からなかった模様。
    "Drake reconstructs Mersenne's rule for exponents as that they must differ by not more than one from a value of 2n or by not more than three from a value of 2 to the power 2n.")

    メルセンヌは、ガリレオの落下する物体の動きの法則を試験する実験を行いました。 1634年に、彼は147、108、48フィートの高さから落下する物体の加速度を測定し、得た結果を提示しました。 これにより、ガリレオが1632年の『二大世界体系についての対話』(天文対話)で発表した時間二乗法則を確認しましたが、同時に、数値データについての疑問を投げかけました。 彼が解決しようとした問題の1つは、(物体は)ガリレオが主張したように連続的に加速するのか、それともデカルトが信じたように不連続に加速するのか、ということでした。 メルセンヌは、落下する物体が無限の速度を通過するというガリレオの仮定は、加速の真のメカニズム論的説明と両立しないと考えました。 これらのアイデアは、[24]と[25]で詳細に説明されています。
    (キグロ注:ガリレオは、静止した物体がある速度まで加速するときは、その途中のすべての速度を通過すると考えていましたが、有限の時間で無限の速度変化を起こすのは不可能であると考える人もいたようです)

    彼の非数学的作品の一部で、メルセンヌは順列と組み合わせを見ています。 彼は、組み合わせまたは順列の数を計算するための実際的なルール(反復の有無にかかわらず順列の数を見つける問題を解決する)を述べ、アナグラムの作成の例を提供しています。 しかし、組み合わせ解析を研究する彼の主な理由は、Book Six of Harmonie universelle(1636)のThe book on the art of singingで説明しているように、楽曲を最適化することでした。 パリの国立図書館に保存されている未発表の原稿では、8つの音符の40320通りの並べ替えを与えています。

    人生の最後の4年間、メルセンヌは気圧計の研究に多くの時間を費やしました。パスカルは、空気に重さがあることを既に証明していました。メルセンヌは、空気の密度が水の密度の約1/19であることを発見しました。彼は気圧計の実験方法(3フィートのガラス管の片側を密封し、純水銀で満たす)をDe Verdusからの何通かの手紙で知りましたが、それは1644年10月にイタリアのトリチェリを訪れ、実験を見たあとのことでした。トリチェリは、水銀がなぜガラス管の上に移動したのかを、大気の圧力を使って説明しました。メルセンヌは、本当に空気圧が水銀を支持していたのか疑い、帰国後に追試しようとしましたが、必要な設備がありませんでした。メルセンヌはこの問題をエティエンヌ・パスカル、彼の息子ブレイズ・パスカル、プチ、ロベルヴァル、そしてパリの他の人たちに説明しました。 1647年に最初にトリチェリの管と山での実験(のちにピュイ・ド・ドーム実験と呼ばれるようになる)の提案を聞いた人が誰なのかは、はっきりとはわかっていません。確実なのは、メルセンヌはホイヘンスとル・テヌールの両方と実験の打ち合わせを行いましたが、実験が行われたのは1648年にメルセンヌが死去した3週間後だということです。彼らはピュイ・ド・ドームの麓と山頂の両方でデータを収集しました。麓にあるときよりも山頂にあるときの方が、水銀柱の高さが低いのかどうかについての試験が行われました。これが真実であると判明した場合、水銀柱の変化は空気の圧力だけによると考えられます。最終的に実験を行ったペリエは、水銀の水準に大きな違いがあり、したがって空気圧がそれを支えているという正しい結論が得られることを確かめました。

    興味深いのは、教会(メルセンヌはその献身的なメンバーであった)が科学的な議論を遮る方向に傾いたときに、彼はどうやって自由に科学的アイディアを追究したのか、ということです。この問題は、Hineが次のように書いている[18]で詳細に考察されています。

    「17世紀前半には、コペルニクス仮説に関する議論が天文学者の階級を越えて広がり、教会が介入を決めた多くの論争を巻き起こしました。 1616年に、神学審査機関は、地球の動きに関する考えが哲学的に間違っており、聖書と矛盾していると結論づけ、修正するまでコペルニクスの本を差し止めました。歴史家は、ガリレオに関するこの決定とそれに続く非難は、カトリック諸国における科学的進歩を大きく遅らせるほどの壊滅的な影響を及ぼしていると一般的に推測しています。しかし、宗教秩序の忠実なメンバーであり、フランスの科学の発展の中心人物であったメルセンヌの態度は、このような推測に反するものです。コペルニクス主義に対するメルセンヌの反応を調べると、教会の決定がどんなに混乱したとしても、少なくともフランスでは、コペルニクスのアイデアを研究し、(いくつかの留保にもかかわらず)その価値を見出すことが可能であったことが示唆されます。メルセンヌは教会のそのような決定によって影響を受けましたが、それ以上のものはありません」




    いや~、メルセンヌさん、半端ないっすね!

    メルセンヌのすごいところは、単に科学者の会合を開いただけでなく、その中で科学者の卵たちの才能を見抜いた点でしょう。ここに書かれているだけでも、ロベルヴァル、ホイヘンス、トリシェ、ガリレイに適切にアドバイスし、のちの科学の発展に大きく寄与したようです。
    ガリレイにアドバイスしたってヤバくないですか。

    昨日の記事で、私は「メルセンヌみたいに数学の発展に貢献したい」などとほざいていましたが、そのためには人の才能を見抜き、適切に導く能力が必要みたいです。そんなもんねえよ。

    さらにメルセンヌは、自身でも様々な研究を行い、歴史に残る発見をしていたようですね。メルセンヌ素数だけでなく、落体、サイクロイド、トリチェリの実験、振動弦、順列と組み合わせの計算方法……半端ないな!

    「順列と組み合わせの計算方法」が、具体的に何を指しているのかわかりませんが、もしかして高校で習うPとかCとかなんでしょうか。まさかあれがメルセンヌの発見だったなんて!
    さらに振動弦の性質を初めて解き明かしたのも彼なんですね。高校物理で習うお馴染みのものですが、まさかこれもメルセンヌの発見だったなんて!

    あとこれも知らなかったのですが、大気圧のあの実験を提案したのもメルセンヌだったんですね。てっきりトリチェリが提案したのだと思ってました(トリチェリ提案したのかな?)。

    また、最後の方にとても興味深いことも書いてありましたね。
    当時は、教会が地動説を否定していた時代でした。しかし偉い司祭でありながら、多くの科学を知っていたメルセンヌは、コペルニクス主義を頭ごなしに否定することはしていなかったようです。しかし面白いことに、メルセンヌは大気圧の存在を疑問視したり、ガリレイの落体の実験を追試したりもしています。
    もしかしたらメルセンヌは、大気圧も落体も、天動説も地動説も、鵜呑みにするのではなく、「自分で実験して確かめない限り信じない」という立場を取っていたのかもしれません。
    当時としては、なんと先進的で科学的な態度でしょう!

    メルセンヌのようになりたいと思っていたのですが、いったいどうすればいいんでしょうね。まずは司祭にならなきゃ。


    あと、Google翻訳の精度、本当にすごいですね!
    なんだかんだ言って、出力された文章そのままでは日本語として不自然だったのですが、自力で全部訳すよりは圧倒的に早く訳せました。
    Google先生に訳してもらう→読んでみて意味が掴みにくいところは原文を確認する→辞書を引きながら修正する、という流れで作業したのですが、ほぼ1日で上の訳文が作れました。
    特に今回は、原文の筆者がやたら","を多用することと、フランス語がところどころに交じっていたことから、Google先生も混乱していたのですが、それに気付けば割と早く修正できたと思います。

    かがくの ちからって すげー!
    そして それをつくってきた かがくしゃたちも すげー!


    というわけで、日曜数学 Advent Calendar 2016 の3日目の記事は以上です。
    4日目はicqk3さんの「多項式の素因数集合です。お楽しみに!

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