• だれもが批評家の時代。

    2017-12-02 23:39131


    先日、とあるテレビ局に勤めている友人と飲んだ時に、コース料理で寿司が出てきた。
    私がそれを箸で食べようとすると、その友人は少し疲れたような顔でこういった。

    「寿司はさ、箸で食っちゃいけないんだよ」

    その友人曰く、とある視聴者が彼のテレビ局の番組を見て、「テレビに出ていたタレントが寿司を箸で食べていた。けしからん。寿司は手でつかんで食べるものだ」とのクレームをつけてきたのだという。

    何というか、寿司ぐらい好きに食わせろ、と思う。

                          *

    しかし、世の中、様々な人間が様々な事柄に対して、苛立っているらしい。

    例えば、ラーメンを食べる時にずるずる音を立てるのが普通だと私は思っている。
    しかし、ラーメンのずるずる音が死ぬほど嫌いで、これは麺を使ったハラスメント、ヌーハラだ、と思う人も世の中にはいるらしい。

    また、私は食事中にスマホをいじっている姿はとても嫌な気持ちがするが、全く気にならない人も多いらしい。

    また、私が面白いと思い絶賛していたアニメも、ネット上で、ものすごい数の罵詈雑言をぶつけられていた。

    おそらく、少し前までの世の中では、一挙手一投足にイライラしている人間がこんなにたくさんいることを、多くの人が知らなかったと思う。

    少し前まで、対多数の情報発信ツールは、ラジオやテレビくらいしかなかった。
    それ以外の情報交流は基本的にフェイスtoフェイスのもので、顔の見えている相手に反対意見をぶつけることは、日本人の気質的にもあまり行われてこなかったのだと思う。

    こうした情報環境では、意見も、思想も、流行も、画一化しがちだったろう。

    他方で、情報化の進んだ現代は、情報源は大きなメディアに画一化されておらず、一個人が様々な情報に触れることができ、かつ自身の価値観に基づいた情報を多くの人に発信することが容易にできる。

    価値観が多様なのは大変結構なことで、多様な価値観の存在に多くの人が気がつくことができたのもよいことなのではないかと思う。

    一方で、こうした多様な個人の価値観は時に意見……という名の価値観の押しつけという形で、様々に影響を与えたりする。

    私が好きだったとあるゲームの縛り実況は、「縛りが緩すぎる」というコメントや「編集が雑」というコメントを投稿者が意識しすぎた結果なのか、縛りがきつくなって展開がグダつき、編集時間が原因だと思うが更新頻度も低下していき、いつの間にか打ち切られてしまった。

    最近、テレビがつまらなくなったという意見をよく聞く。
    おそらく、これも上記と似たような現象が原因の一つなのだと思う。
    お馬鹿な番組を見て喜ぶ私のような低俗な人間がいる一方で、子を持つ親の中には「こんな番組見せられない!」という人もいるだろう。

    こうした意見、というか個人の価値観に対して逐一忠実に配慮すると、芸能人に当たり障りない会話をさせたり、ご飯を食べさせたり、旅をさせたり、そんな番組ばかりになるのだろう。
    また、視聴者のクレームを先回りしてつぶすような興ざめなテロップもやたらと多く見かける。

    その挙句、寿司を箸で食うという行動一つにも不満を持つ視聴者がいてクレームを入れてくるのだから、馬鹿らしいと内心では思いながらも次々に選択肢はつぶされていくだろう。

                         *

    ここまで、誰もが批評家になれる時代だと記述してきた。
    私も批評や考察は大好きで、ブロマガに書いたりしては、共感されたり、逆に批判のコメントを浴びせられたりしている。つまり、私も数多く存在する現代批評家の一人だ。
    一方で、何かを批評することと、価値観を押し付けることは違うと思うのだ。

    批評はあくまで個人の価値観に基づいて、それを良いと思ったのか、悪いと思ったのか、またそれはなぜなのかまとめることだ。その意見で誰かに指図したりする気はなく、「私はこう思っている」と考えの整理し、それに対して他の人がどんな意見を持つのか知りたいというのが行動のベースにある。

    これに対して、価値観の押しつける人たちは「自分の考えが正しくて、お前の考えは間違っているから、その間違った考えを正してやる」というスタンスでやってくる

    だれもが批評家の情報化社会だからこそ、批評と押し付けは違うのだと線引きする意識を、個人個人が持つようにするべきなのではないかと思う。

    そのためにも、学校教育の中で、一度、web上で匿名で意見を交換したり、何か作品を作ってそれを公開してみる、というような経験をしてみるのが良いのではないかと思う。

    そして、ポジティブなコメントをもらううれしさや、共感される安心感、一方的に批判してくるコメントの怖さを知ってみると良いのではないだろうか。

    こうした経験は、電子情報の向こう側にいるのが、AIやロボットではなく、血の通った自分と同じ一人の人間だと意識する機会を生み出すのではないかと思う。

    今は情報化社会の過渡期にあって、みな価値観のあまりの多様さに戸惑っているところなのかもしれない。
    今後、より進んでいくだろう情報化社会を心を穏やかに過ごすためには、結局、人間の側が変わっていくしかないのだと思う。

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  • モチベーションを下げるタイプのコメント

    2017-11-15 21:4592

    運営による「話題の記事」への紹介がまた行われたようです。どうも、ここ最近多いですね。
    今年、ブロマガにあげた記事は数行ほどの近況報告も含めて12件ですが、うち3件が「話題の記事」とやらになり、なんかすごい数のコメントが書き込まれたりしてます。ひょっとして私は人気ブロガーなんでしょうか。

    それとも、話題になるような情報を発信する発信者がニコニコから減っているんでしょうか。

    ……なんとなく、後者な気がしますね。悲しい。



                       閑話休題



    そんなわけで、先日書いた記事には、普段ならありえない数のコメントが書き込まれました。

    そして、100件も書きこまれると、「おお、面白いな。好きだな」と感じるコメントと、「えー、なんかちょっと嫌な感じ」と感じるコメントが混在していました。

    ニコニコで活動している動画投稿者にとって、コメントはモチベーションに強力に効いてくる要素だと思います。

    日々仕事で忙しくても、面白がってくれているコメントや、待っていたというコメント、独自の興味深い意見などがもらえると、「忙しいけど、また時間を見つけて投稿しよう」という気分になります。

    その点、私は視聴者さんに大変恵まれているなーと感じています。普段の動画へのコメントもそうですが、今回の記事も、話題の記事とやらになるまでは、肯定的な意見も、批判的な意見も含めて、どれも受け入れやすいコメントばかりだったので、とても楽しく読ませていただいてました。
    特にお味噌汁さんの「夜の営みと動物のと殺は、どちらも生活に無くてはならないものなのに公共の場から遠ざけられている点が似ている」という意見は、「面白いこと考えるなー」と、素直に感心していました。

    他方で、「嫌だなー」と思うようなコメントで動画があふれたとしたなら、情報発信に対する意欲は著しく落ち込むと思います。そして、100件以上のコメントの中には、「これは嫌な気分になる」と思うコメントもいくつかありました。

    その中でも特に、ストレス度合いが高かったのが、「決めつけコメント」と「高圧的コメント」ですね。

    例えば、

    「お前の主張は間違っている。○○を見てみろ。個人の考えだなんて予防線なんか張らずに」

    ……というようなコメントがありました。
    このコメントは、「決めつけ」「高圧的」「煽り」の複合型でかなり不快度が高いなあと思いました。

    まず、何かを決めつけるような書き方は、個人の意見を主張する場合には適切ではないと思います。特に前回の記事は、いろんな人が、いろんな意見を持ちやすいテーマですから。
    後は、やたら高圧的なのはコメントを書いている方が理性的ではないように感じられて、いまいち主張を聞いてみようという気持ちになれません。

    私だったら、
    「記事を読ませていただきましたが、私は違う考えを持っています。なぜなら○○という研究者は、××という結論を導いているからです(参考URL:~)。この点どうお考えになりますか?」
    ……みたいな書き方をするでしょうね。

    ①相手の主張を理解し、その上で違う考えを持っていることを述べる。②違う考えを持った根拠を示す(参考を添えて)。③そのうえで意見を求める。
    ……という手順を踏むと、なんだかグッと、「話を聞いてみようかな」という気分になるのではないかと思います。

    まあ、相手を不快にさせるのが高圧的なコメントの目的なのだとすれば、かなり効果的に機能している気がしますが。


    ということで、動画投稿者のモチベーションを落とさないコメントのポイントを例によってまとめると、

    ・むやみやたらに決めつけるのはやめよう
    ・高圧的なコメントはやめよう
    ・煽るのはやめよう

    という結論に私の中ではなりました。
    ……スゲー普通だ。

  • なんで、「動物はあなたのごはんじゃない」という考えが生まれたんだろうか

    2017-11-12 19:121264


    職業柄、産業動物、世に言う「家畜」がと殺解体されて、お肉になっていく過程を見る機会がそこそこある。
    確かにかわいそうだと思う。特にブタは最後の抵抗としてあげる叫び声がすさまじいので、その光景を前にしたら「豚肉はもう食べられない」と思う人もいるかもしれない。
    しかしながら、こうした感情は動物としてはとてもおかしなものだと思う。


    大前提として、人間は雑食性の動物だ。
    植物性のもの、動物性のもの、様々なものを糧として、摂取して生きていくのが大前提の動物だ。つまり、人間という動物種にとって「動物は普通のごはん」だ。

    そして、動物を食べる動物はおそらく「ああ、今から私に食べられる動物はかわいそうだ」などと思いながら生活はしていないだろう。……まあ、野生動物がどう思いながら狩りをして肉を食べているのかなんて本当のところはわからないけれど。

    このように人間は雑食動物である、という事実を大前提として考えると、「動物はごはんじゃない」とか、「人間に食べられる動物はかわいそうだ」という考えが発生するのはとても奇妙な感じがする。だって、人間が動物の肉を食べるのは当たり前なのだから。

    では、なんで人は「動物を食べるのがかわいそうだ」と思うようになったのだろうか。
    これは思うに、人間の進化の方法に由来するのではないかと思う。

    人間の文明の進化の根幹はアウトソーシングにあると思う。
    野生動物は、狩り、子育て、安全の確保、教育、住居の作成、etc…を、一匹の個体で、あるいはつがいもしくは群れで行い、なんとか生活を管理し、維持しなければならない。

    しかしながら、実際には個体一つ一つに得手不得手があり、狩りが得意でも、子育ては下手な個体や、巣をつくるのはうまいが、求愛の歌が下手な個体など、いろいろな個性があるはずなのである。それでも、多くの野生動物は得手を多くの個体と共有することなく、個々の個体がそれぞれに生きるために必要な役割をこなすことで生きてる。

    他方で人間の場合、動物を狩猟するもの、穀物を生産するもの、建物を建てるもの、衣類を作るもの、上手に歌を歌うもの、など、それぞれの個人が得意な技術を持ち寄ることによって、村を作り、クニを作り、文明を築いてきた。

    おそらく、生きるために必要な仕事を分業して効率化することが、人間の力であり、進化の形なのだろう。

    ……しかし、そうは言いながらも、おそらくここ百年くらいまでは、その仕事の分業は完全には切り分けられていなかったのではないだろうか。

    例えば、私の父方の実家は米農家であるが、子供のころには牛を飼って田畑を耕したり、ニワトリを飼い卵を取ったり、時に捌いたりしていたそうだ。
    私も祖父について回って、山に分け入って山菜を取ったり、海に貝を取りに行ったり、川にドジョウを取りにいったり、田んぼにイナゴを取ったり、それを食べれるように加工する手伝いをした記憶がある。

    現代はどうだろうか。

    家畜が殺され、血抜きをされ、枝肉になり、部分肉になり、食卓に上がる形になるまでの過程を、一度でも見たことがある人間なんて、1割もいないんじゃないだろうか。

    当たり前に行われている「動物を食べる」という行為の頭の部分、「動物を育てる、そして殺して肉にする」という過程を、畜産農家と食肉の加工会社に完全にアウトソーシングしてしまった結果、「動物を食べる」という行為と「動物を殺す」という行為が結びつかなくなり、「動物を殺す≒かわいそう」という部分ばかりハイライトされて、「動物はあなたのごはんじゃない」という考え方が生まれたのではないだろうか。

    要するに、「生きるために必要な当たり前の行為」が、自分自身の手を離れて「当たり前でなくなってしまった」ことが、動物を食べるのはかわいそう論の始まりなのではないかと思う。

    後は、未だに魚を殺したり、植物を殺したりしてもかわいそうと思う人間があまり出てこない所をみると、鳴き声や血などから連想される恐怖と嫌悪感の共有が原因となる部分も多くあるとは思うけれど。

                          *

    長いので、私の考えを要約すると、

    ・人間は雑食性の動物なのに、動物を食べるのがかわいそうという考えはおかしいと思う。
    ・この原因は、人間が動物を殺すという行為を専門の職業の人たちに丸投げした結果、動物を殺すことが日常の一部ではなくなってしまっているからではないか。
    ・上記に加えて、畜産動物が殺される過程に人間が共感覚を持ち、恐怖や嫌悪感を想起することも理由だろう。

    これらから私が言いたいのは、肉を食べるのは普通のことなので、命をくれた動物と、その生
    産に携わった人に感謝して食べたいですね、ということでした。




                         *



    ※11月14日午後8時30分ごろ追記
    どうやらまた話題の記事とやらになったようですね。
    普段、私の動画やら記事やらを見ていらっしゃらない方もコメントありがとうございます。
    逐一返信していきたい気もするのですが、仕事終わりで疲れているので、気にかかった部分だけまとめて追記します。


    1.「食べる動物をかわいそうだ、と思うことが変だ」という表現について。
     私の書き方が悪かったようで、「倫理観がない」とか、いろいろなコメントをいただいているようです。すいません。これはあくまで「雑食性の動物としては変だ」と書いているに過ぎず、人間特有の感情から「かわいそう」と思うことを変だとは全く考えていません。というか、冒頭に書いている通り、私も家畜のと畜については「かわいそう」とか、「痛そう」とか、思いますし。

    この記事では、人間の感情の応答と、動物としてのあり方のギャップに関して、あーだこーだ書いてみたかったのです。

    なお、私は菜食主義や特定の食物に偏った食生活についても全く否定する気はありません。当人の正義、信念に従うべきだと思います。周囲に迷惑さえかけず、命への感謝の気持ちを時々思い出すのであれば。

    そんなわけで、私は私の信念に従って、感謝をしながら肉も野菜も魚も、時々虫も食べます。



    2.学術的でないとか、歴史的背景の考察の不足とか
    全く持ってその通りです。この記事全部私の脳内で完結しているものです。よって、特に何も下調べはしていません。
    そもそも、ブロマガは別に学術論文でもないし、一個人の意見を自由に書いたらいいんではないかと思います。学術っぽい話をしたい時は、お作法通り原著論文をべたべた引用しますし(多分ブロマガではやらないけど)。
    でも、コメントによる情報の補完は正直面白いので、適宜活発にやっていただければと思います。


    3.なんで植物はかわいそうと思わないのか
    植物をかわいそうと思わないのは、ものを言わず、泣かず、血も出ず、暴れもしないからでしょうね。「かわいそう」という感情は、共感覚から生じるものだと思います。痛そうとか、苦しそうとか、人間に近い動物であれば、なんとなく感情移入されます。しかし、植物を見ても、植物が何を考えているのか、というかそもそも植物はものを考えているのか、よくわからないわけで。もし、植物の置かれている状況に感情を乗せることができれば、きっとかわいそうに思うはずですが、実際には植物と人間は体のつくりから違いすぎて感情移入は難しい。植物に感情移入できる情緒豊かな方も時にはいらっしゃるでしょうし、生き物を殺すのは植物も含めて全て悪だという方もいるでしょうが、多くの人は自分が感情を乗せてかわいそうと思うものをかわいそうだと思い、そうでないものに対して共感することはないのではないでしょうか。