• この風はいかがでしょうか

    2018-09-29 19:36

    妻が私を評してくれた言葉の中に、

    「好きな物を好きでいさせてくれる人」

    というのがある。

    私は不自然なく無理なく妻に接しているつもりで、
    彼女の機嫌を取ろうとか、
    そういう意図で行動をした事はあまりない。

    いや、流石にそれは嘘になるか。
    愛しい相手だ、笑って欲しくて、喜んでほしくて思いを巡らす時はある。
    けれどどれも夫である私自身の無理の無い範囲で。
    同じように妻にも無理は強いないように心がけている。

    人は欲。

    食べたい、寝たい、動きたい。
    お金が欲しいし、綺麗でいたい。
    たまには笑って、涙すらも出したい時がある。

    それらが誰かと誰かの間で都合がつかなくなった時に、
    人は争うのだとおばあちゃんから教えられたのは七歳の時。
    それから大人になるまでの人生は答え合わせのようだった。
    なるほど、確かに人の欲が相容れない時、争いは起こる。

    なるべく自分の欲と相手の欲が不都合にならないようにしなさい。
    大人になっておばあちゃんの言葉の実践が難しいと骨身に染みる。

    色んな人と欲の不都合を形成し合って喧嘩をし、
    すり合わせて落しどころを見つけて、
    なるほど、人間社会は面倒臭い。
    もし狸か狐が化けて人間社会に紛れ込んだら、

    「こんな面倒な世界、やってられっか」

    と早々に尻尾を巻いて逃げ出す事だろう。
    けれど残念、私には巻く尻尾も無いので人間を続けるしかない。

    近くにいる人間程『欲』をぶつけ合わなくてはならなくて、
    恋愛沙汰に巻き込んだ相手なんて尚の事。
    数人の女性とすったもんだして、
    大学時代のある時にお付き合いを始めたのが妻だった。

    男は惚れた女に確定的に数種の質問をするが、
    その中の一つが「何が好きなの?」だろう。

    好きな相手の好きな物が判れば、
    それを送る事で相手を喜ばす事が出来る。
    これを好きな相手に聞かない男がこの世にいるだろうか。
    好きな相手が何か荷物を持っている時に、

    「それ、持とうか?」

    と声をかける位の気遣いが出来る男はこの質問をするだろう。
    それ即ち、この世の男全てと言っても過言ではない。

    当然私も妻が重い物を持っていたら持とうとするし、
    この世の男女の理に習って出会って割と早い段階で尋ねた。
    君、好きなものは何なの?
    すると妻がこう言った。

    「風」

    風、だ。

    ブランド物のバッグでもない、有名店のケーキでもない。
    ハーゲンダッツでもなければ可愛い爬虫類でもない。

    とても短く「かぜ」と妻が言ったので、
    その時私は聞き間違いを防ぐためにもう一回言ってと妻に頼んだ。
    すると妻がもう一度言うのだ、「かぜ」と。

    かぜとは、風なのか?それとも風邪なのか。
    病気にかかる趣味の人間なんてこの世にいないだろう、
    (もしかするといるかも知れないが当時の私はそう考えられらなかった)
    これは風の事を言っているのだろうか?

    風を連想させる言葉を思い巡らし、
    ひゅー、と吹くやつか?と妻に問えば、
    そうだ、と返事が返って来た。

    その情報を仕入れたその日の夜に友人に相談に向かったのをよく覚えている。
    水瀬という奴で、まだ付き合い始めてなかった妻の好きな物を聞き出せ、
    そう助言をくれたのがこの水瀬でだった。

    奴の下宿先にコーラを土産に持参し、事の顛末を聞かせた。
    するとどうだろう、水瀬は疑う事無く拍子抜けしたような顔で、

    「随分と安上がりな女だな」

    と呟いたのだった。
    それから何かを取り繕うかのようにこう続けた。

    「でもまぁ、下手に高価な物を言われなくて良かったじゃないか。
     ヴィトンのバッグとか、車とか。
     それに爬虫類系の生き物が好きとかじゃなくて、風だろ?
     風なんてそこら辺に吹いてるし金もかからないじゃないか。
     大抵の人に嫌われもしないし。
     今度どこかの高台にでも連れてってやれ、
     デートで風が吹きまくってるような所に連れてきゃ間違いなし!」

    夜中だったこともあって水瀬の口調は少々乱暴だったが、
    それでも聞いていて「やっぱりそうだよな」と思ったのも事実だ。
    妻から風が好きだと聞かされた時、
    正直なんて金のかからない女だろうと思ってしまったのだ。
    何せ親戚のオジサンから口煩く、

    「大学に行くなら女に気をつけろ、
     奴らはとにかく金がかかるぞ!
     金をかけていい女にだけ金をかけろ、
     それが男の腕が問われる部分だからな、
     これが下手になるようだったらお前、
     社会に出てもロクな女に引っ掛からねぇぞ!」

    と説教をたれてくれたのだ。
    そのような教育の甲斐もあってか、
    好きになった女が多少値の張るものを欲しがっても狼狽えない自信があったが、
    まさか返事が風とは。
    オジサン、この場合はどうしたら良いんですか。

    それから半年をかけて妻とお互いを知り合い、
    じゃあ、お付き合いをしませんか、どうですか、となった。
    それまでに数回、片手から漏れる回数のデートに行けたが、
    うち一回を除いては風が良く吹く場所に妻を連れて行った次第だった。

    付き合い始めた日、相談していた水瀬にも夜に一人で報告に行き、
    交際まで随分時間がかかった事をなじられはしたが安堵の言葉を貰った。
    とにかく、良かったじゃないか、おめでとう。
    こちらが持参したコーラをコップで飲みながら水瀬がそう言ってくれた。
    まぁまぁ、お陰様で。そういいつつ空のコップにコーラを注いでやると、
    水瀬がこう継ぎ足した。

    「そう言えば『風デート』には既に何回か行ったんだろ?
     良い相手を見つけたよな、これからも財布に優しいデートづくしになりそうか。
     なにせディズニーもテーマパークも興味無いんだろ、お前の女。」

    そう言われて少し「うーん」と唸った。
    水瀬がコーラを一口含んだ後、唸って動かない私を見て、
    「すまん、ちょっと言葉が汚かったかもしれん、気を悪くしないでくれ」
    と言ったが、いや、まぁ言ってる事はほぼほぼ合ってるんだが、と掌を見せた。

    妻とのデートに関して金がかからないと言うのはちょっと違う。
    まず、良い風が吹きそうな場所へと行く為に電車代がかかる。
    良い風が吹きそうな場所ほど辺鄙な所にあるので割と高い。
    現地に行ってしまえば後は確かに金はかからないのだが。
    そう漏らすと水瀬も「そうか」と言った。

    「だけどな、水瀬。」
    「ん、なんだ?」
    「金がかからない物だからこそ、判らないんだ」
    「何がだ?」
    「物の良し悪しが、判らない。」

    風の良し悪しが判らない。
    そう、私には風の良し悪しが判らなかった。

    金がかかると言うのは既に誰かがそれを評価してくれた、という事で、
    値段と言うのは期待値であり信頼値に他ならない。
    500円で売られている品物は500円の効果が見込めるし、
    値段の高い低いで比べる品物の良し悪しが判定できる。

    その点、金のかからないものというのは難しい。
    全ての判断が自分、もしくは送り主に委ねられてしまう。
    風に値段があるか?無いだろう、聞いた事が無い。
    扇風機には値段が付いているが、付き合う前に尋ねたところ、

    「そういうのは好きじゃない」

    という情報が得られたので人工的な風はお気に召さないらしい。
    同様なのか、ビル風も別に好き好んで浴びたい訳ではないらしかった。

    お気に召さない、らしい。
    浴びたい訳では無い、らしい。

    全ては「らしい」。
    妻が風が好き、そこまでは判っていた。
    だがどういう風か好きかは理解が出来なかった。

    付き合う前のデートである丘に連れて行った時、妻が両手を広げながら、

    「こういうのがね、好きなの!もう最高!」

    と言ったがその時吹いている風の何が良いのか理解は出来なかった。
    勢いよく風が吹いていた事は流石に判ったが、
    それがビル風とどう違うのか、何が良いのか、何が最高なのか、
    妻と一緒に風に吹かれながらあれこれと考えたが何も判らなかった。

    だけど一つだけ判った事があった。
    その風を受けている妻は、本当に嬉しそうにしている、という事だった。

    風の事は判らないが妻の事は判る。
    妻は風が好きで色んな所の色んな風を浴びたと言う。
    同じ事だ。私も妻が好きなので色んな場面の妻をじっと見てきた。

    だから妻が嬉しそうにしているのかそうでないのか、
    それ位は判るし、むしろそれが判る事がとても重要なのである。
    惚れた相手が嬉しいか、そうでないか、その原理は判らないまでも、
    嬉しい様子を悟れる事が私の最高の喜びだった。

    結局私が妻の思う風の良さを理解する前に妻は『妻』になってしまったのだが、
    相手の全てを理解するなんて事は土台無理な話なのだった。

    考えてみてもらいたい。
    同じ血が流れている親兄弟でさえ考えている事は完全に判らないと言うのに、
    妻とは言え他人の考えている事の一から十まで判るだろうか。

    私に判る事は、妻が風で喜ぶ、ただその事だけ。
    但しビル風は嫌いで、扇風機の風もお気に召さない。
    台風の前に吹く風は格別に好きで、
    秋になる前の風はとにかく匂いが良いらしい。
    春の風は柔らかさが一級品で、
    夏の風はまるで酔った鬼が酒を勧めてくるようで面白いと言う。

    夏に関しては本当に理解できなかった。
    暑いだけだ。夏の風は。

    しかし妻は風だけを喜ぶ人間じゃない。
    美味しいものを食べれば美味しいと言うし、
    面白い事が腹を抱えて笑う。
    寝る前にはよくキスをせがむし、
    風だけが妻を幸せにする訳ではない。

    だけど妻の風についてずっと考えてきた。
    どんな風が好きなんだろう、好きな風の特徴はなんだろう。
    一体何が妻に満足を与えているのだろうか。
    ただ勢いが強ければ良い訳ではないらしいし、
    かといって弱くてもいけないようだし。
    頭の中でこんなに風の事を考えている夫がこの世にいるだろうか?
    恐らく私だ、私が一番この世で風の事について考えている夫だ、自信がある。
    それもこれも、妻のおかげだ。

    だが口には出さないのだ。
    ずっと風の事を考えているよ、君の為に、だなんて。
    あくまで涼しい顔で過ごしている。
    私も変なところで恰好をつけたがる性格なのだ。
    妻も、もうその事は良く判ってくれている。

    だが最近ついに変化が起きた。
    つい先週の土曜の事である。

    二人で風を捕まえる為に道を散歩していたら、
    一陣、風がふわっと駆け抜けていった。
    その瞬間とても気持ちい感覚ともに、「あっ」と声が出た。

    本当に気持ちの良い風だったのだ。

    長らく一緒に妻といて、
    色んな風に対して妻が「気持ちいい」や、「たまんないね」と評してきたためか、
    それを長年横で聞いてきた私もほんの少しだけ、
    ふとした瞬間風を気持ち良いと思うようになってきたのだ。
    その原理は前述の通り、判らないままなのだが――。

    しかし、その時の風は、本当に気持ち良かった。

    その時だ、妻が言ったのだ。

    「今通ったね」

    そうだ。

    通ったんだ。

    私にも、判った。

    良い風が通った。

    その時に、不思議に本音が出た。

    「実はね、どんな風が良いのか未だに良く判らないんだ。
     君が僕の横で気持ちよさそうにしててもさ、
     この風の何が良いんだろうって思う事が殆どで。
     でも今のはなんか良い風だった、
     なんか判ったんだ、
     信じられないかもしれないけど。」

    そう私が言うと妻はうん、と一つだけ頷いて、

    「もっと判るようになるともっと楽しいよ。
     でもね、判ってくれて有難う。
     これからもっと一緒に風を浴びられるね。」

    と言って私の手を握って揺らした。


    人が判り合ったり理解し合ったりする事は難しい事だが、
    恐らく、それに越した事は無い。

    だがしかし夫婦に関しては、
    判り合う速度に関しては無理に急かす必要もないのではないかと思う。
    そのうち判ってくれたら良いな、そんなスタンスでいる事も大事ではないだろうか。

    だって考えてみて欲しい。
    何もかもを直ぐに判り合ってしまったら、
    夫婦になって共に過ごす長い時間、あっという間に退屈になりはしないか。

    共に過ごす長い時間のとある瞬間、
    ぱっ、と閃くように理解してくれた相手の心はきっと、
    早い段階で理解してくれた物事よりも嬉しく思うに違いない。

    人の気持ちは時にワインの様だ。
    すぐに飲むより、時を待った方が美味しくなる事がある。

    その日、妻との間に取っておいた古くからのワインが一本、
    気持ちの良い音を立てて封を切った。
    ワインの匂いは秋入り寸前の風、夏の終わり。

    妻の笑顔がまた、
    いっそう嬉しそうに輝いてくれた。


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  • 夏の焦がれ

    2018-09-23 18:244

    ようやく夏が終わろうとしている。
    今年の夏も大変だった。
    それもこれも高校野球のせいだ。
    何回オナニーをしただろうか。

    初めて高校野球で事に至ったのは小学五年の時だった。

    高校野球と言う単語は既に耳から入り、頭の片隅に置かれていた小学五年。
    夏に丸刈りのお兄ちゃん達がユニフォームを着込み、
    カンカン照りの日差しの下であくせく動き、
    それを見たお母さんが「溶けちゃわないのかね」と心配するスポーツだ。

    その年の夏は珍しく暇だった。
    小学五年の夏休みの事である。

    小学生の夏休みなんて毎日遊んで最後に31日を惜しむものだが、
    その年の夏はいつも遊ぶアキちゃんが家族旅行だかで二週間もおらず、
    私はアキちゃんがいなくなった三日目で途方に暮れた。
    そこで目を向けてしまったのがNHKである。

    電源を点けた画面の中では球児達が一つのボールに対して必死になっていた。
    白い玉一つに対して丸刈りのお兄ちゃんが二十人程も真剣になる。
    どうやら男の子はそういったバランスの悪いスポーツが好きらしい。
    サッカーだって一つの玉に二十人程がてんやわんやしてるし、
    ラグビーだって一つだけの変な形をしたボールに大勢が群がる。
    バスケだってそうでしょう。
    どうして男の子は一つの物を取り合うのスポーツが好きなのだろうか。

    そういう気持ちを持っていたせいか、
    高校野球をじっと見つめたのは小学五年生の時が初めてだった。

    テレビの中では夏の日差しがカンカン照りで、
    コッペパンの表面色に焼けたおにいちゃん達が動いている。
    皆が片手にバットやらグローブやらを付けて立ち、
    その姿が余程面白いのか観客席の声援が画面越しに聞こえていた。

    野球とは勝負事。それは私も知っている。
    九回の表が終わった後、ウーというサイレンと共に坊主頭達が走りだし、
    そのまま裏にいかずに試合が終わってしまった。
    『雄々しい大地の』から始まる校歌が流れ出し、
    画面には晴れやかに笑うお兄ちゃん達が左から右に映し出されたが、
    その流し撮りが終わると、ふと撮影対象が負けたチームへと移った。

    勝負事は最後が明白。
    勝った人と負けた人がくっきり分かれる。
    野球もそれに漏れる事無く、
    負けたチームはそこでもう甲子園を去らねばならない。

    画面に映ったのは陽に焼けた顔をしわくちゃにし、
    細めた瞳から涙を流しているお兄ちゃん達だった。

    その時の事は今でも覚えている。

    私は試合後の挨拶で両チームが頭を下げる光景を待たずにトイレに行った。
    駆け込んだと言って良い。
    勢いよくパンツを脱いだのは本能に近い。

    当時の知識で下半身に何やら人前に晒してはマズイものがある事は知っていた。
    それをどうこうして大人達はエッチな事をしているらしかったが、
    性教育の勉強は実技を伴わない為にイマイチふんわりしていた。
    だがパンツの中が叫んだ。触れと。
    まるで蚊に刺された部分に自然に手が伸びるように、
    その時初めて真面目に股ぐらに手を伸ばした。
    それが初めてのまともなオナニーである。

    その時頭の中に駆け巡っていたのは高校野球のお兄ちゃん達だった。
    別に坊主頭の男性が好みの訳では無かったし、
    スポーツをしている男性がタイプな訳でも無かった。
    ただ何の運命の悪戯だろうか、
    試合に負けて泣いているお兄ちゃん達を見た時、
    パンツの中で蛇が激しく踊った様な感覚を覚えたのは確かだ。

    そう、私は人が泣いている時に性欲が破裂する性癖を抱えて生きている。
    しかもこの性癖は泣いた人が苦労や努力をしている程度合いが増すもので、
    その点高校野球はこれ以上ない卑猥さだった。

    その日、きっと早すぎたのだろう。
    私は気が付いたら壁に頭をよりかからせて身体から力が抜けていた。
    誰も見ていた訳では無いが、察するに気絶していたようだった。

    私の両親は割とカタイ教育方針で、
    恋愛ごとの会話なども進んでしようとはしない傾向にあったためか、
    私はトイレの中でした初めての自慰にとてつもない罪悪感を覚えた。
    一瞬だろうが気絶もした事だし、
    これはきっと私がするべき事じゃないんだ。
    親の教育方針と子供が動きうる狭い世界が私をそうなじった。

    幾つかの不幸が重なったと言って良い。
    トイレと言う閉鎖的かつ汚い場所で、
    性に関しては閉口する親が牛耳る家庭環境で、
    自慰と言う行為は基本的に孤独と共に楽しむという事。

    頭の中の思考は何重にも封をされたようだった。
    息を整え平静を装い、
    トイレから出た私は少し震える足を動かして居間に戻った。
    次の試合を見る為だった。

    その年は本当に忙しかった。
    一度覚えた甲子園オナニーで毎日トイレに駆け込み、
    しかも甲子園の試合は一日に三試合はあるので、
    朝昼夕方とテレビの前から離れる暇もない。
    試合が終了してはトイレに行き、
    トイレから戻っては試合を見てを繰り返す。
    私の頭の中は高校野球で一杯だった。

    それから年を重ねるにつれて色んな知識が入り、
    私は自分の性癖がまんざら悪い物ではないのでは、と思うようになった。
    中学生になると『痴漢』という方々が学校周辺に出没してるという噂が流れ、
    その方々は女性の身体を路上で触るなどし、
    それが原因で警察に追われて終いには逮捕されてしまうらしい。
    どうしてそんな事をするのだろうか、という話に友達となった時、

    「そうしないと興奮しないんじゃないの」

    とある一人が言った。
    興奮とは。興奮とは厳密に言うとどういう事だろう。

    「エッチな気分になる事でしょ」

    私の思考を読んだどなたかが疑問と回答をしてくれた。
    それを聞いた私は心底「可哀想に」と憐れんだ。
    痴漢と呼ばれる方々をである。

    高校野球を見て興奮し、トイレに駆け込んでオナニーをする、
    自分でもなにかいけない事をしていると思ってはいるがやめられた事は無い。
    きっと痴漢の方々も同じような事なのだろうが、
    それが他人に迷惑をかけて警察の御厄介になると、
    なんというか気の毒になると同時に「自分がそうじゃなくて良かった」と思う。

    更に知る所によれば世の中には露出狂という方々もいるらしく、
    その方々も公然猥褻罪だか何だかで逮捕されてしまうらしい。
    どうしてそんな事をするのかと考えれば、
    やはり『それ』が興奮する行為だからなのだろう。
    歴史を遡れば有名なクラシックの音楽家にもこの性癖の方がいらっしゃったらしく、
    何かの偉業を成し遂げられるほどの人物が変な癖を持たない訳では無いらしい。

    どうやら身長と同じようなものらしい。
    世の中には背の高い人もいれば低い人もいる。
    食生活で大きくその度合いは変わると言われてもいるが、
    遺伝的な要因も大きいと言われていて、
    私はぶっちゃけ、背が高いも低いもその人の運だと思う訳だ。

    性癖も同じのように思えた。
    痴漢したがる人、露出したがる人、高校野球を見て興奮する人。
    それぞれが心の中に秘める性格だろうが、
    それがどのようなものであれ、個々人にはどうしようもないのだろう。

    しかし、おいそれと口にはださない。
    痴漢する人を「しょうがないと思う」なんて言ったら、
    お前は犯罪者の片棒を担ぐのかと罵倒をされて袋叩きにされるのがオチだ。
    ただ、私は痴漢や露出をする人達を「罰せない」だけ。

    判っているんだ。
    例えばどこかの高校野球をやっている男子がいて、
    その子が甲子園に出るも負けてしまい球場で他校の校歌を聞きながら涙し、
    それに大興奮した私がオナニーをした後に駆け寄り、

    「君の泣き顔最高だった、おかげでオナニーが捗ったよ」

    等と言ったら、どうなるだろうか。
    きっと友達になれる事は無いだろう。
    恐らく「なんだこの女は」という目で見られ、
    その上頭がおかしいと蔑まれ、敗北の八つ当たりに殴られてもおかしくない。

    とどのつまり、
    私の性癖も人に知られたら不快を呼ぶものなのだ。
    痴漢をする人や露出狂の人達とその度合いが違うだけで、
    私も性癖も決して世間様に顔向けできるものではなく、
    故に、痴漢の人達を悪く言う事なんて出来る筈も無い。

    罪人が罪人を裁くなんて愚かな事だと思いませんか。

    小学五年のあの夏以来、
    私は夏が来る度に高校野球を見てはトイレに籠った。
    中学、高校になり、夏が来るたびに罪悪感が募ったが、
    同時に押し寄せる期待で胸がいっぱいに。
    試合が終わり球児達が泣く度に私はオナニーをする毎日だった。

    そんな私でも大学には行く事ができ、
    そこで三年目の夏を迎える。
    正直就職の事を考えると頭が重いばかりだが、
    サークルで行く合宿の楽しさでそんな事は一瞬麻痺だ。

    しかしこの合宿にも不幸がある。
    なんと高校野球の日程と数日被っているのだ。
    私は泣く泣く録画の予約をして合宿の支度をした。

    合宿と言っても遊びとお酒を飲みに行くようなもので、
    女だけのテニスサークルで誰に気兼ねをするでも無し、
    誰もが羽目を外してやらかすのが火を見るよりも明らか、
    故にちゃんと各々が責任をもって行動する事。
    そのように主将から御達しを形式的に受けたあと、
    それぞれが水着に着替えて人気の少ない海へと飛び込んでいった。

    だが一人だけ、
    海に入りはしてるがどうにも様子がおかしいのが一人いる。
    腰から上が水面から出ていて、
    身体の高さから水の中で胡坐をかいているようだ。
    他の皆が少し離れた所できゃっきゃと騒いでいる中、
    彼女一人だけがじっと沖の波を眺めていた。

    皆は楽しむ事に必死なのか誰も彼女に声をかけないので、
    逆に興味が沸いて彼女の傍までジャブジャブと歩き、
    お隣失礼して良いかなと声をかけて同じように胡坐を降ろした。
    お尻が水中の砂に当たり、少し気持ち悪い感触がした。

    「波の数でも数えてんの?」
    「や、ただボーっとしてただけです。」
    「そ」

    一年生の子だった。
    秋田からきたという子で少し猫背ぎみ、
    餡子が嫌いなので大半の饅頭が食べれないという、
    そこまでの情報は入っていた。なので、

    「餡子でも食べちゃったの?」

    と尋ねると、

    「あんこ?」

    と返って来た。どうやら餡子は食べてないらしい。

    「いや、なんか後ろ姿が元気なさそうだったから。
     大丈夫、体冷やした?」
    「いえ、体は元気なんですけど……」
    「心が元気じゃないってか。」
    「そうですね」
    「頑張ったね、よく合宿来たね」
    「気分転換になると思って、それに楽しみにしてたんで」

    だがどうみても楽しそうには見えない。
    水中に胡坐をかいて波が絶え間なく押し寄せる沖をじっと眺める。
    まるで悟りを開く修行僧のようではないか。
    私達は大学生と言う日本で一番気楽な時間を、
    しかも夏休みと言うハイグレード期間に海まで遊びに来たんだよ。
    主将は「あくまで合宿だから!」と怒りそうだが。

    「先輩、彼氏いるんですか」
    「え、アタシ?いやぁ、相手に恵まれないもので今まで一度も」
    「えっ、今まで一度も?」
    「そうなんだよねぇ」
    「……女の方が好きとかですか」
    「いや、恋する心はあくまで男性の方にしか沸かない」
    「あ、そうですか」
    「うん」

    ピンときた。
    人間の言葉のやりとりは時に山彦の様だと伝え聞く。
    訪ねられた質問は実はその人が聞いて欲しかったりする事だったりするのよ。
    お母さんがそう中学生の時に教えてくれた記憶がよみがえる。

    「横田さんだっけ、ごめん、名前合ってる?
     私人の名前覚えるのが下手でさぁ」
    「合ってます、横田です。」
    「横田さんは彼氏いるの」
    「実はついこの前別れちゃって……」
    「あらぁ……どうしちゃったの。
     振ったの?振られちゃったの?
     あっ、これ聞いても大丈夫?アタシなんかが」
    「大丈夫です大丈夫です。
     まぁ振られちゃいまして。」
    「そっかぁ……。
     今さ、横田さんの横に居るのは恋愛経験ゼロのダメ先輩ですけど」
    「ええ、駄目じゃないです全然」
    「まぁまぁ、で、アタシで良ければちょっと話を聞かせてくれませんか」

    チラと他の皆の様子を伺うとやたら元気に遊んでいる。
    恐らくこちらに注意を払う事も無いだろう。
    人間とは楽しんでいる時にわざわざ厄介な物に触れたがらない生き物である。
    私と一年の後輩二人で座って沖を眺める姿に何かを悟ってくれるだろう。

    「先輩って口固いですか」
    「触ってみる?」
    「え?」
    「ほら、ぐにー」

    と下唇を後輩の方向へ引っ張ってみせるとツンツンと頬を指でつつき返された。

    「柔らかいです」
    「そこはホッペ」
    「はは」
    「うん……まぁ、人が触れ回られて困る事は喋らんよ。
     サークルの新入生を減らしたくも無いしね」
    「……あの」
    「うん」

    空気に片栗粉でも混ぜられたのか、
    私達二人の周りが少し硬くなったような。

    「性癖ってあるじゃないですか」
    「えっ」
    「えっ」
    「ああ、ごめん、うんあるね。ごめん続けて。」
    「すいませんこういう話って」
    「いやちょっとビックリしただけだから、続けていいよ」
    「……」

    横田も少し戸惑ったのか、10秒ほど波の音だけが聞こえた。

    「あたし」
    「うん」
    「性癖と言うか、その」
    「うん、大丈夫、引かないから」
    「……おしりが」
    「おしりが」
    「お尻の穴が、その、好きで」
    「うん。うん?うん。
     それは誰の?彼氏さんの?自分の?」
    「あ、自分の」
    「なるほど、悪い事じゃない」
    「あはは……で、まぁ彼氏とやってて、なんか、こう」
    「うん、触って欲しかったんだね」
    「そうなんですよぉ……で、」
    「言ったんだね」
    「そうなんですよぉ……触って欲しいって。
     そしたらぁ、」
    「そしたら?」
    「えっ、そこケツの穴じゃんって言われて」
    「まぁ、間違った事は言ってないね」
    「そんな汚い所は別に触りたくないって言われて」
    「あら」
    「そんで自分で触ったりしてんの?って聞かれたから、」
    「そうだ、って答えた?」
    「はい……そしたらその日からスンゴイ態度変わって」
    「あー……」
    「ケツの穴に入れた指だと思うとちょっと手も握れないって」
    「んー……」
    「振られちゃいましたね……」
    「んんー……」
    「……すいません、こんな話聞かせちゃって」
    「いや全然、別に別に……。
     でもねー、巡り合わせが悪かったのかなぁ…。
     だってほら、お尻の穴が大好きな男の人だって世の中にはいるらしいじゃん」
    「らしいですね。出会った事はありませんが」
    「今回はね、たまたまね、そういう人じゃなかったってだけで。
     もしお尻の穴が好きな人だったら、ええ、マジか!俺も好きって、
     そうやって更に仲良く楽しめる訳じゃない」
    「だと良かったんですけどね」
    「今回は御縁が無かったという事で……」
    「先輩……」
    「ん?」
    「お尻の穴ってそんなに悪いモノですかね……」
    「そうでもないんじゃない?アタシにだってあるよ」
    「え?」
    「彼氏にだってついてる筈じゃん。
     お前どこからウンコ出してんだって話でしょ」
    「ははっ……ふっ…そうですね……」
    「お尻の穴なんて皆持ってんだからねぇ、
     悪いんならこの世の全員悪いモノ持ってる事になるよ」
    「まぁ……はい。」
    「でもいいんじゃない。」
    「何がですか?」
    「お尻の穴で気持ち良くなっても」
    「……直球で言われると恥ずかしいですね、自分の事でも」
    「アタシの話ちょっと聞く?」
    「なんですか?」
    「アタシ高校野球見てオナニーすんの」
    「―――   は?」
    「うん」
    「  え、すいませんもう一回言って貰って良いですか?」
    「高校野球見て興奮すんの、それでオナニーしちゃうのね」

    横田の口元が笑った。ふへっと声が聞こえた。

    「それ、どうやるんですか?
     野球部員が運動してるの見て興奮するんですか?」
    「いやえーとあのね、
     負けたチームの人達って結構泣くじゃん。」
    「そうですね」
    「それ見たらムラムラくんの」
    「………え?」
    「訳わかんない?」
    「……レベル高いっすね」
    「人が泣いてる姿で性欲が爆発すんのね」
    「爆発しますか」
    「爆発するね。
     でもってねぇ、その人が凄い努力とかしてて、
     それが報われない時に流す涙が本当にたまんないのね」
    「はぁー…それで高校野球」
    「そうなの。もう本当夏は忙しくてさ。
     高校野球って一日に三試合はあるのね。
     それで毎回終盤になると負けそうなチームのベンチでさ、
     まだまだーとか、これからーとか、きっと叫んでんの。
     でも負けちゃうとそんな子達が泣きながら走ってさー。
     まぁ中には満面の笑みで終わる時もあるんだけど、
     大抵はチームで一人や二人は泣いてんのね。
     そういう子達は本当に頑張って来たんだろうなぁって、
     そう思うとオナニーしながら泣いちゃって」
    「えっ泣くんですか」
    「うん、この子はどんなに悔しかったんだろうって思いながらね、
     そうすると自然に涙が出てきちゃってね、
     そうなったのも中学の終わりからなんだけど」
    「いつからしてたんですかそれ」
    「小学五年かな」
    「うわ結構……はぁ…世の中って広いですね」
    「そうでしょ」
    「なんかすいません、私がお尻の穴なんかで悩んでて」
    「ええええ何言ってるの、悩みはそれぞれで重さが違うから」
    「いやでも……え、それって」
    「はい、何でも聞いて良いよ」
    「……それって普通の人に性欲沸いたりするんですか」
    「それがねぇ。カラッカラ」
    「わぁ……」
    「なんか本当限定的でね、
     がんばった人が、泣かないと、こないの」
    「きませんか」
    「うんともすんとも」
    「ええー……でもそれってあの、
     誰かを好きになったりとかは。」
    「する。」
    「おっ」
    「その人がね、何かを頑張ってて、
     それを失敗したりして泣いたりすると最高なのになぁー、
     とか思ってさ毎回」
    「はぁー」
    「そんなだから、彼氏できた事無いんだね、私きっと」
    「……失礼なこと聞くかも知れませんけど」
    「いいよ、お尻の穴を教えてくれたお返しに。」
    「それって、どうにもならないもんなんですか」
    「どうにか出来てたら今頃もうちょっとマシな恋愛してたかな」
    「なんかすいません……」
    「何で謝るのー」
    「いえなんか…すいません」

    でも性欲と恋愛は別だから。
    そう言う事によって横田の謝る言葉を遮った。
    しかし本当に性欲と恋愛は別なのだろうか。
    他の人にとっては別でも、私に関しては別ではないのではなかろうか。
    だって私は高校野球でオナニーをする女。
    同じ事を言う誰かには今までお目にかかった事が無い。

    横田の気が少しでも晴れたのか、
    水中でかいていた胡坐を崩してバシャリと立ち上がった。
    他の皆と楽しむ心の余裕が少しでも生まれたようだ。
    先輩のお陰です、と言ってくれて、少し照れ臭かった。
    しかし、

    「でも先輩、それ多分他の人には言わない方が良いですね」

    と付け加えてくれた。
    大丈夫、判ってる。そう笑って返事をした。

    いよいよ日が高くなり、
    もうお昼にしようとよ誰かが言い出した。
    水着の仲間達がそうしようと浜辺に引き上げる中、
    私は一人頭の中で録画の事を思ってた。

    もうそろそろ第一試合が終わった頃合いだ。
    今回はどこの高校の球児が涙を流したのだろうか。
    ああ、家に帰ったら日毎夜に録画を一日分ずつ消化せねば。
    早送りなんて出来る訳がない、
    試合全部を堪能する事で最後の涙に深みが出るのだ。

    日中三試合、夜に三試合。
    きっと大変になるに違いない。
    そう考えるだけで疼く私が一体誰と恋愛出来ると言うのだろうか。


    それでも甲子園を見るのが止められない。


  • あの青をめくれば

    2018-08-29 08:112

    あの頃はテレビなんて無かった。
    と言う事は、ゲーム機なんて物も無くて、
    人間の子供が家の中に籠る理由と言えば、
    もっぱら本を読むか、玩具で遊ぶか位だった。

    でも、あの時の玩具なんて、
    そりゃあとても高い値段がするものだから、
    当時の子供達は皆、外で遊んでいた。

    雨の日はしょうがなくとも、
    晴れの日に子供が外に行かない理由なんてない。
    目的が無いにしろ、皆取り敢えず外に出る。
    最近の子供は、

    「外に行こう」

    なんて言っても、

    「外で何するの?」

    なんて言う。
    何をするのかなんて、外に行って決めるものだ。
    何かを決めてないと外に行かないなんて、
    最近の子供はどうしちまったんだ。

    今はその事についてあれこれ話す気がある訳でも無いので、
    取り敢えず「時代だから」という理由一つで片付けておく。

    昔の子供達は皆外に出て、
    そしてあちこち擦りむいたりしながら走っていた。
    中には、親子連れで散歩する子供もいた。
    そういう子供は大抵本当に小さくて、
    言葉を喋り始めてどれ位経ちましたか、と尋ねたくなるような風貌。

    あの日も随分と天気が良くて、
    私が『何の理由も無く』外を歩いていると、
    ある親子連れが草原の中に居るのが見えた。
    草原の岩に二人で腰かけている親子を見つけ、
    私はそこに挨拶をしにいった。
    面識があったのかというと、別にそうでもない。
    しかし、道端で出会ったのだから挨拶するのが当然の事。
    こんな事を言っても、最近の子供は不思議そうな顔をするから、不思議だ。
    勿論、皆が皆そうではないが。

    岩の上に座っている二人の横に私も立ってみると、
    子供の方はしきりに空の方を見ていた。
    子供はいつも何かを知りたがり、それはなんとも可愛い。
    その時も、空を指さしてこんな事を子供が言った。

    「ねぇお母さん、あの青をめくったら何があるの?」

    空の事を、青。
    その子供はまだ空という言葉を知らなかったみたいだ。
    その証拠に、横に居る母親が、

    「あそこにある青いのはね、空って言うのよ。」

    と子供に教えていた。
    しかし、子供が知りたいのはそんな事ではない。
    私がそう思った途端に、やはり子供も同じ事を考えていたのか、

    「あの空は、めくったらどうなってるの?」

    と、重ねて母親に疑問を投げかけた。
    空をめくったら、そこに何があるのか。

    「空はね、スカートと同じなのよ」

    私が、この母親は子供になんと答えるのだろうと思っていた時である。
    母親は、子供を自分の膝の上に抱き抱えると、そのようにまず教えた。

    「いい?マシュー。
     女の子のスカートはね、絶対にめくっちゃ駄目よ?
     男の子はね、女の子を大切にしなきゃいけないわ。
     スカートの中にはね、大切なものがあるの。
     だから乱暴に扱ったり、勝手にめくろうとしたら駄目。

     空も一緒なのよ?
     空の裏にはね、大切な物があるの。
     みんなその事を知っているわ。
     まだ誰も空をめくった事が無いのよ。
     だから、空の裏に何があるのかは、誰も知らないのよ。」

    子供は、いつも鋭い。

    「でも、誰もめくった事が無いのに、
     どうして大切なものがあるって判るの?」

    それを聞いて、私は内心ひやりとしました。
    この母親、なんと言ってこれを凌ぐのだろうか、と。
    すると、母親。

    「スカートの中が大切だって女の子が言えば、
     男の子はその事が判るでしょう。
     大昔に空が言ったのよ、
     この裏にはとても大切な物があるってね。」

    吹き出そうになった変な汗が、
    「やれやれ、取り越し苦労だった」と、身体の中に戻って行った。

    「あっ、何処へ行くのマシュー?」

    母親の膝から勢いよく飛び降りた息子は、
    大切なものを作りに行くと言って、
    近くの花が咲いている場所へ走って行きました。
    私達の視界からも、まだよく見える場所。
    きっと、花の束でも作りに行ったのだと、母親は安心したようでした。
    しかし同時に、それは私にとって絶好の機会。
    母親に私は尋ねました。

    「空は、何があると言ったのでしょうね?」
    「え?」
    「いえ、あの青い空をめくったら、
     一体どんな大切な物があるのだろうか、と。」
    「さぁ、案外私達にとっては、そんなに大切じゃないものなのかも。」

    今度は私が「え?」と言う番でした。
    その私に母親がこう言うのです。

    「だって、本当に大切なものなら、
     一応手の届く場所にある筈ですもの。
     変な事を聞いても良いですか?」
    「なんでしょうか。」
    「貴方は、女性のスカートをめくった事がおありですか?」
    「なんと。」

    その問いかけにはびっくりしました。
    子供が離れた所にいるから言えた言葉でしょう。

    「恥ずかしながら、数人のスカートを。」
    「そうでしょう?」
    「と、言いますと?」
    「男にとって、いえ、人にとって女性のスカートの中は、
     とても大切で、尚且つ無くてはならない物でしょう。
     もし、あの空の裏に何かがあって、
     それが本当に私達にとって大切な物なら、
     私達の手がきっと、空に届く筈ですもの。」

    空に伸びた母親の手は、逞しく、それでいて、とても美しかった。

    「でもね、ほら。届かない。
     空にとっては大切なものでも、
     きっと、私達にはそんなに大切じゃないんだわ。」

    今、あの母親に同じ事を聞いたら、
    なんて答えるだろうか。
    あの青い空をめくったら、何があるのか、と。

    空も飛んだ。

    宇宙にも出て行った。

    時代が変わった。

    何もかもに手が届いて行く。

    御婦人、今なら何て言いますか。
    あの青い空の向こうに、一体何があるのか。
    御婦人、今なら、何て子供に教えますか。