【考察】『叛逆の物語』と『人間』――劇場版 魔法少女まどか☆マギカ新編が残したもの
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【考察】『叛逆の物語』と『人間』――劇場版 魔法少女まどか☆マギカ新編が残したもの

2013-11-05 19:18
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ども、初めまして、Mistirです。Twitterやってます。まあ自己紹介は置いとくとして、まどか☆マギカの新編『叛逆の物語』見たんですよ。友達があまりにも勧めるんで。で、あまりにも凄かった。僕の創作観を覆すほどの素晴らしさ。だけどポカーンとしてる人がリアルにもネットにも多い模様。モヤモヤしてる人も多いとか。真顔になっちゃったとか。

だから解説ってか、分解して、解釈して、示してみたくなったんです。あの物語はなんだったのか。勿論解釈の一つであって、幾通りも解釈はあってしかるべきなのですが、一つのパターンを示したかった。あくまでも一つのパターンに過ぎないので、これと真逆の解釈も大アリです。そのほうが楽しいもんね。
それでポチポチ書いてみたところ、衝撃の6000字オーバー。Twitterで語れるレベルじゃない。ネタバレも嫌だし。

だから、とりあえずはそのためだけのブロマガです。もしかしたら続けるかもしれないけど、今は未定。

さて、とりあえずさっそく解説行きます。念のため、ネタバレ満載です。本編や映画をまだ見ていない人は、絶対に読まないで下さい。容赦なくネタバレしてます。多少文体がブレてるけど気にしないでね。繰り返しますが、以下、ネタバレ注意!













『魔法少女まどか☆マギカ 新編 叛逆の物語』は、本編テレビ放送版の構築を破壊し、そしてあらたなる枠組みのもと再構築する、まさに極限の物語であった。と、堅苦しい評論的にしようと思ったけど書きながら「これ気楽に書こうかな」と思ってやめた。だから序盤はちょっと固い文章で、だんだん柔らかくなってくる。ちょっとだけ我慢して読んでみてね。さて、レッツゴー。

本編『まどマギ』には物語の根幹に関わる部分の短所があった。この『短所』という言葉は『長所』と表裏一体のものであり、それがあることによって物語の『品質』そのものには全く関わらない部分という意味で使いたい。少し解説すると、あの世界では徹底的に『男性性が排除されている』のにお気付きだろう。不自然な程に。それは『男性性に関して語り得ていない』あるいは『男性性に関して語るために、徹底的にそれを排除するという単純な手段を取っている』という『文脈に限定すれば』短所である。しかし、あの物語の中で男性性は『むしろ排除されなければならない』。何故なら後述するように、本編の展開が究極的には『一人の女神の誕生』に収束するからだ。ここで使う『短所』という言葉は、とりあえずはその程度の意味として解釈して欲しい。断じて作画ミスや展開の破綻のような『欠陥』ではない。その意味では、まどマギは驚異的なまでに『欠陥の無い』アニメであったと言っていい。

さて、短所とはつまりこの物語が『女神の慈愛の物語』に収束していることにある。ほむらという個人の努力、執念、祈りが収束した先は、まどかという『慈愛の女神』だった。だが、ここでよく考えてみると、この結果は『人間性を排除』していないだろうか。ほむらの有する極限までの人間性は、結局『慈愛の神を生み出すための踏み台』に過ぎず、真の神として覚醒するまどかの前では虚無に等しい――本当にこれでいいのか? 結論を言えば、TV版の物語としては非常に『正しい形』ではあったように思う。それは、TV版の物語が12話かけて描いたことは、結局『一人の慈愛の女神の誕生の物語(『の』が多いね)』だからだ。本編は究極的にそこに収束するといってもいいだろう。まどかの家庭を考えてみるといい。力強い、理想像としての男性的な母親。母は11話で、まどかの決心を認め、彼女を見送る。まさに聖母だ。21世紀の新たな形、戦う聖母である。そしてまどかは男性的な『強い』母を超越し、全てを慈愛で包む『女神』となる。人間である『ほむらの祈りは神に通じる』というわけだ。物語としては一切破綻のない、美しい展開だ。

だが、本当にこれでいいのか? という疑問は、少なからず僕の中には残っていた。これではまどかの圧倒的な人間を超えた、まさに超倫理的な人間性、そしてそもそも眠っていた『神性』に全てが吸収されてしまっている。ここに本当の意味での『人間』は存在するのか? ほむらの祈りが通じればオッケー?

『奇跡も、魔法もあるんだよ』。まさにその通り、裏切りの意味で使われたその言葉が最後に回収される。綺麗だ。絶望も汚れも総て一身に引き受ける女神まどか。美しい。めでたしめでたし。……ホントにそうだろうか? 『これで良くない』など、誰に言えようか。それが物語だ。批評の段階で何を言おうが自由だが、物語は物語として完成しているのだ。ぶっちゃけると、あまりに綺麗な終わり方だったため、この疑念はほぼ消えていた。僕の中でなかったことになっていた。同時に、まどマギが僕にとって『印象に残る秀作』としてしか残らない結果ともなっていた。……だが、映画版『叛逆の物語』は、この疑念を完全に解消し、物語を神の手から『人間の手へ』と取り戻した。つまり超俗から、俗なる高尚へ。御託はこれくらいにして解説行きます。


映画が始まって早々、観客は強烈な違和感に襲われる。なんだこれは。『こんな可愛くて平和な世界、まどマギじゃない』なかなか倒錯している。だが逆説的に練度の高いまどマギ民(いや、むしろ全員か?)は『なるほど、これが壊れるんだ』と薄々気づきながら物語を見守ることになる。『こんなまどマギらしくない展開、まさにまどマギ的だ!』嗚呼、楽しいパラドックス。恐らく誰も『魔獣と戦う少女たちの単純な後日談』とは思ってなかっただろうが、やはり奴ら(某シナリオライターたち)は予想の斜め上を行く。まぁ存在しないはずのまどかがモリモリ出てくる辺りで既にお察しだよね、うん。そして予想の斜め上を行くことさえ、我々はある程度予想している。この時点で、『観衆は一体化する』。演説のプロも真っ青なまでの見事な導入だ。可愛らしく、平和に戦いは進む。謎マジカルバナナ。みんなかわいい。杏子ちゃんかわい……アレ? こんなの杏子ちゃんじゃない。まあそれはおいといて。かわいいのに、不気味。TV版の時点でこの可愛さと怖さの同時性ってのは強調されていたが、さらに強化されてしまっている。最早映像芸術だ。これはこれでいいんだが……これじゃ終わらないよね。

さて、やはり世界は壊れる。「やけに素直に聞き入れる杏子ちゃん」。壊滅的なまでに交渉スキルの低いほむほむは何処に行ったのか、一瞬で懐柔である。そしてマッハで突っ走るほむら。3話までの悲劇の10割を担当したサンリオ的魔女的な何か(この時点ではマジ謎な存在)の首を躊躇わず締め上げる。ちょっとほむらさんやり過ぎちゃうか? ……ここで、ほむらの『大人びていると見せかけて、子どもじみた一人よがりの行動』には絶対に着目していなければならない。本編ではこの要素はふっ飛ばされ、『女神に近い超人』としてしか描かれていなかったからだ。結論を言えば、この映画は『暁美ほむらの再構築』でもある。

閑話休題。物語の映像的山場、マミとほむらのガン=カタアクションに入る。『ガン=カタ』は映画『リベリオン』によって提唱されたアクションで……っていう話はよそう。とにかく、超カッコよくスタイリッシュ。ここに理屈はいらない。何度でも見たくなる銃弾の豪雨。いやーホントカッコいい、あっという間に終わってしまった。映像的山場が終わると、物語もさらに動き出す。

ほむらの子供っぽさ、極端な内向性は、まさかまさかのさやかちゃんが指摘する。本編とは真逆の立場だ。大人っぽいほむほむが自分の正義と絶望に溺れるさやかちゃんに何故か理不尽に恨まれる……勿論さやかちゃんがほむほむのマミによる拘束を知らなかったというのもあるから仕方ないとも言えるが。そういった構図に近かった本編とは逆に、ここでは完全にさやかちゃんが正論であり、強調して言えば『上の立場』だ。

本編の映像的山場その2と物語の山場が重なる、まどかとほむらの花畑での会話。ほむらはまどかの『本心』を知る。「そんな大きな責任私に背負いきれるわけがない」……彼女はあくまでも『人間』だった。結果的に慈愛の女神になったにせよ、それは結果の話で、本来のまどかは『超人』ではない。『人間』。ここから本編の解体が始まっていたのにお気付きだろうか。本編では、女神になったまどかを含め、全ての少女が全ての運命を受け入れた。特にほむらは―ーそう、ここから『叛逆』の予兆が始まる。まどかはほむらを抱きしめながら、髪の毛を三つ編みに結わえてゆく。まるで、何もなかったころのほむらを全て肯定するかのように。戦う前のほむらちゃんでいいんだよ、と言うように。それでいいんだよ、と。だが、ほむらは明確に『拒絶』する。過去の『受け入れた』自分さえも『拒絶』する。一面の花は一瞬にして枯れ……しかし、一瞬にして綿毛となる。新たな種子の誕生。……勿論この部分の会話はかなり難解というか、どういった意図のもとで行われているのかこの時点ではわからない。さて、話は進むよ―。

なんと、犯人はほむらだった!この辺りの解説は別にいらないかな。実際QBの言うとおりと解釈していいだろう。恐らくあの『顔のない人々』は完全なほむらの幻想で、それ以外がほむらの結界に迷い込んだ実在なのだろう。そう考えると中沢くん凄い。ほむほむにしっかり認識されてる。さて、QBの壮大な実験に付き合わされ、ほむらは魔女化する。「なんで?」という話だが、もし魔女化せずその直前で、QBの結界の中で『まどか助けてクダサーイ、私を円環の理に導いてクダサーイ』と仮に叫んだとしたならば、まどかがQBに囚われいいようにされちゃう(意味深)可能性があったからだ。そのために……そう、『まどかのために、絶望の魔女化を、円環の理に導かれることは諦めて、それでも強い意志で選んだ』とも解釈できる。これはまさに本編で多くの人が抱いたほむら像だ。が、結論を言えば、コレは凄く丁寧で上手なミスリードなのだ……これが『計算の内』であったことは、前述した『ほむらとまどかの会話』が裏付けしている。もしこの後の展開に何か偶発的な要素があったとしたら。『あの会話のシーン、あの決心したほむら』に時間をかけた意味がなくなってしまうのだ。とりあえず円環の理勢が助けに来る。あの悲劇の象徴シャルロッテさんがほむらを助けてるってのは単純に胸が熱くなるなという展開であり……QBの結界は破られ、「「「「「わけがわからないよ」」」」」である。完全に笑わせに来ている。全体的にシリアスな笑いが多いが、それも多分意図的なのだろう。極限状態だしね。それはそうとして、その後、女神としての責務を思い出したまどかは、特別な存在であるほむらを直々に『女神として』迎えに来る。まどかのもとに、『女神であるまどかのもとに』『魔法少女の運命を受け入れたほむらが向かう』ならば、見事なまでの『TV版の補完』であり、こうなるはずだった『運命の肯定』である。ここで終わっても、十分泣けるし物語として完成している。だが。ここから、始まるのだ。


『叛逆の物語』が。


まどかを、最も欲しかった存在を、最も幸せを願った存在を『その手で掴み取った』ほむら。ソウルジェムは『絶望よりも深いもの』、つまり『愛』によって、果てしなく恐ろしい色に染まってゆく。その形は変形し……

本編での暁美ほむらは、解釈の余地が残っていた。女神まどかと同様に、まどかという『他者』に極限の『慈愛』を注げる『滅私』の主人公、暁美ほむら。その解釈はTV版の時点では可能である。だが、『叛逆の物語』はそういった『ほむら像』を徹底的に叩き潰した。ほむらの本質は断じて『滅私』や『慈愛ではない。むしろ、徹底的な『自己の噴出』だ。まどかという欲望の対象を、彼女は自身の欲望として明確に捉えていたのだ。そうじゃないと、まさに言葉としてもそうだけど、『悪魔に身を売る』『悪魔になる』なんて、自己を消失させられる聖人には無理ですよ。それこそ『女神』です。


受け入れた過去の自分への叛逆。世界の理への叛逆。女神への叛逆。『愛する存在への叛逆』。映画序盤の子供っぽい、頑なな、最早悪役じみた行動もここに来て明確に収束する。ほむらは『自分を決して曲げない』。結果として、比喩ではなくまさしく『世界を敵に回すことになったとしても』。『女神を殺し(Gott ist tot!)』、『悪魔』として世界の秩序をさらに作りなおした暁美ほむら。ほむらはそもそも序盤で『結界に閉じ込められた偽りの世界で』過ごすことに一瞬で反発したことをここで思い出さねばならない。だが今は、彼女は自らの意志で『偽りの世界に』君臨しているのだ。いや、最早偽りでさえ無い。それが真実になってゆくのだ。さやかはほむらに反発するものの、『失ってしまった、失ったことを受け入れたと思っていた』日常にまた出会うことができて、涙を流す。本編では、女神の力といえども異物『インキュベーター』を排除するには至らなかったことも重要だ。だが、悪魔……人として悪魔になってしまったほむらは、インキュベーターを『征服する』。この部分においても、ほむらは『神を超えている』。

そして、ラストシーン。まどかから貰っていたリボンを返す。まるで、あるがままの『人としての』鹿目まどかを肯定するかのように。女神としての責務を思い出しそうにはなるものの、まどかがほむらを拒絶するには至らない。至れない。いつかほむらはまどかや他の少女と戦うことになるかもしれない。それさえ受け入れる。それが、『後悔した、間違えてまどかを女神にすることを許してしまった過去に叛逆した』結果なのだから。後味が悪いのも当たり前だ、それが『人間として、自分の欲望を、愛を貫くこと』なのだから。それでも円環の理の全てを破壊せず、人格部分だけを引きちぎるあたり倫理的ではあるのだが。この所業、まさに神を超えている。神を超えた、紛れも無い『人間』だ。

この意味に気付いたとき、そりゃ泣きましたよ。だってこれ、コレ以上ないレベルの『人間に対する肯定』じゃないですか。『エゴイズムから噴出する愛は何よりも暗く、何よりも強い』んですよ。絶望なんかよりも、ずっと。そのエゴイズムでなぎさもさやかも『かけがえのないものを取り戻した』でしょ、『結果として』だけど。この『結果として』ってのが凄く大事なんだけどね。もちろんこれが何のひずみも産まないかというとそんなことはない、だから後味が悪い。けれどもそれでも、人として『叛逆』したんですよ、そして運命を超えた。滅私の慈愛も超えて、人間の執念が勝利した。人間の執念とは何か? そう、それこそが愛です。愛は暗くて内省的で身勝手で頑なで、とんでもなく迷惑で、冷たくて……それでもそんな人間の身勝手な愛を全力で(『手放しで』ではない)肯定している。少なくとも『そこに在る』と、その存在の可能性を断言している!コレほどの人間の、人間性の肯定が他にありますか。何より、こんな純愛が他にありますか。そりゃ泣くって。

そこで『君の銀の庭』ですよ。余計泣きますよ。

結局、世界ってなんなのか。自分の中に形成するものなのか。それとも、客観的に存在するものなのか。自分の世界を変えれば、客観的な世界も変わるのか。そりゃ自分が変われば世界は変わる。「世界が暗いと思う人は、極端な話ずっと躁状態でいればいい」と養老孟司氏は言いましたが、この物語はそういった次元の小さな話なのか、それとももっと大きな話なのか。ほむらの世界ってなんなんだ。そこまで行くと流石に難しいのでやめときます。それからついでに、『神は死んだ』もそうだし、露骨にニーチェの『超人』が意識されている。まあこの当たりについて語るのは専門家に任せます。ニーチェの超人思想に関する本はいっぱい出てるので色々読んでみて下さい。

これだけ分析すると、杏子ちゃんが骨抜されてたのも納得できる。何故って、エゴイズムで動く、動こうとしていてそんな自分を底の方では嫌悪してる杏子ちゃんは完全に叛逆のほむらの下位互換なんですよ。まさに人間らしい存在。弱い人間です。弱いからこそ、さやかをひとりぼっちにせず死ぬことしか選べなかった。もし本編の尖った杏子ちゃんが出てきてたら、凄くみみっちく見えていただろう。ほむらが弱さも強さも飲み込み、それでも人間であることを失わない存在だから。ありゃあくまでも人間です。女神になったまどかと違って普通に学校に出席してるわけだしね。だから杏子ちゃんに関してはああいう描き方で正解なのだ。……ファンとしては少し残念だったけど。

エゴイズムは、結果が出るまでそれが何をもたらすかわからない。それに比べれば、TV版ではある程度『結果が見えている』んだよね。でも先の見えない、『わけのわからない』果て無き結果のために、人はエゴをとにかく貫く。貫き通す。それで先の見えない道を生きるのが人生だ。この作品は、TV版の『女神の手に収束した物語、万人へ矢印が向かっている慈愛』に対し、強烈な一本の矢印に収束する暗い暗い強い愛とその愛を有する、有せる人間が『叛逆』する、強烈な人間賛歌の物語でした。おしまい。

とは言え、やっぱり後味は悪い。でも仕方ないんですよ。神のいない世界でヒトとしてこれから生きていくのは、彼女らだけでなく、何より僕達もなのですから……だから手放しの人間賛美ではないんです。これは、責任を伴った、覚悟を決めた上での人間賛美だ。まあ難しいけどね。今度こそおしまい。

【追記】
色々調べてますが、ラストは解釈分かれてたり、続編に続くと考えてる人が多いみたいですね。もしそれで、例えば明智光秀のように叛逆が一度成功したものの最後は失敗に終わったとしても、別に構わないんです。たとえそれでも人間の力強さ、愛の強烈さ、そういったものが美しく残酷に、そして盛大なエネルギーを以って描かれていたのは間違いないのですから。そこに僕が涙した事実は変わりません。豊臣秀吉的な存在が現れたところで、この作品の価値は変わらない……そう思います。さすがにほむら自殺エンドではないと思うんですけどね―、まどかたちと戦う覚悟さえしてたほむらがそんなメンタル弱いわけが……いや、そういう人ほどポキっと折れるかも……とりあえずは保留ですね。
ま、続編が来たらまた何かこの映画も違って見えるかもしれませんけどね! それは、神……いや、ウロブチのみぞ知る、です。
ほむほむが明智光秀とすれば、まどかは織田信長……うん、例えが悪かった。

【さらに追記】
この記事を紹介、援用しつつ展開していただいたブログのリンクです。ありがとうございます。
http://amba.to/HHCt2b


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他8件のコメントを表示
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それ、要求高いですw自分、Mistirさんの頭脳の1/3くらいの知性と文才しかないので、
間違った表現で書いてしまうのが怖いですが・・・
Mistirさんのように確信をもって自分の考えをまとめられてないので、
極力おおまかに、方向性だけ間違えないように書こうと思います。
どうしても、今の早い時期に書くことに意味があると思うので。
Mistirさんの記事に先導できれば、それだけで価値がありますから。
それだけ素晴らしい考察です。
賛美の件、おっしゃっていることは分かります。
そこが虚淵的だと思います。大好きです。
48ヶ月前
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>>9
別に要望ではないですので、大丈夫ですw ただ僕自身も断言できないことが山ほどあるってだけでw
とにかく、期待してますね!
48ヶ月前
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書けたらツイッターで報告しますね。お手数ですがもし読んで間違ってたりおかしなところに気付いたら、指摘お願いします。
48ヶ月前
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ようやく書けました。すぐって言っておいて遅くてすみません。相当悩んでるうちに3000字いきました。よろしくお願いします!
48ヶ月前
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>>12
読みましたよ〜凄く理解なさってると思います、僕自身も再発見することが多かったです。こちらにもリンク貼っときますね。
48ヶ月前
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>>13
ありがとうございます。理解はおかげさまで、です。もう1点、QBの思惑の視点から、魔女・魔獣・ナイトメアの3つの世界設定についての考察も一緒に書こうとしましたが、一旦力尽きましたw余力がでてきたら続きを書こうと思います。
48ヶ月前
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ジックリ読ませていただきました。

この作品は賛否両論分かれていますが、否定的な方はほむらの「叛逆」を認めたくないのでしょうね。

TV版のまどかの「決断」を絶対的ととらえれば、「叛逆」は前作を全否定することになりますし。

しかし、私はどうしてもそうは思えませんでした。

逆にTV版の方が後味が悪かった。

これではあまりにもほむらが辛すぎる・・・ほむらへの負担が大きすぎる。

「叛逆」で何か救われた気がしました。

しかし、この「叛逆」がこのまま終わるとは思えない、

ほむらは全てを敵に回し、戦わなければならないでしょうね。

ほむらの「叛逆」の動機は まどかを犠牲にしてしまったことへの後悔。

まどかが現実にいるセカイ、皆が幸せな日常を送られるセカイを護るために・・・

今度は自分が犠牲になる「決断」をしたのですね。

改変後にさやかにとったあの悪びれた態度も哀しく見えます。

「叛逆」のほむらの本当の姿は、リボンをまどかに返した時のあの優しい表情・・そう何も変わっていないのです。

独り改変の街を眺めるほむら・・切ないですね。

ほむらの道標は、今もあの壊滅した街でまどかと交わした約束・・・「絶対にあなたを守って見せる」なのです。

すいません・・・長々と書いてしまいました。

47ヶ月前
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>>15
コメントありがとうございます~。
ほむらが何一つ変わってないというのは同意です。
おかげで二次創作界隈がますます同じ方向性で賑わったのは、ある意味象徴的ですねw
結局のところ、この作品は愛をいろいろな方向から検証してる、と。
46ヶ月前
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おっ、こっちは読みごたえのあるいい記事
特に異論もないです。しいて言えば、暁美ほむらが主人公に据えられていた(鹿目まどかは非人間的すぎたので目的と考えます)以上、TV版の終わり方は勝利条件を達成していない不完全なものです。あえてしこりを残しているのでしょうが

もう一点、虚淵氏は当初暁美ほむらを救済して終える予定だったとか。現在の「叛逆」を提案したのは新房監督だそうです
45ヶ月前
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>>17
ありがとうございます。
ふむ、TV版から人間の主人公はほむらって言われてましたもんね。

その話、初めて聞いたときびっくりしました。虚淵らしくない……のかな? つまり、新房監督が黒幕だった、とw
45ヶ月前
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