自閉性、他閉性、他開性
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自閉性、他閉性、他開性

2017-08-13 17:07
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さて、タイトルの左ひとつ以外は、すべて私の造語である。

自閉症におけるもっとも根幹的問題は、言語活動に著しい困難が見られるということである。

ドナ・ウィリアムズにせよ、東田直樹にせよ、自閉症者の自伝のなかでは、そのことが最も大きな困難としてあげられている。
──わたしの場合は、他人の言ったことを何の感情も交えずに真似したり、おかしなアクセントで話したり、どもったり、心理的にまったく何の言葉も発することができなくなってしまったりということだ。そしてそのどれも、世慣れていないわたしの心が、圧倒的に強烈な感情を覚えた時の恐怖が原因だった。──『自閉症だった私へ』 D・ウィリアムズ 河野訳 

──話したいことは話せず、関係ない言葉は、どんどん勝手に口から出てしまうからです。僕はそれが辛くて悲しくて、みんなが簡単に話しているのがうらやましくてしかたありませんでした。──『自閉症の僕が跳びはねる理由』 東田直樹

両者の自伝は共通する部分が多い。言語の困難のほかには、情動のコントロールがきかないことである。自分では悪いことだとわかっていても、気づけば行動が始まってしまっている。

しかし、両者に大きな違いもある。それは、ドナ・ウィリアムズは複数の人格を持っていたことである。ドナの主人格のほかに、ウィリー(反社会性)、キャロル(社会性)を使い分けることで、現実世界を器用に渡り歩いていた。コミュニケーションが苦手といいながら、キャロルとして外に出れば、大学時代にもっぱらの遊び人として夜な夜なナイトクラブにでかけることもあったほどである。(つまり、キャロルであればコミュニケーションに問題があるどころか、人気者であった。)

両者は、間違いなく自閉症である。おそらく、ドナは現代であれば高機能自閉症と診断名がつくであろうし、東田は本人が言うように重度の自閉症である。

では、何が違うのか。

それはおそらく、発達障害、現代ラカン派のいうところの「ふつうの精神病」、境界性パーソナリティ障害、アダルトチルドレンの議論に繋がるところである。
(現代ラカン派のいう「ふつうの精神病」とは、「人が○○するから、○○する」という主体なき人格をもつ人々が現代社会に増えてきたことから名づけられた概念である。ドナのキャロルは、実在する人物のコピーである。幼少期に出会った、陽気で心優しいキャロルを真似して作り上げた人格である。「ふつうの精神病」者は、何の下準備もなく敵の施設に潜り込んだスパイのようなもので、知っているふりをして、その場で周囲を観察しながら次にとるべき行動を考えている。その行動原理は、「異邦人であることがばれなければ良い」であるから、行動に自分の気持ちが反映されることはない。そしてやはり、いつも自分は異邦人なのである。)

ラカン派の考える大人の条件とは、言語に自己を同一化できるかどうかである。

「父」「母」「先生」「社会人」

「こういう父になりたい」
「こういう先生になりたい」

「父」「先生」といった言語イメージの周りをまわりながら、自己をその言葉と同一化していく。

一方、「ふつうの精神病」者にとっては、「父」もへったくれもない。

あまりに社会に興味がないからこそ、自分の納得だけを至上原理としているからこそ、社会で生きることがとても困難な仕事になり、逆説的にそればかりが気がかりとなる。

いつ化けの皮がはがれるかだけを気にしているのだから、周囲の観察を怠ることはない。ゆえに、世間的にはより父らしく、先生らしく見えているのかもしれない。しかし、それが心の疲弊のために、長続きしないのである。スパイが敵の本拠地に長く潜ってはいられないように。詐欺師が馬脚が現れそうになるたびに、次の町へと逃げるように。

それは誰にもあることかもしれないし、高機能自閉症や「ふつうの精神病」や人格障害とのスペクトラムやマトリックスのなかで捉えられることなのかもしれない。そのあいまいさゆえに、この分野の研究はつねに漠然としている。

とりあえず目下私は、ナルシシズム(自己満足)とエロティシズム(自他満足)の観点から、あらたに「他閉性」と「他開性」という概念を出してみる。

自閉症者は、ドナのように、他者と多分に関わりながらも自閉を保つことができる場合がある。ドナはキャロルを演じているときでさえ、常に孤独と寂しさを抱えていた。このように、言語さえ上手に操れれば、言語と同一化できなくても社会を渡っていくことができるしかし、自閉性がなくなっているわけではない。これを、「他閉性」と名づけてみよう。

もう一方の「他開性」は一般的な大人をさす。社会と自己、つまりは言語と自己を適切に同一化できた人々であるので、特に語る必要はない。「大人とは・・・」「仕事ってのは・・・」「私は・・・」と恍惚と語る人々を想像していただければ十分である。大人は、自己完結せずに、自分の欠如を他者との交流のなかで埋めることができている。もちろん、完全な大人など居はしないのだが。

両者の決定的違いは、他者を騙しているか、自分を騙しているか、である。サラリーマンが自己啓発本をこぞって買うのは、自分を騙し続ける必要があるからではないだろうか。

以下、私の手書きのメモを参照までに添付させていただく。絵も字も苦手であるし、丁寧に書くこともできないが、何かの参考になれば幸いである。








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