• 有事が起きたら、慌てないこと。

    2018-06-20 23:35
    いやはや…18日の大阪北部地震、びっくりしましたねぇ…モロに通勤・通学時間直撃で、しかも被害が高槻市と茨木市に集中してるって、どういうこっちゃな状態ですが、震度6弱で死者・負傷者が300人前後だったのは、不謹慎ながら23年前の阪神大震災経験者からしたら、それだけの防災・減災システムが構築され、運用できたという証ではないかと思ってます。とは言え、“安全”とされる通学路で、まさか通学中の小学生が犠牲になるのは、痛ましい話です。(他にも、別の地域ですが、安全見守り隊として通学路にいた高齢者も犠牲になった様ですが…)コレをやってる間も、被災地では水道や都市ガス供給が止まってるトコもある様で、不便を強いられている方もいらっしゃるかと思います。この場を借りて、犠牲者には哀悼の意を、被災地域住民にはお見舞い申し上げます。

    で、今回の本題…この地震関連という訳じゃないが、いかなるイベント会場にいても、自然災害…特に都市直下型地震の場合は避けようがない話であり、いつ、どこで、どの程度の規模でという予測は、ほぼ“不可能”と考えていい。だったら、それに対する備えとして、何が重要になるかを、ケース毎に分けて解説しようと思う。今回の場合は、宝塚記念をやってる最中の阪神競馬場で、大阪北部地震の“本震”が発生したら…という想定の下で、予測可能な事を一つずつ潰していこう。

    まず、交通インフラについては、確実に阪急とJR西日本は運休する可能性があり、伊丹空港も滑走路の安全が確保できないとなると、閉鎖される事になる。かろうじて道路の被害が少なかったとしても、接続する中国道と新名神が通行止になってる可能性がある。ここまでが読めた場合、健常者(歩行に支障がない人)の場合は、西宮北口か宝塚まで徒歩で移動という選択肢があるが、身障者(特に福祉車両で来場してる)の場合、是が非でもクルマが動かないと移動が無理となる。山手幹線や主要国道に出ることができたとしても、大阪に向かうも、神戸方向に抜けるも、結構な距離を徒歩でとなると、ガチで体力勝負になる…この場合、よほどでない限りは競馬場そのものが“避難所”として解放される事になるんで、列車運行が再開(復旧)するまでは、留まってる方が“安全”と考えた方がいい。この際に事前にキープしておくべきは、携行食と飲料である。できれば、嵩張ることも憚らずに、現場へ向かう途中のコンビニや駅売店などで、最低でも500mlペット飲料2本と、長期保存が可能なポケットサイズの菓子類(クラッカーやカンパン、パウチ入り羊羹など)を事前に購入し、カバンに忍ばせておくと、場内の売店が“完売”状態でも、どうにかなる。特にキャンディやキャラメルの類は、子供がグズった時の機嫌直しに使えるから、家族連れで向かう時は、必ずポケットにでも忍ばせておこう。(食品アレルギー持ちの場合、最低でも水と果汁や乳製品を使ってない飴を持ってた方がいい。)

    で、スタンドに重篤な被害がないなら、係員の指示に従ってスタンド内に留まる方がいいが、そういう訳にもいかない時も想定される。23年前の阪神大震災の時、スタンドの一部天井が落ちて、中の水道管が破断して座席やモニターが水没したことがある。開催日じゃなかったからこそ、人的被害はなかったものの、開催中の、しかも超満員な状態では、ほぼ回避不可能…かといって、晴天時ならコース上や馬場内に避難することも可能だが、雨天時は足元が滑りやすく、慌てて逃げようとしたら転倒による二次被害を受ける可能性がある。雨天時を想定するのであれば、とりあえず上半身だけでも濡れない様にするために、大きめのビニール袋(できれば容量45L以上)を持ってたら便利。平時はゴミ回収の袋として、雨天時は頭から被ってレインポンチョとして使える様にしとけば、邪魔にはならない。(一応、小型のサバイバルナイフがあると、もっと便利だが、常時持ち歩くこと自体が銃刀法違反になりかねないんで、100均でソーイングセットを手に入れておいて、糸切りバサミで適当に穴開けると、大概はイケる。)

    そして、一番重要なのは、連絡手段としての携帯やスマホは、いつ電池残量が尽きるかわからないから、予備充電用に乾電池タイプの充電パックを最低一つは持ってた方がいい。もちろん、自宅で充電しておいた高出力モバイルバッテリーを持っていることに越したことはないが、緊急時とは、それでは間に合わないことがある。だから、充電式ではなく、乾電池式の充電パックを用意しておくのがポイントになる。大概、単3アルカリ乾電池なら、100均でも売ってる訳だし、LINEやSNSでやり取りする方が、下手に電話するよりも電池の使用量が少なくて済む。できるだけ家族間でLINEやTwitterなどのIDを相互フォローしておけば、緊急時の連絡で災害時伝言ダイアルがわからなくても、連絡をつけることができる。それでも、WiーFi環境が使えなかったり、電池残量がヤバい時、どうしても連絡をつけたいのであれば、100円玉を1枚、公衆電話用に財布以外のトコに隠しておこう…10円玉だけだと、市外や携帯相手だと数秒も喋れないから、どんなに短い通話であっても、余裕をもって喋るためにも100円玉だけは、“緊急通信用”として1枚は隠し持ってた方がいい。コレがあるかどうかで、安否確認の連絡のタイムラグが、大幅に変わる。

    でも、本当に大事なことは、いかなる有事に対しても、一呼吸置いて行動を起こすことであり、パニックになって慌てふためいても、結局助からなかったら意味がない。係員の誘導指示に従って避難することはもちろん、自分でどうにかできることは、できるだけ自分で備えた方が気分的に余裕ができます…とは言え、それをしょっちゅうやってると、変に荷物が重たくて移動が苦痛になる訳で、そこんトコが難しい訳ですが。

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  • 如何なるファンも、モラルとマナーは守ってこそ!!

    2018-06-13 23:35
    宝塚記念まで、まだ少し時間があるとはいえ、久々にジャニタレが競馬場に来るとあって、一部の競馬ファンが、ジャニタレ目当の来場者に対する危惧から、SNSが騒がしい状態になってるが、敢えて一言で片付けるなら、そういう“モラルの問題”ってのはお互い様であり、自分自身が意識して、その“手本”となる立ち振る舞いを見せてこそ、文句を垂れる権利が生じるとオイラは考える…つまり、オイラが常々はてダやブロマガ、Twitterで呟いてる“襟を正してモノは言え”である。相手に苦情や批判をやる以上は、自分もまた、それと同等、あるいはそれ以上に、“正しいモラル”とやらの立ち振る舞いをやってこそ、人々から尊敬されるのであり、また、それを真似ようと周囲も動く訳である。故に、“一番エラい人”の姿を真似るのが“子供の所作”であり、それを更に自分よりも若い世代に教え、拡散させるのが“大人の所作”である。ここんトコができてない限り、当然ながら、子供に対して文句言う筋合いもないのであり、んでもって、子供は周囲の“大人”がやってることが“正しい”と認識するから、ついついマナーレスな行為でも真似るのです。(特に交通違反やゴミ処理の方法とか…w)

    モラルが守れない背景にあるのは、現場の空気そのものが読めないからではなく、そもそも“モラルってなんだ?”って事です。基本的な事を言えば、要は羞恥心であり、それに対して自分自身が“平気”かどうかです。普段の行動に対して、他人から奇異の目で晒され続ける事に対し、なんの抵抗もない人には、まず、羞恥心そのものが存在しません。逆に、社会的地位がある人ほど、周囲からの視線が痛いからこそ、行動に“制限”がかかるのです。つまり、これが“羞恥心”に関わる一つの概念であり、自分のやってる行為に対し、周囲に迷惑と混乱を招いてると、過剰なまでの自意識がある人程、臆病になるモノです。周囲から批判されたくないですからw しかし…鉄ヲタでもドルヲタでも、如何なるファン・ヲタクといえど、自分自身のことに対して集中し過ぎると、周囲が見えなくなるだけでなく、自分自身の振る舞いすら“正義”と認識して、傍若無人な振る舞いを起こす訳であり、その手前で退がる事ができないからこそ、周囲から“変態”と思われ、嫌われるのです。これも、オイラが常々言ってるように、“自己の正義に酔う”からこそ、周囲が“見えない”訳であり、また批判されても、“自己の正義”に酔った状態だと、却って批判した相手だけでなく、世間全般をも“怨敵”と見做して、攻撃対象になる訳です。こうなると、こっちがいくら懇切丁寧に説明したとしても、当人は“自己の正義”以外認めませんから、こっちの主張すら聞く耳を持ってません。説明するだけ“無駄”です。

    つまり、モラルやマナーの類とは、互いが“気分を損ねる”事にならないようにするための“一線”であって、そこを破って自己主張のみで物事を起こせば、無関係な人まで巻き込むほどの被害をもたらす結果しかありません。もっといえば、ヲタク批判の殆どが、ごく一部のマナーレスを引き合いに出して、“これだからヲタクは…(ry”と言いたいだけの連中の餌食になってるだけであり、本来のヲタク人間ってのは、法令遵守は当然として、それプラス、自分の行動に対する“羞恥心”を捨ててないからこそ、犯罪者が“ヲタク”だった事を理由に叩く相手に対してムカつく訳です。もっといえば、“誰にも迷惑かけてない”のに、ごく一部の不届き者を捕まえて“同類扱い”されるからこそ、世間に自分の“趣味”を公表できないだけでなく、赤の他人が振りかざす“正義”の名の下において潰される訳です。逆をいえば、“自己の正義”を構える人ほど、実は他人の“趣味”がキモいと感じるトコがあって、さらに自分の趣味は“世界共通な常識”なモノだから、そこから外れた存在を排斥したい…修正して“自分の配下”としたいから叩く訳です。これこそ、一番の“間違い”である事を気付かず、平気で叩いてる姿…つまり“羞恥心”がない“ガキの所業”なのです。

    だったら、そこまで他人の趣味を奪った以上は、自分の趣味や才能が、いかに他者より優れていて、かつ“面白い”モノであるかを実証してみろって話であり、そのために“守るべきモラル”ってのを提唱してナンボである。それが“守れない”人ってのは、ハナっから興味がない上に、自分の感覚から“つまらない”という判断が成されている事に気付かないといけない…つまり、そうなるとモラルだけで環境保全は無理だから、最低限度の“マナー”を啓蒙して、その上で場の雰囲気に合わせたモラルを作るしかない訳であり、そのために“襟を正す”しかないのです。特に、競馬ファンが詰めかける場において、ジャニヲタはどこまでも“アウェイ”であり、本筋で考えると、競馬ファンから指摘されているマナーぐらいは、自分自身を守る上でも従うべきモノであり、逆に競馬ファンがジャニーズ系のライブイベントに参加するなら、たとえ熱狂的ファンでなくても、鑑賞マナーを守るのが当然の“義務”になります。啖呵を切った以上、それに似合うだけの“結果”に対し、真摯に受け止め、継続するか否かを判断すべきであり、頭ごなしでの“否定”ありきな議論は、故に無用な衝突を招きます。


  • 基礎の基礎、“競馬”ってどんな競技?

    2018-06-06 23:35
    そもそも、競馬という競技そのものってのは、どんなジャンルのスポーツか?ま、その名の通り、“馬の競走”な訳ではあるが、元々は“馬術競技”の一つであり、障害馬術から障害物(竹柵や生け垣、水濠など)を取り払い、直線やトリッキーなカーブを有するコースで競い合うのが、一般的な“競馬”となる…訳だが、実際は遠距離マラソン競技であるエンデュランスや、クロスカントリーも含まれる訳であり、また、地域によっては繋駕(けいが:二輪の牽引馬車)競走やばんえい競走も含まれる。更に言えば、馬術競技の中には、4頭立ての馬車によるスピード競技もあるため、地域やレース内容は、まさに千差万別。ただ…日本で“競馬”と言えば、十勝のばんえい以外だとサラブレッドのレースが一般的であって、海外競馬の話でも、基本的に日本で取り扱われるのは、ほぼ、サラブレッド系のレースである。さっきもチロっと書いたが、海外では、馬券発売が伴わない(つーか、そもそも海外ではJRAやNARのような、国の機関や自治体による運営方式をとってる方が稀w)競馬の方が一般的であり、また、馬の品種もサラ系のみとは限らない。特にアメリカでは、クォーターレースという超短距離(およそ400m程度)競走が存在し、それ専用のクォーターホースが“競走馬”として登録できるモノもある。

    当然だが、“競馬=ギャンブル”という図式そのものは、イギリスの貴族文化の一端であると同時に、庶民が気軽に“楽しむ”要素として、ブックメーカーが馬券発売を行なったことから発してる訳であり、故に、日本で“競馬”といえば、欧米諸国の文化が入ってくる以前は、あくまで神事の一つとして行われていた“くらべうま”であり、明治以降、紆余曲折して今日のスタイルになる訳である…つまり、現在の“競馬”がギャンブルの一環(というより、国や自治体の収益)として馬券発売を行うようになったのは、実は戦後の競馬法改正によって、現在に至る訳であり、それまでは、馬券発売に関しては“黙認”という格好だった訳である。(戦前までの競馬は、ある意味、国や自治体が主催者ではなく、地元の馬好きが集まって、勝手にやってたトコがあり、それを競馬法である程度の“規制”をかけてた訳である。)もっと言えば、発祥の地であるイギリスの競馬そのものは、あくまでも貴族の馬術競技の一環であり、その周囲で勝手にブックメーカーが馬券を発売して、庶民も一緒になってバカ騒ぎする方向へ行ったのが、西洋競馬の基本であり、それが欧米諸国に伝播する際に、フランスでは馬券発売に関して“国の機関で行う”というローカルルールを作って開催したのが、日本でも採用してる“パリミュチュエル方式”という発売方法であり、逆に英語圏(つーか、英国領として指定された地域とアメリカ)では、今でも民間のブックメーカーによる馬券発売が行われている訳である。あ、簡単に“パリミュチュエル方式”について説明すっと、一定の控除率(馬券売上から、必要経費などを差し引く部分。)を設定し、残りの売上を配当金(当たり馬券の払戻金)に回す方式で、配当倍率が人気(売上)で決まる様になっているのが特徴で、故に国や自治体が主催者(興行主)となるトコでは、この“控除率”を利用して、税収の“補填”にしてる訳である。逆に“ブックメーカー方式”ってのは、ブックメーカー自身の“個人的判断”によって倍率が決まるトコがあり、購入するブックメーカーによって、同じ“一番人気”の馬であっても、その配当金はバラバラ…その代わり、馬券売上のほぼ全額が配当金に回るため、ある意味ブックメーカーの匙加減で、一攫千金を手に入れるケースも見られる訳である。(それ故の八百長も…ゲフンゲフン)

    また、競馬の本来の“魅力”とは、ギャンブルの部分よりも、人馬一体で織りなす“絆のドラマ”や、血統的背景から導かれる“歴史小説”のような話が、目の前で展開されている事に尽きる。つまり、時として自分の人生が映し出されるかの様に、あるいは、人の思いが、愛情が、そこでぶつかり合ってる訳である。だから単に金銭的な話のみで語るのは無粋な事であり、そこに至るまでの歴史や大意を知る事も、本格的に競馬を語る上で重要な部分になる。確かに、競走馬に関して“経済動物”という視点で叩く動物愛護主義者は多いが、壮大なる“戦記”として見始めると、単なる“社会悪”として叩いてる自分を恥じる事になる…一頭の馬が“頂点に立つ”には、様々な物語があり、そこに込められた想いや願いが叶う時、思いがけない感動と共に涙を流すことになる。それは、今週の“ウマ娘”アニメにおいて、実際には“叶わなかった夢”が、物語上では“奇跡の復活”として描かれた様に、一番“叶えたい夢”を追い求めて、飽くなき挑戦を続けることに、どれだけの時間と資金と、愛情を込められるか…その奥深さを知った時、その感動は、馬券成績に関係なく、ファンも含めた競馬界全体が共有する記憶として残るのです。