• 夜明けに『生きる』[歌詞]

    2017-10-17 00:0016時間前

     夜明けに『生きる』

     風に煽られ木の葉揺れ
     先行き知らない音のうえ
     言葉にできない隙間の中で
    「死にたいよ」『でも生きたいの』

     声にならずに咲いた羽
     夜空のミルクに抱いていた雨
     苦しいけどあなたのことを
    『知りたいよ』「また会いたいの」

     苦しい崖の郷里の祝福
     表裏一体な影と約束
     薬草に詰んだ花ばなは
     軽々しく揉まれ肌をつんざいた
     寸前、夢見た大通り
     やり直せばもう元通り?
     程遠い理想、影と逆境
     苦しくなるだけチャイムと学校
     発砲してた、空の弾丸
     頭痛くなるからパンシロン
     ガンガン 真っ白な炭酸
     みたいにはじけて飛んでっちゃえ
    「やー」
     正解のない闇ばかりを追いかけては
     老いさらばえていた くだらない『ぼく』は
    『ストロボラスト』の『Q』uestionな
    『ソラ』を『さかな』と泳いでいた

     声にならない声だして
     ハートマークの偽善を愛して
     異性であることに苛立って
    『聞きたいよ』「でも言えないの…」

     重なり合うまま夜明けを待って
     壊れない朝をずっとさすって
     キミの頬濡らすちいさな虹を
    「拭いたいよ」『また笑いたいの』

     得体の知れない恐怖の朝
     夜の怖さが知れず背後
     消える街灯、痺れる最後
     さよなら言う間になくなる千切れた愛憎
     解像しないで、夜の朝に
     零れた赤いワイングラスにシャンパン
     判断できない三半規管
     アンダーライン引いた夜の弾丸
    「ガンガン行こうぜ僕らの人生」
    『感謝の姿勢も貫く真剣』
     逃げるだけじゃ掴めない未来
     疲れた頬濡らす鮮やかな世界
     描いてた夢は莫迦にでかいでも
     狭い世界だけでは生きられないの
    『さぁ飛び出して、今すぐに』
    「MIKUHOPがあなたを癒やす国」

     風に煽られ木の葉揺れ
     先行き知らない音のうえ
     言葉にできない隙間の中で
    『死にたいよ』「でも生きたいの」

     声にならずに咲いた羽
     夜空のミルクに抱いていた雨
     苦しいけどあなたのことを
    「知りたいよ」『また会いたいの』

     浅い呼吸で、意味を求めた…
     ちいさな覚悟で、良いと思ってた…
     独りで箱に、ただ閉じ篭ってた…
     そうやって本音を飲み込んでた…
     憂鬱が呑みこむ未来が
     どれだけ絶望の明日だろうと
     僕のこの声が『刺さる』のならば
     希望の炎を燃やす Life goes on

     風に煽られ木の葉揺れ
     先行き知らない音のうえ
     言葉にできない隙間の中で
     死にたいよ でも生きたいの

     声にならずに咲いた羽
     夜空のミルクに抱いていた雨
     苦しいけどあなたのことを
     知りたいよ また会いたいの

     声にならない声だして
     ハートマークの偽善を愛して
     異性であることに苛立って
     聞きたいよ でも言えないの

     重なり合うまま夜明けを待って
     壊れない朝をずっとさすって
     キミの頬濡らすちいさな虹を
     拭いたいよ また笑いたいの



    (2017/10/16)
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  • 【押韻論】自己模倣に陥る韻律への懐疑

    2017-10-08 10:002
     
    前文

     詩論は凡てドグマである。音を語ること、それは信条を語るに等しい。日本の詩では、「押韻」はもとより、「音韻」ないし「リズム」に至るまでの話が等閑視され、時には弾圧に近い根拠の乏しい無遠慮な誹謗中傷を受け、詩・批評の舞台から排除されてきた歴史がある。果たして、「押韻」「韻律」は詩とは無縁、不必要なものなのだろうか。いや、そうではないはずだ。ここから開く扉は、タブーの歴史を紐解く、ゆるやかな"知の前進の作業"である。


    1.批評による歴史

     日本において、古くは詩と言えば漢詩であり、また和歌であった。漢詩は厳密な押韻規則を定義していたし、和歌は五七五によって韻律を定義していた。ここで入ってくるのが、日本においての文学の末っ子の詩である。言うまでもなく、詩は『新体詩抄』(1882年)からスタートしている。そして島崎藤村『若菜集』(1897年)により初めてその詩型が文学線上に乗り、北原白秋『邪宗門』(1909年)で発展し、萩原朔太郎『月に吠える』(1917年)にて完成する。これがいわゆる通例的に云われている、近代詩の成り立ちである。

     朔太郎までの詩の歴史は、同時に和歌文学からの脱却の歴史でもある。五七五による韻律の世界を"脱臭"するまでは、天才・朔太郎の登場を待たねばならなかった。
        竹

      光る地面に竹が生え、
      青竹が生え、
      地下には竹の根が生え、
      根がしだいにほそらみ、
      根の先より繊毛が生え、
      かすかにけぶる繊毛が生え、
      かすかにふるえ。

      かたき地面に竹が生え、
      地上にするどく竹が生え、
      まつしぐらに竹が生え、
      凍れる節節りんりんと、
      青空のもとに竹が生え、
      竹、竹、竹が生え。

    ――萩原朔太郎 詩集『月に吠える』より
     新しい自由な韻律世界。これにより詩は、初めて文学の市民権を得たのである。

     しかし、朔太郎が呈示し、認められた文学詩型は、定型ではなく自由な、非定型的なものであった。詩を詩足らしめるには、筆者の自由な精神に支えられた、自律的な韻律世界の展開が以降求められるようになったと言える。1つの詩を、そして詩集を書くとき、そこでは筆者が考え抜いた1本線の"緊張空間"なるものが求められるのだ。

     だが、韻律はそこまで種類が多様ではない。詩に最適な韻律の形式が、内容ごとに必然的に非定型の中からも選ばれてくるのである。すると、本来筆者の内的精神によって生み出されていたはずの韻律世界がそうならなくなる可能性が出てくる。それは創造ではなく模倣である。詩を書くことへの懐疑、形式への批判を忘れたとき、詩は文学の批評を失い死ぬであろう。



    2.詩の定型論争

     近代詩は、和歌文学からの脱却、自由で非定型な韻律を獲得することにより文学的な生を掴んできた。では、それに対する批評、「詩の定型論争」というものはなかったのだろうか。

     いや、あったのである。最も有名なものが、中村真一郎らによる『マチネ・ポエティク』(1942年~1950年)の活動である。太平洋戦争のただ中から戦後まで、日本語によるソネットなどの定型押韻詩を試み、押韻技法の確立と、定型詩の確立を文壇に強く訴えた。
    現代の絶望的に安易な日本語の無政府状態を、矯め鍛へて、新しい詩人の宇宙の表現手段とするためには、厳密な定型詩の確立より以外に道はない。(それが如何に困難であらうと)『歌経標式』以来、千年にわたる我々の詩人たちの夢であった、韻の問題も、此処で始めて実現過程に入るであらう。

    ――中村真一郎 「近代文学」1947年9月号より
     しかし、マチネ・ポエティクの活動は、三好達治から痛烈な批判を浴びることになる。その内容は、日本語で押韻詩を書く難しさ、詩の内容を叱責するものであり、当時の文壇の権威になりつつあった三好達治の言葉は重く、以後は長く詩の歴史にて、定型詩、押韻詩はおろか、音について問題にすること自体が嘲笑の対象となった。

     未だに、和歌が日本の伝統的詩歌として定型詩の役割を担っており、「押韻詩」に至っては「完成」の日の目を見ていない。詩による定型詩は、存在さえ意識されずにいる。

     だが、マチネ・ポエティク以後、幾つかの押韻・韻律論を経て、刮目に値する、明確に高い意識を持った研究と詩集が存在する。それが、梅本健三の研究書『詩法の復権』(1989年)と、鈴木漠の押韻定型詩の詩集『遊戯論』(2011年)だ。
    「押韻定型」が、日本語においてだけは本来実現できない、などということは、とうてい考えられることではない。中国文化圏、オリエント文化圏、ヨーロッパ文化圏のいずれにおいても近代現代までの間に達成された文学詩法の一種が、日本語においてだけ達成不可能とは、全く信じられない。

    ――梅本健三 『詩法の復権』より
     これは全くもって同意せざるを得ない意識である。「押韻定型」は方法論が完成していないだけで、言語学的に不可能ではないはずである。

     また、マチネ・ポエティクの「押韻定型」にの詩論を、きわめて高いレベルにまで押し上げた詩人がいる。それが鈴木漠だ。詩集『遊戯論』から、「愛染」という詩を紹介する。
        愛染

      愛とは 限りなく奪い
      はたまた与えてやまぬもの
      解読不可能な暗号の織物
      幾層にも降り積んだ火山灰

      閉ざされた窓のカーテンを焦がし
      噴き出す貪愛染着の火の穂先
      抑制する心に纏う衣裳の滅紫
      パトスとロゴスの鬩ぎ合いを促し

      祈りを捧げる内陣はほの暗く
      明王がかざす破邪顕正の利剣
      愛とはいわば仮初の臨死体験

      鳩の堕ちて行ったあの碧落
      洪水が引いた後の向こう岸に
      横たえる裸身の二つの生き死に

    ――鈴木漠 詩集『遊戯論』より
     まずソネット形式(4・4・3・3)である。押韻形式は「abba / cddc / eff / egg」である。説明すると、まず1連目は「奪い(u-bai)」「火山灰(kazan-bai)」、そして「やまぬもの(yamanu-mono)」「織物(ori-mono)」と、語尾二音を交差させる押韻を実現している。

     2連は、「焦がし(ko-gashi)」「促し(una-gashi)」、そして「穂先(ho-saki)」「滅紫(keshimura-saki)」と、こちらも語尾二音の交差韻を実現している。

     3連4連は、連をまたがる形で「暗く(ku-raku)」と「碧落(heki-raku)」、そして3連にて「利剣(ri-ken)」「体験(tai-ken)」、4連にて「岸に(ki-shini)」「生き死に(iki-shini)」と、複雑な語尾二音の交差韻を実現している。

     これは、詩の内容も高い位置にあるが、なにより語彙選択の点できわめて高度な次元にあると言っていい。語尾二音をここまで徹底して合わせた詩を私は他に知らない。韻の選択にも、退屈と思わせない知的な意識が巡らされている。

     だが、鈴木漠の「愛染」は、まだ、詩としては"ぎこちない"ように思われる。押韻定型詩の完成形にきわめて近いが、これは、まず真似するのが複雑ゆえに難しいし、韻律として見たときに、美しくないと感じる箇所が散見される。定型詩で、かつ押韻詩である以上、韻律に欠損が生じてしまうことは致命的である、同じ押韻が反復される効果を、これでは引き出せない。定型詩の「箱」としての普遍性には惜しくも届かないように思われる。

     この詩を見たとき、果たしてこの構造の押韻詩で、押韻定型詩を完成させられるのか、私は懐疑心を持つようになった。そこで「韻律」と「反復」を重視した構造への転換を図るべきと考えた。押韻定型詩の理論の再構築である。



    3.理論の再構築-ベクトル変化-

     ここからはより実践的な話と、それに伴う理論的な話が中心になってくる。「韻律」を取り入れるため、まず「五七五」に着目した。一度、詩が捨てた和歌文学の韻律を改めて考慮することになるとは、思いがけない出来事である。

     まず、「五七五」の中で「七五調」と「五七調」のどちらを採用するか考えた。結果、どちらも採用した。そして、詩に「上の句」「下の句」という概念を導入した。
     風に煽られ 木の葉揺れ
     身の振るさきなき この行方
     「上の句」で情景を展開し、「下の句」で受ける。ごく普通の技法だが、これを詩で使っている人はいないだろう。使ってみると、ドラマ性と、韻律によるリズムが生まれてくることが分かる。求めている効果が確かめられるので、次はどう韻を踏むか考えた。

     過度な脚韻縛りは、詩においては日本語を不自由にすることが、これまでの先人の実作から分かってきている。ならばベクトルをズラし「下の句の頭韻と脚韻を合わせてはどうか?」と思った。それが「木の葉揺れ(Ko-nohayu-re)」と「この行方(Ko-noyuku-e)」に反映されている。これまでの押韻研究で、押韻している音の集合体(押韻価)同士の、頭韻と脚韻が揃っていると、口に出した時に不思議と全体が押韻されているように聴こえる効果が分かっていた。

     ならば韻律のリズムに乗せて、この理論を使用してみるのも悪くない。そう考えた。実際に使用してみても、自然な音の形成が実現できることが多いと感じた。

     次は構成である。ソネット形式を最初は考えたが、どうにも五七五形式には合わないように思えた。梅本健三氏の研究書には、漢詩について非常によく書かれており、起承転結の構造を導入してみてはどうかとひらめいた。4行4連形式の導入である。

        雪と光

      風に煽られ木の葉揺れ
      身の振るさきなきこの行方
      新雪の積る道の白
      流れる時や言葉・夢

      膨れる新芽の芯の先
      開いて閉じては胸をつく
      ひそか陽炎 詩の灯り
      ゆつくりこころをほだしつつ

      子供の声や記憶の跡
      手のひら残る冷たさも
      暑さもいつか消えるもの
      ようようメロディに乗せながら

      静かな水辺に遊んでる
      憧れのひとの背の広さ
      白鳥の羽か温める
      心理のうちに秘める想い

    ――川岸直貴 詩集『音源郷』より
     これが新しい理論で構築した初の押韻定型詩になった。各連に「起・承・転・結」の役目を負わせ豊かなドラマを構成しつつ、読んで滑らかな、自然で美しい韻律の日本語であり、そして硬い押韻の情熱を内包させる。その目的を達成しているように思われる。

     押韻の箇所を明示しておくと、1連が「木の葉揺れ(Ko-nohayu-re)」「この行方(Ko-noyuku-e)」「言葉・夢(Ko-tobayu-me)」の3行にて押韻しており、2連より先が2行ずつ、2連が「芯の先(Shi-nnosa-ki)」「詩の灯り(Shi-noaka-ri)」、3連が「記憶の跡(Ki-okunoa-to)」「消えるもの(Ki-erumo-no)」、4連が「遊んでる(A-sonde-ru)」「温める(A-tatame-ru)」にて押韻をしている。

     見ての通り、ごく自然な形で日本語の動詞での押韻を可能にしているのが、この理論最大の特徴である。また、拡張性が豊かで、人によって押韻の文字数を操作することも容易である。

     だが、この理論はまだ始まったばかりだ。受け入れられるのか、はたまた否定されるのか、未知数であり、また理論としてまだ完全に完成されていない。和歌の発生期――万葉集の時代には、明確に五七五になっていない歌が多く存在する。時代の研鑽を経て、五七五という日本語不動の韻律に収斂されたのである。それを考えると、まだ詩による押韻定型は「発生期」に位置づけるのが妥当だ。誰が完成させるのか分からないが、ここでは考え方のみ呈示した。

     研鑽をすすめるためには、まだ実践例に乏しい。新しい歴史の批評者が、求められる。


    跋文 書くこと・形式への懐疑

     書くこととは何であろうか。文学は、物語・詩・批評の、三要素によって成り立っている。書くことそれ単体は表現の側面でしかない。作者が読者になり、批評によって作者が書き返されることで、表現は一個の球体となり、欠片の本物となっていく。

     表現は、呼吸の空隙を埋める孤独の発露だ。「書くことは書かれること」であり、また「読むことは読まれること」である。絶え間ない批評が、創造を進めていく。批評のない作品や、表現は、味見をされなかった料理と同じであり、創造への怠惰であり、思考停止である。

     「新しいもの」と「新しそうなもの」は別であり、創造の困難さに直面したときこそ、真に地に足をつけ、表現の内面や呼吸と向き合う覚悟が必要だ。押韻定型詩の試行錯誤は、文学の停滞に批評を入れる、歴史に向き合うための、ゆるやかな"知の前進の作業"なのだ。


    (2017/10/08)

  • 【音楽紹介】jzfx『Forgot About Me』-ホンモノの音楽シリーズ①:カセットテープで聴け

    2017-10-01 01:10

    https://stuklabel.bandcamp.com/album/forgot-about-me



     去る2015年は10月。MIKUHOP LP2を販売していたMP3にて、緊急ゆるポートさんが子供みたいにはしゃいで喜んでいた記憶が思い出される。

    ほんとうに凄いカセットテープを見つけた!

     今回から連載記事『ホンモノの音楽シリーズ』として音楽アルバムを紹介させていただく。不定期での更新を目標に、まったり進めていく。第一弾は『①:カセットテープで聴け』……ついニヤリとしてしまう。stuk LABELよりjzfx『Forgot About Me』だ。

    jzfx『Forgot About Me』

    1.Forgot About Me
    2.Don't Go
    3.Rainbows
    4.Feeling Weird
    5.Now You Left Too
    6.Retrospect
    7.I'm Alone and the Walls Are Moving
    8.Sinking
    9.Still at the Bottom
    10.I'm so...
    11.And Strange
    12.__Coming Clean__

    https://stuklabel.bandcamp.com/album/forgot-about-me

     jzfxはシカゴ出身の"electronic hip hop beat maker"だ(HPより)。その肩書きに違わない、驚くべきエレクトロニカのHIPHOP世界を構築している。

     リンク先のBandcampから視聴できる、まずは順番に『Forgot About Me』『Don't Go』『Rainbows』『Feeling Weird』と、聴いてみてほしい。頭をカナヅチでパーンと叩かれるような、圧倒的なchill-out/Dream-Electronicaの世界がそこに広がる。

     アルバム名になっている『Forgot About Me』は、ビート・メロディの浸透率が高く、脳がトリップするような感覚が味わえる。冒険の始まりだ。そして『Don't Go』、この時点で私の素晴らしいリスナー諸氏であればお気づきであろう、「この人は凄い」と。

     そこからはのめり込んで良い。水の音と、Chill-outのHIPHOPビート基調の『Rainbow』で甘い陶酔境の世界で。暗いひとりの部屋で、だれもいない静かな湖畔で聴くのに最適な音楽。まるで波に浸かっている気分にさせてくれる。次にシカゴ・ミュージックらしいビートを採用した『Feeling Weird』、こいつは最高だ! ”これであがれない奴は許さない"ぜ。

     ……さて、ここでリスナー諸氏に問いかけたいのは、この音楽がカセットテープでマスタリングされたらどうなるか、だ。データ版は500円だが、カセットテープは1,000円。標題からも分かる通り、私が言いたいことは片方にある。

     カセットテープで聴くと、一定のラインでバッサリと音がカットされ、静かな雰囲気に呑まれたように、低音が素晴らしく、さながらはるか遠方から異邦人の声が届くように聴こえる。さらにイヤホンで聴いてみる。ひとりの、空間が広がる。私が抱く感情はそういったものだ。長い人生、音楽の聴き方のベクトルを少しズラしてみて、こんな音楽の楽しみ方もありか! そう思ってもらえたら素敵だなと思う。


    ※お求めやすい3,500~4,000円くらいの価格ですよ!!!


    ※僕が使っているのはこれ!!! 2,500円とやすい!!!

     思えば、2015年あたりの僕の見ていた世界は自由だった。初めて音楽を知れて、色んなことができて、みんなでワイワイ勝手に楽しんでいた、その中に緊急ゆるポートさんみたいにちょっと尖ったひとがいて、「この青いカセットテープを持ってる奴がホンモノだ!」、バカな会話をしていて楽しかった。

     そういう世界がいままさに日本で、私の知らないところで広がっていると思うと、それもまた楽しい。私に出来るのは回顧録か、はたまた未来への記事をデッサンすることか。感傷的になりすぎない範囲で、お伝えして、"今"を一緒に遊べたら嬉しい。
    ※真剣にカセットテープのことが知りたい方はmayrockさんやnak-amiさんら、その筋のひとに凸してください

     さて中盤。『Now You Left Too』まで来ると、明確に歌モノとTrapビートが混在した曲に遭遇する、アルバムの転調であり攻めたトラックだ。一転してメロウに『Retrospect』、そして恐怖感のある『I'm Alone and the Walls Are Moving』まで、こんな音楽も作れるのかと、トラックメイカーjzfx氏の引き出しの広さに感嘆する。

     『Sinking』は、まるでKREVAのトラックみたいだ。『心臓』あたりの音楽世界に近い。これはちょっと音楽好き的には嬉しい。『Still at the Bottom』、音スッカスカのビートにメロだけ乗る。これは熱い。最も自分が好きなHIPHOP観に近い音楽が、目の前に広がっている。

     『I'm so...』も好きだ。カセットテープで実際聴くと、曲順は意識できなくなる、しなくなるのだが、仮に曲順を意識するのなら、終盤となっていて脱力モードの音楽だ。だが、ビートにメロが乗っかるスタイルがここでも健在で、jzfx氏の音楽性が抜群に発揮されている。

     『And Strange』はまず声ネタで今までの作風と違う、ビートもちょっとポップで上ずるようなものを使っていて、Chill-out世界だが、少し横を見て、また違った手応えに曲を構成している。どうもアメリカのヒット・チャートに見られる(※UsherやHaimとか)ようなメロ意識を取り入れているような気もする。『__Coming Clean__』にて終曲、ゆったりした曲だが、シカゴのビートをしっかり取り入れていて、展開変調もあり、ばっちり聴かせてくる。ここにトラックメイカーとしての凄みを感じる。



     さて、いかがでしたでしょうか?

     色々な形で音楽を楽しむために、また一緒に遊びましょう。では。


    (2017/10/01)