【考察・解説】君の名は。(全ての意味を解き明かす)
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【考察・解説】君の名は。(全ての意味を解き明かす)

2016-08-30 01:30
  • 40
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新海誠監督作品の最新作(2016年8月26日公開)を見てきたのでさっそく考察してみました。




以下多分にネタバレがありますのでご注意ください!!!










【時間と空間が横糸と縦糸のようにしてストーリーが紡がれる】ー恋愛SFー

新海誠監督自身も、小野小町の古今和歌集
「思ひつつ寝ればや人の見えつらむ 夢と知りせば覚めざらましを」
(あの人のことを思いながら眠りについたから夢にでてきたのだろうか。夢と知っていたなら目を覚まさなかっただろうものを。 )
から着想を得たとインタビューで応えているように、本作は、夢と現実をモチーフにした恋愛ものである。

新海誠監督は過去作品を含めて一貫して距離感というものにこだわっている。
そして今作は、その複合系としての純粋性が表現されていた。

複合系というのは、時間と空間の複合である。
時間を横糸とすると空間は縦糸である。
今までの作品では、時間的な差や空間的な差を主に取り扱った単純系のモデルだった。

今作では、3年前の彗星事故という時間と、身体が入れ替わるという空間的な差を両方描いている。
最初、見ている方は、過去現在未来どこの時点の話で、誰が誰でというのにかなり惑わされたのではないかと思う。
そして次第にその糸が紡がれていき、ストーリーの全容が明らかになっていく。

『おれがあいつであいつがおれで』(身体の入れ替え)とSFのタイムスリップものが組み合わさったものと考えてよいだろう。
彗星事故を回避するという危機回避シナリオもSFではよくあることと思う。

大きな特徴をあげるとすれば、そこに哲学がないということである。

作品には通常、哲学が存在する。
黒澤明監督も、作品には哲学が滲み出ると言っているように、そこには製作者の意図がジワジワと藍染のように滲み出る。
ただ、この作品には、そういった哲学的な色が存在しない。
宮崎駿監督作品と比べてみるとそれが明らかである。
宮崎作品には全てに政治や哲学が入り込んでいる。『もののけ姫』しかり『風の谷のナウシカ』しかり『天空の城ラピュタ』しかり(あるモノを奪い合うという二項対立)。
翻って、本作には哲学というものが入り込んでいないのである。
悪くいえば、何がいいたかったのかわからない(そう感じた方は、本作の見方が間違っている)。
良くいえば、ただひたすらに美しい眺めだった。
ということである。

哲学的な色は存在しないが、美術的な色を通じて作品を美しく仕上げている。

新海誠監督は宮崎駿監督とは異なる、哲学を持たないフィロソファー(学問を愛する者)といえる。


そして、本作は、音楽もまた素晴らしい。
RADWIMPSの挿入歌の疾走感が東京の街並みの乱反射とシンクロしたり、
オーロラのように美しい彗星の光とピアノの三連符で幻想的な世界を表現したみたり、
視覚と聴覚、双方のシナジー効果が抜群であった。

哲学を脱した純粋性の領域として、1200年来の世紀の天体観測を楽しんでいただきたいと思う。

具体的な考察は以下に譲るとして、
本作は一見の価値があると評したい。


(飛騨の奥地で彗星を眺める三葉)


(四谷で彗星を眺める瀧)





【黄昏時】ーすれ違い時ー

劇中でポイントとなるのが、「黄昏時」という言葉である。

これは、劇中でも説明があるが、語源は万葉集の
誰そ彼(たそかれ)と われをな問ひそ 九月(ながつき)の 露に濡れつつ君待つ我そ」
(誰、あれは?と私に尋ねないでください。あれは九月の露に濡れながら君を待つ私なのですから。)
という和歌から来ているらしい。



(古典の授業の板書)

黄昏時(誰そ彼)というのは、逢魔が時ともいい、その名のとおり、妖怪や魔といったこの世ならざるものと遭遇する時間帯である夕暮れ時を指す。
これは、民俗学的にも研究の進んでいる分野であり、境界論と呼ばれている。
例えば五条大橋の武蔵坊弁慶にしても、渡辺綱が一条戻橋で遭遇し斬った嫉妬の鬼にしても、主人公は境界地点である橋で遭遇する。

現代でもそれは普遍性を持ち、橋やトンネル(『千と千尋の神隠し』では、トンネルが境界となっている)、その他コミュニティ間の継ぎ目である境界に異変が訪れる話が多い。
人とのつながりが途切れる地点に人間の不安の種があるのである(人間はポリス的な動物であるから)。
そして、これは空間に限らず時間にも敷衍できる。

それが、黄昏時、夕暮れ時なのである。
夕暮れ時は、相手の姿が見えにくくなる。
「誰そ彼」(お前は誰だ)というのはまさにその由来に足る意義を有している。


(三葉と瀧が初めて入れ替わったとき)

また、古来から夕暮れは、現世(うつしよ)と常世(幽世・隠世)の転換ポイントとされてきた。

古来、人類は太陽を信仰し天体を観察し(彗星が来ると禍が起きるとまでされていた)、太陽が沈むと、夜は不吉なものと考えられてきた。
出エジプトでは羊の血を玄関先に塗り、夜に魂が抜かれぬようにした。
ユカタン半島の古代文明では太陽が二度死んだとの記述があるように、日食という天体現象を人の生死と類似させた。
生と死、現と夢、そして三葉と瀧、それらを瞬間的に繋ぐ糸の役割をしているのが黄昏時なのである。
瀧は、森の拠り代のある広大な盆地で、彗星事故で死んだはずの三葉と会い、いよいよ夢を現実のものとして認識する。
夕陽が沈む前に、瀧は三葉へ想いを伝えようとするが、瞬間、夜が訪れ三葉は常世の世界へと戻ってしまう。

ここに、新海誠監督の「すれ違い」という芸術表現が端的に表れていたと思う。





【酒の神秘性】ー横糸と縦糸の本当の意味ー

本作のキーアイテムとして、口噛み酒というものが登場する。

伝統のある宮水神社の子孫である三葉は、劇中で、米を口でハムハムと噛みそれを酒瓶に吐いて奉納する。
村の巫女としての役割を持っている三葉は、その田舎と風習に縛られている現状に不満を抱くのだが、単に田舎と都会の対比(『となりのトトロ』や『おおかみこどもの雨と雪』)とは異なり、神道的な背景が存在する。

祖母の一葉、母の二葉、姉の三葉、妹の四葉。
先祖代々、女性がその口噛み酒をするものとされている。
女性が祭祀を取り持ち、男性は政治へと参画していく。

これは、現代でいえば政教分離とも解釈することが可能だが・・・(もちろん、そこから派生して太平洋戦争の国家神道まで手を伸ばして論評するのは荒唐無稽であり、また単に女尊男卑と批評するのも間違いである)
女系しか認めていないから、これとパラレルに考え、天皇制の男系の正統性を示しているとの論評も的外れだ。

無論、そこまで論じる者はいないと信じたいが、
ここで重要なのは、神道では一般に行われてきた米と酒(日本酒)の役割である。
神道では今でも米と酒を奉納し、祭祀の供物として扱われている。
古事記の頃から、豊作を祈願するためにそれが行われ、また麹の技術も発達している。
麹(こうじ)というのは、中国読みではなく、もともと日本古来の言葉である。
だからこそ、伝統の宮水神社では、唾液をその発酵技術として継承していたのである。
いわば、時間を超えた秘伝の方法といっても過言ではない。

そこには、下世話な話で盛り上がるビール(父親の選挙戦での酒盛り)とは異なる神聖な酒というメッセージが隠れている。
つまり、神聖性と世俗性との対比がここに見出すことができるのである(友人たちから口噛み酒を汚いと非難されるシーンはその良い例である)。
神聖性をもった三葉の彗星事故の予言が理解されなかったのは、単に妄言だからというのではなく、上述のような中核的な原因が存在する。
糸守町の語源は、糸を守るということ。つまり、侵すことのできない組紐の神聖性→その神聖性によって町が守られていると考えられる。
1200年前の彗星衝突も、おそらくそのような神の御業によって守られたのかもしれない。


そして、その酒は、糸守の依り代のある古くからの祠へと奉納される。
「ここからはお前の大切な半分を置いていくことになる」という祖母のセリフにも表れているように、三葉は、川(三途の川)を渡って、酒を供える。
ここで、三葉は現実世界から常世へと渡り、自分の半分、それは口から出した魂の宿った酒を置くのである。
そして、この酒が後半、重要な意味を帯びてくる。




(糸守の祠のある盆地)

物語の後半では、瀧は、なんとか彗星事故から三葉を救うために、東京から飛騨へと旅立つ。

瀧は縦糸でつながった(三葉と入れ替わったときの)空間的なヒントから、飛騨の山奥、糸守の祠へとたどり着くことに成功。そして、瀧は、三葉の魂が宿った酒を口にする。

その瞬間、時計の針が巻き戻り、彗星落下の日に、瀧が三葉に入れ替わる。
ここでわかることは、三葉は彗星事故で現実の生身の体は失ったが、その魂は生きており、実は、口噛み酒がタイムカプセルの働きをしていたということである。
つまり、瀧が酒を飲み、3年という時限式のタイムマシンを作動させ、時間軸である横糸(三葉)を復活させたのである。
二つの糸でよくやく結ばれた二人は、初めてそこで出会うことになる。
いや、初めて出会うというよりも、再会したといった方が適切であろう。
なぜなら、二人は横糸を辿った三葉が3年前に会いに行っていたのであるから。

つまり、横糸(時間)は三葉が、縦糸(空間)は瀧が、それぞれ糸を手繰り寄せていたのである。





【君の名は。】ータイトルに込められた想いー

この映画のタイトルでもある「君の名は。」にもある通り、本作のテーマの一つに名前の存在理由というものが見て取れる。

夢の中で入れ替わっているうち(前半)は、お互いの名前を明確に認識しているが、最後の方では、まるで今まで夢を見ていたかのようにすっかりと名前を忘れてしまう。

昔、ユダヤ人がその山(シナイ山であろうか)を登頂した際に大声で救世主の名前を叫んだということがあったらしい。
救世主というのは旧約聖書上のヤハウェであり、それが山頂での掛け声「ヤッホー!」になったといわれている。
おそらくだが、信徒たちは山を登った際に、その山頂のあまりの絶景に胸を打たれたのだろう。
そして、そこでは大袈裟だが、何か運命的なものを感じたのかもしれないし、神との接触すら考えたかもしれない。
つまり、自然的絶景に感動を覚えたことには違いが無く、そこには人智を超越した「何か」があったはずなのである。

ところで恋愛系の話においてもほぼ例外なく叫ぶというシーンが登場する。
大きく自身の感情を吐露する場面だ。
『耳をすませば』では、聖司が雫を抱きしめながら「大好きだー!」と叫び、世界の中心で愛を叫ぶ者もいる。
やはりここででも、その「何か」を感じ取ったからこそ叫んだと考えられる。

そこには、霊的な「何か」が直感的に主人公たちに訴えかけたものがある。
それは「運命」(魂の共鳴)というものに他ならない。

恋愛でいえば、赤い糸が見えたその瞬間(横糸と縦糸が結ばれた瞬間)である。
だからこそ、瀧は糸守で三葉に会えた時に、即座に掌に「好きだ」と心の叫びを書いた。
『秒速五センチメートル』の文通をするシーンや『ほしのこえ』でケータイメールでお互いの想いを伝えあうシーンからもわかるように(ちなみに、ここにも距離という概念が含意されていることにも注意されたい)、
あえて声に出して伝えなかったのは、新海誠監督ならではの特徴である。
和歌や俳句といった文字文化から現代社会におけるメールなど、過去から現在へと連綿と続く伝達手段の多様性を全面的に肯定しているといってもよいだろう。

「名前」という自己の存在証明(表の意味)よりももっと大切な「何か」(裏の意味)を、文字文化という媒体で伝えることにより、瀧と三葉の関係性は過去、現在、そして未来へと続くことになる。



(時空を超えた糸電話のように、不思議な交流が始まる)


俺たちは、私たちは、会えば必ずわかる。
その意味が、物語の最後になってようやくわかるのである。



(奇しくも須賀神社の階段で、5年の時を経て二人は再会する


タイトル
「君の名は。」


RADWIMPS – スパークル (歌詞)
運命だとか未来とかって 言葉がどれだけ手を
伸ばそうと届かない 場所で僕ら恋をする
時計の針も二人を 横目に見ながら進む
そんな世界を二人で 一生 いや、何章でも

以上の考察からわかるように、タイトルと挿入歌の歌詞の意味が、それぞれ映像には表れない(色の無い)影絵のようにスクリーンに投影されていたのである。

この映画は、哲学というややこしいものをろ過したゆえにできた色の無い純粋な映画だと思う。






【結論】ー追記ー

本日(2016年9月4日)、二回目を観てきたので追加的なこと(結論)を記載したいと思う。

風景描写や時間経過などの正確性の検証などは他のサイトに譲ることにして、ストーリー上重要な点について深堀りしたい。

特に、上記の考察では大切なことがゴソッと抜け落ちていた。
いや、正確には、三葉と瀧、二人を中心にストーリーを追っていたがために、重要な視点が欠けてしまっていた。

それは、「組紐」を主人公とした場合の視点である。

以下では、丁寧に時系列を追って行こう。
多少複雑になるが、パラドックスについてはある程度捨象されたい。




(瀧は右手に「組紐」を持っている。そして、三葉はこれから瀧に「組紐」を渡すことになる

まず、「組紐」は、三葉が所有している。
と同時に、3年前の瀧と入れ替わりが生じている。
そのため、この時点で「組紐」はすでに瀧の手許へと移っている。




「組紐」を瀧に渡す三葉

3年間「組紐」は瀧が持っているが、誰から渡された「組紐」かわからない状態だ(差出人不明)。




(黄昏時に瀧から「組紐」を返される三葉


3年経過後に、「組紐」が三葉からの物だと知り、瀧は三葉に「組紐」を返して、好きだと告白する。
三葉からすれば「組紐」を渡したその翌日に、瀧から「組紐」が返されたことになる。



さて、時系列について、おおまかに説明したが、
ここで上述した「組紐」「ラブレター」に置き換えてもう一度読み直していただきたい。
単語を置き換えても文章が成立することがわかるだろう。
なぜ三葉が髪を切ったのかというのも、三葉が失恋した(ムスビが切れた)と錯覚したからに他ならない。

結論からいえば、
「組紐」は、三葉の1日と瀧の3年という時間が伸び縮みする運命の赤い糸(郵便ポスト)を介在させて書いた「ラブレター」なのである。
したがって、三葉の和歌(恋文)に対する瀧の返歌が描かれていたと考えられる。
「君の名は。」というタイトルには様々な要素が含意されているが、ラブレターの差出人(返信相手)は一体誰なのかという郵便的・手紙的意味がそこにはあったのである(追記の趣旨)。
もちろん、ほとんどの人は直感的には上記の趣旨は理解できていたと思う。
ただ、この映画は、二回観ることによって、そのような影絵がより鮮明なカラーとして炙り出されることになるはずである。
二回目を観に行く方は是非、それを念頭に観にいってほしいと思う。








※初見で考察するには、自身でも限界がありました・・・
「組紐」=「ラブレター」であるという方程式を答案用紙にきちんと書くことを忘れていました・・・
減点を喰らったあとに加筆して再度答案を提出するようなやり方をしてしまい、考察や映画評論を楽しみに来ていただいた方に申し訳なく思いますm(__)m
ということで、「しょうがない、まあお前の考察にちょっとは同意してやるか」と感じた方は、
ツイート・イイネをぜひお願いしまふ(´・ω・`)


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他30件のコメントを表示
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細かい点ですが、神社の名前は宮水神社ですね。面白く読ませていただきました。時間軸と空間軸が結んだところで組紐が渡されているのですね。1度目は、空間軸を三葉がたぐり寄せた。2度目は滝が時間軸と空間軸を。
14ヶ月前
×
宮水のおばあちゃんがいってた昔の山火事の時も隕石から住民は助かったのかな?ならはじめのおどりで過去の隕石の事を伝承している事も理解できる。
11ヶ月前
×
>>17
これは筆者に対する反論でもありますが、貴方が特に筆者に対し共感していたので返信させていただきます

新海監督は明確な哲学に基づき映画を段階的に構築する人ですよ

彼の哲学とはある種の青春論のようなもので
一言で表すと「全ての若者は自分だけのセカイを持っているが、どんなに強い願いも巨大な世界や時勢の変化、従っては人生そのものに敗北する」というものです

新海監督はデビュー当時から背景美術への拘りが大きい人ですが、この異様なまでに高密度で実在感のある風景描写は、ただそこに横たわるだけで人間を圧倒する(例え本人が自分だけのセカイに閉じ籠っていたとしても)世界の巨大さを象徴しているんですね

君の名は。に関しては、彗星が世界や運命の象徴として描かれています

彼等は自分の経験だけでは到底理解できない示し合わせで結ばれ、逃れられない運命に引き裂かれ絶望します
しかし幸福や奇跡もまた、個人の力の及ばぬところからやってくるものです

故にこの物語で彗星は脅威として描かれながらも、時には法悦を覚えるほど美しく姿を変えるのです
物語が進むにつれ視覚効果がリアリティ(説得力)を保ったまま二転三転と変化する彗星の描写も
伝統的な日本の2Dアニメならではの表現ですね
実写や3Dアニメでは多分同じことは出来なかったでしょう

筆者は「哲学を持たないから対立構造が無い」とおっしゃっていますが、この映画で主人公達が対立するのは世界(ついては空、景色)や彼等の運命(彗星)です
映画評論家の町山智宏氏も君の名は。を「運命と戦うアクション映画」と評しています

新海監督曰くこの作品は誰かに出会うまでの物語だそうです

クライマックス、まだ互いを知らぬ瀧と三葉のクロスカッティング(同じ時間異なる場所を交互に描くこと)でカタルシスを生み出します

この時主人公瀧の視点は3年前(中学生時代)にスライドし、三葉は「過去」からの訪問者です
これは二人の「未来」に訪れる出会いを予感し祝福するための演出だと私は思います

そしてクライマックスはスリリングな場面ながらRADWIMPSの恋愛ソングがひっきりなしにかかりますが、これは物語と音楽を意図的に調和させない「黒澤明の対位法」そのものであり、希望と絶望の二面性というこの映画の哲学を表現しています

貴方は映画作品とは文学的であるべきと考えているかも知れませんが、音楽や感性に訴える演出もまた映画史的なバックボーンを持つ表現なのですよ
11ヶ月前
×
カス野郎さん

コメントありがとうございます!
その他コメントいただいた方も含めて、この返信にて総括させていただこうと思います。

町山智浩氏は、進撃の巨人(実写)映画のゴミクソ脚本(この点、文学の柄谷行人、落語の安藤鶴夫と比べれ本当の意味で二流を貫いていますが)を除いて、評論については私もたぶんに尊敬しております。
少なくとも、私の評論が町山氏の論評と対等な俎上にのぼることすら畏れ多く、それに比べれば本稿は著しく稚拙なものと思います。
げんに、哲学というワードに対する指摘が多く、言葉の選択を間違ったなあと後悔しています。正確には、哲学ではなく、政治思想と表現を変えるべきでした。

ただ、「運命と戦うアクション映画」という表現は、私にはしっくりきません。
前段にあるように、運命と自己との相互定義という趣旨が適切でしょう。
悪くいえばニヒリスティックな、良くいえば梵我一如的な哲学が新海映画の真骨頂でしょう。
根底にあるのは、高校時代に夕日を見て涙を流したという感動体験ですから、それを作品にうまく落とし込んでいると思います。

次回作にも期待してます!
11ヶ月前
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>>33
>入れ替わりとタイムリープを同時にやった初めての作品だから新鮮だったんだろ。

違います。「君の名は。」はPS2のアドベンチャーゲーム「Remember11」のパクリです。
入れ替わりとタイムリープを同時にやった初めての作品は「Remember11」です。
マイナーなゲームですから知られていないですが、あの有名な「EVER17」の続編です。
5ヶ月前
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記事よりコメント欄のほうが面白くて草
5ヶ月前
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>>41 人の考えることですし、被ったりしても仕方が無いでしょうよ。それだけでパクリと断定できるなんてあなたは幸せな頭を持っているんですね┌(┌^3^)┐
5ヶ月前
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何か難しいことを言ってみたかったんですね。
3ヶ月前
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こんな映画で泣けるほどの純粋さが欲しい。
4週間前
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