ストリップする幽霊〜俳優座公演『城塞』
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ストリップする幽霊〜俳優座公演『城塞』

2016-01-17 01:40


    (公式サイト) http://u0u0.net/qsbG

    昨年の『巨人伝説』レヴューはこちら
    【安部公房によるニッポン無責任時代〜俳優座公演『巨人伝説』】
    http://ch.nicovideo.jp/t_hotta/blomaga/ar658051


     俳優座の眞鍋卓嗣の演出による安部公房作品としては、『制服』(2011年)、『巨人伝説』(2014年)に続く第三弾となる『城塞』を観た。
     この三本は、いずれも先の戦争における日本の責任問題をテーマとしており、「戦後」の感覚が薄れた現在ではまず上演されない。いや、『巨人伝説』と『城塞』はまともな再演はその後、一度もなかったんじゃないだろうか。私も、2008年にシアタートラムで行われた「日本語を読む」の演目として、演劇集団円の森新太郎演出による朗読劇バージョンの『城塞』を観たことがあるが、演劇としてちゃんと上演されたのを観るのは今回が初めてだ。
     が、俳優座の再演に続き、なんと来年春、新国立劇場でも『城塞』の公演が行われるという。演出は文学座の上村聡史。上村は先に触れた「日本語を読む」では『棒になった男』の朗読劇バージョンを演出した人物だ。
     それにしても、安部公房戯曲でもひときわマイナーな『城塞』が、なぜ半世紀の時を越え、今になって演劇人たちの上演意欲をかき立てているのか。その点について書いてみよう。なお、戯曲の結末に触れているのでネタバレ嫌いな人は要注意。

    『城塞』の初演は1962年(昭和37年)。演出は、当時安部戯曲の演出を一手に引き受けていた俳優座の千田是也が担当した。安部公房はこの年、小説では長篇『砂の女』と短篇『人魚伝』を発表、さらに連続テレビドラマ『お気に召すまま』の監修・脚本も手がけ、その作家活動はピークを迎えようとしていた。
     安部公房の戯曲は『快速船』の万能薬ピューや『どれい狩り』の珍獣ウェーといったSF的な着想の導入や、『制服』や『幽霊はここにいる』のような「幽霊」の登場など、設定の斬新さが売りだった。『巨人伝説』でも映像を紗幕に映してのイメージシーン演出などを行っているが、『城塞』はその手の新手法はいっさいない。一日のうちに、一つの場所で、一つのストーリーが描かれる、いわゆる「三単一の法則」にのっとった古典的な形式である。

     あらすじを説明する。
     舞台はある豪邸内の一室。主人公の男は大陸における軍需産業でのし上がったブルジョワ家庭の跡取り息子。その父は敗戦を迎え、大陸から日本へ脱出するための飛行機を手配しているが、座席は父と息子の二人分しかない。母と妹は置いてゆくという父に、男は猛反発するが、揉めているうちに妹は服毒自殺を遂げてしまった……。
     が、これは過去の出来事の「再現芝居(イメージプレイ)」。じつはすでに終戦から17年が経過しており、男は父の後を継ぎ、世界中の紛争を利用してさらに会社を発展させている。一方、すっかり耄碌した父は「拒絶症」に陥っており、終戦のあの日、迎えの飛行機を待つ瞬間で意識を止めてしまっていた。発作を起こした時だけ終戦時のシャンとした意識が甦るのだ。そんな父のため、男は従僕と妻を使って、終戦時の「飛行機を待つ間に妹が死んだ場面」を再現していた。発作により意識を取り戻した父に、男は妹の死の責任を詰め寄る。しかし父は自己正当化の言葉をくり返すばかり。
     彼らの再現芝居に呆れ果てていた男の妻が妹役を拒否したため、この日はストリッパーの若い女が雇われている。若い女は主人公一家の歪んだ関係性を面白がるが、イラ立ちを募らせた妻は、男を経営者から外し、禁治産者に指定する準備を進めていた。妻の脅迫を受けた男は要求通り父を精神病院へ送ることに同意し、急遽、最後の再現芝居を行うことにする。
     ふたたび再現される終戦のあの日。男はそこで、日本に向かう飛行機を待つ父に向かって、目の前に見えるものがすべて「芝居」であることを告白する……。

     登場人物は5人だけ。前作にあたる『巨人伝説』が、現代(1960年)と過去(1945年)を往復する構成だったのに対し、『城塞』は「イメージプレイ」という形式で、現在と終戦時の時間を飛躍して見せ、作品全体にメタフィクション的な多重構造を持ち込む。
     また、『制服』では殺された日本人巡査とその容疑者にされた朝鮮人青年が幽霊になったものだが、『城塞』では、死者を甦らせるのに幽霊という形式も必要としない。それは、ストリッパーによって演じられる妹である。終戦時に妹が服毒したのは、見捨てられると知って将来を悲観したからか、自分の存在が父や兄の負担となっては心苦しいと思ったかはわからない。しかし敗戦時、満州や南方で追いつめられ、降伏を許されずに自決を選んだ婦女子の姿が透けて見えるのである。

     上演を観て、正月映画で観た山田洋次監督『母と暮せば』をふと思い出した。この作品の原型となった井上ひさしの戯曲『父と暮せば』(1994年初演)ともども、戦没者の肉親が幽霊となって主人公の前に帰還する物語だった。
    『父と暮せば』は、広島の原爆で生き残った娘が主人公。爆死した父が幽霊となって娘と日常を送る二人芝居で、肉親・友人が全滅した中、自分だけ生き残ったことに負い目を感じる主人公を、父がはげまし、新たな恋に向かうのを後押しする。つまり一種のトラウマ克服劇である。これが、山田洋次の『母と暮せば』になると、一人暮らしの母のもとに、長崎の原爆で爆死した息子が現れる。そして、心残りであった自分の婚約者が新たな恋を得ることに納得し、彼女を未来へと送り出す。その代わり、母を自らの場所へ引き寄せるという、『牡丹灯籠』じみた怪談が展開するのだ。
    『父と暮せば』と『母と暮せば』は、それぞれ語りがいのある作品だが、戦争という不条理な死によって未来を奪われた肉親が幽霊となって甦る設定が根本にあり、これ自体は『黄泉がえり』(2003)や『いま、会いにいきます』(2004)以後、日本映画に流行した「死んだ恋人or肉親が会いにくる」設定で観客への催涙効果を狙う変形ゾンビ映画のジャンルに組み入れることが可能だろう。
     が、『城塞』をはじめ安部公房作品に出てくる幽霊たちは、こうした「死者の情緒化」に抵抗する。安部作品に出てくる幽霊は、決して「未来を奪われた被害者」という枠に安住などしていない。

    『城塞』の主人公である男は、戦争を道具に肥え太り、敗戦を知るや足手まといになりそうな妻と娘を見捨てて逃げようとする父に対し批判的だが、今ではその責任を曖昧にしたまま会社を継ぎ、戦争特需によって会社をさらに儲けさせている人物。まさに戦後日本そのものである。
     一見すると、男は戦時中の罪の意識に向き合うため、再現芝居をくり返しているように見える。が、男の妻は、夫が父を精神病院に入れず、コッケイなイメージプレイにふけっているのは、じつは死んだ妹に会いたいからだと喝破する。つまり、主人公はモンペを履いたお下げ髪でセーラー服の少女へのフェティシズムに満ち満ちた妹萌えの男だったのだ。昭和30年代の基準では進み過ぎた性癖な気もするが、じつはこれ、戦争における「被害者としての記憶」を安易に情緒化してもだえる左翼的「反戦ドラマ」への諷刺のようにも見えるのだ。
     ストリッパーの若い女をヨリシロとして復活した妹は、当時の憤りをぶちまけたり男や父を真っ向から告発するような野暮はしない。ではなにをするか。劇中、主人公はくよくよと自己批判の言葉を並べては、現実の接触を拒絶した父の心にそびえる城塞の高さを嘆くのだが、若い女は、あっけらかんと挑発する。

    若い女 でも、私は、気違いじゃないけど拒絶症だな……だから私、高いところに上がるのが、大好きなの。

     そこから、見下ろすのか?

    若い女 ちがうわ。その気になれば、いつだって飛び下りられるっていうこと。飛び下りる瞬間のことを思うと、ぞくっとするじゃないの? あの気持がてんでいいんだな

    (中 略)

    若い女 私があなたなら、お父さんをそのお城から引きずり出して、自分の方が成功したんだってことを、はっきり見せつけてやるな。

     だから何度も言ってるだろう。おやじをあそこから引き出すなんてことは、不可能なんだ。

    若い女 なにか方法があると思うんだけどなぁ。(さりげなく男によりそって行く)

     この家の秩序からまったく自由な存在である若い女は、父の存在におびえる男に反乱をけしかけ、忠実な家老を装いつつじつは狡猾な従僕をからかい、秩序の新体制構築を画策する妻を翻弄する。そしてクライマックス、息子の反乱によって現実を直視することを強いられ、崩壊寸前の父の目前で、若い娘は男の手を借りて服を脱ぎ、妖艶なストリップを演じるのだ。
     安部公房にとっては、このイメージこそが内地に帰ることができなかった死者たちによる日本国への復讐なのである。

     このように、安部公房の戦争責任テーマの総決算である『城塞』においては「若い女」がきわめて重要であり、それはブルジョワ家庭にまぎれこんだハーポ・マルクスや、大企業のパーティーに出没する植木等のようなうさん臭く魅力的な異邦人でなければならないのだが、今回の公演でこの役を演じる野上綾花は、ストリッパーというよりはAKB48にでもいそうなお嬢さんで、やたら力いっぱい演じてセリフを消化するものの、その先がなく、いかにも弱い。初演でこの役を演じたのは木村俊恵、そう『仁義なき戦い』で山守親分の奥さんを演じた人。どんな芝居をしたのか、気になるところだ。
     父役の中野誠也は、昨年の『巨人伝説』の主役に続き、認知症状態の老人から強権的な戦争犯罪者まで、さながら『戦争と人間』の伍代由介か『シグルイ』の岩本虎眼のごとき食えない親父を演じてさすがだが、その分、男を演じる齋藤隆介の若さが強く感じられる結果につながった。主人公の長台詞の中ににじむ、怯え、打算、自嘲、悔恨、虚勢などの感情はもっと繊細に聞かせてほしい。朗読劇バージョンの『城塞』でこの役を演じたのは演劇集団円の吉見一豊だが、朗読の枠をはみ出す大熱演で、二回目の「再現芝居」の場面では、男の心情を反映してかイメージプレイの演技がやたら粗雑になっており、メタフィクション構造をうまく笑いにつなげていたのが強く印象に残っている。
     眞鍋演出は『制服』、『巨人伝説』では抽象的なセットやフロント・プロジェクションやダンス場面の導入など、シンボリックな手法を散りばめていたが、今回は堂々の新劇スタイルで正面勝負に出た。が、演者の若さもあって生真面目で重苦しく、本来浮かぶべき諧謔味が沈んでしまったようだ。
     しかしラストシーンは意表を突かれた。「妹」のストリップを見せつけられる父に向かって、男が「さぁ、お父さん、こわれてしまうんだ! こわれてしまうんだ!」と最後の絶叫を聞かせるその瞬間、父の部屋への出入り口となっていた舞台奥の扉と背景が開き、そこに石積みの巨大な城壁がそびえ立っているのが見える、という演出は、主人公の決死の反乱の果てに、絶対に崩壊することがないであろう「国家」という巨大な城塞が姿を表すという解釈であり、これを効果的に見せるために余分な演出を削ぎ落していたのか、と納得した。

     なお、密室劇である『城塞』だが、戯曲にはこのようなプロローグが存在する。
     時を刻む音から突然、死刑囚が絞首台に吊り下げられた姿が浮かび上がる。そこへ、エコーのかかった対話が聞こえる。

    問 満州に対し、日本のとった行動につき、貴方は自分の行動を正しいと考えてい
      るのか?

    答 正しかったと考える。

    問 戦争を起こしたことについて、道徳的にも法律的にも間違っていなかったと考
      えるのか?

    答 自衛のための戦争だった。愛国者を裁く法律はないと考えます。

    問 貴方は戦争に賛成だったのか?

    答 (1)私は平和を愛した。しかし、それ以上に祖国を愛していたのだ。

      (2)われわれ日本人は、自分の意見はともかく、国家に運命を求められれ
       ば、それに従うのが習慣なのであります。

     最後の答が二つあるのは、演出家によってどちらを選択しても、あるいは二つとも使用してもいいらしい。が、今回の眞鍋演出ではプロローグ自体がカットされていた。あまりにテーマが限定されすぎると思ったからか、この会話を聞いて東京裁判を想起できる日本人が少なくなったと判断したからか。個人的にはこの戦争犯罪人の自己弁護が語られる重々しいプロローグから、痛快な喜劇へと発展してもらいたかったので、カットは残念に思った。来年の新国立劇場版ではどうなるだろうか?

     なお、安部公房はもともと、前年に発表した短篇『他人の死(無関係な死)』を劇化しようと取りかかっていたが、路線を変更させて『城塞』を書いたという。『無関係な死』の戯曲化は、1965年(昭和40年)に『おまえにも罪がある』という作品に結実するのだが、内容の変更は戯曲の委嘱元が労演(勤労者演劇協議会)という左翼系の団体であったことと、『巨人伝説』で消化し切れなかった戦争責任のテーマが、内部でまだくすぶっていたからだろう。1962年と言えば、2年前の60年安保によって首相の座についた池田勇人が掲げる「所得倍増計画」のもと、2年後のオリンピックに向けて高度経済成長が邁進していた時代。ついでに言えば、アドルフ・アイヒマンが絞首刑になった年でもある。
     あれから50年以上が経過し、二度目のオリンピックを前にした日本では、またしても「拒絶症」が蔓延し、不都合な記憶を無視して城塞に閉じこもる日本人が増加しているようだ。こんな時代に『城塞』がふたたび姿を現すのは当然であった。その射程の広さと密度の濃い言葉の渦が、一本のタガネとなって改めて日本という壁にひびを入れることを期待したい。


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