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俺の棒銀と女王の穴熊〈6〉 Vol.29
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俺の棒銀と女王の穴熊〈6〉 Vol.29

2016-07-13 21:00
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     紗津姫はまるで図星を突かれたように、何も言えずにいた。
    「じゃあ、依恋には答えられるのか?」
     答えられるわけがない。だから先輩を困らせることを言うな。そう言いたかった。
     しかし、彼女は間髪を入れず答えた。
    「所詮さ、将棋なんて趣味以外の何物でもないんだから。それも主食じゃなくて、おやつくらいの趣味でしょ。だから上手くなれないことを、くよくよ悩まない。それより別のことにも熱中できる心の余裕を持つ。それが結果的に上達に繋がると思うわ」
    「じゃあ碧山先輩は、どうだったんですか?」
    「あたし? あたしの場合はそうね、美容とファッション、そして恋ね」
    「きゃあ! さすが依恋先輩!」
     山里がひとり舞い上がる。来是はいくつもの視線が自分に集中するのを感じた。
     恋をしている。堂々と言えるのが依恋の強さ……。
    「別に誰よりも上手くなりたいとかじゃないんでしょ?」
    「は、はい。そのうち初段くらいになれれば、と」
    「ならあたしの言うとおり、他に夢中になれることを見つけてみなさいよ。大事なのは余裕を持つことよ。あたしだって、将棋が一番なんて思ったことは一度もないわ」
    「わ、わかりました!」
    「よし、一件落着ね。部活はじめましょ」
     それからは紗津姫も気を取り直した……いや、取り直したかに見えた。いつもどおり一年たちの指導に入るはずが、対局時計を持ってまっさきに来是の正面に着席した。
    「依恋ちゃん、今日は来是くんとトレーニングをしたいので……指導は全部おまかせしていいですか」
    「アマ女王戦に向けて? そこまでする相手でもないでしょ」
    「油断、できませんから。しっかり仕上げないと」
    「ふーん。ま、いいけどね」
     依恋が明るい笑顔で指導する傍らで、一対一のトレーニングは延々続いた。女王の圧倒的な早見え早指しに、来是は懸命に食らいつくも最後には終盤力の差でねじ伏せられる。いつも後輩を優しく導くたおやかな指先に、どこか鬼気迫るものを感じた。
     部活終了のチャイムが鳴るまで、六戦全敗。まだこれほどの差があるのかと愕然とさせられたが、同時に敬意も抱く。
     やはり負けるわけがない。再び女王の称号を得て、来週の今ごろは防衛記念のパーティーを開催できるだろう。そのときが待ち遠しかった。
    「今週はずっとこんな感じで、来是をサンドバッグにするわけ?」
     依恋が終局図を覗き込む。紗津姫は申し訳なさそうに笑った。
    「いえ、今日だけです。明日からは元通りに」
    「そうして。あたしじゃ紗津姫さんみたいに教えられないわ」
    「そんなことないですよ。依恋ちゃん、人に教えるの上手だと思います」
    「私も同感ですよー。碧山さんはなんていうか、同じ女の子の気持ちがよくわかってる感じで」
    「金子さん、適当に言ってない?」
     和やかなムードで、各々部室を出ていく。最後に残るのは来是と紗津姫、そんな暗黙の了解もすっかり浸透した。
     ふたりだけの、暖かな夕陽差し込む部室。彼女は乾拭きしたばかりの将棋盤をそっと撫でる。
    「さっきの依恋ちゃんの持論には、驚きました」
    「……あんまり気にしなくてもいいですよ。依恋は依恋。先輩は先輩じゃないですか」
    「でも私の課題を、ストレートに言われた気がして。来是くんたちはあまり悩まないで上手くなってくれましたから、今年の一年の子たちも、それでいいって思ってました。けどああいう子がいることも、ちゃんと考えなくちゃいけませんよね」
    「そこまで必死になって頑張りたくない、けどそれなりに上手くなりたい……わがままに聞こえますけど、多数派なんですよね、きっと」
     俗にガチ勢、エンジョイ勢という分類がある。上達するために本気で練習に取り組み、努力を惜しまないのが前者。上達にはさほど重きを置かず、仲間との交流を楽しむのが後者。
     依恋が言ったように、将棋は趣味だ。しかし主食にしているのは、部の中では紗津姫と自分くらい。他のみんなは、おやつ程度の気軽な趣味。それでいい。だからこそ、江戸の昔から庶民に広まった。
     頑張る気のない人は上達しない、上手くなりたいならガチ勢になれ、などと突き放すのは絶対に違う。
    「私は将棋を覚えてから、ずっと将棋が生活の中心でした。他に熱中できることなんて、持つことなくて。依恋ちゃんとは大違いです」
    「俺だって先輩と似たようなもので……」
    「来是くんは、依恋ちゃんに近いんじゃないですか? ……私のことを、ずっと考えてくれていた」
    「ん……」
     そのとおりだ。将棋はきっかけにすぎなかった。一番ではなかった。この素晴らしい先輩と、一緒にいられるだけでよかった。
     彼女に認められたい。その一心があればこそ、上達した。必要な技術を、心を、磨いていけた。
    「私、将棋が一番じゃないっていう人の気持ちは、ずっとわからないかもしれませんね。そういう人のほうが、圧倒的に多いのに。来是くんも、そうなのに」
    「……いいじゃないですか」
    「え?」
    「それで、いいじゃないですか」
     意を決して、その両手を握った。想定にない一手だったか、彼女の目は驚きに丸くなった。心臓をドキドキさせながら、伝えるべきことを伝える。
    「依恋のやつ、また先輩と対決モードみたいになってますけど、気にしないでください。先輩は先輩のままでいればいいんです!」
    「来是くん……」
    「人間、誰だって完璧じゃないんですから。完璧じゃないから悩んで、苦しんで、それでも前を向こうって気持ちになるんです。俺だって、全然完璧な男じゃないけど……先輩に振り向いてもらいたくて、ここまで来ました。だから先輩だって、もっと素晴らしい将棋アイドルになれます。俺が保証します」
     至近距離で、その美しい顔を見つめる。
     出会った当初は、目が合うだけで、黒髪が揺れるだけで、天にも昇りそうだった。だが今は、彼女のすべてを真正面から受け止める自信がある。
     依恋がそうであるように、俺も恋をして、強くなった――。
    「ありがとう……。なんだか、決意が揺らいでしまいそうです」
     キュッと、彼女らしく控えめな強さで、手を握り返される。
    「何の決意ですか?」
    「私を超えた人と、恋人になる……そんなのなくても、恋人になってほしいって、思っちゃいそうで」
    「……それはダメです」
    「そう、ですよね。依恋ちゃんみたいないい子を出し抜くなんて、ダメですよね。今のは聞かなかったことにしてください」
     笑顔で手を離す紗津姫。来是も笑った。
     自分たちは、いつでも笑っていないといけない。やがて来るそのときも、笑顔でいるために。
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