• 感情に捉われないように考える

    2017-04-21 18:004
    雨が、降ってきた。


    私は、傘を持っています。
    私は、傘を差しました。


    それが当たり前なんだと。


    この当たり前が、「思い込み」だったりするわけです。


    ちょっと極端かもしれませんけれどね。





    ヨーロッパ人は、たとえ傘を持っていても。
    雨が降ってきたら、傘を差さない人が多いそうです。


    「せっかく雨が降ってきたのだから、傘は差さないでおこう。」


    まぁヨーロッパは、日本と比べて降水量は少ないらしいのですが。


    雨が降っても傘を差さない人を見たら、日本人はこう言うかもしれません。
    『じゃあなんで傘持ってんの?』


    ヨーロッパ人は、もしかしたらこう答えるかもしれませんね。
    「おしゃれでしょ?」


    「おしゃれでしょ?」と言ったっていいじゃないですか、ねぇ。


    それが多様性ということでして。


    ……


    日本は、多様性を受け入れない文化であるので、私は『つまんないなぁ。』って。
    よく思います。


    雨に濡れたい日だってありますよ。
    濡れてもいっかぁ、って。
    濡れて家に帰ってきて、熱い風呂に入ったら気持ちいいでしょうね。


    『だから、あの人は雨に濡れてんのかな。』


    傘を差さない人を見たら、そう思うわけです。


    そう、思う。
    心理学でいうと認知を呼ばれます。
    どう思うか、です。


    認知を変えれば、ストレスは軽減されます。


    ………


    横暴な運転をする車に割り込まれた。
    イラッと来る。


    イラッと来る前に、こう考えてみる。


    『あの車の運転手は、奥さんが産気づいて病院に急いでいるのかもしれない。』


    そう考えると、イライラが消えます。
    そう考えたっていいよね。
    正しいとか間違っているとか、どっちでもいいや。


    自分に都合よく考えているのですよ。
    まぁそれでいいじゃないですか。
    イライラするより、よっぽど建設的です。
    他者にお花畑脳みそと言われても、別にいいや(笑)。


    自分のココロから湧く感情や情動に捉われて、苦しくなりたくない。
    ひとつの感情を多角的に見てみる。


    それは自制心がある、ということでして。


    自分の感情を制する方法は、たくさんあると思います。
    上記は、私なりの方法です。


    『水が並々入ったコップを持ちながら、運転しているのかもしれない。』


    おっそい車の後ろについても、そう思えばちょっと可笑しくなります(笑)。
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  • 自我と自己の違い

    2017-04-14 18:004
    アイデンティティは、自我と呼ばれます。


    ~誰が何と言おうと、私はこのような人である~


    パーソナリティは、自己と呼ばれます。


    ~他人から見た自分は、このような人である~


    ふたつは、別物です。
    自分が在り、次に他者が在る。





    自我=自己という考え方もあります。
    今でも名残があります。
    「みんながそう言うなら、私はこのような人間なのだろう。」


    ここでは、自我≠自己と考えることにします。


    ……


    自我を形成するために必要な要素に、「危機」があります。


    災害、事故、暴力等。
    大切な人、環境、立場等の喪失。


    自分の力や経験だけでは解決が困難な状況にあることです。


    これらの危機をどう乗り越えるかが、自我に影響を及ぼします。


    物理的な救助を求める必要があることもあるでしょう。
    心理的な救助を求める必要があることもあるでしょう。


    危機は、人に重大なダメージを負わせるものですが、
    逆に言うと、成長できる機会でもあります。


    「困難な状況がどれだけあったか」を数えてみるといいかもしれません。
    それは多くの危機を経験された証左です。


    大切なのは、「どうやって乗り越えたか」という部分です。
    それが大きく影響し、アイデンティティが作られます。


    ………


    「どうせ助けを求めても、誰も助けてくれない。」というメッセージがココロにある。
    「どうせ誰かが助けてくれる。だから自分は何もしない。」というメッセージがココロにある。


    どちらが正しいということではありません。
    そういうメッセージがココロにある、ということだけです。


    それは、どうやって危機を乗り越えたかによって、変わってくるということです。


    みんな、違う。
    マジでこれだけです。


    ですのでね、相手がどういう人か、そういうことを考えた上で、
    『あー、あの人は私とは違うんだなぁ。経験が違うのだから、そりゃそうだよな。』と、
    そう思うことが大切なのです。
    これがスタートです。


    自分と他者とは違うのだから、どうやってもまったく一緒ではないのだから。
    自分で自由に考えていいよね。
    「誰が何と言おうと、自分はこういう人である。」と考えてもいいよね。


    いいんです。いい。



    ………


    自我は、譲れない自分です。
    よって、他人に聞くより、自分ひとりで考えたほうがいいわけです。


    他者が自分に対して言うイメージは、「自己」のほうです。
    自我ではありません。それは別物なのです。


    これを分けることが大切と、私は考えます。


    自分が何者であるか考えるとき、他人にいろいろ言われると、
    ごちゃごちゃ混乱するでしょう。めんどくさいし(笑)。
    他人といる時間と、自分ひとりの時間は、これまた別の意味を持つのです。


    これ、とっても大事。


    「自我」を押し付けられないよう、ひとりの時間が必要だということです。


    本を読む。ある場面を読んで、『自分ならこうする』と考えるとか。
    映画を観る。観て『自分ならこうする』と考えるとか。
    ドライブに行く。もし荒っぽい車がいたら、『自分ならどう運転するか』と考えるとか。


    他愛のないことに見えるかもしれませんが、こういった積み重ねが、
    アイデンティティを形成します。


    教習所で習った通りに運転すれば間違いないわけですが、…間違いないわけですが。
    それは基本の部分であり、
    『どう運転すればもっと安全に走行できるか』という応用は、自分で考える、みたいな。


    なぜなら、身体的な機能はみんなちょっとずつ違うわけで。
    自分なりのベストなやり方ってあるわけですからね。


    こういったことを、おそらく、一生続けるのでしょうね、人間は。
    一生、暇しないね。こりゃいいね(笑)。


    ……
    ………


    もうお分かり頂けているかと存じますが、
    「自我」を形成しているときに、他者がその形成に介入することがあります。


    それが危機介入です。


    試練を与える。ノルマを与える。自分でやらせる。
    あえて危機を与えることで、自我の成長を促進させようとすることです。


    危機介入を適切に行うことが、大人に求められます。


    職場などでよくありますね。
    「この仕事について考えろ。」


    えええ!?いきなり丸投げ?みたいな。


    危機介入は非常に奥深く、またデリケートです。
    ヘタに介入すると、心的に深刻なダメージを与えることとなり、精神疾患等になり得ます。


    ふと思いつくのが、家庭での「しつけ」です。
    これも危機介入の一種です。


    いきなり高いレベルの介入を行うと、子供に深刻なダメージを与えます。


    よくあるでしょう。しつけと称して殴る蹴るの暴行。
    しつけという名の育児放棄。
    もう深くは言いませんが(笑)。


    危機介入には段階があります。それを理解せずに行うのは危険です。
    その人自身が、「危機」になり得ます(笑)。
    安易に危機介入する人がもしいたら、ご用心ください。
    真に受けなくていいです。


    また、自分で「危機」のレベルを考える必要もあります。
    あまりにも「危機」のレベルが高いと感じたら、お断りしましょう。やんわりと。
    『私には難しいので、ご指導願いませんか?』


    大切なのは、このような概念を知ることです。知っているだけでずいぶん違います。
    受けいれるか、断るかを判断する材料になると思います。


    危機介入の目的は、お忘れなく。
    「自我の成長を促すため」です。
    責任放棄の材料にはしないでください。
    相手をコントロールするために介入しないでください。


    目的がすぐすり替わる概念なのです。


    ………
    ………


    「自我」のくだりが長くなっちゃった(汗)。


    「自己」とは。
    他人から見た自分、です。
    パーソナリティ、ペルソナとも呼ばれます。


    ここはニコニコさんだから、アイドルマスターで例えてみます。


    真ちゃんという女の子がいます。


    彼女は、きゃぴきゃぴのアイドルを目指す女の子です。
    ただ、見た目がボーイッシュであり、行動も男の子っぽい。
    家庭でも男の子のように育てられました。


    ですので、真ちゃんのファンは、女の子ばかり。


    真ちゃんは、「ぼくは、女。」という自我があります。
    他者からは、「王子様!」というイメージがあります。


    彼女の自己は、「男の子っぽい女」です。


    自我は、「女」です。
    自己は、「男の子っぽい」です。


    もし彼女が「ぼくは、男として生まれたほうがよかったかもしれない」と、
    自我レベルで思っていたら。
    精神がかなり混濁している状態です。
    割と病気になる可能性があるのです。


    自我は自我。
    あくまでぼくは、女の子。
    自己は自己。
    あくまでアイドルとしては、王子様。


    そのように別と考えたほうがよさそうです。



    ………
    ………


    私は、熱心なアイドルマスターのファンではありませんが、ゲームでもね、こういうことを考えるのですよ、ワタクシ(笑)。
    それが私のアイデンティティです。
    考えるのが趣味みたいなもんです。


    それが、私です。


    いろんなところに気付きの機会があると思います。
  • アイデンティティのおはなしの、ほんの触り

    2017-04-07 19:232
    私はアラフォーです。
    この年代は、ある人には大きな壁にぶつかる時期と言われています。


    ある人とは、過去の葛藤と、自我の形成を解消しきれなかった人です。


    私も、そのひとり。





    今まで問題なく働いてきたのに、突然何かに迷うようになった。


    『オレは、今のままで、いいのだろうか?』


    それは封印していた自分が、顔を出したためです。
    人によって度合いはありますが、若年期の発達を、何らかの要因で踏めなかった人。
    そして、それに自分で気付いた人です。


    自分の軸が、なんだか不安定だ。


    私もそのひとりです。


    ……


    なんだか、自分のやっていることに自信が持てない。
    自分は、今のままで、いいのだろうか?
    誰かになんとかしてほしい。
    お願いだから、誰か。


    このようなことを口に出すと、大抵の人は「それは甘えだ。」と言われるでしょう。


    私は、このココロの願いをダメだとは思いません。
    思えません。


    それは、青年期に、出したくても出せなかった自分なのです。


    ………


    「甘え」と聞くと、「ダメなもの」と、そう取られるかもしれません。
    甘え=ダメと思っている人は、青年期、なんらかの要因で自分を出せなかった人なのです。


    なぜなら、自分を出すことはダメだと思っているから。


    「自分を出すことはダメだ。」と、誰かにそのように言われたのではないですか?
    直接言われないまでも、そう思い込まされたのかもしれません。
    自分で勝手にそう思い込んじゃったのかもしれません。



    「甘え」と言うと、ある種の人が黙り込んでしまう、ということがあるでしょう。
    それは。
    「甘え」と言われると、委縮しなければならない人なのです。


    幼少期から青年期、誰にも話すことができなかった。
    親でさえも、まともに聞いてくれなかった。


    「甘え」と言って相手を委縮させようとする人は、それを利用しているのです。
    ひとことで相手が委縮するのですから、簡単。
    弱い所をついて、いじめているわけです。



    ………


    自分を出す機会があまりに少なかったので、自分が何者であるかわからない。


    わからないまま生きていける人は、それで問題ありません。
    …今は。


    自分が何者であるかわからないと気付き、そして迷ったら。


    アイデンティティを考えてみたほうがいいかもしれません。


    アイデンティティのテーマは、今後じっくり書いていきます。
    私自身、まだまとまっていないので。
    私は今、けっこうショックを受けているところです。
    私、アイデンティティが拡散したままだって、そう気付いたんです。
    思った以上に拡散したままだって、気付いたのです。


    さぁ、立ち向かうか、諦めるか。


    一歩間違えば、病気にもなり得る危険な旅となります。
    私は、立ち向かおうと思います。