• タイムマシンと仮想現実とフィクションと現実と・・・

    2017-08-19 23:29
    平行世界論が真であるならば、仮想現実とフィクションと現実に違いがないことは言うまでもない。

    いわゆるタイムマシンを例に、思考実験をしてみよう。

    タイムマシンとは、西洋的な、あるいはユダヤ・キリスト的な直線的歴史観によって想定された機械である。

    直線的時間を想定するから、タイムパラドックスが帰結として生み出される。

    しかし、量子力学ないし現代宇宙科学が想定するようにマルチバースなのであれば、タイムパラドックスも何もない。

    そして、そこには現実も虚構も存在しない。すべてのことが可能性として存在するのであるから、その思想は原理的に不可能が不可能となる。

    思考実験に移ろう。

    タイムマシンが出来たとして、2億年前まで時間旅行をし、恐竜たちの生態を目の当たりにしたとする。

    しかし、それは可能だった世界の一つにしか過ぎない。それを観察したところで、何も得られることはないといえる。あえて得られることをあげれば、仮想現実システムで誰かが作り上げた2億年前の世界を見ることで得ることと何も変わらない。

    もしかすると、宇宙人が置いていった生物だったのかもしれないし、すでに人間が存在しておりロストテクノロジーによって生み出された生物なのかもしれない。はたまた、恐竜なんてものは存在せず、現代における化石は何らかの手違いによって生み出されただけのものかもしれない。

    それは、わたしたちが今観察している現実にも言える。この現実には、魔法はないようだが、そのこと自体に真理はない。別の世界において魔法があってもおかしくはない。そのことは、魔法というフィクションに世界中の人がのめりこむぐらいには、皆が納得していることである。

    ポストモダンにおける、歴史の終焉とは、西洋的/ヘーゲル・マルクス的唯物史感の終焉を意味する。彼らのように輝かしい未来を想定するということは、過去を唯一のものとすることから生まれる。というよりも、未来をすでにわかりきったものとして、過去/歴史化することである。

    平行世界論における歴史観は、常に「そうであったかもしれないし、なかったかもしれない」であるのだから、未来は、本当に未だ到来しないものとして、「そうなるかもしれないし、そうならないかもしれない」ものとして想定される。なんてことは何も言っていないのと同じなのだから、つまりは過去も未来も存在しないということになる。

    この平行世界的社会言説が、社会的連帯を失わせ、社会的孤立状況/社会的孤立感を生み出しているという指摘はとても正しいように思える。歴史が直線で単一でないのなら、わたしたちはただ宙ぶらりんに主体を形成することもできずに、ただ生きるだけである。

    主体とは、直線的歴史感が産んだ概念なのだから。

    そんなわたしたちが、西洋的人間観=主体を前提とした社会システムを基に生きれば、あらゆる異常をきたすの言うまでもないのではないか。

    主体を前提とした社会システムとは、契約による社会システムである。もしくは、贖罪による社会システムである。契約したという負い目から、わたしたちはそれを遵守しつづけるように突き動かされ続ける。

    最初の契約は、わたしたちが「人間」であるという契約である。誰が言ったのか知らないが、このブログを読んでくださっている方も自分が「人間」だと思っているだろう。その後に、「私」「男」「女」「父」「母」「労働」「善行」など、あらゆる契約を結ばされている。

    その契約を拒否すれば、社会から爪弾きとされるのが世の常である。

    それは、ユダヤ/キリスト的発想であり、言語と自己を同一化しなければ不幸が訪れてしまうというのが思想の根幹にある。契約とは、主体なくしてありえない。なぜならば、もしプログラムされた言葉をしゃべるだけのロボットが「契約します」と言っても何の意味もないからである。契約には、自由意志が前提とされている。

    しかし、自由意志がベンジャミンリベットの実験を始めとした知見によって否定され、多元宇宙論が勃興するような言説空間においては、契約なんてものは存在しないことになる。

    ゆえに、わたしたちは労働を拒否し、性別を拒否し、責任を拒否する。

    これをゆとり教育のせいにするのはお門違いであって、いくらスパルタにしたところで、この傾向が変わるわけもない。教育で変わるというのも、また西洋/近代的発想である。

    ここで反論として「教育で変わる」と考える人がいれば、それはファシズム的発想だろう。それはそれでよいのだが、だとすればなぜファシズムは敗北したのか。世界中のあらゆる革命は起きたのだろうか。北朝鮮で脱北者が後を絶たないのは、情報化社会で正しい情報が啓蒙されたからだろうか。人間はそこまでバカではない。人の言うことをすべて信じるほどお人よしではない。その一点?に尽きるのではないだろうか。つまり、可能性を追求する性質、快感原則、欲動や欲望がある。

    実は、この「可能性を追求する性質」は、言語的やりとり、論理的やりとりにおいて必然的に要請されることでもある。つまり、教育や法には、内在的に「そうではない可能性」を含んでいる。

    フロイトがエディプスコンプレックスの根拠とする、近親相姦の禁止の考え方がわかりやすい喩えだろうか。神/自然に反するものとして近親相姦は、古今東西の文化で禁止されているが、それは後付けで神/自然を根拠としてでっち上げたものに過ぎない。なぜなら、本当に自然的に近親相姦しないのであれば、禁止する必要がないからである。

    レゴブロックを飲み込んではいけない法律など存在するだろうか。飲み込まないことを推奨はしても禁止はしない。なぜなら、誤って飲むことはあっても、誰も好き好んで飲み込まないからである。もとからしないことは、禁止する必要はない。

    さらにラカンの思考を借りて言えば「約束します」ということは、「約束しない」可能性を考慮しなければ成り立たない。右の道に行くことを約束するということは、左の道に行くかもしれないという可能性が頭の中にあるからこそ成立する。右しか選択肢がないのであれば、契約も何もない。また、相手に「あいつは左に行くかもしれない」と思わせなければならない。契約されるほうも、反故する可能性を考慮しなければ、契約する意味がない。約束するということは、常にそれに違反する可能性が頭にこびりつく。それは背徳の甘美という形をとって、キリストを誘惑する悪魔よろしく、わたしたちに「主体」を得る悦びを与える。常に可能性のなかから選びとっているという感覚こそが「主体」を生み出す。(もちろん、これに見るように主体は1人では創れない)。

    話をまとめよう。

    わたしたちは、現実と虚構という二元論が意味をなさない世界に生きている。現実も虚構であれば、虚構も現実である。今後その傾向はますます進んでいく。VRに限らず、SNSというアプリによって繋がる生活そのものがそうだといえよう。嘘松も、マスゴミ(笑)の情報も、なんだろうと嘘でもなければ、現実でもない。それは、言語の限界というだけの話でもある。

    では、現実とは何か。それは、わたしたちが語りえないものとしかいいようがないだろう。嘘もつけない、創作もできない、そんな領域が現実である。逆説的に語れるものすべては虚構なのである。

    この世界でいかに生きるか。ひとつは、何も信じないこと、とあえて提示してみよう。わたしが常日頃疑問なのは、「マスゴミ」というマスコミを揶揄する言葉である。揶揄するほどには、期待があるのだろうが、そのこと自体に驚きである。すべての情報は、2ちゃんねるのような、便所の落書きのような空間に並べられているといっても過言ではない。そこに、透明性や公平性を求めるほうが無理がある。(マスコミを信じる人が多いことを問題視するのは理解できる)

    いまや、タイムマシンとVRの違いはほとんどなくなった。むしろ、VRとは平行世界用タイムマシンの発明と言ってもよい。ならば、わたしたちは色々な場所に行き来することに大した意味はない。どこもすべてがフィクションなのだから。
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  • 自閉性、他閉性、他開性

    2017-08-13 17:071
    さて、タイトルの左ひとつ以外は、すべて私の造語である。

    自閉症におけるもっとも根幹的問題は、言語活動に著しい困難が見られるということである。

    ドナ・ウィリアムズにせよ、東田直樹にせよ、自閉症者の自伝のなかでは、そのことが最も大きな困難としてあげられている。
    ──わたしの場合は、他人の言ったことを何の感情も交えずに真似したり、おかしなアクセントで話したり、どもったり、心理的にまったく何の言葉も発することができなくなってしまったりということだ。そしてそのどれも、世慣れていないわたしの心が、圧倒的に強烈な感情を覚えた時の恐怖が原因だった。──『自閉症だった私へ』 D・ウィリアムズ 河野訳 

    ──話したいことは話せず、関係ない言葉は、どんどん勝手に口から出てしまうからです。僕はそれが辛くて悲しくて、みんなが簡単に話しているのがうらやましくてしかたありませんでした。──『自閉症の僕が跳びはねる理由』 東田直樹

    両者の自伝は共通する部分が多い。言語の困難のほかには、情動のコントロールがきかないことである。自分では悪いことだとわかっていても、気づけば行動が始まってしまっている。

    しかし、両者に大きな違いもある。それは、ドナ・ウィリアムズは複数の人格を持っていたことである。ドナの主人格のほかに、ウィリー(反社会性)、キャロル(社会性)を使い分けることで、現実世界を器用に渡り歩いていた。コミュニケーションが苦手といいながら、キャロルとして外に出れば、大学時代にもっぱらの遊び人として夜な夜なナイトクラブにでかけることもあったほどである。(つまり、キャロルであればコミュニケーションに問題があるどころか、人気者であった。)

    両者は、間違いなく自閉症である。おそらく、ドナは現代であれば高機能自閉症と診断名がつくであろうし、東田は本人が言うように重度の自閉症である。

    では、何が違うのか。

    それはおそらく、発達障害、現代ラカン派のいうところの「ふつうの精神病」、境界性パーソナリティ障害、アダルトチルドレンの議論に繋がるところである。
    (現代ラカン派のいう「ふつうの精神病」とは、「人が○○するから、○○する」という主体なき人格をもつ人々が現代社会に増えてきたことから名づけられた概念である。ドナのキャロルは、実在する人物のコピーである。幼少期に出会った、陽気で心優しいキャロルを真似して作り上げた人格である。「ふつうの精神病」者は、何の下準備もなく敵の施設に潜り込んだスパイのようなもので、知っているふりをして、その場で周囲を観察しながら次にとるべき行動を考えている。その行動原理は、「異邦人であることがばれなければ良い」であるから、行動に自分の気持ちが反映されることはない。そしてやはり、いつも自分は異邦人なのである。)

    ラカン派の考える大人の条件とは、言語に自己を同一化できるかどうかである。

    「父」「母」「先生」「社会人」

    「こういう父になりたい」
    「こういう先生になりたい」

    「父」「先生」といった言語イメージの周りをまわりながら、自己をその言葉と同一化していく。

    一方、「ふつうの精神病」者にとっては、「父」もへったくれもない。

    あまりに社会に興味がないからこそ、自分の納得だけを至上原理としているからこそ、社会で生きることがとても困難な仕事になり、逆説的にそればかりが気がかりとなる。

    いつ化けの皮がはがれるかだけを気にしているのだから、周囲の観察を怠ることはない。ゆえに、世間的にはより父らしく、先生らしく見えているのかもしれない。しかし、それが心の疲弊のために、長続きしないのである。スパイが敵の本拠地に長く潜ってはいられないように。詐欺師が馬脚が現れそうになるたびに、次の町へと逃げるように。

    それは誰にもあることかもしれないし、高機能自閉症や「ふつうの精神病」や人格障害とのスペクトラムやマトリックスのなかで捉えられることなのかもしれない。そのあいまいさゆえに、この分野の研究はつねに漠然としている。

    とりあえず目下私は、ナルシシズム(自己満足)とエロティシズム(自他満足)の観点から、あらたに「他閉性」と「他開性」という概念を出してみる。

    自閉症者は、ドナのように、他者と多分に関わりながらも自閉を保つことができる場合がある。ドナはキャロルを演じているときでさえ、常に孤独と寂しさを抱えていた。このように、言語さえ上手に操れれば、言語と同一化できなくても社会を渡っていくことができるしかし、自閉性がなくなっているわけではない。これを、「他閉性」と名づけてみよう。

    もう一方の「他開性」は一般的な大人をさす。社会と自己、つまりは言語と自己を適切に同一化できた人々であるので、特に語る必要はない。「大人とは・・・」「仕事ってのは・・・」「私は・・・」と恍惚と語る人々を想像していただければ十分である。大人は、自己完結せずに、自分の欠如を他者との交流のなかで埋めることができている。もちろん、完全な大人など居はしないのだが。

    両者の決定的違いは、他者を騙しているか、自分を騙しているか、である。サラリーマンが自己啓発本をこぞって買うのは、自分を騙し続ける必要があるからではないだろうか。

    以下、私の手書きのメモを参照までに添付させていただく。絵も字も苦手であるし、丁寧に書くこともできないが、何かの参考になれば幸いである。








  • 固有名について

    2017-08-05 23:151

    固有名について、私的理解をあげていこう。

    まず、歴史とは何なのかという問いから始めなければならない。

    それは、テレビをなぜみるのか、という問いにも置き換えることができる。

    あるいは、YouTube。

    歴史にせよ、テレビにせよ、その根幹は、固有名である。

    モーセ、キリスト、卑弥呼、ナポレオン、明石家さんま、はじめしゃちょー。

    あるいは、

    ポエニ戦争、十字軍、桶狭間の闘い、天安門事件、9.11、3.11。

    わたしたちが、語る過去はおしなべて、固有名を軸に回る。固有名なしでは語りえない。

    語ることの根幹には、固有名がついてまわる。

    それが、歴史であり、人間のいう過去なのだ。

    過去を語ることができるということは、語っている現在まで伝わっているということだ。

    なぜ伝わっているのか、と考えてみよう。

    その人物の、その事件のインパクトがあまりにも強かったからだろう。

    周囲とは違う人がいたから語られるのであるし、日常とはかけ離れたことが起きたから語られるのだろう。

    しかし、ここで考えなくてはいけないのは、「インパクトが強かった」と誰が決めるのか、という問題である。

    簡単に考えてみよう。

    現在の日本では、1日2000件ほど交通事故が起きるようだ。事故の大小はあれども、この2000件の当事者たちにとってはインパクトの強い出来事のはずだ。

    しかし、芸能人がほんの少しの接触事故でも起こそうもんなら、スポーツ新聞の見出しを賑わし、他の2000件全てを足しても叶わないほどのインパクトとなる。

    たとえば、ある教科書は戦国時代について多くのページを割いていたとする。ほかの教科書では、天安門事件に多くのページを割いている。ある雑誌では、はじめしゃちょーだけを特集している。

    こうしてみると、インパクトとは、書き手に、読み手に委ねられるのではないか。いや、書き手も読み手も同じようなものだ。つまりは、民衆の興味の差こそが、インパクトとなるのではないか。

    民衆の興味の差こそが、話したい欲求こそが、固有名に力を与えるのではないか。

    民衆の興味とは何か。それは、週刊誌などのゴシップ誌を見ればわかりやすい。理想化と扱き下ろし。精神分析でいう原始的防衛機制が蠢く世界。簡単に言えば、見たいものを見る世界。人の成功と失敗。そこに自分の人生を重ね合わせ、希望と安堵の糧とする。

    つまりは、歴史とは、固有名とは、この希望と安堵を入れるための箱なのだ。

    橋本環奈という箱に、あるいはアウシュビッツという箱に、見たいものを詰め込んでいるのだ。

    タレント/スポーツ業はそれをビジネス化したものであるが、そこで「努力」がことさら叫ばれるのは、それが自身の欲望の箱でしかないという事実をかき消すためである。

    「錦織圭が、橋本環奈がすごいから、がんばったから、語られるのだ」と。
    「相模原障碍者施設事件が悲惨すぎたから、語られるのだ」と。

    まったくの逆である。「がんばったと見たいから、悲惨に見たいから、語られる」のである。

    これは、「歴史的残虐事件を、ただのゴシップと同列に扱うのか」と批判を受けることだろう。

    その批判は、真正面から受け入れよう。なぜなら、同列に扱われているからこそ、私は問題視しているのだから。

    なぜなら、固有名の効果とは、テレビがそうであるように、歴史がそうであるように、他人事化してしまうからである。

    たとえば、その現場にいた人は、「3.11」と語るだろうか。おそらく、講演会などの場ではそうであろう。しかし、彼らのなかにあるのは、決して「3.11」などという自己完結した言葉では語れないものなのではないか。

    サリン事件であれ、秋葉原連続殺傷事件であれ、主犯の名で語れば語るほどに、事件の本質からは遠ざかっていくのではないか。

    わかりやすくなればなるほど、伝われば伝わるほど、大事なものが削げ落ちていく。これこそが、言語の最大の欠陥ではなかったか。

    「慰安婦問題」や「安倍政権」が今の日本ではもっともわかりやすい例だろう。もはや、この言葉は右翼左翼をわかつキーワードであり、現在日本において最も政治的に利用されている固有名である。

    慰安婦問題の真偽や安倍政権の是非はさておき、重要なことは、その固有名を使わずに語ることにこそあったのではなかったか。

    慰安婦問題さえ解決すれば、日韓友好は訪れるのか。女性の人権は回復するのか。

    安倍政権さえ倒れれば、日本の政治経済はよくなるのか。

    オタク達の言い争いを見ればわかりやすい。ある作品や人物について想いが強いほどに、その言い争いは苛烈なものになっていく。その言い争いが身のあるものになるかどうかは、作品や人物にこだわらずに話をした場合ではないのだろうか。

    固有名の力は、転移の強さに比例する。転移抜きには、固有名抜きには、私たちは語ることはできない。

    しかし、それが欲望由来であることだけは忘れてはいけない。