6月は北国の春
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6月は北国の春

2014-09-20 07:27
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目が覚めるとまた雨が降っていた。もっとも暖房に殊の外気を遣う北欧のこの国では、ホテルの部屋も完璧に密閉されていて、外の物音は小鳥の鳴き声ひとつ聞こえない。雨は部屋の窓から見下ろせる白いテーブルセットの置かれた中庭に降っていた。大粒の雨ではなく、傘がなくても歩けそうな程度の小雨だ。とはいえ6月にこんなに天気が悪い日が続くのは珍しい。部屋の空気もなんだか心持ち肌寒い。
IAは3月の末に、イギリスから母方の親戚が住んでいるこの国にやって来た。子供の頃、父親が仕事でいない時には度々こちらの国で暮らしたこともあったので、「帰って来た」と言っても良いくらいだった。IAはこの静かな国が好きだったけれど、それはそれとして今度ここにやって来たのにはまた別の事情があった。イギリスで半年間一緒に暮らした友人と別れたのだ。それだけのことと言えばそれだけのことだったが、IAは彼女に恋をしていた。同性の友人を好きになったことにも罪悪感を覚えたが(彼女は私が彼女に近づくために友情を装ったと思いはしないだろうか……)、それ以上に、自分の存在が彼女を変えて行くことがIAには怖かった。あの独立独歩で、何にも負けず、どんなに困難でも自分の決めた通りやり遂げる友人が、「それじゃ、IAちゃんの言う通りにやるね」と言って笑った時、IAは一瞬、高波に乗ったような満足感を覚えた後に、恐怖のどん底に突き落とされた。私はこの人を自分の思うままに変えたいという気持ちに抗えない。私の示したもので笑い、すべての畏れを私に告白し、私と手を繋がなければ夜も眠れない人にしてしまいたい。そう気がついた時、IAは彼女の下から逃げ出した。結果的に彼女を傷付けてしまうことになるだろうが、彼女を変えてしまうよりはその方がずっとマシに思えた。彼女はずっとIAの憧れで、ずっと光輝く無謬の存在であり続けて欲しかった。彼女が変わるくらいなら、IA自身がいなくなった方が良かった。彼女の元から去ることでIAの心もごっそり抉られたように傷ついたが、それには耐えることにした。これは罰なのだ。あの素敵な人を変えようとした私が受けるべき当然の罰なのだ。


雨はなんとなく小止みになって来たようだった。IAは別にこの国でホテル暮らしをしている訳ではなく、この町に来たのは暇だったら菜園の手入れをして来てくれと、厄介になっている親戚の家の人に頼まれたからで、二、三日の内にはその仕事に取り掛からなくてはならなかった。もっとも急ぐ必要はまったくなかった。郊外にある共同菜園(何十家族分もの菜園が集まった巨大なものだ)は普段から良く手入れされていて、親戚の人たちは塞ぎ込みがちなIAの気持ちが少しでも軽くなるように、彼女をそこへ送っただけなのだ。
エレベーターが静かに降り、一階に到着した。IAがロビーを横切ってホテルの入口に立った時、カウンターの方で声が聞こえた。
「そう二人。イギリスから」
やけに聞き覚えのある声だ。はきはきした元気な英語だった。この国で英語を使う人は珍しくないし、この町には古い建物が多いので観光客も珍しくはない。にもかかわらず、IAの心臓は急に早鐘を打ち出した。理由もはっきりわからないまま、彼女は急いで扉を押して町に出た。


傘は持って来ていたが、雨は半分ほど上がっていた。IAは町なかの、さる高名な学者が残した植物園に来ていた。植物園と言ってもその本体は古い邸宅に付属した広い庭で、その庭には100種類以上はあろうかという草花が、ごく自然な感じを残しながら(ビオトープのような池もある)、几帳面にきちんと分類されて植えられていた。
空は相変わらず生憎の曇り空だったが、庭には6月らしく美しく花が咲き乱れていた。この国の人は本当にこういうのが好きだなぁとIAは思ったが、何を隠そうIA自身もこういった自然に花が咲いた景色が好きだった。イギリスの安アパート暮らしでは庭を持つなど夢のまた夢だったが、友人と二人で鉢植えの花はたくさん買った。そしてそれを見て、友人を花のイメージで例えるなら、高貴で、でも力強いラベンダーだ、と思った。私はその側で咲いている何か詰まらない小さい花(もし一緒に咲くのを許してもらえるなら、だ!)。そんなことを考えていたら友人が「IAちゃんは花に例えるならバラだよね」と笑顔で言った。IAはとても嬉しくなった。何も喋った訳でもないのに友人が同じようなことを考えていたのも嬉しかったし、白い控え目な野バラはIAも昔から大好きだった。そんな風に友人の側で咲いていられるのなら……。
そうしたら、友人は突然両手で満開の大きなバラの様子をジェスチャーし始めた。ええ! そっちか!? そっちなの!? でも「色はもちろん白で」と友人が言ったので、IAはほっと胸を撫で下ろした。そんな大輪のバラは自分とはかけ離れていると思うが、白い色はなぜだか昔からいつも好きだ……。
植物園の色とりどりの草花を楽しみながら、でも私はラベンダーと白いバラがあればそれで十分かな、とIAは思った。自分で壊してしまった今さらどうしようもない関係だけれど、少し涙を零すくらいは許されてもいいと思う。いやでも、零すほど涙が溢れるとは思わなかった。やっぱりこれは失敗だ。


そろそろ食事でもしようと、IAは植物園の入口から一歩外へ出た。そして慌ててすぐ後ろへ下がった。受付の女性が怪訝な顔をしたが、少しお手洗いに行ってきますと笑って誤魔化した。入口から顔を出した時、左手の坂道の方に二人の人影が見えた。その内一人の喋り声は朝ホテルのカウンターで聞いた声で、もう一人は一言、二言応えていただけだったが、「バラだよね」と言ったあの声に聞こえた。
まさかそんなはずはない。IAは自分が北欧で暮らしたことがあるという話は友人にしたことがあったが、どこに住んでいたかを話した記憶はなかった。まして、親戚から用事を言い付かって来た場所のことを彼女が知っている訳がない。けれど、さっきカウンターでも聞いた声は今思えば友人と一緒にバンド活動をしていた女の子の声にとても良く似ていた。金髪で、いつも赤い服を着ていたが、そう言えば今見たシルエットもそんな風だった気がする。そしてもう一人は友人だったのだろうか。正直言うとIAにはまったくわからなかった。あまりに急いで引っ込んでしまったので、良く見えなかったのだ。IAはトイレに行く振りをして建物の中に隠れ、しばらくしてから恐る恐る様子を見に出て行った。二人が植物園に入って来た様子はなかったし、入口の外にももう誰もいなかった。また小雨が降ったり止んだりしていた。IAは辺りを注意深く見回しながら、食堂街のある駅の方へ向かって行った。


駅のハンバーガーショップでなんでもないハンバーガーとフライドポテトを食べながら(じゃがいもがとても美味しい)、IAは必死で考えをまとめようとしていた。自分は友人恋しさのあまり幻覚でも見ていたのだろうか。みじめだけれど、それが一番ありそうなことのように思えた。けれどもし、彼女が本当に私を探しに来てくれたのだとしたら? そう考えただけで、IAは瞼が熱くなって、また涙が溢れて来るのを感じた。死んでしまいそうなくらいに嬉しい。でもそんなはずはないし、そうだったとしてもIAはまた自分から逃げ出してしまった。だからもうこのことは考えず、食べかけの食事を
「だからさー、ほんとに全市隈なく歩いて探すつもり? いくらなんでもそれは無理だって」
もう間違えようはなかった。それは友人と同じバンドにいた金髪の女の子の声だった。二人はIAの座っている場所とは反対のドアから店に入って来るところのようだった。IAは席を立って、目立って見つからないようにゆっくりと店を出た。


店を出た途端、IAは走り出した。本当に彼女だった! でも嫌だ! 見つかりたくない! 彼女に会うのが怖かった。会えばもう一度彼女を拒む自信がIAにはなかった。そしてなにより、彼女を傷付けた自分には、二度と彼女に会う資格はないと思った。
「どうしたんですか?」
どこをどう走ったのか、どこかの自動車道の真ん中で、車から声を掛けられた。この国ではいついかなる場合であれ、車が人を轢けば車の方が悪いという考え方が定着している。他の国だったら跳ね飛ばされて、怪我をするか、運が悪ければ死んでいるところだった。
親切な運転手にお詫びを言って、IAは道の脇に引き下がった。駅の回りには戻れない。というか、町なか全部が駄目だ。幸い、すぐ側に墓地がある。あそこなら回りは木に囲まれていて目立たないし、余所の土地の人も来ない。自動車道のあった丘から墓地に降りて来たIAは、そこでほっと息を吐いた。そこはこの町の他のほとんどの場所と同じく、緑に溢れた清潔な場所だった。大理石の墓石はぴかぴかに磨かれていて、周辺には生きた草花が植えられていた。小鳥だってあちこちで鳴いている。少し肌寒いことを除けば、ここも悪い場所ではなかった。
ふと気配を感じて、IAは顔を上げた。
「ひっ……」
階段を隔てた向こう側の区画の入口から、二人の人影が入って来た。暗くて良く見えないが、一人はギターを担いでいる。友人がいつも担いでいたギターケースだ。あの担ぎ方は彼女だ。
IAはきびすを返して走り出した。再び自動車道に出て、なんとかタクシーを捕まえた。郊外の共同菜園に向かうようにIAは頼んだ。


親戚の菜園には東屋があった。その二間しかない東屋の一番奥で、IAは座り込んでガタガタと震えていた。少し離れた所にある広場では夏至のお祭りをやっていて、メイポールの回りを踊っている人たちの声や音楽が切れ切れに聞こえて来た。
けれど、IAの頭にはそんな陽気な気分が入り込んで来る余地は一欠片もなかった。彼女に会えたら嬉しい。でも彼女には会いたくない。彼女は私が去ったことを責めるかもしれない。そうしたら私は死んでしまう。彼女は私を許してくれるかもしれない(メイポールの天使たちみたいに優しい人なのだ!)。でもそうしたら、私が私を許せない。それほど優しい彼女を裏切った私を、私自身が糾弾せずにはいられない。
IAはびくりと震えた。扉がノックされる音がした。ギターを持った人影が見えたが、鍵は掛けてある。東屋の中は散らかって、廃屋の一歩手前のようになっていた。窓から見える菜園の景色は、木々の緑に覆われた楽園のようだった。あなたはこっちに来たら行けない、とIAは思った。
躊躇も何もなく友人は窓ガラスを割って、扉の掛け金を外した。彼女は東屋に踏み込んだ。
「来ないで!」
IAは叫んだ。ゆかりちゃんが来てしまった。もう何もかも駄目だ。私は彼女を変えてしまう。そうか、私は自分のすることに耐え切れずに死んでしまう。いっそそっちの方がいい。多分。
IAは涙で滲んだ目を強く閉じた。


「IAちゃん」
落ち着いた足取りで彼女は近づいて来て、IAと目線を合わせるように床に座り込んだ。そして、膝を抱えているIAの手に自分の手をそっと重ねた。
「私、たった一つだけあなたに言いたいことがあって帰って来たの。聞いてくれる?」
IAは俯いていた。
「今まで黙っていたけど、私、あなたのことが好きなの。出会ってからずっと、あなたが私にしてくれたこと全部が嬉しかった。それでね、私、IAちゃんが私のことをどう思っているのか知りたいの。IAちゃんは私のこと好き? それとも」
沈黙が続いて、ゆかりの手が震えた。その瞬間、IAは顔を上げた。
「ゆかりちゃん」
ゆかりが息を飲む音が聞こえた。IAはゆかりの手を握り返すと、涙を溜めた目を一杯に見開いて、決然と挑むように言った。
「ゆかりちゃんが大好き。ゆかりちゃんとずっと一緒にいたい。ゆかりちゃんが迎えに来てくれて、死んじゃいたいぐらい嬉しい。もうどこにも行かないよ。どこにも行かせない」
そこまで一息に言ってしまうと、涙が零れ落ちて、眉毛が八の字に崩れた。彼女自身が崩れ落ちてしまう前に、ゆかりがIAを抱きしめてくれた。


幸せだ。
この国では春は来るのが遅くて、とても短い。けれど、そのために返って人々は春を大切に扱い、町を緑で満たして、墓石を綺麗に洗い、メイポールでにこやかに踊る。私たちの恋もそんなものなのかもしれない、とIAは思った。ゆかりちゃんと一緒にこの気持ちを育てて行こう。そんな風に一緒に歩める人が見つかったのだ。幸せだ。嬉しい。涙が拭っても拭ってもまた零れて来るぐらい嬉しい。
「でも、ゆかりちゃん、私、あなたを変えてしまうかもしれないよ?」
「そんなことなんでもないよ。だって私も、あなたを変えてしまうつもりだもの。幸せで、幸せで、私といることの幸せ以外、なんにも考えられないIAちゃんに」
それじゃ今と同じじゃないか、とIAは思った。でもそれなら私もゆかりちゃんを変えてしまおう。私といることの幸せ以外、なんにも考えられないゆかりちゃんに。そして、私は彼女の手が震えていたことを、ずっと覚えていよう。ずっとずっと。心の一番大切な場所で。
6月は北国の春。止みかけた小雨はまだ一粒二粒降ってはいるが、それはもうどうでもいいことだった。空はとうに晴れ上がっていたし、この国では二人が手を繋いで踊りながら道を横切っても、自動車は快く待っていてくれるのだから。











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こちらは下記2枚のCDのストーリーを補完する小説になります(「1月と2月の話」ar381421の続きです)。ムーンライト・ドライブEP通販中です。よろしくお願いします! http://www.toranoana.jp/mailorder/article/04/0030/24/68/040030246873.html

文中の「この国」はスウェーデンで、町はウプサラです。ブロマガではルビをサポートしていないようだったので、この形になりました。植物園と言っているのは、リンネ博物館のことです。

ではでは、楽しんで頂けましたら幸いです。ゆかいあは勝訴。





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