• 陰陽道閑話【第17回】  刀剣乱舞ねぇ。陰陽道、というか刀と陰陽師との関わりは意外とあるのよ の巻

    2015-02-08 16:3922
    陰陽道閑話【第17回】
        刀剣乱舞ねぇ。陰陽道、というか刀と陰陽師との関わりは意外とあるのよ の巻

                                       2015年2月8日

     どうも。お久しぶりです。結局こうやって投稿が不定期になる訳ですよ。いけませんねぇ。まぁ、気長にお付き合いくださいませ(あきらめの境地)。

     さて、最近のゲーム事情というものは私まったく明るくないのでございますが、ツイッターというツールを使ておりますので(補足:私のアカウントは→ @Kino_see です)、一応いろいろな情報を得ておりますです。
     まぁ、ご存知の通り、私はいまも細々と陰陽道研究・陰陽師研究をいたしておりますからには、ツイッターのタイムラインで見受けられる「陰陽道」「陰陽師」という言葉をつぶさに観察しておりまして、来なる事があった際はRT&コメントという形で意見発信をしております。

     そしてここ最近なのですが、その「陰陽道」「陰陽師」に関するツイートが妙に増えてまいりました。覗いてみると・・・


               「おじいちゃんは陰陽道の心得がるのかな?」
              「陰陽師によって錬成されて云々、審神者がどうの」

     というコメントが大多数を占め始めていたのです。はてなと思って調べてみたら、あの有名な「刀剣乱舞」というやつですか?あれなんだそうですな。我が国古来から連綿とつづく日本刀の技法。そしてそこで生まれた数々の名刀や伝説を含む妖刀などがイケメソに擬人化されており、それが人気だというじゃあないですか。

     私は大学時代、博物館学芸員資格を取ったのですが、博物館学の講師という方が日本刀・・・とくに備前刀の専門家でいらした事から、日本刀についての色々をご教授いただきました。ですから、私は仏像・仏画と共に日本刀も、そこそこ知ってる感じなのです。

     調べてみると。「おじいちゃん」というのは平安時代の刀匠・三条宗近(三日月宗近などの名刀を作る)という事、だれから「じじい」と呼ばれているかと言えば、宗近が稲荷大明神の化身と共に鍛えたという「子狐丸」からそう呼ばれている事がわかったのですが。

     まぁ、それはともかく。我が国日本において刀というのは非常に古い歴史を持つと同時に、神聖性・さらには日本人の精神性の象徴としてもその意味を発揮しております。
     歴史を紐解けば、大陸朝鮮半島からやってきた青銅によってまず銅剣が登場します。島根県にあります「荒神谷遺跡」「加茂岩倉遺跡」などからは日本考古学上最大の発見と言われるほどの大量の銅剣が発掘されておりますね。
     また、関東地方では「稲荷山古墳出土銅剣」の銘に「ワカタケル大王」と刻まれた刀が見つかっております。刀というのは特に我が国古代(上古)において権力というものがどのような状態であったかを知る、重要なアイテムだったわけです。

     むろん、これは言うまでも無く「古事記」「日本書紀」では剣は同じみのアイテム。三種の神器である草薙剣(天叢雲剣)や十握剣(とつかのつるぎ)などを見ても、剣というのは権力、そして前述した神聖性みなぎるアイテムであった事は分かるわけです。

     これは陰陽道とは直接関係ありませんが、その根底となる思想があった事を示す例として「東大寺盧遮那大仏 鎮壇具」の中にある「金銀荘太刀」があります。これは金装・銀装された太刀が一振ずつ、即ち一対となっているものです。正倉院に残る『国家珍宝帳』という、古代の国宝群を記録した書物にも記載があります。通称を「金荘太刀」が「陽剣」、「銀荘太刀」が「陰剣」。つまり陰陽一対だった訳ですが、これがながらく行方不明になっておりました。それが2010年、大仏殿の鎮壇具として残されていた二本の太刀(剣)をX線調査したところ、その剣の柄部分に「陽剣」「陰剣」との刻印があった事から、数百年に渡って行方不明であった陰陽一対の太刀が発見されました。「陰」と「陽」という語が使われており、一対であったという事は「陰陽」という言葉が大仏造立時にはあった、という事がわかりますね。

     さて、朝廷は神話由来、あるいは大陸から伝来したものを中心に多くの剣(※刀というよりか、古代のものは「剣」と言うべきでしょうね)を宝、そして霊力を持つアイテムとして保有していましたが、当時一番厄介な問題が火事や災害への対策でした。
     いうまでもなく、当時は防火設備・防災施設などはありませんし、それこそ「知る方法」としては陰陽師(特に天文や暦)によって予兆を読み取る程度しかありませんから、急な出来事に対しては非常に脆弱でありました。ましてや照明の主体が火である事、建築物の主体が木である事、これはもう「火事フラグ」が立つ。

     我が国の歴史において火事は、もうそれこそ数えきれない程の回数発生しており、それが歴史転換の重要なキーになった事すら何度となくあります。
     平安時代、特に大きな火事の一つに挙げられるのが「天徳四年内裏大火災」と呼ばれるものです。
     天徳四年(960)、遷都以来最大最悪の火災が発生し、内裏の大半を焼失してしまう事件が起きました。内侍所に安置してあった御神鏡・・・つまり八咫鏡をはじめとして数多くの珍宝・秘宝を失ってしまう事になりました。特に焼損・焼失の状況が著しかったのが宝剣の類。その中には重要な剣「護身剣(守護剣)」と「破敵剣(将軍剣)」というものも含まれていました。さぁ、どうするかが議論された結果、焼損・焼失した剣を再鋳造しようと言う話になって鋳造しました。

     時がたって後。平安時代後期の院政期を迎えた寛治八年(嘉保元年、1094)に当時の内裏であった堀河院が火事で全焼し、やはり多くの宝物を始め、宝剣も焼損してしまいました。そこでその対処をどうするかという事で出てきたのが蔵人であった藤原信経の記録「蔵人信経記」にあった安倍晴明に対する聞き取りの記事が参考にされたのです。

     「蔵人信経記」は天徳四年内裏大火災より37年後の長徳三年(997)に安倍晴明から当時の様子を聞き取り、記録されたものでした。
     ・・・とりあえず、ここで晴明さんの証言を聞いてみましょう。いつもの通り、超訳です。

    【当時を知る安倍晴明さん(76)の証言】
    「件の霊剣は44柄ありました。去る天徳の大火災の時に、すべての剣が焼損してしまいました。当時天文得業生であった私が勘文を作り、進めました。特にその44柄のうち、2本が重要なものでして、一つを”破敵”。もう一つを”守護”と言いました。(以下略) ともかく、この二柄の霊剣は国家の重要な宝です。早急に再鋳造されるべきであると思います。」

     ・・・と、晴明の話によると「私が勘文を作った」と話しているうえ「早急に作られるべき」と、なんだか御自分が責任者だったような感じの話しぶりですねぇ。

     さて、時間が戻って嘉保元年(1094)。霊剣再鋳造に際してこの記録が出てきた訳ですが、これを強く強く強調したのは、誰あろう安倍晴明の子孫であった安倍泰長(と一族たち)。
     当時、霊剣再鋳造に当たっての過去例調査をしていた左大史・小槻季継さんはいち早く”違和感”を覚えたのです。

    「安倍泰長殿は霊剣鋳造の進行役は御先祖の晴明公だったというが。はて、天文得業生が国家の重宝を作る責任者になれるのであろうか?」

     そこで取り出したるは『村上天皇御記』、すなわち当時の帝であった村上天皇の日記でした。そこには明確に、
                   「責任者は賀茂保憲」
     との記録が。小槻季継の日記には「村上御記を見たら、賀茂保憲が霊剣鋳造の責任者であったと書かれている。安倍氏の人達は彼らの嚢祖(先祖)が再鋳造の責任者だと言っていたが、ちょっとねぇ(苦笑)」と記されています。
     
     ま、いずれにせよ、少なくともこの一件から分かる事は。霊剣鋳造に際しては陰陽師が必要となっているという事なのです。とくに、破敵・護身の二柄はその剣に様々な「符」が彫り込まれてあった事も関係あるでしょう。あと、当時の霊剣の類というのは時に「隕鉄」・・・つまり隕石の鉄分から作られる珍しい剣もあったので、なおのこと「天を司る」陰陽師達の存在は重要だったのではないでしょうか。
     ちなみに、漫画版「陰陽師」の作者である岡野玲子氏は天徳四年の霊剣再鋳造の時に陰陽寮は「三皇五帝祭」を行ったのではないかと推測されております。
     この天徳四年の霊剣再鋳造の一件に関しては晴明が自分の師匠の功績を横取りしたという事ばかりが話題になりがちですが、晴明の実態を知る事も出来るものが関連資料で残されています。
     見つかった場所は何故か水戸藩の文書群なのですが、そのなかに残されていた「陰陽家安倍氏系図」の晴明の部分に「依天徳四年之功、為陰陽師」との註書があったそうです(高田義人氏の調査による)。つまり、当時まだ天文得業生だった晴明が陰陽師に昇進したのはかの霊剣鋳造の功績によるものだったのです。

     さらにもう一つ、間接的に安倍晴明(陰陽師)が関わる逸話があります。
     主人公は源 頼光の家臣「頼光四天王」の一人とされた渡辺 綱。武勇の誉れ高い彼ですが、コワーイ事件にも遭遇しています。
     
     ある夜、渡辺 綱が夜な夜な歩いていました。場所はかの一条、戻橋の付近。主君である源 頼光の父は源 満仲(多田満仲)は藤原兼家の近臣でもあったと言いますから、戻橋付近を歩いていた綱は「ああ、この辺りは安倍晴明の屋敷かなぁ」と思いながら歩いていた・・・かは知りませんが、その戻橋に一人の女が。どうも調子がよくなさそうなので声をかけてみると、案の定調子が悪いとの事。綱さん、一日一善「さぁさぁ、私がおんぶしましょう。お宅までお送りしましょう」と女性をおんぶしました。
     しばらく歩いているのですが女性はあっちこっちと行先を明確にしません。「はてさて、これはどうした事だ」と思いながら歩いていると、どうも女性のおててが骨ばっている。やがて鋭い爪が食い込む。「これはおかしい」と思った刹那、綱は女を突き飛ばしたその手で刀を抜いて袈裟がけにバッサリ!なんと女は恐ろしい鬼女だったのです!刀は女の手を斬り落としました。鬼女は呻きながら闇夜を去っていきました。
     さて、困った。綱さんの目の前には新鮮な「鬼の手」が。ま、まがまがしいったら・・・

        怨霊モノノケ困った時は
             ドーマン・セーマン、ドーマン・セーマン
                        すぐに呼びましょ陰陽師! レッツゴー!

                 安倍晴明「呼ばれた気がした」

     綱さんは陰陽師安倍晴明を訪ね、いきさつを話して問題の「鬼の手」を見せました。晴明は占いをし始めます。
     晴明「これをあなたの手にはめて小学校の教師に・・・とは言いません。大変に不吉であります。鬼の手は早急に箱に入れて封印するヨロシ。なお、鬼の正体は愛宕山に住む茨木童子という有名なヤツだと思われ」
     と、いう事でさっそく茨木童子を退治する事になりましたとさ。そしてこの時に綱が鬼の手を斬り落とした刀が、後に源氏重代の宝物となる「髭切」。この一件以来名を変えて「鬼切(鬼切丸)」とも呼ばれるようになりました(さらに後には「友切」とも)。現在「髭切(鬼切、友切)」は京都・北野天満宮に所蔵されており、重要文化財になっています。

     ここまで見てみると、刀剣というのは武器であると同時に「鎮め」「払い(祓ではな)」・・・つまり、悪しきモノを鎮め、滅し払うという力を持つものなんですねぇ。そして陰陽師にとっても重要なアイテムでした。

     陰陽師の儀式として知られている「反閇(禹歩)」。これを執り行うときには、右手の持物として笏と共に刀剣が用いられていたとされています(笏か刀剣を右手に持ち行った)。そして、まずその剣の呪文を唱えて反閇が始まります。「刀禁呪」です。

              吾是天帝所使執持金刀。非凡常刀。是百錬之刀也。
            一下何鬼不走、何病不癒。千妖万邪皆悉済除、急急如律令。

     まぁ、要するに「この刀は天帝の持つ金刀である。普通の刀ではない。百錬の霊剣である。(この剣)一振りの下、いかなる鬼も逃げないという事があろうか。いかなる病も癒されないというのか。妖しきモノ、邪はみな悉く取り除かれる。急ぎ急ぐ事、律令の如し。」と、刀の持つ霊力を言葉にしている訳ですね。

     このほかにも陰陽道による祭には刀が供物として奉納されてる記録が残されています。京都・晴明神社にも備前長船の刀工・祐定の手による太刀(【銘】「備前国長船祐定」「永正八年二月日」 【全長】一尺九寸余 【造】鎬造 庵棟 板目地金 【刃紋】互の目乱れ 【刀身】表面に「八幡大菩薩」、裏面に「春日大明神」の神号)が御神宝で納められています。

     ちなみに、毎回大きな祭礼ごとに太刀が奉納されていたのですが一説によると、近世以降は供物として賜った刀は売ってお金にしていたとか、していないとか。その点は不明ですが。ともかく、刀の持つ霊性は陰陽師もよく心得ていた訳ですね。 (了)

    <今回使った史料・書籍>
    『陰陽道基礎資料集成』(村山修一 編)
    『土御門文書』(東京大学史料編纂所・宮内庁書陵部所蔵)
    『谷川家文書』(福井県大飯郡おおい町名田庄 元土御門家家臣谷川家所蔵)
    『安倍晴明占術大全』(藤巻一保 編)












    ※追伸:先日、わが愛するアニメ「ルパン三世」シリーズ第1期(1stシーズン)において石川五ェ門を演じられた大塚周夫さんが逝去されました。ここに哀悼の誠を捧げます。

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  • 陰陽道閑話【第16回】       陰陽道は何処から来て、どこへ行ったのか~陰陽道研究の現状(2)

    2014-06-08 00:58
    陰陽道閑話【第16回】
          陰陽道は何処から来て、どこへ行ったのか~陰陽道研究の現状(2)

           陰陽道の事だけど久しぶりだからあんまり本気じゃない の巻


     御無沙汰いたしておりました。
     本当に遅れまして申し訳ございませんです、はい。なにせ論文に集中しているものでして、「一日一行事」がモットー(言い換えれば・・・鈍重)の私としては、あれやこれやを一気にこなす事が出来んのです。なので、私の中での優先順位はそれほど高くはないブロマガが後回しの犠牲となりまして、このありさまでございます。
     相変わらずの不定期更新ですが、今後ともひとつよろしくお願いいたします。

     さて、陰陽道関係の事を書くと宣言してはいるのですが、特段浮いた話もないこの世界。戦国時代とか、江戸時代末期のいわゆる「幕末」期のようなハラハラ・ドキドキといったスペクタクルもない。貴族社会の中ではぐくまれたものだけに、陰陽道はこれといったニュースはとくにないのが実情ですね。
     その事に関連する?かどうかは分かりませんが、いわゆる時代劇をドラマ化するに当たって、一番「難しい時代」と言われるのがいわゆる古代。
     歴史学の分野では我が国について最初の記録がある時代、そして卑弥呼の邪馬台国を経て古墳時代、飛鳥時代・奈良時代を通り平安時代にいたるまでを「古代」としています。なお神話時代から飛鳥・奈良ころまでは特に「上古」と言います。

     さて、これを我々にも分かるように可視化・・・すなわち、現代の感覚でも分かるように表現しようとすると、その方法は自ずと絞られてきます。これが考古学であるとか、歴史学であるとか、そういった専門的な分野であらば、遺跡を発掘・調査してこれをまとめ、研究として発表すれば良い(もちろん、それだけではないよ!)のですが、これを説明しろよとなると難しい。
     話が戻って、現代の感覚でも分かるように可視化せよとなると、まぁ・・・テレビや映画ということになりましょう。
     
     これは歴史ドラマ全般に言える事なのですが、難しい所が「現実とフィクションとの境界線」です。例えば、歴史ドラマといえば某公共放送が一年かけて放送する例のドラマがありますね。これだってちゃんと「考証班」があり、歴史考証・建築考証・衣装考証・・・といった役目があります。こちらはあくまでも、主題となる人物の生きた時代がどういった状況下において展開されたのかを追及していくものなのです。

     しかし!この「考証班」の意見が全部通用することはまずない。何故ならば、面白くないからです。

     考証を置いたとしても、そこはドラマ。原作もあれば演出・脚本もある。また、かならず「事件」が起きなければ話が進まないのです。そうでもなけりゃ、淡々とした日々が続きますからね。考証班はあくまでも「史実に立脚する」という立場ですから、当然ながらリアルなものを出していく。しかし、それは必ずしも現代人の感覚から見て「興味深い」もの、「刺激的」なものとは言い難い場合だってある。そうなると、残念ながら、史実に脚色が施されていくわけですな。




     さて、長々と前置きをして何を言いたいか、という事ですが。
     今から十数年前、夢枕獏原作・滝田洋二郎監督・野村萬斎主演で映画『陰陽師』シリーズが製作されました。その先駆けとして、某公共放送の夜のドラマでも『陰陽師』が放送され、一躍世間に「陰陽師」という言葉、そして「安倍晴明」という人物名が広がる事になりました。
     いまさら説明する事もないのですが、簡単な内容説明をすると。以下の通り。


     ・・・平安時代。それはまだこの世とあの世とが曖昧であった時代。人々は貧困と闇への恐怖に打ち震えていた。支配層である帝や貴族達はアヤカシ・モノノケによって引き起こされる怪異や政敵からの呪詛におびえ、夜の闇を跳梁跋扈する魑魅魍魎の姿に恐れおののいた。そのような時代に一連の怪異・変異を読み解き、これを解決する人物がいた。彼らは陰陽師とよばれる。そのなかでも、稀代の名人とよばれる男・・・その名は安倍晴明。狐の子と噂され、幼い時から類まれなる能力を発揮した晴明は、長じてその名を平安京に知らしめていた。晴明のもとには多くの貴族からの怪異や呪詛の解決の依頼が舞い込む。そして、それを取り次ぐのが醍醐天皇の孫で管弦と酒を愛する源博雅。そして時折、怪異呪詛の事件の背後に潜む蘆屋道満の姿。晴明と博雅は平安朝に起きるさまざまな「妖しき」事件を解決すべく、晴明の式神らとともに夜の大路を歩んでいく・・・。「ゆくか、晴明」「うむ。行こう」「行こう」・・・そういう事になった・・・。


     ・・・という話が永遠ループで続いていくものです。まぁこれをチャートのようにしていけば。

           事件発生→調査依頼→調査→解決策の発案→謎解き&解決

     ・・・となり、ああ、なんだこれは推理小説を平安時代に置き換えたものか・・・という事がすぐに分かってしまうのですが。そして、その内容も『今昔物語』や『十訓抄』、また『日本霊異記』などに書かれた奇瑞譚や怪奇譚がその下敷きになっている事も・・・見ればある程度バレバレなわけであります。

     で、ですね。こういった陰陽師の姿は非常に魅力的です。それは映画やドラマで示された通りで、口に呪文や真言陀羅尼を唱え、結界を張り、五色の紙垂や御幣。うーん、視覚的にも非常に興味をそそる。
     
     ・・・そう、そそるんです。しかし、それはあくまでもドラマの世界。あくまでも、夢枕獏氏が描く「陰陽師」の世界なのであります。
     映画「陰陽師シリーズ」ほか、様々なメディアで”陰陽道指導”をされているK.T氏もこの事について発言をしておられます。その中では「陰陽師の執り行った諸事の再現を依頼される以上は出来る限り忠実にしたい気持ちはある。しかし、ドラマである以上、演出や脚本、そして原作の世界が第一に重んじられるので、”実際”を見せる機会が非常にわずかしかない」と述べておられます。
     これに加えて、実際に研究している人間から付け加えたい事もあります。それは・・・・

             「陰陽道の執り行う諸事は地味である」
                    すなわち。
                「ドラマ映えしない内容」

     ・・・と、いう事なのです。
     民俗学研究の第一人者である網野善彦氏などが実践された「絵図にかかれた内容から当時の風俗を知る」という方法を用いて、陰陽師の行動を見てみると・・・。
     たとえば「泣不動縁起絵巻」に出てくる、安倍晴明が泰山府君祭を修する場面。非常に簡素な板と木の棒で作られた机に白の御幣。机の上には「かわらけ」に盛られた供物。絵によっては机のへりに馬の絵が描かれた紙が貼りつけてある。これは絵馬の原型ですな。陰陽師(晴明)は露地に莚(むしろ)を引いて坐し、祭文を唱える姿が描かれております。
     さらに大阪・安倍晴明神社所蔵の「安倍晴明調伏図」という絵を見ても、どうみても「あばら屋」にしつらえられた机(これもお粗末)に御幣と供物があり、やはり晴明は地面に莚を引いてそこに坐し、祭文を手に取っています。
     両方の絵にも共通して、陰陽師の脇では焚火(かがり火)が焚かれていますね。これは、最終的に供物をお焚き上げするからです。


     ・・・どうよ、この差。
     映画やドラマ、漫画・ラノベ・アニメ・・・なんでもいいから陰陽師の登場するシーンを想像してごらんなさい。そして、上記した現実の姿をさらに想像してごらんなさい。

         明 ら か に 史 実 の ほ う が 地 味 だ よ な !

     しかもですよ、絵では便宜上「モノノケ」の姿は描かれていますがね、実際は形の見えないモノ・・・それがモノノケ。当時は貴族たちの目にも時折「鬼」なるものが見えていたようですが(※そう日記に書いているのだから、そういう概念下にあったのでしょう)、本当は見えたかどうかはわからない。
     そうなると・・・陰陽師は、外で、ボッチ(必ずしもそうではないが)で、ああやってやっておったのですよ。
     あと、よく隣に巫女などがいて、それに憑依して・・・という描写をされる場合がありますが、それも陰陽師ではなく、密教僧や験者が執り行う「ヨリマシ祈祷」であって、陰陽道の祭祀にはヨリマシはいないのです(「梓弓」という、祈祷をして憑依させて予言する巫女はいた)。

     ですから、ドラマや映画などなどで見る陰陽師の祭祀は「誇張」である・・・いや、「虚構」である・・・と考えてもらってもあんまり差し支えないかと思います。

     ですが、これはいつかのドラマ(某公共放送の一年間やるドラマ)の歴史考証をされた方(もちろん大学教授)がこういわれた。

        「まぁ、陰陽師はハッキリいって、やってた内容はなんでもありなので」



     ・・・・それだけは違う!これだけ言っておきます。
  • 陰陽道閑話【第15回】陰陽道は何処から来て、何処へ行ったのか~陰陽道研究の現状(2)

    2014-03-08 04:301


                    陰陽道閑話【第15回】
          陰陽道は何処から来て、どこへ行ったのか~陰陽道研究の現状(2)

                 とりあえずまとめておこう の巻・・・その1

                                       2014年3月8日
     明けました。いやー・・・2014年を迎えましたねオイ。ほんっと・・・論文、今年度中には終わらせようと決意を固めた元旦を過ぎて、世の中もいよいよ平常の流れに戻ってまいりました。(3月8日追記:今年度中は絶望的w)
     当然ながら私も平常通り・・・といきたいのですが。私の母の実家はお寺でございまして、大晦日の夜から元旦の早朝にはいわゆる「除夜の鐘」を含む行事が執り行われておりますので、親戚である我々はそのお手伝いをしなければなりません。正月といえば幼い時からずーーーっとその行事にかかりっきりというのが日常なので(※子供には「御接待」を参拝客に渡すという仕事が割り当てられているのです)

    「大晦日に家族団らん、紅白歌合戦とかをみて、適当になったら除夜の鐘打って、神社に行っておみくじでも引くか」

     ・・・という正月を迎えたことがありません。みなさん、お参りに来る方は楽かもしれませんが出迎える方にとって大晦日~正月と言うのは戦争なんですよ。
     なに?賽銭の”あがり”があるからいいだろ?・・・てやんでぇ!賽銭が全部お寺の収入になると思ったら大間違いだい!

     まぁ、正月の事はさておいて。
     このブロマガもなんと気づけば15回目の配信。当初は「毎週出すお」とか言ってましたが、嫌な予感は現実のものとなって、ついには不定期配信となりました。申し訳。
     まぁそれでも続いてるだけマシだと思います。実は過去にブログをやった事がありますが、途中でめんどくさくなり放棄しました。ただ、こちらの方はツイッターやメールなどで反響が帰ってくるのと、なんとまぁ様々な業界の方(占い業、オカルト研究家、宗教マニア、同業・・・つまり陰陽道研究の世界の方まで!)も、この他愛もなくつまらないブロマガをご覧になっておられるというのを聞き及びました。いやはや、平身低頭、謹啓頓首再拝再拝ですよ(←意味不明)

     ならば、なおさらしておかねばならない事、それはフラグの回収であります。すなわち「陰陽道は何処から来て、何処へと行ったのか」という副題を回収せねばなりますまいよ。

     
    (1)陰陽道は何処から来たのか~未だ落ち着かない「陰陽道成立論」
     ・・・常々お話ししておりますようが、陰陽道研究の最初期にはこれは中国から来たものとされておりました。ですから斯道研究の第一人者と言われる方々の著作の題名は「日本陰陽道・・・」となっておりますな。あくまでも大陸で発生し、日本へ伝来したものであるという事なんです。しかし、例えば村山修一氏の代表作『日本陰陽道史総説』(1981年、塙書房)などでは「陰陽道は大陸から伝来したものである!」と言っておりながら、「また同時に易でもある」(!?)といい、ハッキリ言ってどっちがどっちやらさっぱり分からないのです。
     そしてそういう所は・・・フワフワーっとさせておいて、あとは陰陽道の根幹となった「天人相関説」や「祥瑞災異説」をピックアップして、その例を挙げるのみでした。
     ・・・まぁ、当時は陰陽道研究のさきがけであった村山氏の研究ですが、現在からすればやはり疑問点が多くあり、例えば陰陽道が平安時代に台頭したのは「貴族たちの政治的無能を糊塗するため」であったと言うのはこれは”昔の平安時代観”といえます。また卑弥呼の用いた鬼道も陰陽道、聖徳太子の政策も陰陽道だ・・・と、ちょっと何とも言えない部分も多くありますね。
     ですが、しばらくのうちは陰陽道大陸伝来説の下で考察が行われました。これは・・・単純に「内容が東洋思想だから中国のものじゃろう」という・・・今からすれば実に曖昧なまま進められたしまった事を後代に示す結果になってしまいましたな(ただし、研究が継続された事で様々な史料が示された事は我々後代に続く研究者からみれば功績だと思います)。
     というか、ぶっちゃけ私見ですが・・・もうこのころから陰陽道の研究は「特殊分野」だったのだとおもいます。大陸伝来説は結構長く陰陽道研究の中に根付いていましたからね。
     この大陸伝来説に一石を投じたのが野田幸三郎という人。陰陽道の研究者という訳ではないのですが、野田氏は「大陸および朝鮮半島に”陰陽道”という語はない」と指摘し、陰陽道という概念は我が国で出来たものであって、大陸から来たものではないと論じました。
     これ以後、少なくとも「陰陽道」というものは日本で出来上がったものである・・・という、日本起源説という視点からの論考が行われるようになりました。

     これが現状において「陰陽道研究の第一線」と言われる研究者の方々・・・山下克明氏、斎藤英喜氏らといった面々です。

     山下氏や斎藤氏の研究内容については、様々な著書が出ているので各自で確認していただこうと思います(はしょるw)。まぁ、内容を見るに・・・村山氏の頃の研究に比べると遥かに新鮮です。とくに山下氏に関してはそれまで固定的な見解(村山説)であった「陰陽道中国起源説」および「陰陽師」や「陰陽道」の見解を根底から変化させていますからね。

     しかし・・・個人的には、まだまだ不十分だとは思う。あんまり悪口めいた事は言いたくないのですが。例えば斎藤氏の場合は・・・陰陽道論が最終的に高知県に残る土着信仰であるところの「いざなぎ流」へシフトしはじめる。山下氏に関しては一見細密な研究をしているようにも思えるのですが、よーーーくよーーーく内容を見てみると、肝心な所で「丸投げ」というか、なんか曖昧というか、漠としたまま結論を導き出している所があります。その点こそ、今後の陰陽道研究において重要なポイントとなってくるでしょう。

     古くは斎藤 励、そして村山修一の各氏を陰陽道研究における「第1世代」とするならば、中村璋八氏や小坂真二氏らは「1.5世代」くらいになり、林 淳(※近世)・小池淳一・久野俊彦が「第2世代(前期)」くらい。そして山下克明氏・斎藤英喜氏・鈴木一聲氏が「第2世代(後期)」となるかと思います。

     そして、現在「若手」と呼ばれるのは・・・繁田信一氏や赤澤春彦氏や中村純子氏(※ただし赤澤・中村の両氏は中世)、さらには梅田千尋氏(※近世)らの「第3世代」という事になるでしょうか。特に平安時代の陰陽師となると、繁田信一氏が若手のトップを走っているでしょう。
    (※時代を問わず言えば、すでに「第4世代」と言えるであろう研究は見受けられるのであるが、執筆者各氏が今後陰陽道の研究者を継続されるのかが分からないので何とも言えないのです)

     ・・・ただー。繁田氏の研究も、なんだかこう・・・「おお!」という感触や、「そう来たか」というような(いい意味の)リアクションを受けるような内容かと言えば・・・そ、そんなでもない、かも。繁田氏の研究に関しては「おや?」というリアクションを個人的には取ってしまいました。

     次回もこの続きにしましょう。


    追伸:アップが激遅れしまして申し訳ないです。ハイ。