• 基本的なドグマの確認。

    2018-05-22 21:091

    「The Stanly Parable」

    というゲームをご存知だろうか。



    とても斬新なゲームシステムで有名になったPCゲームである。

    プレイヤーは、主人公(スタンリー)を普通の3Dゲーム同様に自由に動かすことができる。建物のなかを好きに歩き回り、扉を開け、散策し、謎を解明していく。

    ここまでは、どこにでもあるゲームシステムである。

    独特のナレーションが入ることを除いては。

    このナレーションこそが絶対的な斬新さをプレイヤーに提供していくことになる。

    たとえば、上の画像を見て欲しい。左右のドアがある場所に差し掛かるとナレーターがこう語りかけてくる。

    「スタンリーは開いているドアが2つある場所に来ました。そして彼は左のドアに入りました。」

    小説の語り部よろしく、主人公スタンリーの進むべき道を勝手に示していく。

    もちろん、プレイヤーのコントローラーは何ら制限を受けているわけではないので、彼の教唆した左ではない、右のドアに入ることもできる。

    このような仕掛けがことあるごとにあり、プレイヤーは常に、彼に従うか、従わないかを迷わされる。終いには、「どうして私の言うことを聞かないんだ」「頼むから少しだけでも話を聞いてくれ」というようなことまで言い出し、プレイヤーを翻弄する。

    余計な論評はいらないほど優れたゲームなのだが、あえて言わせてもらえば、このゲームは現代思想的、はたまたラカン的な世界観を、プレイヤーが体験することとなる。

    このゲームをしていると、思わずこの正体不明のナレーターと会話をしてしまう。「あーうるさいなあ」「いいんだよ、オレはこっち行くんだよ」「そこまで言うなら、わかったよ」

    ここで少し考えてみよう。ゲームを止め、うるさいナレーターのいない現実世界に戻る。さて、今日は部屋の掃除をする日だった。しかしゲームに夢中になり、すっかり日が暮れてしまった。掃除は、明日か来週でもいいかなという考えが頭をよぎる。「そんなだらしないことでどうする。部屋は自分を映す鏡だ」という声が聞こえてくる。5分ほど考えをめぐらしたあと、「あーわかったよ。やりゃあ、いいんだろ、やりゃあ」と一人ごちて掃除を始める。

    日常生活のなかでも、私たちは主人公スタンリーのように、ナレーターの声が聞こえてくることはないだろうか。

    ラカンの世界観を理解するうえで、もっとも重要なドグマはこれである。

    ラカンにおいて、主体は存在しない。もしくは、主体は分裂している。

    「わたし」とは、「ナレーターが語るスタンリー」と同義である。

    ゲーム内では、「スタンリーは、○○することをずっと幸せだと思っており・・・」などのスタンリーの生活史についてのナレーションが勝手に入る。

    このナレーションと、わたしが自己紹介のときに語る「わたしは・・・」には、構造的にも意味的にも違いはまったくない、とラカンは主張する。

    確かにそうかもしれない。思えば、いつもそうだ。このナレーターのように、ふいにきゅうに、思考は訪れる。「わたしっていつもこうだ・・・」

    果たして、

    スタンリーについてべらべら語ることを止めないナレーター
                と
    ナレーターに翻弄されながらも完全には従わずに動くスタンリー

    自分についてべらべら語ることを止めない「わたし」
                と
    その「わたし」に翻弄されながらも完全には従わずに動く「わたし」

    一体どちらが本体で、どちらが付属品なのだろうか。

    人間精神がもつ、この基本的な分裂状態をラカンは言語構造の分析やフロイトのテクストから導いたわけであるが、

    そのきっかけを与えたのは他でもない統合失調症患者であった。

    罹患者は語る。

    「私の思考に他の人の声が入ってくる」
    「私の行動が他の人に操作されている」
    「私の思考が覗かれている」
    「私の一挙一動が世界を変えてしまうかもしれない」

    まさに、これはスタンリーの状況そのものである。スタンリーがあまりにナレーターの意見を無視し続けると、「君はこの物語をどうするつもりだ・・・」という説教じみたことを延々と捲くし立ててくることもある。

    グレゴリーベイトソンは、このような精神状況をダブルバインドと呼び、冒頭の画像で言うところの、左のドアを選ぼうと、右のドアを選ぼうと、何かしらの遺恨が残ってしまうようなコミュニケーションを幼少期に学ぶことで、統合失調症が引き起こされるとした。

    しかし、ラカンが言いたいのは、人間はみな、統合失調状態にあるということだった。多くの人は、それを抑圧することに成功し「わたしは○○です!」と笑顔で外の世界(現実界)のなかで生活をする。

    ただ時折、疲れなのだろうか、素質なのだろうか、正直なのだろうか、いずれにせよ、気づいてしまう人が出てくる。「わたしは、スタンリーなのか、ナレーターなのか」と。

    ナレーターはどこから来たのだろうか。それはラカンの有名な言明「無意識は構造化されている」が示唆しているとおり、予めすでにインストールされたものである。幼少期に、言語なり、視線や声、つまりは他者によって。三つ子の魂百まで。

    ゆえに、この文章も私が書いているのではない。私の無意識は、両親であり、友人たちであり、フロイトであり、ラカンであり、このブログを読んでくださる皆様の欲望の結果なのだ。

    それが欲動となり、「わたしは・・・」「私が思うに・・・」といつもいつも、うるさく話し続けなければならない、Parlêtreであることを運命づけられているのだった。

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  • 差別とは。

    2018-03-04 13:181

    差別とは何か、少し別の角度から考えてみよう。

    差別とは、差別意識という言葉があるように、意識である。

    意識したところから、差別は生まれる。

    差別意識とは、「妬み」である。

    ここで私は「妬み」をネガティブな意味として使っていない。

    なぜなら「妬み」こそが、人間の根源的行動原理である。

    「妬み」とは、自分にはないものを欲することである。

    既得権益を欲することである。

    既得権益の破壊を欲することである。

    つまり差別には、既得権益の破壊が含意されている。

    得をしている人から、その権利を奪おうとすること。差別という言葉を使った瞬間、必ずそこまでを含意する。

    ここで考えよう。「得をする」とは何だろうか。ただの生存上の得だけか?お金や安全のように。

    いや、人には各々の価値観があるのではないか。

    「妬み」は人間の行動における根源的な動機だと私は言った。

    自分にはないものを欲すること。

    これは少し限定的だ。より正確に言えば、

    あなたが欲しいものを、欲すること。

    欲望の交換。わたしがここで言う「妬み」には、欲望の交換が含意されている。

    人間は、はるか昔より「妬み」によって動いてきた。もし生存上の理由だけならば、なぜ隣村との交流で、生存上必要な物資だけではなく、嗜好品や装飾品、宗教つまりは文化まで交流したのだろうか。

    自分の村が絶対なら、他の村など気にしない=欲しがらないのなら、必要最低限の物資の交換を行うか、奪い取るかだけして、文化など捨てておけば良かったのではないか。そこには利便性以外の目的があったのではないか。

    相手が欲しいものを、相手が愛するものを、自分も欲しがってみたくなったのではないか。愛してみたくなったのではないか。アッティラ王が西ローマに憧れたように。

    「平等」の思想が古今東西なぜこれほどまでに強いのか、答えはここにある。

    さて、現代においては「差別」という言葉が独り歩きして、全ての悪を背負ってくれている。

    ここで既得権益について考えよう。既得権益とは、自然発生的(偶然的)産物ではなかったか?

    男が、白人が、偉くなろうと思って偉くなったのだろうか。そもそも、誰もが偉くなりたいはずだ。

    競争に勝ち残り、メスを独り占めする強いオスライオンは、彼の倫理観を責められるべきだろうか。

    人間は、常に自然に抗ってきた。

    なぜ抗ったのか?禁断の果実をかじらせたのはいかなる欲望か?

    神に対する「妬み」ではなかったのか?

    差別とそれを壊そうとする運動は、この自然に抗おうとする運動のなかで捉え直されるべきではないか。

    神の言うことをよく聞き、禁断の果実に触れなければ、人間は生まれることはなかった。永遠に神の一部に過ぎなかった。

    アダムとイヴは、お互いに興味を持つことはなかったのだ。

    偉い人も、蔑まれる人も生まれなかった。

    ある人はそれを天国と呼ぶ。

    キリスト教は、「愛」でファリサイ派を打ち砕いた。

    しかしキリストが神による「愛」を語れたのも、そもそもの2人が神に抗ったからではなかったか。

    「愛」や「平等」は、既得権益があるから生まれた概念だ。抑圧から自我が生まれるように。

    そして、既得権益の子らは、父である既得権益を倒す運命にある。

    人間はずっとこの自作自演を繰り返しきたのではなかったか。

    しかし、すべてのものごとには終わりがある。歴史の終焉。人間の終焉。

    情報の伝達速度があがるにつれ、つまりは交通や流通が盛んになるほどに、「妬み」という欲望は潜性化される。交流が阻まれていた時代では違いが浮き立ち、その違いのわかりやすさは「妬み」の力の向けやすさとなったからだ。

    交流が盛んになれば、A→B→A→B•••のように、欲望が際限なく循環し続け均質化されてしまう。近年の左翼が振るわないのは、左翼の原動力でもある「妬み」を向ける先がボヤけてきたからだ。

    しかし、時代がいくら進んでも人間が持つ「妬み」の強さは変わらないとしたら。王族、白人、男・・・、彼らを(ある程度)打ち倒したあとは、「妬む」対象はより身近になっていくのではないか。

    身近に?いや、自分に?

    この時代に言うべき言葉は、果たして?

    わかりやすさは敵なのだ。この時代においてはとくに。

  • 精神を分析するということ。

    2018-01-21 23:231

    その頭の窄んだ水瓶に、君は光を見出す。

    その頭の窄んだ水瓶は、内側を持たない。

    ゆえに君は、君の内側を見出すのだ。

    内側を持たぬはずの水瓶は、君で満たされていく。

    君は、水瓶のなかから君を掬い続ける。

    水瓶のなかの君を粗方掬い終わったとき。

    君があれだけ崇めていた水瓶が別の世界のものだったことに気づく。

    そのとき君は我に返って、水瓶をゴミのように捨てるだろう。

    あるいは、忌避して逃げ出すだろう。

    水瓶は、その時を辛抱強く待っている。

    水瓶は、その時を心待ちにしている。

    小さく怯えながら。