• 鯖のままごと 中編

    2018-11-19 23:29

    このオハナシは続き物です。
    →前編はこちらからどうぞ←

    ―――――――――――――――――――――

    親がそうだったせいでしょうか、
    お酒も煙草もあまり好きじゃありません。

    お酒は学生の時にちょっと飲んだくらいで、
    働くようになってからは忘年会と夏のビアガーデン、
    それと部署の集まりなどでほんのたまに出る飲み会、
    アルコールを口にする機会はそんなもの。

    酒も煙草も、賭け事も。
    賭け事は怖くてそういう場所に近寄った事もないんです。

    大学時代に何か一つ、
    羽目を外しといた方が社会に出て変な苦労はしょい込まない。
    そんな話を聞いた事もあったのですが、
    見事に私は何にも羽目を外さず社会に出てしまいました。
    今となってはそれの良し悪しは判らないのですが、
    それでもこう思う事があるのです。

    お酒が好きなら酔いで退屈を楽しむ事も出来たのでしょうか。
    煙草が好きなら煙で孤独を紛らわせる事も出来たのでしょうか。

    そんな事をネット掲示板なんかに書き込んでみると、

    「ポエムを読むなら別でやれ」

    なんて邪険にされて二の句を継げない心にされる有様。
    別にポエムを読める程の文学を学んだつもりもないのですが、
    どうやら人間の悩みは少し長く語るだけでポエムになってしまうみたいです。

    煙草も吸わないし酒もダメ、
    マージャン競馬も触れないし、
    パチンコなんて銀色の玉がある事しか知識が無い。
    ソシャゲのガチャに車が買えるほどのお金を使った事も無いし、
    千葉にある夢の国にも修学旅行で行ったきり。
    春はサワラ、夏にスイカ、秋はマツタケ、冬にカニ。
    そんな旬の名物を特に楽しむ事も無く一年をただ過ごし、
    ヤマザキパンのアップルパイを好んで食べてる休日の昼。

    ここまでのプレゼンで私が面白味のない女だとお思いでしょう。
    でも私、部長と不倫をするような女なんです。
    妄想の中で、なんですけど。

    孤独な不倫です。
    酒の様に誰と一緒に飲む事も無く、
    煙草の様に誰と群れて吸う事も無く、
    賭け事の様に一緒に叫ぶ相手もいなければ、
    ただ孤独に私の頭の中で妄想をかき混ぜるだけ。

    けれど一度妄想で部長に触り始めて貰えば眠ったように外界と自分を隔絶できます。
    他の事に浮気する事無く、いかがわしい事の為に只管磨いたこの妄想力です、
    他の誰と比べた事は無いのですが妄想の深さにだけは自信があります。

    しかし最近どうも妄想の調子が狂うのです。
    症状としては部長が妄想の中で私を触って来ても、
    気が付けば私の顔があのトイレの乙姫様になってしまうという事。

    こんな事は今まで一度もありませんでした。
    妄想は私の物ですからせめて妄想の中で良い思いをしたい。
    そう思ってこれまで他の人には言えないアレコレを散々してきたのですが、
    自分の顔が他の人間に置き換わると言う現象はこれが初めてです。
    余程私の脳味噌があの乙姫様の顔を気に入ったのでしょうか。

    あれから一晩経っていつもの通勤電車、いつものつり革。
    ギュウギュウに押される苦しみを和らげる事も兼て妄想をしたところ、
    やっぱり部長にいやらしい事をされているのは乙姫の顔の私。
    これは、どうしたもんかなぁと思って何回か妄想をリセットしてみるのですが、
    最終的に私の顔は乙姫様の顔に変わってしまうもので、
    最後は「じゃあもういいです」と諦めてしまい、
    部長と乙姫顔の私を妄想の中から締め出したのでした。

    だって、
    今まで自分とだけ身体を重ねていた男性が、
    急に他の女に手を出してる様を見たがる女がこの世に居ますか。

    妄想の中とは言え、
    これまで部長が手を伸ばしてくれたのは私だけ。
    家で待っている奥様を放っておいて、
    退社の後のホテルで私とせっせと汗を流し、
    奥様が用意した夕飯を冷ませる女は私だけだったのに。

    本当の不倫もこんな感じなんでしょうか。
    変な優越感に浸っていても、
    ある日突然捨てられるような別れを切り出されるものなんでしょうか。
    だとしたら皆さん、どうして不倫なんかしてるんでしょうか。
    そもそも私の様な気持ちを抱えながら不倫をする人がいないんでしょうか。

    部長は白髪染めを使わない男性です。
    四十を少し越えた頭髪にやや目立つほど混じる白髪。
    それを隠す事も無く「早く総白髪になりたいんだけど」とも仰るほど。
    超の付くほどの愛妻家で、帰る前には必ず連絡を入れ、
    噂によれば今でも出勤前のキスを玄関先で交わしてらっしゃるとか。
    身体はやせ型なのですが身長は180に届くほど、
    お子さんが二人いらっしゃるとかで、
    最近はゲームに夢中で構ってくれなくなっちゃったと寂しがってるらしくて。

    私もそんな男性に愛されてみたい。
    不倫でもいいから。
    そう思って始まった妄想不倫です。
    部長に、私が、愛されないと意味が無いんです。

    久しぶりに電車の中で妄想をせずに呆けてみると、
    つり革がとても冷たい事に気付いてしまいます。
    そうか、もう秋も終わりが近いんですね。

    会社に辿り着いてみると今度は乙姫様に会うのが怖くて、
    また妄想の中に出てきて私の場所を奪いそうで、
    トイレに行くのを我慢して両足をきゅっと閉じました。
    乙姫様の噂を聞いた時にはあんなにトイレを巡ったのに、
    打って変わって会うのが怖くてトイレを我慢するなんて。
    膀胱炎になりそうなほどおしっこをため込んでトイレに行くと、
    自分でもびっくりする位の音が股間から出たのでした。

    それから一週間、
    膀胱炎の不安と引き換えに乙姫様と会う事は無かったのですが、
    依然として妄想の中の私は時間が経てば乙姫様に取って代わられる始末。
    顔が変わると妄想をぷつんと区切り、
    しばらくは虚空を眺める作業に入るので家ではオナニーもはかどりません。
    家のベッドで一人横になり、
    ああ、鯖が一匹、寝床で横たわっているだけ。
    捌いてくれる男の一人もおらず、
    ただこの身、朽ちるのを待つだけか。
    なんて、古風な自虐をかますだけ。

    このままでは精神が不安定になり、ついには崩壊しかねない。
    どうにか妄想を安定させるしかない。
    ベッドの上に座禅を組み、両手を開いて膝の上に置く。
    なんか読んだ漫画の誰かがこんなポーズして修行してた。
    精神を集中して部長に妄想の中で登場して頂く。
    妄想の舞台は横浜のとあるホテル、
    出張で二人で横浜まで来たは良いが突然の気象異常で路線が封鎖、
    同じ状況のリーマンたちが大挙して押し寄せたため最寄りの東横インが破裂寸前、
    仕方なく二人で同室の部屋に入ってシャワーを浴びると、
    「いつものホテルじゃないから新鮮だな」と言って部長がバス室の前にいて、
    そのままキスされつつ部屋の明かりつけっぱなしでベッドまで連れてかれる。

    はい、そのままそのまま、
    いいよ調子良いよ、私の妄想絶好調。
    このまま最後まで妄想いってみよう!

    妄想に全神経を集中させて、
    お尻には座っているベッドの感触も届かない。
    私の脳と繋がっているのは妄想だけ、
    体は宇宙の一角(自分の部屋)に置いてきた。

    流石精神を集中させただけはある、
    ろくに行った事も無い横浜にあるかも判らない駅の最寄りの東横イン。
    ちょっとチープな内装も、ほの暗い黄色の白熱灯も完璧なイメージ。
    部長の声も瞳も今日はいつにもまして調子が良い。
    あ、よくイメージできているって意味です。

    部長の手が私の身体を開いて下さって、
    夜に少し伸びてきた頬の髭が太ももに当たってジョリジョリする事でしょう。
    それからキスを首筋から始めて耳、頬、おでこと迂回するいつものコース、
    そしていよいよ口へのキス、
    という所で見えた私の顔が乙姫様になっているではないか。

    駄目か。
    勝てないか。
    美人には勝てないのか。
    こんなに集中しても取って代わられるとは。

    そうだ、これはもしや相手が部長だから駄目なのでは。
    試しに他の男で妄想を繰り広げてみてはどうでしょう。
    そうなると相手は誰が良いのだろうか。
    同僚の鈴木、高校の時サッカー部だった加藤、大学で憧れた桑田。
    いつも最寄りのコンビニで働いてる佐村って人。下の名前は知らない。
    昔自動車教習で教えてくれた初老の教官。
    中学の時に美術を教えてくれた寿村先生、は駄目だな。もう記憶の輪郭がぼやけてる。

    色んな男性を妄想の中で不倫面接にかけてみたけれど、
    どの男も駄目、まるでオハナシにならない。
    今の部長に勝る男が見つからないし、
    部長より劣る男と気休めの不倫なんか(妄想の中でも)したくない。
    それに他の男達は内面もよく知ったもんじゃないし、
    その点部長はこれまでの触れ合いの中でその人柄を知れている。

    私は不倫に憧れて不倫をしている訳じゃない、
    部長という人柄に憧れて不倫をしているんだ。
    妄想の中だけど。

    だから他の女に邪魔をされるのも嫌だし、
    ふと我に帰った時にそれが結局妄想なんだと思い出すのも、
    またどうしようもなく辛いのです。

    こんな馬鹿な事をしている女、私の他にこの世に居るのでしょうか。

    そんなある日、避けてはいたものの、
    トイレに行こうとしたら入り口から掃除道具を持った乙姫様が出てきました。
    最早数週間ぶりの遭遇です。相変わらずお可愛らしい。
    しかし私にとっては妄想を乗っ取る憎き仇。
    一瞬だけ合ってしまった目を即座に逸らし、
    そのまま挨拶もせずに横をすり抜けてトイレに入ると、
    まるで自分が二流ドラマの悪役になった気分でした。

    パンツを下げて用を足して少しの罪悪感にさいなまれていると、
    壁の向こうから他の女性達のこんな声が聞こえてきたのです。

    「ねぇ知ってる、あの子、不倫してるらしいよ」



    ―――――――――――――――――――――
    続きます
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  • 鯖のままごと 前編

    2018-11-12 13:392

    私は鯖です。
    鯖はサバと読みます。
    魚の一種です。

    私の知り合いに同じ言葉を言ったならきっと、
    「いやお前は人間だろ」とか、
    「エラ呼吸も出来ない分際で」と言われると思いますし、
    事実私はれっきとした肺呼吸、哺乳類の人間なのですが、
    しかし、私は鯖なんです。

    例えば泳げない人間を指す言葉としてカナヅチってあるじゃないですか。
    その人は別に体が金属で出来ている訳でも無いのにカナヅチと呼ばれる訳ですよね。
    私の『鯖』もそう言う言葉遊びです。

    しかし、
    じゃあ一体『鯖』って何の事だろうって思いますよね。
    それに関しては少々外聞を憚る話を聞いて貰わなければいけません。

    実は私、不倫をしています。

    お相手は務めている会社の上司で部長役職の方。
    会社の帰りに短い時間を押し込むようにホテルへ行ったり、
    通勤で同じ電車の路線を使うのでそこで体を触られたり、
    そんな部長は女性の体を触るのが御好きなのか基本私はされるがまま、
    関係を始めた当初に私も何かした方が良いのかもと思い手を出そうとしたら、

    「君は楽してて、僕に全て任せてくれれば良い」

    と言われ、
    毎度部長の前で服を脱ぐと私はマグロになってしまうのです。

    こんな事を話してしまって、
    どこかから話が漏れて噂になって、
    関係がバレでもすれば相手の妻から慰謝料を請求されるぞ、
    と心配して下さる方もいらっしゃるでしょうが、
    ご心配なく、これは全て私の妄想なので。

    妄想です。
    部長との不倫は、全て妄想。
    会社の帰りにホテルで忙しいセックスをするのも、
    通勤電車の中で痴漢まがいの行為をされるのも、全て妄想です、私の。

    全ては妄想なので、
    恥ずかしい事に自分が気持ち良くなる事しか判らないんです。
    これまでの人生で男性と濃密に接触する機会は碌にありませんでした。
    だからいつも(妄想の中の)部長は「僕に任せて」って言ってくれて、
    私はされるがままのマグロ女。
    だって(妄想の)部長に何かしてあげようとしても何をすれば正解なのか判らないし、
    それが気持ち良くなってもらえる事かも分からないし、
    だからそんな怖い事は出来なくて、
    いつも部長に任せっきりでマグロになってしまうんですが、
    私知ってるんです。
    マグロはとっても高価な魚だって。

    情事において『マグロ』が許されるような女性は、
    やはり女性としての価値が高い人間なのでしょう、きっと。
    男性が頑張ってあれこれ動いて、喜ばせて喜ばせて、
    それで女性側が何もしなくても良しとされる。
    それはそうさせる程、その女性としての価値が高いという事じゃありませんか。

    その点、私なんて、
    妄想の中でしかマグロになる事を許されなくて、
    きっと現実の私はマグロどころか、鯖程度の雑魚なんです。

    好きな寿司ネタを誰かに聞いた時に色々なネタが挙がる中、
    ふと「鯖なんてどうですか」と尋ねたら「ああそれもあったね」位にあしらわれる、
    私はそれ位の価値しか、きっと無い女なんです。

    平日の毎朝、
    (自分なりに)精一杯の身綺麗を整えて部屋の外に出て出社するも、
    うちの会社は(私から見て)美人な方がまぁ多い。
    鯖の私から見れば鯛にカンパチ、鮪にカジキ、まるでここは竜宮城。
    そんな宮中、妄想の中でしかマグロになれない哀れな鯖は、
    ひっそりと業務に取り掛かる訳です。
    そうやって目立たないように泳ぐ鯖の私の肩身の狭さと言ったらありません。

    鯖はそうやって竜宮城で日々細々と暮らしていたのですが、
    そんな日々を送る中、鯖の耳に噂が一つ入り込んできました。

    なにやらとんでもない可愛い女性がこの会社に入ったとか。
    それは何処の部署なの?
    それが聞いて驚け、清掃員の女の子なんだよ。
    というのが盗み聞きの一部始終。

    そこまで聞いたら見たくなるのが人情というもの。
    休み時間やふとした合間にトイレを求めて会社の中を上から下へ、
    普段は行かないような場所のトイレまで探索しに普段よりも足取りが軽くなります。
    そんな中あるトイレに入ろうとすると、

    「えっあの子じゃない」
    「あーあれがあの子か、へー」

    そんな事を喋くる女子二人組がトイレから出てきたので突入してみれば、
    まぁとんでもなく可愛い子がいるじゃありませんか。
    見慣れた清掃員の制服を着こなした若い女の子がトイレの一角からよいしょと出てきて、
    それを探していた私はジロジロと見るように眼差しを飛ばしていたので目が合う羽目に。
    あの、ごめんなさい。別に喧嘩を売ってる訳では無いんです。
    ただここいらで、どえりゃあ別嬪さんがいるって聞いてな、
    それで一目拝もうとしただけなんじゃよ、本当なんじゃよ許してたもれ。

    私の脳内は目当ての相手との突然の遭遇に多少混乱し、
    言葉も「あ、え、」と母音しか奏でる事が出来なかったのですが、
    当の彼女は優しいものでした。

    「あっ、すみませんこちらでどうぞー」

    と掃除の終わった場所へ手招きしてくれる笑顔は夏の太陽、肌の白さは冬の雪。
    鯛も鮪も目じゃないぜ、ようこそ竜宮城へ乙姫様。

    「あっハイ」

    私はと言えばそのような乾いた返事をするのが精一杯で、
    トイレ巡りで散々出した尿を更に振り絞るかのように便座に座り、

    「へぇ、あんな子も世の中にはいるんだ」

    と感心しながらただトイレットペーパーを必要もなくカラカラと回すのでした。

    その日の業務も終わり、帰りの電車の中、
    いつもならつり革に掴まり、頭の中で部長に下半身を撫で繰り回される所を、
    本日は何故だかあのトイレの乙姫様の顔が頭に浮かんできました。

    あんなに顔が良ければ他にもきっと仕事のクチはあったろうに。
    それに加えてあの笑顔、きっと明るい性格で鬼に金棒、
    別にうちの会社から出て行けという訳じゃないのだけれど、
    もっと別の仕事に転職とか、そういう選択肢は世の中にはあるのよ御嬢さん。

    そんな他人への心配とはまた別に、
    自分がもしあんな顔だったらと頭に妄想が過ります。

    『うらやむ』と『欲しがる』は表裏一体。

    妄想が知らぬ間に走り出し、
    つり革に掴まる私の後ろから何時もの様に部長の手が伸び、
    尻へ腰へと上がっていく手がずいずい伸びて、
    背中を伝って最後に添えられた私の顔は、あの乙姫の顔とすり替わっていました。

    乙姫の顔の私が部長とそのまま演じる痴態を私は第三者の視点で、
    まるでテレビを見るように妄想し続けました。
    成る程、顔が良いとこんな風に見えるのね。
    やらしさが増して一層興奮するのも仕方ない。

    それから電車を降りてアスファルトの上を歩いていても妄想は途切れません。
    私の脳が余程お気に召したらしい。
    現実では電車を降りたんですけど、
    妄想の中では未だ車中でイチャコラお忙しいご様子。

    もう現実ではポケットから家の鍵を取り出して靴も脱いだというのにまだ終わらない。
    いよいよ部長は妄想の中で大胆にもパンツの中まで手を入れてきて、
    現実の私はちょっと手を洗おうと洗面台のライトに手をかけました。

    そして明るさに照らされてしまったのは、私の鯖顔。

    妄想の中の部長も乙姫顔の私も電車もなにもかも、
    全部一気に消し飛んで、残ったのは会社帰りの疲れたOLの顔が一つ、鏡に映るだけ。

    しかも鯖、

    乙姫じゃない。

    その日私は妄想の続きを思い浮かべるでもなく、
    冷たい布団の中で一人静かに目を閉じるだけでした。


    ―――――――――――――――――――――
    続きます。
  • 時を望みてそれを飲む

    2018-10-27 19:544

    ここはとある会社の会議室。
    次なる新商品の開発及び販売戦略が始まろうとしていた。

    「えーでは来年度の目玉商品ですが、
     ここで我が社は新しい分野に切り込む予定です。
     その分野とはコレ、栄養ドリンク。」

    スライドでデカデカと映し出された文字。
    それは『栄養ドリンク』。
    夜に無茶をしようとした人なら聞いた事のあるだろう飲み物。
    人間は頑張りたい時にこれを飲み、
    時に頑張りたくない局面でもこれを飲む。

    ブラック企業に勤める人間の120%が口にする魔の飲料。
    その飲料を販売する業界も今は戦国時代だが、
    そこにこの会社も今まさに参入しようとしていた!

    「昨今色んな栄養ドリンクがありますが、
     とにもかくにも商品とは見た目と響きが第一印象です。
     そこで社長直々に新商品の名称を頂いております。」

    まだ商品の試作も完成してないと言うのに、
    名前の方はもう出来てるなんて。
    ちょっと先走りじゃないのか?
    そう思った重役の何人かが腕組みをしたのだろう、
    会議室の中に衣擦れの音が幽かに響く。

    「その名も、『マダヤレール』!」

    プロジェクターにデカデカと映し出された商品名。
    黒の下地に白抜きの明朝体、フォントは目算32以上。
    流石にあちこちからどよめきが起こる。

    「このマダヤレール、
     とても雄々しい名称に負けない商品にする為、
     本日の会議では鋭い戦略の方向性を決める段取りです。
     ではまず色調担当の長谷川から説明を行います。」

    マダヤレール、マダヤレール。
    語感の舌触りを確かめたいのか、
    はたまた言い知れぬ不安を感じてか、
    会議室の各所から念仏のように唱える声が木霊する。

    誰が呟いたのかも分からぬマダヤレールという響き。
    その言葉達が会議室の中を何度も跳ね返り、
    ついに辿り着いた社長の耳元、
    その幽かな響きが彼の口元をニヤリと歪ませた。

    「えー、どうも。色調担当の長谷川です。
     今回のマダヤレールの外装色ですが端的にいいます。
     赤です。
     しかもただ赤ではありません。
     こちらをご覧ください。」

    言われるまでもなく会議の面々はスライドを注視している。

    「入れる容器は従来通り褐色瓶。
     それを首元まで包む真っ赤な特殊包装で彩ります。
     そして『マダヤレール』の商品名部分は、黒色です。」

    パン、と響いた、音が。
    手を叩いたのだ、長谷川が。

    「赤の下地に黒は鬼門、何故なら色が『沈む』から。
     他者のデザインを見ても、赤には白です。
     何故ならそれで色の明暗が際立つからです。
     しかしこのデザインは別に明暗など考慮しません。
     とにかく、赤です。
     赤く見せたいんです。
     色が沈む?
     沈ませましょう。
     とにかく、この瓶を赤く見せたいんです。
     白の文字だと赤の部分が少なくなります。
     マダヤレールの文字を黒にする事によって『沈む』のではなく、
     赤の『邪魔をしないんです』!」

    またパン、と音が鳴った。
    二回目の手鳴らしを長谷川がしたのだ。

    「皆さん、まだやれる、そういう時にどんな色が欲しいですか?
     青ですか?青は駄目です、落ち着いてしまいます。
     緑ですか?緑じゃ足りない、必要なのは癒しじゃない!
     白でも黒でも黄色でもない、そう、赤です――。
     赤の強さを前面に出しましょう。
     下地は赤、文字は黒。
     マダヤレールという商品名が見えないかもしれません!
     でもその代わり強い赤が店頭でお客様の目にとまります。
     ああ、この赤はマダヤレールだ、きっとそう思うでしょう!
     文字が見えなくとも、強い赤がマダヤレール、
     そう印象付けるのです!」

    マダヤレールは赤で攻める。
    長谷川の力強いプレゼンは思いの外五月蠅かったが、
    その迫力に押されたのか誰も反論を挟む者はいなかった。

    「以上、色調担当の長谷川でした。
     では次に――」

    次から次に壇上に人が昇る。
    入れ代わり立ち代わり説明する各担当がマイクを取り、
    販売ターゲット、売り出し時期、CM戦略など、
    様々な調査、様々な発想、様々な成分候補が上げられ、
    一日目の会議の幕もそろそろを閉じようとしていた夕方、
    もう建物の外は秋の入り口で急かされた太陽が沈みかけている。

    「それではこれまでのプレゼンを総合的に見返し、
     何かご意見のある方――あっ、はい社長」

    会議室の中、社長の手が宙に伸びる。
    各方面の偉い方に緊張が走る。

    「本日は皆さん長い間お疲れ様でした。
     今日は敢えてずっと静観していたんだけどね、
     いや、皆の熱意が伝わってきたいい会議だった。
     でも見ていて私が個人的に一つ、思った事があってね。」

    CM広報担当の杉浦の喉が唾を飲む。
    市場調査リーダーの真鍋の拳が指を握り込む。

    「……これ、サラリーマン用に売るのを止めない?」

    唐突だが、猫に小判。
    猫に小判とは言わずもがな、
    与えた物が対象にとって無意味である、という諺だ。
    世の中には適材適所がある。

    樵(きこり)に斧、
    コックにフライパン、
    テニスプレーヤーにラケット。

    サラリーマンにはスーツに鞄、
    それに連なるものが栄養ドリンクである。

    サラリーマンには栄養ドリンク。
    このイメージが付いた歴史は古い。
    戦士や畜生とも揶揄されるサラリーマンはタフネスが必要、
    故にそれを補助する栄養ドリンクはサラリーマンの必需品ともいえる。

    実際の市場調査もこの論に歯止めをかけない。
    栄養ドリンクの購入層はサラリーマンが群を抜いており、
    既存のメーカーの殆どもサラリーマンをターゲットに売っている。


    栄養ドリンクをサラリーマンに売らず、

    誰に売る?


    「――しかし社長」

    会議室の影の中でマイクを手に取った者が居た。
    今回の総合販売戦略リーダーの牧瀬部長である。
    スライドの光を後光の如く受け立ち上がった彼が、
    恐れ多くも社長に進言をし始めた。

    「この世の多くの人間は、働いています。
     事実我々もそうです。
     そして仕事とは一筋縄ではいかないものなのは御承知の通り、
     栄養ドリンクを必要としているのは、サラリーマンです。
     一番必要としている層は、サラリーマンです。
     事実私もこれまで数え切れない量の瓶を飲んできました。
     この場に居る全員と言って良いでしょう、
     栄養ドリンクを飲んだ事の無い者は、きっとおりません。
     それは社長も同じ事ではありませんか?
     それなのにターゲットからサラリーマンを外すとは……」

    決して強い口調では無かった。
    『部長』が『社長』に発言しているのだ。
    その言葉の節々はどこか遠慮気味なのが会議室の誰にも悟れたが、
    『通さなければならない』と言う意思もまた察せた。

    「ごめんね言葉足らずだった」

    ごめんね。
    社長のごめんねが会議室に染み渡る。

    「スーツを着たサラリーマンが会社で飲む為の栄養ドリンク、
     その従来観念を捨てようという意味で先程は言いました。」

    栄養ドリンク、元気になる物。
    サラリーマン、くたびれる。
    だから会社で飲む、栄養ドリンク、サラリーマン、当然。
    頭の中で情報を整理しようとして、
    皆の中の思考回路がゴリラの様にカタコトで喋り出す。

    「このマダヤレール、
     会社の外で飲む栄養ドリンクを目指しませんか。」

    スライドが光を放っているためかまだ会議室の中は薄暗い。

    「例えばの話、
     家に帰ったら子供がいると仮定して、
     会社で与えられる業務と家に帰って子供と遊ぶ事、どっちを頑張りたい?
     僕はねぇ、ハッキリ言って子供と遊ぶ方を頑張りたいね。
     だって子供にパパ大好きって言われたいもん。」

    社長が仰る。
    会社の業務よりは子供と遊ぶ事を頑張りたい。
    父親としては百点の言葉かもしれないが、
    会社の社長としてはどうなのだろうか。赤点をもらいやしないか。

    いやまて、
    でもこの局面、この台詞においてそれが赤点だと思う事、
    それ自体がもはや社畜として精神を毒されている証拠なのではなかろうか。
    そう思った部下がこの会議室の中に何人いるのだろう。

    「会社での仕事と家での家庭団らん。
     会社での仕事と帰宅してからの趣味。
     会社での仕事と通いの事務での運動。
     僕だけじゃなくここに居る皆に会社以外の生活があると思う。
     何を頑張りたい。
     何を頑張るべきか、ではなくて、何を頑張りたい?
     ちなみにねぇ、仕事を頑張るなんて社会人としては当たり前なんだよ。
     問題はいかに仕事を楽しむか、だ。
     人生も同じじゃない?
     いかに楽しむか、でしょう。
     そう考えた場合、楽しむ事を頑張った方がよくないかね。
     そこの君。」

    社長が突然指をさす。

    「君、そう君キミ。
     君の会社外での楽しみと言ったらなんだね。」
    「えっ、私ですか」
    「そう、君だ」
    「……」

    相手の社員が口ごもる。
    言えぬ楽しみを持っているのか、
    それとも人生に楽しみなどないのか。
    周囲の人間は心配から唇を噛む。

    「家でプラモを組み立てる事ですかね。」
    「ほう、模型か。好きなのかね」
    「好きです。
     それに今作っているのは妻が買って来てくれた物なんです。
     以前忙しくてたまらなかった時、
     プラモを買いに行く気力も無いよと嘆いていたら、
     妻がこっそりそのプラモを買って来てくれました。
     嬉しくてプレゼントされたその日に手を出してしまって、
     それを今でも作り続けています。」
    「ほう、ちなみにどんなプラモか聞いてもいいかね」
    「社長も一度は耳にした事があると思うのですが、
     ガンダムというシリーズでデンドロビウムというものです」

    ざわざわ、と会議室の中でまだらにどよめきが起こる。
    同好の士が居たのだろうか、
    そのどよめきが社長に教えた。
    妻のプレゼントは決して下手な物ではないらしい。

    「質問だが、
     その妻から貰ったプラモを作る時に栄養ドリンクを飲むのと、
     仕事で栄養ドリンクを飲むのとどっちが望ましいかね。
     断っておくが、この質問の受け答えで君の今年の査定に手心が加わる事は無い。
     保証する為に、あとで君の社員証プレートを僕に見せてくれ。
     で、どうだい」

    流石に心の中に色んな打算が蠢いたのか返事には数秒かかった。

    「栄養ドリンクを飲む程プラモが作れるなら、
     それは夢のようですね。」
    「どうもありがとう。
     今の彼の発言は勇気のあるものだったと私は評価する。
     皆まで言わないが、なにせ我々はサラリーマンだからだ。
     しかし、将来的に彼の発言が日常の物になる事を私は望みたい。

     どうかこのまま聞き続けて欲しい。
     昨今働き方改革だのなんだの、仕事の内容の改善の風潮がある。
     年内に必ず消化しなければならない有給数も定められ、
     昔に比べて労基(労働基準監督署)の手入れも厳しい。
     今よりもっと諸君らが会社にいる時間が減り、
     仕事そのものが効率化されて就業時間自体も減るだろう。
     むしろそうあって欲しい。

     我々は何のために働いているのかね。
     当然、第一条件は賃金を得る為だ。
     ではなぜ賃金を稼ぐのかね。
     もちろん生きる為に他ならない。

     じゃあなぜ生きる。

     もしくは、どうやって生きたい。
     苦しんで生きていたいと答える物好きは少ないだろう。
     私を含めた大多数が楽しんで生きたい筈だ。

     じゃあ栄養ドリンクはどうかね。
     昨今の世の風潮を省みた上で、栄養ドリンクはどうかね。
     君達が会社で仕事をしている時ではなく、
     会社を出て自分たちの人生を楽しむ時こそ飲むべきじゃないかね。

     どうせなら、
     楽しい事してる時にまだやれるって言いたいじゃない、人生。」

    この会議室、
    何も素人の集まりではない。

    どういう物を作り、どういう売り方をし、
    どれだけの売り上げを見込めば会社の利益になるか。
    その考えが頭の中を当然のように巡る面子が集まっている。

    その面子の思考にかかれば、
    社長が言った言葉がどれだけ危ない勝負に聞こえるか、言うまでもない。

    「あくまでこれは提案だ。
     もし、もしだよ。
     もし本当に今後の世の中が先程言ったように流転するなら、
     僕の提案はその新しい常識の草分けになる。
     ここで他の提案に切り替えても、きっと他の会社が草分けをするだろうけど、
     どうせなら草分けになりたいじゃない。
     僕はね、いつも勝率九割とかの仕事をしてきた訳じゃない。
     だから今ここまでこの会社を大きくできたし、
     今この社長と言う椅子に座っていると言ってもいい。

     今回はね、ちょっと特別でね。
     この会社にいる皆の気持ちを知りたい。どういう未来が良いのか。
     次の会議でここにいる全員で大雑把な売り出しの方向性を決めようと思う。
     全員での多数決でだ。
     まぁ内容はさっきの僕の提案を支持するかどうか。
     しょっぱなで取ろう。
     僕からは以上、みんな今日はお疲れ様でした。」

    電源が落ちるスライド、上がるライト。
    最初に立ち上がったのは社長で、
    最初に会議室を出て行ったのも社長だった。

    部屋に戻間際に覗くようにちょっと会議室のドアを開けて見ると、
    そこには珍しく、なかなか立ち上がろうとしない面々が椅子にまだ座っていた。

    社長は思った。
    なかなか立ち上がらないのは、何かを考えている人の傾向。
    彼らがそうやって真剣に考える程の提案は出来たのだろう、と。

    栄養ドリンクはサラリーマンの飲み物。
    時代はまだそのイメージを逃がしてくれない。

    「せめて今日は誰も、
     栄養ドリンクを飲まずに退社しますように、なんてね。」


    そう呟いて社長は部屋のドアを閉めた。
    彼の願いは叶うだろうか。