『あのっ先輩…ちょっとお話が……ダメ! だってこんなのって…迷惑ですよね?』というシベリア少女鉄道の新作
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『あのっ先輩…ちょっとお話が……ダメ! だってこんなのって…迷惑ですよね?』というシベリア少女鉄道の新作

2014-04-19 02:09



     シベリア少女鉄道の新作『あの…先輩、ちょっとお話が……ダメ! だってこんなのって、迷惑ですよね?』(作・演出 土屋亮一)を観たので、初心者にもわかりやすい「シベリア少女鉄道ガイド」をめざしつつ、感想を書いてみたい。
    ※新作に関しては若干配慮していますが、過去公演についてはネタバレをガンガンやらかしているのでご注意ください。

     2000年に旗揚げしたシベリア少女鉄道(
    http://www.siberia.jp/paststages.html)は、2002年の公演『耳をすませば』で大きく注目された。彼らがくり出すバカバカしくもくだらない、それでいて演劇とも演芸とも異なる前代未聞の「トリック演劇」は観客にショックを与え、彼らは斬新なコメディ集団として多数のファンを生み出した。その後も旺盛な創作力で傑作・怪作を連打、2005年ごろには「劇団、本谷有希子」、「ポツドール」、「毛皮族」と並ぶ小劇団四天王のひとつに数えられるに至る。主宰の土屋亮一も、『戦国鍋TV』や『ウレロ未確認少女』などを手がける構成作家・脚本家へと成長、多忙となったためか新たなトリックの創出に疲れたのか、劇団活動はその名を「シベリア少女鉄道スピリッツ」とプロデュースユニット風に改め、公演ペースを落とすことでぼちぼち継続していたのだが、今回の公演から劇団名を元に戻し、活発な活動を予定しているのは長年のファンとして嬉しい限りだ(すでに10月の次回公演が告知されている)。

     彼らの芸風に未だ触れたことのない人は、以下の動画を見ていただきたい。深夜のバラエティ番組に彼らが出演した時のもので、「90分かけてやるコント」と語られるシベ少のスタイルをわずか4分半に凝縮した傑作である。

     ね、面白かったでしょ? 
     ひとつのシチュエーションから、まったく予想外のモノが表出するバカバカしさと、そのために繊細かつ膨大なエネルギーが費やされていることがあきらかになった時のカタルシス、それこそがシベ少演劇を観る時の快楽にほかならない。
     しかしこのレベルを維持するのはなかなか大変なのだ、ということは同じ枠で放送された二本目の作品を観るとよくわかる。



     いかがだったろうか。アイディアのくだらなさ、という点では前作を凌駕しているし、演者たちのコンビネーションも見事なものだ。だが、前作が非常に小さなシチュエーションで完結しているだけでなく、ネタ元となった番組の「可笑しい部分」まで批評的に拡大してみせたのにくらべると、こちらの作品はそもそものドラマ性が弱い上にパロディの見せ方が強引なため(今ではネタ元の漫画をよく知らない人も多そうだ)、トリック構造の露呈が笑いに転じることなく白けてしまった視聴者も多く生んだことだろう。
     ただ、声を大にして言っておきたいのは、このように強引なアイディアを大のオトナたちがジタバタと演じる姿を、微苦笑しつつ見守る、というのもシベ少演劇の重要な楽しみなのである、ということだ。
     着想を得たとしても、そのアホらしさと実現の困難度から誰もが放擲してしまうアイディアに執着し、それをどう設計すれば「喜劇」となりうるかを探り続ける。上出来の公演では、泡坂妻夫の『しあわせの書』や『生者と死者』のような書物そのものにトリックがしかけてあるミステリや、筒井康隆『ロートレック荘事件』や折原一『倒錯のロンド』のような、叙述トリックのミステリを彷彿とさせる超絶技巧へと到達する。
     つまり、シベリア少女鉄道は結成以来10年以上に渡っておそろしくハードルの高い作業に挑戦し続けている遊戯劇団なのだ。

     ここで、シベリア少女鉄道のトリックパターンについて分類してみよう。
    それは大きく分けて3つある。

    1 シリアスなドラマが後半でまったく異なるモノで表現される

     これがいちばん多いパターン。
    『栄冠は君に輝く』(2001)は、二人の高校球児のライバル物語が、クライマックスの試合でなぜか「ものまね王座決定戦」のスタイルに変化する(スコアボードがアノ審査員の点数表示に転じるのだ)。
    『天までとどけ』(2004)は、二人の体操選手のライバル物語が、クライマックスの試合でなぜか「テトリス」のスタイルに変化する(体操の技のポーズを貼付けたブロックが積み上げられてゆくのだ)。
    『二十四の瞳』(2003)は、11台の小型カメラで中継されながら展開する遺産相続サスペンスだが、クライマックスになるやその中継映像がなぜか宇多田ヒカル「
    FINAL DISTANCE」、松浦亜弥「桃色片想い」、安室奈美恵「Body Feels EXIT」のPVと同期してゆく。

    2 前半のドラマを後半でくり返すことで異なるモノが表出する

    『もすこしだけこうしてたいの』(2000)では、バンド青年と病気のヒロインをめぐるシリアスな恋愛物語が、「第2部」のディレクターズカット篇でもう一度くり返されると、前半に出なかった人物やセリフが続出し完全な笑劇へと転化する。
    『耳をすませば』(2002)では、同じセットで3つの短篇劇が演じられ、「第2部」でそれがもう一度まとめて上演されることで、『アルプスの少女ハイジ』の第50話(クララが立つ話)のセリフ・音声が完全に再現される。
     近作では『キミ☆コレ ワン・サイド・ラバーズ・トリビュート』(2010)が、漫画家の仕事場における日常ドラマが何度もくり返され、やがてそれぞれの人物の視点で再現されるや『北斗の拳』、『美味しんぼ』、『ドラえもん』、『ガンダム』、『金八先生』、『古畑任三郎』のパロディとして浮かびあがるという凝った技を見せた。

    3 ドラマ自体を脱構築する一種のメタフィクション

    『今、僕たちに出来ること。あと出来ないこと』(2001)は、ドラマが展開するうちにやたら壮大なSFになってゆくのだが、足りない俳優をやむなくキューピー人形や藤原紀香の看板に置き換えたり、必要となるべきセットや小道具をショボい代替品で見立てながら続行、最終的に舞台は見立ての小道具だらけの珍妙な世界になり俳優が消滅する。
    『VR』(2004)では『ER』のパロディドラマが展開するが、後半でそれが参加型バーチャル・リアリティゲームであることが判明、参加者がそれぞれ装置をつけたまま個人行動に移ったため、ドラマのセリフが彼らが現実世界で体験するセリフに置き換わってしまう。
    『永遠かもしれない』(2008)では、漫才コンクールに出場する男女の話だが、漫才中に男の「ノリツッコミ」のノリの部分がえんえんと脱線し続けて終らなくなり、相方の女がなんとか彼にツッコミさせようとそのノリにつきあってゆくものの脱線に次ぐ脱線は永遠に続く、というもの。

     で、最新作の『あの…先輩、ちょっとお話が……ダメ! だってこんなのって、迷惑ですよね?』(長いタイトル!)だ。
    (この先最新作の内容にやや触れるので、これから観る方はご注意ください)
     近年では、観客がシベ少のスタイルに慣れ過ぎてしまい、シンプルなトリックでは驚かなくなっているためか、それとも大きなトリックのパターンが出尽くしたためか、1〜3のスタイルのいずれかを合成する作品が多くなっている。はたして最新作も、上記の分類パターンで言うところの3から1へと移行するスタイルの作品だった。
     座・高円寺1の広いステージに4つのシチュエーションが構築され、学園もののドラマが展開する。タイトル通り、「先輩」に憧れを持つ女生徒とその友人をめぐる恋愛模様、彼女たちの担任である女教師とその恋人、そして過去の恋人との三角関係……。開巻わずか30分ほどで、最初の仕掛けがあきらかになり、タイトルの意味が提示される。観客はその脱線か否かの境界上で不安定となるドラマをえんえん観続け、ラスト30分に至るやさらに大きな「ネタばらし」が炸裂、役者陣は舞台空間の大転換を受け止めながら、必死に前半のドラマを展開させようと努力する。が、第一のトリック露呈は少し早すぎたのではないかと思う。そのため、中心となるドラマへの集中力が削がれ、第二の大仕掛けの登場までにサスペンスが高まらず、観る側の気分がダレてしまった。
     彼らの最高傑作である『遥か遠く同じ空の下で君に送る声援』(2003、2013再演)や『永遠かもしれない』では、中心となるドラマが強力で、前半でうまく観客の感情を吸引していたがゆえにトリックの炸裂が鮮やかに決まっていた。また、『二十四の瞳』『俺たちに他意はない』(2007)が、トリック露呈(ネタばらし)後のドラマ展開があまりのあわただしさゆえにほとんど認識できないようなありさまだったにもかかわらず、それでも観客に大きな満足感を与えたのは、前半のサスペンスフルな展開と、トリックのアホらしさとの大胆な落差をエンターテインメントとして受け止めることが可能な作劇がなされていたからだ。
     今作の大仕掛けは広い舞台に合わせた見応えのあるものではあったが、第一のトリックと有機的に結びついたものではなく、中心となるドラマへの貢献度も薄かった。トリックはいかに無意味・非意味であってもよいが、ダレた気分のまま欽ちゃんの仮装大賞的な大仕掛けを見せられると、仕掛けがドラマから浮き上がり過ぎて距離が広がるうらみが残る。学園ドラマの設定を、BGM使用した某アニメを視野に入れた内容にしておくとか、なんらかの工夫が必要だったのではないか。
     かつて同じ劇場で公演した『太陽は僕の敵』(2012)が、アイディアそれ自体の大胆不敵なアホらしさにもかかわらず、第二段階への移行でうまく笑いが弾けず、伏線の火薬がどこか湿気っていたような印象を与えてしまったことを思い出す。

     ただ、今回の新作における冒頭の場面のアレは、シベ少史上における最高のリアリズム演技だったと思う。いや、見事にダマされました……。
     惚れたからこその文句を言わせてもらったとはいえ、西にシルク・ドゥ・ソレイユあるならば、東にはシベリア少女鉄道あり。シベ少の次なる手品を今から期待せずにはいられない。未だ模倣者もフォロワーも生み出さぬ孤高のコメディ集団に幸いあれ。


    P.S.
     おまけとして紹介するのは、2002年の『耳をすませば』公演で配られたCDの一曲。当時の女優陣に歌わせたアイドルソングのパロディだが、そのころの土屋亮一がいかにモーな人びとにハマっていたかよくわかる。


     こんな曲作っていた人が、10年後に演出した音楽ユニット「さよならポニーテール」のPVがこちら。このPVもシベ少テイストが横溢する楽しい内容なので、ここまで目を通すことができた鍛えられた読者にお薦めしたい。





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