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  • 獄中十八年 徳田球一編 四.七高生から代用教員

    2016-12-02 20:00
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     沖縄中學卒業後、一年間東京で豫備校生活をしたのち七高に入つたが、貧乏で學資もなかつたので、はじめ母の異母弟にあたる叔父の家に世話になつた。この人は大してわるくなかつたが、その母がひどい人で、わたしが琉球人の腹だというのでおなじ食卓でめしをくうことをこばみ、ぜんぶ下男と一しよにさせた。湯殿はあつたがわたしが湯に入るときたないといつて湯にも入れない。だかわたしは町の銭湯にいつた。そういう侮辱をうけるのでとうていがまんができなくなり、寄宿合に入つたが、さうなると金が足りないので、とうとう高等學校は一年在學しただけで中途退學し、一九一三年(大正二年)に琉球にかえつてしまつた。
     
  • 獄中十八年 徳田球一編 三.小學校で最初のストライキ

    2016-11-23 20:001
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     わたしはこのような善良な祖母と、 わるい祖母の二人に育てられ、まえに述べたようにおさないときから社會の罪惡面を身近く見せつけられたので、よわい人たちにたいする同情と、それらの人々を不正な壓力からまもろうという氣もちが若いときからつよかつた。そして小學校の五年のとき最初のストライキをやつた。校長は琉球人でない輸入校長だつたが、琉球にくる輸入敎員がみんなそうであるように、ざんぎやくで、わるい人間だつた。學校でもいわゆる鹿兒島のスペルタ的敎育で、なぐつたり、けとばしたり、「琉球人のばかやろう」などといつた。これにたいする反感が昂じてわたしたちはストライキをやつた。
     
  • 獄中十八年 徳田球一編 ニ.親孝行でとうる

    2016-11-14 12:00
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     わたしは子供のとき非常に親孝行だつた。今でも村では親孝行とうわさしているという。親孝行は特に母と、父方の祖母にむかつて集中し、母方の祖母には前に述べたようにむしろにくしみをもつていた。
     私の母は父と結婚したことによつて母方の祖母と對(対)立する立場にあつた。というのは、この父が非常に酒のみで、金をためるということを知らず、人にたのまれるとなんでもくれてしもう性質で、祖母の氣にいらなかつたからである。そんなことでいつも貧乏つづきであつたため、祖母はたいへん母をきらつていた。そして何度もわたしの父母を離婚させようとしたらしいが、けつきよく實(実)現しなかつた。そんなわけでわたしとしては祖母をにくむ氣もちが母への愛をよけいに深める結果となつていつた。わたしの鄕里は道がわるく川には橋もなく、あるいてわたらなければならないようなところもあるが、わたしはいつも母をせおつてそういうところをあるいた。母親をせおうことなどは普通の人のやらぬことなので、私はたいそうな孝行者だといわれたが、じつさいにも母にたいする愛情は深かつた。