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随筆・琉球新報:杜甫は「国破れて山河あり」、松尾芭蕉は「夏草や兵どもが夢の跡」ドナルド・キーン氏「時で山は崩れ、川も流れが変わる。しかし、人の言葉は残る。」キーン沖縄戦に従軍。「家族に届けてほしい」と一部英語で書かれた日本兵の日記を戦場で読む。
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随筆・琉球新報:杜甫は「国破れて山河あり」、松尾芭蕉は「夏草や兵どもが夢の跡」ドナルド・キーン氏「時で山は崩れ、川も流れが変わる。しかし、人の言葉は残る。」キーン沖縄戦に従軍。「家族に届けてほしい」と一部英語で書かれた日本兵の日記を戦場で読む。

2020-02-25 08:51
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A-1 事実関係 琉球新報:「<金口木舌>国破れ言葉あり」(2月24日)

 動乱で国がなくなっても自然は変わらない。中国盛唐の時代、杜甫は「国破れて山河あり」と詠んだ。引用した松尾芭蕉は「夏草や兵(つわもの)どもが夢の跡」と続けて詠み、人間の無秩序、自然の秩序を対比させた▼芭蕉に触れた日本文学研究者ドナルド・キーン氏の見解は踏み込む。「時で山は崩れ、川も流れが変わる。しかし、人の言葉は残る。古代エジプトやギリシャの言葉も残っている。山よりも川よりも強いと思えると芭蕉から感じた」

▼キーン氏は米軍語学士官として沖縄戦などに従軍した。「家族に届けてほしい」と一部英語で書かれた日本兵の日記を戦場で読み、戦争の愚かさを痛感した。東日本大震災後に日本国籍を取得した晩年、日本の平和主義が脅かされていると危惧した

▼キーン氏が96歳で亡くなった1年前のきょう、新基地建設のための埋め立ての賛否を問う県民投

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仏教やキリスト教や政治と無関係な詩を「静寂」と厳しく批判し、人間の最も大事な行為は政治参加だと主張したのはフランスの哲人ジャン・ポール・サルトルです。

ドナルド・キーンさんが日本の平和主義が脅かされていると危惧したその姿はサルトルが批判する「静寂」を超越し、政治参加を実践した日本の偉大な文学者の一人のものだと私は思います。

米国の武力による世界制覇の為に日本の安倍氏が辺野古を提供して米国の戦争屋から感謝される在り方はポーランドのネオナチがロシアのモスクワに照準を当てたイージスアショアを受け入れる姿と寸分とも違うところがありません。

このことにより招来する結果は「国破れて山河あり、城春にして草木深し、、、」みたいなロマンチックで無いことだけは明白なことです。

No.1 50ヶ月前

時、場所を超えた永遠の事実は、「ことば」であるという。

時、場所が限定された中で、「言葉」が出てくる。残っているような言葉は、時、場所が変われば、価値が変わってしまうことが多い。間文化的に通用する言葉を探すのが難しい。

「言葉」を肯定すれば、肯定する人にとっては普遍的価値を持つ。「言葉」を否定する人にとっては、無価値であり忘れ去る。

人、時、場所が変われば、価値が変わる「言葉」などに真実性を見る人は「唯物的「」といえるのではないか。人、時間、場所が変われば、「こころ」のように、真実性が変わるという見方は「唯心的」である。どちらを選択するかは、その人の人生観が大きく左右する。

ドナルド・キーン氏は、西欧の人であり、日本人の感性と大きく異なっている。日本人は、「唯心的」にそのままの自然の中に「美」を見出すが、西欧人は自然は征服するものと考えており、作られたもの「建造物」に価値を見出す。日本人の価値観と西欧人の価値観の差であり、どちらが優れていると判断するものではないと考えています。

No.2 50ヶ月前

わたしは俳句というのは文学とは認めず、言葉遊びに
過ぎないと考える人間なのです。

俳人あるいは俳句好きの人に奥深い教養を見たことが
ありません。

すみませんが。

No.3 50ヶ月前

>>2 追記
間文化的に通用する「ことば」は、詩・俳句など瞬時をとらえ発した「ことば」に生命感があふれ出るとみています。

No.4 50ヶ月前

>>2
孫崎先生のドナルド・キーンさんは日本兵の書き綴りを読んで言葉の普遍性に気付いたのです。そして、芭蕉の言葉(詩)を深く理解し、改めて言葉の普遍性の存在を確信した、と私は解釈しています。

貴殿の規定するところの「自然を征服するターゲットとする西欧人」にはキーンさんは属していないと思うのですが、貴殿の眼にはキーンさんもそういう西欧的俗物に見えるんですか?

No.5 50ヶ月前

>>5
このブログでは、「言葉」(芭蕉の俳句)は、山より川より強く見えると言っています。

山川は常に変化しており恒常的ではなく、常に新鮮なものを心に与え続けます。その瞬時をそのまま「ことば」で表現したものが俳句です。素晴らしい作品であることは否定できないが、山川の普遍的絶対的な流れ(時・場所)を超えることができるかといえば、「NO」でしょう。

ドナルド・キーン氏は、自然法爾そのままの姿より「言葉」が超えるといっているから、その差別感を「NO]といっているのであり、芭蕉が瞬時の自然の在り方を直感でとらえたところをそのまま表現したといえば、納得できるのです。これは、日本人の無分別的霊性と西欧の形而性評価という文化の差であり、違いであり、私はどちらが優れているなどとは一切言っていません。

ただ思想的に物質的分配に軸足を置く唯物思想を重視すれば、俗物的になり、ドナルド・キーン氏のように自然より言葉を重視するのはよく理解できます。

No.6 50ヶ月前

>>6
日本人の無分別的霊性と西欧の形而上性評価という新規の言葉が出て来た。いやいやまいったよ。自然を征服する西欧人を俗物と言ったのがかちんと来たみたいですね。西欧人はその征服マインドが厳しく西欧の知識人から批判されています。俗人と呼んでも一向に構わないと思いますが。

No.7 50ヶ月前

>>7
もう一つ、自然と言葉を比較する視点にキーンさんはストレスを置いてないですよ。

No.8 50ヶ月前
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