• このエントリーをはてなブックマークに追加
俺の棒銀と女王の穴熊〈6〉 Vol.5
閉じる
閉じる

新しい記事を投稿しました。シェアして読者に伝えましょう

×

俺の棒銀と女王の穴熊〈6〉 Vol.5

2016-02-10 21:00
    br_c_1403_1.gifbr_c_1752_1.gif

     やがて対局は午後六時、夕休に入ったところで解説会もしばしの中断となった。すると御堂はひっきりなしに声をかけられる。小気味いい解説とその容姿で、すっかり女性ファンたちのハートを掴んだようだ。
    「名人のお弟子さんってことは、直接教えてもらってるんですか?」
    「でも将棋の師匠って、そういうことはしてくれないって聞いたことあります」
    「うん、大部分はそうやと思います。でもね、聞いて驚いてください。名人のお宅で、直々に教わってます」
    「きゃああ! 伊達家ー!」
    「めちゃくちゃ高いワインとかありそう!」
     将棋界の師弟関係は書類上だけのもので、弟子が手取り足取り教わることはない――これがほとんどのケースだ。自分で強くなるべしというのが、大多数の棋士の共通認識だからだろう。しかし伊達の方針は正反対らしい。
    「考えてみれば、師匠にはなんのメリットもない。棋士は自分の将棋を追求するのが至上命題です。それがもう……これからの女流のためや言うてね、自分の少ない時間をさらに削って指導してくださる。ここまでしてもらったら、タイトルのひとつやふたつ取らんと申し訳ないでしょ!」
    「応援します! 今のうちにサインもらっちゃおうかな」
    「私も! よかったらぜひ!」
    「いやいや、そんな大それたことは」
    「でもサインの練習くらい、もうしてるんじゃないの?」
    「高遠先生、意地悪なこと言わんといてください。してますけど!」
     賑やかな会話の中、来是は次々に来る注文をさばいていく。思ったより、いや思った以上に仕事をこなせている。俺は今、さばきのアーティストだ! なんて思った。
    「春張くんも、ちょっと休憩していいわよ。お弁当用意してあるから」
    「はい。それじゃ休ませてもらいます」
     バックヤードに引っ込む。コンビニ弁当をつまみながら、来是は高揚感に身を浸していた。
     交通費が出て、食事が出て、新進気鋭の女流の解説が聞けて――もしかしてここ、最高の職場なんじゃないだろうか。臨時ということでお呼びがかかったが、今回かぎりというのはもったいない。きっと次もあるだろうから、自分からお願いしてみようか。そう考えたところでメール着信。紗津姫からだった。

    『バイトはどうですか? お客さんは楽しんでいるでしょうか。』

     箸を止めて即座に返信をしたためる。

    『解説が女流アマ名人の御堂さんで、すごく評判いいです。あの人もプロ入りするそうで、女流はますます賑やかになりそうですね。』

     紗津姫の返信もすぐに届いた。

    『高遠先生、女流の人にどんどん来てもらうと言ってましたが、御堂さんとは驚きです! 颯爽とした方で、人気が出るのも頷けます。来是くんもファンになったんじゃないですか?』

     ……ちょっと考慮時間を入れてから返事を送信。

    『御堂さんは素敵ですけど、先輩のほうがもっと素敵です。先輩以上に誰かのファンになることはありませんから。』

     攻めすぎだとは思わない。恐れずガンガン行くのが自分の恋愛だ。さあどんな応手があるのか。
     ……しかし一向に着信音は鳴らない。予想外の手に長考に入ってしまっただろうか。そのうちに対局再開時間となり、来是は仕方なく仕事に戻った。
    「おお! これは名人、勝負を決しようという手です。休憩中にもじっくり考えたでしょうねえ。このね、歩で王様の頭を叩くというのは常に有効なテクニックでして」
     御堂が目をらんらんと輝かせ、バシンと駒を動かす。なるほど、この攻めは相当にうるさそうに見える。もうどちらかが倒れていてもおかしくない。
     しかし豊田八段も若手最強の名にかけて、簡単には土俵を割らない。アマチュアでは絶対に思いつけないであろう受けの秘術を尽くし、そのたび名人を苦悩に追い込む。しかしそれ以上に攻められている豊田は焦燥する。現地の状況などわからなくとも、対局者の熱は伝わるのだ。盤面から、八十一マスの小宇宙から。
     次第に客たちはおしゃべりをやめて、御堂も必要なことしか口にしなくなった。オーダーも途絶えがちになり、来是は激しくも美しい熱戦を存分に見つめることができた。
     そして――午後八時を回ったところで死闘は決着した。
    「……豊田八段、ここで投了となりました。はあ……なんやこれ……。これが最高峰の将棋か……」
     御堂はただのファンのように呆然としていたが、すぐに気を取り直して明るい笑顔を客たちに向けた。
    「どうでしたかみなさん! これが名人の将棋ですよ。難しい、ようわからんって思った人も多いと思うんですが、それでいいんです。ようわからんけど、すごかったでしょ? わかりやすいすごさってのも大事です。けれどトッププロは、名人は、理解不能なすごさってのを持ってると思うんですね、ええ!」
    「うん、すごかったね!」
    「コーヒー冷めちゃった。すっかり夢中だったわ」
     御堂の言うとおり、ライトなファンにはそれで充分なのだろう。見た目にわかりやすいスポーツと違い、プロの将棋が容易に理解できないことがあるのは、マイナスの面もある。しかし対局者の鬼気迫る表情、解説者さえ戸惑わせる技の応酬、そして醸し出される「なんかすごい」という空気。それを味わうだけでも、将棋はきっと楽しいはずだ。
     無論、自分はそうは言っていられない。こんな難解な将棋でも、十全に理解できる実力を身につけなければ、紗津姫を超えるなど夢物語で終わってしまう――。
    「ご苦労さま。今日のバイト代ね」
     満足顔の客をすべて送り出すと、高遠が封筒を差し出した。何の変哲もない茶封筒だが、来是にはとても輝いて見えた。ありがたく受け取りながら、大事なことを尋ねる。
    「次もありますか?」
    「第四局の解説会も、もちろんやるわ。来てくれる?」
    「ぜひお願いします! すごくやりがいあるバイトです」
    「ありがとう。雇うならやっぱり、ある程度将棋をわかってる子がいいものね」
    「そんじゃ高遠先生、うちも帰ります。ごちそうさまでした」
     サービスの一杯を飲んでいた御堂が席を立つ。いい仕事をさせてもらったという喜びが、満面に浮き出ていた。
    「お疲れさま。また近いうちに声をかけさせてもらうわ」
    「ありがたいですわー。対局料だけじゃやってけませんからねえ。春張くんも、また機会があったら会おうな」
     御堂は爽やかに手を挙げる。その背中に反射的に呼びかけた。
    「あの! ひとつ聞いていいですか」
    「なんや? 彼氏ならおらんで。それと学生は範囲外やから、あきらめてな」
    「そうじゃなくて……。そのつもりもないですし」
    「ふうん? そっかー、神薙さんに惚れてるんやね」
    「そうですけど、聞きたいのは将棋のことです」
    「あっさり認めるとは男前やな! で、何を聞きたいん?」
    「……どうしたら、強くなれますか?」
     御堂は小首をかしげた。まるで小学生のするような質問で、答えは決まりきっている。
    「ひたすら練習しかないな。棋譜並べして、詰将棋解いて。つーか君には神薙さんっちゅう先生がおるやろ? うちに聞くまでもないんちゃうか」
    「先輩に頼らないで、ひとりで強くならなくちゃいけないんです。これからは」
     もう、以前のような練習環境は望めない。
     それに……そろそろ独り立ちするときではないのか。今までは、紗津姫についていくだけだった。彼女の後ろを辿るばかりでいいのか。
     否、だ。あの女王を超えるには、自分で工夫して、試行錯誤して、高みを目指さなければならない。
    「なんか事情があるみたいやね。よろしい、ひとりで強くなる秘訣を教えたる。うちがアマ時代、いや今も実践していることや」
    「それは?」
    「自分の将棋の原点を、常に見つめていること」
     ――御堂の言葉が、ストンと胸に落ちる。
    「うちは受け将棋が信条でな。きっかけはそう、子供の頃、相手の攻めを切らして勝ったことがあった。そのとき感動したんや。将棋っちゅうゲームは、攻めなくても勝てることがある……。他のゲームにはなかなかない特徴やろ?」
    「じゃあ大山十五世名人とか、大好きでしょう?」
     高遠の問いに大きく頷く御堂。昭和の大名人・大山康晴の受けのテクニックについては、紗津姫が教えてくれたことがあった。どう見ても必敗という場面から逆転したり、攻める余裕があるのにあえて受けて、相手の戦意をくじく指し方をしたり、まさに名人芸と呼ぶにふさわしい将棋だ。
    「そんなやから、いかに詰ますかより、いかに受けるかを考えるほうが性に合っててな。女流アマ名人戦を勝てたのも、そのおかげ。攻めではなく受け、これがうちの将棋の原点や」
    「将棋の原点……」
    「春張くん、自分にとってのそれはなんや? あらためて考えてみたらええよ」
     御堂が退店し、高遠に促され夜空の下に出てからも、来是はしばらく考え込んでいた。
     紗津姫の美しい姿に憧れて、将棋を指すようになった。しかしそれとは別に、どういう将棋が己に一番影響を与えてきただろうか……。
     そのとき、ポケットの中が震えた。紗津姫からのメール。
     長い長い考慮の末、彼女はシンプルな一手を放っていた。

    『そうやってまっすぐに向かってくる来是くんが、私は好きですよ。』

     来是は飛び上がった。そして思い出した。自分の将棋の根幹を成すものを。
    コメントを書く
    コメントをするにはログインして下さい。