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井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』第12回 トリコ、FF15の風景は、ただ美しいだけなのか?【不定期配信】 ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.766 ☆
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井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』第12回 トリコ、FF15の風景は、ただ美しいだけなのか?【不定期配信】 ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.766 ☆

2017-01-10 07:00

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    井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』
    第12回 トリコ、FF15の風景は、ただ美しいだけなのか?
    【不定期配信】
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2017.1.10 vol.766

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    今朝のメルマガは、井上明人さんの『中心をもたない、現象としてのゲームについて』の第12回をお届けします。
    昨年末に発売された『ファイナルファンタジーXV』と『人食いの大鷲トリコ』。この2大タイトルの共通点は、〈風景〉を前景化させたことにありました。風景を印象づけるために作動している認識操作の技術を読み解きます。


    ▼執筆者プロフィール
    井上明人(いのうえ・あきと)
    1980年生。関西大学総合情報学部特任准教授、立命館大学先端総合学術研究科非常勤講師。ゲーム研究者。中心テーマはゲームの現象論。2005年慶應義塾大学院 政策・メディア研究科修士課程修了。2005年より同SFC研究所訪問研究員。2007年より国際大学GLOCOM助教。2015年より現職。ゲームの社会応用プロジェクトに多数関っており、震災時にリリースした節電ゲーム#denkimeterでCEDEC AWARD ゲームデザイン部門優秀賞受賞。論文に「遊びとゲームをめぐる試論 ―たとえば、にらめっこはコンピュータ・ゲームになるだろうか」など。単著に『ゲーミフィケーション』(NHK出版,2012)。

    本メルマガで連載中の『中心をもたない、現象としてのゲームについて』配信記事一覧はこちらのリンクから。


    ■われわれは風景を「見て」いるのか?「感じて」いるのか?

     今月は、せっかくなので『ファイナルファンタジーXV』(以下、『FFXV』)と、『人食いの大鷲トリコ』(以下、『トリコ』)に関連する話をしようと思う。まだトリコは遊んでいる最中だが、とりあえず遊びながら、考えていることなどを少し書ければと思う。


     さて。
     言うまでもないことだが、ゲームの開発において、いかに美しい映像をつくるかということはある時期までとても重要なことだった。しかし「より美しい映像を」つくることはある時期から多くの人に飽きられた。「映画のようなゲーム」が純粋に誉め言葉としての意味をもっていたのは1990年代の途中までで、2000年代からは蔑みの意味でも使われるようになってしまった。美しい映像は、意外とすぐに飽きる。それよりも重要なことがあるのではないか、と思う人が増えた。
     そしてまた、わざわざ言うまでもないことだが、『ファイナルファンタジー』シリーズというのは、そのような「映画のようなゲーム」の最左翼であり、その代名詞だった。

     今回もまた、『FFXV』の映像は、期待に違わず凄まじいものだった。電車の側面の鉄板に映り込む朝日の映り込みなど、これがリアルタイムで生成されているということが信じられない。この世界のなかの鉄、石、光は我々が現実の世界において知っている、それそのものに限りなく近づいていた。
     ただ、今回のFFは、ただ美しいだけではなかった。確かに、よく作りこまれた映像は、食い飽きるほどだったが、映像を単にゲームの中にちりばめておくというだけのゲームではなかった。
     そして、『FFXV』の一週間後にリリースされた『トリコ』。『トリコ』もまた、その映像の美しさが重要な特徴の一つとなっているゲームだった。もちろん、『FFXV』とはまったく違うゲーム、まったく違うユーザー層のためのゲームだ。だが、ゲームのなかにおける「風景」をどのように扱うかという点において、不思議な類似が見られた。
     それは「美しい風景」を単に配置する、のではなく、「美しい風景」をまじまじと眺めるための文脈をどう作るかというというへの、あまりにもきめ細やかな配慮だ。

     そもそも「美しい風景」をまじまじと眺めるときというのはどのようなときだろうか?
     我々は、美しい風景というものを好むわりに、雑に扱うことが多い。
     たとえば、プロの写真家が撮った世界遺産の写真。高名な画家が描いた湖の絵。そういったものが、そこらへんに何気なく掛けてあるカレンダーに使われていることは多い。だけれども、その絵に、ハッとして、魅入るというような経験をすることはほとんどない。
     カレンダーに使われている写真や、絵の多くは、その写真や絵にかかわる展覧会が開かれていたりするような、有名だ。しかし、それをありがたく鑑賞する機会は限られている。現代人は、それほどの「素晴らしい絵」に接しながらもそのありがたさをなかなか実感しないような贅沢な生活を送っている。
     その一方で、我々は、もっとつまらない風景を大事にしていることがある。近所のどこにでもあるような小高い丘に登って町を眺めてみたときに軽い感動を覚えることがある。これといって風光明媚というわけでもない場所に海外旅行で訪れたとき、その風景が強く印象に残ることがある。そこで見えている風景が、そこらのカレンダーに使われている写真よりも、「価値がある」かどうかはわからない。しかし、そのような風景に魅入られてしまうということがよくある。
     風景の美しさを感じるとき、それ自体が内在的に持っている美しさに感動を覚えているのか。それともそれを感じるためのプロセスのほうが、美しさへの感動を生んでいるのか。それを判別することはしばしば難しい。

     ゲームを遊ぶという経験は、我々の美的感覚がどのように立ち上がっているのか。よくわからない気分にさせることがよくある。
     最先端のCGを食い飽きてしまう一方で、ファミリーコンピュータ時代のドット絵の風景にだって感動を覚えることはある。RPGで長い洞窟を通り抜けてあらたな風景が広がるエリアまでたどり着いたとき、動かないと思っていたバックグランドの風景が動いたとき、シムシティのようなシミュレーションゲームで、ゲームのなかの人々がほんとうに命をもって動いているかのように風景を作り替えていくのを眺めたとき、ゲームのなかの風景をまじまじと眺めさせられることがある。
     我々が、風景をまじまじと眺めるという体験はどのようにして与えられるのだろうか?


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