• 戦争と動物の物語

    2017-09-14 16:33
    1・フォークランドの歴史
     フォークランド諸島といえば、英国VSアルゼンチンの領土紛争から戦争に発展した場所である。
     南米大陸と南極大陸を結ぶ要衝地であり、捕鯨基地として入植活動が行われるまでは無人地域であった。面積は北アイルランド・長野に相当し、100近くの島を有する諸島地域であるが捕鯨産業が衰退する一方で地下原油資源埋蔵情報から国際紛争地域化してしまう。
     歴史的には19世紀初頭に英国・アルゼンチン両国は一定の占有の物証を残している。
    フォークランド紛争の結果、政治的には英国の勝利と呼ばれている。
    しかし、実相からすれば、フォークランド諸島は 『ペンギンの楽園』になる。
    2.ニホンアシカとの対比で 
     以前紹介したニホンアシカは日本人の乱獲から逃れついた竹島でついに韓国にとどめを打たれる悲しい歴史であったが、このフォークランド諸島では逆説的な皮肉が起こる。
     フォークランド諸島は世界有数のペンギンの生息地であるが、それは英国民が捕鯨基地としてフォークランドを占有し羊毛産業を地場産業化する前までの話である。
     その後、フォークランド紛争でペンギン達はその生息地域を追いやられることになるが、領土紛争の傍らでペンギン達は強かに生き残ることに成功し、楽園を作るのである。

    3、フォークランド紛争の地雷原を楽園化したペンギン達
     フォークランド紛争の置き土産は、大量の地雷が埋設された小さな島々であった。
    当時敷設された地雷はペンギンの重さを感知できず、結果、ヒトの踏み込むことが出来ないペンギン達の楽園となったのである。
     もっともフォークランド諸島には動物の怨念のようなものは漂う地域である。
    入植前にはペンギンのみならず様々な種類の動植物が豊かな生態系を保持していたと考えられており、人類入植によって棲む世界を奪われた。その後、捕鯨基地として多くの海獣類を狩猟する拠点として活躍する。同地のペンギンはヒトを恐れるのではなく近づく海獣類が多く狩猟者達は苦労せずに狩猟できたと言われている。薪が不足してもペンギンを射殺しその脂を燃料としていたほどである。低い樹木しか生育できない地域において重要な燃料だったのである。
    1000万のペンギンの95%が人類の入植で死に追いやられた、と考えられている。
    4.ウェーククイナと日本軍 
     ウェーククイナはウェーク島固有の鳥類で太平洋戦争の日本軍によって絶滅に至らしめられた絶滅動物である。 
     ウェーク島は20世紀初頭にアメリカが領有宣言した当時は無人島であった。
    太平洋上の戦略の要衝であってウェーク島は太平洋戦争開戦当初日本軍が占有するに至る。
    絶海の孤島に近いウェーク島の戦略価値は戦況悪化と共に軽視され兵站封鎖もあり凄絶な食糧不足に陥る。
     その結果、ウェーククイナは日本軍兵士の重要な食糧として絶滅するに至る。現在ウェーク島は観光資源もなく航空航路の安全確保として緊急時の着陸拠点が設けられているに過ぎない。悲しいことにPCBなどの有害物質の保管所として米軍管理となっている。
     太平洋戦争によって絶滅に至った動物としてはレイサン島のレイサンクイナにも同じことが言える。レイサンクイナの場合は食糧化ではなく基地整備によって生息域を奪われた結果である。

    5.クイナに関して
     クイナとはツル科動物で様々な地域に生息観察されているが、一方で分類学的見地での研究が進捗してない。移動性鳥類ではなく生息域から離れない鳥類は稀有なのだが、ヒトの進出域と共存できず離島などに生息域を移すことから長く観測されることがなかった。
     世界中にクイナは生息し、独自の進化体系を持つことから鳥類でも種類は多い。
    多くのクイナは絶滅に瀕しており、人知れず絶滅した種も多いと推測されている。
    沖縄のヤンバルクイナが有名だが、クイナは日本全国で見ることは出来る。もっとも夜行性でヒトの目に触れる機会はまずない。
    6.人類は戦争を越えられないのか? 
     フォークランドを楽園化できたペンギン、食糧として食べつくされたウェーククイナ、領土紛争に巻き込まれたニホンアシカ
     戦争と動物が教えてくれるものを顧慮するに切ない。
    人類悪・人類害などの陳腐な感情論もあるだろうが、人類の戦争に動物たちを巻き込んでいる人類の正義について再考してもらえれば幸いである。

    7、「白人が悪い!」という幼稚な評論
     しばしば巷説に「白人害悪論」がある。白人が大航海時代を経て様々な動物を絶滅に追いやった事実の数だけでそのように評論される。
     では、白人だけが大量絶滅させたと断言できるのだろうか?
    グローバル化する世界を縦横無尽に移動した大航海時代の白人達は自らの行動を文献として残すと同時に省みて現在に至っている。
     一方で白人から遅れてきた有色人種は彼らの野蛮さを省みて自重しただろうか?遅れてきたが故に加害者にならなかっただけ、としか思えないのである。
     ニホンアシカの事例のように動物学が未熟な地域では希少動物の価値など知る由もない。白人に限らず「知りえない」限りは保護など考える余地もないのである。
    五十歩百歩の自覚もない人間の「白人が悪い」という言説の深淵には、”無罪”でありたい人間のエゴがあるのではないだろうか?
     中国で”揚子江カワイルカ”という固有種が絶滅した様子である。日本はトキを絶滅させているにも関わらず、自らを省みず他国を批判している事実もある。しかも、トキの復活で中国のトキを借用しているにも関わらずである。
     とかく動物に関する評論では悪人探しを政治的に行う日本人の感覚は所詮は「言い逃れ」「アイツよりはマシ」という次元であろう。
    そんな日本が 自然と共存する文化性 などと自称しているのを冷淡に俯瞰している世界を日本人は知ったほうがいいように思う。
    ニホンアシカの事案でいえば、1000個ミニアイスの999個を食べておきながら、最後の1個を食べた人に対して、 「おまえが全部食べたんだろ!」と開き直っているような話であろう。

     







     
     




  • 広告
  • 運動会の変化に見る家庭教育の変化

    2017-09-13 15:14
    1.変わる運動会
     「運動会」は指導要領に基づく年中行事である。
    世代・地域によって相違する一方で学校教育ではその変化を研究することが頻繁に行われている。
     本稿はセンチメンタルな要素も踏まえつつ、変わりゆく運動会から家庭教育と親子関係を考えてみたい。
    なお、表現の都合上、児童と論及するが中学生である。本当は生徒と正確に論及するべきだが児童と記述させてもらう。
    2.幻想的なゆとり教育批判
     ゆとり教育批判では都市伝説なものが喧伝される機会が多かった。運動会に関して特に有名なのが
    ①全員一緒にゴール 
    ②順位をつけない
    という都市伝説である。
    教育姿勢として私学幼稚園の園長などが教育哲学から実施した事例はあるが、学校教育上ではこのような実例報告はない。
    ただし、それを目指して競技体制を整備した事実がある。
    小学生ならまだしも中学生・高校生になると個体差が生じる。体育系部活の生徒と帰宅部の生徒ではハンデなしでは競争性もない出来レース化する。したがって、体育系の生徒同士・帰宅部系生徒同士で競争するように調整する。それは悪意によっては、①を目指しているとは言えるだろう。小学生同士の徒競走では身長差で組み合わせし、①と勘違いされる余地も過分にある。
    ②に関しては誤解でしかなく、数値化できる競技であれば競技終了時に順位付けが行われるのであって、組み合わせ内の順位付けをしないだけの話である。そもそも組み合わせ内の順位付けの意味を見出す必然性がないことも順位付けしない理由でもある。
    ゆとり批判にはこのような誤解・誤認を既定にした批判が多々あり、相対する価値は見当たらない。もはや都市伝説の類でもあるのだからどうしようもない。
    3.消えゆく組体操
     以前は男子学生必須の組体操は今では下火である。特に「人間ピラミッド」は事故が多発することから近年では絶滅危惧種化しつつある。
    なお奥行のない人間ピラミッドの危険性を鑑み、奥行のある人間ピラミッドがプログラム化している模様。(下絵は事故を起こした大阪八尾の人間ピラミッド)
    崩壊の動画:https://www.youtube.com/watch?time_continue=47&v=RZuz8vcCN2s
      b0175301_12322041-300x278.jpg
     ちなみに、運動会は下の動画の乗りで良いと思う
    https://www.youtube.com/watch?v=HA2ile7VxO8

    人間ピラミッドの是非について日教組は「軍国教育の残滓」と批判した背景などもあり紛糾しているが4段ピラミッドまで残ると考えられている。
     言うまでもないが立体10段 は 1列5段よりも安全などという物理法則など通じない。
    (なお、司法は5段以上は危険とする判旨を提示している)
    10段ピラミッドから11段ピラミッドに進化した伊丹市では2005年に事故が頻発している。
    中国雑技団レベルの行為だと海外では見られているし、科学者の多くが暴挙だと断言している
     人間ピラミッドを全否定するつもりはない。要は安全配慮が行われていれば多少の危険性との共存は体育として否定するべきではないだろうが、安全配慮が行われていないからこそ連年事故が行っているのである。
     事故を顧慮し安全配慮を実施し安全に行われるならば人間ピラミッドを否定するべきではないだろうが、各都道府県の調べから察するに事故対策は十分ではないし、実施規模の縮小・廃止などの潮流は避けられないだろう。
     人間ピラミッドなどについては以下のような批判についての反論が難しい。
    「そんなにみんな、スポーツをやらなきゃいけないんですか?」
    「みんなで楽しさを発見しなきゃいけないものですか」
    逆にスポーツが苦手な人は上記の人には、先ほどの動画の スタートのピストル音で競技者が全員撃たれる演技をする という参加の方法を提供したいと思う。
     運動会をスポーツの楽しみに限定する必要はないだろう。

    なお、八尾の本件の事故について仔細の検証報告書がある。概して適切な教師の書類上の措置すら実行されていない時点で論外である。
    これまでの維新の姿勢であれば指導責任者は背任罪に問われかねない存在だが、どうやら維新の身内の教職員だったようである。
     ちなみに、10段ピラミッドの危険性は一定レベルの科学リテラシーの持ち主なら判然とする問題である。それにも関わらず保護者はピラミッド完成に拍手喝さいし歓喜している。なんとも危機管理能力が低い保護者だと呆れてしまう。一方、危険性を指摘した保護者が村八分になったことについては八尾独特の問題があるのかもしれない。
     なお、私の地元ではここまで科学リテラシーの低いプログラムなど実施もしないし、想起しても即座に否定されるだろう。
     人間ピラミッドに関しては単独記事化するほどの価値があるが本稿では割愛する。

    4、運動会の食事風景
     運動会の思い出の一つに保護者との弁当食があろう。
     以前の運動会の昼食風景は、ブルーシートを家族毎に用意して炎天下の食中毒に備えた弁当を家族で頂く というのが一般的だった。
    先日、母校の運動会が人出不足で同窓生駆り出して運動会に参加したのだが、様代わりしていた。 


     タープテント(上図)というテントが隙間なく広がっているのである。このテントは性質上、隣接する人との共存は出来ないし、ブルーシートのように柔軟にスペースを共有することが出来ない。昼食時間に仕事を抜けてきた保護者の多くがテープテントを広げる空間を探すような光景が展開されているのである。
     ブルーシート時代が正しいとは言わないが、タープテントでは譲り合いは難しい。タープテントを禁止しろ、とは言わないが、混雑する校庭を徘徊しテントを展開するスペースを探す親子を見て切なくなったのは言うまでもない。
     ブルーシートであればまだスペースを融通しえただろうに、と思うのは過去を美化しすぎだろうか?
     
     同時にショッキングだったのが、宅配食を頼む保護者が数人居たことである。
    学校門に宅配ピザ屋・宅食業者が携帯片手に受け取り待ちをしているのである。その傍らでモ食べ物の露店が展開している姿はシュールというしかなかった。
     もちろん宅配食を否定するつもりはないが、たった一日だけの運動会のために弁当を作れないものだろうか? 
      
     保護者が参加できない児童の場合は、教室に戻って保護者抜きで弁当を食べていた。少し気の毒が気分になったが同じような児童が集まって楽しく弁当を食べていたようにも思えるし、彼らの幸・不幸は彼が判断するものだろう。
     
     時代の変化に伴って、運動会の風景が変わるのは必然だろう。タープテントや宅配食の是非は各自検証してもらいたい。

    5.熱心な保護者の撮影とプライバシー
     時代変化を一番感じたのは本件である。
    教育熱に比例して我が子の姿を記録媒体に保存する気運と情熱は激化する。フィルムカメラ・家庭用ムービーカメラ・スマホと撮影手段が多様化した結果、意図せず別の児童を撮影してしまうこともあり、それに伴って”勝手に我が子が撮影された”というトラブルが多発している。
    それに伴って運動会における撮影マナーの徹底や児童の体操服及び下着に関する規定が必要になっている。
     同時に、保護者以外の一般人の撮影から児童を守る必要性が生じている。
    (今回私が担ったメインの業務は学校門における警備業務に近い)
     ”我が子の活躍が撮影できなかった”とリテイクを要求する保護者が出てくる始末なのだから面白いものである。
     地域住民との共存性を要請する指導要領の精神からしても近隣住民も参加する運動会であることも若干の問題が孕んでいることも失念してほしくない部分である。

    蛇足 近年、体育のプール教室におけるプライバシー問題が都市部で課題になっている。高層住宅から丸見えの校庭の現実を考えるとプール教室は実施困難というしかない。

    6.放送部が大活躍する運動会
     最近の運動会は放送部が大活躍するものらしく、児童が必死に実況を務める姿にほっこりさせられた。BGMも放送部の選曲で、オジサンの私が知る曲は少なかったのは寂しさもある。
     省みると私の時代の運動会のBGMは定番のクラシック・歌謡曲ばかりで個性を感じたことがない。伝統の運動会BGMなのかもしれないが・・・・

    7.応援団という競争
     運動会はスポーツ一色ではなくなったことも興味深かった。
    特に応援団による演出がなされ美術部や吹奏楽部などの文化系の児童の活躍場が与えられ居るのは改善だと思う。
     不思議な事に文化祭でも体育会は活躍できるのだから、運動会で文化系が活躍できるような配慮としての応援団はこのまま残してほしいと思う。

    8.学習指導要領の位置づけから考える運動会の在り方
     前述したように運動会は指導要領上は「特別活動」の枠組みであり、以下のように規定される。
    〔学校行事〕
    1 目標

     学校行事を通して,望ましい人間関係を形成し,集団への所属感や連帯感を深め,公共の精神を養い,協力してよりよい学校生活を築こうとする自主的,実践的な態度を育てる

    2 内容

     全校又は学年を単位として,学校生活に秩序と変化を与え,学校生活の充実と発展に資する体験的な活動を行うこと。
    (1) 儀式的行事: 学校生活に有意義な変化や折り目を付け,厳粛で清新な気分を味わい,新しい生活の展開への動機付けとなるような活動を行うこと。
    (3) 健康安全・体育的行事:  心身の健全な発達や健康の保持増進などについての関心を高め,安全な行動や規律ある集団行動の体得,運動に親しむ態度の育成,責任感や連帯感の涵(かん)養,体力の向上などに資するような活動を行うこと。

    昔も今も運動会に
     「自主的」な態度を育てる 目的があっただろうか?
    前述した活躍する放送部の姿は自主性を感じるが、それ以外に関しては学校側のお仕着せと感じる部分が多い。
     応援団の創設や応援合戦には一定の自主性(帰属心の現れ)を見ることが出来たが、それっきりでしかない。
     人間ピラミッドなどを考えると安全性よりも学校指導実績の発表会としか思えない。
    全ての運動会の営みが自主性に依拠するべき、とは言わないがどこまで自主性のあるプログラムなのか?という問題意識は必要ではないだろうか?
     これでは運動会を否定する言説になってしまうが、現状の運動会は指導要領の即しているとは到底思えない。
     指導要領に忖度した形で学校行事が開催され、教師が自らの指導実績を保護者にプレゼンしているだけではないだろうか?
     教師がはぐくむべき自主性を鑑みるに、運動会とは学校行事である必然性すら怪しい。
    強制された連帯感に重きを置くような和の心を教育でプログラム化している時点で違和感は拭えないのだが、如何なものだろうか?

    9、自虐的私見
     各人なりに結論を導き出してほしい問題だが、最後に個人的に提言しておくと

    ①運動(体育)会・文化祭などの学校行事は統合し、各校独自の催事とする
    ②①の際、運営・管理については各校の自治組織によって生徒の自主性に強く依存し、学校教諭は助言に留め、請われない限りは意見しないこと
    ③実施のための専任教諭を設定し、準備期間中の公務分掌は免除し専業化する
    ④実施のための生徒の実行委員会を設置し、生徒の自治会組織と併存させ運営させる
    ⑤催事期間から予算や企画まで生徒自治に委ねる
    ⑥催事参加の是非は任意とし評定化しない
    ⓻催事トラブルに関して生徒自治の限界の場合は教諭は必要な措置を講じる
    ⑧催事の前後は学校休日とし催事環境整備に専念させる

    自主性を育てることは非常に難しい。受験学力を養わせることよりも難しいが、価値あるものだろう。
    同時のこの自主性を育てるのは学校だけの問題ではない。学校よりも家庭教育こそ主戦場だと思うのだが、その意識と気概は見当たらない。
    そこが日本の教育の不幸なのだと個人的には確信している



    蛇足 組体操に関する安全問題について参考資料URL
      https://news.yahoo.co.jp/byline/ryouchida/20140519-00035451/
    なお、内田氏は知己だが日本で数少ない学校リスク研究者なので紹介させてもらう
    https://news.yahoo.co.jp/byline/ryouchida/ 内田氏のヤフー記事

    巷説では尾木氏が教育評論を頻繁に行っているが、内田氏がいずれ教育論談の主導・牽引役を担うことを切望する。
    (私は内田氏とは教育哲学を別にするが、科学性において彼以上の教育社会学者は稀有である)



  • 改憲はまた遥か先へ

    2017-09-13 12:19
    1.改憲など夢物語に過ぎない
     以前から指摘するように改憲はまだ当面為し得ない夢物語である。
    どんなに世論調査で改憲派が多数派であろうとも、それは改憲の正当性になりえても改憲になりえないのである。
     重要なのは改憲するための条文であって、改憲派が多数であることなどは条件になりえない。
    辛辣な事実でいえば、護憲派も改正賛同するような条文であれば「改憲派少数」であっても改憲出来るのである。護憲派が護持したい憲法とは条文ではなく「憲法の精神」であることすら理解できない改憲論には到底理解出来ない話だろうが
    2.自民党が1カ月ぶりに改憲論議を再開 10月にも9条改正のたたき台を党内に提示へ
    産経新聞記事:自民党が1カ月ぶりに改憲論議を再開 10月にも9条改正のたたき台を党内に提示へ
    上記記事を見て、「改憲は目の前」だと感じる改憲論者が居る。そのような人間は大概が単なる間抜けでしかない。
     そもそも、自由民主党は結党当時からずっと改憲を党是にしてきた政党であり、今日に至っている。1955年から今日まで一度として憲法改正議論において改憲草案を提示したことがないのである。
     半世紀以上も党是を実現していない政党など世界中でも稀有である
    憲法改正のための国民投票法でも猶予期間が規定されたにも関わらず、未だに草案を議事に残せたことがない。同法成立受けて2007年に憲法審査会という憲法議論専門の委員会が発足して10年の経過を経ても草案を提出した議論さえ至っていない。
    国民投票法制定時に想定したタイムスケジュールは全く進んでいないのである。
    このような事実を鑑みれば、改憲の実現性を妄信出来るのは楽観論者でしかないだろう。
    ”実績なきものの大言壮語を信じろ”というしかない話である。
    3.自衛隊合憲は、軍事力の必要・許容性のバランスは…日本維新の会、9条改正議論スタート
    産経新聞記事:自衛隊合憲は、軍事力の必要・許容性のバランスは…日本維新の会、9条改正議論スタート
     日本維新の会はまだ自民党ほどの歴史がないが、条文化された草案すら提示できていないのが現状である。
     維新の場合は9条草案すら存在しない、法学的には理解不能な「憲法裁判所」、地方自治戦略上からの憲法改正論であり、自民党よりも劣悪なのは間違いない。
     現状、改憲派と目される政党の現状は、党内議論の段階でしかないのである
    しかも、党内議論を集約した条文策定も出来ていないのであるから、その先行きは遠いというしかない。
    4.議員立法の現実と国政議員の制憲能力
     そもそも国政議員に憲法条文を創造する能力はあるのだろうか?
    根本的には国政議員には制憲能力はないと思う。(制憲権力はあるにしても)
    明治憲法は現憲法に至るまで一度も改正していない。改憲論者は現憲法から改正されていないことを問題にするが、
    明治憲法から今日まで 国政議員は 憲法改正する実務能力を発揮したことがない
    もちろん議事録を経由して「憲法の変遷」として”解釈改憲”を為しているが、その多くは最高裁の憲法訴訟法と内閣法制局主導の憲法文理解釈で為したことであって、国政議員が主体的に制憲能力を発揮したことがないのである。
     要は、国政議員には制憲権力はあっても能力はない。能力がないが故に憲法の延命装置として「憲法の変遷」と解釈改憲に頼るしかなかった、のだろう。
     議員立法能力すら絶望的な国政議員に制憲能力を期待するのが現実的ではないだろう。
    期待できるほどの実績がないのも間違いない。
    5.私擬憲法時代という黄金期
     明治憲法制定当時に私擬憲法という民間起草憲法が200近く上程された。
    先年、皇后陛下が論及された五日市憲法は数ある私擬憲法の中で一番高い評価がなされ、GHQ草案にも影響している。
     明治憲法条文の多くは井上毅氏によるものだが伊藤博文の功績化されているのは不思議だが、起草よりも制定に尽力した人だけが評価されるのが道理なのだろうか?
     明治憲法も外国人御用学者の賜物なのはタブーなのはご愛敬だが、私擬憲法時代のような改憲の盛り上がりは見られない。
     憲法という未知のものを必死に創造してきた私擬憲法時代の先人に比べて、現代の改憲論者
    のレベルは低いことは条文すら議会議論に至っていないことでも分かるだろう。
     草案レベルで完成に近いと評価される私擬憲法と比肩して、現代の改憲草案の数はどれほどだろうか?
    条文化されていない草案を含めても私擬憲法時代の草案よりも数が少ないだろう。
    なんとも悲しい状況というしかない。
     現憲法制定時にGHQが”自主憲法制定の時間を与えなかった”という批判はあるが、
    「国政議会で制憲能力があった」というだけの実績はない。一度として明治憲法を改正した実績もないのだから能力があったと言い張るのは無理がある。
     それを理由にしてGHQ草案を正当化するものではないが、皇統断絶の国際世論を背負った極東委員会と皇統護持を図ったGHQの意向を考えれば、皇統護持のために押し付けに至り、それを制憲議会で受任した、という既存の制憲通史の見方を支持するしかない。
    6.日本の憲法学者の質に問題があるか?
     巷説では日本の憲法学者に対する疑義が提示されているが、その多くが暴論だと断言できる。
     憲法とは一般法と次元が異なる領域を過分に有している。その象徴たるのが自然法・国際法である。
     人権論に過分に浸食する自然権論は法実証主義思想の強い我が国では顧慮されないが、現憲法3章の基本的人権の法理論は法実証主義だけでは到底整合性はつけられない。
    もっとも我が国の総理大臣が「国家の自衛権は自然権」などというトンデモなのだから仕方ないかもしれないが、自然法による人権起源の憲法論などは憲法学者と自然法論者でしか為し得ない領域である。その領域に迫って憲法学者を批判している論者など皆無である。
     自然法に通じることは国際法と憲法にも通じる。多くの憲法学者が国際法との整合性から論及しているが批判者の多くが国際法の知見を無視して評論している。(Ex敵基地攻撃論)
     もちろん憲法学者に批判される余地は過分にある。延々と「憲法の変遷」という憲法の延命措置に安住し 健全な立憲主義体制の憲法典を創造するための研究を実施したとは断言できないだろう。しかし、憲法学者は制憲権力を有しない存在であり、彼らは制憲権力の傍らで助言するだけの存在である。
    では、制憲権力は憲法学者に耳を貸していたのか?と言えば、否というしかない。
    要は、憲法学者に問題があるにしてもその問題は制憲権力の怠慢によるもの、であって憲法学者に対する批判の多くは暴論である。
    7.憲法改正はまた遠ざかった
     改憲論者は「護憲論者のせいで改憲できない」などというが現有議席で見れば改正原案を通せる改憲議席数である。それでも改憲出来ないのは改憲派で一致できる条文がないからである。
    このような基本的な事実すら自省できないのだから、改憲など夢物語だろう。
    延々と改憲護憲のポジショントークを繰り返すのオチでもあろう。
     私は 護憲論者でも改憲論者でもない。条文を是々非々で判断する。
    延々と改憲護憲の二元論を続ける限りは改憲など為せないだろう。
    現憲法改正はまた遠ざかったと言えるが、それは改憲論者の怠惰と堕落の結果であり、護憲派の成果ではない。
     今、必要な改憲論とは、護憲派も応じられる憲法改正であって、9条の神学論争ではない。
    改憲実績を創造せずに一足飛びに改憲を為そうなどという実績なき大言壮語を慎むべきだろう。
    もっとも改憲論者の大勢が”実績なき大言壮語”の自覚もなく「多数派の矜持」に縋っているのだろう。こうやって延々に改憲を為せず最高裁と内閣法制局依存の解釈改憲による憲法の延命措置に頼り続ける立憲主義体制の歴史を継続するのかもしれない。
     ある意味では日本の立憲通史は研究素材としては興味深い。
    シニカルに言えば、平和主義実験国家日本、革新的な英米憲法モデル国家・憲法の変遷による憲法延命実験という憲法学的な魅力的な素材と言えるかもしれない。