• 意識することと忘れること

    2013-08-07 10:2462
    昨日のエントリについて、

    「『遊び』に過ぎないということへの自覚」という観察者性 (etic?) と、「真剣に『遊ぶ』」という当事者性 (emic?)を同時に両立することは可能なのか?

    というコメントをもらった。あの種の話題について語った時に、こうした質問をいただくことはしばしばあるので、今日はこの点について、ちょっと思うところを書いてみる。

    「自覚すること(観察者性)と入り込むこと(当事者性)」について考える時、私がいつも思い出すのは、『純粋理性批判』における、カントの「誤謬推理」の議論である。「意識内容が自覚できるからといって、そこに『私』という実体があると考えるのは誤謬推理だ」というのがその議論だけれども、これは直接的にはデカルト批判で、カントは有名なコギトについて、 「我思う(コギト)というのは、あくまで私の全ての表象に『伴ない得る』ものに過ぎない」 ということを言っている。

    「鬼ごっこ」の例で考えてみよう。昨日のエントリで私は、「実は『遊び』であることを心の深いところで知りながら、それでも真剣に『遊ぶ』こと」と書いたけれども、鬼ごっこをしている子供は、大人に呼び止められて、「これは遊びかい?」と訊かれれば「そうだよ」と答えるかもしれないけれども、実際に追いかけっこをしている時に、「これは遊びなんだ」と、常に自分に言い聞かせ続けているわけではない。つまり、「これは遊びなんだ」という意識は、あくまで「鬼ごっこに伴い得るもの」に過ぎないのである。

    自分の行為が「遊び」であると「知っている」ことと、それを常に「意識し続ける」ことは別のことだ。子供の頃に、訊かれれば「遊び」であると答えざるを得ない行為に、だからこそ何もかも忘れて没頭した記憶は多くの人がもっているだろうと思うが、同じことが大人になったらしにくくなるのは、たぶん「この世には『遊び』ではない行為がある」という「信念」を、私たちが強固に内面化してしまうからだ。

    この世に「遊び」でないものがあるとするなら、「遊び」をすることは「無意味」な行為に過ぎなくなり、したがって、それに「真剣」になることはできなくなる。「意味」と「無意味」を判定する「自己意識」が、常に心の中でその主張を続けているから、無意味な行為に「我を忘れて」没頭することは、もうその人にはできなくなるわけだ。


    仏教のウィパッサナー(観察)瞑想でも、常に気づきを行きわたらせること(mindfulness)を言うけれども、仏教は同時に「無我」を言うものでもある以上、それは「私」のjudgementに、常にとらわれ続けるということとは意味が異なる。むしろ、ただ目の前のことだけに意識的であること。「私」の表象を習いつづけることで、「私」を忘れてしまうことが、仏教に言う「気づき(awareness)」の意味だ。

    「真剣に遊ぶ」ということも、それと似たところのある行為なのではないかと私は思う。徹底的に知ることで、「知っている自分」を忘れること。



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  • 遊園地の価値

    2013-08-06 10:3071
    ツイッター、フォロワーが少し増えたので反応も増えて、それで「ヤバい人」に絡まれる機会も少々増えたり。それで色々と考える。


    日本では、他者を「受容」したり「寛容」であったりすることが、自分の立場や価値判断を明確にしないでおくことと、セットにして把握されている傾向が強いように思う。考え方や価値判断は「人それぞれ」だから、それを互いに明確にしてしまえば喧嘩になってしまうことも多いし、その結果として、「排除」や「不寛容」が生じる可能性が高い(と考えられている)からだ。

    ただ、私自身はそうした態度をあまり好ましいと思っていなくて、自分の立場を明確に語ることにより、あるいはコンフリクトが起きることがあるかもしれないし、それで一部の人とは一時的に「距離をとる(付き合わない)」という結果になるかもしれないけれども、にもかかわらず他者の存在それ自体は否定せず、その根本的な価値は圧倒的に肯定し続けるということは可能であると思っている。


    当たり前だけど、人間は生まれた以上は必ず死ぬ。たとえ百年生きたって、それは宇宙全体の長大な時間の流れから考えれば、まさに須臾と言うしかない一瞬だ。

    その、俯瞰的に眺めれば何の意味もない一瞬に、それでも意味や価値を切実に求めながら生きるということは、究極的に言えば「遊び」に他ならない。子供の鬼ごっこが、どれほど真剣に遊ばれようと、世界のシステムに影響を与えることがないように、その世界のシステムも、どれほど真剣に運営されようと、宇宙全体の時間の流れからすれば単なる「遊び」だ。

    そして、これもまた鬼ごっこと同様に、実は「遊び」であることを心の深いところで知りながら、それでも真剣に「遊ぶ」ことによって、人生は楽しく、また「価値」のあるものにもなる。


    鬼ごっこをする時、子供は鬼から真剣に逃げるけど、実際のところは、「鬼」なんてどこにもいないのだ。それがわかっていても、というか、それがわかっているからこそ、鬼ごっこは楽しいんじゃないの、と思う。



  • 近況とブロマガについて

    2013-08-05 10:38
    懸案だった原稿など、いくつかのことを片付ける。今後は徐々にモードチェンジ。『仏教思想のゼロポイント』完成に向けて、自分を純化していかなくてはいけない。



    (これはタイで撮ったやつ)

    このブロマガの書き方も、どうしていこうかと迷い中。更新頻度を上げたいとは思うのだが、そうすると思考のフローをどんどん書いていくような形にならざるを得ないので、それならばツイッターのほうがメディアとして向いているようにも思う。一日にこなさなければならないタスクの量もけっこうあるので、あまり時間をかけられない、ということもある。

    一つ考えているのは、いまやっている翻訳をここでどんどん公開していくということ。翻訳は余力のある時に行うということを原則にしているのだけど、それだと現在のようにタスクが山積している状態では、なかなか取り掛かることができずに、結局いつまで経っても完成しない。これを週に数回でも、ブロマガを書く時間に定期的に行うようにすれば、たぶん多少は作業が進むであろうと思う。

    そんなわけで、ちょいちょいこちらの記事上で翻訳の公開をしていくことになるかもしれませんが、どうぞご了承ください。最終的な全体の翻訳は、もちろん「ミャンマー仏教書ライブラリー」で公開しますが。


    私はいつもそうなのだけど、「これが言いたい」というイメージがはっきりあっても、それが美しく筋の通った言葉になるまでの間には高い壁があって、それを叩き壊すために、毎回ものすごい苦労をする。

    もちろん、それをゼロにはできないだろうが、せめてその壁を少しでも低くするために、柔軟体操でもしながら、「通路」を整えていきたいと思う。