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落合陽一×宇野常寛「〈映像の世紀〉の終わりに――視覚イメージのゆくえ」(前編) ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.274 ☆
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落合陽一×宇野常寛「〈映像の世紀〉の終わりに――視覚イメージのゆくえ」(前編) ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.274 ☆

2015-03-04 07:00

    ※メルマガ会員の方は、メール冒頭にある「webで読む」リンクからの閲覧がおすすめです。(画像などがきれいに表示されます)

    落合陽一×宇野常寛
    「〈映像の世紀〉の終わりに
    ――視覚イメージのゆくえ」
    (前編)
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2015.3.4 vol.274

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    本日のメルマガは、落合陽一さんによる好評連載『魔法の世紀』のスピンオフとして、昨年11月に行なわれた宇野常寛との対談をお届けします。落合陽一はいかにして「現代の魔術師」になることを志したのか、そして今改めて〈魔法の世紀〉というコンセプトを解説します。

    落合陽一『魔法の世紀』これまでの連載一覧はこちらのリンクから。
     
    初出:NICA プレオープニングクロスセッション「落合陽一 × 宇野常寛『魔法の世紀』21世紀のテクノロジーカルチャーを語り尽くす」(2014年11月16日開催) 
     
     
    宇野 僕が主宰しているメールマガジンで、いま落合さんに「魔法の世紀」というタイトルの連載をしてもらっています。僕はメールマガジンと紙の本と両方出しているのですが、正直に言って、この「魔法の世紀」は今手がけている全ての媒体の中でも目玉企画だと思っています。つまり、これは僕が今編集者として最も力を入れている連載であって、来年の目標の一つは、この「魔法の世紀」をベストセラーにして、日本の文化シーンと思想シーンに「一石」――どころか「大砲」を撃ち込むことです。

    この「魔法の世紀」という言葉は、僕が落合さんにロングインタビューをしたときに対話の中で生まれたものです。研究内容かがアート作品にどう昇華されているのかを聞いたとき、「20世紀が『映像の世紀』だとすると、研究者にしてアーティストの落合陽一は『魔法の世紀』を表現しようとしているんですよね」と指摘したのがキッカケです。
    連載では、そこから話を広げて、落合陽一の構想する「魔法の世紀」を思想的に定義づけ、アートやデザインにおいてどう展開するのか、そして人間と文化、情報の関係がどうシフトするかを考えてもらっています。まずは落合さんにその概要を話していただきましょうか。
     
     
    ■ CGの歴史はディスプレイからモノへ
     
    落合 わかりました。僕の名前は、落合陽一といいます。名前をググると、TEDで喋ったり、ホリエモンとよくわからない8次元ディスプレイの話をしていたり、テクノロジー系の雑誌に載っていたりすると思います。
     
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    ▲「これは幼少期の写真です(笑)」(落合氏)
     
    そうそう、最近では「Time」誌と「Fortune」誌と「Forbes」誌がやっているワールド・テクノロジー・ネットワークの、今年のアワードノミニーになりました。渡航に23万円かかると言われて、授賞式に行くのはやめましたけど(笑)。

    では、そんな僕が何をやっているか。普段はメディアアーティストと、コンピューターグラフィックス(注:以下、表記はCG)のリサーチャーをしています。
    CGの技術が始まったのは1960年代です。基本的には、「コンピュータの中でどうやって絵を作るか」をずっとやってきたのですが、90年代にハリウッドで盛り上がったときに成熟してしまいました。そこで僕は「モニターの外でどうやって画像を作るか」を研究しています。口で説明すると、ちょっとアレですけどね。ただ、僕としては、2100年の情報技術をどう作っていくかを考えているつもりです。

    例えば、138億年前、宇宙が誕生したときから物質はあるわけです。でも、CGが生まれたのは1963年です。138億年して,人間はコンピュータの中にもう一つの世界を作って操作できるようになったってことです。例えば、マウスでクリックするアイコンなんかがありますよね。ああいうふうなグラフィカルなユーザーインターフェイスを探求していく歴史が始まったのが、そのときです。90年代になると、今度はARをOSのアプリに入れて、触って操作できるユーザーインターフェイスや触って操作できるようなコンピュータも登場しました。ところが、2000年代になると、研究者たちはちょっとやることがなくなって来たんです。デジタル世界でできることが減ってきた。たとえば『ターミネーター2』の中に液体金属のロボットが出てきますよね。あんな感じで「形が変わるようなコンピュータってできるんじゃないの?」というような研究が始まったんです。

    そこで今、僕が話しているのは、「分子サイズのコンピュータがたくさんあって全体の形が変わるコンピュータはなかなか大変なので、それを出来そうな範囲内に収めよう」ということです。そして、そうなると「物体自体よりもそれを包み込む環境、例えば物理場のほうが重要だよね」となる。僕が考えているのは、要は物理場をどうやってコンピュータでコントロールして、この物質世界を動かすかなんです。見た方が早いので、簡単にお見せします。
     
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    見ていただければわかりますが、実は上手く場を制御すれば、たとえCGの世界ではなかったとしても、物体はわりと自由に空中に浮かぶんです。そうしたら、今度はその場自体のxyzの位置、三次元位置を変えてしまえば移動できる。でも、簡単そうに話すのですがこの世界は「何だって出来てしまうCGの中の世界」とは違ってリアルの世界なのです。というのも、この世界には重力があって、そう簡単に物体は動かないんです。そこで、僕は移動させる場を重力よりも強い力で制御しようと考えました。そうすれば、コンピュータの外でも、コンピュータの中と同じように自由にものを動かしたり、飛ばしたり、浮かべたりできると思ったわけです。
     
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    ▲「PIXIE DUST」
     
    まさに、それが僕の研究者としてのテーマです。例えば、普通は重力があれば、粉は下に落ちますよね。でも、ある一定の秩序を持った「場」があれば、空中に降り注ぐ粉をその場に留めておける。すると、そこが一瞬で三次元のディスプレイになるわけです。これはつまり、コンピュータの中にある秩序をコンピュータの外に持ってきて、表現をしているということだと思うんです。しかも、今後は何百個ものモノをコンピュータの計算によって制御する、よりコンピュータの力を使ってコンピュータらしい振る舞いを考えるのが、ホットな分野になると思っていますから、今はそこをガリガリとやっています。
     
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    最近CNNから取材されたんです。実は来年、映画の中では『バック・トゥ・ザ・フューチャー』に出てきたホバーボードが発売される予定らしくて、「レビテーション=空中浮遊」の特集をやってたんですよ。最近は、日本のメジャーな番組にも出させて頂くようになりました。僕が日本のメディアに出るひとつの理由としては、日本の研究者を増やしたいという目的もあります。研究者は英語で研究発表をするので、日本にリーチする機会があまりないので、メディアにでてなるべく研究の面白さを伝えようとしています。海外に優秀な研究者は沢山いるけど、日本には中々いないですから。
     
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    ▲「アリスの時間」
     
    研究以外にも作品作りもしています。たとえば、この「アリスの時間」という作品は物体が12個並んでいて、そこに光を当てて1個の映像を作ったものです。昔、プロジェクターが普及する前に、OHPという実物投影機がよく使われていたんです。その原理は、光を当てて、レンズで集めて、鏡ではね返すというものだったのですが、これも同じですね。LEDが当たった文字盤で反射した光が、上のレンズで一度変換されて、スクリーンに映像で映るんですよ。

    言わば、モノをフィルムの代わりに並べてアニメーションを作ったわけです。宇野さんとよく話すのですが、かつてはマスに向けて表現する際には、印刷可能なフィルムや紙などの状態にするしかなかったんです。具体的には、映画や本ですよね。でも、今の時代は「魔法の世紀」だから、物体から物体へと表現を移せるのだと示したかったんです。それのコンセプトを物体を直接映像に変換する装置として表現しました。ちなみに、これは海外でウケました。ハリウッドがお金を出している「SIGGRAPH」という世界で一番大きいCGのカンファレンスで、テクニカルとアートのプレスが両方とも俺の作品で埋まったんです。あとで聞いたら、40年間やっていて、そんなことは初めてだったと言われました。そんな感じに毎日楽しく研究したり作品作ったりしています。
     
     
    ■ 「魔法の世紀」を貫く3つのキーワード
     
    落合 さて、今日のテーマは、まさにこの「魔法の世紀」なんですが……ちょっといいですか?
    連載を読んでいる人は手を上げてください……4人いますね。ということは、今日の人口の5%くらいは取っているわけですね、素晴らしい。じゃあ、軽く説明します。

    まず、僕はこの「映像の世紀」から「魔法の世紀」へ、という流れを一つのパラダイムだと思っています。僕は本来、テクノロジーの研究者なので、「テクノロジーをどうやって我々、現代人が噛み砕いて考えていくのか」を誰かの代わりに考えているつもりです。でも、誰の代わりなんだろう……みんなの代わりに考えているんですかね(笑)。

    宇野 昔だったら、思想家や哲学者や芸術家が語っていたようなことを、今やテクノロジーの担い手自身が語っているわけでしょう。この現実自体が「魔法の世紀」のコンセプトそのものだと思う。

    落合 そうだと思うんです。それで話を戻すと、まさにフランシス・ベーコンが16世紀にテクノロジーの思想について考えていて、「自然を征服する」というコンセプトを掲げたんです。彼は、科学技術を用いて、いかに自然を加工して人間の意のままに操っていくのかを重視したんですね。彼の思想が象徴的ですが、この発想は西洋の至るところに現れているものです。例えば、噴水が好きな人は手を上げてください。噴水の好きさ具合を5段階で表してみましょう……"5"がふたりしかいない!!(笑)。

    僕は「噴水」を西洋思想の一番の現れだと思っています。なぜならば、洪水を引き起こすような制御しづらい存在の象徴である「水」を、人間が作った庭園の真ん中に置いて、しかも重力に逆行して形を作っているからですよ。それは人間が自然を克服したことの一つの象徴だと思うんですね。西洋文化は、そういうふうにこの地球上のあらゆるものをいかに「神の御わざ」ならぬ「人間の御わざ」でコントロールしていくかをやってきたんです。僕が21世紀を「魔法の世紀」と呼んでいるのは、それがもっと爆発して、我々があらゆる存在にコンピュータ技術を用いて干渉できるようになってきたことを言っているに過ぎません。

    では、そんな「魔法の世紀」とはどんな時代なのか。今のところ、重要なポイントは大きく3つあると思っていて、”Magically”、”Logically”、"Physically”です。

    まず、”Magically”の意味は、「まるで魔法のように、それが何で起こっているかわからないし、何を使っていても関係ない」ということですかね。テクノロジーが秘匿されるってことです。
    例えば、Twitterをつぶやくときに、スマホでもパソコンでもテクノロジーは何でも構わないわけです。なぜなら、僕たちが最終的にやりたいことは、自分の何らかの思いをWebに乗せていくことであって、その間にあるツールは別に関係がないからですよ。それって、魔法みたいでしょう。
    魔法も何で動いているのかわからない。「炎よ出よ!」と言うと、なぜ炎が出るかわからないが、とりあえず炎は出る。この「わからないけどできる」というのが、「魔法の世紀」を説明する一つの大きなパラダイムですね。

    二番目の”Logically”については、「論理的」という意味ではなくて、「コンピュータで動く」という意味です。コンピュータで一度ロジック化されているので、あらゆるものはコンピュータによって、プログラミングによって論理的に記述することで、コントロール可能になるわけです。

    そして、最後に重要なのは、それらが”Physically”を志向していることですね。例えば、アイドルのプロモーションビデオがもし全て単なるCGとかだったら、きっとテンション下がりますよね。一方で、ライブではオタクがガンガン盛り上がるわけですよ。我々はもう、実際にあるもの以外にあまり価値を持たなくなっていると思うんです。
    それはデジタル社会が繁栄して、コンピュータがこの世界をくるんでしまったからだと思いますね。かつてはコンピュータが希少だったから「デジタルすげえ」だったけど、ここまでコンピュータが豊富になってしまうと、もはや「フィジカルすげえ」に回帰してしていくわけです。
     
     
    ■ 魔法の世紀で何が変わるのか

    落合 では、こういう特徴を持つ「魔法の世紀」への変化で何が起きるのか。ここでも俺は3つのキーワードを挙げたいと思います。それは、パーソナライズ、インタラクティブ、直接的な表現、です。具体的に説明しましょう。

    例えば、僕たちは映画を観るとき、携帯電話の電源を消すように言われてしまって、Twitterでつぶやくことはできないわけです。ここに象徴的ですが、映画というのは全員で一つのスクリーンを見ている一方で、僕たち観客同士は互いの存在を意識していないんです。でも一方で、本来なら現在は、いつでも誰かに話しかけられて、相互にコミュニケーションがとれる時代のはずなわけですよ。映画監督のような一人の偉い人が情報を発信するんじゃなくて、僕たちは相互にコミュニケーションしながら、それをコンテンツとして咀嚼していく。相互ネットワークの「NtoN」の関係なわけです。これが「魔法の世紀」の一つのキーワードで、俺は「パーソナライズ」と名づけています。

    あと、「インタラクティブ」ですね。昔は例えば、「黒澤明死ね!」とかつぶやいても、黒澤明には伝わらなかったわけじゃないですか。だけど、今Twitterでそんなこと言ったら、エゴサーチした黒澤明がへこむわけです(笑)。

    宇野 実際に、作家も映画監督も毎日エゴサーチしてはヘコんでるからね。今、いい編集者というのは、いかに担当作家にエゴサーチを気にさせないかみたいな仕事になっている。

    落合 みんなが「死ね死ね」言ったらその作家はへこむし、逆に褒めたら喜ぶ。まさに、この社会全体がインタラクティブになっていることを示してますよね。

    あと、最後の一個がすごく重要で、昔は代理表象が可能だったんです。例えば、絵画や小説でもわりと直接的ではない表現を使って、伝えたいことを象徴させる。伝えたいことを何かに代理させて、表象していたわけです。だから、婉曲的で、コンテクストがあって、感情があって……という、そういう世界でした。
    でも今って、わりと直接的な「キラキラして綺麗」とか「でかい」とか「すごい時間かかってそう」とか、そういうアートがYouTubeでバズったり、Twitterですごい勢いで流れたりする時代になっています。昔は間接的に表現してきたものが、今は直接的な表現になっている。しかも、フィクションの世界を表現するよりは、ライブやこの社会全体とつながっている表現自体が一番刺さるようになっている。こういうふうに、コンピュータが作った大きなネットワークや枠組みの中で、あらゆるモノや哲学が変わろうとしているわけです。そこで、この時代を「魔法の世紀」と名づけているわけです。

    宇野 いやあ、説明が手慣れてきたね。この半年、いかに「魔法の世紀」と言い続けてきたかということだよね(笑)。

    落合 そうなんですよ。あ、いつでもTwitterにリプライをくれていいですよ、僕はいつでも見てますから。意見やコンテンツに対して双方向的になる、それが魔法の世紀ですからね。
     
     
    ■ 戦後思想から見た「魔法の世紀」
     
    宇野 僕は落合さんにロングインタビューをしたとき(『静かなる革命へのブループリント』に収録)に、「明確に一つの時代が終わろうとしているな」と思った。

    色々なことに僕は手を出してるように見えるけど、究極的にはサブカルチャーの評論家なんですよ。だから、これまでアニメや漫画について議論することが多かった。その視点で言うと、戦後日本のアニメは、すごく特別な位置にある。村上隆が世界に出ていくときにアニメ的な意匠を用いたことには、まさに必然性があった。戦後アニメーションはまず戦後日本的なアイロニーの結晶であった。要するに近代国家としての精神的成熟を迎えないまま、経済大国化したネオテニー的主体としての日本の自画像が、もっとも如実に、そして批評的に出現していたのが戦後アニメーションだった。

    そしてさらに同時に、アニメは完全な「虚構=作家が意図したもの以外に存在できない映像」でもある。ここには二重の「ねじれ」があって、第一に戦後アニメを形成する文化空間自体が「アメリカの影」によってネオテニー的に「ねじれ」ている。そして第二に、こうしたアイロニカルな文化空間はアニメのような完全な虚構を通してしか現実、つまり戦後的アイロニーの本質にアプローチすることができなかった。僕はここが重要だと思うんです。

    と、いうのも結局、20世紀というのは、映像という虚構をマスメディアで広範に共有させることで、社会を形成するということにたどり着いた時代だったから。だからこそ、アニメーションという映像こそが戦後日本の精神性を代表するものであり得た。

    落合 共通のコンテクストはテレビによって作られていましたからね。

    宇野 そう、戦後日本の、とくに政治の季節の終わった70年代以降はテレビを中心としたサブカルチャーについて語ることが、もっとも効果的にこの国の文化空間を批評することだった。これは単純にメディア史を考えても必然的なことで、20世紀前半はラジオが普及した結果、あちこちにファシストが出てきて人類が滅びかけた時代だった。そこで後半は逆に、「じゃあ、マスメディアというのは政治からちょっと距離をとりましょう。とりあえず西側諸国ではそういう建前でいきましょう」ということになって、政治権力から切り離したテレビメディアを50年くらいやった結果、今度は政治漂流やポピュリズムを誰も止められなくなってしまった。

    これが、20世紀というまさに「映像の世紀」の本質で、社会を形成する一つのビジョンを作り、それを極めて受動的に消費できるようなメディアを作り、それを社会全体が共有することで何かを維持してきた。

    しかし今日はそんな時代が終わる、いや、すでに終わっているという話をする場です。
    サブカルチャーの世界の人間として語るなら、その終わりはサイバーパンク的なものの終わりだと言い換えられるし、戦後日本の精神史的に言えば、連合赤軍〜オウム的なものの終わり言える。アメリカ的に言うとヒッピーカルチャーからカリフォルニアン・イデオロギーへの流れが一段落し、その果てにまったく別のものが台頭し始めていると言えるはず。

    要するにこれは68年以降先進国が共有していた、革命が信じられなくなったとき、つまり社会を変えることが信じられなくなったとき、自分の脳内に何かを注入することによって、自分を変えようと、納得させようとする思想が台頭してきた。テレビが代表するような20世紀的な虚構がもっとも力を持ったのはこの時代だと思う。そして、いまこの時代が終わろうとしている。

    落合 そうして変わった人間が、今度はマスメディアに乗って自分のメッセージを伝えれば、人間がどんどん変わっていくというわけですよね。でも結局、それって一人のトップ思想をコピーしただけで、彼らは一つの理念で動いているにすぎない。その人の脳みそが単に拡大しただけで、総体として大きな人間が生まれたに過ぎない。でも、今の時代はそうじゃなくて、本当は一人ひとりが個別に動くわけです。それは圧倒的孤独ともいえるけど、コンピュータのもたらしたつながりが逆に個別性を招いた結果です。

    宇野 日本の場合、20世紀後半的な虚構が破綻してしまったのがオウム真理教だった。あれって元々は、信者にヘッドギアをかぶせ、『風の谷のナウシカ』と『機動戦士ガンダム』と『宇宙戦艦ヤマト』を組み合わせた架空歴史設定やカルト思想を注入していけば、いつの間にか悟りを開けて、特に社会に害を与えることもなく勝手に成仏できるという思想だったはずなんだよ。ところが、結局は自分たち自身がそれを信じられなくなって、「ガチに国務大臣やマスコミを暗殺して、地下鉄にサリンを撒かないと、俺たちはもう駄目だ」というところにまで行ってしまった。まさに虚構を自分の中に注入して自分を変える「虚構の時代」の敗北であったと思う。

    じゃあ、どうすればいいか。それをインターネットに付き合いながら、世界中の人間が考えていたのが、実は世紀の変わり目前後の20年間だと思うんだよね。僕もずっとそのことについて考えていた。その中で僕は、落合さんの研究を見たときに、「ここにたぶん一つの答えがあるんじゃないのかな」ということを思ったわけです。

    例えば、20世紀後半の人間は触覚を変えようと思ったときに、自分の脳の中で発生している電気信号を変えようとする。これまでは、少なくとも20世紀後半の人間たちは、たとえば本当はザラザラしたものを触っているのに、スベスベしているものを感じるように人間の認識の方をいじろうとしてきた。しかし落合君の研究というのは、むしろ板の表面をコントロールして、あるときはザラザラ、あるときはスベスベするように触感をいじっている。つまり、人間の脳内をいじるのではなくて、人間とモノとの関係をテクノロジーでいじろうとしている。

    これは、なかなか僕くらいの世代までの人間は思いつけない。なぜなら、僕らの世代はやはり「虚構の時代」という「映像の世紀」の終わりに出て来た世界観に毒されすぎていて、社会全体を革命的に「大きな物語Aを大きな物語Bに変えることで変えてしまう」のか、あるいは「自分を納得させるようなロジックを脳内に注入する=ヘッドギアをかぶってしまう」のかの二択で考えてしまって、第三の道を考えられない。しかも、それがテクノロジー的に可能だとも、最近までは思っていなかった。そういう中で、まさに落合陽一の研究というのは、第三の道をかなりクリアなイメージで出していると感じたわけです。

    落合 まさに、僕はHMD(ヘッドマウントディスプレイ)をかぶるのが嫌いなんです。どちらかというと、テクノロジーは完全に人間から秘匿されるべきだと思っていて、テクノロジーのことにはかまけずに生きていきたいんです。だって、インターネットに常時接続されて、インターネットでダベるために生きていたら、人間はインターネットに食われている状態じゃないですか。インターネットの恩恵を受けつつも、僕たちは僕たちらしく生きていくべきだと思うんです。コンピュータと我々どっちが主体的な存在なのかということです。
     

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