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福嶋亮大『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』第一章 ウルトラシリーズを概観する――科学・家族・子供(2)【毎月配信】
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福嶋亮大『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』第一章 ウルトラシリーズを概観する――科学・家族・子供(2)【毎月配信】

2017-05-02 07:00

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    文芸批評家・福嶋亮大さんが、様々なジャンルを横断しながら日本特有の映像文化〈特撮〉を捉え直す『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』。今回は、『A』『タロウ』『レオ』を経てウルトラシリーズが勢いを失っていく過程を追うことで、「子供」と「青年」の狭間で揺れ動く戦後文化の輪郭を描き出します。

    第一章 ウルトラシリーズを概観する――科学・家族・子供

    2 後期ウルトラシリーズ――家族物語とメディアミックスの時代

     前期ウルトラシリーズは科学と未来の夢によって『Q』のシニシズムからいったんは逃れるものの、『帰マン』はその夢を後退させ、宇宙からも引きこもって、東京の風景と人間へと接近していく。そう考えると、一九六九年のアポロ一一号の月面着陸や一九七〇年の大阪万博という科学の「祭り」のときに、ウルトラシリーズが放映されていなかったのは象徴的である。祭りの前の「期待」(『セブン』)と祭りの後の「現実」(『帰マン』)の落差が、このシリーズには残酷なまでにはっきり刻み込まれていた。ウルトラシリーズはたんに世相を反映するというよりは、日本社会の抱えた夢や象徴の変容こそをあからさまに示しているのだ。
     戦後のサブカルチャー史を考えるときに、未来との距離感はきわめて大きな意味をもつ。例えば、建築研究者の森川嘉一郎は、一九八〇年代に名づけられた「オタク」について「未来の凋落」を「趣味」で埋め合わせようとする存在だと定義した[14]。オタクはマニア的に情報を集めては、自分でもイラストを描いたりフィギュアを制作したりするプロシューマー(生産者+消費者)だが、未来のイメージを非公共的な趣味として楽しむしかなくなったその姿は、万博以降の日本社会そのものの戯画である。オタクは科学・宇宙・未来にまつわる象徴的魔術が後退した後の、どこか奇妙な適応形態なのだ。
     ウルトラシリーズの場合、この後退の穴を埋めたのは「家族」であった。現に『帰マン』に続く後期ウルトラシリーズは、急速にファミリー・ロマンス(家族物語)へと傾き「ウルトラ兄弟」という概念も定着する。と同時に、その家族的な親密さを脅かす妄執のテーマも上昇し、心理化・怪奇化が進んだ。このテーマの推移は、ポストモダン的な「リアリティの多元化」を象徴する出来事でもあった。その過程を具体的に見ていこう。

    ウルトラマンA――家族と心のあいだ

     繰り返せば、『帰マン』は主人公郷秀樹が東京の市井の家族とともにある物語であった。本多猪四郎監督・上原正三脚本の最終話も、ゼットンに対する郷の自己犠牲的な「特攻」の後、弟のような坂田次郎との交流によって締めくくられる。郷が「次郎、大きくなったらMATに入れ」というメッセージを残してウルトラマンとして戦地に旅立ったのに対して、次郎は「一つ、腹ペコのまま学校に行かぬこと」「一つ、天気の良い日にふとんを干すこと」「一つ、道を歩くときには車に気をつけること」「一つ、他人の力を頼りにしないこと」「一つ、土の上を裸足で走り回って遊ぶこと」という「ウルトラ五つの誓い」によって答える。このどこか珍妙で、それでいて不思議と胸を打つシーンは、戦中の特攻青年と平和な戦後民主主義社会の少年が心を通わせる場面のようにも読めるだろう。
     それに対して、一九七二年から翌年にかけて放映された『ウルトラマンA』はもっと単純に「ウルトラ兄弟」という家族イメージを確立し、作中にも歴代のヒーローがたびたび登場する。しかし、前半のメインライターを務めた市川森一自身は、ナイーヴな家族愛や人類愛からはむしろ明確に距離を置こうとしていた[15]。そのこともあってか、それまでの科特隊、ウルトラ警備隊、MATがどれも男どうしのホモソーシャルな絆によって結ばれていたのに対して、『A』の防衛チームTACはしばしば人間関係においてギスギスした空気をまとい、ときには相互不信と疑心暗鬼に取り憑かれる。『A』には子供向けのファミリー・ロマンスの裏側に、絆を断ち切る負の「心理」が深く根を張っていた。
     特に、波打つ不定形の怪人である『A』の主要敵ヤプール人は、人間の妄想と疑心暗鬼をますます増幅させ、それがしばしば超獣の源泉となる。例えば、市川脚本の第四話では、売れっ子の漫画家がストーカー的にTACの女性隊員への欲望を募らせ、テレパシーによって超獣ガランを出現させる。あるいは上原正三脚本の第一七話では、母を亡くした娘の心にヤプールがつけこみ、不気味な鬼女と超獣ホタルンガを生み出す。超獣は心の歪みやオカルト的な呪いの産物なのだ。『帰マン』は未来や科学という「大きな物語」が失墜した後を、東京の現実の風景によって埋めたが、『A』ではそのような公共の風景よりも、『怪奇大作戦』ふうの不透明な怨念や呪詛のほうが大きくなる。そこには、リアリティの多元化・不透明化によって特徴づけられるポストモダンの世界像が、綺麗に表出されていた。
     したがって『A』には一定の現代性があるのだが、作品の完成度については疑問符がつく。そもそも、市川は第一話で広島の原爆ドームを超獣ベロクロンに襲わせるという野心的なプランを立てていたが、それは実現せず、広島県福山市に舞台が変更される。そして、その後は結局おおむね東京の物語に戻り、『帰マン』後半以来の「怪談」の枠組みに沿ったエピソードも増える。さらに、北斗星司と南夕子が「合体」によってウルトラマンAに変身するという根本的な設定も、物語中盤でなし崩し的に変更されてしまった。『A』では作品のコンセプトが漂流し、中途半端になった印象は否めない。


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