• 漠然と考える日本語と英語 part1

    2018-05-26 02:08



     上の本を買って読んでみたのだが、紹介されていたテクニックの一つとして、文末に注目してみるというものがあった。「~だ、~である」と「~だろう」は明確に区別がつけられると。あるいは、「~のだ、~のである」とも区別がつけられるそうで。普段意識してない人も多そうだが、考えてみると納得できる。例えば、

    1.これはペンである。
    2.これはペンだろう。
    3.これはペンなのである。

    この3つの例文を比較した際、1番は一般的な事実を述べているのに対し、2番は推測の意味が含まれる。そして、3番は何か結論を出したかのようだ。このような違いを意識することで、文章の読解力を身につけていこうと。現代文を読解する際に「事実と意見」というものがあるか、実は文末からある程度は推測できる。特に、3番のような表現に筆者の主張が来ることが多いから、設問でも問われやすい。ここで、考えてみたのは、「なぜ文末に注目するのか」ということ。これは日本語だけで考えても結論は出ないので、英語とセットで考えてみるとどうだろうか。これも例として、

    4.This is a pen.   これはペンです。
    5.This isn't a pen.  これはペンではない。
    6.Is this a pen?   これはペンですか。

    よくある肯定文、否定文、疑問文の3つだが、英語は文の前半で3つのうちのどれかが判別できる一方、日本語は後半まで読まないとどれだかが判別つかない。4番と6番なんて「か」が入ってるかどうかしか違いがない。そのため、日本語は最後まで聞かないといけないことがわかる。さらに、様々な表現として

    7.This must be my pen.  これは私のペンに違いない。
    8.This may be my pen.   これは私のペンかもしれない。

    というように、英語は助動詞が前半に来るので「違いない」のか「かもしれない」のかがすぐにわかる。一方で、日本語はやはり文末までいかないと、自信がどれくらいあるかがわからないのだ。また、「~だ」と「~だろう」について前述したが、この2つを英文に直すと、

    9.This is an expensive pen .      これは高いペンだ。
    10.I think this is an expensive pen.   これは高いペンだろう。

    となり、英語は一目瞭然である。「I think」と入っているので、自分の考えであることを最初に述べているのだ。それに対し、日本語は文末でないと事実なのか、考えなのかがわからない。9番の主語が「This」で、10番の主語は「I」であることは英語ならわかりやすいが、日本語だとわかりにくい。「これはペンだ」と「これはペンだろう」の2つを比べて主語が違うことにどれだけ気づけるか。この程度の短い文章なら簡単だが、現代文で扱うような文章でそんなことがきちんと判断できるか。そうでなくとも日本語は主語を省略することが一般的な言語である。「これはペンだと思う」で通じるので、「私はこれはペンだと思う」とはあまり言わない。逆に言えば、「私」とか「俺」という一人称を主語にすることが多い人は、自分の意見であることをアピールしたいという心理があるが、これは日本語ならではの考え方だろう。
    続いて、

    11.I play tennis.         私はテニスをする。
    12.I played tennis yesterday.  私はテニスをした。
    13.I'm playing tennis now.   私はいまテニスをしている。
    14.I was playing tennis then.  私はそのときテニスをしていた。

    過去形、進行形にするのも英語は前半で、日本語は後半で決まる。進行形の場合は「いま」、「そのとき」という単語が前半に入ってはいるが、「する」と「している」はやはり最後でないとわからない。
    英語はさらに文法を発展させて、

    15.I like playing tennis.        私はテニスをするのが好きだ。
    16.I like him who is playing tennis.  私はテニスをしている彼が好きだ。

    15番は動名詞、16番は関係代名詞を使っている。どちらも「好きだ」という文章だが、何が好きなのかは英語では前半でわかる。だが、日本語は後半までいかないとわからない。好きなのはテニスなのか彼なのか。似た文章でもそこが違ってくるので注意しなければならない。
    さらに、最メジャー級の疑問文である

    17.What is this?  これは何ですか。

    に関しても、日本語の場合、「ペン」→「何」に変えるだけでいいのだが、英語は「What」が文頭に来るのである。ここまでの流れでなんとなくわかりそうなものなのだが、英語は文の前半で肯定、否定、疑問を確定させようとする。今回の場合、「何」を聞きたいからそれを最初に持ってくる。まさに、英語は重要なものを前半に、日本語は後半に持ってくる傾向がある。そこを理解しておけば、英語も国語もある程度攻略しやすくはならないだろうか。

     このような2つの言語の違いを観察してみると、英語は文の最初で肯定か否定かを述べなければならない。最初の段階でそこをはっきりさせておくのだ。一方、日本語は肯定か否定かを最後に決められる。話している途中でも、後付けで肯定と否定を切り替えることができるのだ。全体の文の流れを最初に決めなければならない英語に対し、後からでも変更可能な日本語。よく、「アメリカ人はYes、Noをはっきりさせる」、「日本人は曖昧な表現を好む」と言われるが、言語の特徴からも説明できるのではないだろうか。
    次の例文ではどうだろう。

    18.I like baseball better than tennis.  私はテニスより野球が好きだ。

    これも、英語では好きなのは野球なのかテニスなのかをはっきりさせている。しかし、日本語では「私はテニス」まで言っても、そこから後の文章を変えることができる。そして、この文章は「私は野球の方がテニスより好きだ」とも訳せる。結局、どちらの方が好きなのかは後でも決められるのだ。
    極端な例を挙げれば、

    19.I love tennis.  私はテニスが大好きだ。
    20.I hate tennis.  私はテニスが大嫌いだ。

    好きなのか嫌いなのかさえ、日本語は後で決められる。当然、英語は最初に決めなければならない。「私はテニスが・・・・・・うん、ね」という具合に、日本語の文章は途中まで作れてしまう。やはり、はっきりとした英語、曖昧な日本語というのも納得できよう。


     こうやって一通り考えてみると、改めて日本語の文章は文末に注目せよというのは理にかなっていると言えよう。英語を学ぶからこそ、日本語の特徴が見えてくる。どちらも言語であるのだから、比較しながら両方の実力を高めていけたら理想だろう。
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  • カードゲームから考える経済学と心理学 part2

    2018-05-15 12:07
     
     「パブロフの犬」という有名な心理学の実験がある。犬を一匹用意し、ベルを鳴らした後にエサを与える。この行動を繰り返すとどうなるか。ベルの音を聞いただけで犬が寄ってきて、唾液を垂らすようになる。当たり前だが、ベルの音で唾液を垂らす犬なんていない。全く関係ない二つの事柄を「エサ」というキーワードが結びつけたのである。これを心理学では「強化条件付け」あるいは「強化」と呼ぶ。そして、今度はベルを鳴らしてもエサを与えないという行動を繰り返す。そうすると、ベルの音を聞いても犬は寄ってこないし唾液も垂らさない。こちらは「消去」と呼ばれる。
     この実験はもう少し踏み込んで、ベルの音が鳴ればエサが与えられるという関係性を100%から下げていけばどうなるか。ベルが鳴れば毎回エサがもらえるというのが最初の実験だが、そこを少し変えてみる。例えば、ベルを鳴らして2回に1回という規則的なペースでエサを与える。そうすると、犬でもこれくらいの規則性は学習するようである。これの特徴は、100%のときと比べて強化に時間がかかるという点だ。当然、消去にも時間がかかる。さらにエサを与える条件を変えて、不規則にしたらどうなるのか。ベルが鳴ってもエサがもらえるかどうかはわからない。でも、エサがもらえるときは必ずベルが鳴る。ベルとエサには関係があるのだが、ランダム性を与えるのである。2連続でエサがもらえることもあれば、5連続でもらえないときもある。こうなると、強化も消去もさらに時間がかかるのである。同時に、言い換えれば1回強化されてしまうと消去しにくいということでもある。消去のためにはベルが鳴ってもエサがもらえないという経験を何回も何回もしなければならない。その途中で1回でもエサがもらえてしまうと消去は最初からやり直しになる。

     なぜパブロフの犬の実験を持ち出したかというと、同じことがカードゲームで起こっているからである。ベルの音をパック開封、エサをレアカードに変えたらどうなるか。レアカードを当てるためにはパックを開封することが必須である。しかし、パックを開封したからといってレアカードが当たるとは限らない。もっと言えば、開封するまでどんなカードが入っているかはわからない。このランダム性に人は強く惹かれるのである。消去されにくい強化条件付けされてしまうのだ。例えば、パックを100も200も開封してレアカードが全く出てこなければ強化されないし、消去は簡単だ。しかし、実際にそんな人はいない。それだけパックを開封すれば必ず数回は「よっしゃああああ!」と言いたくなるようなレアカードが当たるだろう。その経験がパブロフの犬における「強化」なのである。
     カードゲームの醍醐味の一つに「カードを開封する瞬間」を挙げる人は多いが、その理屈はこの実験から簡単に説明できる。4,500円で30パック入りの箱ごと買ってきて開封する、その中から数枚レアカードを当てる。そんな経験が忘れられなくて、また箱ごと買ってくる。一度に3~4箱買うという人も珍しくない。そして、その中から再び数枚のレアカードを当てる。この繰り返しである。最初からどんなカードが入っているかわかってしまったら、ここまでの金額を投入するなんてありえない。何が当たるかわからないからこそ、箱ごと買いたくなるのである。パック開封の瞬間が楽しいのである。遠足の弁当箱のフタを開ける瞬間が楽しいのと似た理屈だろうか。

     ギャンブルをやめられない理由も全く同じ説明が可能だ。最大の理由は「たまに当たるから」である。これもやはり、100回やっても200回やっても一向に勝てないならばギャンブル中毒になんてなりえない。やめることも簡単だろう。しかし、実際はレアカードと同じように、それだけ回数を重ねれば数回は叫びたくなるほどの勝利を得るはずである。そうして人はギャンブルにのめりこんでいく。福袋が売れる理由も同じである。開けてみるまで何が入っているかわからない。その中に数個、「これめっちゃいいやつじゃん」と思えるような商品が入っていれば強化されていく。そしてまた買いたくなる。さらに、それ以上に当てはまるものこそがソシャゲのガチャであろう。このように、パブロフの犬の実験は身近なところで活かされているのである。

     さて、実はパック開封がやめられない理由はもう一つ考えられる。それは「すぐに結果がわかる」ことだ。パックを買ったら、それこそその場で開封することも可能だ。箱ごと買ったとしても、ベンチでも探してそこで開封することができる。結果がすぐわかるから次の勝負もすぐできる。そうして気が付けば100パック開封してたなんてのはカードゲーマーなら思い当たる節があるのではないか。もし、開封に1週間かかるなんて仕様だったらカードに一度に数千から万単位注ぎ込むなんてのは考えにくい。宝くじを定期的に買う人はいても中毒になる人はいないのである。宝くじは結果発表に数週間から数か月かかる。それだけ時間が経つと、結果がどうでもよくなりやすくなる。実際、高額当選しても引き換えないという人は結構いるそうだ。おそらく、宝くじを買ったことすら忘れているか、どうせ当たってないと思って結果を調べるのが面倒なのかのどちらかだろう。すぐ結果がわかって、すぐ次の勝負ができるというのは人がついついやめられなくなるメカニズムとも言えようか。はやく次の勝負がしたいのである。そうでなければ、1日に何回もガチャを引いたりしない。課金額が10万どころか100万をこえるなんてこともおこるわけだ。1年で正月くらいしか機会のない福袋も、楽しみにすることはあっても中毒なんてことはそうそうおこらないことも同じ理屈で説明できよう。

     ここまで散々パック開封がやめられない理由を述べてきたが、実は宗教団体が同じ理屈で成立しているということをご存知だろうか。信者がお布施をすれば教祖様から認められる。再度お布施をすればまた認められる。お布施をすれば100%の確率で認められればすぐに強化されていくのである。しかし、十分強化されたところで、今度はお布施をしても認められないということがおこっていく。それでもお布施をし続けることでまた認められる。100%からランダムへと変化していく。そうすると、強化されやすく消去されにくいということが完成する。結果、その宗教から抜け出せなくなるのだ。カードゲームも、最初はいろいろなカードが当たる。持ってないカードが次々へと当たるから、多少レア度の低いカードでも嬉しく感じやすいだろう。カードを買えば持ってないカードが当たる。これは100%に近い強化とも言える。やがて、多くの種類のカードを手に入れれば、新しいカードがなかなか手に入らなくなる。それでもカードを買い続ければ、持ってないレアなカードが当たる。こうなると消去されにくい。カードと宗教を同列に語るのも無理があるかもしれないが、その奥底にあるものは同じ理屈ではなかろうか。


     今回は心理学を中心に述べてきたが、「お金を払う」という行為が存在する以上、経済学も少なからず関係している。商品を買うという日常的なことにも心理学が潜んでいると考えてみると面白く感じられないだろうか。part3はまたネタがあれば投稿しようと思う。
  • カードゲームから考える経済学と心理学 part1

    2018-05-11 00:051




     上のカードは、ポケモンカードの最上級レアであるウルトラレアのレインボーエネルギーである。調べてみると、販売価格が16,800円のサイトがあった。買取価格も12,000円だの13,500円だのやたら高額だ。ここで疑問に思うのは、たかがカード1枚になぜこれだけの値段がつくのかということである。
     理由は二つ考えられる。一つ目は希少だから。二つ目はカードの効果が強力だから。しかし、改めて考えると、なぜ希少だからという理由だけで高値がつくのだろうか。当たり前のようで不思議なことである。別にこのカードを手に入れたからといって何か得があるわけでもなければ、何か損をするわけでもない。カードはただのカード。実生活においては何一つ影響を及ぼさない。なのに、レアカードが高値で取引きされるのなんてよくある光景である。二つ目の効果が強力というのも、理由としては納得できるようでいまいち弱い部分がある。というのも、レインボーエネルギーのカードはウルトラレア以外にも何のレアでもない普通のバージョンもある。効果は全く同じであり、そちらは当然高値で取引きされるなんてことはない。確かに強いカードは高値がつくことが一般的だ。だったら、価値にレアリティは関係なさそうなものなのだが、実際はそうではない。
     一方、16,800円で売られているということは、その値段で買う人がいるということだ。となれば、カード1枚にそれだけの金額を支払う人とは一体どういう人なのかという疑問も出てくる。これも大まかに二通り考えられる。一つはカードコレクターの人。もう一つは周りに自慢したい人。この二通りの人もそれぞれ考えてみると疑問が湧いてくる。いくらカードコレクターだからといって、たった1枚のカードに支払わなければならない値段なのだろうか。そのカードが手に入らないからといって自分の人生に何か影響があるというのか。どうしても手に入れなければならないものなのか。自慢にしたってそうだ。自慢のためだけにそんな金額を支払う価値が本当にあるというのか。自慢したからといってそれがなんだというのか。
     とまあ、ここまで疑問を書き連ねてきたが、これらの疑問を一つ一つ考えていくことで、経済学と心理学の関連性が見えてこないだろうかというのがこの文章の趣旨である。

     経済が苦手な人でも知っているであろう「需要と供給」という言葉。需要は欲しいと思う人がどれだけいるか。供給は人にどれだけ配れるかというもの。「rare」という単語は「まれな、珍しい」という意味がある。人は珍しいという理由だけでお金を支払ってしまうことがある。出回っている数が少なければ、それだけで価値が上がってしまう。ましてや、それがもう二度と増えることのないものであればなおさらだ。それに対し、欲しいと思う人が多ければやはり価値は上がる。人より高い値段を払ってでも手に入れたいという人が出てくれば高値で取引きされる。需要は多い方が、供給は少ない方が価値は上がる。経済の基本中の基本だが、そこに人間の心理が隠されている。売る側からすれば、1円でも高く買ってくれる人に売りたい。オークションと同じ原理だ。欲しいと思う人が100人に対し、商品の数が10個しかなければ何がおこるか。100人の中から高い金額を提示した10人がその商品を手に入れると考えるのが自然だろう。逆に、欲しいと思う人が10人に対し、商品が100個あればどうか。商品が余ることが目に見えているので、値段が下がることになる。レアリティの低いカードの価値が低いのと同じ理由だ。みんな持っているようなカードならば、高値で取引きされるなんてことはない。
     しかし、これはカードだ。前述した通り、手に入れようが逃そうがおそらく自分の人生には何の影響もない。食料品のように、それがなければ生きていけないということはおこらない。コレクターだからといって、そんな金額を支払うなんてありえるのか。結論から言えば、ありえる話だというのは想像つくだろう。例えば、ゼロから始めてカードをコンプリートするとなると多大な時間と費用がかかるため、なかなかやってやろうという気分にはならない。だが、カードを90%揃えているという状況になったら人はどうするか。残り10%をなんとしても揃えたいという心理がはたらくのである。ジグソーパズルを完成度0%の状態から作っていくというのはなかなか大変だが、90%完成しているものならば、残り10%はやってみたくなる。99%まできたのならなおさらだろう。残り1%に16,800円が必要なら簡単に払ってしまうということはよくあることなのである。
     特に男性はコレクション欲求が強い。カード、フィギュア、プラモなど、何かを集めて揃えたいという欲求がある。「そんなもの揃えて何になるのか」という女性の批判は耳が痛い。そしてケンカになりやすい。この点に関して、男と女は分かり合えないのかもしれない。それでも、例えば20巻まで出ている漫画で、12巻と17巻だけ抜けていれば気持ち悪いという心理くらいは理解してもらえないだろうか。
     自慢に関してはどうか。これも分かりそうなものだが、人は自慢のためにそれだけの金額を支払ってしまうものなのである。全く同じ効果の普通のレアリティのカードがある中で、わざわざウルトラレアを1万円以上支払って手に入れるというのは、見栄からくるものだと考えてもいいだろう。別にデッキが強化されるわけでもない。ただカードのレアリティが上がっただけなのだが、それで公式大会の決勝戦にでも出ようものなら確かにかっこいい。逆に言えば、見栄やプライドというのはそれだけ高くつくものという解釈もできる。「自分が間違っていた」、「かっこつけたくて嘘をついていた」この一言が言えなくて、自分で自分を追い込んだり、嘘に嘘を重ねたりすることがある。金と時間を浪費してまで己のプライドを守ろうとする。イメージを崩したくなくて無理をする。最悪、それで破産する人まで出てくる。ウルトラレアくらいならかわいいものかもしれないが、必要以上にカードのレアリティにこだわる人は気をつけた方がいいのかもしれない。知らず知らずのうちに、沼にはまって出られなくなるということがありえるからだ。

     ところで、16,800円というのは一体何をもって算出された額なのか。買取価格12,000円にしても13,500円にしても、どのようにして導かれたのか。何か、カードの価値を決める計算式でもあるというのか。そんなものはないというのはやはり想像つきそうなものである。ものの価値は、計算式ではなく相場で決まるからだ。相場というと難しいイメージを持ちそうなものだが、実際は「2万円も払う価値ないから15,000円くらいでいいだろう」というなんとなくで決まってしまう。計算式があるわけでもない価値の算出は「これくらい払うのが妥当だろう」で決まっていく。それが相場である。株価にしても為替にしても、価値なんて全部なんとなくで決まっている。もちろん需要と供給は考慮されるが、どこまで正確に反映されるかなんて知りようがない。

     さて、ではあなたは16,800円支払ってレインボーエネルギーのウルトラレアを手に入れたいと思うだろうか。ポケモンカードをやってる人でもなければ500円でもいらないと思うのではないだろうか。ものの価値というのは相場と需要と供給で決まると言っても、最終的には主観なのである。取引きといっても、結局は売り手と買い手の2人で決めていく。両者が納得すれば1万円でも2万円でもいい。あるいは5千円かもしれない。レインボーエネルギーに価値を見出せる人が1人たりとも存在しなければ、ただの紙きれ。たった1人でも価値があると信じて16,800円で取引きが成立すれば、それはそれだけの価値があることになる。言い換えれば、価値とは信用なのである。
     よくよく考えれば、福沢諭吉が描かれている1万円札だってただの紙きれではないのか。1枚刷る印刷代は約22円だそうだ。そんなものになぜ我々は1万円の価値があると思い、ありがたがって使うのか。それこそ、この国で買い物する全員が「これには1万円の価値がある」と信用しているからにほかならない。この世の人間全員が「こんなのただの紙きれじゃないか」と思えば本当にただの紙きれになる。みんなから価値があると認められたから価値があるのだ。レインボーエネルギーだって、多くの人から16,800円支払うだけの価値があると認められているからそれだけの価値がある。「信用」という曖昧な概念が、経済では非常に重要な意味を持つ。その信用が揺らぐとき、つまり「不安」が多くの人に広がったとき、不景気が訪れ、パニックが起こる。リーマンショックなんてのはその典型だ。信用と不安、結局は一人一人の主観、気まぐれ。景気が読みにくい最大の原因なのである。
     ここで反論されそうなのが、「500円だったらウルトラレアのレインボーエネルギーを買ってもいい」というものである。なぜなら12,000円で売れるから。差し引き11,500円の得となる。高く売れるから安く買いたい。この考え方は立派な投資である。3か月後レインボーエネルギーが2万円で売れるなら、いま12,000円で買ってもいい。そうすれば、3か月後に8千円の利益が得られる。この考えがまんま株式投資に当てはまる。将来値上がりしそうな株を予想し、安いうちに買っておく。高くなったら売る。その繰り返しで利益を出すのだ。実際はここまで単純とはいかないが。一体どんな株が将来値上がりするのか、未来予想ゲームみたいなことを皆が一斉にする。皆どのタイミングで株を買い、どのタイミングで売るのか。その出方をひたすら伺うのだ。
     私の友人が言っていたのだが、「レインボーエネルギーは価値が下がらないだろう」と。もし5年、10年経っても価値が下がらないという保証があるのなら買う価値が出てくる。15,000円で買ったものが、10年後15,000円で売れるのならプラスマイナスゼロになる。ならば、15,000円という現金の代わりに持っておくことも可能だ。10枚で15万円、100枚で150万円となる。実際はそんなことをするというのはありえないが、これもまた投資の考え方である。将来、日本円の価値が下がりそうならドルで持っておくというのも手だろう。あるいは、ゴールドを買うという選択肢もある。価値が下がらないという絶対的な信頼があるのなら、ある種の安心のために現金ではなく別の資産として持っておく。自分のお金を何に使うか、その使い道にその人の価値観というものが見えてくる。経済と心理はつながっているのだ。


     こんな感じでカードゲームをきっかけとした経済学と心理学へのアプローチを考えてみたが、いかがだったろうか。あくまで入門編ということで、多くの人が知ってるようなことばかりを書いたが、だからこそ深く考えてみる価値があるというものである。苦手な人にとって、少しでも理解できるきっかけになれば幸いである。ネタはまだもう少しあるので、part2を投稿してもいいかもしれない。