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俺の棒銀と女王の穴熊〈6〉 Vol.17
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俺の棒銀と女王の穴熊〈6〉 Vol.17

2016-05-03 21:00
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     駒を並べ終え、来是は呼吸を落ち着かせた。盤上には四十枚の駒がひとつも欠けることなく、開戦を待っている。
     以前、遊び半分で紗津姫と平手で指すことはあったが、真剣勝負として行ったことはただの一度もなかった。
     平手で、全力で指しても充分いい将棋になる。紗津姫は初めて、そう認めてくれたのだ。
    「お願いします」
     互いに一礼し、先手の来是が勢いよく初手を指す。
     目指すはやはり棒銀……と言いたいところだが、これは紗津姫のためのトレーニング。対川口女流を想定した局面にするのがいいのではないか。
    「川口さんって、どんな将棋指すんですか?」
    「女流の中では珍しい、生粋の居飛車党なんですよね」
    「おお、ひょっとして棒銀が好きですか?」
    「いえ、棒銀はあまり使わないと言っていましたが」
    「あらら」
    「いいですよ、好きなように指して。私もどんな戦型にするかは、直前まで決めないつもりですから」
    「んじゃ、お言葉に甘えて」
     来是も紗津姫も、将棋の王道矢倉の構築に取りかかった。この大切な時間をすぐには終わらせたくないというように、急戦を仕掛けたりはせず、じっくりとした駒組みを続けた。
     やがて定跡も終わりを告げる。開戦は歩の突き捨てから。紗津姫が教えてくれた将棋の格言の中で、これがもっとも使う頻度が高いだろうか。そんなことを思いながら、女王の堅陣を攻略しにかかる。もちろん紗津姫も、来是の攻めは想定の範囲内だろう。さほど悩まずに応手を続ける。
     局面は終盤の入口に差し掛かった。駒の損得はなく、玉の固さも同等。差はついていない。
     開始前は少し不安だったが――互角に戦えている。彼女にこんなにも、近づけた。
    「来是くん、本当に強くなりましたね」
     慈しみを込めるような、限りなく優しい声。熱烈な胸の高鳴りに、闘争心がふっと消えそうになる。
     まっすぐな姿勢で正座し、柔らかな笑顔を向けてくれる紗津姫は、途方もなく綺麗で、美しかった。
    「先輩のおかげです」
    「上達は本人次第です。来是くんの熱意の賜物ですよ」
    「……先輩が教えてくれたから、俺の熱意はずっと続いてるんです。部室で先輩に出会ったあの日から」
     人生が変わったと思った。こんなにも激しい恋をすることは、もう決してないだろうと確信するほどに。
     そして将棋というゲームを通じて、己を鍛えることの、人と競うことの尊さを知った。誰かを越えようとする強い意志を持つことは、人生を昇華させるのだと悟った。
    「先輩を超えたくて、先輩に認めてもらえる男になりたくて……俺、ここまで来たんです」
    「……来是くんだけだったんですよ。私を超えたいって言ってくれた男の子は。もう、きっと現れてはくれないです」
     女王の目に、強い光が宿るのを感じた。そうして放たれたのは、大駒をバッサリと切る強手。常にある筋と警戒していたが、このタイミングでとは予想していなかった。
     これほどの手を繰り出したからには、紗津姫はすでに勝利への構図を描いていると見て間違いない。予想どおり、すぐに猛攻が始まった。
     動揺してはいけない。彼女の腕を信用しすぎて「もう勝ち目はない」などと決して考えてはならない。
     耐える。なんとしても耐えてチャンスを待つ。将棋は忍耐、恋もまた忍耐だ。あきらめなければ、活路は開ける!
    「……っ、すごい陣形になりましたね」
     紗津姫もこれほど来是が粘るとは予想外だったか、うっすらと苦笑いする。来是は持ち駒のすべてを投資する勢いで、とにかく自玉を安全にした。その代償としてほとんど攻め駒がなくなってしまったが、これで紗津姫が焦ってくれれば……。
    「それじゃあ、こうしましょうか」
    「あっ」
     紗津姫は穏やかな手つきで、来是陣に歩を打った。狙いは単純、と金を作るためだ。
     焦るなどとんでもない。と金の遅早――これも紗津姫が教えてくれた大事な格言。じっくりした攻めで間に合うと判断したのだ。
     来是が手をこまねいているうちに、紗津姫は二枚目三枚目のと金を製造していく。こうなるとせっかく築き上げた要塞も、たいして意味を成さない。何しろ相手はと金、苦労してもぎ取ったところで単なる歩に戻ってしまう。今度は粘るという選択肢すら与えられず、じわじわと囲いを崩されていった。
    「ダメですね……負けました」
    「ありがとうございました。と金攻め、うっかりしていましたね」
    「いやもう、なんでそんな単純な手を見落とすんだか……」
     手つかずだったお菓子とジュースを口に含み、失われた糖分を補給する。もっとまともな終盤戦であれば甘味を楽しむ余裕もあっただろうが、最後でつまらない将棋にしてしまったという後悔が口を苦くさせていた。
    「ちょっと守りに入りすぎましたか」
    「そうかもしれませんね。粘る方針もよかったですが、あそこではこうしていれば……」
     紗津姫はお菓子とジュースには目もくれず。盤面を並べ直していく。すると、彼女が指摘した手で光景が一変した。
    「マジか、こんな攻めが……」
    「こうされていたら、私もきっと焦っていましたよ」
     それを指せていれば、まだチャンスはあった。だが、その一手を見つけられなかったのが、まぎれもない今の実力なのだ……。
    「やっぱ、先輩との差はまだまだありますね」
    「確かに……まだ私が負けるとは思いません。でも」
     期待いっぱいの笑みを浮かべて、彼女は明確に口にする。
    「あと九ヶ月、私を超えるには充分な時間です」
    「――はい!」
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